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大河ドラマに恋して http://shizuka0329.blog98.fc2.com/

今年は大河ドラマ「鎌倉殿の13人」「青天を衝け」「麒麟がくる」のゆかりの地の紹介、歴旅の記録をアップしていきます。

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2013/09/04

1件〜100件

  • 鎌倉の「下馬」の碑

    鎌倉駅から由比ガ浜に向かう若宮大路沿いのガソリンスタンドの脇に「下馬」の碑が建っています。往昔鶴岡社參ノ武人ハ此ノ邊ニテ馬ヨリ下リ徒歩ニテ詣デタルニ因リ下馬ノ稱アリ今ニ地名トシテ存ス此ノ地點ハ鎌倉ノ要路ニ位セルヲ以テ屡々戦場ノ巷トナリシコト古書ニ見ユ尚ホ文永八年(皇紀一九三一)九月十二日日蓮聖人名越ノ小庵ヨリ龍口ノ刑場ニ送ラレタマフ途上鶴岡ニ向ヒ八幡大菩薩神トシテ法門ノタメ霊験ヲ顯ハシタマヘト大音...

  • 沼津の大泉寺(2)阿野全成の首掛け松

    この大泉寺には全成の首が一夜のうちに息子の時元のいた阿野の大泉寺まで飛んで来て、松の木の枝に掛かったという阿野全成の首掛け松の伝説が伝えられています。また、家臣が首を持ち帰ったが、警備が厳しく館の中に入れなかったため、入り口近くの松にかけたとも伝わっています。大泉寺の入口にあった松がその松だといわれていましたが、現在は枯れてしまい、その跡に石碑が建てられています。またその切り株は、お寺で保存されて...

  • 沼津の大泉寺(1)阿野全成の墓

    阿野全成の幼名は今若。7歳の時の平治元年(1159年)、平治の乱で父義朝が敗死したため幼くして京都の醍醐寺にて出家させられ、隆超(または隆起)と名乗り、ほどなく全成と改名。兄の源頼朝が挙兵すると、京を抜け出し、頼朝のもとへ駆けつけ、その時、頼朝は涙を流して喜んだといいます。その後、北条政子の妹・阿波局(後に実朝の乳母になる)と結婚し、頼朝のもとで着実な地位を築いていきました。頼朝の死後、嫡男の源頼家が...

  • 源氏山公園の源頼朝公銅像碑

    源氏山は源義家が後三年の役で奥州に向かう際、山頂に源氏の白旗を立てて戦勝祈願したところです。源頼朝もこれにならい、平家討伐の際、源氏山の山頂で戦勝を祈願したといいます。頼朝の鎌倉入り800年を記念して約2mの頼朝像が造られました。源氏山公園の中央には芝生が広がり、家族連れの憩いの場となっています。源頼朝公銅像碑この銅像は治承4年(1180年)10月源頼朝公が鎌倉入りして以来八百年目に当る年を記念し よ...

  • 安達氏の菩提寺・無量寿院跡に建つ鎌倉歴史文化交流館

    鎌倉歴史文化交流館が建つ谷は無量寺谷と呼ばれ、 近辺には 安達盛長の孫・安達義景ゆかりの菩提寺・無量寿院や甘縄の邸宅があったと考えられています。 敷地内の発掘調査では、鎌倉時代後期の池の跡や礎石が見つかり、 安達氏に関係する遺構の可能性が指摘されているそうです。この池の跡は、平成14年 (2002) の発掘調査により、現在の鎌倉歴史文化交流館別館の地下、 同建物の北西側の崖下近くから発見されました。発掘された時の...

  • 修善寺の旅(4)安達盛長の墓

    修禅寺の裏側に安達盛長の墓があります。盛長は、源頼朝が伊豆の流人であった頃から側近として仕えていた武将で、頼朝の死後、鎌倉二代将軍・源頼家の宿老として十三人の合議制の一人になり幕政に参画しました。妻は頼朝の乳母・比丘禅尼の娘・丹後の局、娘・亀御前は、頼朝の異母弟・源範頼の妻。盛長の墓は、以前は修善寺の小山地区にある源範頼の墓のそばにありましたが、バイパス工事に伴い、桂谷トンネルそばの修善寺梅林登り...

  • 鎌倉の甘縄神明神社・安達盛長邸址

    天照大神を祭る長谷の鎮守で、鎌倉市最古の神社とされている甘縄神明神社は、和銅3年(710年)行基が草創し、豪族染谷時忠によって創建されたといわれています。源頼義が相模守として祈願した後、八幡太郎義家が生まれたと伝えられ、永保元年(1081年)に当社を再興しています。源頼朝、北条政子、実朝らもお参りしており、源氏と縁の深い神社です。境内には、北条時宗の産湯の井戸、頼朝の側近である安達盛長の屋敷跡を示す「安達...

  • 頼朝から厚遇された三浦義澄

    三浦義澄は、桓武平氏の流れを汲む三浦氏の一族で、三浦義明の次男。源義朝の家人として平治の乱(1159)に参加。治承4(1180)年の源頼朝が、石橋山の戦いで挙兵した際には悪天候のため参戦できず、引き返す途中で平家方の畠山重忠との間で衣笠城合戦となり、父・義明は討ち死。その後房総半島へ渡ってきた頼朝軍と合流し、のちに頼朝に帰服した重忠らと共に鎌倉入りしました。義澄は千葉常胤、上総広常、土肥実平らと共に頼朝の宿老...

  • 梶原景時が開山した犬山の興禅寺

    愛知県犬山市の興禅寺は、頼朝の家臣で鎌倉幕府の侍所の別当として権勢を誇った梶原景時が、1174年に菩提寺として建てた寺で、興禅寺の東側には羽黒城跡が残されています。羽黒城は、建仁2年(1201)梶原景親(景時の孫)によって築城された。景時は、頼朝に信望のあった御家人で侍所の別当として権勢を誇っていたが、頼朝が死ぬと、しばらくして滅ぼされた。 一部の遺族たちは、景時の孫・豊丸(のちの景親)をかこんで豊丸の乳母...

  • 梶原の御霊神社

    湘南モノレールの湘南深沢駅から徒歩約10分、梶原の御霊神社が見えてきます。建久元年(1190)梶原景時により創建されたとされています。坂ノ下の御霊神社は「ごりょうじんじゃ」と読みますが、梶原の御霊神社は「ごれいじんじゃ」と読むようです。ご祭神は、鎌倉権五郎景正で、本殿には、梶原景正夫妻像、梶原景時の像、三猿像が安置されているといいます。元々は葛原ヶ岡に創建されたもので、また坂ノ下の御霊神社は、元はこの御霊...

  • 鎌倉坂ノ下の御霊神社

    鎌倉坂下の御霊神社は、平安時代後期に建立されたと推定されています。もとは関東平氏五家の始祖、すなわち鎌倉氏・梶原氏・村岡氏・長尾氏・大庭氏の5氏の霊を祀った神社であったとされ、五霊から転じて御霊神社と通称されるようになりました。その後、後三年の役で活躍した梶原景時の先祖・鎌倉権五郎景政が祭られ、祭神の名から権五郎神社と呼ばれました。景政はまた、その武勇をもって知られ、16歳の時、源義家の陣営に連なっ...

  • 鎌倉の建長寺

    鎌倉の建長寺では、梶原景時の亡霊が施餓鬼供養に遅れてやってきたという伝説が残されています。毎年、景時のために7月15日、山門にて午前8時に国宝の梵鐘が撞かれ、「三門施餓鬼」と「梶原施餓鬼」が続けて行われています。にほんブログ村 歴史ブログランキングに参加しています。応援よろしくお願いします!にほんブログ村歴女日記ブログランキングに参加しています。ご協力お願いしますm(__)m歴女日記ランキング...

  • 静岡の梶原景時の史跡(5)梶原堂

    静岡の梶原堂は、元々は、梶原山龍泉院という梶原景時を本尊とした梶原一族をまつるためのお寺でした。梶原一族が滅亡してから160年経った1360年12月28日のこと、景時の8代の孫である梶原景慶が駿河に赴任して来ました。景慶は、足利尊氏の弟である直義の援助を得、矢崎山の山腹に龍泉院を建て、景時をまつりました。1822年、龍泉院は火災により全焼しますが、景時、長男・景季、次男・景高、源頼朝、頼家の位牌と如意輪観音像、...

  • 静岡の梶原景時の史跡(4)高源寺 梶原一族の供養碑とのレリーフ~うなり地蔵

    静岡市清水区高橋にある高源寺。こちらには、梶原一族の供養碑があります。供養碑の表面には、「不尽乾坤燈外燈龍没」と、横側には、「三拾三人是也」と書かれています。この碑は当初、一族郎党の首が晒されたところに建てられ、その後高源寺に移されたのではないかということです。「不尽乾坤燈外燈龍没」は、唐の杜牧の作で、無辺の風月眼中の眼 尽きず乾坤燈外の燈柳暗花明十万戸  門を敲く処々人の應うる有りの七言絶句から...

  • 静岡の梶原景時の史跡(3)駒喰い笹

    鬢水のすぐ近くには「駒喰い笹」という史跡も残っています。人も馬も、疲れ果てて、山中をさまよったので、梶原景時の乗馬「磨墨」(するすみ)は、空腹のあまり笹の葉を喰いちぎった。すると、笹の葉に「矢筈」(やはず)のような磨墨の歯形がつき、以来この地の笹は、刃先が葉型のように枯れたので、人々はこれを「駒喰い笹」と呼ぶようになった。ちなみに梶原氏の家紋には、「矢筈」が使われている。(案内板より)※矢筈(やは...

  • 静岡の梶原景時の史跡(2)景時ゆかりの鬢水

    梶原山公園の駐車場近くにも、「鬢水」という梶原景時ゆかりの史跡があります。 この岩の間からは、清冽な水が滾々と湧き出し、厳冬でも涸れることがなかったといわれている。すでに覚悟を決めていた梶原景時たちは、岩間の水を両の掌に受けて、顔を洗い、喉をうるおした。そして、水鏡に映して、鬢のほつれを直して、身を整え、自刃の地である山上を目指したので、この岩間の水を「鬢水」または「鬢洗いの水」と呼ぶようになった...

  • 静岡の梶原景時の史跡(1)梶原景時終焉の碑

    かなり前のことですが、静岡の梶原山へ出かけました。梶原山とは、静岡市葵区と清水区の境界の標高279mの山で、頂上からは静岡や清水の街、南に日本平、東に富士山、西に谷津山・愛宕山・八幡山が見えます。目的は頂上にある梶原景時父子ゆかりの史跡です。私はタクシーで公園の駐車場まで行きましたが、途中で徒歩で上がる人たちにも出会いました。駐車場からは徒歩5分で梶原山公園に到着。この日は快晴で、素晴らしい景色を見る...

  • 清見寺の血天井

    正治2年(1200年)正月20日、梶原景時は、一族とともに京都へ上る道中、東海道の駿河国清見関(静岡市清水区)近くで偶然居合わせた吉川氏ら在地武士たち、相模国の飯田家義らに発見されて襲撃を受け、狐崎において合戦となります。寺伝によると、約1300年程前の白鳳年間(7世紀後半)、天武天皇朝の頃、東北の蝦夷に備えてこの地に関所が設けられ、清見関と呼ばれていました。その傍らに関所の鎮護として仏堂が建立されたのが、清見...

  • 寒川を巡る(3)寒川神社

    寒川町に鎮座する寒川神社は、年間約200万人に及ぶ参拝者が訪れるという関東地方における著名な神社の一つであり、初詣の参拝者数は神奈川県内の神社では鎌倉市の鶴岡八幡宮に次いで2番目に多いそうです。鎌倉時代の『吾妻鏡』には「一宮佐河大神」と記載があり、相模国の一宮とされ、源頼家が誕生した際には、源頼朝より神馬の奉納等がありました。以後も北条氏から崇敬され、 戦国時代以降、相模国を支配した後北条氏や徳川家康...

  • 寒川を巡る(2)梶原一族郎党の墓

    薬師堂の前に、「梶原景時と一宮館址」の案内板があります。 梶原平三景時(生年不明~1200)は「鎌倉本體の武士」といわれ、源頼朝を補佐し鎌倉幕府の基礎を築いた文武ともに優れた武士です。梶原氏は、桓武(かんむ)平氏の流れをくむ鎌倉党の一族とされ、同族には大庭氏、俣野氏、長尾氏らがいました。 治承4年(1180)伊豆に流されていた源頼朝が挙兵しましたが、8月24日、石橋山(小田原市)の合戦で大敗して椙山(すぎやま)に逃れ、...

  • 寒川を巡る(1)梶原景時館跡

    相模線の寒川駅で下車し、北口にある寒川町観光協会を訪ねました。梶原景時、梶原景季、梶原景高、梶原景茂のキャラクター中にはグッズやお土産物がいっぱい!こちらで、梶原景時に関する資料やマップを収集。スタッフの方に回りやすいルートを教えていただき、レンタサイクルをお借りして、寒川町をまわってきました。「鎌倉殿の13人」ポストカードまでいただきましたよ!ますは、一之宮地区にある梶原景時館跡へ。正治元年(1199...

  • 梶原氏館跡に建つ来福寺

    梶原稲荷神社から南に下ったところに来福寺があります。梶原稲荷神社からこの辺りが梶原氏館跡といわれています。990年(正暦元年)、智弁阿闍梨によって開山されました。本尊は、地蔵菩薩で「経読地蔵」と呼ばれています。1501年(文亀元年)に梅巌という僧が、源頼朝が戦没者供養のために造営したという経塚の前を通りかかった際に、読経の声を聞き土を掘ってみたところ、地蔵が出土したことからきているそう。鎌倉時代には梶原...

  • 梶原景時が勧請した品川の梶原稲荷神社

    品川区東大井にある梶原稲荷神社は、源頼朝の命により梶原景時が建久3年(1192)萬福寺を創建した際、寺の守護神として勧請したのが起源と伝わっています。元応元年(1319)萬福寺は兵火に見舞われ、馬込村(大田区)に移されました。その際、焼け跡に残された稲荷社は景時の屋敷に奉遷され、のちに来福寺に奉納されたと伝えられています。背後のブロック塀に囲まれた一画が梶原塚といい、鎌倉権五郎景正の子孫梶原日向守、亦梶原...

  • 源頼朝、梶原景時ゆかりの六郷神社

    東京都大田区の六郷神社は、京浜急行六郷土手駅の北東、徒歩約10分のところにあります。社伝によれば、天喜5年(1057)源頼義、義家の父子が、この地の大杉の梢高く源氏の 白旗をかかげて軍勢をつのり、石清水八幡に武運長久を祈ったところ、士気大いに奮い、 前九年の役に勝利をおさめたので、凱旋後、その分霊を勧請したのが、当社の創建と伝えられています。  文治5年(1189)源頼朝もまた奥州征定の時、祖先の吉...

  • 後白河法皇ゆかりの熊野神社(京都)

    京都市左京区聖護院山王町にある熊野神社は、811年、修験道の日圓上人が紀州の熊野権現を勧請したのが始まりです。平安末期に熊野詣を頻繁に行っていた後白河法皇によって、熊野から持ってきた土や樹木によって整備されました。新熊野神社、熊野若王子神社とともに京都三熊野と呼ばれています。応永3年(1396年)室町幕府第3代将軍足利義満から広大な社地を寄進され、その境内は西は鴨川に至る広大なものでしたが、応仁の乱により...

  • 後白河天皇ゆかりの今熊野観音寺

    10日の大河ドラマは、選挙のため、お休みでしたので、今週はまだアップしていなかった番外編の記事を紹介しています。今日は後白河天皇ゆかりの京都のお寺です。泉湧寺の近くに今熊野観音寺というお寺があります。今熊野観音寺は熊野権現のお告げを受けた空海がお堂を建てたのが始まりで、熊野権現を篤く信仰していた後白河天皇が今熊野の地に熊野那智権現を勧請したので新那智山とも呼ばれています。頭痛持ちで苦しんでいた後白河...

  • 六条河原と駒止地蔵

    10日の大河ドラマは、選挙のため、お休みでしたので、今週はまだアップしていなかった番外編の記事を紹介しています。京都の六条河原にほど近い下京区の蓮光寺には、平清盛ゆかりの「駒止地蔵」と呼ばれる地蔵尊が安置されています。ある時、清盛が馬に乗って六条河原に辺りに来たところ、急に馬がとどまって進もうとしなくなりました。不審に思った清盛が、土の中を掘ったところ、地蔵尊が出てきました。そのことから「駒止地蔵」...

  • 辰巳八幡神社 「静なごりの橋」の碑

    10日の大河ドラマは、選挙のため、お休みでしたので、今週はまだアップしていなかった番外編の記事を紹介してきます。今日は静御前ゆかりの尼崎の神社です。尼崎の辰巳八幡神社には、静御前ゆかりの碑があります。旧社伝に宇佐八幡宮よりの勧請であるとされ応永26年 (1419年) 日隆上人が日蓮宗 本興寺を当社地内に開基されたと寺伝にあり境内に現存する 青面金剛童子碑台石の文保3年 (1319年) の年号も当社創建の古さを物語るもの...

  • 鎌倉殿の13人 伊豆の国 大河ドラマ館(2)

    八重義時の最初の妻。伊東祐親と後妻の娘であり、義時の叔母に当たる。源頼朝の先妻。江間次郎の元妻。戦災孤児たちの世話をすることに生きがいを見出したが、義時が不在の日、川で流され帰らぬ人に。源頼朝源氏の棟梁。のちに鎌倉幕府初代将軍。河内源氏の嫡流・源義朝の三男。父・義朝が平治の乱で敗れると伊豆国へ配流されるが、以仁王の令旨を受けると北条時政、北条義時などの坂東武士らと平家打倒の兵を挙げ、鎌倉を本拠とし...

  • 鎌倉殿の13人 伊豆の国 大河ドラマ館(1)

    北条家ゆかりの国である「伊豆の国市」の「鎌倉殿の13人 大河ドラマ館」に行ってきました。伊豆箱根鉄道の韮山駅から徒歩5分ほどのところにあり、市内ロケを中心としたメイキング映像の上映、ストーリーやキャスト紹介パネル等の展示が行なわれています。入り口から義時殿がお出迎えしてくれます。毎年、大河ドラマ館に行っていますが、衣装や小物など撮影可能なところとNGなところがあります。こちらは、出演者のサイン色紙意外...

  • 永福寺跡(2) 薬師堂~遣水

    鎌倉の永福寺跡の薬師堂二階堂の北側に建つ脇堂であり、正面が16.7m、奥行が約12.7mの本瓦葺で、南側の阿弥陀堂とほぼ同じ大きさの堂です。創建期永福寺の特徴をなす、極めて珍しい木製基壇(正面約19.2m、奥行約15.3m、推定の高さ54㎝)の上に建てられていました。周囲に縁と雨落ち溝、正面には階段が確認されています。北翼廊・北中門北翼廊は薬師堂の北側より北に約13.7m、ここで東に折れて東西に約37.3mの規模で池に臨む廊下で...

  • 永福寺跡(1)南翼廊・南中門~北複廊

    鎌倉市二階堂にある永福寺跡(ようふくじあと)は、源義経・藤原泰衡をはじめとする数万の冥福を祈るため、鎌倉時代初期に源頼朝が中尊寺の二階大堂、大長寿院を模して建立した永福寺の跡です。造立責任者は工藤行政、建立には畠山重忠ら関東の御家人の助力があった事が『吾妻鏡』に記載されています。建久3年(1192年)11月25日に本堂が完成し、落慶供養が行われました。当時は、二階堂・薬師堂・阿弥陀堂が並び建つ壮麗な光景で...

  • へそ寺と呼ばれる東海道どまん中のお寺「袋井山観福寺」

    静岡県袋井市にある袋井の地名の元となった袋井山観福寺は、延歴12年(739)開基、天台法華宗の古刹です。 東海道のどまん中、袋井宿の中央に建っていることから、へそ寺とも呼ばれています。 建久3年(1190)源頼朝が延命地蔵菩薩を奉安。天正17年(1589)徳川家康、曹洞宗可睡斎仙麟等膳和尚を迎え法治開山しました。本尊は聖観世音菩薩です。 當山は山号を袋井山、字号を観福寺と云います。延暦十二年(793)桓武天皇代、天...

  • 鎌倉・材木座の来迎寺

    鎌倉・材木座の来迎寺は、1194年、源頼朝が衣笠城合戦で戦死した三浦大介義明の霊を弔うため、真言宗能蔵寺を建立したのがはじまりです。当時、能蔵寺と称していましたが、頼朝が亡くなった後、音阿上人が時宗に改宗し、来迎寺に改名しました。当寺の本尊は阿弥陀如来で、三浦義明の守護仏といわれています。境内には、三浦大介義明の武功を讃える義明と孫の多々良重春、本堂の裏手には、三浦一族の墓、100基あまりの五輪塔があり...

  • 鎌倉・西御門の来迎寺

    鎌倉には来迎寺という寺は、材木座と西御門にあります。ここで紹介するのは、西御門の来迎寺です。 西御門の来迎寺は、1293年(永仁元年)の鎌倉大地震でなくなった村人を供養す津るため、一向によって開山されたといいます。西御門という名は、源頼朝が開いた大蔵幕府の西門があったことから付けられました。当寺の本尊は阿弥陀如来、客仏として如意輪観音・地蔵菩薩・跋陀婆羅尊者があります。この3体の像は、頼朝を葬った法華堂...

  • 頼朝を祀る博多の聖福寺

    福岡市博多区にある聖福寺は、建久6年(1195年)源頼朝を開基とし、栄西が南宋より帰国後に、宋の人が建立した博多の百堂の跡に創建しました。室町時代末期に兵火を受け、永禄11年(1568年)耳峰が再興。天正15年(1587年)には領主小早川隆景が寺領300石を寄進、仏殿、総門などの諸堂宇を修営。文禄4年(1595年)に豊臣秀吉より200石、慶長5年(1600年)に黒田長政より200石など、寺領の寄進が伝えられています。聖福寺は初め建仁...

  • 源頼朝・実朝を祭る鶴岡八幡宮の白旗神社

    鎌倉の鶴岡八幡宮の境内にある白旗神社は若宮の東側にあり、源頼朝と実朝が祭られています。鶴岡八幡宮の三の鳥居若宮白旗神社の参道御社殿は黒漆極彩色、唐破風向拝の柱は漆塗りで、輝くような美しさを持った建物です。社伝によると正治2(1200)年5月、頼朝が白旗大明神の勅号を賜ったことを受け、北条政子が創建したといわれています。この辺りは、人通りも少なく、ひっそりとしています。にほんブログ村 歴史ブログランキング...

  • 法華堂跡(2)源頼朝の墓

    史跡法華堂跡現在、源頼朝の墓のあるあたりに、かつては頼朝の持仏堂があり、頼朝の死後は法華堂(ほっけどう)と呼ばれました。堂ハモト頼朝ノ持佛ヲ祀レル所ニシテ頼朝ノ薨後其ノ廟所トナル 建保元年五月和田義盛叛シテ火ヲ幕府ニ放テル時将軍實朝ノ難ヲ避ケタルハ此ノ處ナリ 寶治元年六月五日三浦泰村此ニ籠リテ北條ノ軍ヲ邀ヘ刀折レ矢盡キテ 一族郎党五百餘人ト供ニ自盡シ滿庭朱殷ニ染メシ處トス       大正十三年三...

  • 法華堂跡(1)白旗神社

    鎌倉の白旗神社が建っている辺りには、源頼朝の館や持仏堂がありました。建久9年(1199年)1月13日、頼朝の死後、持仏堂にに葬られ、法華堂と呼ばれるようになり、毎年、頼朝の命日には将軍が参詣し法要を執り行い、多くの武将が参列しました。その後、鶴岡八幡宮の供僧・相承院によって祭祀が続けられていましたが、明治の廃仏毀釈により、石塔の前にあった法華堂は壊され、その跡に、明治5年(1872年)に源頼朝を祭神として、白...

  • 源頼朝ゆかりの鳳来寺 

    数年前のことですが、久しぶりに愛知県の鳳来寺を訪ねました。ここから1425段の石階段が続きます。平治の乱で落ち延びた際、 源頼朝が13歳からこの鳳来寺の医王院で3年間匿われ、その後鎌倉幕府を開き、謝恩の意を込めて本堂と三重塔を寄進。その折に石段も造ったと言われているそうです。 仁王門が見えてきました。 鳳来寺仁王門は、徳川家光の寄進によって建てられたもので、両側に大きな仁王像が立っています。現存する仁王門...

  • 伊豆の国市「荒木神社」

    伊豆の国市の荒木神社の創建年は不詳ですが、延喜式の神名帳に登載されているという古社です。古くは「茨木神社」(ばらき神社)と呼ばれ、「原木」の地名の由来となったと考えられています。境内には巨木が何本かあります。源頼朝が三嶋大社参拝する折り、当社にも参拝し、その際、馬の鞍を社木に掛けていたことから、鞍掛明神と称されたと伝わっています。にほんブログ村 歴史ブログランキングに参加しています。応援よろしくお...

  • 鎌倉最古の寺「杉本寺」

    杉本寺は、二階堂にある鎌倉最古の寺とされ、参道途中に苔むした石段があることでも知られています。731年(天平3年)東国の旅をしていた行基が、ここが観音様を祀る場所にふさわしいと考え、自ら彫った十一面観音を安置したことから始まり、734年(天平6年)、光明皇后が観音菩薩のお告げにより東国の治安の安定を願い、右大臣藤原房前と行基に本堂を建立させたと伝わっています。仁寿元年(851年)に円仁(慈覚大師)が参詣し...

  • 源頼朝生誕の地(2)熱田神宮

    名古屋市熱田区の熱田神宮は、伊勢神宮に次ぐ由緒ある大宮で、三種の神器の一つである草薙神剣を御霊代とする天照大神です。(剣は壇ノ浦の戦いで遺失したという説、神宮に保管されたままという説もあります) 本宮本宮は神明造り、銅板葺きです。西楽所信長塀太郎庵椿江戸中期の茶人、高田太郎庵が愛好したことから名付けられた樹齢300,年を越えるヤブツバキの一種で、正門から入ってすぐ左手の下知我麻神社の庭にあります。境内...

  • 源頼朝生誕の地(1)源頼朝出生地の石碑

    今週は、頼朝特集をお届けします。名古屋の熱田神宮近くの旗屋町の誓願寺に源頼朝の出生地を示す源頼朝出生地の碑があります。ここには熱田神宮大宮司である藤原氏の別邸がありました。熱田大宮司・藤原季範の娘・由良御前は、源義朝の正室となり、義朝との間に頼朝を身ごもった際、この別邸で出産しました。熱田神宮の宮司とは、熱田、鹿島、香取、宇佐、阿蘇、気比などの神社を束ねる神職の長というたいへん高い身分で、その地位...

  • 源頼朝の落馬の地~旧相模川橋脚

    源頼朝は、建久9年(1198)12月27日、相模川橋の法要供養から鎌倉への帰途に落馬したと伝えられています。頼朝は、源義経、源行家、安徳天皇らの亡霊に遭って落馬したとも伝えられています。この時、警護の武士10人が責任をとって自害し、その墓が龍前院の境内の10基の五輪塔であるとも言われています。「源頼朝公 落馬地」は、神奈川県藤沢市辻堂の三浦藤沢信用金庫辻堂支店の駐車場前に、看板があるのみの史跡となっています。源...

  • 義経を祀った茅ヶ崎の御霊神社

    茅ケ崎市南湖の御霊神社は、大庭景能が鎌倉権五郎景正の霊を祀ったことが始まり、また1198年、相模川に新造した橋の落成供養から帰る源頼朝の前に、亡霊となった源義経の怨霊を供養するため、御霊神社に霊を合祀したと伝えらえています。武運長久である2つの御霊が祀られていることから、合格祈願や願掛けにご利益があるといいます。      御霊神社の由緒       御祭神  鎌倉権五郎平景政       御祭神  九...

  • 茅ヶ崎の鶴嶺八幡宮

    源義家が前九年の役に向かう際、父・源頼義が建立した懐嶋の八幡宮に頼義とともに戦勝祈願を行い、敵の安倍氏を破りました。後三年の役に向かう際も、懐嶋の八幡宮に戦勝祈願し、敵を制圧、義家は感謝の意を示すため、懐嶋から新たに浜之郷に分霊し、鶴嶺八幡宮を創建しました。1191年には、源頼朝の命により大庭景能が社殿を修復し、再興しています。鶴嶺八幡宮御祭神  應神天皇・仁徳天皇・佐塚大神・菅原道真(鶴嶺天満宮合祀...

  • 義経一族を祀る弁慶塚

    茅ヶ崎の鶴嶺神社の大きな赤い鳥居横には、弁慶の霊を鎮めるために里人が建てたと言われている「弁慶塚」があります。 弁慶塚の由来 武蔵国稲毛(川崎市)の領主、稲毛三郎重成が亡妻の冥福を願い相模川に橋を架け、建久9年12月28日その落成供養を行った。 源頼朝は多数の家臣を引きつれてこの式に参列。盛大な落成式が行われた。頼朝はその帰途鶴嶺八幡宮附近にさしかかったとき、 義経・行家ら一族の亡霊があらわれ、乗馬が棒...

  • 茅ケ崎の神明大神宮

    鎌倉権五郎景正は相模川から今の藤沢市一帯を開墾し、伊勢神宮に寄進した土地は大庭御厨おおばのみくりやと呼ばれました。領主となった大庭景能は、大庭御厨の一画である懐嶋(現在の円蔵、浜之郷、矢畑付近)を治めており、自身の館の鬼門に伊勢神宮を勧請し、神明大神宮を建立しました。1190年、京に向かう源頼朝がここに宿泊しました。大庭氏が滅びた後も、地域を守護する神社として多くの人に尊ばれてきました。円蔵祭囃子の由来平安末期...

  • 源頼朝ゆかりの品川神社

    東京都品川区北品川三丁目にある品川神社は、文治3年(1187)創建、源頼朝が海上交通安全と、祈願成就の守護神として、安房国の洲崎明神を勧請したことが始まりといわれています。昇り龍下り龍の彫刻が施された石造鳥居天正18年(1590)8月1日徳川家康が江戸城に入り、翌19年11月品川大明神へ5石の朱印社領地を賜りました。現在の社殿は昭和39年に新築されたものです。また、本殿には、東海七福神の大黒天が祀られています。境内に...

  • 油山寺 源頼朝寄進の三重塔

    静岡県袋井市の油山寺の三重塔は、建久元年(1190年)源頼朝が眼病全快のお礼に建立されたものであり、その後、遠江国守護職工藤祐経が薬師堂と共に普請奉行をした塔です。内陣には、弘法大師作と伝えられる大日如来を安置し、塔の高さはおよそ23メートル、上層は唐様と天竺様を用い、中下層は和様式、三手先組一式、上層は2.3メートル四桃山期の姿を今に伝え、桃山の三名塔の一つに数えられています。方、中層は2.8メートル四方、...

  • 修善寺の旅 源範頼の墓

    源範頼は、義経とは対照的に、常に頼朝に従順な態度を示していましたが、建久4(1193)年、曾我兄弟の仇討ち事件への対処方が疑われ、伊豆修禅寺八塔司(はったす)の一つ信功院にに幽閉されました。その後、梶原景時の不意打ちに会い、防戦の末自刃したといわれています。修禅寺から西の小山地区の山腹に、源範頼の墓と伝わる祠があり、明治12年に骨壺が掘り出されたのこと。現在の範頼墓は、昭和7年に、日本画家・安田靫彦のデザイ...

  • 修善寺の旅 「源範頼の終焉の地・日枝神社の信功院跡」

    修善寺の日枝神社は、隣にある修禅寺の鬼門に当たり、もとは修禅寺の山王社(鎮守)で弘法大師の建立といわれています。明治初年(1868)の神仏分離令により分離されました。境内には、源範頼が幽閉されていた信功院があった場所でもあります。源範頼は、義経とは対照的に、常に頼朝に従順な態度を示し、異心なきを誓っていましたが、建久4(1193)年、曾我兄弟の仇討ち事件への対処方が疑われ、伊豆国修禅寺に幽閉されました。その後...

  • 修善寺の旅「源範頼、頼家が幽閉された修禅寺」

    修善寺温泉街の中心にある修禅寺地名は「修善寺」、ですが、寺名は「修禅寺」、表記が異なります。807年(大同2年)に空海が創建したと伝えられています。当時は周辺の地名が桂谷であったことから、桂谷山寺と言われていましたが、鎌倉時代初期には修禅寺の名称が定着し、寺領も修禅寺と呼ばれるようになりました。手水舎から出ているのは温泉です。現在の本堂は1883年(明治16年)に再建したもの。岡本綺堂の「修禅寺物語」の舞台...

  • 源範頼の別荘地「龍泉寺」 範頼桜~範頼の五輪塔~駒塚

    浜松市南区飯田町の稲荷山龍泉寺のあるこの辺りは平安時代、源範頼の別荘地でした。この境内は源頼朝公の弟、範頼公の別荘地であった。当時京都の稲荷神社から稲荷明神を迎えお祠りしていた。その後、享徳3年(1254)この別荘地を寺とし、稲荷山龍泉寺と称した。以後、範頼公を寺の開基として境内の南東に供養塔(五輪塔)を建立し奉祠している。この塔から50m南には、範頼公の愛馬を葬った駒塚がある。また、境内北西には範頼公近...

  • 源範頼の末裔の屋敷 

    浜松市雄踏町に一般公開されている中村家住宅という重要文化財があります。中村家の初代・中村正範(まさのり)は源範頼の末裔の武士で大和国広瀬郡中村郷に住んだ。1481年に14代正實(まさざね)が今川氏に招かれ、遠国江磐田郡に領地を賜り、1483年に宇布見に屋敷を構えた。1574年には徳川家康の側室・お万の方が家康の第二子である於義丸(後の結城秀康)を当屋敷で出産し、その時の胞衣塚が庭にある。以降、中村家は今切軍船兵...

  • 大姫ゆかりの岩船地蔵堂

    岩船地蔵堂とは、鎌倉・扇ヶ谷から亀ヶ谷坂の分岐点に建つ小さなお堂で、ここには源頼朝と北条政子との長女・大姫の守り本尊とされる木造地蔵菩薩立像が安置されています。大姫は許婚の木曽義仲の息子・義高を政略のために殺され、失意のあまり病にかかってしまい、若くしてこの世を去りました。武者鑑一名人相合南伝二 大姫君(一猛斎芳虎画、国立国会図書館蔵)治承2年(1178年)、 頼朝が伊豆の流人だった頃に、夫婦の間の最初...

  • 富士山本宮浅間大社~狩宿の下馬ザクラ

    富士山本宮浅間大社は、全国に約1,300社ある浅間神社の総本社で、富士山を神体山として祀っています。当大社は、朝廷や武家より篤い崇敬を受けてきました。延喜の制では名神大社とされ、一宮制では駿河国一宮として勅使の奉幣・神領の寄進を受けました。源頼朝は、建久4年(1193)富士山麓において巻狩りを行った際、流鏑馬を奉納。現在、流鏑馬祭としてとして伝えられています。北条氏ともゆかりが深く、後に北条義時が社殿を造営...

  • 頼朝の富士の巻狩りと曽我兄弟仇討ち(8)曽我寺

    建久4年(1193)源頼朝が、富士の巻狩りを催した折、曽我兄弟は、頼朝の寵臣になっていた父の仇である工藤祐経を討ち取りました。兄の十郎はその場で討たれてしまいましたが、弟の五郎は、頼朝の宿所にめざしましたが、頼朝の側近に捕えられました。翌日尋問が行われます。頼朝は五郎が勇気ある武士だということで助命を考えましたが、祐経の遺児の嘆願により処刑されました。一説には、単なる仇討ではなく、背後には北条時政など...

  • 頼朝の富士の巻狩りと曽我兄弟仇討ち(7)玉渡神社

    富士市厚原に鎮座する玉渡神社。曽我兄弟の兄の曽我十郎の恋人、虎御前が、兄弟の供養のため、終焉の地・井出の里に向かう途中、この祠で休んでいたところ、夜中にふと目をさますと、曽我寺の辺りから、二つの火の玉が飛んできて、虎御前の前まで来ると消えてしまいました。それが、兄弟の魂だと確信した彼女は、その夜から七日七晩、この祠で念仏を唱え、兄弟の冥福を祈りました。そのけなげな姿を見た地元の人々が、虎御前の死後...

  • 頼朝の富士の巻狩りと曽我兄弟仇討ち(6)曽我八幡宮(厚原)

    曽我兄弟の史跡は、曾我兄弟の仇討ちの舞台の地である県内各地に点在し、厚原にも曽我八幡宮があります。こちらは2010年に改修工事が行われたそうです。 曽我兄弟の父が、工藤祐経に討たれたときは、兄は5歳、弟は3歳だったといいます。境内には、幼い兄弟がいつか親の仇をとろうと誓い合う像が立っています。幼い兄弟の像が愛らしいだけに、悲しみを誘います。にほんブログ村 歴史ブログランキングに参加しています。応援よろし...

  • 頼朝の富士の巻狩りと曽我兄弟仇討ち(5)曽我兄弟霊地

    曽我八幡宮の東側、この階段をのぼったところに曽我兄弟の墓があります。この近くに新田四郎忠常の陣所が置かれ、その辺りで兄の十郎祐成が討たれたといわれています。建久四年一一九三年右大将源頼朝富士之巻狩 を行いし時幕臣仁田四郎忠常の陣屋の所在地 にして曽我兄弟が怨敵工藤祐経を討ち果した る後餘勢を馳りて寄せ手を斬り払いつゝ拾町 余を走りしに終に精魂に盡きて祐成が仁田の為に討たれた所なりと伝ふ。後人二孤が孝烈...

  • 頼朝の富士の巻狩りと曽我兄弟仇討ち(4)曽我八幡宮(上井出)

    富士宮市上井出に鎮座する曽我八幡宮は、 曽我兄弟を祭った神社です。社殿は、珍しいピンク色をしています。 社伝は、源頼朝が曽我兄弟の孝心に感じ、兄弟の英魂を祭るよう畠山重忠を遣わし、建久8年(1197)に上原の住人渡辺主水に祭らせたと伝えている。この地は、新田四郎忠常の陣所の近く、十郎祐成が討たれた所だと言い伝えられている。 主神は応神天皇で、兄弟はその相殿として祭られている。主神の応神天皇の尊像は...

  • 頼朝の富士の巻狩りと曽我兄弟仇討ち(3)曽我の隠れ岩と工藤佑経の墓

    忠臣蔵、伊賀越えの仇討ちと共に、日本三大仇討ちに数えられる「 曾我兄弟の仇討ち」ゆかりの史跡「曽我の隠れ岩」が、音止の滝の東側にあります。「武勇見立十二支 曽我五郎 午」 歌川国芳画曽我の隠れ岩の由来曽我兄弟(兄十郎祐成、弟五郎時 致)の父河津三郎祐泰は、領地争い により伊豆で工藤祐経に暗殺されま した。兄弟は、武士道の面目にかけ 仇討ちを念願し、建久4年(1193年)富 士の巻狩に参加していた工藤祐経を ついに...

  • 頼朝の富士の巻狩りと曽我兄弟仇討ち(2)音止めの滝

    音止めの滝(おとどめのたき)は静岡県富士宮市にある滝で、すぐ近くの白糸の滝とともに日本の滝百選の一つに数えられています。白糸の滝とは違って、音止めの滝は、水量が多く、ダイナミックな滝です。音止めの滝高さ約二五メートル、幅五メートル水量は富士山への積雪、上流部への降水量等により大きく左右されます。この滝の名前の由来は、建人四年五月二十八日(約八百年前)曾我の五郎、十郎兄弟が父、河津三郎祐泰を工藤祐経...

  • 頼朝の富士の巻狩りと曽我兄弟仇討ち(1)頼朝の詠んだ白糸の滝

    曽我物語は、建久4年(1193年)に源頼朝が富士の裾野で行った富士の巻狩りの際、富士宮市上井出の地で、兄・曽我十郎祐成と弟・五郎時致が父の仇である工藤祐経を討ち果たした伝説を基にしています。頼朝は、富士の巻狩りの際、「白糸の滝」を訪れたといいます。2013年の5月、白糸の滝から曽我兄弟の史跡巡りをしてみました。世界遺産登録に向けて、工事中で滝壺に降りることができなくなっていたため、こんな画像しか撮れませんで...

  • 後白河ゆかりの寺社と後白河法皇法住寺陵

    京都市左京区聖護院山王町にある熊野神社は、811年、修験道の日圓上人が紀州の熊野権現を勧請したのが始まりです。平安末期に熊野詣を頻繁に行っていた後白河院によって、熊野から持ってきた土や樹木によって整備されました。新熊野神社、熊野若王子神社とともに京都三熊野と呼ばれています。応永3年(1396年)室町幕府第3代将軍足利義満から広大な社地を寄進され、その境内は西は鴨川に至る広大なものでしたが、応仁の乱により社...

  • 源頼朝の奥州征伐(6)上田端八幡神社と田端八幡神社

    江戸時代の田端は田端村と呼ばれ、上田端と下田端にわかれていました。東京都北区田端4丁目に鎮座する上田端八幡神社(かみたばたはちまんじんじゃ)は、文治5年(1189年)に源頼朝が、この地の豪族豊島氏と共に奥州の藤原一族を平定し、その帰路に駐留したあかしとして、鎌倉八幡宮を勧請し、祭祀を起し、郷土の鎮守とした神社です。現在の田端は、江戸時代には田端村と呼ばれ、村内は上田端と下田端という二つの地域にわかれてい...

  • 源頼朝の奥州征伐(5)善福寺池の湧水「遅乃井」

    東京都杉並区の善福寺公園は、善福寺池を中心に、遊具・遊歩道が整備され、市民の憩いの場となっています。また、善福寺池は善福寺川、また東京都水道局杉並浄水所の水源にもなっています。善福寺池は、湧水量も多く、古来より武蔵野三大湧水池のひとつとして知られていました。善福寺池の名の由来は、池のほとりにあった寺からきていますが、江戸時代に廃寺となっています。池は上の池と下の池に分かれ、両方で約37,000平方メート...

  • 源頼朝の奥州征伐(4)井草八幡宮

    東京都杉並区善福寺に鎮座する井草八幡宮。平安時代末期は春日神を祀っていましたが、源頼朝が奥州討伐の折、八幡神を合祀して戦勝を祈願して以来八幡宮を合祀し、後年春日社を末社として奉斎するようになりました。文明9年には太田道灌が石神井城の豊島氏を攻むるに当たり、戦勝祈願をした伝えられています。江戸幕府三代将軍の徳川家光は、寺社奉行井上正利をして社殿を造営し、 慶安2年に朱印領六石を寄進。以降幕末まで歴代将...

  • 源頼朝の奥州征伐(3)石浜神社 

    荒川区南千住にある神社の紹介です。白髭橋から隅田川に沿って北に歩くと、石浜神社の鳥居が見えてきます。神社の由緒書きによると、 文治5年(1189)、源頼朝の奥州征討に際しての社殿の寄進、弘安4年(1281)、蒙古襲来の折、必勝を祈念しての、鎌倉将軍家お取り次ぎによる官幣(かんぺい:天皇から神に捧げる礼物)のご奉納などを経て、中世初めには大社としての発展を見ました。殊に、千葉氏、宇都宮氏などの関東武将の信仰は...

  • 源頼朝の奥州征伐(2)駒繋神社

    東京都世田谷区下馬にある駒繋神社駒繋橋創建年代は不詳ですが、天喜4年(1056年)源義家と父・頼義が、奥州の安部氏征討に向かう途中、戦勝祈願したとされています。また源頼朝が奥州の藤原泰衡征伐の際にも、松の木に駒を繋いで戦勝祈願したと伝えられています。 世田谷区のHPに「馬引沢」「下馬」の地名と芦毛塚の由来が紹介されています。ずっと古く文治5年(1189年)に源頼朝が藤原泰衡を討伐するために鎌倉を出発して、奥州...

  • 源頼朝の奥州征伐(1)願成就院 その壱

    願成就院は、『吾妻鏡』によると、文治5年(1189年)に北条政子の父親で、鎌倉幕府初代執権であった北条時政が、娘婿の源頼朝の奥州討伐の戦勝祈願のため建立したといいますが、寺に残る運慶作の諸仏は、文治2年(1186年)から造り始められていることから、北条氏の氏寺として創建されたものと考えられています。大御堂その後、北条義時や北条泰時によって堂塔が整備され、巨大な池とその中の小島を橋でつなぎ、多くの堂宇や塔がそ...

  • 藤沢を訪ねて(4)常光寺の弁慶塚

    藤沢本町駅から歩いて10分ほどのところの常光寺というお寺の裏山に、弁慶を供養したという「弁慶塚」が庚申塔とともにあります。弁慶塚と書かれているようですが、石の表面が削られていてはっきり見えませんでした。画像で確認できるでしょうか。なぜここに弁慶が祭られたのか?ここには以前、八王子権現社という白旗神社(義経を祭る)の末社がここにあったことから、弁慶塚が残されているようです。「義経 弁慶と五条の橋で戦ふ...

  • 藤沢を訪ねて(3)義経のご位牌が祀られている荘厳寺

    義経公首洗井戸から歩いて数分のところに荘厳寺というお寺があります。荘厳寺は、1184年に覚憲和尚により創建され、一時荒廃してしまったが、1235年に覚盛上人により再興された。その後、火災により1747年、白旗神社隣に移転し、白幡神社の別当寺となったが、明治に入り神仏分離令により分けられ、現在の地に移った。こちらには義経のご位牌が祀られています。荘厳寺に祀られている源義経の御位牌は、1832年に宥全和尚によって作ら...

  • 藤沢を訪ねて(2)義経首洗井戸~義経の首塚

    白旗交差点近くのマンションの前に「伝源義経首洗井戸」の立て札があります。この立て札と交番の間の道を入ったところに小さな公園があり、その一角に「義経首洗井戸」がありました。井戸の脇には「九郎尊神」という文字が刻まれています。腰越の浦で首実験された源義経の首は浜に捨てられましたが、その首は金色の亀の背に乗って境川を上り、藤沢の里人によってこの井戸で清められ、葬られたと伝えられています。 以前は首洗井戸...

  • 藤沢を訪ねて(1) 源義経を祀る白旗神社

    藤沢の 白旗神社は、古くは寒川神社とよばれていました。吾妻鏡によると、源義経の首は奥州から鎌倉へ送られ、腰越において和田義盛、梶原景時らによって首実験が行われました。伝承では同時に弁慶の首も送られ、首実験がなされ、夜の間に二つの首がこの神社に飛んできたといいます。このことを源頼朝に伝えると、白旗明神としてこの神社に祀るようにとのことで、義経公を御祭神として後に白旗神社とよばれるようになりました。一...

  • 義経の第二の古郷・平泉(2)中尊寺

    次に向かったのは中尊寺です。中尊寺は東北大本山。山号を関山といい、慈覚大師によって開かれました。入り口から続く月見坂の両側には、歴代の藩主によって植えられた杉が鬱蒼と茂っています。(この坂は登り始めから急で、相当疲れます。)急な坂を上ると、左手に弁慶堂があります。中には弁慶と義経の木像が飾られていました。きつい坂を上り終えると視界が急にぱっと開ける場所があります。そこが東物見台です。ここからは束稲...

  • 義経の第二の古郷・平泉(1)毛越寺~中尊寺

    2005年のことになりますが、奥州平泉まで義経の跡を追って行きました。平泉駅前から出ている巡回バス「るんるんバス」を利用。一日フリー乗車券なら何回乗っても450円という便利でお得なバスです。※当時は、たったの300円でした(;'∀')時代の移り変わりを感じます。「るんるんバス」については、こちらをご覧ください。   ↓http://iwatekenkotsu.co.jp/runrun_0419.htmlコースは毛越寺(もうつうじ)からスタート。毛越寺は奥州...

  • 義経最期の地・平泉「高館の義経堂」

    源義経最期の地、岩手県平泉の高館高館は、北上川や束稲山(たばしねやま)、衣川を望むことが出来る眺望が素晴らしい所です。義経堂ここは源頼朝に追われ、藤原秀衡を頼って再び平泉に戻ってきた義経の居館があった所といわれ、藤原泰衡に襲われ妻子とともに自害したのもこの地と伝えられています。また衣川の流域は、弁慶立ち往生の故事でも知られています。この義経像は、堂創建時に製作されたもので、頭部と兜が別作りである、...

  • 義経の逃避行(5)安宅の関~如意の渡し

    義経の逃走ルートを追って、石川県小松市の「安宅の関」にやって来ました。兄の源頼朝に追われる立場となった源義経は、かつて世話になった奥州・平泉の藤原氏を頼ろうと旅立つが、これを捕らえようと頼朝は各地に関所を設けた。1187年、山伏姿に変装した義経主従一行は安宅の関に到着。怪しいと感じた安宅の関守・富樫康家は東大寺復興勧進のため諸国を廻っているという弁慶に勧進帳を読ませる。何も書かれていない勧進帳を弁慶は...

  • 義経の逃避行(4)義経隠れ岩

    10年以上前のことになりますが、源義経の逃避行ルートを追って、滋賀県高島市を訪ねました。JRマキノ駅からタクシーで義経隠れ岩へ海外沿いを走ること10分、約2mほどの岩が見えてきます。この場所は、ガイドブックにも載っていなかったので、高島観光協会で地図をもらって、運転手さんに渡して連れて行ってもらいました。「義経の隠れ岩」(伝承)と言われている2メートル四方、高さ1.7メートル程の、かがんで人が隠れることが...

  • 義経の逃避行(3)吉水神社

    ここ吉水神社は、元は吉水院(きっすいいん)という金峯山寺の僧坊で、源頼朝に追われたました源義経が、弁慶や静御前と潜んだとされていいます。花見客の多い4月、吉水神社には義経や静御前ゆかりの品が展示されていました。義経の鞍義経の鐙義経の書義経の色々威腹巻義経潜居の間「義経潜居の間」の隣には一畳の「弁慶思案の間」があります。ここで彼らはこの先の逃亡のルートを考えていたのでしょうか。静御前の舞の衣や鎧。(...

  • 義経の逃避行(2)義経隠れ塔~静の舞

    2006年4月の中旬、桜で有名な吉野山へ向かいました。近鉄吉野からバスで奥千本へ。行きはバス、帰りは下り坂をのんびり歩くルートを選び、金峯神社から史跡巡りの開始。金峯神社は吉野山のもっとも奥にある修験道の修行場。この辺りから道が険しくなると聞いていましたが、やはりこの参道の上り坂は結構きつかったです(;'∀')金峯神社は、吉野山の地主神であり、金鉱の守り神でもある金山毘古命を祀っています。金峯神社の冠木門(...

  • 義経の逃避行(1)大物主神社「義経弁慶隠家跡」

    2011年のことになりますが、尼崎の大物主神社を訪ねました。尼崎という地名は、平安時代の末から鎌倉時代初めに書かれた史料に、「尼崎浜は大物の南、河を隔て、久安以後の新出地なり」と記されていて、尼崎は久安年間(1145~51)頃に形成された土地なのだそうです。尼崎の「あま」は、今では海に潜って貝などを採る女性を指しますが、古代・中世においては、漁民・海民を意味していました。また、崎(さき)は岬同様、海に突き出...

  • 若宮八幡宮

    京都市下京区堀川六条周辺には源義朝の屋敷がありました。義朝の三代前に当たる河内源氏初代・源頼信の嫡男で、河内源氏二代目・源頼義が邸宅を構えたとされています。若宮八幡宮は、後冷泉天皇の勅令で、源頼義が創建し、女牛井八幡とも呼ばれ、長年にわたり源氏の崇拝を受けました。周辺には六条堀川館があり、京に入った源義経もその邸宅を宿としたそうです。 若宮八幡宮は、慶長10年(1605)東山五条坂へ移転しましたが、もと...

  • 土佐坊昌俊邸跡と堀川夜討

    鎌倉の小町大路沿いに土佐坊昌俊邸跡の石碑が建っています。源頼朝と弟の源義経が対立した文治元年(1185年)、頼朝は義経を討つべく御家人達を召集したところ、名乗り出る者がおらず、土佐坊昌俊が進んで引き受けて頼朝を喜ばせたといいます。頼朝から京都・堀川にいる義経を討つことを命じられた昌俊は、出発前に頼朝に面会し、自分にもしものことがあったら、下野に残してきた年老いた母と子供たちに情けをかけて欲しいといったと...

  • 金王丸こと土佐坊昌俊ゆかりの金王八幡宮

    JR渋谷駅東口から歩いて10分ほどのところにある金王八幡宮平安時代、渋谷氏の祖・河崎基家と源義家が八幡宮を創建し、その一帯に1092年、基家の息子の重家が渋谷城を築城しました。重家は、京都の御所に侵入した賊を捕らえた褒美に堀河天皇から渋谷の姓をもらったことから渋谷の地名がうまれたとされています。また重家が八幡神に祈願して嫡男・金王丸を授かったことから金王八幡の名がおこったといいます。金王丸は17歳の時、源...

  • 源氏の館 左女牛井之跡

    左女牛井は、京の名水として源頼義がこの地に築いた源氏の館、六条堀川館内に引き込まれていました。平治の乱で平家に焼かれ、後に源義経が再建しました。堀川御所とも呼ばれ、義経はここで静御前と暮らしていたといいます。また、土佐坊昌俊が堀川夜討ちした屋敷跡でもあります。義経が京を去ってからは荒廃し、現在は、京都市下京区六条堀川の京都東急ホテルの横に石碑のみがたっています。左女牛井之跡源義経堀川御所用水と称え...

  • 平重衡の墓

    1180年12月、平清盛は五男の平重衡に南都攻略を命じました。そこには、南都が反平家勢力の拠点であったこと、奈良の僧兵が以仁王の謀反に手を貸していたという背景がありました。夜戦のため、民家に火を放ったところ、風に煽られて火が興福寺に燃え移り、さらに東大寺まで広がり、庶民が逃げこんだ大仏殿までもが炎に包まれてしまいました。興福寺東大寺大仏殿南都焼き討ち後、1181年、清盛は亡くなり、平家は都落ちをします。1184...

  • 平清宗の胴塚・清宗塚

    草津市野路の民家の庭に、平清宗の胴塚と伝える石塔があり、保存供養されています。          平清宗 平安後期の公卿、平宗盛の長男、母は兵部権大輔平時宗の娘。後白河上皇の寵愛をうけ、三才で元服して寿永二年には正三位侍従右衛門督であった。源平の合戦により、一門と都落ち、文治元年壇ノ浦の戦いで父宗盛と共に生虜となる。 「吾妻鏡」に「至野路口以堀弥太郎景光。梟前右金吾清宗」とあり、当家では代々胴塚と...

  • 平家終焉の地・宗盛塚

    滋賀県野洲町大篠原は、平家終焉の地であります。国道8号線から一歩細い道を入った奥に、ひっそりと墓標が立っています。壇ノ浦で、平家一門を倒した源義経は、平宗盛・清宗父子を捕らえ、頼朝に報告するため、鎌倉へ向かいますが、手前の腰越で留められてしまいます。鎌倉入りを許されず、京に戻る途中、源頼朝の命により、宗盛父子を斬首。鏡の宿を過ぎたここ篠原が平家終焉の地になりました。義経は、元服後も何度か「鏡の宿」...

  • 義経が腰越状を書いた満福寺

    江ノ電の線路を渡り、民家の前の道を通り過ぎると、満福寺に続く階段が見えてきます。階段を上がると、すぐに本堂が見えます。満福寺は、天平16年(744年)に行基が開山したとされています。元暦2年(1185年)5月、源義経が、兄の源頼朝に怒りを買い、鎌倉入りを許されず、腰越の地に留められた際に、頼朝に心情を訴える腰越状を書いた寺として知られています。本堂に向かって右手に弁慶の腰掛石、左手には義経公慰霊碑と弁慶の手...

  • 壇ノ浦の戦い(5)赤間神宮小門御旅所

    下関市伊崎町に赤間神宮小門御旅所があります。寿永4年(1185)3月24日、伊崎の中島組という漁業団が網を張って小門(おど)海峡で漁をしていた時、壇ノ浦で入水した安徳天皇のご遺体がいわし網にかかり、中島家がご遺体を陸上に引き揚げて安置した場所が「御旅所」であり、紅石山の麓に手厚く葬ったのが現在の安徳天皇阿弥陀寺陵であると伝えられています。 「先帝祭上臈参拝」の翌日(5月4日)、赤間神宮を出発してこの小門の御...

  • 壇ノ浦の戦い(4)安徳天皇阿弥陀寺陵~赤間神宮小門御旅所

    下関の赤間神宮境内に、安徳天皇を祀った安徳天皇阿弥陀寺陵があります。壇ノ浦の戦いの1年後、安徳天皇の怨霊を鎮めるため源頼朝の命により阿弥陀寺御影堂が建てられた。御影堂(天皇殿)が安徳天皇社であり、京都方面を向いた東向きで造立された。『玉葉』によると、後鳥羽天皇の時代に長門国に安徳天皇の怨霊鎮慰のため、一堂が建立されている。阿弥陀寺は天皇怨霊鎮慰のため、まず木彫の等身大尊像が刻まれ、本殿の中心に厨子...

  • 壇ノ浦の戦い(3)赤間神宮

    壇ノ浦の合戦から間もなく、安徳帝が沈んだ関門海峡のほとりに阿弥陀寺というお寺が建てられましたたが、明治になって赤間神宮となり、安徳天皇を祭神としています 。 海に沈んだ安徳帝を祀る本殿は、竜宮を表しています。「源平盛衰記」によると、後白河天皇から海に沈んだ三種の神器のひとつである宝剣を探すように命じられた義経は海人に潜らせて探させたが見つからず、次のように報告しました。海底には龍宮城があり、その奥に...

  • 壇ノ浦の戦い(2)

    壇ノ浦の戦いは、寿永4年3月24日(1185年4月25日)に壇ノ浦(山口県下関市)で行われた治承・寿永の乱の最後の戦いです。源氏軍の大将・源義経は、800艘の船団を編成、対する平家軍は、平知盛を総大将に、500艘の船団を編成。関門海峡の西側の彦島に陣を張りました。海上戦が得意な平家軍は、戦の序盤は、平家優勢で進んでいました。この時、関門海峡の潮の流れは、平家側から源氏側に流れていて、源氏軍を満珠島・干珠島付近まで...

  • 壇ノ浦の戦い(1)大歳神社 義経の勝守

    JR下関駅から徒歩4分の大歳神社104段の階段を上ると本殿が見えてきます。 昔はここから海を一望できたそうです。当社は、源義経が必勝祈願をした地に建てられたという神社で有名です。義経は有明山に富士の小松を植え、富士浅間の大歳神を祀り、弓矢を神前に捧げた。その後、祈念を注いだ桑の弓矢を平知盛の率いる平家軍に射込んだために、驚いた平家軍は壇ノ浦に進んだが、源範頼軍と義経軍との挟み撃ちに合い、滅亡したという。...

  • 屋島の戦い(3)那須与一の扇の的

    屋島の談古嶺からは、源平古戦場「檀の浦」、那須与一の扇の的、義経の弓流し、平家軍の泊地の船隠しなどの史跡を一望できます。やがて、源氏軍が意外に少数と知った平氏軍は、船を屋島・庵治半島の岸に寄せて激しい矢戦を仕掛けてきた。『平家物語』によれば、平氏の猛攻に義経の身も危うくなるが、郎党の佐藤継信が義経の盾となり平氏随一の剛勇平教経に射られて討ち死にした。継信の墓は庵治半島側の牟礼町洲崎寺に、また激戦の...

  • 屋島の戦い(2)屋島寺~獅子の霊厳展望台

    一ノ谷の合戦後、屋島に逃げ延びた平家に対し、京に残った源義経は、頼朝から平家追討の総大将に任じられました。戦いの経過(Wikioediaより)寿永4年(1184)2月、暴風雨の中、義経は周囲の反対を押しのけ、摂津国・渡辺津から阿波まで、通常3日かかる航路を、4時間で走破し、勝浦から屋島の平家軍を急襲しました。2月18日午前2時、暴風雨のために諸将は出航を見合わせ、船頭らも暴風を恐れて出港を拒んだが、義経は郎党に命じて弓で...

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