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5月4日放送の「べらぼう」の紀行で、田沼意次が落成した相良城の視察のため、三浦(原田泰造)と共にお国入りし、繁栄する城下町を見るという場面が出て来ましたので、牧之原の記事を再アップします。平田寺は、弘安6年(1283)年に開創した遠州地方で最も古い禅寺の一つで、今川氏、武田氏、徳川氏など数々の武将から尊崇されました。開山の龍峯宏雲禅師は、足利尊氏の叔父といわれています。宝暦8年(1758)、田沼意次が相良藩主に...
人見ヶ原古戦場(東京都府中市)と金井原古戦場の碑(東京都小金井市)探訪記
東京都府中市の浅間山公園(せんげんやま こうえん)の丘陵に所在する、金井原・人見ヶ原の合戦(かないはら・ひとみがはら の かっせん)の史跡、人見ヶ原古戦場(ひとみがはら こせんじょう)と・・・↑東京都小金井(こがねい)市に所在する金井原古戦場の碑を併せて探訪しました。こちらは歩道の一画に石碑と解説板が建っているだけでした。金井原・人見ヶ原の合戦は、南北朝時代の正平7年/文和元年(1352)閏2月から3月に...
井沢元彦の「天皇になろうとした将軍」を10年ぶりに再読しました。異なった雑誌に、著者が連載した足利幕府初代将軍「尊氏」と3代将軍「義満」についての読み物を一冊にまとめた本です。南北朝時代と呼ばれる14世紀 (1337年 – 1392年) の日本は、朝廷が2つ存在し、そ
最初にこのお話を知ったときには、てっきりよくある歴史ヨタ話の類かと思いました。 しかしどうやら然にあらずで、逆に歴とした史実ということです。 そこで幾分の前説を加えながら、そのお話を取り上げてみた次第です。 さて奈良時代以降の天皇の命令には「詔」とか「勅」があって、それらの...
さてさて…昨日の記事で以前は足利尊氏の肖像画とされていたものをあげましたが… 最近は騎馬武者像と呼ばれているけれどもね…1970年代に足利尊氏ではなく、家臣の…
用事があってふらっと自転車でお出かけしてみると、普段は通過するだけの商店街の雰囲気が いつもとはちょいと違っていました。 目立つ場所に「〇〇(商店街名)まつり」のポスターがあって、ついそれに 目が移ったのです。 「魔が差す」って、こういうことを言うのかもしれません。 そこに...
企画展「北条氏150年 栄華の果てー鎌倉幕府滅亡ー」レビュー
・本ページはプロモーションが含まれています。 先日、穏やかな晴れた日、今回はどうしても来たかった展示があったので、鎌倉まで 行ってきました。 今回も前回同様、コアというか・・・大型特別展ではありません。 私が鎌倉時代というか北条氏が好きで来たといったと言っても過言ではないです。 それが、鎌倉歴史文化交流館で現在開催中の「北条氏150年 栄華の果てー鎌倉幕府滅亡 ー」です。 鎌倉市歴史文化交流館は鎌倉市に寄贈された海外の有名な建築家が設計、建築の個人 住宅を鎌倉で発掘・出土された遺物を中心に展示している博物館で、閑静な住宅地にあ るので、観光客の混雑から離れてゆっくり鎌倉の歴史を楽しめる穴場的な…
↑神奈川県鎌倉市浄明寺の金沢街道(神奈川県道204号金沢鎌倉線)沿い、閑静な住宅地に所在する、足利公方邸舊蹟(旧跡)を探訪しました。と言っても、民家の前に写真の石碑が1基建っているだけなんですけどね(汗)碑文を意訳すると、以下の感じでしょうか・・・源頼朝が幕府を開いた際、足利義兼がこの地に住居を構え、以来200数十年間、子孫がこの地に住んだ。 足利尊氏が覇権を握って京都へ移ると、尊氏の子義詮(よしあきら...
織田信長>鳴かぬなら・殺してしまえ・ほととぎす 豊臣秀吉>鳴かぬなら・鳴かせてみせよう・ほととぎす 徳川家康>鳴かぬなら・鳴くまで待とう・ほととぎす ホントに御本人が詠ったかものかどうか、そこいらへんはいささか怪しく感じられる ところもありますが、戦国の英傑とされる御三方の...
鎌倉における足利氏菩提寺で鎌倉五山第五位の古刹、神奈川県鎌倉市浄明寺に所在する臨済宗建長寺派の、稲荷山浄妙寺(とうかざん・じょうみょうじ)を探訪しました。※以下「浄妙寺」と、寺号のみに省略させて頂きました。 開基は、足利宗家2代当主足利義兼(妻は北条政子の妹)、中興開基は、足利宗家7代当主足利貞氏(尊氏・直義の父)で、寺号は足利貞氏の法号「浄妙寺殿義観」に由来するようです。↑見どころは、足利貞氏と・...
【足利氏館】足利氏宅跡(鑁阿寺)/栃木県のお城/KEIのお城写真館
足利氏館(あしかがしやかた)本堂(国宝)鐘楼、経堂、金銅鑁字御正体ほか(国の重要文化財)足利氏宅跡(国の史跡)御霊屋、多宝塔、木造大日如来像、木造足利歴代将軍坐像ほか(県文化財)日本100名城(15番)開基 鑁阿(足利義兼)創建年 1196年(建久7年)築城者の足利義兼は義康の三男で、源義家の曾孫。館跡には鑁阿寺が建てられ、現在も東西南北の各方位に門と橋が設けられている。(所在地:栃木県足利市家富町2220)...
現在の行政単位こそ、その東西十数Kmに渡るエリアは「岐阜県不破郡関ケ原町」、その東隣が「同県不破郡垂井町」、そして、そのまた東隣が「同県大垣市」というように厳密な区分けがなされているが、おそらく昔はこのあたり一帯は丸ごと「広い広い一面の原っぱ」ほどの印象だ
神奈川県鎌倉市扇ガ谷(おうぎがやつ)に所在する真言宗泉涌寺派の寺院、泉谷山浄光明寺(せんこくざん・じょうこうみょうじ)を探訪しました。※以下「浄光明寺」と寺号のみに省略させて頂きました。浄光明寺は、鎌倉幕府第6代執権の北条長時を祖とする赤橋流北条氏の菩提寺で↑足利尊氏正室の赤橋登子が建立した、登子の兄で鎌倉幕府最後(16代)の執権、赤橋守時の墓がありました。※浄光明寺は、2015年放送「ブラタモリ 」の「鎌...
【アニメ『逃げ上手の若君』】歴史の暗部をコミカルとトラジカルの絶妙なバランスで描くマニアックすぎる歴史スペクタクル作品。
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可愛らしい北条時行。面白いけど、冷静でもある諏訪頼重。冷静に頼重をサポートする雫。聡明、冷静、かつ強大さがにじみ出る足利尊氏(この時は、まだ高氏)。とても可愛いけど、ずば抜けた身体能力を持つ高時が見ごたえがある。オリンピックで金メダルが取れそうなレベル、というか、それ以上にしか見えないけど。これから、この2人が対決(高時vs尊氏)していくわけですね。北条高時のイメージは特になかったのだけど、足利尊...
さてさて…京都の天龍寺の庭園は…夢窓国師がつくった時の様相を…ほぼほぼそのままとどめているのだそうですよ… こんな感じ… で…その天龍寺は…後醍醐天皇の霊をな…
源氏や平家は天皇家を出自として代表的武家となった。公家も武家を誕生させた。 例えば、西園寺家から四国へ下った者達は十五将となった。 我が国の貴族達も、外国の貴族達と同じように血を流し戦った。「お公家様」は作られたイメージに過ぎない。
少弐頼尚は足利尊氏にとっては人生を救ってくれた大恩人の筈。 しかし尊氏は、頼尚の人の良さに付け込み利用するだけ利用して、恩を仇で返すが如き仕打ちを行った。 頼尚が、尊氏を救わず、後醍醐帝側に付いていたらもっと違う九州、もっと違う日本だった。
足利尊氏は、鎌倉幕府を倒すまでは英雄と言えたかもしれない。 しかし、西国の武将たちにとっては、けっして好ましい人物ではなかったかもしれない。 尊氏と後醍醐帝の争い、尊氏・直義の兄弟喧嘩などに振り回され、少弐氏などは破滅の道を歩む事になる。
日宋交易で巨万の富を得た博多の商人達は、元寇で多くを失った。 博多を復興させようとした鎌倉幕府だったが、武士たちの恩賞不満の声に応えられず九州で討幕の動きが活発化。 鎌倉幕府が倒れ、南北朝時代になって以降も博多近郊は戦場と化し荒廃した。
浄土寺の御朱印|境内全体が国宝!聖徳太子・足利氏ゆかりのお寺|尾道七佛めぐり(広島県尾道市)
所在地広島県尾道市東久保町20ー28宗 派真言宗泉涌寺派寺 格大本山札 所・中国三十三観音霊場 第9番・備後西国三十三観音霊場 第5番・百八観音霊場 第11番由 緒616年に聖徳太子が開基したお寺といわれています。1336年、足利尊氏が九州
~古典文学『太平記』の名場面のひとつで、国語・修身・国史の教科書に必ず載っていた 逸話であり、いわゆる戦前教育を受けた者には大変有名な話であった~ こんな説明に接したとしても、その「戦前教育を受けた者」になる方々が今や 絶滅危惧種?並みの現在では、その「大変有名な話」の有...
東洲斎写楽(生没年不詳)と名乗る謎の?絵師が突如出現(1794年)したのも、また伊能忠敬(1745-1818年)が初めて蝦夷地の測量(1800年)をしたのも、元号では「寛政年間」(元年~13年)、つまり、西暦でいえば1789年から1801年にまたがる期間の出来事だ。そして、実はその
昨年から更新が大幅に遅れていましたが、ようやく今年秋の紅葉をアップするに至りました。まずは衣笠山麓の立命館大学の南隣にある等持院からスタートです。有名な紅葉名所ではありませんが、それだけにのんびりすることが出来ました。等持院は1341年、足利尊氏により夢窓国師を開山に迎え建立した禅宗臨済宗のお寺で、後に足利歴代将軍の菩提所となりました。応仁の乱や火災に見舞われましたが、後に豊臣秀吉が秀頼に命じて再建さ...
【清和源氏】編『新田一族』章「徳川氏」節 82.徳川家康・七十
同年3月12日、徳川家康は、伏見城から、二条城に移り、3月21日、衣冠束帯を纏い、行列を整えて御所に参内し、将軍拝賀の礼を行い、年頭の祝賀も述べた。 3月2…
さて、どのように言ったらよいものか、そうした方面の話題にとんと疎い筆者には 判断が付きかねますが、児童虐待、性加害犯罪、人権蹂躙などの表現をもって 昨今盛んに取りざたされているいわゆる「ジャニーズ問題」です。 現在では、お話はどうやら事務所の名称を変える、変えないというとこ...
どうも、クイズで知識も楽しくゲットしたくなるブログです。2023年は1573年に室町幕府が滅亡してちょうど450年という年になります。さて室町幕府といえば、初代の足利尊氏が1338年に京都で創始。その後15人の将軍が誕生して約240年続きましたね。そしてそのなかでも初代の足
アメリカの女性作家ジーン・ウェブスター(1876-1916年)による児童文学に 「あしながおじさん」(Daddy-Long-Legs)という有名な作品があります。 大学進学のための資金を匿名の援助者から与えられることになった孤児院育ちの 少女を主人公とした物語です。 念のた...
分倍河原合戦(ぶばいがわらかっせん)は、鎌倉時代末期の1333(元弘3)年5月15日~16日に多摩川河畔の分倍河原(→東京都府中市分梅町2丁目)において、新田義貞(にったよしさだ)率いる討幕軍と北条泰家(ほうじょうやすいえ→北条高時の実弟)率いる幕府軍との間で行われた合戦で、5月16日の関戸合戦を含めて新田方は「分倍河原」、幕府方は「関戸」での合戦と軍忠状に記しています。当初、新田義貞の挙兵を歯牙にもかけなかった鎌倉幕府首...
龍門山 等持院 高安寺(→東京都府中市片町2丁目)は、平将門の乱(→939年~940年)を鎮圧した藤原秀郷(ふじわらのひでさと)の館跡に建てられた市川山見性寺を前身とする曹洞宗寺院です。寺伝によると源義経・武蔵坊弁慶主従が何度も参詣したといい、義経主従が奉納したと伝わる大般若経や、弁慶硯の井戸が残されています。鎌倉時代末期の戦乱で荒廃したようですが、南北朝時代前期の1340(暦応3)年頃、室町幕府の初代将軍足利尊氏が鎌倉...
関戸合戦は、鎌倉時代末期の1333(元弘3)年5月16日に、霞ノ関(→東京都多摩市関戸)で行われた新田義貞率いる討幕軍と、北条泰家(→北条高時の同母弟)率いる鎌倉幕府軍との間で行われた戦いです。古戦場の近くにはこの戦いで討死した幕府軍の無縁仏を埋葬した「北条軍無名戦士の墓」(→東京都多摩区関戸5丁目)があります。さて、『太平記』に記された内容が現実の出来事かを確かめるには、同時代の史料を確認する方法が一番です。1333(...
山名氏の祖、義範が、御門葉に連なるほどの身分であったが、山名義範以降の山名氏の鎌倉時代の事績は、全く、不明である。 義範の家督を継承した、山名重国が、義範の…
「寛政の三奇人」という言葉がある。ちなみに「寛政」とは元号で、たとえば東洲斎写楽(生没年不詳)なる謎の?絵師が突如出現(1794年)したのも、また伊能忠敬(1745-1818年)が蝦夷地を初めて測量(1800年)したのも、元号では「寛政年間」(元年~13年)、に当たり、西暦
【清和源氏】編『新田一族』章「里見氏」節 02.里見氏の系譜
新田義重は、治承・寿永の乱の勃発前、平賀盛義の息子の義澄、その義澄の息子の義重、源義光の孫の義隆等を猶子に迎えると、広域的に勢力範囲を広げていた。 平賀盛義…
【太平記】第7回「悲恋」〜あらすじと感想 奥州の乱は止まず幕府軍も戦果をあげられないままでいた。一方、花夜叉一座に帰ってきた石は、藤夜叉が身ごもっていることを知る。久しぶりの花夜叉一座だったが思わぬ知らせにショックを受ける石。右馬介は、藤夜
【太平記】第6回「楠木登場」あらすじと感想 さて第6回目にしていよいよ楠木正成の登場です。すでに前回までに名前だけは登場していますが、太平記の主役の一人ですし満を持しての登場といった感がありますね。 貞氏と高氏は赤橋守時邸へ。直義はこちらか
【清和源氏】編『新田一族』章「新田氏」節 08.新田本宗家の滅亡
新田義貞の入城後、金ケ崎城は、足利軍の攻撃を受けた。 新田義貞は、一度は、足利軍を迎撃したが、1337年(延元2年)1月18日、足利軍は、再度、金ヶ崎を兵糧…
【清和源氏】編『新田一族』章「新田氏」節 07.新田義貞・五
新田義貞の軍勢は、足利尊氏の軍勢に敗北し、楠木正成と共に尊氏を挟撃しようとする。 1336年(/建武三年)5月24日、新田義貞は、楠木正成と合流して、酒を酌…
遊行寺(ゆぎょうじ)の名で知られる藤沢山 無量光院 清浄光寺(しょうじょうこうじ→神奈川県藤沢市西富1丁目)は、鎌倉時代後期の1324(正中元)年に鎌倉郡俣野の領主であった俣野景平(またのかげひら)が開基、時宗開祖一遍の遊行を相承した遊行四世の呑海(どんかい→俣野景平の兄弟)が開山した時宗総本山です。1324(正中元)年は14代執権北条高時政権で、周辺には得宗被官(→北条氏嫡流の家来、御内人とも)の所領が点在し、境内には1333(...
【清和源氏】編『新田一族』章「新田氏」節 06.新田義貞・四
足利尊氏は、後醍醐天皇の勅状を得ないまま、討伐に向かい、中先代の乱の鎮圧後は、鎌倉に本拠を置いた。 足利尊氏は、新田一族とその与党の所領を、北条時行の撃退に…
【清和源氏】編『新田一族』章「新田氏」節 03.新田義貞・参
新田義貞は、鎌倉を陥落させると戦後処理に奔走した。 各々の武将が、義貞へ軍忠状、着到状を提出し、義貞は、それに対して、証判を書いた。 しかし、7月に入ると、…
【清和源氏】編『新田一族』章「新田氏」節 03.新田義貞・弐
新田義貞は、碓氷川を渡って、八幡荘に到着すると、越後の後陣、甲斐源氏・信濃源氏の一派等の各地から参集した、五千騎と合流して、新田義貞軍は、九千に膨れ上がった…
【清和源氏】編『新田一族』章「新田氏」節 03.新田義貞・壱
新田政義の死後、息子の新田政氏が、新田本宗家の五代当主となったが、前述の通り、新田氏の「惣領」の座は、世良田義季と岩松時兼に分割相続されていた。 政氏の死後…
【太平記】第5回「あやうし、足利家」〜あらすじと感想 前回鎌倉の侍所に捕らえられた高氏。御家人最大の大名、足利家に北条が戦いを挑んだと見なされて鎌倉は騒然となったとの冒頭のナレーション解説。 連署の金沢貞顕に「高氏を何とかならんのか」と頼む
【太平記】第4回「帝、ご謀反」あらすじと感想 なかなかインパクトのある第4回のタイトル!帝が謀反をするという矛盾というか違和感を感じるタイトルですが、それが確かにその通りなことがこの時代の不安定さを物語っています。 高氏が訪れている京では正
【太平記】第3回「風雲児」あらすじと感想 京の都に着いた高氏。母、清子の実家の上杉家に泊まってるものの退屈そうにしている。田舎者丸出しで京都観光する尊氏と右馬介。都の賑わいに気持ちも高ぶる「女性のしとまで匂いまで良い匂い!」と大はしゃぎする
【太平記】第2回「芽生え」あらすじと感想 オープニング前の解説では鎌倉幕府の権力構造と争い、「執権」「連署」「内管領」の権力争いについての説明。この辺りは特にややこしいですね。前回北条高時の闘犬の会で恥をかかされていたことを知った弟直義。な
【太平記】第1回「父と子」あらすじと感想 ドラマが始まる前、冒頭に当時の時事であるベルリンの壁崩壊とドラマの舞台である鎌倉幕府崩壊〜室町幕府成立をなぞらえて「時代の転換期」というキーワードが語られる「太平記」。現代でもコロナ禍があったり世界
方向方角を示す場合、一般的には「東西南北」を基準にするようです。 まあ、少なくともチョイ前まではそうだった気がします。 ところが、話は多少逸れますが、筆者なぞは実際にこんな光景を目撃したことが ありましたから、最近ではそうでもないのかもしれません。 それは、どうやら待ち合わ...