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作家の井沢元彦氏は、『逆説の日本史』において、朝廷が、刀伊の入寇の最大の功労者、藤原隆家に恩賞を与えなかったのは、朝廷の「危機管理能力の欠如」であり、その伝…
#4540 あまさかる鄙少女等が着る衣のうすいろ木綿と桃咲きにけり
令和7年3月10日(月) 【旧 2月11日 赤口】 啓蟄・「桃始笑(ももはじめてさく)」あまさかる鄙少女等が着る衣のうすいろ木綿と桃咲きにけり ~長塚節(1879-1915) 「あまさかる鄙《ひな》」は都から遠い地方のことです。二十四節気「啓蟄」の次候は七十二候の第8候「桃始
筆者が、長々と『光る君へ』の解説をしたのは、藤原道長の時代の登場人物達について、イメージして欲しかったためである。 前述の通り、『光る君へ』は、フィクション…
「源氏物語の時代」(山本淳子著)を読んで考えた ビアンカ・フローラ論争~定子と彰子~清少納言と紫式部
「源氏物語の時代」 ビアンカ・フローラ論争 幼なじみで活発なビアンカか、富豪の令嬢でおしとやかなフローラか──。テレビゲームソフト「ドラゴンクエストV(ファイブ)」に花嫁選びイベントがある。どちらを選ぶべきか、1992年の発売から30年以上を経た今も、ネット上で論争が続く。 「フローラを選ぶべきよ。私のことは心配しないで」と、遠回しに気を引くビアンカを、けなげとみるか、ウザいとみるかは、論点のひとつだ。 フローラは、言動が乏しく、影が薄い。選択の前日夜も早々に寝ていて、悩みはなさそうに見えた。ただ、「主人公との縁談が進んでいたのに、ビアンカの恋心を察して、花嫁選びを提案した。思いやりがある」と…
1006年(寛弘2年)12月29日、または、1007年(寛弘3年)12月29日に中宮の彰子の女房として、仕えたのが、日本史上、否、世界史上最古の長編小説、『…
紫式部と同じ時代を生きた「源氏物語」光源氏のモデルの一人でアラサーになって京都から宮城に来た“超イケメンな実力派・天才歌人”和歌の才能に優れ、中古三十六歌仙に選ばれた一人。職務をしながら様々な歌枕(和歌に多く詠まれる名所)を訪ねて回った。
比叡山の麓にある坂本の恵日院の境内にある慈眼堂は、慶長12年(1607年)から比叡山南光坊に住み、織田信長の比叡山焼き討ち後の延暦寺の復興に尽力した天海の廟所です。正保3年(1646年)に建立された江戸時代初期の禅宗様を基本とする仏堂で、国の重要文化財に指定されています。堂内には木造慈眼大師坐像(重要文化財)を祀っています。境内には天海によって高島市から当地に移された鵜川四十八体石仏群のうちの13体の阿弥陀如...
⑤平安の遊び ~偏つぎ~平安時代の遊び「偏つぎ」をしている様子が再現されています。偏つぎとは、主として女性や幼い子が漢字の知識を競い合った文字遊戯の一つ。漢字の旁(つくり)を示して、これに種々の偏をつけた文字を次々と考えさせ、行き詰まると負けになるもの。『源氏物語』では、「葵」の巻で、源氏が紫の君と偏つぎに興じる場面が出てきます。⑥四季のかさね色目に見る平安王朝の美意識かさね色目平安時代には、四季の彩...
③仏名会・師走(十二月)の年中行事(『源氏物語』「幻」より)「幻」(まぼろし)は、『源氏物語』五十四帖の巻名のひとつ。第41帖。出家を前にした光源氏の心情を四季のうつろいを通して描く。十二月、六条院で行われた御仏名の席で、源氏は久しぶりに公に姿を現した。その姿は「光る君」と愛でられた頃よりも一層美しく光り輝いており、昔を知る僧並びに出席した貴族たちは涙を流した。晦日、追儺にはしゃぎまわる三の宮を見る...
続いて、平安時代の衣装の展示です。十二単平安時代後期になって成立した晴の女房装束。構成は唐衣,裳,表衣 (うわぎ) ,打衣 (うちぎぬ) ,袿 (うちき) ,単衣 (ひとえぎぬ) ,袴などから成っている。唐衣はその最上衣で,もと中国の唐に発した奈良時代の背子 (はいし) の変化したもの。上半身丈で広袖がつき,地質,色目,文様などによって階級を異にした。裳は表衣の上から腰のうしろ半身だけをおおうもの。奈良時代は裙 (くん...
②王朝文化の粋を競う婚礼仕度・冊子作り~『源氏物語』に記された明石の姫君の婚礼仕度~(『源氏物語』「梅枝」より)源氏物語第32巻「梅枝」光源氏39歳。明石の姫君の裳着と入内の準備などを描いています。入内が決まると、持参品の草子などが集められます。草子「さくし(冊子)」の変化した語。「ぞうし」とも )(紙をとじ合わせて本の体裁にしたもの。書や歌や文章を書いてあってもなくても、冊子の形態をなしたものをいう。①...
市バス「西本願寺前」下車、西本願寺の斜め向かいのビルにある風俗博物館に出かけて来ました。エレベーターが5階に到着しドアが開くと、いきなり平安時代の世界が広がっています。風俗博物館では、『源氏物語』の六条院の館「春の御殿」を4分の1のサイズの模型で作り、人形・調度品・寝殿などで、源氏物語の世界を表現しています。①六條院移徙(『源氏物語』「少女」より)②王朝文化の粋を競う婚礼仕度・冊子作り~『源氏物語』に...
宇治の「お茶と宇治のまち交流館 茶づな」のすぐ側に「菟道稚郎子尊宇治墓」(うじのわきいらつこのみこと うじのはか)があります。菟道稚郎子は、名前の「菟道」が山城国の宇治(現在の京都府宇治市)の古代表記とされるように、宇治地域と関連が深い人物である。郎子は宇治に「菟道宮(うじのみや)」を営んだといい、郎子の墓も宇治に伝えられている。郎子については『古事記』『日本書紀』等の多くの史書に記載がある。中でも、...
京都大原の地にて、大蛇伝説と源氏物語とツチノコを追う!…って欲張りすぎ?
本年2025年は巳年、ということで蛇絡みの伝説のひとつでも取り上げておかなきゃいかんだろう、というわけで、本投稿の舞台は京都の大原地区。 タイトルからもご推測いただけると思いますが、まったく繋がりがなさそうな3つのテーマを強引に結びつけて書いたので目次は必須。興味のあるテーマだけお読みになってもOKです、という親切設計(笑) 1.大原に伝わる大蛇伝説 2.ツチノコブームの震源地? 3.伊勢物語と源氏物語 3-1.大原の地にある伊勢物語ゆかりのスポット 3-2.源氏物語との関わり 3-3.「小野」の地名についてまわる神秘的なイメージ 1.大原に伝わる大蛇伝説 大原エリアと言えばおそらく三千院と寂…
松尾大社の南400メートルの地に鎮座する松尾大社の摂社である月読神社は、月読尊のみ一柱を祀っています。 斉衡3年(856年)に水害の危険を避けるため、当地に鎮座され、以降周辺に月神信仰が広がったとされています。『源氏物語』には、第4帖「夕顔」、第6帖「末摘花」、第8帖「花宴」など、男女の逢瀬の場面に月が出てきます。神門舞殿拝殿以前、台風の被害があったようです(;_;)解穢(かいわい)の水月延石 神功皇后が筑紫に滞...
NHKで「光る君へ」の総集編を放映しました。NHK大河ドラマで初めて最初から最後まで見続けました。この話が現実の紫式部や藤原道長そのものとはまったく思いません。寧ろ平安時代を舞台とした現代ドラマに見えました。史実に忠実とも言えませんが、それでも源氏物語を中心とした古典文学の...
華厳寺(けごんじ)は、京都市西京区にある臨済宗の寺院。享保8(1723)、学僧鳳潭8ほうたん9上人が最福寺跡地に華厳宗の再興の為に当寺を創建。慶応4年(1868年)、慶厳が入寺して臨済宗に改められました。『源氏物語』第38帖「鈴虫」では、光源氏が、女三の宮の御殿の庭に鈴虫を放ち、彼女の気を引くという場面が描かれています。八代目住職 台巌和尚が鈴虫の音に開眼し研究を始め、鈴虫を四季を通して飼育しているため、通称「鈴...
大津・宇治”をかし”の旅(宇治編) @2024/12 名古屋
バスツアー後半は大津から宇治へ大津から京都方面に進むと、百人一首などにも出てくる”逢坂の関”を通りました。歴史や古文で聞いたことがあるような場所が身近にあ...
宇治川の鵜飼は平安時代からの歴史を持っており、『蜻蛉日記』には、天禄2年(971)奈良の長谷寺に参詣した藤原道綱母が川岸から鵜飼を見物しかがり火を焚いた数え切れぬほどの鵜舟が鮎を捕る様子が記されています。蜻蛉日記(岳亭春信画)平安時代の後期になると、仏教の教えの影響をうけて次第に宇治川での殺生が戒められるようになりました。平安貴族の没落と共に 衰退しましたが、大正なって再興され、現在では宇治の夏の風物...
大津・宇治”をかし”の旅(大津編) @2024/12 名古屋
名古屋マダムたちと一日観光!名古屋旅行の一日は、名鉄観光のバスツアーに参加しました。バスツアーは年齢層お高めの名古屋マダムたちが主役です。名古屋に行ったら...
12月も下旬にになりましたね。このブログは、もともと京都の各地域などもご紹介していたのですが、いつの間にかカウンセリング記事のご希望が増加し、ほとんどメンタルへルスのお話になっています。新年も、山手心理相談室は30~3日以外営業しています。ふと不安
宇治橋の上流に位置する恵心院(えしんいん)は、境内に年中さまざまな花が咲き、「花の寺」として知られています。山号は朝日山。本尊は十一面観音。弘法大師空海によって開かれ、唐の青龍寺に似ていたため、龍泉寺と名付けられたと伝わっています。寛弘2年(1005年)、「往生要集」の著者として名高い恵心僧都源信によって再興され、恵心院と呼ばれるようになりました。源信は、宇治川に身を投げた『源氏物語』宇治十帖のヒロイン...
小御所小御所は、中世より宮中に建てられるようになった御殿で、江戸時代は天皇が幕府の使者、所司代、諸侯などを謁見した所です。上段、中段、下段という畳敷の三室を並べた部分を中心とし、江戸時代には、その四方に板敷の廂(ひさし)をつけた様々な様式に対応できる実用的なつくりとなっていました。明治維新の際、徳川慶喜の処置を決めるための「小御所会議」が開かれた場所としても知られています。御池庭小御所の東側にある池...
【光る君へ】#48 最終回!心広く潔い敗者の倫子様に涙😢 道長が守った泰平の世、まひろはその後の嵐(武士の世)到来を予感する旅へ
ロス決定!初回からのスゴイ仕掛けにも溜息 NHK大河ドラマ「光る君へ」最終の第48回「物語の先へ」が、1週間以上前の12/15に放送された。ずっと見続けたいのに、とうとう来てしまった最終回。ああ・・・そんなに簡単に気持ちが終われないってば・・・12/29の総集編を見ないと終われないな。いや、見ても終われない。ロス決定です。 最終回から1週間後の12/22(日)はちょうど忘年会だったので、「光る君へ」があるはずの時間帯を穴埋めするように放送された「ダーウィンが来た」のスペシャルを呆然と見る必要も幸いなかったが、もう「光る君へ」の放送が無いと思うと、ああ~と心の中で勝手に打ちひしがれてしまった。 …
清涼殿清涼殿は、紫宸殿の北西にある入母屋造、檜皮葺の建物です。 平安時代の内裏においては清涼殿が天皇の居住の場でしたが、天正期に御常御殿(つねのごてん)が造られて以降、天皇の日常生活の場は御常御殿へ移り、清涼殿は天皇の執務と儀式の場となりました。天皇はここで、四方拝、小朝拝、叙位、除目 (じもく) などの公事を行ないました。今の京都御所の清涼殿は、1885年造営されたもので、平安時代の様式をほぼ復元してあり...
#4455 年暮れて我が世ふけゆく風のおとに心のうちのすさまじきかな
令和6年12月15日(日) 【旧 一一月一五日 先勝】 大雪・「熊蟄穴(くまあなにこもる)」年暮れて我が世ふけゆく風のおとに心のうちのすさまじきかな ~紫式部 『玉葉和歌集』 巻6-1036 冬歌年が暮れて、私もまた年を取るのだと思いつつ、夜更けの風の音を聞いていると、心
正殿の紫宸殿では、高御座(たかみくら)と御帳台(みちょうだい)を見学できます。紫宸殿本来は、天皇の私的な在所である内裏の殿舎の一つでしたが、平安中期以降、即位の礼や大嘗祭などの重要行事も紫宸殿で執り行うようになりました。入母屋桧皮葺の高床式宮殿建築。檜皮葺屋根実物模型『源氏物語』第1帖桐壺では、桐壺帝の第一皇子(後の朱雀帝)の元服の儀が催されています。高御座紫宸殿の中央に置かれている高御座は、即位礼...
新御車寄新御車寄とは、大正4年(1915)の大正天皇の即位の礼に際して、馬車による行幸を迎えるために新設された玄関です。天皇の行幸の際には、内裏の南側にある建礼門から出入りされるのが伝統を踏まえて新御車寄も南向きに建てられています。月華門本瓦葺丹塗十二脚門建礼門京都御所の南に位置する正門で、南御門とも呼ばれる檜皮葺切妻屋根の四脚門。天皇が行幸される際や譲位後に上皇となり仙洞御所へ遷御される際に使用され...
2024年の大河ドラマ『光る君へ』が終わりましたね。昨年の『どうする家康』まで15年間、当ブログで大河の解説レビューを素人なりにやってきましたが、今年はと...
諸大夫の間諸大夫の間とは参内者の控えの間であり、格式の高い順に東から虎の間、鶴の間、桜の間と続く3室の総称とされています。御車寄の昇殿が許された高位の者以外は、諸大夫の間の西側にある沓脱石(くつぬぎいし)から昇降し、身分ごとに各室に控えました。古来、内裏では主要な御殿への昇殿が許される公卿・殿上人と、そうでない諸大夫との間には厳格な区別がありました。虎の間と鶴の間が小紋高麗縁の畳であり、それらの部屋...
12月初旬、京都御所の秋の特別公開「宮廷文化の紹介」に出かけて来ました。京都御所は通年公開していますが、秋と春の特別公開では普段見ることのできない部屋や調度などが公開されます。室内空間を再現した展示は35年ぶりだそう。この日は最終日でもって、日曜でしたので、大勢の見学者で列を成していました。入場口で荷物検査を受け、見学ルートに沿って進んで行きます。天皇の住まいである清涼殿の「西廂(にしびさし)」の調度...
京都市右京区嵯峨北堀町にある曇華院(どんげいん)は、単立宗教法人の尼寺。鹿王院に隣接しています。本尊は十一面観音。曇華院門跡とも呼ばれています。普段は非公開ですが、「秋の京都非公開文化財特別公開」で、本堂、庭園、茶室の他、尾形月耕(げっこう)が描いた源氏物語の錦絵など『源氏物語』にちなんだ寺宝や、源氏物語の世界が描かれている平安時代の遊び・「貝合わせ」の貝などが公開されました。かつて以仁王が住んでい...
「紫式部の書いた第三の物語が『光る君へ』」~NHK大河ドラマが終わった
NHK大河ドラマ「光る君へ」が終わった。 今回の大河は観方が特殊だ。 視聴者は推理劇を観るように、 脚本家の仕掛けを探った、という話。(写真:フォトAC) 【NHK大河ドラマ「光る君へ」が終わった】 NHK大河ドラマ「光る君へ」が終わりました。視聴率は「いだてん?東京オリムピック噺」に続くワースト2だそうですが、確かな爪痕を残したように思います。 個人的には、第2作「赤穂浪士」から60年間も大河ドラマを見続けてきた私にとっては、「平清盛」「麒麟が来る」「鎌倉殿の13人」を押しのけて、断トツの1位に上げたくなる作品です。吉高由里子の押さえた声と目の演技は毎回背筋が寒くなるほどすごかったですし、柄…
京都市右京区嵯峨広沢西裏町にある遍照寺(へんじょうじ)は、真言宗御室派の準別格本山の寺院です。山号は広沢山。本尊は十一面観音。永祚元年(989年)花山天皇(もしくは円融天皇)の御願によって、寛平法皇(宇多天皇)の孫である寛朝僧正が、広沢池畔の山荘を改めて寺院にしたものです。寛朝が没すると次第に衰退、鎌倉時代には後宇多天皇により復興されましたが、室町時代の応仁の乱で廃墟と化しました。奇跡的に難を逃れた赤...
東福寺駅から徒歩5分、京都市東山区本町にある法性寺(ほっしょうじ)は、延長2年(924年)に藤原忠平によって創建されたと伝えられています。藤原氏の氏寺として栄え、藤原忠通(法性寺入道)の時代には、現在の東福寺と泉涌寺までの広大な寺域に大伽藍を構え、京洛21カ寺の一刹に数えられています。その後、兵火により衰退しましたが、明治以降、旧名を継いで再建されました。本堂の千手観世音菩薩像は、旧法性寺の潅頂堂(かんち...
めぐり逢ひて見しやそれともわかぬまに雲がくれにし夜半の月かな(五七番) 紫式部さんが詠んだ有名な歌ですね 10月のギャラリー展でもご体感いただきました…
ブルックナー交響曲第5番は、80分近い大作。これを最後まで聴いて、その後の用事を済ませるために、あえて東松山へ。15日日曜日のことです。東松山図書館に車を停めて、駅へ。森林公園行きの電車が来ていましたが、僕が乗るのは池袋方面行。12時前に昼食を食べたのですが、ビ
雲林院は、京都市北区紫野にある大徳寺の塔頭です。こちらも『源氏物語』ゆかりの寺院です。もとは、淳和天皇の離宮・紫野院として造成された。紫野一帯は野の広がる狩猟地であったが、桜の名所でもあった。文人を交えてたびたび行幸したという。その後仁明天皇の離宮となり、やがて皇子常康親王に譲られた。869年(貞観11年)親王が亡くなった後、僧正遍昭に託し、ここを官寺「雲林院」とした。884年(元慶8年)、遍昭はこれを花...
放送が終わってあちらこちらの感想や考察を見て回って、そうだったのかと唸らせられたり、いろいろと感じ入ったり。乙丸が『姫さま』と旅立つことについて、きぬさんはよく許したなと思っていたんですが、途中で彼が..
京都市上京区千本通廬山寺上る閻魔前町にある引接寺(いんじょうじ)は、通称千本ゑんま堂と呼ばれています。本尊は閻魔法王。引接とは仏が衆生を浄土に往生させること。その名の通りこの寺は、かつての京都の3大墓地であった化野、鳥辺野、蓮台野(れんだいの)の一つである蓮台野の入口に立っています。あの世とこの世を行き来して、昼は宮中に赴き、夜は閻魔之廰に仕 えたとの伝説を残す小野篁が、この地に自ら閻魔法王の姿を刻...
今年の大河ドラマ光る君へ ツッコミどころが多すぎて 最後の方のツッコミなんか辛辣すぎるんではないかとちょっと反省したりもしましたが『NHK 光る君へ に、ツ…
NHK 光る君へ に、ツッコミたい② 12/15 ツッコミも最終回
総評は、先程まとめましたが 今日の放送の中で声を 大 にしてツッコミたかったことがあります 開始50分あたり(終盤) 乙丸よ... 旅に出ようとするまひろ…
サブタイトルは「物語の先に」。いやはや、なにはともあれ私にとっては初大河。リアルタイムで48回、走り切りました!この一年、本当に楽しませてもらいました終盤、けっこうさくさく時間がとんでいたっぽい、かな..
NHK 光る君へ に、ツッコミたい① 12/15 最終回まとめ
最終回だからね 今までのツッコミどころが全部でてきて総まとめになりました みんな老いたのにやっぱり吉高由里子だけは老けないね カツラに白髪が混じっただけ老け…
京都市北区紫野西御所田(ごしょでん)町に「紫式部・小野篁卿の墓所」があります。なぜこの二人の墓が隣接しているかというと好色な話が多い『源氏物語』を描いた紫式部が、人々を惑わした罪として地獄へ落とされたという噂を耳にした小野篁が、閻魔大王に彼女を地獄から救うようお願いし、助け出した後、自分の墓の隣に埋葬したのではないかといわれています。また、地獄に落ちた紫式部を哀れむ読者が、篁に彼女を助け出して欲し...
【光る君へ】#47 乙丸、渾身の「帰りたい」連発でメンタルボロボロまひろを動かす大活躍。「あと1回」には悲鳴😢終わらないで~
周明の死が悲しくて、私も迷走 NHK大河ドラマ「光る君へ」第47回「哀しくとも」が12/8に放送された。前回終わりで賊の矢を左胸に受けた周明は、やはり絶命。か細い声で、泣き叫ぶまひろに「逃げろ」と言う、切ない最期だった。 乙丸に引っ張られ逃げなかったら、まひろは周明のそばで泣き続けて同様の害を被っただろう事は容易に想像できる。乙丸、姫様を守り切ったね。ナイス。いつも役立たずみたいに書いてゴメンよ。今回、乙丸はきぬとの約束通り、まひろを守り切り、京に連れ帰った。大活躍だ。 公式サイトからあらすじを引用する。 (47)哀しくとも 初回放送日:2024年12月8日 まひろ(吉高由里子)たちは異国の海…
宇治市内には許波多神社(こはたじんじゃ)という名前の神社が木幡と五ヶ庄の隣接する2つの地区にあります。今回参拝したのは、木幡の許波多神社です。藤原道長が寛弘2年(1005)から2年がかりで創建した藤原家の菩提寺「浄妙寺」はこの北東の木幡小学校辺りにあったとされています。社伝では、大化元年(645年)、皇極天皇が夢で「吾れ天神故に下土に神陵なし吾が霊を祭祀し給へ」とのお告げを受け、中臣鎌足に命じ木幡荘に社殿を造...