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鎌倉幕府の歴史を学ぼう:御家人、御恩と奉公、北条時宗と朝廷との戦い
鎌倉幕府は日本で初めて武士が政治を行った政府です。御家人、御恩と奉公、北条時宗、朝廷との戦いなど、小学生にもわかる言葉で歴史を解説します。
隠岐の島の旅 ⑫ 隠岐モーモードーム(島根県隠岐の島町池田風呂前19番1)で観光牛突き
▲▼観光牛突き隠岐モーモードームで見学しました島根県隠岐の島町池田風呂前19番1大人1500円朝一の牛突き見ました⬇️約800年前隠岐へ配流となった後鳥羽上皇…
隠岐の島の旅 ⑦ 後鳥羽上皇行在所跡・隠岐神社(島根県隠岐郡海士町海士1784)
▲隠岐神社島根県隠岐郡海士町海士1784昭和14年(1939)後鳥羽天皇の700年祭の年に御神徳をひろめるために創建されました▲後鳥羽上皇行在所跡入口▲説明看…
後鳥羽上皇が出陣していれば、承久の乱に勝てたであろう。 毛利輝元が出陣していれば、関ヶ原の戦いも勝てたかもしれない。 豊臣秀頼が出陣していれば、大坂夏の陣もどうなっていたかわからない。 徳川慶喜が逃げていなれば、戊辰戦争もどうなっていたかわからない。 軍の士気を上げるのは大将である。 大将が鼓舞しなければ兵は奮起しない。 最も奮起させるべきは最前線である。 戦っている最中の兵を鼓舞しなければ意味...
【武都】章「参考文献」弐十弐・承久の乱~真の「武者の世」を告げる大乱
22.【承久の乱~真の「武者の世」を告げる大乱】 評価:75点/作者:坂井孝一/ジャンル:歴史/出版:2018年 『承久の乱~真の「武者の世」を告げる大乱…
畠山重忠の衣装武士の鑑と言われたほどの畠山殿武士らしく潔く美しく散っていきました。演じた中川大志さんがブレイクしたドラマでもありましたね!源実朝の衣装白地に鶴の柄は、亡く頼朝を思わせますね~北条義時の甲冑今となっては懐かしい梶原殿絵までお上手な後鳥羽上皇全成殿もお気の毒でした(; ;)上総介も存在感のある方でした。みんな大好き和田殿😄北条家の皆さんが、唱える度に間違えていた呪文(^0^;)承久の乱では、幕府方...
治天の君から隠岐配流へ。承久の乱の果て…後鳥羽上皇ゆかりの京都史跡
こんにちは。夢中図書館へようこそ!館長のふゆきです。全国の城や史跡をぶらり旅する「夢中図書館 いざ城ぶら!」。いま「鎌倉殿の13人」に夢中…。いざ鎌倉殿ゆかりの地へ!今日の夢中は、治天の君から隠岐配流へ。承久の乱の果て…後鳥羽上皇ゆかりの京都史跡です。
東国対西国!運命を決する戦い「承久の乱」古戦場跡…木曽川そして宇治川へ
こんにちは。夢中図書館へようこそ!館長のふゆきです。全国の城や史跡をぶらり旅する「夢中図書館 いざ城ぶら!」。いま「鎌倉殿の13人」に夢中…。いざ鎌倉殿ゆかりの地へ!今日の夢中は、東国対西国!運命を決する戦い「承久の乱」古戦場跡…木曽川そして宇治川へ…です。
2019年の秋、紅葉狩りの季節の大原を訪ねました。大原には、承久の乱で敗れ、配流先で亡くなった後鳥羽上皇と順徳天皇の陵墓があります。三千院の参道を北に進んでいき、三千院を通り過ぎると、左手に実光院があります。その向かい側の小高いところに、後鳥羽天皇・順徳天皇大原陵があります。後鳥羽天皇大原陵順徳天皇大原陵隠岐に流された後鳥羽上皇は,18年間のわびしい生活ののち,同地で没した。隠岐で火葬され,遺骨は山城の大...
鎌倉殿の13人 第48話(最終回)「報いの時」 ~承久の乱の顛末と北条義時の死~
さて、最終回。冒頭の徳川家康の登場には驚きましたね。たしかに、家康が『吾妻鏡』を愛読していたという話は事実です。三谷さんのアイデアかプロデューサーの企画...
私は加藤楸邨の俳句に惹かれる。表現される世界は多様で多彩で、俳句特有の俳味に溢れる句も少なくない。 くすぐつたいぞ円空仏に子猫の手 「吹越」 円空が彫った精神性に富む仏に、子猫の手がじゃれている。親しみを含んだ笑いが広がるが、謹厳な仏が、「くすぐったいぞ」と実際に子猫に向かって口にしているようで、まるで加藤楸邨が仏になり代わったかのようだ。「すべての物の中にひそんでゐ声は、こちらが聞きとめる心の耳を持ちさえすれば、かならずきこえてくるはずのものである」と楸邨は書いている。 梨食ふと目鼻片づけこの乙女 同前 梨に少女が無中になってかぶりついていて、その大きく開けた口だけが眼に止まる。目や鼻などは…
城南宮から徒歩数分のところに鳥羽離宮跡公園があります。伏見区竹田・中島・下鳥羽一帯は、平安時代後期に白河・鳥羽上皇が造営の離宮があり院政を行ったところです。院政のシンボルである鳥羽離宮は、白河天皇の御所として建てられましたが、すべてが完成したのは、鳥羽上皇の時代になってからのことで、鳥羽殿とも呼ばれました。平清盛による後白河法皇の幽閉場所や、後鳥羽上皇の拠点の一つとしても用いられました。後鳥羽上皇...
『承久記』によると、敗走した京方の藤原秀康、三浦胤義、山田重忠は最後の一戦を挑もうと院御所に駆けつけましたが、後鳥羽上皇は、彼らを見捨てて、門前払いにしました。山田重忠は「大臆病の君に騙られたわ」と門を叩き憤慨。後鳥羽上皇は幕府軍に使者を送り、この度の乱は謀臣の企てであったとして義時追討の院宣を取り消し、藤原秀康、三浦胤義らの逮捕を命じました。上皇に見捨てられ、失望した三人は洛南の東寺に立て籠もり...
承久3年(1221年)6月9日、後鳥羽上皇は、坂本から京に戻り、西園寺公経を斬るのを止めて、翌10日、高陽院に戻り、西園寺父子を赦免しました。丸太町の高陽院邸跡京方は残る全兵力をもって宇治・瀬田に布陣、宇治川で幕府軍を防ぐことに決めました。藤原秀康、三浦胤義らの武将や源有雅、一条信能らの公家も出陣しました。6月13日、京方と北条泰時率いる幕府軍は宇治川で衝突。この時期は、梅雨時だったため、水かさが増しており、...
木曽川を突破した幕府方の東海・東山両軍は、三浦義村の提案で、北陸勢の到着を待たずに、近江瀬田川まで進むことにしました。木曽川の惨敗を知った後鳥羽上皇は、比叡山の衆徒を頼り、順徳天皇や親王・近臣を伴い、近江坂本に移りました。後鳥羽上皇の日吉参り(承久記絵巻より)しかし、上皇の寺社抑制策が災いして、比叡山はこれを無視し、上皇は孤立してしまいました。雪の日の比叡山延暦寺根本中堂承久3年(1221年)6月9日、上...
岐阜県美濃加茂市のJR美濃太田で下車し、大井戸の戦いの史跡巡りをして来ました。駅から徒歩で、中山道を目指します。中山道太田宿は、中山道51番目の宿場で、中山道の三大難所の一つに数えられた「太田の渡し」があり、飛騨街道と郡上街道の分岐点でもあったところから、大いに栄えました。皇女和宮下向のおりに新築された「旧太田本陣門」、国の重要文化財に指定されている「旧太田脇本陣林家住宅」、明治26年創業の蔵元「御代櫻...
承久3年5月22日、北条泰時がわずか18騎で先発すると、諸国の武士達が集まり、東海道は北条泰時・時房、東山道は武田信光・小笠原長清、北陸道は北条朝時(ともとき)・結城朝広(ゆうきともひろ)らを大将軍として、三道から攻め上りました。27日、北条義時は、義時討伐の院宣を持った院の使者・推松丸に宣旨の返書を持たせました。28日、泰時一行は遠江国に入りました。連日の雨により、洪水が発生しているということで、船で渡ること...
鎌倉殿の13人 第47話「ある朝敵、ある演説」 ~承久の乱勃発と政子の名演説~
遠縁ながらも源氏の血を引く摂関家の九条道家の子・三寅が次期将軍と決まり、三寅が幼少のあいだは北条政子が将軍を代行することになりましたが、三寅の4代目鎌倉...
すでに当ブログで紹介済みですが、昨日12月11日の紀行で紹介されたところをまとめてみました。福岡市博多区にある聖福寺は、建久6年(1195年)源頼朝を開基とし、栄西が南宋より帰国後に、宋の人が建立した博多の百堂の跡に創建しました。室町時代末期に兵火を受け、永禄11年(1568年)耳峰が再興。天正15年(1587年)には領主小早川隆景が寺領300石を寄進、仏殿、総門などの諸堂宇を修営。文禄4年(1595年)に豊臣秀吉より200石、...
承久3年(1221年)5月14日、後鳥羽上皇は城南宮で催す「流鏑馬揃え」を口実に諸国の兵を集めました。北面・西面武士や近国の武士、大番役の在京の武士1700余騎が集まり、その中には有力御家人の尾張守護・小野盛綱、近江守護・佐々木広綱、検非違使判官・の三浦胤義(三浦義村の弟)も含まれていました。幕府を支持した西園寺公経を捕らえて幽閉、翌15日、京都守護・伊賀光季(いがみつすえ)を討ち、後鳥羽上皇は三浦氏、小山氏、武田...
承久元年(1219年)7月13日、都を揺るがす源頼茂の乱が勃発!源頼茂(みなもとのよりもち)は、源頼政の孫、源頼兼の子であり、大内裏中の内裏の警固を職務とする大内守護を職務としていました。源頼政源実朝の家司となるとともに、左大将・右大臣拝賀の際は鎌倉に赴いており、実朝と親しい武士でした。しかし、源実朝暗殺後、実朝の後継者・鎌倉幕府第4代将軍として三寅になることが決まり、頼茂は謀反の心を引き起こしたといいまま...
米原市の日撫神社(ひなでじんじゃ)は、旧近江町エリアの日撫山に鎮座する延喜式内坂田五社のひとつです。日撫神社のある地は、仲哀天皇の皇后である神功皇后の祖先が代々住まわれた地であるという事から、神功皇后はこの地を深く慕われていました。現米原市に祠を建立し、少彦名命と父である息長宿禰王を祀られたのが始まりとされ、後鳥羽上皇が度々参詣され、応神天皇を合わせて祀られました。承久の乱直前に後鳥羽上皇が訪れ、...
"北条義時を討て"後鳥羽上皇、院宣を発す!承久の乱勃発…京都「城南宮」「高陽院跡」
こんにちは。夢中図書館へようこそ!館長のふゆきです。全国の城や史跡をぶらり旅する「夢中図書館 いざ城ぶら!」。いま「鎌倉殿の13人」に夢中…。いざ鎌倉殿ゆかりの地へ!今日の夢中は、"北条義時を討て"後鳥羽上皇、院宣を発す!承久の乱勃発…京都「城南宮」「高陽院跡」です。
長浜の後鳥羽上皇ゆかりの地を巡った後、隣の米原市に入り、長沢にある浄土真宗本願寺派の寺・福田寺を訪ねました。683年に創建されたと伝えられる息長氏の氏寺で息長寺と号し、元は現在の長浜市布施町にあり布施寺とも称されました。長沢御坊とも称され、本願寺の連枝寺でもあります。鎌倉時代後期善顕の時、浄土真宗に改められ、その後、現在地に移転し、一向宗の中心的寺院のひとつとして織田信長に対抗しています。江戸時代の...
鎌倉殿の13人 第46話「将軍になった女」 ~阿野時元の自害と三寅の東下、そして尼将軍政子の誕生~
日本史上にはいくつもの大きなターニングポイントがありますが、源実朝暗殺という衝撃的な事件も、そのひとつだったといえるでしょう。公暁という若干20歳の若者...
北条義時、大江広元等の鎌倉の首脳陣は、承久の乱の勝利の直後、既に、三上皇の配流を決定していた。 後高倉法皇及び、後堀河天皇が、最初に行ったのは、後鳥羽上皇及…
1221年(承久三年)6月16日、北条義時が、京から鎌倉に派遣した、戦勝報告の飛脚は、6月23日の午前2時頃、鎌倉に到着した。 北条義時は、「今は、義時、何…
1221年(承久三年)6月15日、後鳥羽上皇に門前払いされた、京方の勇猛な武士達は、最後の戦いに挑んだ。 既に、承久の乱は、決着しており、武士としての最後の…
1221年(承久三年)6月14日、北条泰時は、宇治川の渡河の苦戦状況を見ると、長男の北条時氏を招き寄せ、速やかに川を渡って、敵の陣中に入れと命じた。 時氏は…
長浜市下坂中町の下坂氏館は、室町時代初めから戦国時代まで続く「土豪」「地侍」と呼ばれる「村落領主」の屋敷跡で、北近江城館跡群の1つとして国指定史跡となっています。表門約90メートル四方の土塁と堀に囲まれた城郭遺構が残り、建物は江戸時代の建造ですが、戦国時代を思わせる主屋や門が残っています。下坂氏は、近江国坂田郡下坂庄の国人領主であり、(出自については諸説あり)建武3年(1336)の足利直義の感状があることか...
田村駅から徒歩5分ほどのところにある田村神社。由緒書きによると、後鳥羽上皇が近江国に御臨幸されたとき、正治元年(1199)、当地方に五社の神を勧請、当社はその一社であり、当時加田の荘下坂浜の荘と共に、七々村の産土神であったと伝えられています。その後、天正の兵火で一旦荒廃しましたが、後陽成天皇の代に古の社地に再建されました。現在の本殿は、寛政12年に建築されたものと記録されています。旧社号は、天王宮と称しま...
永久寺町の鎮守である八坂神社に向かいました。立派な本殿が覗いています。本殿の右側に、後鳥羽上皇の腰掛石があるというのですが・・・特に何の説明もないので、腰掛けられそうな石を写してきました。どうやらこの石のようです。お偉い方が座ると、何でも腰掛石になるようですね(^0^;)にほんブログ村 歴史ブログランキングに参加しています。応援よろしくお願いします!にほんブログ村歴女日記ブログランキングに参加しています...
加田町の亀岡山上に鎮座する八坂神社は、寺伝によれば、正治元年(1199)後鳥羽上皇が名超寺に行幸の際、御祈願所として鎮座したと伝わります。後、兵火により焼失しましたが、花園天皇の代に、日像上人が再建。しかし、再度戦火で焼失し、大覚上人が改築、天正七年、三度目の兵火で灰燼に帰し、二年後に本宮の地に再建されました。拝殿明和9年、現在の地に奉遷され、安永三年社殿を中川文左衛門源正栄が造営したとあります。本殿...
白熱!後鳥羽vs義時、熾烈!その後の北条氏…歴史人「承久の乱とその後の鎌倉幕府」
こんにちは。夢中図書館へようこそ!館長のふゆきです。今日の夢中は、白熱!後鳥羽vs義時、熾烈!その後の北条氏…歴史人「承久の乱とその後の鎌倉幕府」です。「夢中図書館 読書館」は、小説や雑誌などの感想や読みどころを綴る読書ブログです。あなたのお気に入りの一冊を見つけてみませんか?
鎌倉殿の13人 第44話「審判の日」 ~実朝の昇進と義時の薬師堂建立~
後鳥羽上皇の皇子を次期将軍に迎えることが内定すると、上皇は現将軍の源実朝を驚異的なスピードで昇進させました。建保6年(1218年)1月13日に権大納言、...
長浜の妙立寺は、京都の日蓮宗本山・立本寺の末寺であり、後鳥羽上皇の祈願所として建久10年(1199)行幸の際、創立されたと伝わります。その後、荒廃、再建されています。加藤清正拝領の陣鈴「玄武の神鈴」の伝わり、山門脇にある 千箇寺部屋には、参拝者の残したらくがきが現存しています。妙立寺境内の右奥には、後鳥羽上皇手植えと伝わる「鳥羽桜」が鳥羽桜の奥には御手洗に使ったとされる井戸「岩亀水」があります。にほんブ...
1221年(承久三年)6月13日、北条時房は、宇治川に攻め寄せていた。 京方に橋の板を引き落とされ、徒立ちの達者の悪僧達が、橋桁の上で、大太刀、長刀を自在に…
元は、「八幡宮」と呼ばれていましたが、承久2年(1220)、後鳥羽上皇がご臨幸されたとき、「熊岡神社」と社名を賜ったそうです。境内社の杉神社の奥には、後鳥羽上皇お手植えされたと伝わる現在は枯木の老杉があり、鳥羽杉、御杉様、火防杉とも呼ばれています。枯死するまで、近江町長沢へ火防の符としてその枝を送られていたそうです。そばを通るとき「お通しやす、酒一升」と口にして急いで通る風習が残っているとか。また、長浜...
【武都】章『天地鳴動』編「承久の乱」⑨後鳥羽上皇の御幸と還御
山田重忠は、摩免戸を退却後、三百余騎を率いて、東海道・東山道の合流地点である、杭瀬河に向かった。 それに対し、武蔵七党の児玉党、三千騎が、攻め寄せた。 山田…
名超寺の横には、後鳥羽神社があります。明治11年に明治天皇が大津に行幸された際、鳥羽上の里人達が名超寺に祀っていた後鳥羽上皇の木像を大津の行在所に持って行き、明治天皇にお見せしたことを機に、名超寺の客殿を現在地に移築して、木像を祀る神殿とし、「後鳥羽神社」という名にしたそうです。ゆえに、神社の社殿らしくないことがわかります。明治十一年、明治天皇御巡行の時、名超還寂、里人宮崎清平等は名超寺に奉祀されて...
滋賀県長浜市の南部一帯から近江町にかけては、建久10年(1199)と承久2年(1220)の2度にわたって、後鳥羽上皇がひそかに訪れたという伝承が残されています。後鳥羽上皇の2度の潜幸は、名越町にある名超寺にいた旧知の僧禅行を訪ねたものであったとされ、この間、近くの寺社に参詣したり、下坂鍛冶に作刀を命じたとも言われています。(長浜市教育センターHPより)本堂名超寺で現存するお堂の一つとして、観成院があります。観成院...
鎌倉市十二所に建つ大慈寺跡の碑明王院に向かう途中で偶然見つけました。碑文大慈寺ハ建暦二年源實朝ノ創建ニカゝリ新御堂ト號ス建保二年七月二十七日大供養ヲ行ハレ尼御臺政子及ヒ将軍實朝大ニ儀衛ヲ張リ之ニ臨メリ後正嘉元年征夷大将軍宗尊親王ノ時本堂丈六堂新阿彌陀堂釋迦堂三重ノ塔鐘樓等悉ク修理ヲ加ヘラレ荘厳ノ美殆ンド古跡ニ軼キタリト東鑑ニ見ヘタリ當時ノ盛觀以テ想フヘシ爾來星霜七百年布金ノ地マタ一片ノ礎石ヲモ止メ...
唐船建造の失敗などはあったものの、建保年間の幕政は安定していました。しかし、ただひとつ、大きな問題を抱えていました。将軍・源実朝の後継者問題です。建保5...
山田重忠は、清和源氏の祖、源経基の次男、源満政の後裔である。 重忠の父の重満は、墨俣川の戦いで、源行家の軍勢に参加して、戦死した。 山田重忠は、その後、源義…
1221年(承久三年)5月22日、北条泰時の決死の出撃の同日中に、北条時房、足利義氏、三浦義村、義村の息子の泰村が、出撃した。 また、「北陸道の大将軍」とし…
高野山の孔雀堂は、正治元年(1199年)、京都・東寺の長者の延杲(えんごう)が後鳥羽上皇の御願によって、神泉苑にて祈雨の修法を行い、雨乞いを成就させたことがきっかけとなり、正治2年(1200)に落慶し、本尊の孔雀明王像が奉安されました。 昭和元年(1926年)、金堂より出火した大火によって焼失しましたが、昭和58年(1983年)には弘法大師御入定1150年御遠忌記念事業として再建されました。 正治二年(1200年)に安置された...
次の将軍は誰?実朝、後鳥羽、北条氏それぞれの思惑…「源氏将軍断絶」より
こんにちは。夢中図書館へようこそ!館長のふゆきです。今日の夢中は、次の将軍は誰?実朝、後鳥羽、北条氏それぞれの思惑…「源氏将軍断絶」より…です。「夢中図書館 読書館」は、小説や雑誌などの感想や読みどころを綴る読書ブログです。あなたもお気に入りの一冊を見つけてみませんか?