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ブログタイトル
大河ドラマに恋して
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今年は大河ドラマ「麒麟がくる」のゆかりの地の紹介、歴旅の記録をアップしていきます。
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366回 / 365日(平均7.0回/週)

ブログ村参加:2013/09/04

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大河ドラマに恋して

しずかさんの新着記事

1件〜30件

  • 芙蓉園本館(3)名勝庭園を散策

    続いて、芙蓉園の庭園を散策してみました。様式 本庭は、万治年中(1658―1660)の造りである。 様式は、南部の山畔を利用した池泉廻遊式の庭であり全庭四百四十坪(1452 ㎡)もある。 広大な池庭であって東南部山畔には、毫華な枯滝石組があり、この時代の庭園としては一級品である。 山畔の急斜面を利用し下部東南よりに池庭が作られている。 この池庭は寛永期のもので、やや細長く作られていて南東部に小石(栗石)を敷いた出島...

  • 芙蓉園本館(2)大阪城の抜け穴?洞穴探検!

    比叡山回峰行者の顔出しパネル洞穴入口この中も見学できます。探検気分で入ってみました。ここは2011年の映画「プリンセストヨトミ」(綾瀬はるか、堤真一出演)の中で、大阪城落城の際、豊臣秀頼の息子・国松が逃げる大阪城の抜け穴として撮影された洞穴なのだそうです。どこまで続くのかな?と思ったら、あっという間に出口でした!映画では、とても長い抜け穴のように感じましたが(;'∀')そもそも何のためにつくられたものなのか?...

  • 芙蓉園本館(1)穴太衆積みの石垣

    西教寺の光秀大博覧会を見た後に向かったのが芙蓉園本館。元は、延暦寺の里坊の白毫院だったそうです。入口には、穴太衆積みの石垣が見られます。穴太衆積みの石垣大津市指定文化財史跡穴太衆積みの石垣   (大津市坂本五丁目) 坂本では、延暦寺の里坊のみならず、街角の神社や古い民家の石塀などに特異な石積みがみられます。これは「穴太衆積み」と呼ばれ、坂本の大字「穴太(あのう)」の一帯に古来より居住し山門の土木営...

  • 近衞前久の邸宅跡

    近衛家は、藤原忠通の四男(実質的な長男)の近衛基実を家祖とし、その子の基通が京都近衛の北、室町の東の邸宅を「近衛殿」と称したことが家名の由来。家紋は近衛牡丹。近衞前久(さきひさ)は、五摂家筆頭という名門貴族の生まれにありながら、その半生を流浪に費やしたが、当代屈指の文化人でもありました。天文5年(1536年)、近衞稙家の長男として京都に生まれました。母は久我通言の養女・慶子(細川高基の娘)。天文9年(15...

  • 二条家と二条晴良

    五摂家のひとつで公家である二条家。鎌倉時代、九条道家の二男二条良実が、二条富小路の邸宅を二条殿と称したのが家名の由来(二条殿は後に押小路烏丸殿を指すようになる)となっています。別称は銅駝殿。仁治3年(1242年)良実は関白に就任。鎌倉時代、良実の孫・道平は後醍醐天皇の倒幕計画に参加、弟師基(もろもと)は南朝に仕えました。道平の子・良基(よしもと)は北朝に仕え、その孫が足利義満の諱(いみな)一字をもらって満基(...

  • 旧竹林院(2)

    穴太衆積石垣を採用した3,300平方mの旧竹林院の庭園は、国指定の名勝で、大宮川の清流を取り入れた曲水を主体にし、八王子山を借景として、滝組、築山、茶室、四阿などを配しています。茶室と四阿は大正年間に建てられたものとされ、平成5年3月大津市指定文化財に、庭園は平成10年12月国の名勝に指定されています。入口母屋造りカヤ葺きの茶室は、「天の川席」と呼ばれる珍しい間取りで、二つの出入り口を設け、主人の両脇に客人が...

  • 旧竹林院(1)

    旧竹林院は、延暦寺里坊群の格式の高い寺院でしたが、明治時代初頭の廃仏毀釈により衰退して土地は個人の手に渡りました。山門庫裏こちらで入園料を支払い、中へ入ります。邸内には、大宮川の清流を取り入れた曲水を主体にし、八王子山を借景と滝組とした広さ約3,300平方メートルの庭園が広がり、主屋をはじめ2棟の茶室や四阿(あずまや)などが配置されています。母屋の外観母屋の一階にある大広間一階の縁側から眺めた庭園母屋の...

  • 立入宗継と清浄華院

    立入宗継は、応仁の乱による荒廃した京都の復興のため織田信長に上京を促し、皇室の威儀を回復させた人物です。立入家は、近江国野洲郡立入庄(現在の滋賀県守山市立入町)を発祥とする。出自ははっきりしないが、藤原北家秀郷流、あるいは佐々木氏の一族、また立入家文書には松田丹後守および豊前守関連の史料が伝来しており、年代的な齟齬があるものの立入家系図によれば奉行衆松田一族の子孫であるとされ、近江立入城は文明年間...

  • 織田信長が足利義昭のために建てた旧二条城

    現在、京都の二条城といえば、慶長8年(1603)に徳川家康が上洛の際の宿舎として造営したもので、織田信長が将軍・足利義昭のために建てた旧二条城は、現在の平安女学院周辺にありました。平安女学院大学と平安女学院中・高等学校の間の通りを行くと、平安女学院の前に石碑が建っています。 旧二条城永禄12年(1569年)に織田信長が、第15代将軍・足利義昭の将軍座所(居城)として、この石碑を中心に、約390メートル...

  • 山科の本圀寺(4) 本師堂~勅使門

    本師堂(釈迦堂)日蓮大聖人の念持仏・釈迦如来像を祀るお堂です。求法講院(学問所)日蓮大聖人像日静聖人顕彰碑九頭龍銭洗弁財天弁財天を祀るお堂で、鎌倉の銭洗弁財天と同様、湧水でお金を洗うと金運アップのご利益があるそうです。清正宮本堂背後の清正廟は、豊臣秀吉による朝鮮出兵の前に、清正の歯や髪、両親の遺骨を納めた生前墓で、加藤清正の娘・搖林(ようりん)尼の建立によるものです。二天門勅使門方丈大奥トリップパ...

  • 山科の本圀寺(3) 本圀寺の変

    本圀寺が鎌倉から京都へ移ったのは貞和元年(1345年)、4世日静は光明天皇より寺地を賜り、六条堀川に移転しました。日静は足利尊氏の叔父と伝え、寺は足利氏の庇護を受けました。 天文5年(1536年)の天文法華の乱で焼失し、堺の成就寺に避難。天文11年(1542年)、後奈良天皇は法華宗帰洛の綸旨を下し、天文16年(1547年)、六条堀川の旧地に再建されました。 本堂永禄11年(1568年)、織田信長に奉じられて上洛した足利義昭の仮...

  • 山科の本圀寺(2)鐘楼堂~仁王門

    大梵鐘と鐘楼堂1593年に豊臣秀吉の姉・日秀尼よって寄進された梵鐘。大梵鐘の下の鐘楼堂には、癌封じのご利益があるとされる九名大尊神(くみょうだいそんじん)が祀られています。九名皐諦石(くみょうこうだいせき)は、鐘楼の下に祀られている九名大尊神の力が宿った石と伝えられています。九名大尊神は九名皐諦女(くみょうこうだいじょ)ともいい、天文法難の際、大火の中に姿を現し、危難を救ったとされています。経蔵1607年...

  • 山科の本圀寺(1)総門~赤門

    昨年の秋、京都山科の日蓮宗の大本山「本圀寺」を訪ねてきました。京都市営地下鉄御陵駅から徒歩15分。赤い橋を越えて、総門に到着。人形塚次に見えてくるのが、鮮やかな赤の山門「開運門」。通称「赤門」と呼ばれています。この山門は、文禄元年(1592)、加藤清正公が寄進した山門で、平成8年に修復し復元した山門です。 加藤清正公は尾張の国中村の貧しい家に生まれましたが、豊臣秀吉公に従って功績を立て、どんどん出世して肥後...

  • 天海の廟所である慈眼堂

    坂本の恵日院の境内にある慈眼堂は、慶長12年(1607年)から比叡山南光坊に住み、織田信長の比叡山焼き討ち後の延暦寺の復興に尽力した天海の廟所です。正保3年(1646年)に建立された江戸時代初期の禅宗様を基本とする仏堂で、国の重要文化財に指定されています。堂内には木造慈眼大師坐像(重要文化財)を祀っています。境内には天海によって高島市から当地に移された鵜川四十八体石仏群のうちの13体の阿弥陀如来坐像のほか、江...

  • 淀殿ゆかりの律院(2)護摩堂~庭園

    律院の護摩堂は、平成5年(1993年)に建立された総欅作りのお堂で、不動明王を祀っています。どのアングルから見ても、素晴らしい建物ですね。護摩堂前の桜も見事です。里坊の庭園は日常生活の憩いの場として、飽きのこない庭づくりが行われました。律院の庭園は、里坊中でも一段格が高いそうです。庭の遣水は大宮川から、南庭の池に取水し、奥行きのある東庭へと注ぎこむ、流れのある曲流回遊式庭園です。にほんブログ村 歴史ブロ...

  • 淀殿ゆかりの律院(1)山門~本堂~祖師堂

    坂本の律院もまた比叡山延暦寺の里坊です。横川の総里坊の位置にあり、山門、石垣の高さにその格式の高さを感じます。かつて松禅院と呼ばれていた当地は、大正末期に民間の手に渡り、荒廃していたのを、昭和24年(1949)戦後初の千日回峰行者、叡南祖賢(えなみそけん)師が再興。寺号は祖賢師が当時、安楽律院の管領を務めていたことに由来するそうです。庫裏本堂本堂は、豊臣秀吉の側室・淀殿が、早世した鶴松の菩提を弔って建てた...

  • 織田信長が足利義昭を迎えた立政寺(2)智通上人

    立政寺は、智通上人(智通光居)が1354年(正平9年)に伊勢参拝の帰途に訪れ、桜の木の下で座って念仏していたところに村人たちが集まって、その徳を慕って参詣したのが始まりと伝えられています。智通光居の墓鏡島薬師堂権現社延命地蔵尊寺内には、絵に描かれた阿弥陀如来像など、古い絵画類も多数所蔵されているとのこと。 絹本著色当麻曼荼羅図また、関ヶ原の戦いで、大垣の美濃赤坂へ向かう途中、徳川家康も立政寺に立ち寄って...

  • 織田信長が足利義昭を迎えた立政寺(1)正法軒跡

    JR東海道線の西岐阜駅から徒歩5分ほどのところにある立政寺は、東海地方の中世浄土宗の一大中心地として栄えました。1891年(明治24年)の濃尾地震で被災したため、現在の本堂は近代的な建物です。本堂法然上人像立政寺は、明智光秀と細川藤孝の仲介により、織田信長が足利義昭を迎えた歴史上の重要な舞台にもなった寺です。永禄11年(1568年)7月、信長は越前国の朝倉義景のもとに身を寄せていた足利義昭を上洛させるために、和田...

  • 松永久秀(4) 東大寺大仏殿炎上

    永禄10年(1567年)4月11日、三好義継を擁する松永久秀は信貴山城から多聞山城に移動。一方、三好三人衆は大和へ入国、4月18日、三人衆軍と筒井軍は連合軍となって大和へ出陣。約半年にわたる膠着状態の中、10月10日に松永・三好連合軍は三人衆軍の本陣がある東大寺を奇襲。この際、大仏殿、大仏の仏頭、伽監、念仏堂、大菩提院、唐弾院、四聖坊、安楽坊などが焼失、この火災で三人衆軍、池田軍は摂津、山城に退いていきました。東...

  • 松永久秀(3)三好三人衆との対立

    永禄8年(1565年)8月2日に松永久秀の弟・長頼が、丹波国人・荻野直正の居城である黒井城を攻撃中に戦死して三好家は丹波国を喪失。悪名高い兄に対して、長頼は、誠実で武勇に優れ、主君の三好長慶から信頼されていたといいます。やがて久秀は畿内の主導権をめぐり三好三人衆と対立するようになります。三好三人衆の岩成友通同年11月16日、三人衆軍は、松永方の城であった飯盛山城を急襲し、長慶の甥で後を継いだ三好義継を高屋城に...

  • 光秀大博覧会「麒麟がくる展」西教寺(3)明智光秀公資料室~ご位牌奉安所

    西教寺の明智光秀公資料室には、「明智光秀公 妻煕子 御木像」「明智光秀直筆寄進状」「明智日向守寄付花瓶」などが展示されています。光秀は、戦死した自軍の兵士を弔うため、西教寺に米を寄進する際、「中間」といわれる最下級武士に対しても、他の武士と全く同じ量の供養米を寄進したそうです。部下に対する平等な愛情が伺える光秀直筆の寄進状や、菩提寺に残る貴重な資料が展示されています。資料室の内部は撮影禁止です。また...

  • 光秀大博覧会「麒麟がくる展」西教寺 禅明坊光秀館 (2)

    近江の光秀ものがたり展「近江を制するものは天下を制す」と言われた戦国時代。びわ湖周辺に築かれた城や、地域に残された光秀ゆかりの資料・エピソードなどが紹介されています。光秀の木像個人蔵と書いてあります。姉川の合戦志賀の陣比叡山焼き討ちと坂本城築城信長の大船小谷城落城穴太衆の石積み信長と安土城パネルを追っていくと、これからのドラマの流れが想像できますね。この日、展示会場の売店でいただいた物。光秀のクリ...

  • 光秀大博覧会「麒麟がくる展」西教寺 禅明坊光秀館 (1)

    昨年に続き、坂本の西教寺を訪ね、「光秀大博覧会」を見学してきました。「麒麟がくる」大河ドラマ展(光秀大博覧会)の会場は、下記の4会場。西教寺 禅明坊(ぜんみょうぼう)西教寺 明智光秀公 資料室滋賀院門跡大津市歴史博物館この内、今回は西教寺の会場を見学してきました。西教寺では、禅明坊という里坊(僧侶の住まい)と、本堂の奥にある明智光秀資料室の2会場があります。禅明坊では、光秀と熙子の夫婦愛をテーマとし...

  • 斯波氏武衛陣・足利義輝邸

    改めて、京都御所西側の足利義輝邸跡を訪ねてみました。此付近 斯波氏武衛陣 足利義輝邸 遺址永禄8年(1565年)足利義輝は、衛陣(斯波武衛家旧邸)に自らの城を築きました。武衛とは斯波氏の職名を由来とし、現在の旧二条城跡地の地名が「武衛陣町」であるのはこれを由来としています。このイラストに描かれているように、当時の足利義輝邸は、平安女学院中高校と平安女学院大学の両方にまたがっていました。永禄8年(1565年)5月...

  • 守山を訪ねて(2)覚慶(足利義昭)ゆかりの少林寺

    矢島御所跡からほど近いところにある少林寺。奈良から守山へ逃れてきた覚慶(足利義昭)が矢島御所に入る前に入ったお寺です。少林寺は、一休宗純(一休和尚)ゆかりの古刹としても知られています。そのうち、室町時代後期の絹本著色一休宗純像墨渓筆(2幅)および一休宗純像版木が滋賀県の文化財に指定され、紙本墨書少林寺法度と、および紙本墨書霊山和尚法度、木造一休和尚坐像が守山市の文化財に指定されています。木造一休和尚坐像...

  • 守山を訪ねて(1)覚慶(足利義昭)ゆかりの矢島御所

    先日、滋賀県守山市在住の歴友さんに、大河ドラマの紀行でも紹介された少林寺、矢島御所を車で案内してもらいました。矢島御所は、覚慶(後の足利義昭)が永禄8~9年(1565~1566)の10ヵ月居住した居館です。そこで、今一度、矢島に落ち延びるまでの背景をおさらいしましょう。永禄8年(1565年)5月で、第13代将軍であった兄・足利義輝と母・慶寿院、弟で鹿苑院院主であった周暠が、松永久通や三好三人衆らによって暗殺されるという永...

  • 恵光院

    比叡山延暦寺の僧侶の隠居所であった里坊の一つである恵光院比叡山延暦寺の門前町として栄えた坂本には約50ヵ寺の里坊があります。国の伝統的建造物群保存地区に指定され、名勝としても十ヶ所が国の指定となっています。里坊は、山上での修行を終えた老僧に与えられた里に存在する坊舎のことを言います。里坊の対となるのは「山坊」と言います。延暦寺は、東塔・西塔・横川の三塔に区分されます。そこに、谷と呼ばれる十六のエリア...

  • 生源寺(2)本堂~大将軍神社

    生源寺は、延暦年間(782年~806年)に最澄によって、父・三津首百枝の居館跡であり、自らの生誕地に建立されたとされています。本尊は慈覚大師円仁作の十一面観音。延暦寺西塔の総里坊格の寺院でした。織田信長によって元亀2年(1571年)に行われた比叡山焼き討ちで全焼。現在の本堂は文禄4年(1595年)に詮舜によって建立され、宝永7年(1710年)に改築されたものです。江戸時代には一山の寺務を統括する重要な寺院であったとい...

  • 生源寺(1)最澄生誕の地

    生源寺は、奈良時代後期、最澄によって父・三津首百枝の居館跡であり、最澄自身の生誕地に建てられたといわれています。最澄像(一乗寺蔵)山門を入ると右手に古井戸があり、最澄の産湯の井戸といわれています。伝教大師最澄上人産湯の井戸  伝教大師最澄上人産湯の井戸今より1300年ほど昔のこと平安時代の初に奈良の仏教とは異なった宗派の仏教が新しい息吹きとして唐(中国)より伝わりました。即ち天台・真言の二宗派です。 桓...

  • 織田信長公居館跡(2)

    信長公以前の斎藤氏の時代の居館 庭園跡と金箔飾り瓦谷川の南側の平坦地は、館の中心建物があったと推測されるところで、火災で焼けた大量の壁土や釘、金箔瓦、陶磁器などが出土されました。庭園が見つかった谷川北側の平坦地とは橋で結ばれていたそうです。金箔飾り瓦庭園上部の建物に金箔瓦が使われていたのですね。ここから正面に金華山ロープウェイが見えます。居館中枢部への入口水路と石垣発掘調査の現場今後どのような発掘...

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