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指月橋(しげつきょう→神奈川県川崎市多摩区菅仙谷2丁目)は、源義経(→源頼朝の異母弟)主従が通ったという伝承をもつ多摩川水系の旧三沢川にかかる橋です。江戸時代後期の天保年間(→1830年~1844年)に編纂された『江戸名所図会』には寿福寺十景の1つとして紹介されています。近くには義経と弁慶が大般若経を奉納したと伝わる仙谷山 寿福寺(→神奈川県川崎市多摩区菅仙谷1丁目)があります。江戸時代の天明期(→老中田沼意次の頃)を代表...
二枚橋(→神奈川県川崎市麻生区高石3丁目)は、源義経が作り直したという伝承をもつ多摩川水系の五反田川にかかる橋です。川崎市に残る義経伝説をつなげてみると、義経主従は1180(治承4)年9月に藤原秀衡(ふじわらのひでひら)から与えられた軍勢を率いて奥州平泉(→岩手県西磐井郡平泉町)を発ち、鎌倉街道を南下して仙石山 寿福寺(→神奈川県川崎市多摩区菅仙谷1丁目)で戦勝祈願をし、五反田川を越える際に軍勢が通れるように橋を補強(→...
延命山 長松禅寺(いわゆる長松寺→神奈川県川崎市多摩区菅北浦3丁目)は、戦国時代に仙谷山 寿福寺7代目住職の南樹が創建した臨済宗建長寺派寺院です。延命山の山号は、この地が北浦耕地延命場と呼ばれていたことに由来します。南樹は1554(天文23)年4月26日に死去しているので、創建は小田原北条氏の3代目北条氏康の治世に領主佐保田山城守のもとで行われたことが分かります。江戸時代には本山・末寺の制により仙谷山 寿福寺(→神奈川...
洞雲山 王林寺(→神奈川県川崎市多摩区菅馬場2丁目)は、僧の蔵雲西庵が開山した臨済宗建長寺派寺院です。蔵雲西庵は江戸時代前期の1619(元和5)年1月22日に死去しているため、創建はそれ以前であることが分かります。江戸時代には本山・末寺の制により仙谷山 寿福寺(→神奈川県川崎市多摩区菅仙谷1丁目)の末寺として幕藩体制の一翼を担いました。王林寺は巨福山 建長興国禅寺(→建長寺、神奈川県鎌倉市山ノ内)と同じく地蔵菩薩を本尊と...
0540 起床 気分快 晴 寿福寺巡行【見て・歩いて・よろこぶもの】⑦前編 蛇崩川暗渠流域から鎌倉道をたどります。
血圧値 114/82/81 酸素飽和度 97% 体温 36.1℃ 体重 67.3キロ 昨日は、ちょっと散歩のルートを開拓して、東横線の祐天寺駅から西へ向かいました。 この道は、僕の主治医である三宿病院の脳外科にいつも行くルートなので、とくに目新しくはないのですが、今回はちょっと目的があります。 祐天寺駅から五本木通りに向かう道は坂を降りてまた登ります。これは蛇崩川の支流の一つが通っていた谷筋を越えるからです。 そして五本木通りを越えてまた坂を降りると、古くからの鎌倉道のひとつに行き当たります。 この道は、赤羽あたりから、山手線の内側を並走して、目黒川を越えてから野沢通りに入り、今居る辺りから碑…
川崎市内には源義経(→源頼朝の異母弟)にまつわる史跡が数多く残されていますが、「弁慶の鍋ころがし」(→神奈川県川崎市麻生区百合丘3丁目)として知られる高台もその1つで、現在は「王禅寺見晴し公園」として整備されています。平安時代末期の1180(治承4)年10月21日に源義経は黄瀬川宿(→静岡県駿東郡清水町八幡)で源頼朝と「涙の対面」を果たし、呉座勇一氏はその際に義経は当時男子のいなかった頼朝の養子となったと指摘しています...
北鎌倉を巡る、寄り道歴史探索 Vol.2 将軍の妻 北条政子と次男 源実朝
Vol.1 から少し日が空いてしまった。 前回は源頼朝、北条政子の長女・大姫と、木曽義仲の嫡男・義高の話をした。 wagamama110.com 切通を抜けた先、岩舟地蔵堂を過ぎて踏切を渡ると、閑静な参道が右手に見えてくる。 鎌倉五山第三位の「寿福寺」である。 丁度この記事を書いている時期的にNHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」が大詰めを迎えていて、物語のクライマックスに大きく関わる鎌倉幕府三代将軍 源実朝、北条政子親子の供養塔がここにあることが解った。 (function(b,c,f,g,a,d,e){b.MoshimoAffiliateObject=a; b[a]=b[a] functio…
尼御台!建国の母!尼将軍!北条政子ゆかりの鎌倉「寿福寺」「安養院」
こんにちは。夢中図書館へようこそ!館長のふゆきです。 全国の城や史跡をぶらり旅する「夢中図書館 いざ城ぶら!」。いま「鎌倉殿の13人」に夢中…。いざ鎌倉殿ゆかりの地へ!今日の夢中は、尼御台!建国の母!
仙谷山 寿福寺(→神奈川県川崎市多摩区菅仙谷1丁目)は、飛鳥時代前期の598(推古天皇6)年に開基された古寺で、平安時代に天台宗寺院となり、1060(康平3)年には前九年合戦に東国兵を率いて赴く際に源義家(→源頼朝の祖先)がこの地に宿し、寿福寺観音堂に参籠して開運を祈願したといいます。また、鎌倉時代初期の1185(文治元)年に源義経(→源頼朝の異母弟)・武蔵坊弁慶主従が大般若経を奉納し、寺宝として残されているようです。たび重な...
ポチっとお願いします♪ 寿福寺 鎌倉殿の13人も、後2回で終わります。 録画はしてたものの見てなかったのですが… 何かのキッカケで見始め
寿福寺は、鎌倉市扇ヶ谷にある臨済宗建長寺派の鎌倉五山第3位の寺院で、源頼朝が亡くなった翌年の1120年、頼朝の菩提を弔うために、妻の北条政子が明庵栄西禅師を開山として建立した寺です。栄西は日本に初めて臨済宗を伝えた禅僧で、「喫茶養生記」を著すなど、お茶を飲む習慣を日本に伝えたことでも知られています。 この地はかつて頼朝の父・源義朝の館があったところで、頼朝が鎌倉入りした際、ここに館を建てようとしましたが...
寿福寺観音堂(→神奈川県横浜市都筑区茅ヶ崎東3丁目)は、昨日ご紹介しました綱崎山 寿福寺(→神奈川県横浜市都筑区茅ヶ崎東1丁目)が管理する観音堂で、円通閣とも呼ばれ茅ヶ崎城址(→小田原北条氏の出城)から徒歩2分ほどの場所にあります。奈良時代に東大寺の廬舎那大仏造立に尽力した行基が長門国志賀の荒磯(→山口県下関市)で手に入れた高さ約204cmの正観音像(聖観音像とも)を、勧進(→大仏造立の資金集め)のため関東を廻っていた時に...
綱崎山 寿福寺(→神奈川県横浜市都筑区茅ヶ崎東1丁目)は、鎌倉時代前期に清和源氏の多田行綱の子の智空が長福寺として開基した真言宗寺院として始まり、鎌倉時代後期には都筑郡王禅村などを領有していた金沢流(かねさわ)北条貞顕(さだあき→15代執権)の帰依を受けました。室町時代に衰退したものの智空から7代目の空誓が江戸時代前期に浄土宗本願寺派として寺を中興し、その後、江戸時代中期の1716(享保元)年に8代将軍徳川吉宗の嫡子...
寿福寺(じゅふくじ)北条政子と源実朝の墓と伝わる五輪塔があります
このあたりは源頼朝の父、義朝の屋敷があったところと言われ、北条政子が頼朝の父、義朝の旧邸跡に明菴栄西を招いて創建、三代将軍実朝もしばしば訪れ最盛期には十数か所の塔頭を擁する大寺であったという、現在は中門の手前まで入ることができます。 北条政子の墓 源実朝の墓 画像はフォトムービーでもお楽しみください・・・・ 神奈川県鎌倉市扇ヶ谷JR横須賀線、鎌倉駅
先日鎌倉散歩をした際、ちょっと遅めのランチをとりました。メニューの選択肢は少ないのですがお料理が鎌倉彫の器で提供されるのが嬉しい! @鎌倉彫カフェ『倶利』鎌倉の豆腐の名店のおからを練りこんだハンバーグやふすまを練りこんだ野菜たっぷりのごまだれ和え麺など食後の珈琲も鎌倉彫の器で ! 器が美しいとお料理の格がグッとあがりますね(#^.^#) -*-*-*-*-*-*-*-*-*-...