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誰もが一度は見たことの「しかみ像」『徳川家康三方ヶ原戦役画像』(徳川美術館所蔵)は、顔をしかめ憔悴したような表情に描かれていることから、『顰像』(しかみぞう)とも呼ばれ、徳川家康が三方ヶ原の戦いで敗れた姿を描かせ、慢心の戒めにした家康の肖像画の一つとされてきましたが、近年の研究では、それが否定されています。しかみ像を所蔵する徳川美術館の調査によると、「台帳記録では、しかみ像は紀伊徳川家から嫁いだ従姫よりひめの所持品とあり、尾張徳川家9代宗睦(むねちか)の養子、治行(はるゆき)と1780年に結婚した際に持参したとみられる。記録に「東照宮尊影」とあり、家康像と伝えられてきたが、戦いの記述はなかった。」とのこと。Wikipediaによると、「本図は18世紀の終り頃に紀州徳川家から尾張徳川家に伝来し、当時は「家康...家康の「しかみ像」に新説が!
浜松市中区住吉の元亀霊神社は、明治の敬神崇祖の念の強い篤志家であった住吉の故岡野丑太郎氏は、自宅の近くにある小塚に、元亀三年の三方ヶ原の戦いで散華した多くの将兵が、眠っていることを知り、自分の土地を提供して住吉町の鎮護として、昭和5年に元亀霊神を建てたそうです。この地域には、数多くの小塚があったといい、大正時代の開拓事業により失われていきましたが、その過程で、小塚から小札が掘り出されたことから、三...
浜松市中区広沢の宗源院は、山号を宝蔵山(ほうぞうさん)といい、西来院と同様に曹洞宗普済寺十三派の在天派に属し、華蔵義曇(けぞうぎどん)の法弟在天弘雲和尚が応永23年(1416年)に開創しました。ご本尊は、虚空蔵菩薩・釈迦牟尼佛・普賢菩薩です。室町時代後期には、今川氏の庇護をうけ、今川義元自身が開基としての役割を果たし、堂塔伽藍の再建を行っています。そうした関係を裏付ける史料として、当寺には今川義元...
浜松市中区中沢町に位置する常楽寺。天平六年(734年)の開山で、高野山真言宗の古刹です。本尊は阿弥陀如来。 本堂往時は七堂伽藍が建ち並び一世を風靡したといいますが、戦火で建物、記録が消失し、詳細は不明。 十三佛堂こちらには、三方ヶ原の合戦において、徳川家康と阿弥陀如来像についての興味深い話が伝わっています。 中澤山 常楽寺当山は、遠州信貴山別院である。往時は七堂伽藍が建ち並び一世を風靡したという。惜しむ...
浜松には、徳川家康と武田信玄との三方原合戦ゆかりのお菓子があります。イラストが面白いでしょう?御菓子司「あおい」の小豆餅と銭取です。「あおい」の小豆餅と銭取の由来によると「三方原合戦の折り、空腹に耐えかねた家康は道端の茶店に飛び込み、老婆が売っていた小豆餅をほおばりました。その時、後方に敵兵の気配を感じ、家康は銭も払わず逃げ出しました。何も知らない老婆は、「お侍さ~ん。銭を下され~銭を!」と二キロ...
浜松市博物館で開催中の「家康伝承と浜松」展。浜松城や北遠の城の出土遺物や三方ヶ原の戦いの布陣図、後世における徳川家康の由緒や伝承を記した古文書や書籍、三方ヶ原の戦いを描いた絵、徳川家康ゆかりの食品にまつわる資料等が展示されています。武田家禁制三ヶ年の鬱憤三方ヶ原の戦いに関わる武田信玄書状を期間限定で展示されています。~5月28日(日)(期間限定)三方ヶ原の戦い(元亀3年(1572)12月22日)の直前の同年10月21日、遠江に進軍してきた武田信玄が三河国の国衆の奥平道紋に宛てた書状。浜松に向かい徳川家康と戦い「三ヶ年の鬱憤」を晴らすと表明しています。個人の方からお借りしている資料であるため、実際に見ることができる機会が少ない貴重な資料なのだそう。武田信玄書状三方ヶ原の布陣図三方原絵図遠州味方ヶ原合戦図天竜...「家康伝承と浜松」展
浜松市西区庄内町の宿蘆寺この山門は、大河ドラマ「おんな城主直虎」の中で龍潭寺の山門として登場した宿蘆寺の参道に続く山門です。幼少期の直虎のおとわが、龍潭寺へ走って行く場面や、昊天と傑山が出家したおとわを待ち構え、山門くぐろうとするおとわを傑山が投げる場面などに登場しましたね。山門に掲げられている「藤谷山(とうこくざん)」の額は、徳川光圀(水戸黄門)の師匠である東皐心越(とうこんしんねつ)禅師の書。...
【どうする家康】#17 信長の片思いを利用、援軍を勝ち取る家康
援軍を勝ち取った「一蓮托生」 NHK大河ドラマ「どうする家康」の第17回「三方ヶ原合戦」が5/7に放送された。体調不良を言い訳に、既にお約束になってしまった1週間遅れの感想ブログ。お付き合い感謝です。まずは公式サイトからあらすじを引用する。 信玄(阿部寛)は徳川の拠点を次々に制圧。打つ手のない家康(松本潤)は、信長(岡田准一)の本軍が加勢に来るまで浜松城に籠城すると決める。だが、浜松に攻め寄せてきた武田本軍は、なんと浜松城を素通りし、西へ向かおうとする。このまま武田軍を通せば、遠江の民から見限られ、信長の逆鱗に触れる。何より、瀬名(有村架純)ら家族のいる岡崎城が危ない。打って出るべきか、籠城を…
浜松市中区布橋の犀ヶ崖古戦場の一角(現在はバス停の前)に夏目次郎左衛門吉信の碑があります。夏目吉信は1563年の三河一向一揆で処刑されるところを徳川家康の寛大な処置によって助けられました。それ以来、家康に恩を感じ、三方ヶ原の合戦の際、敗走中の家康の身代わりとなり、「我こそは家康なり」と武田軍の前に立ちはだかり、討ち死にしました。「家康伝承と浜松」によると、馬を乗り回して、必死に戦った家康は、負傷した家...
大河ドラマ『どうする家康』主演の松本潤さんなどが参加した「浜松まつり」の騎馬武者行列が5月5日、浜松市で行われた。松本さんは沿道を埋めた観衆に笑顔で手を振りながら、市の中心部を練り歩いた。 松本潤さん「徳川家臣団、出陣じゃ!」…浜松まつりに68万人詰めかけるhttps://t.co/Z95EbiL6ra#カルチャー — 読売新聞オンライン (@Yomiuri_Online) 2023年5月5日 『どうする家康』第17話「三方ヶ原の合戦」も主な舞台は浜松だったが、当然ながら、劇中の松本さんが演じる徳川家康(1542~1616)に全く笑顔はなかった。元亀3年(1572年)、阿部寛さんが演じる武田信…
三方ヶ原犀ヶ崖古戦場の犀ケ崖資料館には、徳川家康が戦場で肌身離さず持っていたというお守り「勝軍地蔵」が展示されています。家康公兜前立勝軍地蔵家康が17歳の初陣の時より、戦場に臨む際には必ず仏体一躯を甲冑に奉安して陣中守護神としたと伝えられています。浜松城主時代の若き家康に仕えたとされる見付(磐田市)の安間家の家宝でしたが、三方原合戦の死者の霊を祭ってきた宗円堂が、明治時代の再建された際、本尊として迎...
以前の犀ヶ崖資料館は、三方原の両軍の霊が祀った宗円堂というお堂でした。その霊を慰めるために、毎年7月15日に遠州大念仏が行われます。遠州大念仏は、遠州地方の郷土芸能の一つで、初盆を迎えた家から依頼されると、その家の庭先で大念仏が行われます。布橋の国道沿いに犀ヶ崖資料館があります。資料館は平成27年4月、新しく建て替えられました。犀ヶ崖資料館資料館では、三方原合戦、遠州大念仏に関する資料が展示されています...
浜松城の北側1kmに犀ヶ崖という断崖があります。ここは、三方原古戦場犀ヶ崖として昭和14(1939)年に静岡県の史跡に指定されています。元亀3年の三方原の合戦で、徳川家康は武田軍に大敗し、浜松城に逃げ込みました。戦いは夜まで続き、攻撃を続ける武田軍は犀ヶ崖まで進攻してきましたが、この辺りの地理に疎く、夜であったため、足を踏み外して崖から転落してし、武田軍は多くの死者を出したという話が残っています。またこれには...
武田家の重臣馬場美濃守の末子である日豪上人が、徳川家康が武田軍と対陣の際、家康軍が妙恩寺を本陣に使用することを許可し、また三方ヶ原の戦いで敗れた家康を妙恩寺の本堂にかくまったことにより、日豪は家康から信頼を得ました。家康が浜松城に在城するようになると、寺の紋に「丸に出二つ引き」を与えられ、囲碁の友としても親交を深め、家康の後年には日豪の為に浜松城内に一宇の精舎を建立して与えたのが、現在の妙恩山・法...
浜松市東区天竜川町の妙恩寺に行って来ました。妙恩寺のHPによると、徳川家康は、妙恩寺へ最低二度は来ていることになっています。一回目は、岡崎城から引馬城(浜松城)へ引越ししてくる時。二回目は、三方原の戦いの初戦「一言坂の戦い」で負けたあと。 1568年12月2日に姫街道を使い三河国から遠江国に入り、奥山方広寺へ。12月4日井伊谷に宿陣。 井伊谷三人衆の手引きにより浜名湖北岸に来た家康は井伊家を味方につけることに成...
どうする家康 第17話「三方ヶ原合戦」 ~信玄の進軍ルートと一言坂の戦い~
いよいよ徳川家康の人生最大のピンチと言われる三方ヶ原の戦いに突入します。 元亀2年(1571年)、室町幕府15代将軍・足利義昭は織田信長討伐令を出し、こ...
浜松城に隣接する浜松市役所の前に、「家康公鎧掛松」という史跡があります。この松には、次のような話が伝わっています。元亀3年(1572年)三方ヶ原の合戦から城に帰った徳川家康は、大きな松に鎧を掛けて木陰で休みました。このことから鎧掛松と呼ばれています。現在の松は、昭和56年に植樹された三代目で、初代の松は、浜松城の堀のそばにありました。また、当時、鎧掛松近くの清水で、合戦に疲れた馬のからだを冷やしたところ...
【どうする家康】#16 信玄の策にはめられた家康、泣き落としで家臣を動かす
義弟は、血のつながりが無いはず NHK大河ドラマ「どうする家康」第16回「信玄を怒らせるな」を最初に見たのは先月30日のお昼だったか・・・BS4Kで見た。そこから、まだ薬でボンヤリしているうちにもう土曜日となり、お昼の再放送を見てまた「そうだブログを書こう」と遅ればせながら思い立った。あらすじを公式サイトから引用する。 浜松に居城を移した家康(松本潤)だが、城下で虎松(板垣李光人)と名乗る少年に襲われる。遠江の民は徳川を恨んでいるという虎松の言葉に、家康は傷つく。一方、信玄(阿部寛)に対抗し、家康は上杉謙信との同盟を探るが、それが武田方に漏れ、信玄を激怒させてしまう。武田との決戦を避けられない…
武田軍は、三方向から遠江に侵攻し、一言坂、二俣城で勝利。12月22日、武田方は、二俣城を出発し、西へと進路を取りました。織田軍からの援軍を得た徳川家康も、武田軍を迎え撃とうと浜松城を発ち、自ら出陣。戦場となったのが、三方ヶ原です。以下、Wikioediaより1572(元亀3)年、上洛を目指し、武田信玄が遠江国に進軍することを知った家康は、浜松城を出発・追撃し、三方ヶ原の地で戦いとなりましたが、兵の数でも軍術でも劣る...
浜松まつりの夜には、豪華絢爛な御殿屋台の引き回しが行われます。三方原南の御殿屋台の彫刻には、三方ヶ原の合戦での家康と信玄が彫られているそうです。一昨日撮影したのは、屋台の背後からでしたので、正面の彫り物が写っていませんでしたが(^0^;)2022年5月の中日新聞によると、北区三方原南町の「三南(さんなん)組」は、2015年に新築し、16年から引き回しに参加していたが、彫師の体調不良のため、屋台の上部と下部の一部彫刻が未完成となっていたが、2022年4月中旬に新しく彫刻が完成した。屋台は幅三・六メートル、長さ五・一メートル、高さ五・一メートルで主にケヤキ造り。前面の下部には、徳川家康がこよなく愛したとされる霊獣の獏(ばく)が新しく彫られた。獏は金属を食べるため、金属が武器にされる戦時中は生きられず、平和を好...三方ヶ原の合戦に纏わる御殿屋台
普済寺は、広沢山(こうたくさん)と号する曹洞宗の寺です。浜松市の中区にある普済寺の創建は、15世紀初期、寒厳義尹によって開山されたのが始まりとされています。当初は随縁寺と称し、現在の浜松市寺島の地にありましたが、永享4年(1432)肥後国(熊本県)大慈寺からきた華蔵義曇が再興し、広沢山(こうたくざん)普済寺に改め現在地に移しています。普済寺は古くから由緒ある寺として徳川氏の保護をうけていましたが、三方ヶ原の...
浜松八幡宮は、仁徳天皇の時代に、許部(こべ)の里(現在の浜松市南区小沢渡町)に創建された許部神社が天慶元年(938年)に曳馬の里に遷座して現在の八幡宮になったと伝えられています。このとき遠州灘海岸の小沢渡から移した小松を社領の一角に植え、のちに「颯々(ざざんざ)の松」と呼ばれるようになったと伝えられています。1570年(元亀元年)に徳川家康が、居城を岡崎城から浜松城へ移し、本八幡宮を鬼門封じとしました。1572...
法蔵寺の墓所には、松平家霊廟と三方ヶ原の合戦忠死者の墓があります。松平家霊廟松平広忠墓(家康の父)松平信光の母と亀姫(家康の長女)の墓松平信光の子の墓松平忠政(家康の異母兄)、広忠の先妻、忠政の弟の墓矢田姫墓(徳川清康の異母妹)と薄井姫の墓三方ヶ原の合戦忠死者の墓夏目次郎左衛門吉信と鳥井左衛門左衛門の墓夏目吉信は、夏目漱石の先祖で、三方ヶ原の合戦の際、家康の身代わりとなり討たれました。その向かいに...
三方ヶ原の戦いでの武田軍の進軍ルートに新説! -地元博物館で特別展が開かれている-
今回は科学ライフをテーマに紹介します。今まで紹介したテーマと趣向が変わりますが、地元浜松では、来年の大河ドラマの主人公が徳川家康という事で、各地で家康にまつわる講演やイベントが行われております。浜松博物館でも「三方ヶ原の戦いと家康伝承」をテ