一条戻り橋から東へ90m。南北に伸びる道を小町通といいます。一条通堀川東入二筋目西北角に「小野小町双紙洗水遺跡」の石碑があります。かなり背の低い石碑な上、植木に隠れていたので、場所がわからず、何度も通り過ぎてしまいまました(..;)正面には「小町通」、側面に「小野小町双紙洗水遺跡」の文字が刻まれています。かつてこの地で、小野小町と大伴黒主との歌合せが行われました。狩野探幽『三十六歌仙額』対戦相手の大友黒主...
大河ドラマのゆかりの地の紹介、歴旅の記録をアップしています。今年のテーマは、「光る君へ」「どうする家康」京都の寺社巡り
一条戻り橋から東へ90m。南北に伸びる道を小町通といいます。一条通堀川東入二筋目西北角に「小野小町双紙洗水遺跡」の石碑があります。かなり背の低い石碑な上、植木に隠れていたので、場所がわからず、何度も通り過ぎてしまいまました(..;)正面には「小町通」、側面に「小野小町双紙洗水遺跡」の文字が刻まれています。かつてこの地で、小野小町と大伴黒主との歌合せが行われました。狩野探幽『三十六歌仙額』対戦相手の大友黒主...
京都市中京区の頂法寺は、本堂の形が六角形であることから六角堂と呼ばれています。聖徳太子の創建と伝わりますが、その名が現れるのは平安中期以降で、藤原道長の日記『御堂関白記』に「六角小路」の表記があり、藤原実資の『小右記』にも六角堂への参詣が何度か登場します。六角堂京都市中京区にある天台宗の寺。本堂が六角形なので六角堂と通称されるが,正称は紫雲山頂法(ちようほう)寺。西国三十三所観音霊場の第18番札所。...
地域タグ:京都市
平野神社の桜花祭の起源は、花山天皇が後胤繁栄(こういんはんえい)を祈るため、平野神社へ行幸、臨時の勅祭を行われたことが起源と言われています。毎年4月10日に行われ、午前10時より桜花祭、午前11時に花山天皇陵に参拝し、午前12時に神幸列発輿祭が斎行され、午後1時に約200名の時代行列が氏子地域を巡行します。にほんブログ村 歴史ブログランキングに参加しています。応援よろしくお願いします!にほんブログ村歴女日...
平野神社に珍種が多いのは、臣籍降下した氏族の氏神でもあったことから、蘇り、生産繁栄を願い各公家伝来の家の標となる桜を奉納したからと伝えられています。現在では、約60種400本の桜の木があり、約一カ月にわたって桜を順々に観賞することが出来ます。おけさ一葉衣笠寒羽根桜胡蝶大内山白雲白妙八重紅枝垂平野妹背(ひらのいもせ)有明緑桜鬱金にほんブログ村 歴史ブログランキングに参加しています。応援よろしくお願いします...
地域タグ:京都市
毎年、春になると、桜で有名な京都の平野神社を訪ねます。桜は生命力を高める象徴として、平野神社では平安時代より植樹されました。花山天皇が寛和元年(985年)に手植えして以来の桜の名所とされています。江戸時代には「平野の夜桜」として知られました。魁(さきがけ)桜平野神社発祥の桜で早咲きの品種であることから、この桜が咲き出すと都のお花見が始まると言われています。平野神社は794年(延暦13年)、平安遷都の際桓武...
地域タグ:京都市
京都市山科区北花山河原町にある元慶寺は、貞観10年(868年)に貞明親王(陽成天皇)を産んだ藤原高子の発願により、定額寺として建立されました。開山は六歌仙の一人である僧正遍昭。山門元慶元年(877年)に陽成天皇の勅願寺となり、元慶寺と改めたとされています。本堂寛和2年(986年)、花山天皇がこの寺で藤原兼家、道兼父子の策略により出家させられ、兼家の外孫である懐仁親王(一条天皇)が帝位につくという寛和の変が起こ...
地域タグ:京都市
晴明神社の本殿安倍晴明が祀られています。現在の本殿は、明治38年に建てられたもので、晴明桔梗が随所にあしらわれています。境内社 齋(いつき)稲荷社、天満社、地主社晴明は、お稲荷さまの生まれ変わりとする説があり、各地で稲荷信仰と習合されます。齋(いつき)は、このお稲荷さまが、齋院(さいいん)にあったことに由来します。厄除桃古来、中国また陰陽道では、桃は魔除け・厄除けの果物といわれ、『古事記』や『日本書紀...
地域タグ:京都市
晴明神社の二の鳥居四神門(しじんもん)は、晴明神社の塀重門です。晴明が住んでいた当時、朝廷の使いなどが訪れると、この門がひとりでに開き、門から出るとまたひとりでに閉まったそうです。現在でも、それにちなみ、電動で開閉します。石柱の上には、四神(東の青龍・南の朱雀・西の白虎・北の玄武)が掲げられています。千利休の聚楽屋敷趾江戸時代の茶書によると、当社の境内に当たる「葭屋町通元誓願寺下ル町」に、千利休の...
地域タグ:京都市
京都市上京区晴明町にある晴明神社は、平安時代中期の天文学者である安倍晴明をお祀する神社です。一条戻橋のたもとにあった晴明の屋敷跡に鎮座しています。寛弘2年(1005年)に晴明が亡くなると、一条天皇は晴明の遺業を賛え、晴明は稲荷神の生まれ変わりであるとして、寛弘4年(1007年)、晴明の屋敷跡に晴明を祀る神社を創建しました。創建当時の晴明神社は、東は堀川通、西は黒門通、北は元誓願寺通、南は中立売通まであり、か...
地域タグ:京都市
梨木神社の境内は、平安時代は藤原良房の娘染殿后の里御所・染殿第でしたが、明治18年(1885)久邇宮朝彦親王の発議により、三条家の邸宅跡に三条実万を祀るため社殿が造営されました。1885年(明治18年)10月10日、社号は地名から梨木神社とされ、さらに別格官幣社の列格を受けて創建され、その後1915年(大正4年)、大正天皇即位を記念して、子の三条実美を合祀しました。三条実美(さんじょうさねとみ)幕末~明治前期の尊攘派公...
鳥辺野(とりべの)は、京都市東山区の阿弥陀ヶ峰(鳥辺山)を中心に西方に広がる山麓一帯を指します。北辺は清水寺南、西大谷を含む辺りから、南辺の今熊野観音寺北、一条天皇皇后定子陵のある鳥戸野陵に至る地域を総称し、鳥部野、鳥戸野とも。平安時代以来、葬送の地として『源氏物語』や『徒然草』に登場し、藤原道長をはじめ、藤原一族も同地で荼毘に付されたといいます。藤原道長『紫式部日記絵巻』より「東の鳥辺野」、「西...
地域タグ:京都市
東寺の西側に残る羅城門跡です。現在は、小さな公園となっており、その中に石碑が立っています。 794年(延暦13)に建設した平安京の正門に当たります。 当時は、東西4.5キロ、南北5.3キロの京域中央部の南端に羅城門がそびえ、北端の朱雀門と相対していたそうです。門は正面33メートル、奥行8メートル。以前、ここを訪れた時は、 「この地は平安京の昔、都の中央を貫通する朱雀大路(今の千本通にあたる)と九条通の交差点にあた...
地域タグ:京都市
二条駅から徒歩5分ほどのところに、平安宮の朱雀門跡の碑と案内板があります。平安宮 朱雀門跡朱雀門(すざくもん)は、平安宮(大内裏)の南面大垣中央に設けられた宮城門である。柱間は7間(梁間2間)、中央5間に扉が付く二階門で、宮城12門の中でも最も規模が大きい。朱雀大路に面する平安宮の正門であり、南は平安京の朱雀大路南端にあった羅城門、北は宮城内の応天門や大極殿と一直線上に並んでいる。平安時代の終わりころ頃に描...
地域タグ:京都市
木之本の大澤寺から観音寺へ。通称「黒田観音寺」と呼ばれ、本尊は平安時代初期に行基によって作られたと伝わる木像千手観世音菩薩です。(最澄の作という伝承もあります。)そのお姿には、准胝観音の特徴が見られます。一時期は荒廃しましたが、この観音様を見た高僧がお堂の修復に力を貸し、この地の豪族・黒田家の祖先が多額の浄財を寄進し、観音寺は復興されました。境内にある二基の石塔は、黒田家の祖先・宗清の墓であると言...
地域タグ:長浜市
木ノ本の樹徳寺には、黒田氏歴代の墓石と、黒田官兵衛の肖像画の掛け軸が収められています。樹徳寺は、もともとは木之本町黒田地区にあり、官兵衛の祖先といわれている黒田氏が黒田に居住していた頃の菩提寺でした。明治11年に黒田から田居集落に移り、昭和33年に本堂が建てられていました。黒田氏歴代の墓石官兵衛の衣冠束帯姿の肖像画としては日本に唯一のものだそうです。(木之本地蔵院の書院に展示されていたパネルを撮影した...
地域タグ:長浜市
木之本駅から歩いて約5分の浄信寺は、通称「木之本地蔵院」と呼ばれています。本尊は地蔵菩薩(秘仏)。境内には秘仏本尊の写しである高さ約6メートルの地蔵菩薩大銅像があり、これは日本三大地蔵の一つとされ、眼の地蔵菩薩として信仰を集めています。地蔵菩薩大銅像身代わり蛙片目をつぶった蛙がずらり・・・天武天皇の時代、難波浦(大阪府)に金光を放つ地蔵菩薩像が漂着し、これを祀った金光寺を難波の地に建てたのが始まりで...
地域タグ:長浜市
美福通リの朱雀高校の塀に平安宮式部省跡の案内板があります。式部省は平安宮(大内裏)の正門である朱雀門を入ったすぐ東側にあって、西側の対象位置には、武官の人事を担当する兵部省がある。国家の重要な省庁である八省(中務・式部・治部・大蔵・刑部・宮内・兵部・民部の各省)の1つで、政務や事務を担当する文官の人事を担当する重要な役所であった。文官の養成、勤務評価、賞罰のほか、朝廷内での儀式を監督することから、長官...
地域タグ:京都市
JR二条駅から徒歩5分、中京区西ノ京北聖町にある大学寮跡。大学寮(だいがくりょう)は、式部省に所属した官僚育成のために設けられた高等教育機関です。官僚の候補生である学生に対する教育と試験及び儒教における重要儀式である釋奠を行いました。日本古代の令制官司の一つ。天智朝にその起源があり,大宝令によって確立した。大学とは律令制の最高の学校であり,また官人の養成機関であった。式部省の管轄下にあり,その事務官...
名和児童公園の前に一条院跡の碑があります。一条院跡は、もと藤原伊尹(これただ)の邸宅で、その異母弟為光から藤原詮子に伝えられ、のち一条天皇・後一条天皇・後朱雀天皇・後冷泉天皇の里内裏となりました。紫式部が仕えた中宮彰子が住んだとされる一条天皇の里内裏であり、紫式部が「紫式部日記」に書いている内裏は、この一条院内裏を指しているそうです。一条院は、平安宮の北東に隣接した邸宅で、一条天皇の里内裏として有...
一条通沿いの民家の前に、平安京一条大路跡の案内板があります。一条通(いちじょうどおり)は京都市の主要な東西の通りの一つ。平安京の一条大路(いちじょうおおじ)にあたる。東端は烏丸通。西は右京区花園付近までだが、さらに西に延長して嵯峨野の清凉寺(嵯峨釈迦堂)までを一条通と呼ぶこともある。また宇多野で分岐して周山街道にも通じている。(Wikipediaより) 平安京北端の一条大路は、北極大路の名もあり、道幅は10丈...
地域タグ:京都市
上京区大黒町の猪熊通に平安創始待賢門跡の碑があります。待賢門(たいけんもん)は、平安京大内裏の外郭十二門のひとつである。左衛門府が警固を担当した。平城宮跡 建部門大内裏の東面、郁芳門の北、陽明門の南。大宮大路に面し、中御門大路に向かう。大きさは5間、戸3間だった。延暦13年(794年)、宮城経営のとき播磨国が造営し、建部氏がこれを監したことがその名称の由来(たけるべ → たいけん)。当初は「建部門」といった...
地域タグ:京都市
平安京の内裏跡(20)平安宮内裏凝華舎(梅壺)跡・飛香舎(藤壺)跡
土屋町通に平安宮内裏凝華舎(ぎょうかしゃ)(梅壺)跡・飛香舎(ひぎょうしゃ)(藤壺)跡の案内板があります。内裏の後宮七殿五舎の一つ。南庭(壺)に紅白の梅を植えていたので梅壺と呼ばれた。東宮(皇太子)の居所に使われたこともある。 母屋は東西五間、南北二間で四方に庇、東西は孫庇を持ち、周囲は簀子(すのこ)がめぐっていた。 梅壺女御としては円融天皇妃で一条天皇生母の藤原詮子(東三条院、藤原道長の姉)が有名。『源氏...
地域タグ:京都市
京都市中京区押小路通釜座西北角に「東三条院址」の碑があります。 東三条院とも。藤原良房の邸宅に始まり、忠平を経て藤原兼家へ伝えられました。入内した娘たちの里邸となり、親王の養育も行われ、里内裏としても用いられました。 兼家のあと藤原詮子(東三条院詮子)を経て藤原道長が所有し、道長から頼通へ伝えられました。 その後、焼失・再建を繰り返しながら藤原氏代々の氏長者に伝わり、立后・大饗などの儀式もここで行わ...
地域タグ:京都市
周防国衙跡は、周防国の行政を司る役所(国府)が置かれたところです。佐波神社を参拝した後、偶然、周防国衙跡西北隅の前を通り掛かったので撮影しました。周防国衙跡(すおうこくがあと)は、山口県防府市国衙1 - 3・5丁目、警固町2丁目、勝間3丁目ほかに所在する、律令制下の地方行政関連施設跡である。1937年(昭和12年)6月1日に国の史跡に指定される。発掘調査は1961年(昭和36年) - 1964年(昭和39年)を第1次調査として、...
地域タグ:防府市
春風楼文政5年(1822)10代藩主・毛利斎煕は、五重塔の建立を発願し、地鎮供養の祈祷、釿始めの儀も済ませたのですが、天保2年(1831)不慮の支障に遭い、一時工事を中止します。天保10年(1839)工事を再開しますが、幕末の混乱で、五重塔は未建のままに幻の塔となり、明治の廃藩に至りました。明治6年(1873)に天満宮は塔の設計を断念し、文政着工の当時に造作した塔の一層部分軒下の組物をそのまま床下に組み入れた楼閣様式重層のお籠...
地域タグ:防府市
現存する防府天満宮の社殿は昭和27年(1952)に火災で焼失した後に再建されたもので、本殿・幣殿・拝殿は、昭和30年から33年にかけての建築です。木造、銅板葺。LOVE神社の石碑大病に冒された市内在住のご夫妻が、元気に回復した感謝の気持ちを込めて、平成十九年に奉納。宝物館では、企画展「楫取素彦と天満宮」が開催されていました。菅公廟の碑野村望東尼の像と歌碑 野村望東尼の像野村望東尼献歌碑 にほんブログ村 歴史ブログ...
地域タグ:防府市
清少納言の父親は、三十六歌仙の一人、清原元輔(きよはらのもとすけ)です。清原元輔(狩野安信『三十六歌仙額』)清少納言という名前は、宮中での女房名で、「清」は父親の清原姓に由来するとされています。天延2年(974年)元輔は周防守に任ぜられ、平安京から現在の山口県防府(ほうふ)市に移ってきました。清少納言も父とともにやって来て、少女時代を防府で過ごしたといわれています。防府天満宮は、学問の神様、菅原道真公...
地域タグ:防府市
ここから鞍馬寺の奥の院の参道に入っていきます。義経息次ぎの水は、牛若丸が天狗に兵法を習うために深夜、独りで奥の院道を急ぎ、途中で息つぎのために湧水を飲んだ場所とされています。義経息次ぎの水牛若丸が、毎夜奥の院僧正が谷へ剣術の修行に通ったとき、この清水を汲んで喉を潤したといわれる。800余年後の今も湧き続けている。義経背比べ石平家が父の仇であることを知った牛若は奥州平泉の藤原秀衡を頼って鞍馬寺を出奔。...
地域タグ:京都市
鞍馬寺は、『源氏物語』の第五帖「若紫」で、光源氏が若紫(後の妻・紫の上)と出会った北山の“なにがし寺”とされています。若紫(わかむらさき)は、『源氏物語』五十四帖の巻名のひとつ。第5帖。巻名は、一般的には「この巻で幼い日の紫の上を描いていることからこの巻を若紫と呼ぶ」とされるが、「若紫」という言葉そのものは含んでいないものの、光源氏の歌「手に摘みていつしかも見む紫のねにかよひける野辺の若草」によるとさ...
地域タグ:京都市
紅葉がデザインされたラッピング電車に乗って、紅葉で賑わう洛北の地鞍馬へ。鞍馬駅待合室内には、京都三大奇祭のひとつ「鞍馬の火祭」で使用されている中松明(ちゅうたいまつ)が展示されています。長さ3.5m、重さ60キロとはかなり長くて重いのですね( ゚Д゚)鞍馬といえば、天狗2019年10月18日、叡山電鉄鞍馬駅前に2代目となる大天狗の像が叡山電鉄の開通90周年を機に登場しました。顔の大きさは縦1.8メートル、横1.6メートル。鼻...
地域タグ:京都市
桜宮神社の鳥居の横に平安宮采女町跡(うねめまちあと)の案内板があります。 平安宮采女町跡 天皇の居所である内裏の西北にあった采女町は、主に天皇の食膳の給仕を職掌とした女官が伺候する所で、西隣には天皇の食膳を調理をする内膳司がった。采女の制度は、古墳時代後期頃、地方豪族が朝廷への服属の証として自らの子女を出仕させたことに始まり、7世紀の律令制の確立によって采女の身分や法的な整備がなされた。 平安時代に...
地域タグ:京都市
平安京の内裏跡(18)平安宮内裏蘭林坊跡・聚楽城武家地豊臣秀勝邸跡
平安京大内裏の蘭林坊(らんりんぼう)があったところ(上京区土屋町通出水上る東側)は、豊臣秀吉の聚楽第があった時代には、豊臣秀勝の邸宅があったと推定されています。蘭林坊とは、平安京内裏の北西部、朔平門と式乾門との間にある建物です。宮中の御物、御書などを納める所で、内に御書所・絵所が置かれていました。聚楽城武家地豊臣秀勝邸跡伝承地このあたり一帯は、古代において、平安京大内裏(平安宮)のうち、天皇の住まいだ...
地域タグ:京都市
出水通の「体験工房 雄彩」の前に、平安宮内裏淑景舎(桐壺)跡の案内板があります。淑景舎(しげいしゃ・しげいさ)とは、平安御所の後宮の七殿五舎のうちの一つ。庭に桐が植えてあることから桐壺(きりつぼ)の別名がある。内裏の北東に位置し、南北二棟がある。(北は淑景北舎) 宣耀殿の東、昭陽舎の北。天皇の住まう清涼殿から最も遠い位置にあり、また、清涼殿に向かう際もほかの殿舎の前を通る渡り廊下を通らねばならないなど...
地域タグ:京都市
雅楽は、5世紀から9世紀にかけ、大陸からもたらされた楽器演奏と舞に日本古来の歌や舞が融合して、平安時代に完成したといいます。管楽器、打楽器、弦楽器で編成され、貴族たちの優雅な遊びとして、合奏する様子が源氏物語にも描かれています。(「光る君へ」紀行より)京都においては、市比賣神社の宮司故飛騨邦冨(ひだくにとみ)氏が雅楽を教え始め、文化的遺産として雅楽を研究し、継承を始めました。「いちひめ雅楽会」は、雅...
地域タグ:浜松市
京都市下京区河原町五条に鎮座する市比賣(いちひめ)神社は、当社のご創建は、桓武天皇の御代延暦14年(795)に、京都の左右両市場の守護神として、当時の左大臣・藤原冬嗣が両市社領内の堀川の西、七条の北(現在の西本願寺)に坊弐町をかこい、勅を奉じて勧請された社と伝わります。天正19年(1591)豊臣秀吉の時代、現在の地に移転鎮座されました。 祭神として、市寸嶋比賣命(いちきしまひめのみこと)・多紀理比賣(たぎりひ...
地域タグ:京都市
京都の一条戻橋から東へ50mほど行ったところに、聚楽城 加藤清正邸の案内板があります。当地は平安京の左京北辺二坊五町にあたり、「蜻蛉日記」の著者・藤原道綱母が住まいした平安時代の一条邸跡とされています。藤原道綱母(ふじわらのみちつなのはは)平安中期の歌人。父は正四位下藤原倫寧(ともやす)、母は『尊卑分脈(そんぴぶんみゃく)』などに刑部大輔(ぎょうぶのだいぶ)源認(みとむ)の女(むすめ)とするが、通説は主殿頭(との...
地域タグ:京都市
清涼殿跡の向かい側に、平安宮内裏弘徽殿跡の碑があります。弘徽殿(こきでん)とは、平安御所の後宮の七殿五舎のうちの一つであり、弘徽殿を賜った后妃の称としても使われます。清涼殿北側に位置する七間四面の建物で後宮で最も格の高い殿舎であった。皇后・中宮・女御などが居住した。天徳4年(960年)の火災で焼失し、河内国司によって再建された。しかし正暦5年(994年)と長保元年(999年)にも焼失している[1]。再建後、弘徽...
地域タグ:京都市
承香殿跡から30mほど西に行くと、平安宮内裏清涼殿跡の案内板があります。平安京の内裏のうち,天皇の日常の居所。南東に紫宸殿,南に校書 (きょうしょ) 殿,東に仁寿殿 (じじゅうでん) がある。東面して建てられ,天皇の日中の御座所である昼御座 (ひのおまし) や寝所の夜御殿 (よるのおとど) ,朝餉 (あさがれい) の間などがある。天皇は清涼殿で,四方拝,小朝拝,叙位,除目 (じもく) などの公事を行なった。(コトバンクより)...
地域タグ:京都市
上京区田中町の新出水通沿いに平安宮内裏承香殿跡があります。承香殿(じょうきょうでん/しょうきょうでん)とは、平安御所の後宮の七殿五舎のうちの一つ。七殿の中では弘徽殿についで格式の高い殿舎とされ、女御などが居住し、また醍醐天皇の時代に古今集が編纂された。内裏の南辺に位置し、仁寿殿の北、清涼殿の北東。中央を馬道が通り、身舎を東西に二分していた。承香殿を賜っていたのが知られるのは、以下の后妃である。村上...
地域タグ:京都市
平安宮内裏承明門跡をさらに東に進むと、山中油店の敷地内に平安宮一本御書所跡の碑と平安宮内裏跡の案内板があります。一本御書所とは、 平安時代、世上に流布している書籍を、別に一本を書写して所蔵しておく役所のことで、禁中侍従所の南にありました。※以前撮影した時より、駒札がかなり劣化して読みにくくなっていますので、過去の画像を掲載します。平安宮一本御書所跡平安時代、この附近は天皇の住まいである内裏の東側に当...
地域タグ:京都市
藤原の郷の中心部には、「陰陽師」のセットで登場した政庁があります。政庁(せいちょう)正殿を中心に左右対称の建物を配置。政治や重要な儀式が執り行われていました。その脇には「義経」の京の町で登場する通りがあります。政庁を出て、少し山の方に上ると義経持仏堂や安宅関があります。義経持仏堂藤原氏初代の藤原清衡の居住館を再現した経清館(つねきよのやかた)にも経清のろう人形があります。経清館山を降りて伽羅御所(...
地域タグ:奥州市
えさし藤原の郷は岩手県奥州市江刺にある平安時代を題材とするテーマパークで、1993年(平成5年)7月4日、開園、同年に放送されたNHK大河ドラマ第32作・『炎立つ(ほむらたつ)』の撮影の為に作られた大規模オープンセットで、撮影終了後も存続できるような歴史公園として整備されました。NHK大河ドラマのロケ地として知られ、奥州藤原氏の歴史を顕彰しながら、古代から中世にかけての東北の歴史文化を体感できます。私は大河ドラ...
地域タグ:奥州市
智恵光院下立売を北に行った東側のデイサービスセンターの敷地内に「平安宮内酒殿跡」の案内板があります。平安宮は平安時代に政治や儀式などが行われた所で、東西378丈(約1128m)、南北460丈(約1373m)の広大な地域に宮殿や役所が建ち並び、中央部には大極殿(現千本丸太町付近)が、北東部には天皇の居住した内裏がありました。現在地点は内裏の東側にあたります。1996年5月、この場所で平安宮跡初の井戸...
地域タグ:京都市
平安京の内裏跡(11)平安宮内裏東限と建春門跡~聚楽第南外濠跡
新出水通の松林寺の山門の前に平安宮内裏東限と建春門跡の案内板と聚楽第南外濠跡の碑があります。松林寺開基清印が重病の母の回復を祈願すると薬師如来が現われ、婦人病や安産に効験あらたかな秘薬の処方を伝授されたという話に由来する。戦前、寺で薬が売られた。寺は聚楽第の外堀跡と推定される。(京都観光Naviより)松林寺境内の西域は、『源氏物語』の舞台ともなった内裏の東限に当たり、内裏にある四つの門のうち東側の外郭築...
地域タグ:京都市
綾綺殿跡から北に浄福寺通を進んで新出水通に向かい、右折すると、平安宮内裏昭陽舎跡があります。昭陽舎(しょうようしゃ)とは、平安御所の後宮の七殿五舎のうちの一つ。女御などが居住した。また、円融天皇が東宮時代に居住したとの記録が残り(『日本紀略』)、その後東宮敦良親王(のちの後朱雀天皇)の頃東宮御所として定着した。庭に梨が植えられていたところから、梨壺(なしつぼ)ともいう。内裏の北東に位置し、南北二棟...
地域タグ:京都市
宜陽殿跡からさらに北上すると、平安宮内裏綾綺殿跡の碑があります。綾綺殿は、南北9間、東西2間からなり、内宴や妓女の舞などが行われました。平安宮内裏(だいり)の殿舎の名。仁寿(じじゅう)殿の東、温明(うんめい)殿の西にある。檜皮葺(ひわだぶ)きで、南北九間、東西二間の母屋(もや)の四面に庇(ひさし)がある西向きの建物。天皇・院の一時的な居所となることがあった。正月の内宴(ないえん)のときには仁寿殿との間の西庭に舞台...
地域タグ:京都市
承明門跡から浄福寺通を少し上ると、右手に平安宮内裏宜陽殿跡の碑があります。宜陽殿(ぎようでん)は、納殿(おさめどの)とも言われ、累代の重宝を納めたところです。 宜陽殿(ぎようでん)とは、平安京の内裏における殿舎のひとつ。内裏の南東にあり、紫宸殿の東南、綾綺殿の南、日華門を挟んで春興殿の北に位置する。南庭西側の校書殿とは東西に相対する。母屋は天皇累代の御物・宝物を保管しておく納殿として用いられた。西庇に...
地域タグ:京都市
上京区田中町下立売通浄福寺西に平安宮内裏紫宸殿跡の案内板があります。 内裏の正殿で公的な行事の場、中央の御帳台に天皇が出御して国家の重要な儀式が執り行われた。 御帳台の背面、北庇との間仕切りには賢聖障子(中国古代の名臣32名の肖像画)があった。 母屋は東西9間、南北3間で四方に庇があって周囲を簀子(すのこ)がめぐり、正面中央部の階段の左右には桜と橘が植えてあった。北の仁寿殿を北殿・後殿と呼ぶのに対して、...
地域タグ:京都市
平安宮内裏承明門跡から下立売通をさら西へ進むと、銭湯の向かい側に平安宮内裏内郭回廊跡の石碑があります。平安宮 内裏内郭回廊跡桓武天皇延暦13年(794)に遷都された平安京の中心をなす宮殿の一画は現在の千本丸太町一帯の地に置かれていた。そのうち天皇の住居であった内裏は、大極殿のあった千本丸太町東北方のこの地域に東西57丈(約173m)、南北72丈(約218m)の広さで造られていた。この内裏は厳重な築地回廊で囲まれて...
地域タグ:京都市
京都市上京区下立売通浄福寺に、平安宮内裏承明門跡の石碑があります。承明門は、平安宮内裏の内郭の南の正門に当たります。平安宮内裏の内郭の南の正門。《三代実録》《貞観儀式》などでは閤門(こうもん)としている。5間3戸の門とされ,平安宮のなかでももっとも重要な門の一つで近衛府が守ることになっていた。門籍がおかれ,門籍に登録されたものだけが門内に入ることを得た。また門には石階があり,門の内側には溝が東西に流...
地域タグ:京都市
千本丸太町交差点の南西には、平安宮跡の案内板があり、朝堂院、豊楽院の説明が書かれています。ここから千本通を東に向かい、浄福寺通に入ると、二条城北小学校前に、 平安宮内裏南限と建礼門跡の碑があります。 内裏外郭に設けられた正門で、規模は正面五間あって、内裏外郭門としては最大である。衛門府が警護し、門を入ると内裏内郭の正門である承明門があり、これを入ると南庭を隔てて紫宸殿に至る。 門前で白馬節会を行った...
地域タグ:京都市
豊楽院(ぶらくいん)は、平安京大内裏(平安宮)の院の1つで、朝廷の饗宴に用いられた施設で中京区聚楽廻西町には「史跡平安宮豊楽殿跡」の碑が建てられています。豊楽(ぶらく)とは和訓「とよのあかり」であり宴会を意味する。豊楽院はその名の通り、饗宴施設として平安京遷都直後、大内裏の正庁である朝堂院の西側に隣接して造営された。四方を築地で囲まれ、南に正門である豊楽門を構えていた。新嘗祭、大嘗祭の宴のほか、正...
地域タグ:京都市
平安宮造酒司(みきのつかさ)は、朝廷が使用する酒や酢を醸造していた役所で、大内裏の中にありました。京都市指定史跡 平安宮造酒司跡 平安時代、国家政治の中枢である平安宮にあった造酒司は、ミキノツカサ・ゾウシュシあるいはサケノツカサとも呼ばれる宮内省所属の官司で、天皇や中宮などに出す供御及び朝廷の諸節会・神事に用いられる酒・醴<あまざけ>・酢などを醸造していました。 造酒司のあった場所は、『宮城図』(...
地域タグ:京都市
平安京の北部中央には、天皇が身を置き、まつりごとが行なわれる施設群となる宮城(大内裏)の平安宮が建造されました。大内裏には天皇の御所として内裏、即位礼など国家行事を挙行する八省院(「朝堂院」、朝堂院の正殿が「大極殿」)、大規模な饗宴が行われた豊楽院、神事を行う中和院や仏事に関わる真言院、その他二官八省の政庁、衛府などが並び立ちました。紫式部の時代、都の中心である平安宮は、千本丸太町にあったとされて...
地域タグ:京都市
住吉大社は、大阪市住吉区住吉にある神社で、海の神である住吉三神(底筒男命、中筒男命、表筒男命)と息長足姫命(神功皇后)を祀り、下関の住吉神社、博多の住吉神社とともに日本三大住吉とされています。奈良時代、海の神として、遣唐使の派遣の際には、海上の無事を祈りました。平安時代からは和歌の神として朝廷・貴族からの信仰を集め、「源氏物語」にも度々登場しています。Wikipediaによると、「住吉大社は別の神格として...
地域タグ:大阪市
多度大社をお参りした後、桑名名物の蛤を使った「蛤三昧」のコース料理をいただきました。蛤の霜降り刺身、天ぷら、フライ、お寿司、すまし汁など文字通り蛤三昧のお料理でした。蛤にこんな料理法があるとはビックリ!プリップリで美味しかった~~こんなに一度に蛤も食べたのは初めてでした。人生で初で最後でしょうね(^0^;)駅前にあったこのお店、残念がら閉店してしまったようです(;_;帰る頃には、すっかり日が暮れ、桑名駅東口...
地域タグ:桑名市
多度大社の境内を進んで行きます。白馬舎古くから伝わる白馬伝説に因んだ白馬が納められています。こちらは本物の馬ではありません。馬は非常に歯の丈夫な動物と言うことで、これにあやかった『歯ぎしり除けの豆』が頒布されていいす。招魂社 西南の役以降の国内外の出征、戦歿された桑名郡市・員弁郡市・四日市市・三重郡・岐阜県下出身の御英霊を奉斎。美御前社於葺門(おぶきもん)この門を境にして本殿の神域に入ります。末社...
地域タグ:桑名市
桑名市多度町に鎮座する多度大社。社伝では、雄略天皇の御代の創建と伝わっています。1571年(元亀2年)、織田信長の長島一向一揆平定の際、命を受けた大垣城主氏家卜全により、多度大社の本宮並びに摂末社、神宝、古記録、多度大社の神宮寺であった宝雲寺の七十余りに及ぶである堂塔伽藍が焼失、その後1605年(慶長10年)に桑名藩主・本多忠勝により再建されました。御例祭は、一般的には多度祭と称され、おり上げ馬神事や流鏑馬...
地域タグ:桑名市
「桑名の旅」編が途中でしたので、続きを再開します。桑名の街を自転車で走っていたら、「薩摩義士墓所」という文字が見えたので、立ち寄ってみました。宝暦3年(1753)、幕府より薩摩藩は揖斐・長良・木曽三大河川工事を命ぜられました。宝暦5年に工事は完成しましたが、多くの犠牲者と巨額の経費がかさんだことの責任感から、工事総奉行平田靭負(ひらたゆきえ)は自刃しました。これら義士の墓所は岐阜・三重県下14ヶ寺に埋葬され...
地域タグ:桑名市
京都市左京区にある平安神宮は、明治28年(1895)平安遷都1100年を記念して、平安京を創始した桓武天皇を祭神として創建し、昭和15年(1940)平安京最後の天皇孝明天皇を合祀しました。桓武天皇孝明天皇大極殿(外拝殿)・応天門(神門)・蒼龍楼(そうりゅうろう)・白虎楼(びゃっころう)・歩廊・龍尾壇(りゅうびだん)などは明治28年(西暦1895年)の創建当時に造営されたものです。 その後昭和15年(西暦1940年)孝明天皇ご鎮座...
地域タグ:京都市
いよいよ今日から2024年の大河ドラマ「光る君へ」が始まりますね。今年は、紫式部をはじめ、その周囲の人たち、京都の寺社仏閣について主に書いていく予定です。京都市上京区北之辺町の廬山寺は、紫式部の邸宅跡として知られています。遡れば、紫式部の曽祖父である藤原兼輔(堤中納言)が建てた邸宅があり、紫式部はこの邸で生まれ育ち、「源氏物語」を執筆したとされています。紫式部歌碑めぐりあひて見しやそれともわかぬ間に ...
地域タグ:京都市
「江〜姫たちの戦国〜」が放映された2011年「お江の眠る寺」として、増上寺の徳川墓所の公開に出かけて来ました。徳川墓所は、法要など年7回の無料公開などに限り、一般には非公開としていましたが、大河ドラマ「江〜姫たちの戦国〜」の放映にあたり人々の関心に考慮したものだそうです。通年で一般公開するのは初めてのことなのだそう。この年の大河の主役・お江のお墓があるということで、この日も朝から大勢の人が詰めかけてい...
地域タグ:東京都
前回、見学できなかった滝山寺の宝物館にやっと入れました!そもそもこの滝山寺に行ったのは、宝物殿に安置されている寺宝の聖観音・梵天・帝釈天三尊像像を見たかったから。これらの像は、鎌倉時代の運慶・湛慶父子の作として、昭和56年に国の重要文化財に指定されました。像を作らせたのは、源頼朝の従兄弟にあたる当山住職・寛伝。頼朝の追善供養のために境内に惣持禅院を建立し、その本尊と脇侍として祀られていたといいます。...
地域タグ:岡崎市
滝山寺本堂の北側に「日吉山王社本殿」があります。七間社流造、桟瓦葺(元檜皮葺)1608年に徳川家康が建てたと伝えられています。内陣の造りが七間社以上の流造にみられる連結方式ではなく、身舎を横長一室の内陣として奥に簡素な祭壇を設けている点が特徴。2006年(平成18年)12月21日、岡崎市指定文化財に指定されました。老朽化により、2019年(平成31年)4月から修復工事が行われ、2021年(令和3年)3月、薄い板を重ねた「こ...
地域タグ:岡崎市
滝山寺境内の滝山東照宮は、三代将軍・徳川家光の命により勧進されたものであり、日光、久能山とともに、東照宮三宮とされています。正保元年(1644年)、徳川家光は徳川家康が生まれた岡崎城の近くにも東照宮を観請したいと考え、酒井忠勝、松平正綱らに命じてその場所の選定を行わせたところ、家康もよく訪れていた滝山寺に観請するのが良いということになり、正保3年(1646年)9月17日に創建されました。創建以来、滝山寺が別当...
地域タグ:岡崎市
滝山寺の三門から本堂へと歩いて行きます。10分ほどで到着。本堂へすぐにお参りする場合は、「滝山寺下」の停留所で下車します。貞応元年(1222年)三河の地頭で清和源氏の流れをくむ足利義氏が額田郡碧海の庄、吉良の東条・西条の住人に命じて五間四方の本堂を建設。現在の本堂は、明治43年頃に解体・大修理をしたもの。寺宝の聖観音・梵天・帝釈天三尊像は、鎌倉時代の第1の仏師運慶・湛慶父子の作として、昭和56年に国の重要文...
地域タグ:岡崎市
桑名の旅編が続いていますが、今年最後の記事は、徳川家康ゆかりの浜松の記事をお届けします。浜松市天竜区山東にある光明山光明寺は、奈良時代の養老元年(717年)に行基により開創された遠州地方の名刹です。元々光明山にありましたが、昭和6年(1931)の火災で焼失し、現在地に移されました。光明山は、標高540mで秋葉山とともに古代から山岳霊場として知られ、秋葉の火の神に対して、水の神として信仰を集めていました。大黒堂には...
地域タグ:浜松市
桑名の専正寺があるあたり一帯は江戸初期には漁村で、蛤の貝殻で厚く地面は覆われていました。文政年間、この地の住人谷氏がこれら無尽蔵の貝殻を見て、蛤に対する感謝と供養のため蛤の墓「蛤墳」が建てられたと伝えられています。蛤の墓「蛤墳」(こうふん) 昔このあたりは漁村で、付近一帯にたくさんの貝殻が埋もれていたので、 文政6年(1823)に今一色に住んでいた谷氏が蛤の供養のために、この碑を正念寺(現在専正寺)に建...
地域タグ:桑名市
桑名城跡を出て、桑名駅方面へ歩いて約10分の場所にある浄土寺は、本多忠勝の本廟がある寺で、桑名藩主本多家の菩提寺となっています。 当寺は、永承4(1049)年海中から出現した地蔵尊を安置したのが始まりと言われています。 慶長の町割りで現在地に移り、桑名藩主本多家の菩提寺となり、藩主本多忠勝が没した時に、当寺に葬られ、本多忠勝本廟となりました。「慶長の町割り」とは、忠勝が、慶長6年(1601)桑名に封ぜられてか...
地域タグ:桑名市
この後、九華公園の周辺の桑名城の遺構を散策しました。立教小学校 藩校「立教館」の流れをくむ小学校。歴史を語る公園南大手橋江戸の日本橋から京都の三条大橋に至る東海道五十三次をモチーフにして造られた公園で、道中をイメージした道標や案内板などが設置されています。日本橋三条大橋ここから桑名城三の丸の城壁が見られます。にほんブログ村 歴史ブログランキングに参加しています。応援よろしくお願いします!にほんブログ...
地域タグ:桑名市
関ヶ原の戦いの後、桑名藩主となった本多忠勝は、4年がかりの大規模な区画整理「慶長の町割」を行いました。それまで水害に悩まされた土地を埋め立て、川の流れを大きく変えて外郭堀に利用。4層の天守閣や多くの櫓を備えた城を建て、武家と町人、さらに業種ごとに城下町の居住区を分割。港町・城下町・東海道の宿場町として、桑名の町の基盤を作りました。桑名城跡には現存建造物はなく、石垣、堀が残るのみで、現在は桑名城址九華...
地域タグ:桑名市
桑名の総鎮守社である桑名宗社には、幾つかの名称がありますが、通称を春日神社と言います。東海道筋の大きな鳥居は、もとは本多忠勝が慶長7年に木造で作ったものでしたが、大風で倒壊し、寛文7年(1667)、桑名城主 松平定重により、青銅の鳥居に建て替えられました。桑名宗社は、桑名神社(三崎大明神)と中臣神社(春日大明神)の両社からなり、ともに延喜式神名帳の伊勢国桑名郡に記載されている式内社です。織田信長、徳川家...
地域タグ:桑名市
桑名駅から徒歩15分ほどのところに鎮座する住吉神社は、揖斐川に面して建てられています。神社前の石灯篭2基は、江戸時代の材木商達が寄進したものです。桑名は古くから伊勢湾、木曽三川を利用した広域的な舟運の拠点港として「十楽の津」と呼ばれ、木材や米等の集散する商業都市として発達し、住吉浦は廻船の舟溜りでした。住吉神社は、廻船業者が航海の安全を祈り、正徳五年(1715年)住吉大社(大阪府大阪市住吉区住吉)の分霊...
地域タグ:桑名市
本多忠勝ゆかりの地を巡る桑名の旅をしてきました。観光案内所でレンタサイクルを借り、桑名の旅がスタート!三の丸堀に架かる舟入橋ここから桑名城の石垣跡を見ることができます。柿安コミュニティパークは、桑名城の三の丸跡に造られた芝生広場です。桑名城三之丸御殿(新城)及び桑名紡績工場跡慶長6年(1601)、本多忠勝が桑名城主となり、城下町割りと共に、本格的な城の建設を行った。本丸の北には新城(三之丸)と呼ば...
地域タグ:桑名市
本多忠勝は、天文17(1548)年、安祥松平家(徳川本家)の最古参の譜代である安祥譜代の本多氏で、本多忠高の長男として、三河の西蔵前城に生まれました。天文18年(1549年)、父・忠高が戦死し、叔父・忠真のもとで育ちました。幼い頃から徳川家康に仕え、永禄3年(1560年)13歳の時に桶狭間の戦いの前哨戦である大高城兵糧入れで初陣、このとき、同時に元服しました。三河一向一揆、姉川の戦、三方ケ原の戦、長篠の戦、高天神の...
西焼津から800mほどのところにある小土神社(こひじじんじゃ)は、徳川家康が鷹狩りの際に立ち寄り、満水の大井川を渡るために祈願したそうです。小土神社から900mほどのところにある旭傳院には、田中城にあった門が、移築されて旭傳院の山門になっています。こじんまりとしていますが、歴史を感じる門です。にほんブログ村 歴史ブログランキングに参加しています。応援よろしくお願いします!にほんブログ村歴女日記ブログランキン...
上野東照宮の正式名称は「東照宮」ですが、他の東照宮との区別のために鎮座地名をつけて上野東照宮と呼ばれ、徳川家康・徳川吉宗・徳川慶喜を祀っています。社伝によれば、元和2年(1616年)、危篤の徳川家康から自分の魂が末永く鎮まる所を作ってほしいと藤堂高虎と天海に遺言し、寛永4年(1627年)、上野の高虎の敷地内に創建した神社「東照社」が上野東照宮の始まりです。現在の社殿は慶安4年(1651年)徳川家光が改築したもの...
地域タグ:東京都
「どうする家康」の最終回で、小栗旬さんが天海役でサプライズゲスト出演をされたので、今日は天海中心の記事をアップします。1616年(元和2年)2月4日、天海僧正と藤堂高虎は危篤の徳川家康の枕元に呼ばれ、三人一つ処に末永く魂鎮まるところを作って欲しいと遺言。 天海は藤堂高虎らの屋敷地であった今の上野公園の土地を拝領し、東叡山寛永寺を開山。境内に多くの伽藍や子院が建立しました。上野の寛永寺は、天台宗関東総本山の寺...
地域タグ:東京都
今から10年以上前のことになりますが、紅葉の季節で賑わう日光へ旅行して来ました。日光といえば日光東照宮徳川家康を神と祀る日光山内の最も有名な寺社です。五重塔三神庫には、狩野探幽が実物を見ることなく描いたという「想像の像」が見られます。そして神厩舎には、誰もが知っている三猿があります。「悪事は見ざる、聞かざる、言わざる」は、8枚の彫刻の中の2枚目に当たり、人の人生の移り変わりを描いています。通称「うっ...
地域タグ:日光市
久能山東照宮に行くには、「静岡鉄道日本平ロープウェイを利用する方法と「久能山下からの徒歩ルート」があります。車:東名静岡・清水インターより日本平山頂(約40分)⇒ 山頂より日本平ロープウェイ(5分)バス:JR静岡駅より、しずてつジャストライン日本平線(約50分)終点「日本平」で下車すると、ロープウェイ乗場入口です。私はロープウェイを利用しました。この前の台風で山肌が削られたり、崩れたりしたところがあるそう...
地域タグ:静岡市
田中城は、静岡県藤枝市田中にあった輪郭式の平城で、江戸時代には田中藩の藩庁が置かれた城です。駿府城で隠居生活を送っていた徳川家康は、鷹狩りのため、度々田中城を訪れたといわれています。家康は元和2年(1616)4月巳の刻(現在の午前10時ごろ)、家康は駿府城において75歳で死去しましたが、鯛の天ぷらが原因という説があります。同年1月21日、駿河国田中で鷹狩を行った際、家康は御用商人茶屋四郎次郎清次に上方での流行を...
地域タグ:藤枝市
本丸堀 本丸堀は、駿府城の三重堀の一番内側の堀で本丸を取り囲んでいます。幅約23〜30mで深さは江戸時代には約5mありました。石垣は荒割りした石を積み上げ、隙間に小さな石を詰めていく「打ち込みはぎ」と呼ばれる積み方です。角の部分は「算木積み」という積み方で横長の石を互い違いに積んで崩れにくくしています。 発掘調査により再び姿をあらわした本丸堀は、江戸時代の雰囲気が感じられる貴重な遺構です。 銀座の柳 二...
地域タグ:静岡市
徳川家康は、天正14年(1586年)12月4日、17年間過ごした浜松城から本拠を駿河国の駿府城へ移しました。これは、出奔した石川数正が、浜松城の軍事機密を知り尽くしていたため、それに備えたとする説があるそうです。駿府城は、14世紀に室町幕府の駿河守護に任じられた今川氏によって、この地には今川家の居館(今川館)が築かれ、今川家の居城となっていました。今川氏は隣接する甲斐国の武田氏、相模国の後北条氏と同盟を結び領...
地域タグ:静岡市
嵯峨野の清凉寺は、嵯峨釈迦堂の名で知られる浄土宗の寺院です。嵯峨天皇の皇子・源融(みなもとのとおる)の別荘・栖霞観(せいかかん)の跡に開かれた棲霞寺にお堂を建立し、釈迦如来を安置したと伝えられています。栖霞観跡本堂(釈迦堂)は、慶長7年(1602年)に豊臣秀頼によって寄進・造営されましたが、嵯峨の大火が類焼し、本堂以下の伽藍は被災。元禄13年(1700年)より、本尊の江戸に始まる各地への出開帳が始まり、また...
地域タグ:京都市
大阪の谷町9丁目駅から徒歩5分ほどのところにある生国魂神社(いくたまじんじゃ)生魂(イクタマ)とは、生まれたばかりの魂という意味があるそうです。社伝によれば、神武東征の際、神武天皇が、生島神・足島(たるしま)神を、現在の大阪城付近に祀ったのに始まると伝えています。戦国時代には、石山本願寺に隣接していたため石山合戦で焼失。天正11年(1583年)豊臣秀吉が、大坂城を築城する際に現在地に社地を寄進して社殿を...
地域タグ:大阪府
「ブログリーダー」を活用して、しずかさんをフォローしませんか?
一条戻り橋から東へ90m。南北に伸びる道を小町通といいます。一条通堀川東入二筋目西北角に「小野小町双紙洗水遺跡」の石碑があります。かなり背の低い石碑な上、植木に隠れていたので、場所がわからず、何度も通り過ぎてしまいまました(..;)正面には「小町通」、側面に「小野小町双紙洗水遺跡」の文字が刻まれています。かつてこの地で、小野小町と大伴黒主との歌合せが行われました。狩野探幽『三十六歌仙額』対戦相手の大友黒主...
京都市上京区の堀川に架けられている一条通の一条戻橋は、「あの世」と「この世」をつなぐ橋とも言われていました。伝説では、安倍晴明の父である保名が殺害された場所であり、晴明が呪法を駆使して保名を蘇生させた場所とも言われています。また、橋占の名所でもあり、『源平盛衰記』巻十によれば、高倉天皇の中宮建礼門院の出産の際、その母の二位殿が一条戻橋で橋占を行うと、12人の童子が手を打ち鳴らしながら橋を渡り、生まれ...
出家した花山上皇は播磨国書写山の圓教寺に入りました。月岡芳年画『月百姿 花山寺の月』圓教寺は、書写山の山上にあり、康保3年(966年)、性空の創建と伝えられています。摩尼殿圓教寺は、都の皇族や貴顕の崇拝が篤く、なかでも性空に対する尊崇の念が強かった花山法皇は、寛和2年(986年)に来山して、圓教寺の勅号を与え、米100石を寄進。性空はこの寄進をもとに講堂(現・大講堂)を建立したとされています。摩尼殿から山沿...
京都駅前に羅城門の復元模型が設置されています。何度となく、京都駅の前をうろうろしているのに、この辺りはスルーしていました(^^ゞ今回初めて知った次第です。平安京羅城門(十分の一 復元模型) 羅城門は朱雀大路の南端に建てられた正門で、外国から の使節を迎え入れるなど平安京のシ ンボルとしてその威容を誇っていました。しかし、暴風により二度倒壊し、980年以降、再建されることはありませんでした。 その復元は、千...
京都市中京区の頂法寺は、本堂の形が六角形であることから六角堂と呼ばれています。聖徳太子の創建と伝わりますが、その名が現れるのは平安中期以降で、藤原道長の日記『御堂関白記』に「六角小路」の表記があり、藤原実資の『小右記』にも六角堂への参詣が何度か登場します。六角堂京都市中京区にある天台宗の寺。本堂が六角形なので六角堂と通称されるが,正称は紫雲山頂法(ちようほう)寺。西国三十三所観音霊場の第18番札所。...
平野神社の桜花祭の起源は、花山天皇が後胤繁栄(こういんはんえい)を祈るため、平野神社へ行幸、臨時の勅祭を行われたことが起源と言われています。毎年4月10日に行われ、午前10時より桜花祭、午前11時に花山天皇陵に参拝し、午前12時に神幸列発輿祭が斎行され、午後1時に約200名の時代行列が氏子地域を巡行します。にほんブログ村 歴史ブログランキングに参加しています。応援よろしくお願いします!にほんブログ村歴女日...
平野神社に珍種が多いのは、臣籍降下した氏族の氏神でもあったことから、蘇り、生産繁栄を願い各公家伝来の家の標となる桜を奉納したからと伝えられています。現在では、約60種400本の桜の木があり、約一カ月にわたって桜を順々に観賞することが出来ます。おけさ一葉衣笠寒羽根桜胡蝶大内山白雲白妙八重紅枝垂平野妹背(ひらのいもせ)有明緑桜鬱金にほんブログ村 歴史ブログランキングに参加しています。応援よろしくお願いします...
毎年、春になると、桜で有名な京都の平野神社を訪ねます。桜は生命力を高める象徴として、平野神社では平安時代より植樹されました。花山天皇が寛和元年(985年)に手植えして以来の桜の名所とされています。江戸時代には「平野の夜桜」として知られました。魁(さきがけ)桜平野神社発祥の桜で早咲きの品種であることから、この桜が咲き出すと都のお花見が始まると言われています。平野神社は794年(延暦13年)、平安遷都の際桓武...
京都市山科区北花山河原町にある元慶寺は、貞観10年(868年)に貞明親王(陽成天皇)を産んだ藤原高子の発願により、定額寺として建立されました。開山は六歌仙の一人である僧正遍昭。山門元慶元年(877年)に陽成天皇の勅願寺となり、元慶寺と改めたとされています。本堂寛和2年(986年)、花山天皇がこの寺で藤原兼家、道兼父子の策略により出家させられ、兼家の外孫である懐仁親王(一条天皇)が帝位につくという寛和の変が起こ...
晴明神社の本殿安倍晴明が祀られています。現在の本殿は、明治38年に建てられたもので、晴明桔梗が随所にあしらわれています。境内社 齋(いつき)稲荷社、天満社、地主社晴明は、お稲荷さまの生まれ変わりとする説があり、各地で稲荷信仰と習合されます。齋(いつき)は、このお稲荷さまが、齋院(さいいん)にあったことに由来します。厄除桃古来、中国また陰陽道では、桃は魔除け・厄除けの果物といわれ、『古事記』や『日本書紀...
晴明神社の二の鳥居四神門(しじんもん)は、晴明神社の塀重門です。晴明が住んでいた当時、朝廷の使いなどが訪れると、この門がひとりでに開き、門から出るとまたひとりでに閉まったそうです。現在でも、それにちなみ、電動で開閉します。石柱の上には、四神(東の青龍・南の朱雀・西の白虎・北の玄武)が掲げられています。千利休の聚楽屋敷趾江戸時代の茶書によると、当社の境内に当たる「葭屋町通元誓願寺下ル町」に、千利休の...
京都市上京区晴明町にある晴明神社は、平安時代中期の天文学者である安倍晴明をお祀する神社です。一条戻橋のたもとにあった晴明の屋敷跡に鎮座しています。寛弘2年(1005年)に晴明が亡くなると、一条天皇は晴明の遺業を賛え、晴明は稲荷神の生まれ変わりであるとして、寛弘4年(1007年)、晴明の屋敷跡に晴明を祀る神社を創建しました。創建当時の晴明神社は、東は堀川通、西は黒門通、北は元誓願寺通、南は中立売通まであり、か...
梨木神社の境内は、平安時代は藤原良房の娘染殿后の里御所・染殿第でしたが、明治18年(1885)久邇宮朝彦親王の発議により、三条家の邸宅跡に三条実万を祀るため社殿が造営されました。1885年(明治18年)10月10日、社号は地名から梨木神社とされ、さらに別格官幣社の列格を受けて創建され、その後1915年(大正4年)、大正天皇即位を記念して、子の三条実美を合祀しました。三条実美(さんじょうさねとみ)幕末~明治前期の尊攘派公...
上京区寺町通の梨木神社は、明治維新に大きく貢献した三條実万・実美父子を祭神とし、境内に約500株のハギが植えられていることから、別名萩の宮とも呼ばれています。境内がある辺りは、平安時代前期に藤原北家全盛の礎を築いたとされる藤原良房の邸「染殿第」があった場所とされています。また、『源氏物語』に登場する花散里(はなちるさと)邸や空蝉(うつせみ)が住んでいた中川の家は、梨木神社辺りだったのではないかといわ...
散楽とは、奈良時代に日本に伝来し、中世まで行われた軽業・曲芸・奇術・こっけい物まねなどの演芸で、奈良時代に最初の隆盛期を迎えます。天平年間(729-749)には雅楽寮に散楽師1名がおかれ、天平勝宝4年(752年)の東大寺大仏開眼供養法会には、他の芸能と共に、散楽の唐散楽一舞が奉納されました。桓武天皇の延暦元年(782年)に散楽戸制度は廃止されました。しかし、散楽は、滅亡することはなく、平安時代には一般に広まって...
京都市東山区五条坂にある大谷本廟は、浄土真宗本願寺派(西本願寺)の宗祖親鸞の墓所で、通称は、「西大谷」。「日野誕生院」・「角坊」(すみのぼう)とともに「宗教法人 本願寺」が所有する飛地境内建物です。清水寺から大谷本廟にかけてのエリアは、鳥辺野の葬送地跡で、今でも広大な鳥辺山墓地があります。『源氏物語』第40帖「御法(みのり」では、光源氏の妻・葵の上の葬儀が鳥辺野の葬場で行われます。また、桐壺更衣、夕顔...
鳥辺野(とりべの)は、京都市東山区の阿弥陀ヶ峰(鳥辺山)を中心に西方に広がる山麓一帯を指します。北辺は清水寺南、西大谷を含む辺りから、南辺の今熊野観音寺北、一条天皇皇后定子陵のある鳥戸野陵に至る地域を総称し、鳥部野、鳥戸野とも。平安時代以来、葬送の地として『源氏物語』や『徒然草』に登場し、藤原道長をはじめ、藤原一族も同地で荼毘に付されたといいます。藤原道長『紫式部日記絵巻』より「東の鳥辺野」、「西...
東寺の西側に残る羅城門跡です。現在は、小さな公園となっており、その中に石碑が立っています。 794年(延暦13)に建設した平安京の正門に当たります。 当時は、東西4.5キロ、南北5.3キロの京域中央部の南端に羅城門がそびえ、北端の朱雀門と相対していたそうです。門は正面33メートル、奥行8メートル。以前、ここを訪れた時は、 「この地は平安京の昔、都の中央を貫通する朱雀大路(今の千本通にあたる)と九条通の交差点にあた...
二条駅から徒歩5分ほどのところに、平安宮の朱雀門跡の碑と案内板があります。平安宮 朱雀門跡朱雀門(すざくもん)は、平安宮(大内裏)の南面大垣中央に設けられた宮城門である。柱間は7間(梁間2間)、中央5間に扉が付く二階門で、宮城12門の中でも最も規模が大きい。朱雀大路に面する平安宮の正門であり、南は平安京の朱雀大路南端にあった羅城門、北は宮城内の応天門や大極殿と一直線上に並んでいる。平安時代の終わりころ頃に描...
木之本の大澤寺から観音寺へ。通称「黒田観音寺」と呼ばれ、本尊は平安時代初期に行基によって作られたと伝わる木像千手観世音菩薩です。(最澄の作という伝承もあります。)そのお姿には、准胝観音の特徴が見られます。一時期は荒廃しましたが、この観音様を見た高僧がお堂の修復に力を貸し、この地の豪族・黒田家の祖先が多額の浄財を寄進し、観音寺は復興されました。境内にある二基の石塔は、黒田家の祖先・宗清の墓であると言...
浜松まつりは、子どもの誕生を祝い、健やかな子の成長を願う祭りです。この祭りは、引間城主であった飯尾連龍とお田鶴方の嫡男の誕生を祝って大凧を揚げたことが起源との説があります。※3月19日の紀行で、元城町東照宮と椿姫観音が紹介されましたので、再編集してあります。お田鶴の方がおんな城主直虎として守り戦った引間城跡には、徳川家康を祀る元城町東照宮があります。浜松城公園駐車場の向かいにあるペットと一緒に楽しめる...
浜松城周辺の史跡より、椿姫観音を紹介します。お田鶴の方(おたづのかた)は、浜松城の前身の引馬城城主・飯尾連竜(つらたつ)の妻で、父は鵜殿長持、母は今川義元の義妹。築山殿とは今川氏の同族で、母同士が義理の姉妹にあたります。井伊家と飯尾氏は、ともに国人領主であり、今川氏の家臣でした。連竜の父・乗連(のりつら)は、井伊直虎の父・井伊直盛と同様、桶狭間の戦いで、今川軍の先鋒を務め、信長軍に討たれて戦死。飯...
1568(永禄11)年頃から徳川家康の遠江進攻が始まり、家康は菅沼定盈と、菅沼忠久・近藤康用・鈴木重時ら井伊谷三人衆に道案内をさせ、引佐奥山から奥山方広寺に立ち寄りました。なぜ、方広寺だったかというと、そこの僧が家康に通じていたそうです。家康軍8千は方広寺に二晩滞在。方広寺の僧徒は家康軍の滞在を喜び、人質まで出して恭順を示し、また住民たちは、食べ物や飲み物を用意して徳川軍をもてなしました。家康は、方広寺...
牛久保城は三河国宝飯郡牛久保にあった平城です。享禄2年(1529年)に宝飯郡の牧野城主であった牧野成時(古白)の子、成勝が築城したと伝えられています。以来、成勝、貞成、成定、康成の牧野氏4代にわたる居城となりました。牧野成定の時代の1561年(永禄4)に、前年の桶狭間の戦いで今川氏から自立して三河の平定に乗り出した松平元康(徳川家康)の奇襲攻撃を受けますが、この奇襲は失敗し、牛久保城はしばらくの間、今橋城(...
浜松市北区引佐町川名にある渓雲寺は、永禄6年(1563)、今川氏真の命令で天野氏の犬居城攻めに行く途中に急死した井伊直虎の曽祖父・井伊直平を祀る菩提寺です。直平は、1489年(諸説あり)に井伊谷城主、直氏の嫡男として生まれました。『井伊家伝記』では今川氏真が織田信長への弔い合戦をしかけ、直平は氏真と共に出陣するも白須賀で陣を敷いていた直平の軍勢から南からの強風が原因で出火し白須賀のあちこちの集落が焼き払われ...
永禄5年(1562)、家老の小野但馬守が、「井伊直親が松平元康(のちの徳川家康)と内通して謀反を起こそうとしていると、今川氏真に讒言をしたため、直親は、弁明に駿河へ向かう道中、掛川城主・朝比奈備中守によって謀殺されました。享年27。直親の首は、南谿和尚が蜂前神社の宮司を使いに出して掛川城からもたい受け、首と体を一緒にして、棺に入れ、都田川の河畔で火葬にされました。直親の墓は都田川と堤防の中間になった平場に...
1562年(永禄5)井伊家の当主となった井伊直親は、遠江を手中にしょうとしていた三河の松平元康(徳川家康)から、今川を見限り徳川に付くよう誘いを受けたとされています。直親が家康と通じているという嫌疑を、小野但馬守が今川氏真に伝えたことから、氏真は激怒。直親を駿府館に呼び出し、真意を聞くことになりました。直親は、申し開きのため、19人の従者を連れて、駿府館に向かいますが、その途中の掛川の十九首で、今川氏真の命...
遠州忩劇(えんしゅうそうげき)とは、永禄5年(1562年)から同9年(1566年)にかけての主に天竜川流域における国衆による今川氏への大規模な叛乱のことをいいます。桶狭間の戦いで、敗北した今川家の勢力が弱体化すると、今まで今川家に臣従してきた松平元康(徳川家康)が独立。織田家と同盟を結び、今川家との対決姿勢を見せ、今川家に反旗を翻す在地領主も出てきました。浜松市中区成子町の東漸寺東漸寺は、引間城主飯尾豊前守連...
元城町東照宮の境内には、徳川家康と若き日の豊臣秀吉(木下藤吉郎)の像があります。秀吉(木下藤吉郎)は織田信長に仕える前、16歳前後の3年間、曳馬城主の配下の松下加兵衛に仕え、浜松で暮らしたことあるので、家康像の隣りに秀吉像もあります。二人の像の間に立って、写真を撮れるように作られています。 若き日の家康・秀吉二公と引間城 元城町東照宮の建つこの地は、浜松城の前身・引間城の本丸跡です。戦国時代のこの城...
浜松城の前身は15世紀頃に築城された引間城(曳馬城)でした。築城者については諸説あり。室町時代中期には三河国の吉良氏が支配していたことが判明しています。遠江の斯波氏と駿河の今川氏の抗争中、吉良氏の家臣団の中で斯波氏方の大河内貞綱と今川氏に味方をする飯尾乗連(またはその父飯尾賢連)が争い、大河内貞綱が破れると、吉良氏も浜松の支配権を失い、今川氏親配下の飯尾氏がこの地に入部し、飯尾乗連(あるいは父の飯尾...
永禄11年(1568)12月、徳川家康の遠江侵攻により、徳川家の支配下に置かれた井伊谷。元亀3年(1572)大軍勢を率いた武田信玄が、遠江国に侵攻を開始。次々と支城を落とし、浜松城へと迫っていました。徳川方についた井伊家も標的になり、山県昌景率いる武田別働隊は、井平城を陥落させた後、井伊谷に入り、井伊谷城を占拠。井伊谷城は、標高約115m、丘陵に築かれた井伊氏の城館です。井伊氏の本拠地は、井伊谷城とその山麓にあった居...
数年前、青春18切符を利用して、三河田原へ行ってきました。豊橋で、豊橋鉄道に乗り換え、三河田原へ。徒歩15分という案内でしたが、この日はとても暑い日でしたので、駅で自転車を借りて田原城へ向かいました。田原城は、三河国渥美郡田原(愛知県田原市田原町巴江)にあった戦国期から江戸期の城で、江戸時代には田原藩1万2千石の藩庁でした。文明12年(1480年)ころに戸田宗光(全久)によって築城され、周りを海に囲まれた堅固...
吉田城は、永正2年(1505)長山一色城主・牧野古白が、今川氏親の命により、渥美郡馬見塚村に今橋城を築いたことに始まります。永正3年(1506年)松平氏と今川氏の戦いの後、牧野古白・野瀬丹波が討死。二連木城や田原城に拠点を持つ戸田氏と、牧野氏が争奪戦を繰り返すため城主が次々と入れ替わり、大永2年(1522年)城主であった牧野信成(古白の子)によって吉田城と改められました。天文15年(1546年)牛窪城主(長山一色城主)の牧野...
西尾市立西尾中学校の南の辺りは、中世の今川荘の中心地であったと推定され、今川氏発祥の地の碑が建っています。吉良荘西条城主であった吉良長氏が次男の国氏に扶持として今川荘を与え、国氏が地名にちなんで今川氏を名乗ったことが今川氏の発祥と伝えられています。 今川 承久の乱後, 足利義氏が三河国の守護に任ぜられた。義氏の嫡子長氏は, 義氏が足利へ帰った跡式を継ぎ, 吉良荘にちなんで吉良氏を名乗った。吉良家 は二代...
西尾の実相寺は、文永8年(1271年)、吉良満氏が吉良氏の菩提寺として創建されました。開山には、京都の東福寺から円爾(聖一国師)を迎え、中国・経山寺の絵図に倣って壮大な伽藍が造営されました。天文15年(1546)に今川義元の軍師・太原崇孚が入ると妙心寺派に改めました。永禄3年(1560)、織田信長の兵火によって堂の多くを焼失しましたが、鳥居元忠が再建に尽力しました。。毎年4月第2日曜日の「お釈迦さん」(花祭り)では、堂...
JR岡崎駅下車徒歩10分のところにある浄珠院天台宗の慈覚大使円仁が承和年間(834年~848年)に創建した清光院大海寺を起源とする。応永年間(1394年~1427年)に松平泰親の長子である教然良頓により浄土宗に改宗され再興された[1]。山号は清光山。本尊は阿弥陀如来。松平氏の外護を受け、永禄6年(1563年)の一向一揆の際は本寺で和議が成立した。田中吉政の寺社領取り上げで寺領を失ったが、慶長8年(1603年)8月26日付家康朱印状...
慶取門拝殿慶長8年(1603年)8月26日の家康朱印状で180石を寄進されました。本殿寛永11年(1634年)8月23日に3代将軍徳川家光が上洛の際に参拝しています。御開運竹永禄6年(1563)一向一揆の折、徳川家康公 鳩ヶ窟において難を逃れ、神前に開運を祈り矢をこのところに挿し退化せり。この矢根芽を生じ生育せりと伝う この竹四時たけのこを生ず。ヒメハルゼミ生息地毎年正月3日に開催される御田植神事「デンデンガッサリ」室町時代か...
岡崎市舞木町宮下にある山中八幡宮は、徳川家康の父・松平広忠が再興したといわれ、家康初陣の際に必勝祈願した神社です。田園地帯の先に鳥居が見えてきます。当地の山中光重という人が、朱鳥14年(699年)9月9日、宇佐八幡大神の夢のお告げで神霊を迎え、社を建てたのがはじめといわれています。大クス樹齢650年といわれる根回り14メートルの当社の御神木。松平広忠が寄進した乱舞面(室町時代作)が市の文化財に指定されています。...
岡崎市美合町にある本宗寺は、浄土真宗本願寺派の寺院です。名鉄「美合駅」下車徒歩7分ほどのところにあります。蓮如上人が西三河教化の中心とするため、応仁2年(1468)に創建しました。創立当時は土呂(現在の福岡町)にあったそうです。三河一向一揆の際、徳川家康は本願寺門派の寺院道場をことごとく破壊し、本宗寺も永禄7年(1564年)2月28日に焼失。家康は「国内宗門御停止」を命じたため、一時やむなく他の地に移りました...
西岡崎にある妙源寺は、三河の浄土真宗で最も古いといわれる、高田派の寺院です。文暦2年(1235年)、親鸞が当地に立ち寄ったことが始まりとされ、在地領主安藤薩摩守信平は、上人の教えに感化されて仏門に入り念信と改名、正嘉2年(1258年)に寺を建て、これを明眼寺と名付けました。三河一向一揆の際、徳川家康は本寺に身を寄せ難を逃れたことにより家康から「源」の一字を与えられ、妙源寺と改称しました。本尊は源義経の持仏で...