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芳林山 向嶽禅院 戒翁寺(→神奈川県川崎市麻生区早野)は、戦国時代の天正年間(→1573年~1591年)に夏蒐山 修廣寺(→神奈川県川崎市麻生区片平2丁目)の3代住職玄頓和尚(げんとんおしょう)によって開山されたと伝わる曹洞宗寺院です。1590(天正18)年に小田原北条氏が滅亡すると北条家臣の庇護を失い衰退しましたが、江戸時代初期の寛永年間(→1624年~1645年)に北条遺臣から幕府旗本に取り立てられた富永重吉(とみながしげよし)が早...
麻生区役所保護課(麻生福祉事務所) 地図 住所 〒215-8570川崎市麻生区万福寺1-5-1 電話番号 044-965-5345 管轄エリア 川崎市麻生区全域 ホームページ 川崎市麻生区役所のホームページ 川崎市麻
笹子稲荷(→神奈川県川崎市麻生区万福寺3丁目)は、小田急線新百合ヶ丘駅近くにある、「奉納 高石山 法雲寺」と書かれた小祠です。もとは「万福寺笹合稲荷」の地にあったと伝わりますが、町の開発にともない移されたのだといいます。笹子稲荷は、地元の伝承によると平安時代末期の権力者である後白河法皇の娘・笹子姫を祀った稲荷だといい「狐の上に乗る笹子姫の神像」が祀られていると伝わります。1177(安元3)年6月、京都東山の鹿ヶ...
岡上神社(→神奈川県川崎市麻生区岡上)は、明治時代後期の1909(明治42)年3月16日に、国の一村一社政策により、剣明神社・日枝神社・宝殿稲荷社・関戸神社の4社を岡上村の中央にあった諏訪神社に合祀し、地名をとって「岡上神社」としたと伝わります。現在の岡上は周囲を東京都町田市と神奈川県横浜市青葉区に囲まれていますが、川崎市麻生区の飛び地となっています。合祀元となった剣神明社と諏訪神社は、どちらも創建年代等の詳細...
月読神社(→神奈川県川崎市麻生区上麻生)は、戦国時代の1534(天文3)年に麻生郷の領主小島佐渡守が伊勢神宮別宮の月読宮を勧請じ、居所の亀井城(→月読神社の敷地内)の東に社(やしろ)を建てたのが始まりです。江戸時代には上麻生村と下麻生村の鎮守社として崇敬を集めていたといいます。明治時代後期の1906(明治39)年に一村一社の勅令が発布され、全国的に「一村一社運動」が展開されます。月読神社も近隣の白山神社(山口谷)・熊野神...
多摩丘陵の里山散策の入り口は起業家たちの挑戦の場でもあった 小田急多摩線黒川駅
小田急多摩線で新百合ヶ丘から3つ目の駅は黒川駅である。そして、2つ目の急行通過駅でもある。多摩丘陵の散策のための入り口なのに、急行は通過してしまう。 きっと、里山を散策する人には、各駅停車を利用するような落ち着いた心を持ってもらいたい。そんな小田急電鉄の計らいがあるのだ...
2023年6月の司法書士所感です。タイトルは「遺産のルーツを知る」ですお金に色はない?遺産分割のヒントになれば幸いです。川崎市麻生区新百合丘司法書士田中康雅事務所
金龍王山 匡真寺(→神奈川県川崎市麻生区高石1丁目)は、戦後すぐに北山本門寺(→静岡県富士宮市北山)住職の片山匡真院日幹が開山したと伝わる日蓮宗寺院です。寺号は開山の院号「匡真」から採られているようです。ご住職によると寺宝として北山本門寺を開山した日興(→日蓮の本弟子の1人)の遺文や肖像画を所蔵しているといいます。創建当時は本堂周辺には住宅地がなかったそうですが、今は周囲を住宅地に囲まれ本堂の全体像を見ること...
川崎市麻生区は平均寿命が長い? 男女ともに全国一位になった理由を考えてみる
こんにちは、暖淡堂です。 以下のようなニュースがありました。 平均寿命 川崎市麻生区が男女とも全国最長 厚労省調査 川崎市麻生区は多摩丘陵地区の一画。 小田急小田原線の新百合ヶ丘駅を中心にした地域です。 ここに住んでいる人の平均寿命が全国一位だ...
みなさん、ゴールデンウィークはいかがお過ごしですか5月の司法書士所感です。お題は「AIさんそうは言っても」です ☝こちら川崎市麻生区新百合ヶ丘司法書士田中康雅事務所
自宅を売って老人ホーム等施設に入居を考えている皆さんは、売却の際、判断能力がない場合は、成年後見制度等を利用しないと売れないことはご存じだと思います。ただ、一旦成年後見制度を利用すると、一部の例外を除
二枚橋(→神奈川県川崎市麻生区高石3丁目)は、源義経が作り直したという伝承をもつ多摩川水系の五反田川にかかる橋です。川崎市に残る義経伝説をつなげてみると、義経主従は1180(治承4)年9月に藤原秀衡(ふじわらのひでひら)から与えられた軍勢を率いて奥州平泉(→岩手県西磐井郡平泉町)を発ち、鎌倉街道を南下して仙石山 寿福寺(→神奈川県川崎市多摩区菅仙谷1丁目)で戦勝祈願をし、五反田川を越える際に軍勢が通れるように橋を補強(→...
「押しつけ遺言」アリ?ナシ? アメブロ~ゆる(許)相続のすすめ
「押しつけ遺言」アリ?ナシ アメブロ~ゆる(許)相続のすすめ ☝こちらをクリック遺言の使い方のお話しです。
「全財産を相続させる」遺言で本当に大丈夫? アメブロ~ゆる(許)相続のすすめ
「全財産を相続させる」遺言で本当に大丈夫?アメブロ~ゆる(許)相続のすすめ ☝こちらをクリック相続人に対して「相続させる」遺言に関するアメブロです。
「遺産分割で弁護士に依頼するタイミングは?」アメブロ~ゆる(許)相続のすすめ
遺産分割で弁護士に依頼するタイミングは? アメブロ~ゆる(許)相続のすすめ ☝こちらをクリック
相続手続きについてのページを一部更新しました。動画も声付きになり内容も一部変更しました。低い声のイケボになりたかった。残念。ぜひお立ち寄りください。
【川崎男子高校生刺傷】同じ中学だった高1少年を逮捕「知らない」と否認 2人の間で何らかのトラブルか
川崎市麻生区にある桐光学園高等学校付近の路上で発生した男子高校生刺傷事件で、神奈川県警は被害者と同じ中学校に通っていた、川崎市麻生区に住む高校1年の少年(16)を殺人未遂容疑で逮捕。少年は「知らない」と容疑を否認しているという。2人の間に何らかのトラブルがあったとみて捜査。
【川崎高校生刺傷事件】被害者の元同級生とみられる少年 任意で事情聴取
川崎市麻生区の桐光学園高等学校付近の路上で6日朝、通学途中の男子高校生が近づいてきた男に突然、刃物で後頭部を刺され病院に搬送。搬送時に会話ができていて命に別状はないという。防犯カメラの捜査などから逃げた男は刺された高校生の元同級生とみられ、現在、任意で事情聴取されているもよう。
川崎市内には源義経(→源頼朝の異母弟)にまつわる史跡が数多く残されていますが、「弁慶の鍋ころがし」(→神奈川県川崎市麻生区百合丘3丁目)として知られる高台もその1つで、現在は「王禅寺見晴し公園」として整備されています。平安時代末期の1180(治承4)年10月21日に源義経は黄瀬川宿(→静岡県駿東郡清水町八幡)で源頼朝と「涙の対面」を果たし、呉座勇一氏はその際に義経は当時男子のいなかった頼朝の養子となったと指摘しています...
九郎明神社(→神奈川県川崎市麻生区古沢)は、鎌倉時代中期の建長年間(→1249年~1256年)に九郎判官(くろうほうがん)こと源義経(→源頼朝の異母弟)を祭神として祀った社を起源とする、旧古沢村の村社です。ただし、義経は「謀叛人」のため、社伝では「祭神不詳」という扱いになっています。戦国時代には記録から消えますが、江戸時代中期の1711(正徳元)年に「久能社」として再建されたようで、福正寺(→旧古沢村にあった寺)が別当寺とし...
正覚山 真宗寺(→神奈川県川崎市高津区下作延2丁目)は、昭和時代後期の1980(昭和55)年に創建された浄土真宗本願寺派寺院です。市内の2300墓地を備える真宗寺川崎霊園(→神奈川県川崎市麻生区王禅寺)を管理運営する寺院としても知られ、溝の口本堂・川崎霊園ともに金色の大きな阿弥陀仏が建っています。真宗寺川崎霊園の参道には地蔵を中心とする無数の石仏群が連なっており、江戸時代中期の年号が彫られたものや、幕末期の庚申講が奉...
雲長山 西光寺(→神奈川県川崎市麻生区黒川)は室町時代中期に西庵雲長が開基、修廣寺住職の孤岩伊俊が開山した曹洞宗寺院です。江戸時代には本山・末寺の制により夏蒐山 修廣寺(→神奈川県川崎市麻生区片平2丁目)の末寺でした。本尊は釈迦如来像ですが、創建当時は観音菩薩が本尊だったようです。そのためか、境内には大きな石の観音像が建っています。江戸時代後期の1830(文政13)年に編纂された『新編武蔵風土記稿』都筑郡黒川村の...
汁守神社(→神奈川県川崎市麻生区黒川1丁目)は創建年代は不詳ながら神仏習合時代には不動尊を本地仏(→神の本体)として祀る汁守神明社として崇敬されていました。江戸時代には金剛寺が別当寺として祭祀を司っていたようです。国の一村一社政策により1914(大正3)年に近隣の日枝神社などが合祀され、神饌幣帛料供進神社(しんせんへいはくりょうきょうしんしゃ→勅令に基づき例祭に神奈川県知事から金銭が贈られる神社)に指定されました...
麻生不動院(→神奈川県川崎市麻生区下麻生1丁目)は正式には明王山 不動院 般若坊といい、室町時代前期の応永年間(1394年~1428年)に第4代鎌倉公方足利持氏(もちうじ)の庇護により創建されたと伝わる真言宗豊山派寺院です。本山・末寺の制により江戸時代後期の1849(嘉永2)年に「東の高野山」の異名を持つ星宿山 蓮華蔵院 王禅寺(→神奈川県川崎市麻生区王禅寺)の末寺となりました。明治時代末期から毎年1月28日に境内で「だるま...
早野子ノ神社(→神奈川県川崎市麻生区早野)は、江戸時代の1703(元禄16)年9月26日に創建された神社で、別当寺を持たず村民が祭祀を司ったと記されます。社殿は1734(享保19)年5月と1928(昭和3)年に再建されたようです。1921(大正10)年に国の一村一社政策を受け近くの稲荷社・浅間社が合祀されました。1928(昭和3)年には神饌幣帛料供進神社(しんせんへいはくりょうきょうじんしゃ)となり、勅令に基づいて神奈川県知事から例祭などの神...
夏蒐山 修廣寺(→神奈川県川崎市麻生区片平2丁目)は、川崎市発行の『麻生の神社・仏閣』によると、室町時代の1443(嘉吉3)年に僧の恵俊(えしゅん)が片平村の夏蒐丘に夏蒐山 台廣寺を創建したところから始まる曹洞宗寺院です。戦国時代に高峯山 天寧寺(→東京都青梅市根ヶ布1丁目)の住職・松潤玄秀が現在地に移し、寺号を修廣寺と改めたようです。修廣寺の歴代住職は麻生区内や隣接する東京都町田市に多くの曹洞宗寺院を開山し、江戸時...
妙永山 善正寺(→神奈川県川崎市麻生区片平5丁目)は、戦国時代前期に小田原北条氏に仕えた大熊修理亮(しゅりのすけ)の一族といわれる僧の善正日中(生誕年不明~1505年)が大熊氏の屋敷跡に開基、善覚院日衆(生誕年不明~1520年)が開山したと伝わる日蓮宗寺院です。1559(永禄2)年に作成された小田原北条氏の軍役帳である『小田原衆所領役帳』で確認してみますと、片平郷は他国衆とされた大熊修理亮が28貫900文の知行(→北条氏が安堵し...
稲荷山 常念寺(→神奈川県川崎市麻生区栗木)は、鎌倉時代前期に浄土真宗の開祖親鸞(しんらん)の二十四輩(→親鸞の関東における24人の門弟)の第六番にあたる成然(じょうねん→常然とも)によって創建された浄土真宗本願寺派(西本願寺)の寺院です。もともとは現在の東京都町田市金井町入谷戸にありましたが、室町時代後期・戦国時代中期の1558(永禄元)年9月に時の住職の福受が現在地に移転し中興したと伝わります。この時の本堂と本尊は...
青谷山 林清寺(→神奈川県川崎市麻生区栗木台1丁目)は、江戸時代に僧・春朔(生誕年不詳~1664年)が創建した曹洞宗寺院で、柿生霊園を管理する寺院です。江戸時代後期の1830(文政13)年に編纂された『新編武蔵風土記稿』都築郡小机領栗木村には次のように記されています。**************************林清寺除地、村の西北の方にあり、禅宗曹洞派、長津田村大林寺末、青谷山と号す、開山春朔寛文四年(→1664年)六月九日寂す、客殿六間半...
白鳥神社(→神奈川県川崎市麻生区白鳥2丁目)は、旧片平村と旧五カ田村の鎮守社で、日本武尊(やまとたけるのみこと)を主祭神として祀り、神仏習合時代の愛染明王像(あいぜんみょうおうぞう)も祀られています。社号は日本武尊にちなんだ「白鳥」の地名から1868(明治元)年の神仏分離令以降に付けられたものと思われます。白鳥神社の創建年代は不詳ですが、安土桃山時代末期~江戸時代初期の慶長年間(1596年~1615年)に再建された社殿の...
栗木御嶽神社(→神奈川県川崎市麻生区栗木1丁目)は、旧武蔵国都築郡栗木村にあった日本武尊(やまとたけるのみこと)を祭神とする村社御嶽神社と素戔嗚尊(すさのおのみこと)を祭神とする無格社八雲神社(やくもじんじゃ)を、明治時代後期の1906(明治39)年に出された一村一社の勅令により、八雲神社の境内に両社を合祀して創建された神社です。現在の社殿は昭和時代後期の1987(昭和62)年に土地区画整備事業の一環で旧社殿の解体、遷座後...
稲荷森稲荷社(→神奈川県川崎市麻生区王禅寺東)は、旧王禅寺村の鎮守五社の1つで、入口谷戸の鎮守であったと伝わります。川崎市によると江戸時代初期に久保倉氏(→現在の王禅寺町内会の会長)の先祖が村の安穏と五穀豊穣を祈るため京都伏見稲荷大社(→京都府京都市伏見区深草)から勧請したといいます。稲荷森稲荷社の近くに久保倉姓の住居がありましたので関係があるのでしょうか。神奈川県神社庁の管轄外の社(やしろ)の詳細は不明です...
武州柿生 琴平神社(→神奈川県川崎市麻生区王禅寺東)の境内社である「福寿稲荷」は、江戸時代後期の1824(文政7)年に嬬恋稲荷総社(→群馬県、関東二十八カ国稲荷総社)から勧請したと伝わります。1846(弘化3)年に社殿を再建した際に「福寿稲荷大明神」と改称し、三座に稲荷大明神・多賀大明神・塩釜大明神を祀ったといいます。琴平神社では稲荷社・多賀社・塩釜社の3社をまとめて「お多賀さん」と呼びならわし、「福寿稲荷」と書きあら...
武州柿生 琴平神社(→神奈川県川崎市麻生区王禅寺)は、創建年代等の詳細は不明で『新編武蔵風土記稿』にも記載がありませんが、社伝によると戦国時代の1570(元亀元)年頃には創建されていたといいます。江戸時代初期の王禅寺村は、2代将軍徳川秀忠の正室・崇源院(→お江の方)の化粧料となり、代官として大久保長安や神谷弥五郎らが治め、年貢は酒井讃岐守に納められました。琴平神社が建つ場所は、1711(正徳元)年以前は「伊勢山」と呼...
久しぶりに武州柿生 琴平神社本殿(→神奈川県川崎市麻生区王禅寺東5丁目)を訪問しました。赤い大鳥居があるほうは儀式殿・社務所・摂社などがある場所で、「琴平神社」交差点を挟んだ石の鳥居と長い石段を登りきった高台にあるほうが本殿と拝殿になります。江戸時代後期の1826(文政9)年に建立された奥院にあたる本殿と拝殿を含む御社殿は、2007(平成19)年に放火によって全焼しました。本殿の天井には渡辺崋山(わたなべかざん)...
南嶺山 香林寺(→神奈川県川崎市麻生区細山3丁目)は、鎌倉五山第1位の臨済宗建長寺派に属する禅刹で、本尊は十一面観音菩薩像で「身代わり観音」とも呼ばれています。寺紋は建長寺と同様に鎌倉北条氏(→建長寺を開基)の家紋・三鱗紋(みつうろこもん)を使用しています。↓↓巨福山 建長寺についてhttps://rashimban1.blog.fc2.com/blog-entry-399.html香林寺は、戦国時代の1525(大永5)年に仙谷山 寿福寺(→神奈川県川崎市多摩区)の...
細山神明社(→神奈川県川崎市麻生区細山)は、「神明社」の名前の通り天照大神(あまてらすおおみかみ)を主祭神として祀る神社です。拝殿や本殿のある山の中腹には江戸時代以前の神仏習合時代の名残りを思わせる地蔵尊がいくつも建っています。しかし、それら地蔵尊の多くは首が修復されており、明治時代初期に行われ廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)運動で破壊された痕跡が見てとれます。社伝によると細山神明社は鎌倉時代初期に創建され...
稲荷神社(→神奈川県川崎市麻生区王禅寺)にある小さな祠で、旧王禅寺村の鎮守五社の1つである山王社の石段の中間地点の左手にあります。稲荷神社専用の石段もあります。江戸時代後期の1830(文政13)年に編纂された『新編武蔵風土記稿』の山王社条(→ページ)には「末社稲荷社。本社に並びてあり、小祠なり」と書かれています。江戸時代には山王社の末社として並んで建っていたようですが、現在は山王社の石段の中間地点あたりに朱塗り...
真福寺跡(神奈川県川崎市麻生区)と柿生トンネル跡を訪問しました
星光山 真福寺跡(→神奈川県川崎市麻生区王禅寺)は、明治時代初期の廃仏毀釈(はいぶつきしゃく→仏教排斥運動)によって廃寺となった旧真言宗豊山派寺院の跡地です。神仏習合の頃は地域で最も歴史と格式のある星宿山 蓮華蔵院 王禅寺(→同)の末寺に属しました。真福寺は、江戸時代後期の1830(文政13)年に編纂された『新編武蔵風土記稿』都筑郡王禅寺村の条に次のように記されています。*********************************王禅寺村真福...
萬松山 潮音寺(→神奈川県川崎市麻生区高石)は、室町時代中期の永享年間(1429年~1441年)に鎌倉五山第1位の建長寺89世・日峯法朝が開基した臨済宗建長寺派寺院がもとになっていまます。江戸時代後期の1830(文政13)年に編纂された『新編武蔵風土記稿』によると、戦国時代に廃寺同然となり、菅(すげ)村の臨済宗建長寺派寺院寿福寺(→神奈川県川崎市多摩区菅仙谷)の末寺になった後、武田氏滅亡後に徳川家康の家臣(御家人)となり高石の地...
比川社(→神奈川県川崎市麻生区王禅寺東)は、創建年代等の詳細は不明ですが、旧王禅寺村の鎮守五社の1つで神仏習合の頃は第六天社と呼ばれていました。1868(明治元)年神仏分離令を受け比川社と改称され、今日に至っているといいます。境内の石碑には、「當社(→当社)は武蔵国一之宮 埼玉県大宮市 旧官弊社大社氷川神社の御分霊を江戸時代の初期 王禅寺鎮守 産神五社 山王大権現 神明宮 稲荷宮 大六天宮 白山大権現の一社と...
高石山 法雲寺(→神奈川県川崎市麻生区高石2丁目)は、安土桃山時代に武田遺臣で徳川氏の旗本となった武田一族の加賀美正光が開基し、僧の誉心が開山したと伝わる臨済宗(→現在は曹洞宗)寺院です。加賀美正光は高石神社(→神奈川県川崎市麻生区高石)を創建した人物ととしても知られます。法雲寺は、明治時代の廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)でいったん廃寺になり、昭和時代前期の1940(昭和15)年に曹洞宗寺院として再興されました。さて、...
十二神社(→神奈川県川崎市麻生区万福寺)は、小田急線の新百合ヶ丘駅近くにある神社で、江戸時代中期の1711(正徳元)年11月1日に創建されたと伝わります。当時の万福寺村は17~18戸ほどでしたが、地元の有力者が資金を出し合い幕末期の1851(嘉永4)年9月12日にに社殿を再建したといいます。現在の万福寺は人口が増えて1丁目~6丁目までで9476人(→2023年)が住み、高級マンションがずらりと並ぶ景観となり、2005(平成17)年に鳥居と社殿...
高石神社(→神奈川県川崎市麻生区高石)は、江戸時代前期の1654(承応3)年にこの地を治めた旗本の加賀美正吉(かがみまさよし)が創建したと伝わる神社で、創建当時は「伊勢宮」と称していました。加賀美氏は甲斐武田氏の一門ですが、正吉の父・加賀美正光(かがみまさみつ)は1573(天正元)年生まれなので、1582(天正10)年3月11日に甲斐武田氏がが滅亡した時には数え年10歳でした。甲州合戦の際にはどこかに潜伏していたのでしょう。当時...
秋葉大権現(→神奈川県川崎市麻生区上麻生6丁目)は、麻生山 寿光院 浄慶寺にある神仏習合の名残りを偲ばせる境内社です。「秋葉宮」と掲げられた鳥居をくぐると徳川将軍家の菩提寺(→徳川家康の母・於大の方の墓所がある)の一つである無量山 小石川伝通院(→東京都文京区小石川)から移された一対の狛犬があります。参道脇には七福神の石像や浄慶寺の羅漢像があり、その時々の世相を反映した羅漢像でにぎわう「浄慶寺らしさ」も感じま...
麻生山 寿光院 浄慶寺(→神奈川県川崎市麻生区上麻生6丁目)は、安土桃山時代の1584(天正12)年に北条氏遺臣で徳川氏旗本となった三井左衛門尉(みついさえもんのじょう、法名寿光院清誉浄慶居士)が開基し、僧の証蓮社誠誉順阿長応が開山したと伝わる浄土宗寺院です。創建時の山号・院号は滝沢山 春林院であったと記されます。境内には神仏習合の名残りで秋葉大権現(秋葉神社)があり、一対の狛犬は徳川将軍家の菩提寺の一つである無量...
山王社(→神奈川県川崎市麻生区王禅寺)は、創建年代等の詳細は不明ですが、旧王禅寺村の鎮守五社の1つで、星宿山 王禅寺の鬼門除けに建立された社(やしろ)と伝わります。「さんのうしゃ」ではなく「さんおうしゃ」と読むようです。1868(明治元)年の神仏分離令以降は日枝神社とも呼ばれました。鳥居の近くには江戸時代の石造の馬頭観音や石仏群があり、神仏習合の頃の名残りが見られます。〖祭神〗・大山昨神(おおやまくいのかみ)...