メインカテゴリーを選択しなおす
今日は「お香の日」だそうだ。そこで、今日は道元禅師の教えから、「お香」について論じられた箇所を学んでみたい。・受者、先ず教授師の寮に到り、先ず教授に問訊し罷りて、右手にて香を上り、香炉に挿む〈沈香・箋香等の小片を焼くなり〉。『仏祖正伝菩薩戒作法』・威儀を具すといふは、袈裟を著し、坐具をもち、鞋襪を整理して、一片の沈・箋香等を帯して参ずるなり。『正法眼蔵』「陀羅尼」巻前者は、宗門室内行持の1つだが、「仏祖正伝菩薩戒」を師資相伝する際の作法の中に出て来る一文である。その中に、教授師という授戒には欠かせない師の1人に対して礼拝する場面や、後者は善知識に対する礼拝を行う時の威儀だが、ともに道元禅師は丁寧な作法と、その時に焚くべき「お香の種類」を提示されている。名前として挙がっているのは、「沈香・箋香等」である。沈...道元禅師とお香について
御開山である道元禅師の時代からは、少し後の記録だが、以下のような一節がある。△中興和尚、永平寺に御住中、虚空に鐘声鳴る。此嘉暦二年四月十六日也。開山和尚御現住の時も堂に鐘声鳴しが、今吾住山の中にも亦鐘声ありとて、中興和尚御悦不尋常。此鐘声により、軈て勧進に思食し立ち、今の大鐘を鑄立て給。此義、則ち鐘の銘に書付給也。『建撕記』嘉暦2年とは西暦では1327年であり、当時の永平寺は五世・義雲禅師(1253~1333)が住持を勤めておられた時代である。それで、その年の夏安居が始まった4月16日に、空から鐘の音が鳴ったとされている。この現象は、道元禅師の御在世時にも発生したとされる。建長三年、当山の奧に常に鐘声の聞ゆる事、自檀越相尋について御返事也。御尋について申候。此七八年之間は、度々に候也。今年正月五日子の時、...永平寺の鐘が響いた日
今日4月15日は、暦や季節感などを無視してしまえば、古来より「夏安居」の開始日として定められていた「結夏」の日に当たる。なお、現在では5月15日を一般的な「結夏」としているので、古来より行われていた結夏に関する説法などを見ると、若干のズレがある。であれば、5月15日に「結夏」の記事を書けば良いのかもしれないが、とりあえず今日にしておきたい。結夏の上堂に、云く、百草、如今、将に夏を結ばんとす。拈来の尽地、万千茎。一華五葉、天沢に開く。結果自然、必ず当生なり。『永平広録』巻1-44上堂道元禅師がまだ京都宇治の興聖寺に居られた頃、仁治2年(1241)に行われた結夏上堂である。道元禅師は、後には結夏の開始を、上堂ではなくて、小参で行うようになり、また後には中国曹洞宗の宏智正覚禅師や、中国臨済宗の黄竜慧南禅師の説法...4月の結夏5月の結夏
明日4月15日から、夏安居(とはいえ、新暦の現在では5月15日)の結制となる。ところで、曹洞宗は道元禅師による伝来当初より、「安居」を導入していたと思われるが、15日の結夏を前に行われる行持を確認してみたい。四月十四日の斎後に、念誦牌を僧堂前にかく。諸堂、おなじく念誦牌をかく。至晩に、知事、あらかじめ土地堂に香華をまうく、額のまへにまうくるなり。集衆念誦す。念誦の法は、大衆集定ののち、住持人、まづ焼香す、つぎに、知事・頭首、焼香す。浴仏のときの、焼香の法のごとし。つぎに、維那、くらいより正面にいでて、まづ住持人を問訊して、つぎに土地堂にむかうて問訊して、おもてをきたにして、土地堂にむかうて念誦す。詞云、竊以薫風扇野、炎帝司方、当法王禁足之辰、是釈子護生之日。躬裒大衆、粛詣霊祠、誦持万徳洪名、廻向合堂真宰。...4月14日「夏安居」を前に
現在の曹洞宗の宗典になっている『修証義』の思想構造について考えてみると、いわゆる「四大綱領」を基本にしていることは明らかだが、「四大綱領」を考えた大内青巒居士の見解を参照すると、大事なのは「受戒入位」と「行持報恩」になる。そして、これは以前、別の文章でも書いたことがあるのだが、青巒居士がこの2つを基本に据えたのは、「四恩十善」という考えが元になっているとされる。「四恩十善」については、青巒居士が主体的に関わった明治時代初期の仏教結社であった和敬会や明道協会などで重視された。そして、この記事で見ておきたいのはこの原典であり、本来ならばどういう文脈で語られたものなのか?ということである。然るに、「四恩十善」というのは、伝統的な文脈に存在しているのだろうか?その辺について見ておきたい。ところで、青巒居士は浄土宗...「四恩十善」にかかる雑考
現代の用語としては、「祖父」とは「父または母の父」、つまりはお祖父さんを意味する言葉である。以下の一節も同様であるといえる。唐憲宗皇帝は、穆宗・宣宗両皇帝の帝父なり。敬宗・文宗・武宗三皇帝の祖父なり。道元禅師『正法眼蔵』「光明」巻これは、血縁関係上の「祖父」をいっていることが分かる。憲宗(778~820)は、唐王朝第14代の皇帝であり、皇太子の長男が若くして亡くなったことで仏教に深く帰依をした。晩年は精神的に疾病を発症し、そのために暗殺されてしまった人である。しかし、その実子である穆宗(憲宗の三男、第15代皇帝)・宣宗(憲宗の十三男、第19代皇帝)が皇帝となり、穆宗の実子である敬宗・文宗・武宗も皇帝となった。なお、中国仏教史上最悪の仏教弾圧である「会昌の破仏」は、この武宗によって引き起こされた。さて、その...『正法眼蔵』に見える「祖父」という言葉
ちょっと読んでいたら、意外な記載を見付けたので、記事にしておきたい。まず、タイトルにもある『大悲呪』とは、『大正蔵』では巻20に収録されている『千手千眼観世音菩薩広大円満無礙大悲心陀羅尼経』に入っている陀羅尼である。そこで、曹洞宗で同陀羅尼は、道元禅師の時代から用いられていた。米を択び菜を択ぶ等の時、行者諷経して竈公に回向せよ。いわゆる諷経とは、安楽行品・金剛般若・普門品・楞厳咒・大悲咒・金光明空品・永嘉証道歌・大潙警策・三祖信心銘等なり。随宜に諷経して竈公に回向するなり。回向に云く、上来某経を諷誦す。又云く、上来諷誦する功徳は、当山竈公真宰に回向す。法を護し人を安んずるものなり。十方三世一切諸仏、諸尊菩薩摩訶薩、摩訶般若波羅蜜。堪能の行者を請して、諷経頭と作せ。『永平寺知事清規』「典座」項以上の通りだが...曹洞宗の回向文に於ける『大悲呪』の呼び方について
今日は4月9日なので、「四苦」の話をしてみたい。ところで、明治期より前の日本仏教で、例えば釈尊の教えがどのように語られていたかを見ていくと、現在我々が知っているような様子では無いことが分かる。縁起説や四諦八正道などは、ハッキリ言ってほとんど無いと言って良い。結局の所、大乗仏教まで含めて釈尊の直説だと思われていたのだが、そうなると阿含教系の教えは、初心者、或いは声聞向けだと判断されて、大乗仏教国となった中国や日本で積極的に採り上げる理由が無かったのである。そのような意味で、「四苦」という用語について調べてみると、おそらく道元禅師は用いておられない。ただし、関連する概念が全く無いということではない。例えば、以下の一節はどうか?三乗一者声聞乗四諦によりて得道す。四諦といふは、苦諦・集諦・滅諦・道諦なり。これをき...四苦の話(令和6年度版)
本日4月8日は三仏忌の一、釈尊降誕会(灌仏会・浴仏会・仏生会・花まつり)である。お釈迦様のお誕生日である。なお、江戸時代の様子については既に【4月の和名「卯月」に関する雑考】でも示したが、更に以下の一節も紹介しておきたい。〔八日〕釈迦誕生灌仏会賑ふ、寺院しるしつくしがたし、△諸人、門戸へ卯の花を挿す、薺草を行灯に掛て虫除とし、又蛇よけの歌を厠へ貼る、歌は諸人のしる所也、三田村鳶魚先生『江戸年中行事』中公文庫、380頁やはり、「卯の花」を門戸に挿すことは、江戸時代の流行だったことが分かる。その上で、虫除けや蛇除けをしたそうだが、後者の蛇除けが「厠(トイレ)」であることが、当時の現実を示しているように思う。釈尊の降誕会に、虫除けや蛇除けが行われた経緯が知りたいが、今のところは良く分からない。その上で、今年は簡...今日は釈尊降誕会(令和6年度版)
ちょっとした雑考であるが、もしかするとこれは、拙僧が禅宗の僧侶だからかもしれない。おそらく、一部の日蓮宗系の教団とかだと、この辺が信仰や教義上の生命線となり、必死になって議論している人もいることだろう。まぁ、拙僧どもは、その意味で禅天魔だから関係無いか。さて、初期曹洞宗教団の「本尊」について、ちょっとした考察をしてみたい(というか、先行研究が複数存在しているので、それらを読みたい人は、読まれると良いと思う)。まず、高祖道元禅師が自ら開かれた京都深草興聖寺と越前大仏寺(後の永平寺)について、以下の記述が知られる。聖節の看経といふ事あり。かれは、今上の聖誕の、仮令もし正月十五日なれば、先十二月十五日より、聖節の看経、はじまる。今日上堂なし。仏殿の釈迦仏のまへ、連床を二行にしく。いはゆる、東西にあひむかへて、お...初期曹洞宗教団の「本尊」に関する一考察
相手を言い負かして勝ったところで恨まれるだけです(勝ちは相手にゆずりましょう)
曹洞宗のお寺の住職さんで、庭園デザイナーをされている桝野俊明(ますのしゅんみょう)さんのご本です。 👇『大地黄金の開運術』 『大地黄金の開運術』 枡野俊明 …
一昨日の記事をアップした関係で、昨日も今日も記事の日付が後ろにずれてしまった。ということで、「清明」の記事を用意していたのだが、すっかり一日遅れになってしまった。二月末、若しくは三月初、三月の節日に入る、是の日、清明なり。皆な鎮防〈火〉燭を書いて、札に三宝印を行ず。日中諷経の次で、消災咒一遍を誦し、諸堂・諸寮の柱に押貼す。或いは大檀越并びに諸庵、及び諸檀越の舎に賦す。此の日、大国換火す。若しくは換火を鑽るには、楡・柳を用いるべし。楡を錐と為し、柳を台と為す。或いは柳を錐と為し、楡を台と為す。火、若しくは換うるが如きは、諸堂及び山中の諸庵、諸もろの小屋の火、皆な之を換うるべし。『瑩山清規』巻上「年中行事」以上の通り、曹洞宗の太祖・瑩山紹瑾禅師の頃には既に、「清明貼符」を行っていた。そもそも、清明には「鎮防火...昨日が清明だったとのこと
そういえば、4月3日の禅林行持といえば、「夏衆戒蝋牌草」を出すというのがあった。四月三日、必ず夏衆戒蝋牌草を出す。名づけて草単と称す。尚お戒蝋の次第を正さんと為すなり。式に云く、日本国加州山寺海衆の戒蝋、後の如し、陳如尊者堂頭和尚正元元戒某甲上座正應元戒某甲上座右、謹んで具呈す、若し誤錯有らば、各おの指揮を請う。謹んで状、元亨四年四月三日堂司比丘〈某甲〉拝状三日の粥罷自り、放参了りまで出して、之を収む。此の如く三日間、出入の後、収め置くなり。若し衆の指揮有らば、其れに随いて牌上に載定す。『瑩山清規』巻上「年中行事」まず、上記の一節は何かというと、禅林の安居に於いては、「戒臘(出家得度してからの年数)」で僧侶の順番を定めたので、その順番を書いた下書き(夏衆戒蝋牌草)を4月3日に出して、安居のために集まってき...4月初頭の禅林行持について
以下の一節をご覧いただきたい。此ゆへに若仏道を修行せんと思はん人は、ゆめゆめ方便の道に入事なかれ、いたづらにらうして功ある事有べからず、直に円頓の法門に入ば、ちからをついやさずして、すみやかに本覚にいたるべし『永平和尚業識図』「遺教に依りて仏乗を論ずる篇第七」このように、仏道修行に入ろうと思う場合は、方便の道に入ったところで、無駄に苦労するだけであるため、直に円頓の法門に入り、力も入れずに、速やかに「本覚」へ到るべきだという。つまり、自らが生まれながらに具えている仏陀の悟りを否定しなければ、修行などを経ずとも良いのである。・・・まぁ、今日は4月1日でエイプリルフールなので、注意喚起も含めて記事を書いているのだが、本書は道元禅師に仮託されてしまった偽書である。詳細は、上掲の拙Wikiをご覧いただければと思う...道元禅師が示された本覚思想?
道元禅師の会下にいた、達磨宗の懐鑑首座が、先師である仏地覚晏道人のために上堂を請したことがあった。以下の通りである。懐鑑首座、先師覚晏道人の為に上堂を請す。拈香罷、座に就いて払子を取って云く「前来の孝順、誰人か斉肩ならん。今日の廻向、聖霊炳鑑すべし。弟子が先師を仰ぐの深き志、先師独り知る。先師、弟子を憐れむの慈悲、弟子一り識る。余人焉ぞ知らん、外人未だ及ばず。所以に道う、『有心もって知るべからず、無心もって得るべからず、修証もって到るべからず、神通もって測るべからず』と。這田地に到って如何が商量せん」。卓、拄杖して云く「唯、拄杖有って了々常に知るのみ。拄杖甚と為てか了々常知するや。職として、過去の諸仏も也、恁麼、現在の諸仏も也、恁麼、未来の諸仏も也、恁麼。然も是の如くなりと雖も、這箇は是、仏祖辺の事、作麼...道元禅師の覚晏道人への上堂は「宣疏」だったのか?
道元禅師も『永平広録』巻3-197上堂で引用されている一句に「其の師を観んと欲せば、先ず弟子を観よ」というのがある。これは、元々雲門宗の派祖である雲門文偃禅師(864~949)の言葉(『雲門広録』に初出)であるとされ、禅宗特有の考え方と言ってしまえばそれまでだが、しかし、この考え方からすると目に余る発言が、最近ネット上で多いような気もする。それは、自ら会得してもいないのに、自分の師の言葉をネット上で開陳することである。別に、特定の宗派などに限定された話ではないが、真剣に学ぼうとする方であればあるほど、そのような傾向にある気がする。まぁ、全てが悪いというつもりはないが、しかし、その自分の言葉によって自分だけではなく師まで一緒に観られているという自覚に乏しいような気がする。これは、例えば師の言葉だけを引いて、...その師を観るには先ず弟子を観よ
坐禅終了時の鳴鐘について、どうも2つの呼び方がある気がしていた。拙僧は以前、「抽解鐘」という名称を聞いていた気がするのだが、他に「放禅鐘」という言い方をしている人もいる。そう思っていたら、経行終了時と坐禅終了時とで名称が違うという表現をしていた人もいた気がするのだが、どうなんだろうか?この辺、決まっているのかな?と思い調べてみたら、結果は以下の通りであった。・「抽解鐘」経行または坐禅を終る時、小鐘一声。『昭和改訂曹洞宗行持軌範』339頁昭和27年の『昭和改訂』本では経行と坐禅の両方ともで、終了時の「小鐘一声」を「抽解鐘」だとしている。拙僧が最初に聞いていた名称はここが典拠となっている。だが、これがこうなった。・「放禅鐘」経行又は坐禅を終るとき、小鐘一声。『昭和訂補曹洞宗行持軌範』394頁鳴鐘法としては全く...坐禅終了時の鳴鐘の名称について
今日は春の彼岸会の御中日である。ところで、現在用いられている新暦での「春分の日」は、毎年大体これくらいの日付になるが、旧暦の場合は以下の通りであった。・旧暦の春分:2月中(2月後半)・旧暦の秋分:8月中(8月後半)現代は、太陽暦であるので、春分も秋分も毎年にそれほど大きな日付のズレは起きないそうだが、旧暦の「太陰太陽暦」の場合、数日から10日以上のズレも起きたそうである。これは、毎月の日付を月に合わせており、年単位で太陽との関係によるズレを解消していくため、当然というべきか。さて、今日は御中日であるので、簡単に彼岸会の説法などを見ていきたいと思うのだが、おそらく、曹洞宗関係者で、最初に彼岸会を論じられたのは、高田道見先生による『彼岸の由来』(国母社・1895年)であったと思われる。これは、同書冒頭にも書い...春の彼岸会御中日(令和6年版)
曹洞宗は行持綿密であり、作法是宗旨の宗風であるとされるが、その根拠になったのは道元禅師『永平清規』と、瑩山禅師『瑩山清規』であったといえよう。特に、『瑩山清規』の特徴は年中・月中・日中・臨時の各行持を組織化したことであり、この通り行ずれば、叢林での修行が成立するのである。さて、今日はその中で、月中行事の「十五日」について、見ておきたい。十五日粥時に歎仏、粥罷に人事、祝聖諷経、上堂・巡堂朔望と一致。斎罷に布薩す、作法、別紙有り。『瑩山清規』巻下詳細を見ていきたいが、まず「粥時に歎仏」とあるが、これは朝食の時に、「歎仏」することを指しているが、行法は『赴粥飯法』由来だろうか?その前に、瑩山禅師御自身のご見解を見ておきたい。四日以下、居常に十仏名、歎仏無し。只だ云く、仰惟三宝咸賜証知、仰憑尊衆念。『瑩山清規』「...『瑩山清規』に見る「十五日」の話
宝治2年(1248)3月14日、道元禅師は永平寺にて帰山の報告をされた。宝治二年〈戊申〉三月十四日の上堂に云く。山僧、昨年八月初三日、山を出でて相州鎌倉郡に赴き、檀那俗弟子の為に説法す。今年今月昨日、帰寺、今朝陞座す。這一段の事、或いは人有って疑著す。幾許の山川を渉って、俗弟子の為に説法する、俗を重くし僧を軽んずるに似たり、と。又た疑わく、未曾説底の法、未曾聞底の法有りや、と。然而、都て未曾説底の法、未曾聞底の法無し。只だ、他の為に説く、修善の者は昇り、造悪の者は堕つ、修因感果、抛塼引玉のみなり。然も是の如くなりと雖も、這一段の事、永平老漢、明得・説得・信得・行得なり。大衆、這箇の道理を会せんと要すや。良久して云く、尀耐、永平が舌頭、説因・説果・無由。功夫耕道、多少の錯りぞ。今日、憐むべし水牛と作ることを...道元禅師による永平寺帰山の上堂について
江戸時代初期の禅者・鈴木正三道人(1579~1655)には、色々な教えが残されているが、晩年の語録に相当する『驢鞍橋』から、今日は教えを学んでみたい。夜話の次でに去る僧云、町を通り見れば、用も無き物をちよつとほしいものかなと思ふ心出づる也。師曰、夫れは餓鬼道に久しく在りし習気なるべし。時に又一人在り曰、某も随分此心を滅せんと仕れ共、なにとしても失はず。師曰、其心にさからうべからず、唯一筋に念仏せらるべし。念仏の功積らば、万事は自ら失ふべし、と也。『驢鞍橋』上-66この正三の指摘は、まさに、社会や、多くの事物に心惹かれてはならないことを示す。しかし、その煩悩を消すためには、どうすれば良いか、という実践的なことが示されている。いわば、関心の方向を変えるということと、後は一意専心の状態を保持することである。どう...心のあり方を変える実践法
ちょっとした考察である。曹洞宗には「洞雲寺」という呼称の寺院(拙寺に関係している寺院にも同名の寺院がある)があるのだが、この由来が気になった。それで、禅語を調べてみたけれども、特に無い。例えば、以下の一節は見出した。却って将に諸仏諸祖、徳山臨済曹洞雲門、真実の頓悟見性法門をもって建立すると為す。『大慧普覚禅師宗門武庫』ここで、「曹洞・雲門」を並べた時に「洞雲」という表記になるが、これは特定の意味を持った言葉ではない。その意味では、中国曹洞宗の宏智正覚禅師が、以下のように述べている。・洞雲、雨を成すなり。『宏智広録』巻4・石牛哮吼して、洞雲白を生ず。同巻8こうなると、「洞雲」は雨などを生じる雲の位置付けになる。それで、どうやら「洞雲」という用語は、山の洞窟から沸き上がる雲であり、更には仙境にかかる雲という意...洞雲寺という寺院の名称に関する一考
とりあえず以下の一節をご覧いただきたい。万菴曰く、叢林の至る所、邪説熾然たり。乃ち云く、戒律必ずしも持せず、定慧必ずしも習わず、道徳必ずしも修めず、嗜欲必ずしも去らず。又た、維摩・円覚を引いて証と為し、貪瞋痴・殺盗婬を賛じて梵行と為す。烏乎、斯の言、豈に特に叢林今日の害を起こすのみならんや。真に法門万世の害なり。且た博地の凡夫、貪瞋愛欲・人我無明、念念攀縁して、一鼎の沸くが如し。何に由りて清冷せん。先聖、必ず大に此に於こる者の有ることを思って、遂に戒定慧の三学を設けて以てこれを制す。庶くは迴すべきなり。今、後生晩進、戒律を持さず、定慧習わず、道徳修めず、専ら博学強弁を以て流俗を搖動す。これを牽くとも返ること莫し。予、固より所謂、斯の言は乃ち万世の害なり。惟うに正因行脚の高士、当に生死の一著を以て弁明して誠...或る禅僧による持戒に関する歎き
[持たない] [ 枡野 俊明 ] 価格:1,540円(税込、送料無料) (2024/3/11時点) 楽天で購入 曹洞宗徳雄山建功寺住職で庭園デザイナーの枡野俊明さんのご本です。「持たない」というと、いらないものは
今日は、3月10日である。昨日まで、日付に従った記事を書いていたのだが、今日も懲りずに語呂合わせ的記事を書いてみたい。主として大乗仏教で広く用いられる「三世十方」という言葉がある。意味としては、過去・現在・未来の三世、そして、上下・八方を総じて十方となる語句を組み合わせ、あらゆる時間・空間を意味する言葉である。この言葉が用いられる背景としては、結局は存在する全ての事象に、特定の「法」が適用されることを示すものである。例えば、こういう一文だと理解しやすいのでは無かろうか。しかあれども、最後身の菩薩、すでにいまし道場に坐し、成道せんとするとき、まづ袈裟を洗浣し、つぎに身心を澡浴す。これ三世十方の諸仏の威儀なり。最後身の菩薩と余類と、諸事みなおなじからず。『正法眼蔵』「洗面」巻この文意は、最後身の菩薩というのは...「三世十方」のお話
今日3月9日は、語呂合わせで「サンキューの日」、転じて「ありがとうの日」である。「ありがたい」という気持ちがあれば、自ずとそれは我々にとって貴重な想いを抱かせ、感謝や尊敬の念を生むものである。ところで、曹洞宗の『修証義』、つまり「四大綱領」には「行持報恩」という項目がある。行持を行うことで、報恩となることだが、『修証義』では、次のような故事をもって報恩の重要性を明らかにしている。・利行というは貴賎の衆生に於きて利益の善巧を廻らすなり、窮亀を見病雀を見しとき、彼が報謝を求めず、唯単えに利行に催おさるるなり。「第四章・発願利生」・病雀尚お恩を忘れず三府の環能く報謝あり、窮亀尚お恩を忘れず、余不の印能く報謝あり、畜類尚お恩を報ず、人類争か恩を知らざらん。「第五章・行持報恩」これらに共通するのは、「病雀三府環」「...今日3月9日は「ありがとうの日」(令和6年版)
今日は、三月八日である。ちょうど、「3」と「8」の数字が重なっているので、語呂合わせ的に「三八念誦」の話をしたいと思う。三八念誦というのは、禅宗叢林で行う念誦(仏名のお唱え)のことであり、特に3と8が末に付く日に行ったので、「三八念誦」と通称される。行う目的は、念誦の回向文を見ると分かる。念誦〈三日〉皇風永く扇ぎ、帝道遐かに昌たり、仏日輝きを増し、法輪常に転ず。伽藍土地、護法安人し、十方の施主、福を増し慧を増さんことを。如上の為に縁を念ず。〈十仏名之れ在り〉念誦〈八日〉大衆に白す。如来大師入般涅槃し、今に至って日本〈某〉年、已に二千二百歳を得たり。是の日已に過ぎ、命亦た随って減ず。小水の魚の如し。斯に何の楽しみか有らん。衆等、当に勤精進して頭燃を救うが如くせよ。但だ無常を念じて慎んで放逸なること勿れ。伽藍...三八念誦の話(令和6年版)
原始仏教以来、仏道修行者にとっての衣食住とは「四依法(衣食住+薬)」に見るように、一切のとらわれから脱しなくてはならず、世間の人が用いないもの、捨てるものを利用して生活していた。それとは直接関係無いが、鎌倉時代の僧侶の中には、この辺を別様に整理した事例があった。又云、衣食住の三は三悪道なり。衣裳を求かざるは畜生道の業なり。食物をむさぼりもとむるは餓鬼道の業なり。住所をかまふるは地獄道の業なり。しかれば、三悪道をはなれんと欲せば、衣食住をはなるべきなり。『一遍上人語録』こちらは、時宗の開祖となる一遍上人(1239~89)の語録から引用してみた。なお、一般的に一遍上人とは呼称されるが、僧名などを表記すると一遍智真上人というべきか。ところで、一遍上人の教えの本質について、例えば岩波文庫本の『一遍上人語録』の校注...仏道者にとっての衣食住とは?
まぁ、今日は3月6日なので、語呂合わせから「三徳六味」について見ていきたい。この語句について、現今の曹洞宗では、昼食時の首座施食の偈文の一句として知られている。三徳六味〈三徳とは、一には軽軟、二には浄潔、三には如法作なり。六味とは、一には苦、二には醋、三には甘、四には辛、五には醎、六には淡。涅槃経に云云す〉、施仏及僧、法界有情、普同供養。道元禅師『赴粥飯法』一句目に「三徳六味」とあるのが理解出来よう。なお、この読み方だが、「さんてるみ」と発音している。唐宋音ということになるのだろうなぁ。それで、意味は、先の引用文に見える割註の通りである。なお、「涅槃経に云々す」とあるのは、大乗の『大般涅槃経』巻一「寿命品第一」に挙がっているこの数字のことを指しており、同箇所では在家信者が仏と僧侶のために食事を調える様子の...「三徳六味」の話(令和6年版)
今日は3月5日、拙僧は勝手に語呂合わせで「山居(さんご)の日」だとしている。山居とは、端的に「山に居す」だが、奥深い山の中に庵を構えて修行することである。例えば、道元禅師は『永平広録』に収録された「山居の偈頌(15首)」があって、自ら山にあって修行することを、喜びとされていた。しかし、山居は、場合によっては単独での修行になることもあるからこそ、色々な問題が起きることもある。今日は、それを鈴木正三の言葉から見ていきたい。一日、衆に語りて曰く、我、此前は山居ずきにて、少しの森林を見ても、庵を結び度き心有る故に、度々山居しけれども、天道に許されずして是れを遂げず。乍去今は夫れがよいに成りし也。其侭居たらば能き仏法者に成り、打上りて錯を知らざるべし。此前は山居をよしと思ひしが、今は悪しと思ふは、修行少し上りたると...禅僧は山居すべきかせざるべきか(1)
拙のブログでは、「仏教を習うには、師に就くことが必要だ」と申し上げているが、今回もそんな内容である。実際に、ここから始めないと全てが無意味になってしまう。そして、本来の仏教が持っていた良い面が、一切合切無駄になってしまう。今回取り上げる話は、まさにその仏教を学ぶことを無駄にしようとした或る僧を、鈴木正三道人が諫めている場面である。一日初入の僧、無縁の僧と成り諸国を乞食し廻らんと云ふて、師を辞す。師、呵して曰く、内々聞きし事、言語道断・無分別なる思ひ立ち也。先づ仏道を修せんと思ふ者は、善き師を求め善き友に交はる事肝要なり。然るに修行昨今の思ひ立ちにて、途方も無くすべをも弁へず、徒に諸国を行脚せんこと我同心なし。古来、先達の行脚と云ふは、師を尋ね、道を求め、身命を不顧、千万里の行脚をなすも有り、或は得法の人、...仏道修行とは師を尋ね法を訪ねること
そもそも、日本には「五節句」があり、1月7日の「人日(じんじつ)」、3月3日の「上巳(じょうし・じょうみ)」、5月5日の「端午(たんご)」、7月7日の「七夕(たなばた)」、9月9日の「重陽(ちょうよう)」である。この内、重陽の節句は現在ではほとんど儀礼としては無くなっている印象だが、他はだいたいまだ行われている。節句は平安時代の貴族の間では、それぞれ季節の節目に自分自身もリフレッシュするという意味があるとされた。さて、3月3日、「桃の節句」の由来についてだが、「上巳」とも呼ばれ、これは「上旬の巳の日」という意味である。つまり、元々は3月上旬の巳の日に行っていたが、室町時代ごろに3月3日に固定的に行われるようになったという。さらに、旧暦の3月3日は桃の花が咲く時期であることから、「桃の節句」とも呼称された。...今日は桃の節句(令和6年版)
最近でも、様々に仏教を学ぼうとする志を抱く方がいることをありがたく思うが、例えば「自未得度先度他」の志を発すことが大事だとされる。そして、ただ自分1人のみの救済を願うことは、よろしくない。それに、自分自身を救うのは、ただ、自分の考え方を翻すだけで済むが、他者をどのように救済に導くかという方が難しい。これは、この救済のために、様々な「誓願」や、それを補強する「回向」という概念などが整備されていることからも明らかである。「誓願」は、端的に願い事という意味ですが、それが出来なければ、自分は一生この苦しい現実に留まり続けるという、とても悲壮な決意を意味している。一方で回向は、善業を積み、それが積まれて自分自身の救済に使うことも出来るのに、その力を他人のために使うことを意味している。ところで、江戸時代初期に活躍した...出家の志とは何か?
鎌倉にある臨済宗円覚寺の管長、横田南嶺先生が毎日、管長日記を朝の5時にYoutubeでアップされている。 平日は、子どもの学校の送迎の間に聞いているが、禅にまつわる話だけでなく、さまざまな分野の情報も提供してくださっていて毎朝、大変勉強になる。 2022年7月6日の管長日記...
以下の記事が話題となっている。・「葬式にお坊さんを呼ばない人」が増えている理由(ダイヤモンドオンライン)上掲の記事は、以下の書籍を刊行した大竹晋先生によって書かれたものであり、同書の要約的内容だと言って良い。・『悟りと葬式─弔いはなぜ仏教になったか―』筑摩書房・2023年それで、前者の記事については要するに、最近、葬儀で坊さんを呼ばない人が増えているけれど、理由の1つは、元々葬儀に坊さんを呼んだ理由として、僧侶の聖性が世間の人々に認められ、求められていたためで、最近の坊さんは堕落し、聖性が足りないので呼ばれなくなったよ、という現代僧侶批判の記事だと評価できる。拙僧などは、現代の僧侶は、明治時代以降世間から痛め付けられていて、或る意味保護の対象だと思っているので、こういう記事については、全くもって賛同できな...葬式仏教と聖人信仰に関する記事への雑感
今日2月23日は、語呂合わせで「2(富)2(士)3(山)」の日である。それで、曹洞宗の祖師方の中には、富士山に実際に登られたり、富士山を題材に偈頌などを詠まれた事例がある(以下は、以前に東海道新幹線の車内から撮った富士山)。なお、大本山永平寺を開かれた道元禅師は、富士山をご覧になったと思われる。機会は1回、もしかしたら2回だったのかもしれない。確実なのは、宝治年間に行われた鎌倉行化である。宝治二年〈戊申〉三月十四日の上堂に、云わく、山僧昨年八月初三日、山を出でて相州鎌倉郡に赴き、檀那俗弟子の為に説法す。今年今月の昨日帰寺し、今朝陞座す。『永平広録』巻3-251上堂以上の通りであるが、道元禅師は宝治2年(1248)8月3日から、翌年3月13日までの期間、鎌倉に赴かれたのである。どのルートを通られたかには諸説...今日は富士山の日(令和6年版)
今日2月22日は、猫の鳴き声「ニャンニャンニャン」に引っ掛けて「猫の日」である。我々仏教界と猫は、おそらくインドの頃から親しくて、北伝の『中阿含経』や大乗仏典である『大般涅槃経』にも登場し、また禅宗的には、やはり【南泉斬猫話】で、ぶった切られるお話しが有名である。そもそも、禅宗寺院に限らず、各地の寺院では境内に穀物を貯蔵する倉庫などを持っていた場合が多かったと思われ、鼠害対策が不可欠であった。よって、もっとも飼いやすい猫をその対策に充てたという。ただ、現在、猫を愛玩動物として考える人が多いように、昔も同様であった。和尚示して云く。貪欲の多き者は、便ち是れ少人なり。虎子・象子等、ならびに猪・狗・猫・狸等を飼うこと莫れ。今、諸山の長老等の猫児を飼うは、真箇、不可なり。暗き者の為(しわざ)なり。凡そ、十六の悪律...今日は「猫の日」(令和6年版)
これは、【(1)】の続きである。拙僧の問題意識に、僧侶以外の人が僧侶と同じ格好をされるとどうなるのか?というものがある。江戸時代の洞門学僧である面山瑞方禅師と万仭道坦禅師による『金龍軒問答』にも、ちょうどその問題が指摘されているので紹介しておきたい。在家に袈裟を許すこと、永平の説もあれども、とくと考れば一概にはいはれず。優姿塞にも五段あり、もし断婬の優姿塞にもなりたらば五條を許容して晨昏三宝恭敬の時ばかりは用ひさせてよし。また仏制の離衣罪のことは、受具足戒の人に制せらる。俗人のことにはあらず。上衣の大衣は説法衣なれば、俗人不用なり、中衣の七條は入衆衣なれば俗人不用なり、下衣の五條は在家に許してしかるべし。これみな梵網菩薩戒の説によりて在家の菩薩に袈裟を許すなり。雲棲・永覚等は円頓の菩薩戒はしらず、ただ共声...宗門在家信者の服制について(2)
或る方のご見解で、曹洞宗の在家信者が、その信を表現するために着けるべき、特別な服装があるか無いか、という問題が取り沙汰されていた。そして、関連して、或る御寺院さまの授戒会実施に因んで、参加された檀信徒にどのような記念品を差し上げるべきか?という話になった時、「絡子」が認められるのかどうか?という議論になった(結果としては「輪絡子」になった)。そこで、今回はこの問題を採り上げてみたい。そもそも、『曹洞宗宗制(以下、『宗制』)』では、檀信徒(在家信者)の定義については『曹洞宗宗憲』第9章(33条・34条)で規定されているが、服装の規定は無い。一方で、我々のような僧侶の服装を定義した箇所としては、『宗制』「曹洞宗服制規程(以下、「服制規程」)」の「第1条」で、以下のように謳われている。この規程は、曹洞宗の僧侶の...宗門在家信者の服制について(1)
以前から、一部の宗派や寺院で「在家得度」という表現があることが気になっていた。この「在家得度」が、良く分からない。いや、悪い意味で言っているのではないのだが、ちょっと今回は突っ込んで考えていきたいので、敢えて申し上げるが、分からないのである。さらに、これは言葉的な問題もある。一応「得度」とは、中村元先生『仏教語大辞典』では③として「僧となること。在家から仏門に入ること。出家に同じ」となっていて、その語意の出典に『禅苑清規』と『日本霊異記』を挙げている。だとすれば、おそらく禅宗だけのことではあるまい。したがって、「在家得度」とは語義矛盾している可能性がある。なお、「得度」という言葉について、おそらく意味としては「度牒(戒牒)」を受けるという意味があるのだろうし、その意味では「受戒した人」という意味になるのだ...宗門に於ける「得度」の位置付けに関する一考察
明日2月15日は、釈尊涅槃会である。そこで、その準備について論じた文脈を見ておきたい。二月十五日、涅槃会なり。力に随いて供具を弁ず。兼日、衆中の大小、山中の諸人、各おの七文銭を出して、涅槃仏を供養す。札上に之を貼る。庫下より之を勤めて、供具を調う。是れ永平の旧儀なり。供具弁備して後、上堂、例の如し、但だ拈香して云く・・・(疏は略す)『瑩山清規』「年中行事」このように、曹洞宗の太祖・瑩山紹瑾禅師が洞谷山永光寺山内行持をまとめられた『瑩山清規』では、涅槃会の準備として、各おの七文銭を出して、「涅槃仏」を供養すべきだという。この「涅槃仏」について、詳細は不明なるも、おそらくは「涅槃図」或いは「涅槃像」が山中にあったものと思われる。入寺の日、即ち吉事有り、所謂涅槃像、加賀国野市の藤次、捨て入れ安置す、常楽我浄の四...明日は釈尊涅槃会(令和6年版)
釈尊涅槃会を前に、『仏垂般涅槃略説教誡経(遺教経)』を学んでいるのだが、『遺教経』という語句が道元禅師の教えに出ていたので、見ておきたい。寮中、応に大乗経並びに祖宗の語句を看て、自ら古教照心の家訓に合すべし。先師示衆に云く、你、曽て遺教経を看るや。闔寮の清衆、各おの父母・兄弟・骨肉・師僧・善知識の念に住して、相互に慈愛し、自他顧憐して、潜かに難値難遇の想い有りて、必ず和合和睦の顔を見よ。失語有るが如きは、当に之を諌むべし。垂誨有るが如きは、当に之に順ずべし。此れは是れ見聞の巨益なり。能く親近の大利なるものか。忝くも厚殖善根の良友に交わり、幸に住持三宝の境界を拝す。亦た慶快ならざらんや。俗家の兄弟すら、猶お異族に比せず。仏家の兄弟、乃ち自己よりも親しむべし。黄龍南和尚云く、孤舟共に渡るすら、尚お夙因有り、九...『遺教経』を読む場所について
さて、今日は曹洞宗で釈尊涅槃会に合わせて読まれる『遺教経』の一節を見ていきたいと思う。汝等比丘、諸の功徳に於いて、常にまさに一心に、諸の放逸を捨てること、怨賊を離れるが如くすべし。大悲世尊所説の利益は、皆以て究竟す。汝等、但だまさに勤めてこれを行ずべし。若しは山間に在っても、若しは空沢の中に於いても、若しは樹下に在っても、静室に閑処するも、所受の法を念じて忘失せしむること莫れ。常にまさに自ら勉めて精進して、これを修すべし。為すこと無くして空しく死すれば、後に悔有ることを到さん。我は良医の病を知って薬を説くが如し。服すると服せざると、医の咎に非ざるなり。又、善く導くものの、人の善の道に導くが如し。これを聞いて行わざるは、導くものの過に非ず。『仏垂般涅槃略説教誡経』本経典では、一心に集中して、放逸を捨てるよう...『仏垂般涅槃略説教誡経』を学ぶ(令和6年版)
今日は拙僧の本師の忌日である。来年が二十三回忌なので、今年はいわゆるの年回ではないが、法嗣としては、大寂定中にある先師をお慕いし、ご生前の養育の恩へ報謝の念を申し上げるのみである。ところで、「先師忌」という観点で見てみると、例えば曹洞宗の高祖・道元禅師には、本師・天童如浄禅師の忌日に於けるご供養を寛元4年(1246)以降、ほぼ毎年修行されており、それは「上堂」の形式であった。しかし、その後、太祖・瑩山紹瑾禅師の時代には、いわゆる諷経も行われていた様子が分かる(ただし、急いで自ら註記すると、道元禅師の時代に諷経が無かったとはいえない。その判断が出来ない、という表現が正しい)。さて、その意味では、先師忌の法要差定としては、以下の一節を参照しておきたい。九月十四日先師大乗和尚忌なり。十三日の晩間、法堂の荘厳は、...今日は先師忌(令和6年版)
洞門に於いて、御袈裟の参究といえば、高祖道元禅師の『正法眼蔵』「伝衣」「袈裟功徳」両巻から始めるのが常道ではあるが、それ以外としては、やはり太祖瑩山紹瑾禅師『伝光録』から見ていくべきであろう。既にご承知置きいただいているとは思うが、禅宗の系譜には、御袈裟に関わる事跡が残る祖師が多く、それを伝えた『伝光録』にも勿論、御袈裟の話が見えるのである。其金襴の袈裟といふは、正しく七仏伝持の袈裟なり。<彼の袈裟に三つの説あり。一つは如来胎内より持すと。一つは浄居天より奉ると。一つは猟師これを奉ると。又、外に数品の仏袈裟あり。達磨大師より曹渓所伝の袈裟は、青黒色にて屈眴布なり。唐土に到て青き裏を打てり。今六祖塔頭に蔵めて国の重宝と為す。是れ智論に謂ゆる如来麁布の僧伽黎を著くと、是なり。彼の金襴は金氈なり。経に曰く、仏の...瑩山紹瑾禅師が説かれる御袈裟の話
『遺教経』を学ぶのが、この涅槃会の時期であるが、今回は「創発」概念について検討する。これは、近年のシステム論オートポイエーシスで次のようにいわれる事態である。創発という豊かで曖昧な現象に向かって、自己組織化は進む。眼前の三次元空間内に突如巨大なリンゴが出現したら、ただちに何故そんなことが起きたのか、誰しも理由を問う。そして原因が見出せないと、偶然だったと言う。ところが、起こることには十分な理由がある。現に生じてしまうことの必然か偶然かではなく、そこに固有の機構が見出せるはずだというのが、自己組織化の確信である。河本英夫先生『オートポイエーシス2001』42頁特に、仏教が因果の話題や縁起の機構を用いてしまうため、我々は事象の直接的因果についての直観が豊かに作動していくが、どうしてもそれだけでは説明できない場...道元禅師に見る「創発」概念について
毎年2月の前半は、釈尊涅槃会を控えつつ『仏垂般涅槃略説教誡経(遺教経)』を学ぶように心掛けているのだが、今回は道元禅師による引用例を学んでみたい。昔日、僧有りて法眼禅師に問うて曰く、「如何なるか是れ古仏」。法眼曰く、「即今、也た嫌疑無し」。僧、又た問う、「十二時中、如何が行履せん」。法眼曰く、「歩歩踏著す」。他に亦た道有り、「夫れ出家人、但だ時及び節に随う。便ち寒ならば即ち寒、熱ならば即ち熱を得。仏性の義を知らんと欲すれば、当に時節因縁を観ずべし。但だ分を守りて時に随いて過ぐる、好し」。備さに他の意を観ず。如何なるか是れ時及び節に随い、如何なるか是れ分を守るや。知るべし、色上に於いて非色の解を作す莫れ、亦た色解を作さざれ、亦た両頭に走らざれ。如今、嫌疑を忘れ、他と与に古仏と同住同行す。然りと雖も、争か猶お...修行者は蜂のように……
そもそも、旧暦で春は、新年と共にやってきた。1月から春だったのである。ところで、拙寺では先師が存命だった頃から、前年の年末に「立春大吉札」を貼るようにしているのだが、その後、よくよく考えて見れば「立春大吉札」は立春に合わせて貼るべきで、新年に貼るのはおかしいと気付いてしまった。とはいえ、かつての春を思えば、立春が新年と一緒という見方(厳密な暦というより、慣習として)も可能なので、上記の通りで良いのだろう。ところで、道元禅師には新年と立春が別だった日に詠まれたと思われる偈頌が残されているため、今日はその偈頌を学んでみようと思う。一年有両立春厳冬未だ極らざるに早春臻れり、何ぞ便宜に処して双脚を伸べん、自の頂門を跳して相い透出す、一枚年の内両枚の春。『永平広録』巻10-偈頌97このように、一年に二回立春があるこ...今日は立春(令和6年版)
北伝仏教では釈尊の涅槃会を2月15日に行っており、例えば曹洞宗では、この涅槃会を前に次のような行持を修行する。二月一日・読遺教経涅槃会の法供養を修するため、本日より十四日まで晩課のときに遺教経を読誦する。知殿あらかじめ涅槃像を室中に掛け、香華灯燭を弁備する。殿鐘上殿、住持入堂し上香、普同三拝して着座、維那、挙経する。遺教経終わって、舎利礼文を大衆合掌して同誦すること三遍。一唱ごとに頂礼、三唱三礼。次に普回向、普同三拝して散堂する。『曹洞宗行持軌範』「年分行持・二月一日」項曹洞宗寺院では、毎年2月1~14日まで、晩課にて『遺教経』を読誦する。元々、晩課とは、固定された読誦経典があるわけではなく、融通が効く行持であった。よって、涅槃会仕様に変更する様子である。そして、この釈尊涅槃会を、より強く想うために、室中...曹洞宗に於ける涅槃会について