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【武都】章「参考文献」弐十弐・承久の乱~真の「武者の世」を告げる大乱
22.【承久の乱~真の「武者の世」を告げる大乱】 評価:75点/作者:坂井孝一/ジャンル:歴史/出版:2018年 『承久の乱~真の「武者の世」を告げる大乱…
畠山重忠の衣装武士の鑑と言われたほどの畠山殿武士らしく潔く美しく散っていきました。演じた中川大志さんがブレイクしたドラマでもありましたね!源実朝の衣装白地に鶴の柄は、亡く頼朝を思わせますね~北条義時の甲冑今となっては懐かしい梶原殿絵までお上手な後鳥羽上皇全成殿もお気の毒でした(; ;)上総介も存在感のある方でした。みんな大好き和田殿😄北条家の皆さんが、唱える度に間違えていた呪文(^0^;)承久の乱では、幕府方...
治天の君から隠岐配流へ。承久の乱の果て…後鳥羽上皇ゆかりの京都史跡
こんにちは。夢中図書館へようこそ!館長のふゆきです。全国の城や史跡をぶらり旅する「夢中図書館 いざ城ぶら!」。いま「鎌倉殿の13人」に夢中…。いざ鎌倉殿ゆかりの地へ!今日の夢中は、治天の君から隠岐配流へ。承久の乱の果て…後鳥羽上皇ゆかりの京都史跡です。
東国対西国!運命を決する戦い「承久の乱」古戦場跡…木曽川そして宇治川へ
こんにちは。夢中図書館へようこそ!館長のふゆきです。全国の城や史跡をぶらり旅する「夢中図書館 いざ城ぶら!」。いま「鎌倉殿の13人」に夢中…。いざ鎌倉殿ゆかりの地へ!今日の夢中は、東国対西国!運命を決する戦い「承久の乱」古戦場跡…木曽川そして宇治川へ…です。
2019年の秋、紅葉狩りの季節の大原を訪ねました。大原には、承久の乱で敗れ、配流先で亡くなった後鳥羽上皇と順徳天皇の陵墓があります。三千院の参道を北に進んでいき、三千院を通り過ぎると、左手に実光院があります。その向かい側の小高いところに、後鳥羽天皇・順徳天皇大原陵があります。後鳥羽天皇大原陵順徳天皇大原陵隠岐に流された後鳥羽上皇は,18年間のわびしい生活ののち,同地で没した。隠岐で火葬され,遺骨は山城の大...
鎌倉殿の13人 第48話(最終回)「報いの時」 ~承久の乱の顛末と北条義時の死~
さて、最終回。冒頭の徳川家康の登場には驚きましたね。たしかに、家康が『吾妻鏡』を愛読していたという話は事実です。三谷さんのアイデアかプロデューサーの企画...
私は加藤楸邨の俳句に惹かれる。表現される世界は多様で多彩で、俳句特有の俳味に溢れる句も少なくない。 くすぐつたいぞ円空仏に子猫の手 「吹越」 円空が彫った精神性に富む仏に、子猫の手がじゃれている。親しみを含んだ笑いが広がるが、謹厳な仏が、「くすぐったいぞ」と実際に子猫に向かって口にしているようで、まるで加藤楸邨が仏になり代わったかのようだ。「すべての物の中にひそんでゐ声は、こちらが聞きとめる心の耳を持ちさえすれば、かならずきこえてくるはずのものである」と楸邨は書いている。 梨食ふと目鼻片づけこの乙女 同前 梨に少女が無中になってかぶりついていて、その大きく開けた口だけが眼に止まる。目や鼻などは…
城南宮から徒歩数分のところに鳥羽離宮跡公園があります。伏見区竹田・中島・下鳥羽一帯は、平安時代後期に白河・鳥羽上皇が造営の離宮があり院政を行ったところです。院政のシンボルである鳥羽離宮は、白河天皇の御所として建てられましたが、すべてが完成したのは、鳥羽上皇の時代になってからのことで、鳥羽殿とも呼ばれました。平清盛による後白河法皇の幽閉場所や、後鳥羽上皇の拠点の一つとしても用いられました。後鳥羽上皇...
『承久記』によると、敗走した京方の藤原秀康、三浦胤義、山田重忠は最後の一戦を挑もうと院御所に駆けつけましたが、後鳥羽上皇は、彼らを見捨てて、門前払いにしました。山田重忠は「大臆病の君に騙られたわ」と門を叩き憤慨。後鳥羽上皇は幕府軍に使者を送り、この度の乱は謀臣の企てであったとして義時追討の院宣を取り消し、藤原秀康、三浦胤義らの逮捕を命じました。上皇に見捨てられ、失望した三人は洛南の東寺に立て籠もり...
承久3年(1221年)6月9日、後鳥羽上皇は、坂本から京に戻り、西園寺公経を斬るのを止めて、翌10日、高陽院に戻り、西園寺父子を赦免しました。丸太町の高陽院邸跡京方は残る全兵力をもって宇治・瀬田に布陣、宇治川で幕府軍を防ぐことに決めました。藤原秀康、三浦胤義らの武将や源有雅、一条信能らの公家も出陣しました。6月13日、京方と北条泰時率いる幕府軍は宇治川で衝突。この時期は、梅雨時だったため、水かさが増しており、...
木曽川を突破した幕府方の東海・東山両軍は、三浦義村の提案で、北陸勢の到着を待たずに、近江瀬田川まで進むことにしました。木曽川の惨敗を知った後鳥羽上皇は、比叡山の衆徒を頼り、順徳天皇や親王・近臣を伴い、近江坂本に移りました。後鳥羽上皇の日吉参り(承久記絵巻より)しかし、上皇の寺社抑制策が災いして、比叡山はこれを無視し、上皇は孤立してしまいました。雪の日の比叡山延暦寺根本中堂承久3年(1221年)6月9日、上...
岐阜県美濃加茂市のJR美濃太田で下車し、大井戸の戦いの史跡巡りをして来ました。駅から徒歩で、中山道を目指します。中山道太田宿は、中山道51番目の宿場で、中山道の三大難所の一つに数えられた「太田の渡し」があり、飛騨街道と郡上街道の分岐点でもあったところから、大いに栄えました。皇女和宮下向のおりに新築された「旧太田本陣門」、国の重要文化財に指定されている「旧太田脇本陣林家住宅」、明治26年創業の蔵元「御代櫻...
承久3年5月22日、北条泰時がわずか18騎で先発すると、諸国の武士達が集まり、東海道は北条泰時・時房、東山道は武田信光・小笠原長清、北陸道は北条朝時(ともとき)・結城朝広(ゆうきともひろ)らを大将軍として、三道から攻め上りました。27日、北条義時は、義時討伐の院宣を持った院の使者・推松丸に宣旨の返書を持たせました。28日、泰時一行は遠江国に入りました。連日の雨により、洪水が発生しているということで、船で渡ること...
鎌倉殿の13人 第47話「ある朝敵、ある演説」 ~承久の乱勃発と政子の名演説~
遠縁ながらも源氏の血を引く摂関家の九条道家の子・三寅が次期将軍と決まり、三寅が幼少のあいだは北条政子が将軍を代行することになりましたが、三寅の4代目鎌倉...
すでに当ブログで紹介済みですが、昨日12月11日の紀行で紹介されたところをまとめてみました。福岡市博多区にある聖福寺は、建久6年(1195年)源頼朝を開基とし、栄西が南宋より帰国後に、宋の人が建立した博多の百堂の跡に創建しました。室町時代末期に兵火を受け、永禄11年(1568年)耳峰が再興。天正15年(1587年)には領主小早川隆景が寺領300石を寄進、仏殿、総門などの諸堂宇を修営。文禄4年(1595年)に豊臣秀吉より200石、...
承久3年(1221年)5月14日、後鳥羽上皇は城南宮で催す「流鏑馬揃え」を口実に諸国の兵を集めました。北面・西面武士や近国の武士、大番役の在京の武士1700余騎が集まり、その中には有力御家人の尾張守護・小野盛綱、近江守護・佐々木広綱、検非違使判官・の三浦胤義(三浦義村の弟)も含まれていました。幕府を支持した西園寺公経を捕らえて幽閉、翌15日、京都守護・伊賀光季(いがみつすえ)を討ち、後鳥羽上皇は三浦氏、小山氏、武田...
承久元年(1219年)7月13日、都を揺るがす源頼茂の乱が勃発!源頼茂(みなもとのよりもち)は、源頼政の孫、源頼兼の子であり、大内裏中の内裏の警固を職務とする大内守護を職務としていました。源頼政源実朝の家司となるとともに、左大将・右大臣拝賀の際は鎌倉に赴いており、実朝と親しい武士でした。しかし、源実朝暗殺後、実朝の後継者・鎌倉幕府第4代将軍として三寅になることが決まり、頼茂は謀反の心を引き起こしたといいまま...
米原市の日撫神社(ひなでじんじゃ)は、旧近江町エリアの日撫山に鎮座する延喜式内坂田五社のひとつです。日撫神社のある地は、仲哀天皇の皇后である神功皇后の祖先が代々住まわれた地であるという事から、神功皇后はこの地を深く慕われていました。現米原市に祠を建立し、少彦名命と父である息長宿禰王を祀られたのが始まりとされ、後鳥羽上皇が度々参詣され、応神天皇を合わせて祀られました。承久の乱直前に後鳥羽上皇が訪れ、...
"北条義時を討て"後鳥羽上皇、院宣を発す!承久の乱勃発…京都「城南宮」「高陽院跡」
こんにちは。夢中図書館へようこそ!館長のふゆきです。全国の城や史跡をぶらり旅する「夢中図書館 いざ城ぶら!」。いま「鎌倉殿の13人」に夢中…。いざ鎌倉殿ゆかりの地へ!今日の夢中は、"北条義時を討て"後鳥羽上皇、院宣を発す!承久の乱勃発…京都「城南宮」「高陽院跡」です。
長浜の後鳥羽上皇ゆかりの地を巡った後、隣の米原市に入り、長沢にある浄土真宗本願寺派の寺・福田寺を訪ねました。683年に創建されたと伝えられる息長氏の氏寺で息長寺と号し、元は現在の長浜市布施町にあり布施寺とも称されました。長沢御坊とも称され、本願寺の連枝寺でもあります。鎌倉時代後期善顕の時、浄土真宗に改められ、その後、現在地に移転し、一向宗の中心的寺院のひとつとして織田信長に対抗しています。江戸時代の...
鎌倉殿の13人 第46話「将軍になった女」 ~阿野時元の自害と三寅の東下、そして尼将軍政子の誕生~
日本史上にはいくつもの大きなターニングポイントがありますが、源実朝暗殺という衝撃的な事件も、そのひとつだったといえるでしょう。公暁という若干20歳の若者...
北条義時、大江広元等の鎌倉の首脳陣は、承久の乱の勝利の直後、既に、三上皇の配流を決定していた。 後高倉法皇及び、後堀河天皇が、最初に行ったのは、後鳥羽上皇及…
1221年(承久三年)6月16日、北条義時が、京から鎌倉に派遣した、戦勝報告の飛脚は、6月23日の午前2時頃、鎌倉に到着した。 北条義時は、「今は、義時、何…
1221年(承久三年)6月15日、後鳥羽上皇に門前払いされた、京方の勇猛な武士達は、最後の戦いに挑んだ。 既に、承久の乱は、決着しており、武士としての最後の…
1221年(承久三年)6月14日、北条泰時は、宇治川の渡河の苦戦状況を見ると、長男の北条時氏を招き寄せ、速やかに川を渡って、敵の陣中に入れと命じた。 時氏は…
長浜市下坂中町の下坂氏館は、室町時代初めから戦国時代まで続く「土豪」「地侍」と呼ばれる「村落領主」の屋敷跡で、北近江城館跡群の1つとして国指定史跡となっています。表門約90メートル四方の土塁と堀に囲まれた城郭遺構が残り、建物は江戸時代の建造ですが、戦国時代を思わせる主屋や門が残っています。下坂氏は、近江国坂田郡下坂庄の国人領主であり、(出自については諸説あり)建武3年(1336)の足利直義の感状があることか...
田村駅から徒歩5分ほどのところにある田村神社。由緒書きによると、後鳥羽上皇が近江国に御臨幸されたとき、正治元年(1199)、当地方に五社の神を勧請、当社はその一社であり、当時加田の荘下坂浜の荘と共に、七々村の産土神であったと伝えられています。その後、天正の兵火で一旦荒廃しましたが、後陽成天皇の代に古の社地に再建されました。現在の本殿は、寛政12年に建築されたものと記録されています。旧社号は、天王宮と称しま...
永久寺町の鎮守である八坂神社に向かいました。立派な本殿が覗いています。本殿の右側に、後鳥羽上皇の腰掛石があるというのですが・・・特に何の説明もないので、腰掛けられそうな石を写してきました。どうやらこの石のようです。お偉い方が座ると、何でも腰掛石になるようですね(^0^;)にほんブログ村 歴史ブログランキングに参加しています。応援よろしくお願いします!にほんブログ村歴女日記ブログランキングに参加しています...
加田町の亀岡山上に鎮座する八坂神社は、寺伝によれば、正治元年(1199)後鳥羽上皇が名超寺に行幸の際、御祈願所として鎮座したと伝わります。後、兵火により焼失しましたが、花園天皇の代に、日像上人が再建。しかし、再度戦火で焼失し、大覚上人が改築、天正七年、三度目の兵火で灰燼に帰し、二年後に本宮の地に再建されました。拝殿明和9年、現在の地に奉遷され、安永三年社殿を中川文左衛門源正栄が造営したとあります。本殿...
白熱!後鳥羽vs義時、熾烈!その後の北条氏…歴史人「承久の乱とその後の鎌倉幕府」
こんにちは。夢中図書館へようこそ!館長のふゆきです。今日の夢中は、白熱!後鳥羽vs義時、熾烈!その後の北条氏…歴史人「承久の乱とその後の鎌倉幕府」です。「夢中図書館 読書館」は、小説や雑誌などの感想や読みどころを綴る読書ブログです。あなたのお気に入りの一冊を見つけてみませんか?
鎌倉殿の13人 第44話「審判の日」 ~実朝の昇進と義時の薬師堂建立~
後鳥羽上皇の皇子を次期将軍に迎えることが内定すると、上皇は現将軍の源実朝を驚異的なスピードで昇進させました。建保6年(1218年)1月13日に権大納言、...
長浜の妙立寺は、京都の日蓮宗本山・立本寺の末寺であり、後鳥羽上皇の祈願所として建久10年(1199)行幸の際、創立されたと伝わります。その後、荒廃、再建されています。加藤清正拝領の陣鈴「玄武の神鈴」の伝わり、山門脇にある 千箇寺部屋には、参拝者の残したらくがきが現存しています。妙立寺境内の右奥には、後鳥羽上皇手植えと伝わる「鳥羽桜」が鳥羽桜の奥には御手洗に使ったとされる井戸「岩亀水」があります。にほんブ...
1221年(承久三年)6月13日、北条時房は、宇治川に攻め寄せていた。 京方に橋の板を引き落とされ、徒立ちの達者の悪僧達が、橋桁の上で、大太刀、長刀を自在に…
元は、「八幡宮」と呼ばれていましたが、承久2年(1220)、後鳥羽上皇がご臨幸されたとき、「熊岡神社」と社名を賜ったそうです。境内社の杉神社の奥には、後鳥羽上皇お手植えされたと伝わる現在は枯木の老杉があり、鳥羽杉、御杉様、火防杉とも呼ばれています。枯死するまで、近江町長沢へ火防の符としてその枝を送られていたそうです。そばを通るとき「お通しやす、酒一升」と口にして急いで通る風習が残っているとか。また、長浜...
【武都】章『天地鳴動』編「承久の乱」⑨後鳥羽上皇の御幸と還御
山田重忠は、摩免戸を退却後、三百余騎を率いて、東海道・東山道の合流地点である、杭瀬河に向かった。 それに対し、武蔵七党の児玉党、三千騎が、攻め寄せた。 山田…
名超寺の横には、後鳥羽神社があります。明治11年に明治天皇が大津に行幸された際、鳥羽上の里人達が名超寺に祀っていた後鳥羽上皇の木像を大津の行在所に持って行き、明治天皇にお見せしたことを機に、名超寺の客殿を現在地に移築して、木像を祀る神殿とし、「後鳥羽神社」という名にしたそうです。ゆえに、神社の社殿らしくないことがわかります。明治十一年、明治天皇御巡行の時、名超還寂、里人宮崎清平等は名超寺に奉祀されて...
滋賀県長浜市の南部一帯から近江町にかけては、建久10年(1199)と承久2年(1220)の2度にわたって、後鳥羽上皇がひそかに訪れたという伝承が残されています。後鳥羽上皇の2度の潜幸は、名越町にある名超寺にいた旧知の僧禅行を訪ねたものであったとされ、この間、近くの寺社に参詣したり、下坂鍛冶に作刀を命じたとも言われています。(長浜市教育センターHPより)本堂名超寺で現存するお堂の一つとして、観成院があります。観成院...
鎌倉市十二所に建つ大慈寺跡の碑明王院に向かう途中で偶然見つけました。碑文大慈寺ハ建暦二年源實朝ノ創建ニカゝリ新御堂ト號ス建保二年七月二十七日大供養ヲ行ハレ尼御臺政子及ヒ将軍實朝大ニ儀衛ヲ張リ之ニ臨メリ後正嘉元年征夷大将軍宗尊親王ノ時本堂丈六堂新阿彌陀堂釋迦堂三重ノ塔鐘樓等悉ク修理ヲ加ヘラレ荘厳ノ美殆ンド古跡ニ軼キタリト東鑑ニ見ヘタリ當時ノ盛觀以テ想フヘシ爾來星霜七百年布金ノ地マタ一片ノ礎石ヲモ止メ...
唐船建造の失敗などはあったものの、建保年間の幕政は安定していました。しかし、ただひとつ、大きな問題を抱えていました。将軍・源実朝の後継者問題です。建保5...
山田重忠は、清和源氏の祖、源経基の次男、源満政の後裔である。 重忠の父の重満は、墨俣川の戦いで、源行家の軍勢に参加して、戦死した。 山田重忠は、その後、源義…
1221年(承久三年)5月22日、北条泰時の決死の出撃の同日中に、北条時房、足利義氏、三浦義村、義村の息子の泰村が、出撃した。 また、「北陸道の大将軍」とし…
高野山の孔雀堂は、正治元年(1199年)、京都・東寺の長者の延杲(えんごう)が後鳥羽上皇の御願によって、神泉苑にて祈雨の修法を行い、雨乞いを成就させたことがきっかけとなり、正治2年(1200)に落慶し、本尊の孔雀明王像が奉安されました。 昭和元年(1926年)、金堂より出火した大火によって焼失しましたが、昭和58年(1983年)には弘法大師御入定1150年御遠忌記念事業として再建されました。 正治二年(1200年)に安置された...
次の将軍は誰?実朝、後鳥羽、北条氏それぞれの思惑…「源氏将軍断絶」より
こんにちは。夢中図書館へようこそ!館長のふゆきです。今日の夢中は、次の将軍は誰?実朝、後鳥羽、北条氏それぞれの思惑…「源氏将軍断絶」より…です。「夢中図書館 読書館」は、小説や雑誌などの感想や読みどころを綴る読書ブログです。あなたもお気に入りの一冊を見つけてみませんか?
1221年(承久三年)5月21日、源義朝の娘の坊門姫、即ち、頼朝の姉妹を祖母とする、一条頼氏が、鎌倉に下向し、緊迫する、京の情勢を伝えた。 武家政権の首脳陣…
1221年(承久三年)5月19日、北条政子の演説により、東国の御家人達は、結束した。そ の後、北条義時の邸宅に、北条泰時、北条時房、大江広元、安達景盛等が、…
歴史探偵:「後鳥羽上皇と承久の乱」 弓術、蹴鞠でも頂点 “最強の上皇”の秘密を徹底調査 MA
新年一般参賀、事前申込制で3年ぶり実施へ 参賀者枠は計約9千人 - 朝日新聞デジタル 朝日新聞デジタル 民謡踊る上皇ご夫妻、盛り上げた天皇…
1221年(承久三年)5月19日、東国の御家人達が、北条政子の邸宅に参集した。 押松を捕らえたのは、午後六時過ぎのため、夜半であったと考えられる。 北条義時…
1221年(承久三年)5月16日、後鳥羽上皇は、院の下部、押松に院宣を託し、鎌倉へと向かわせた。 しかし、その前日の5月15日、京都守護の伊賀光季が、討伐前…
建暦3年(1213年)2月15日、鎌倉御家人の千葉成胤のもとに阿静房安念と名乗る僧が訪れます。安念は、信濃国の泉親衡という人物が将軍源実朝の廃位と源頼家...
京都市中京区にある閑院址の碑は、市バス「堀河御池」下車し、歩くこと数分、押小路通と小川通が交わる所にあります。平安時代から鎌倉時代の初期にかけて藤原氏の邸があった所で、当初は藤原冬嗣の邸でしたが、藤原公季が伝領してから「閑院」と称したそうです。高倉天皇の時代、大内裏が甚だしく荒廃したため閑院邸が里内裏として利用され、次いで後鳥羽天皇もここで皇位を承継しました。ここから北西にあたる西洞院通、押小路通...
前述の通り、1221年(承久三年)5月15日、後鳥羽上皇は、京都守護の伊賀光季の宿所を襲撃した。 同時に、後鳥羽上皇は、北条義時追討の官宣旨を発した。 官宣…
【武都】章『天地鳴動』編「承久の乱」①日本史上における承久の乱
承久の乱は、源平合戦、南北朝の動乱、戦国時代の合戦に比べれば、有名とは言い難い。 しかし、承久の乱こそは、日本史上、唯一無二の「革命」であった。 日本史上の…
丸太町通堀川東入ルにあるマンションの一角に「高陽院邸跡」があります。高陽院(かやのいん)は、平安京にあった里内裏のひとつで、西洞院大路の西・大炊御門大路の北に位置する、南北4町の大規模な邸宅でした。鎌倉時代初期、後鳥羽上皇が譲位した後の院御所となり、承久の乱につながる謀議を行ったところでした。承久の乱後の貞応2年(1223年)放火により焼亡、以後再建されませんでした。当初は桓武天皇の第七皇子・賀陽親王の...
五辻殿は、鎌倉時代初期、後鳥羽上皇の院御所として使用された邸宅跡です。上京区五辻通に石碑と駒札があります。説明によると、五辻通浄福寺西入南側に建てられたものが、嘉楽中学校を経て、現在地に移されたとあります。 五辻殿は,後鳥羽上皇(1180~1239)の院御所(退位した天皇の住まい)として,元久元年(1204)から使用された邸宅であり,「三長記」(藤原長兼の日記)には「五辻南・大宮西・櫛笥(くしげの)末に位置したとあ...
10月18日は『鎌倉殿13人』でも登場していた後白河法皇の誕生日でした。 ドラマでは西田敏行さんがやっておられましたね。 それにちなみ本日は、鎌倉殿でも暗躍していた上皇様たちのホロスコープを鑑定いたします。(日本では出家した上皇のことを「法皇」と称することがあります。) 後白河法皇のホロスコープ 後鳥羽上皇のホロスコープ (adsbygoogle = window.adsbygoogle []).push({}); 後白河法皇のホロスコープ 後白河法皇ですが、ホロスコープを作ってみて驚いたのは、太陽をはじめとして土星・水星・海王星・木星と実に五つもの天体が天秤座にあったことです。 天秤座…
鎌倉市坂ノ下の海浜公園に、源実朝の歌碑があります。長谷寺から成就院に行く途中で立ち寄りました。実朝は、後鳥羽上皇が熱中していた蹴鞠と和歌にも「当代は歌鞠をもって業となす,武芸廃れるに似たり」と批判されるほどに執心したといいます。承元3年7月には、和歌30首を藤原定家に送って指導を求めており、和歌は死後に『金槐和歌集』としてまとめられました。金槐和歌集(きんかいわかしゅう)鎌倉前期,源実朝の歌集『鎌倉右大...
「天下草創」編にて、述べた様に、源頼朝は、源氏の一族を「御門葉」として、御家人の上位においた。 門葉筆頭の平賀義信の長男、平賀惟義は、伊賀国大内荘を所領に賜…
『王城』の章にて、述べた様に、白河院は、院の直属の武士、北面の武士を設置した。 北面の武士は、その後、鳥羽院、後白河院、後鳥羽院に受け継がれた。 更に、後鳥…
北条時房は、千騎を率いて、上洛すると、後鳥羽上皇に対して、再度、親王の鎌倉下向を迫った。 二ヶ月以上の交渉の末に、後鳥羽上皇は、皇子以外、即ち、皇族でなけれ…
1219年(建保七年)1月27日の源実朝の死後、鎌倉殿としての政務を代行していたのは、源頼朝の正室、尼御台所の北条政子であった。 荘園の公文書管理及び、指揮…
前述の通り、後鳥羽上皇は、1203年(建仁三年)10月、源頼朝と北条政子の次男である、千幡が、北条時政の邸宅にて、元服すると、「実朝」の名を与えた。 翌年に…
後鳥羽天皇は、数え四歳で、践祚したため、1992年(建久三年)までは、後白河法皇が、院政を行っていた。 その年、後鳥羽天皇は、十二歳になっていたが、朝廷を主…
神器無き践祚を認めることに決定すると、後白河法皇及び、公卿は、新帝を選定した。 源義仲は、後白河法皇の第二皇で子、諸国の源氏に平家追討の令旨を発し、宇治平等…
後鳥羽上皇、即ち、尊成親王の父、高倉天皇は、後白河天皇の第七皇子で、その母は、平清盛の妻、平時子の妹、平滋子。 後白河天皇は、保元の乱の後、美福門院と藤原信…
【武都】章『天地鳴動』編「後鳥羽上皇」①日本史上における後鳥羽上皇
後鳥羽上皇は、承久の乱に敗北したため、鎌倉の武家政権を侮った、愚かな上皇としての印象が、強いであろう。 しかし、後鳥羽上皇は、神器無き、践祚をした、日本史上…
源実朝の結婚相手を迎えにいくため上洛していた北条政範(北条時政と牧の方(ドラマではりく)の息子)が急逝するという悲劇に見舞われたものの、御台所の鎌倉下向...
【予習21】第ニ部 第五・最終章 承久の乱 編(鎌倉殿の13人:2022大河)
鎌倉殿の13人:承久の乱 編 遂に武都鎌倉の覇権を握った義時は、王権回復を目論む後鳥羽院と対決の時を迎える。 鎌倉バトルロイヤルを制した義時と御家人たちは果…
【予習20】第ニ部 第四章 侍所別当・和田義盛 編(鎌倉殿の13人:2022大河)
鎌倉殿の13人:侍所別当・和田義盛 編 遂に父を乗り越え、新たな執権となった北条義時の前に、武士の国を創ろうと誓いあった友・和田義盛が立ちはだかる。二人の共…
鎌倉殿の13人 第34話「理想の結婚」 ~時政の専横と実朝の縁談~
源実朝が三代鎌倉殿となり、祖父の北条時政が侍所別当と執権に就任すると、ここから時政の専横がはじまります。あくまで幼い将軍の代理という名目ではあるものの、...
隠岐の旅情 Oki's travel information diary japan
隠岐の島は島根県に属し、島根半島から約50~60Kmの日本海に浮かび四島からなる島です。知夫里島(ちぶりじま)、西ノ島、中ノ島の三島を島前(どうぜん)と呼び、四島中、最大の島である島後(どうご)と、これに人の住んでいない小島が200前後の隠岐諸島の総称です。島に渡るには、鳥取県境港市、島根半島の七類港から隠岐汽船のフェリーで約2時間30分、高速艇で約1時間です。また大阪から、一番最大の島、島後に飛行機が飛んでいます。(隠岐世界ジオパーク空港)。歴史的には聖武天皇の時代(724年頃)に遠流(おんる)の地と定められ、それ以来、著名な人々が隠岐に流されました。承久の乱で公家と武家の衝突により完敗した…