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源氏や平家は天皇家を出自として代表的武家となった。公家も武家を誕生させた。 例えば、西園寺家から四国へ下った者達は十五将となった。 我が国の貴族達も、外国の貴族達と同じように血を流し戦った。「お公家様」は作られたイメージに過ぎない。
↑東京都府中市に所在する、足利尊氏公が開基の龍門山 髙安護国禅寺を探訪しました。※以下「高安寺」と、寺号のみに省略させて頂きました。概要は、府中観光協会様のサイトより、以下に引用させて頂きました。室町幕府の将軍足利尊氏(1305〜1358)が、元々この地にあった市川山見性寺を再興し、龍門山高安護国禅寺と号したのがはじまりとされ、尊氏が改名する前の高氏から名づけられたとされています。 それ以前の寺は、平将門を...
鎌倉幕府滅亡から南北朝時代の騒乱が好きで、武州多摩から遠征して新田義貞公率いる討幕軍鎌倉攻めの関連史跡を巡っています。このページでは、稲村ヶ崎の「十一人塚」から↑写真の極楽寺まで踏破した模様を紹介させて頂きます。※ここまでの探訪の模様は、カテゴリー「太平記の世界/鎌倉編」から御覧いただけます。↑まず、元弘3年(1333)陰暦5月18〜22日の討幕軍の鎌倉攻めを復習。地図青丸の東勝寺(現在は東勝寺跡)が、5月22日...
御座松塚跡(→東京都稲城市平尾3丁目)には、1873(明治6)年に枯死するまで「御座の松」と呼ばれた大松が植えられていたといいます。ここは分倍河原に通じる鎌倉街道で、1333(元弘3)年5月15~16日の分倍河原・関戸合戦で新田義貞率いる討幕軍に敗れた幕府軍は、鎌倉への敗走の途上、ここ平尾でも討幕軍の追撃を受けました。隣接する麻生郷は鎌倉北条氏の一門(→金沢北条氏)の所領であったため、平尾郷民も幕府よりの者が多かったらしく...
星宿山 蓮華蔵院 王禅寺(→神奈川県川崎市麻生区王禅寺)は、平安時代の921(延喜21)年に高野山の無空上人によって創建されたと伝わる、鎌倉北条氏庶流の金沢(かねさわ)北条氏と縁が深い真言宗豊山派寺院で、最盛期には禅宗・律宗・真言宗の兼学道場を兼ねて「(関)東の高野山」と呼ばれ、末寺が多くありました。現在は宅地開発された小山の中でひっそりとたたずむ王禅寺ですが、広域に「王禅寺」の名がつく地名が残るなど、影響力の大...
籠口ノ池(ろうぐちのいけ→神奈川県川崎市麻生区下麻生2丁目)は、「白龍伝説」と「白蛇伝説」を伝える溜池です。(1)討幕軍を呪った白蛇伝説鎌倉時代末期の1333(元弘3)5月15日~16日に、新田義貞・足利義詮(よしあきら→足利尊氏の嫡子)らの討幕軍は、分倍河原の戦い・関戸の戦い(→ともに東京都府中市)で北条泰家(→得宗北条高時の同母弟)が率いる幕府軍を破り、さらに本隊が鎌倉街道上ノ道を進み、平尾(→東京都稲城市)、金程(→神奈川...
白山神社(→神奈川県川崎市麻生区白山4丁目)は、創建年代等の詳細は不明ですが、江戸時代中期の1706(宝永3)年に王禅寺村絵図(→国絵図の一つ)に描かれているため、18世紀初頭には既に社殿が完成されていたことが分かります。江戸時代には別当寺を持たず、王禅寺村の鎮守として村が祭祀を司ったようです。現在の本殿と拝殿は幕末期の1850(嘉永3)年から1年間かけて造られたと記録にあり、向拝柱(ごはいばしら→賽銭箱の前方上のほう)な...
分倍河原合戦(ぶばいがわらかっせん)は、鎌倉時代末期の1333(元弘3)年5月15日~16日に多摩川河畔の分倍河原(→東京都府中市分梅町2丁目)において、新田義貞(にったよしさだ)率いる討幕軍と北条泰家(ほうじょうやすいえ→北条高時の実弟)率いる幕府軍との間で行われた合戦で、5月16日の関戸合戦を含めて新田方は「分倍河原」、幕府方は「関戸」での合戦と軍忠状に記しています。当初、新田義貞の挙兵を歯牙にもかけなかった鎌倉幕府首...
館林市のつつじが岡公園に今年も行って来ました~ 群馬県館林市の「名勝つつじが岡公園」は1万本約100種類のツツジが咲く日本屈指のつつじの名所です。冬はハ…
関戸合戦は、鎌倉時代末期の1333(元弘3)年5月16日に、霞ノ関(→東京都多摩市関戸)で行われた新田義貞率いる討幕軍と、北条泰家(→北条高時の同母弟)率いる鎌倉幕府軍との間で行われた戦いです。古戦場の近くにはこの戦いで討死した幕府軍の無縁仏を埋葬した「北条軍無名戦士の墓」(→東京都多摩区関戸5丁目)があります。さて、『太平記』に記された内容が現実の出来事かを確かめるには、同時代の史料を確認する方法が一番です。1333(...
関戸合戦は、鎌倉時代末期の1333(元弘3)年5月16日に、霞ノ関(→東京都多摩市関戸)で行われた新田義貞(にったよしさだ)率いる討幕軍と、北条泰家(ほうじょうやすいえ→高時の同母弟)率いる幕府軍との間で行われた戦いです。5月15日~16日には多摩川を挟んだ対岸で分倍河原合戦(ぶばいがわらかっせん)が行われ、幕府軍は敗れています。南北朝時代の軍記物の『太平記』によると、新田義貞に多摩川を越えられた北条泰家は、関所のある霞...
山名氏の祖、義範が、御門葉に連なるほどの身分であったが、山名義範以降の山名氏の鎌倉時代の事績は、全く、不明である。 義範の家督を継承した、山名重国が、義範の…
「寛政の三奇人」という言葉がある。ちなみに「寛政」とは元号で、たとえば東洲斎写楽(生没年不詳)なる謎の?絵師が突如出現(1794年)したのも、また伊能忠敬(1745-1818年)が蝦夷地を初めて測量(1800年)したのも、元号では「寛政年間」(元年~13年)、に当たり、西暦
【清和源氏】編『新田一族』章「里見氏」節 02.里見氏の系譜
新田義重は、治承・寿永の乱の勃発前、平賀盛義の息子の義澄、その義澄の息子の義重、源義光の孫の義隆等を猶子に迎えると、広域的に勢力範囲を広げていた。 平賀盛義…
【清和源氏】編『新田一族』章「新田氏」節 08.新田本宗家の滅亡
新田義貞の入城後、金ケ崎城は、足利軍の攻撃を受けた。 新田義貞は、一度は、足利軍を迎撃したが、1337年(延元2年)1月18日、足利軍は、再度、金ヶ崎を兵糧…
【清和源氏】編『新田一族』章「新田氏」節 07.新田義貞・五
新田義貞の軍勢は、足利尊氏の軍勢に敗北し、楠木正成と共に尊氏を挟撃しようとする。 1336年(/建武三年)5月24日、新田義貞は、楠木正成と合流して、酒を酌…
【清和源氏】編『新田一族』章「新田氏」節 06.新田義貞・四
足利尊氏は、後醍醐天皇の勅状を得ないまま、討伐に向かい、中先代の乱の鎮圧後は、鎌倉に本拠を置いた。 足利尊氏は、新田一族とその与党の所領を、北条時行の撃退に…
【清和源氏】編『新田一族』章「新田氏」節 03.新田義貞・参
新田義貞は、鎌倉を陥落させると戦後処理に奔走した。 各々の武将が、義貞へ軍忠状、着到状を提出し、義貞は、それに対して、証判を書いた。 しかし、7月に入ると、…
【清和源氏】編『新田一族』章「新田氏」節 03.新田義貞・弐
新田義貞は、碓氷川を渡って、八幡荘に到着すると、越後の後陣、甲斐源氏・信濃源氏の一派等の各地から参集した、五千騎と合流して、新田義貞軍は、九千に膨れ上がった…
【清和源氏】編『新田一族』章「新田氏」節 03.新田義貞・壱
新田政義の死後、息子の新田政氏が、新田本宗家の五代当主となったが、前述の通り、新田氏の「惣領」の座は、世良田義季と岩松時兼に分割相続されていた。 政氏の死後…
神奈川県藤沢市村岡東3丁目28に位置する史跡、村岡城址(村岡城址公園)を訪問しました。↑写真は、現地に建つ「村岡城址」石碑です。訪問したのは、藤沢市観光公式ホームページに以下の記述があったからです。村岡城は坂東八平市の祖、平良文が村岡に居住した10世紀後半に築いたとされ、城と言っても空堀をめぐらせた山城のようなものだったと伝えられています。 元弘の変の時に、新田義貞がこの城に布陣して鎌倉へ突入して行...
祇園山 安養院 田代寺(→神奈川県鎌倉市大町3丁目)は、鎌倉時代前期の1225(嘉禄元)年に、北条政子が亡夫・源頼朝(→鎌倉幕府初代将軍)の菩提を弔うために僧願行を開山として笹目ヶ谷(ささめがやつ→鎌倉市笹目町)に創建した浄土宗寺院です。創建時は「祇園山 長楽寺」という名前の真言律宗寺院でしたが、同年7月11日に北条政子が死去したため、導師(どうし→葬儀を取り仕切る僧)を務めた願行が、政子の法名「安養院如実妙観大禅尼」か...
この海岸は、鎌倉・稲村ガ崎です。(正面が江の島。手前が鎌倉方向)現在は、湘南サーファーが集うポイントであり、古くは、鎌倉幕府滅亡の時に、新田義貞の鎌倉攻めのポイントになった場所です。この岬を通過しないと鎌倉へは入れない・・・そんな時、聖書のモーセの海割りのように、潮が引き、新田軍は鎌倉を攻めることになったのでした。伝説の鎌倉攻めです。いつもは穏やかな稲村ガ崎・・・数年に1度・・・この海岸に伝説のビ...
内裏山 霊嶽院 九品寺(くほんじ→神奈川県鎌倉市材木座5丁目)は、1333(元弘3)年5月22日に鎌倉幕府を滅ぼした新田義貞が、敵方であった北条氏の戦死者を供養するために、1336(建武3)年に僧の風航順西を開山として、材木座に建立したと伝わる浄土宗寺院です。山門の「内裏山」、本堂の「九品寺」の文字は新田義貞の筆を写したものと伝わります。寺号にもなっている「九品(くほん)」とは、浄土宗の教えで極楽往生するときの9つの階級(→...
南北朝時代の軍記物『太平記』には、1333(元弘3)年5月19日~5月21日までの鎌倉合戦をほとんど記していないのですが、鎌倉幕府滅亡の日となる5月22日については美談的な創作も含め、それなりに量を割いて記しています。極楽寺切通しを突破した新田義貞の軍勢と極楽寺坂への援軍として派遣された幕府方の長崎思元(ながさきしげん)の軍勢が小町口で遭遇して市街戦が始まったことで、市内は早朝から新田軍による放火・狼藉で混乱の極み...
延命山 長松禅寺(いわゆる長松寺→神奈川県川崎市多摩区菅北浦3丁目)は、戦国時代に仙谷山 寿福寺7代目住職の南樹が創建した臨済宗建長寺派寺院です。延命山の山号は、この地が北浦耕地延命場と呼ばれていたことに由来します。南樹は1554(天文23)年4月26日に死去しているので、創建は小田原北条氏の3代目北条氏康の治世に領主佐保田山城守のもとで行われたことが分かります。江戸時代には本山・末寺の制により仙谷山 寿福寺(→神奈川...
菅北浦子之神社(すげきらうらねのじんじゃ→神奈川県川崎市多摩区菅北浦5丁目)は、創建年代などは不詳ですが、鎌倉時代には前身となる社(やしろ)が稲毛領小沢郷7ヶ村の総鎮守であったと記されています。小沢郷は、旧橘樹郡菅村・細山村・金程村(→現在の川崎市多摩区・麻生区)、旧多磨郡坂浜村(→現在の東京都稲城市)付近にかかる範囲と推定されます。これらには鎌倉時代前期の御家人稲毛三郎重成(→小山田有重の子、北条時政の娘婿、...
江戸川柳でたどる偉人伝(鎌倉・室町時代②)日蓮・楠木正成・新田義貞・高師直・足利尊氏・小栗判官・一休・太田道灌
「川柳」は「俳句」と違って、堅苦しくなく、肩の凝らないもので、ウィットや風刺に富んでいて面白いものです。今では、「サラリーマン川柳」や「シルバー川柳」など「〇〇川柳」というのが大はやりで、テレビ番組でも紹介されており、書籍も出ています。そこ
12/3(土)に行った「西播磨の山城巡り」の3城目は、「感状山」の頂上に築かれた「感状山城」(兵庫県相生市)です。 「仁位山城」を後にして、相生市内に向けて戻…
東京・清瀬の新田行政書士事務所です。ブログへのご訪問ありがとうございます。 昨日は土曜日の朝散歩東村山の「となりのトトロ」に似た名前が出てくる「八国山」に行っ…
2022年9月6日の散歩です。現在は群馬県太田市になっていますね、上州新田荘世良田郷周辺を歩きました。東京からは、東武伊勢崎線です。子供のころは浅草から準急伊勢崎行で一本でした。今は久喜、舘林で系統分離されています。途中太田までは特急りょうもう号で行けます。今
北条氏を滅ぼした新田義貞 【鎌倉幕府 倒幕への挙兵 悲運の功労者】 - J-CAST ニュー
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