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ごく簡単な考察である。とりあえず、以下の一節をご覧いただきたい。建保五年丁丑、十八歳の秋、始めて本山を離れ、洛陽の建仁寺に投じ、明全和尚に従う。猶お、顕密の奥源、律蔵の威儀を習い、兼ねて臨済の宗風を聞く。即ち黄竜の十世に列す。遂に明全に従い、海を航海し宋に入る。日本貞応二年癸未、大宋の嘉定十六年なり。『永平寺三祖行業記』「道元禅師章」、訓読は拙僧短い一節ではあるが、幾つかの註記が必要となる。まず、この建保五年とは1217年のことで、道元禅師は18歳であった。その年の秋に、それまで4年ほど修行していた天台宗の比叡山を離れて、建仁寺に入ったのであった。ただし、『建撕記』などを見てみると、道元禅師はおそらく、比叡山と建仁寺を往来しながら栄西禅師とも会っていたと思われ、それが長じて、本格的に比叡山を離れたのがこの...道元禅師は明全和尚に嗣法したか?
「南天棒」こと中原鄧州老師(1839~1925)は、明治時代から大正時代にかけて活動した臨済宗の僧侶であり、常に南天の棒を携え、全国の禅道場を巡って修行者を容赦なく殴打したため、先のように呼ばれた。こういう「厳しいのが「禅」」だと思っている人には、とても人気であるという。それで、今回の記事は、先に挙げたタイトルの通りだが、南天棒の言葉に、道元禅師『正法眼蔵』「嗣書」巻への批判が見えたので、それを見つつ、批判の射程と、その可否について検討してみたい。まぁ、宗派が違うので、南天棒自身は「是」として主張したのだろうが、洞門の拙僧としてはそのまま同意するわけにもいかない。嗣法の原理はこの勘定では分からぬ。嗣法の広大無辺にして際涯なき無量心に参ぜねばならぬ。時間の不可得なる所をも参詳するがよい。早く合点の行くように...南天棒による『正法眼蔵』「嗣書」巻批判?
我欲を捨て去り、煩悩を滅し、悩み、苦しみの世界から脱する為の方法、その王道こそが、坐禅。
徒(いたずら)に百歳(ひゃくさい)生(い)けらんは、恨(うら)むべき日月(じつげつ)なり悲(かな)しむべき形骸(けいがい)なり設(たと)い百歳(ひゃくさい)の日月(じつげつ)は声色(しょうしき)の奴卑(ぬび)と馳走(ちそう)すとも其中(そのなか)一日(いちにち)の行持(ぎょうじ)を行取(ぎょうしゅ)せば一生(いっしょう)の百歳(ひゃくさい)を行取(ぎょうしゅ)するのみに非(あら)ず百歳(ひゃくさい...
ちょっとした備忘録的な記事である。まず、この房舎について知っているという人は、道元禅師の伝記にかなり詳しいと思われる。法眼感涙し、即ち入室を聴し、即ち横川首楞厳院般若谷千光房に登らしむ。『永平寺三祖行業記』「道元禅師」章これは、それまで藤原基房の木幡の山荘にいた、未出家の道元禅師は13歳の春、比叡山に単身向かわれ、母方の親戚だったとされる良顕法眼に出家を願い出た。その願いを聞いた良顕法眼は当初、実家の親の感情などを慮って一度固辞したが、道元禅師の道心堅固なる様子を聞いて、上記の通り感涙を流しながら入室を許可し、比叡山山内の横川首楞厳院般若谷千光房に登らせたのであった。さて、実は以前から、この「般若谷千光房」ってどこなんだろう?と思っていたのだが、余り良く分からなかった。それどころか、以下の一節まである。初...横川首楞厳院般若谷千光房について
坐禅はする程に、続ける程に、自分自身の命、縁により繋がっているあらゆる存在の尊さ、恩恵が、色濃く感じられていく。
生(しょう)を明(あき)らめ死(し)を明(あきら)らむるは仏家(ぶっけ)一大事(いちだいじ)の因縁(いんねん)なり生死(しょうじ)の中(なか)に仏(ほとけ)あれば生死(しょうじ)なし但(ただ)生死(しょうじ)即(すなわ)ち涅槃(ねはん)と心得(こころえ)て生死(しょうじ)として厭(いと)うべきもなく涅槃(ねはん)として欣(ねご)うべきもなし是時(このとき)初(はじ)めて生死(しょうじ)を離(はな)...
まずは、以下の一節を見ていきたい。是れ仏家の宏範にして児孫の諦信し来れる家常の茶飯なりとす。見よ在家の仏弟子となるにも受戒なり、僧の剃髪式の内容も受戒なり、〈中略〉仏祖の宏範何れの所にかある。故に換言すれば、受戒は吾人一超して仏家に入る戸籍転換法である。否仏祖位を継ぐ家督相続式である。原田祖岳老師『禅学質疑解答』丙午出版社・大正6年、54~55頁要するに、原田老師は仏祖の広い規範について、児孫が信じてきた家常の茶飯だとしているのである。つまりは、仏弟子たる者、誰しもが護持してきたことだということになる。そこで、原田老師のご見解としては、受戒については児孫がよく信仰するための、日常的なものだとしており、よって、在家が仏弟子になるにも受戒、僧が僧になるための剃髪式も受戒であるというが、これはもはやいうまでもな...洞門の受戒を世間の営みに喩えるなら?
最近、出講している『正法眼蔵』勉強会で、「行持(上)」巻、「仏教」巻と立て続けに読み終えた。そこで、両巻に共通するかのような教えがあったので、まとめてみたい。なお、日本のように、数多くの宗派が残る国になると、何が真実の教えなのか?が気になることもあると思う。それは、現代だけではなく、これまでの各時代でも同様で、例えば道元禅師は以下のようなことを述べておられる。いま、有道の宗匠の会をのぞむに、真実、請参せんとするとき、そのたより、もとも難辨なり。ただ二十、三十箇の皮袋にあらず、百千人の面面なり。おのおの実帰をもとむ。授手の日くれなんとす、打舂の夜あけなんとす。あるひは師の普説するときは、わが耳目なくして、いたづらに見聞をへだつ。耳目そなはるときは、師また道取おはりぬ。耆宿尊年の老古錐、すてに拊掌笑呵呵のとき...道元禅師に於ける「師決」の話
永平寺は日本曹洞宗の開祖・道元が開いた寺院で、曹洞宗の大本山です。道元の廟所である「承陽殿」と記された御朱印をいただきました。
5月5日、道元禅師が行った端午の節句の説法について採り上げてみたい。例えば、道元禅師の『永平広録』を参照すると、端午の上堂は、中国曹洞宗の宏智正覚禅師(1091~1157:『従容録』の元になった『宏智禅師頌古』を作成した。道元禅師は「古仏」と呼んで尊崇した)の言葉について更に拈提した内容である。寛元4年(1246):巻2-169宝治元年(1247):巻3-242(今回紹介)宝治2年(1248):巻4-261建長元年(1249):巻4-326そこで、以下には宝治元年の上堂を採り上げてみたい。端午の上堂に、挙す。宏智古仏、天童に住せし時、今朝の上堂に云く「五月五日天中節。百草頭上に生殺を看る。甘草・黄連、自ら苦く甜し。人蔘・附子、寒熱を分かつ。薫蕕、昧し難し双垂瓜。滋味、那ぞ瞞ぜん初偃月。円明了知、心念閑なり...今日は端午の節句(こどもの日)
仏法を聴聞することについて、「聞法」と略されるのが一般的な気もするが、「聴法」という言い方はあるのだろうか?簡単に調べてみた。御入滅後正法も弘まりてあれば、仏法を聴聞して、未来を助かるは、只この世界の人間ばかり。『戒会落草談』その前に、道元禅師にも「正法を聴聞」という語句はあるが、まずは以上のように「仏法を聴聞」という語句が見られることが分かると思う。さて、それでは「聞法」と「聴法」だが、以下の結果となった。おほよそ聞法は、ただ耳根・耳識の境界のみにあらず、父母未生已前、威音以前、乃至尽未来際、無尽未来際にいたるまでの挙力・挙心・挙体・挙道をもて聞法するなり、身先心後の聞法あるなり。これらの聞法、ともに得益あり、心識に縁ぜざれば聞法の益あらず、といふことなかれ。『正法眼蔵』「無情説法」巻あくまでも一例だが...「聞法」と「聴法」について
旧暦の頃の禅林は、4月15日に夏安居が始まる。そうなると、5月1日というのは、ちょうど15日程度が経過した頃となり、住持が説法して修行僧の身心を引き締めるために適当な日付だと認識されていたのか、少なからずの「5月1日の上堂」などが残されている。我々も「五月病」などが怖い頃であるから、教えを学んで、気合いを入れ直しておきたい。今日は以下の教えを紹介しておく。五月朔〈祝聖如常〉、乃ち云く、大道体寛く易無く難無し、宝鏡三昧七仏の蒲団。直に得たり十世古今の始終、当念を離れず。無辺の刹境、自他毫端を隔てず。正与麼の時、人人脚下の無憂履、箇箇頭上の捲輪冠、諸仁者、如何が行履して恁麼に相応することを得去らん。〈払、一払して云く〉雨中青梅の熟することを認得して、三十六牙忽ちに酸を帯ぶ。『永福結夏録』まず、この上堂が行われ...今日は5月1日(令和7年度版)
我々は、「福祉」という言葉を聞くと、ついつい、何やら社会的弱者に対する救済などの意味ばかりを考えてしまうのではなかろうか。無論、そのような位置付けは非常に大切で、拙僧もそれを否定したいわけではない。だが、漢語としての「福祉」という用語を考えてみると、意味は「幸せ」である。要するに、社会の人々が幸せになる行為全般を、福祉とはいうわけである。ここまでいうと、仏教について学んだ人は、仏教に於ける世間・出世間の問題を取り沙汰するかもしれない。でも、大乗仏教という教えは、やはり社会福祉的活動を求めているのであり、その意味で、大乗仏教を標榜する教団が社会福祉的活動をするのは、当然であるといえる。さて、この記事を書くために参照しておきたい文献がある。拙僧はこれを、大学の講義の参考資料としても使いたいと思っているので、今...昭和期における曹洞宗の社会福祉事業について
全ての存在に慈しみの心を持ち、愛せる人は、全ての存在から慈しみの心を持たれ、愛される人。
無事是貴人(ぶじこれきにん)(臨済録 臨済禅師)この言葉の中の「無事」とは、大変な事、困った事が取り立てて起こらず、平穏無事に、普段と変わりない、平凡な日常が過ごせている、という意味ではありません。日々、自己を律して、仏道修行に猛進し、励もうとする心も、時に、煩悩に打ち負かされ、自己を律する事無く、怠慢な日々を過ごそうとする心も、そのような、善きも悪しきも、何かを求める心を完全に手離して、ありのま...
一見すると良く似ている。だが、詳しく見てみると、言っていることは全く違う。なお、前者については、曹洞宗の大本山永平寺御開山・高祖道元禅師が『正法眼蔵』「発菩提心」巻で引用し、例えば『修証義』「第四章発願利生」などでも強調されるため、曹洞宗の自家薬籠中の言葉だと理解している人も多いかもしれないが、出典は『大般涅槃経』巻28(北本)である。迦葉菩薩、偈をもて釈迦牟尼仏をほめたてまつるにいはく、発心と畢竟と二つながら別無し、是の如くの二心は先の心を難しとす。自未得度先度他(自ら未だ得度せざるに、先ず他を度す)、是の故に、我れ初発心を礼す。初発に已に天人師たり、声聞及び縁覚に勝出せり。是の如くの発心は三界に過えたり、是の故に最無上と名づくることを得。『正法眼蔵』「発菩提心」巻での引用要するに、こういうことである。...「自未得度先度他」と「我得自度已当復度衆生」について
実は、拙僧自身、とても不思議だったことがある。それは、三仏忌などを勤めるための法要、通称(九拝差定)に於いて、導師による拈香法語を唱えた後、やはり導師が書いた(という形になっている)「疏」を、維那が唱えるが、正直、機能的な面からいっても、内容的な面からいっても、両者は被っているのである。こういう無駄なことはしないというのが禅宗ではないか?と信じていたので、とても強い違和感を覚えていた。そうすると、先日或る資料を読んでいて、心から納得した。やはり、2つ唱える理由があったのだ。又た進前上香し、菓子・嚫金・上茶、逓伝を待ちて、備え了って三拝。坐具を収め、〈二祖はこの時、特為茶あり。三仏には無し〉衣角を整えて立つ時、侍者、大香を進む。住持、拈香法語。〈三仏会に、粥後、上堂祝香あれば、ここの法語無し〉進みて従香を焼...何故、九拝差定で法語と疏を唱えるのか?
道元禅師が仰った世尊による「二十年の遺恩」「二十年の福分」などについて、実は結構難しい問題を含む。①然れば出家人は、学仏の力によりて食分も尽くべからず、白毫の一相、二十年の遺恩、歴劫に受用すとも尽くべきにあらず。長円寺本『正法眼蔵随聞記』巻1-3②況やまた仏二千年の福分を以て末法の我等に施す。是に因て天下の叢林、人天供養不絶。長円寺本『随聞記』巻2-13良く知られているのは、『正法眼蔵随聞記』であろうと思う。なお、この一節の典拠は、特に①が分かりやすいとされる。世尊二千年の遺蔭、児孫を蓋覆す。白毫光の一分の功徳、受用すれども尽きず。『禅苑清規』巻8「亀鏡文」『随聞記』では、上記の一節を少し入れ替えていますが、「白毫」の記述も含め、明らかに影響を受けている。そして、「亀鏡文」をそのまま引いたと思われるのが、...道元禅師が示す「世尊二十年の遺恩」について
さて、ここ数回の関連記事のおかげで、現行の「五観の偈」が、何故このような用いられ方をしているのかが分かってきたように思う。そして、既に拙ブログでは、現行の唱え方が明治時代以降に選ばれた慣習である可能性にまで辿り着いている。その証拠として、明治時代に編まれた『洞上行持軌範』を考えてみたい。これは、近代曹洞宗教団で作成された、全国画一型の軌範である。そこで、江戸時代の「五観の偈」については、面山禅師『僧堂清規』と、玄透禅師『永平小清規』で若干の相違点があったことが分かった。そうなると、相違の克服は、『洞上行持軌範』で図られたと思われ、結果、それが現行の作法になっていると考えるのが妥当である。よって、以下に確認したい。大衆は遍槌を聞て普同合掌し、次に揖食し畢て定印を結び五観の偈を想念し、微音に唱て云く、一計功多...『洞上行持軌範』巻上の「五観の偈」について
親しみやすいお寺を目指して、弘前市 曹洞宗正伝寺。青森県内で唯一のお寺マスコットキャラクター #薬師るり もかわいい!
アオモリコネクト特派員のかんからです。 先日3月30日に弘前市正伝寺さまに取材させていただいてました。 大変興…
明治時代の仏教啓蒙家といわれる大内青巒居士が、次のような礼讃文を編んだという。(講師先づ合掌して曰く)人身受け難し、今已に受く、仏法聞き難し、今已に聞く、此の身今生に向つて度せずんば、更に何れの生に向つてか此身を度せん、大衆諸共に三宝に帰依したてまつるべし。『礼讃文』、大日本仏教青年会『仏教講話録』明治26年この次に三帰礼文などが続くのだが、今回見たいのは以上の一節である。なお、明治中期以降、この礼讃文は宗派を超えて、様々な研修会や講演会の場で講師によって読誦されたようである。それで、この一節の典拠なのだが、最初の数句はおそらく、大慧宗杲禅師の言葉であろう。人身得難し、仏法逢い難し、此の身不向今生に向かって度せずんば、更に何れの身に向かって此の身を度せん。『大慧書』巻30なお、別の文献では、「古徳云く」の...或る『礼讃文』について
今日の寺院は 正法寺【曹洞宗】を紹介します。 場所は千種区城山町にて、この高台の地域には末森城(※現:城山八幡宮)や寺院においても沢山あったりします。 今回の寺院は明治36年(1903)に創始
曹洞宗では、出家の儀式に当たる「出家得度式」において、3種類の御袈裟を授けることになっている。それは、「出家得度式作法」の中の「授坐具衣鉢」項目であり、その際に、坐具と五条衣・七条衣・九条衣と鉢盂を授けるのである。いわば、「比丘六物」の内の五物までを授けることを意味している。この辺は、曹洞宗の清規に多大なる影響を与えている中国雲門宗の長廬宗賾によって編まれた『禅苑清規』の影響もあるといえるだろうか?受戒の法は、応に三衣・鉢具并びに新浄の衣物を備うべし。新衣無きが如きは、浣染して浄めしめよ。入壇受戒は、衣鉢を借賃することを得ざれ。〈中略〉若し衣鉢を徣借すれば、登壇受戒すると雖も、竝びに得戒せず。『禅苑清規』巻一「受戒」項このように、非常に厳しく「三衣」の必要性を説くのである。それで、現状の得度作法であれば、...出家と三衣について
今日4月8日は、仏教を開いた釈尊の降誕会であるとされる。日本では、近代に入ってから「花祭り」などと呼ばれるようになったが、元々は「降誕会」「浴仏会」「灌仏会」などと呼称される法会であった。そこで、今日はその法会に因む説法を見ておきたい。仏誕生に拈香す。雨、雨を洗い、風、風を磨す。水緑花紅なり。釈迦老子、天を指し地を指して自ら言う、「天上天下唯我独尊」と。噫、然る従り、南瞻浮洲、荊棘生じ、諸人悩乱す。總持、雲門に令して行わせしめず。只だ一杓の悪水を驀頭に灑ぎ、諸人と報恩し去らんと要す。良久して曰く、稽首大聖、驢胎馬腹、馬腹驢胎。『通幻禅師語録』、『曹洞宗全書』「語録一」巻・71頁下段~72頁上段これは、通幻寂霊禅師(1322~1391)が總持寺に住持している間の上堂であろうか。この語録は、上堂の順番が、やや...今日は釈尊降誕会(令和7年度版)
以下の一節をご覧いただきたい。仏、衣鉢を制するの始め、其の事甚だ簡易なり。上根の大器、能く是に堪ふ、後の劣根不器の徒、時に異事を生じ、及び病縁の苦、行来の艱を憐れむに因りて、漸く六物、十三資具等、非時飲、或いは薬物、瓶、尺、如意、杖、払、巾、履等の開縁有り。又、菩薩の行来に十八物を具する等の縁有り。指月慧印禅師『不能語規律』巻上拙僧、おそらくではあるが、「十三資具」という用語をここで初めて見た。上記にも出ているが、比丘六物とか、菩薩十八種物とかは、以前から聞いていたが、「十三資具」は知らなかった。それで調べてみた。すると、義浄が訳した根本説一切有部系の律蔵や、『南海寄帰伝』などに見える語句だと理解した。また、「十三資具衣」(『根本説一切有部目得迦』)などの語句もあり、どうやら「法衣(袈裟)」で用いられるも...「十三資具」とは何か?
以前、【「招宝七郎大権修理菩薩」異聞】という記事でも、末尾で臨済宗・無著道忠禅師の御見解を引用したのだが、以下のように示されている。忠曰く、右手、額に加え、遠望の勢と為すの像、是れなり。大唐阿育王山の護法神なり。修利、或いは謬りて修理と作すは非なり。『禅林象器箋』巻19「大権修利菩薩」項以上のように、無著禅師は「大権修利菩薩」が正しいとしていて、「修理」を否定している。それでは、曹洞宗ではどのように記載されることが一般的なのだろうか?そこで、少しく資料などを渉猟してみた。すると、以下の結果となった。まず、毎朝曹洞宗の朝課、特に「仏殿諷経」での回向文は、以下のようになっている。上来、妙法蓮華経観世音菩薩普門品・大悲心陀羅尼・消災妙吉祥陀羅尼を諷誦す、集むる所の功徳は、大恩教主本師釈迦牟尼仏(現座道場本尊云々...「招宝七郎」は「大権修利菩薩」か?「大権修理菩薩」か?
ちょっと気になった文章があったため、この記事で見ておきたい。○招宝七郎大権修理菩薩は元阿育王経に出たり、阿育王の弟にて阿育八万の塔を諸州に置これを遥拝する形也(舎利を守護する神也其実は帝釈なりと云々)此神の事捜神記にも出たり其外禅家の書に見ゆ招宝山は大明一統志にあり大権修理菩薩の諡号は梁書に出ると天野信景『塩尻』巻46以上の文章は、尾張藩士・天野信景(1663~1733)の随筆『塩尻』から引いたものである。そして、紹介されているのは、曹洞宗寺院の多くで伽藍神として祀られているであろう招宝七郎大権修理菩薩のことである。ただし、色々と気になることがある。例えば、『阿育王経』という経典だが、これは『大正蔵』巻50にも入っている同経か『阿育王伝』を指すのだとは思うが、詳細は不明である。なお、拙僧はこの一節を、大内...「招宝七郎大権修理菩薩」異聞
現在、2講座承っている『正法眼蔵』勉強会の内、1つでは「行持(上)」巻を読んでいる。その中で、以下のような一節が見られた。光陰なにとしてかわが功夫をぬすむ。一日をぬすむのみにあらず、多劫の功徳をぬすむ。『正法眼蔵』「行持(上)」巻そもそも、この一節は、古聖・先賢と称される古来の優れた者達が、自らの時間を惜しんでなすべきことをなしていたと評した文章に続くものとなっている。そして、道元禅師は光陰(時間)が、我々から功夫(修行)を盗むとしている。更に、ただ1日のみでは無く、無限の時間に得たはずの功徳までも盗まれるという。そう考えると、この盗むとは、仏道の成就に直結しない、無駄な人生を過ごしていることを批判した教えだといえる。ただし、本当に時間が我々から修行や功徳を盗むのだろうか?むしろ、仏道の成就を目指していな...何が自分の修行の功徳を奪うのか?
今日は千種区にある 善篤寺【曹洞宗】の紹介です。 場所は千種区城山町にて、以前に紹介した相応寺の隣にあります。 この寺の創建当初は岐阜県竹ヶ鼻村にあったそうで、その後に清州へ移るも更に後
今日から4月である。世間的には新年度となり、新たな気持ちで新たな環境に行く人もいれば、不安に感じている人もいると思う。居場所の不安を感じている人は、以下の記事などを読んでいただけると良いのでは無かろうか。・4月1日から居場所を失ってしまう方へ(Yahoo!ニュース)それにしても、今日は、多くの商品が値上げされたり、多分大変なのだが、年度最初から暗い話ばかりしていてもシャクに障るだけだから、とりあえず仏教の記事を採り上げていきたい。今日は、道元禅師が、曹洞宗と梅の華の関わりについて述べた文章があるため、見ていきたいと思う。吾宗に梅を本とすること、別なる事なし。六祖の在処は梅の道地なり、仏法もこの地より繁昌す。一花五葉にわかつなり、梅花も又五葉なり。夫五葉といふは、曹洞、臨済、雲門、潙仰、法眼なり。たとへば、...日本曹洞宗と梅の華(4月1日版)
為せば成る、為さねば成らぬ、何事も、成らぬは、己が為さぬなりけり。
一心欲見仏(いっしんよっけんぶつ)、不自惜身命(ふじしゃくしんみょう)、自我及衆僧(じがぎゅうしゅそう)、倶出霊鷲山(ぐしゅつりょうじゅせん) (妙法蓮華経如来寿量品偈、みょうほうれんげきょうにょらいじゅりょうほんげ) ただ一心に、仏を見たいと願い、真実を見定めたいと強く念じながら、心を一つにして、集中して、没頭して、仏の道をひたすらに信じ切る事。 そのような心で、身命を惜しまず、捧げ尽くす気...
このような記事があった。・Z世代に人気「ジェネリック〇〇」海外では…「デュープ」「平替(ピンティー)」(BSS山陰放送)従来は「医薬品」とか「家電」の世界などで、特許が切れて同じ内容の商品が安価に供給される様子を「ジェネリック医薬品」とか「ジェネリック家電」とか呼ばれていたが、Z世代ではもう少し幅広く、軽い感じで「ジェネリック」が使われているという報道なのだと思う。詳細は上記記事をご覧いただければと思う。ところで、かの「ラーメン二郎」などを見てみると、二郎本店及びのれん分けでは無い店の類似商品が「インスパイア系」とか呼ばれるが、更にコンビニでのチルド商品については「ジェネリック」と呼ばれるらしい(「ジェネリック二郎」人気ランキングTOP3!第1位は「中華蕎麦とみ田監修三代目豚ラーメン」【2021年投票結果...なんとなく「ジェネリック仏教」
今日から、今年度の春の彼岸会である。「彼岸会」の起源や展開の一端については、【彼岸会―つらつら日暮らしWiki】をご覧いただければ幸いである。さて、この期間に関連して、今回は上記タイトルの通り、龍樹菩薩造『大智度論』から、「彼岸」に関する語句を学んでいきたいと思っている。なお、龍樹菩薩と「彼岸会」と言えば、『龍樹菩薩天正験記』という謎の文書が存在しており、『和漢三才図会』(1712年成立)で参照されるなどして大いに広まってしまったのだが、偽書である。今回は同書では無く、『大智度論』巻12「釈初品中檀波羅蜜法施之余」を見ていくため、いわゆる布施行と彼岸の関係について学ぶことになると思う。問うて曰く、「云何が檀波羅蜜の満と名づくや」。答えて曰く、「檀の義、上に説くが如し。波羅(秦に彼岸と言う)蜜(秦に到と言う...『大智度論』と「彼岸」について(1)
そろそろ夏安居の結制も近いので、ちょっと記事にしてみたい。比丘仏子受歳するは、夏安居なるのみ。年年に必ず三宝に白して、夏安居を結ぶ。其の白夏法とは曰く、大徳一心に念じて、我れ比丘〈又、仏子と云う〉某甲、今、某〈伽藍・聚落〉に依り、前三月安居す、房舎の破れを修治するが故に〈三説す〉、所対告げて言わく、放逸なること莫れを知れ、答えて言わく、受持す。所対問うて言わく、誰の持律に依るものか。答えて言わく、某甲律師による〈若し法に依らば、何等聖教と云う〉、所対告げて言わく、疑有らば当に往問すべし〈若し法に依らば、疑有らば応当に披覧して決すべしと云う〉、答えて言わく、頂戴受持すべし。瞎道本光禅師『対大己五夏闍梨法求寂参』この一節だが、一応の典拠は南山道宣『四分律刪繁補闕行事鈔』巻上四「安居策修篇第十一」などのようだが...「白夏法」について
とりあえず以下の一節をご覧いただきたい。師一日、或曹洞宗の寺に至る、住持雑談の次で曰、某し幼少より乍立小用せず、炉に唾を不吐、師聞曰、其様な事にても無ては、出家冥加も有、早く一寺にも住し、人にも知る事有べからず、是上ながら、道心冥加の有様に成申度、亦曰、小僧共に能教ゑたるが能也、必ず乍立小用させめさるるな、出家侍の立小用、見苦敷物也、炉に唾を吐せめさるるな、食物をも炙り、其上香炉の火をも取物也、総じて曹洞宗は、をつつかみにて律儀なし、誠の道心社無とも、行規計りなりとも正くすべし、責て是程の事也とも無んば、人間に生を得たる甲斐なし、皆恥かきに出たり、咦、我も七十年、恥をかき来れりと也、鈴木正三道人『驢鞍橋』巻上・61則、カナをかなにするなど見易く改める鈴木正三道人が、曹洞宗の律儀に関する発言をした貴重な箇所...近世洞門僧の持律意識について
江戸時代には、仏教寺院の僧侶が、葬祭をほぼ独占していったようなところがあるけれども、当然に廃仏毀釈が起きた明治時代に入ると、その状況が変わった。そのために、次のような法令が出されるに至った。○葬儀神官僧侶の内へ相頼むべきの事(第百五十八・第百九十八見合○第十五巻の第七十六見合)第二百九壬申六月廿八日第百九十二号御布告近来、自葬取り行う候者も之有る哉に聞き候処、向後は相成らざる候條、葬儀は神官僧侶の内江相頼むべき候事。明法寮編『憲法類編』巻14(村上勘兵衛・明治5年)82丁表・カナをかなにし訓読すまずは、この一節をご覧いただきたい。これは太政官布告である。そして、批判されているのは「自葬」である。神官や僧侶などを頼まずに、自分で勝手に葬儀を行うことを意味していよう。江戸時代までの状況から解放されて、庶民は坊...葬祭執行の権利は誰にあるのか?
一人の人が、ほんの一時でも坐禅をする無限の功徳は、全宇宙の諸仏が共に力を合わせても、推し量る事はできない。
それ、修証(しゅしょう)はひとつにあらずとおもへる、すなはち外道(げどう)の見(けん)なり。 仏法(ぶっぽう)には、修証(しゅしょう)これ一等(いっとう)なり。 いまも証上(しょうじょう)の修(しゅ)なるゆゑに、初心(しょしん)の辨道(べんどう)すなはち本証(ほんしょう)の全体(ぜんたい)なり。 かるがゆゑに、修行(しゅぎょう)の用心(ようじん)をさづくるにも、修(しゅ)のほかに証(しょう)をまつ...
昨日から、『正法眼蔵』勉強会は、「仏教」巻に入った。そこで、最初から読んでいくと、こういった一節が見られる。このゆえに、朝に成道して夕に涅槃する諸仏、いまだ功徳かけたり、といはず。「仏教」巻この一節について、江戸時代の学僧・瞎道本光禅師が以下のように註釈している。須扇多仏、朝に成道して夕べに涅槃し、化仏の住世甚大に長りき。大智度論に証するが如し、後に当に附録すべし。『正法眼蔵却退一字参』「仏教」篇つまり、瞎道禅師は『大智度論』に見られる「須扇多仏」に因む話だと断定されたのである。典拠は、以下の通りである。亦た須扇多仏の如し、弟子本行未熟なり、便ち捨てて涅槃に入り、化仏として一劫留まりて以て衆生を度す。『大智度論』巻7つまり、須扇多仏は弟子が未熟だったため、涅槃に入った後で「化仏」という存在となって長く衆生...朝に成道して夕に涅槃する話
今日は、3月10日である。昨日まで、日付に従った記事を書いていたのだが、今日も懲りずに語呂合わせ的記事を書いてみたい。主として大乗仏教で広く用いられる「三世十方」という言葉がある。意味としては、過去・現在・未来の三世、そして、上下・八方を総じて十方となる語句を組み合わせ、あらゆる時間・空間を意味する言葉である。この言葉が用いられる背景としては、結局は存在する全ての事象に、特定の「法」が適用されることを示すものである。例えば、こういう一文だと理解しやすいのでは無かろうか。請仏といふは、請釈迦牟尼仏のみにあらず、請無量無尽三世十方一切諸仏なり。請諸仏の数にあづかる、無諱不諱の親曾見仏なり。『正法眼蔵』「見仏」巻この「請仏」とは、以下の一節を承けたものである。賓頭盧尊者、阿育王宮の大会に赴いて斎す。王、行香の次...「三世十方」の話(令和7年版)
■『雪の永平寺』凛とした雰囲気 曹洞宗の厳しい修行の場を体感(福井県永平寺町)
目次 1 どうしても観たかった『雪の永平寺』 2 駅前からスタッドレスタイヤを履いたカーシェアで 3 願いが叶う『傘松閣』の花鳥風月の天井画 4 凛とした張り詰めた修行の場『雪の永平寺』 5 『山門』には『四天王』が配置され睨みを効かす 1 どうしても
3月9日は、語呂合わせで「サンキューの日」、転じて「ありがとうの日」である。「ありがたい」という気持ちがあれば、自ずとそれは、我々にとって或る対象へ貴重な想いを抱かせ、感謝や尊敬の念を生むものである。ところで、同じ語呂合わせといえば、「参究」だってそうである。「参究」とは、以下のような意味である。参究とは、即ち此の一箇の話頭に参ずるなり。話頭に参ずるに、外に疑情を起こさず。所謂、小疑小悟・大疑大悟・不疑不悟なり。疑は、即ち参なり。『百丈清規証義記』巻8まぁ、だいたいこんな感じ。参究とは、疑悟一如の処に於いて行われる修行であり、一箇の話頭(公案)に対して、疑悟一体となって取り組むのである。疑悟一体とは、疑問だけを先に置くのではなく、自らをまず仏道に置いて(よって、熱心な坐禅が必要である)、その中で、疑悟が一...3月9日は「ありがとうの日」もとい「参究の日」
鶴見駅に戻った後は、駅の西側にある曹洞宗の大本山・総持寺に寄りました。 曹洞宗は中国の禅宗五家(曹洞、臨済、潙仰、雲門、法眼)の一つで、洞山良价(807年 - 869年)によって創宗されました。日本では、禅宗の一つであるとともに、鎌倉仏教の一つとして位置付けられています...
間違いなく、勉強不足の拙僧が悪いのだが、まだ学生の頃、或る数字を見て大いに迷乱を深めたことがあった。例えば、以下のような文脈に見える数字である。監寺に謝する上堂。已に両年三七月を鼻するに、算じ来りて六百有余日なり。許多か労謝に叉手せん。更に蒲団を把るの功失せず。這箇は是れ、現前の大衆、相い謝せん。且く道え、仏祖、他に謝する、又た作麼生か道わん。良久して、払子を以て禅牀の右辺を撃つこと一下して云く、仏祖、各各、先監寺に謝し了れり。『永平広録』巻2-137上堂問題は、この「両年三七月」という記述である。ここで「三七」と出ているのだが、学生の頃の拙僧は、現代的な縦書きの感覚があったためだろう、これを「37ヶ月」だと当初理解した。そうなると、丸3年を超えるわけであるが、ずいぶん永く、監寺を務めた人もおられたものだ...「三七」という数字に勘違いした日々
自分に与えられた仕事は、今、できる時に、精一杯の力で取り組む。それが禅の教えであり、仏の生き方。
他不是吾、更待何時。 他(た)は是(こ)れ吾(わ)れにあらず、更(さら)に何(いず)れの時(とき)にか待(ま)たん。 (典座教訓、てんぞきょうくん 道元禅師) これは、道元禅師様が、禅の本場である宋(中国)に渡り、修行生活を送られていた頃のお話しです。 それは、ある夏の暑い日の事でした。 道元禅師様が昼食を終えられ、自分の部屋に戻ろうと、廊下を歩いていました。 すると、仏殿(仏像を安置している建物...
とりあえず、以下の一節をご覧いただきたい。当寺は、二位殿・右大臣殿の御菩提の為にし奉り、御建立候の上、始めて布薩説戒を行ぜられ候〈天〉、廻向し奉らるべき候の由、謹んで承り候し了んぬ。折節、在国し候は、勤仕せしむるべき候。且く、六波羅殿の御書、畏くも拝見し候し了んぬ。早く、寺庫に納むべき候。今月十五日、布薩説戒し、既に勤仕せしめ候し了んぬ。恐惶謹言。十月廿日道玄「贈波多野義重書状」、『曹洞宗全書』「宗源(下)」巻・268頁下段~269頁上段、訓読は拙僧上記書状だが、江戸時代の学僧・面山瑞方禅師の編集に係る『訂補建撕記』にのみ収められているもので、その経緯などについて、面山禅師自身は以下のように述べている。○檀那義重への返書の艸、一通文言左の如し、〈先の書状原文〉右の祖筆、現今永平寺の室中にあり、年号見へず、...永平寺開創の意義と布薩説戒について
たった一人の少しの坐禅でも、その行いの功徳、因縁は、 全世界、全空間へ伝播し、それが人類を救う事になる。
仏道(ぶつどう)をならふといふは、自己(じこ)をならふなり。 自己(じこ)をならふといふは、自己(じこ)をわするるなり。 自己(じこ)をわするるといふは、万法(ばんぽう)に証(しょう)せらるるなり。 万法(ばんぽう)に証(しょう)せらるるといふは、自己(じこ)の身心(しんじん)および他己(たこ)の身心(しんじん)をして脱落(だつらく)せしむるなり。(正法眼蔵、しょうぼうげんぞう 現成公案、げんじょ...
今日は五節句の一、上巳の節句である。世間的には「桃の節句」と呼ばれることが多いであろう。なお、「上巳(読み方は「じょうし」が一般的だと思うが、「じょうみ」と呼ぶ場合もある)」というのは、三月上旬の「巳の日」に、元々節句が行われていたため、そう呼称された。だが、既に古代の中国で、現代同様に「3月3日」に行われるようになったという。関連して、以下の一節も参照しておきたい。〔◎三月〕▲三日上巳御祝儀今日を重三と云、又上巳と云、上は初といふ意也、いにしへは三月初の巳の日を上巳とす、三月は辰の月なれば巳を除日とす、不祥を除くこゝろ也、〔宋書〕魏より後、但三月三日を用ひて復巳を用ひず。享保20年『江府年行事』、三田村鳶魚編『江戸年中行事』(中公文庫)38頁ここを引用しておけば、先の拙僧の説明は不要だったようだ・・・つ...今日は上巳の節句(令和7年版)
とりあえず、七日間の加行を伴い行われるはずの「伝戒式・伝法式」について、非常に簡略化された儀礼が存在することを指摘しておきたい。それは、或る意味で以前からよく知られている切紙の『山居伝授儀規』を見ておきたい。なお、「山居」であるが、今一つ分からないところもあるけれども、中世の頃、参禅問答を中心とした参究が終わった者に対して、師が私的に与えたものであったようである。○山居伝授儀規一七日間、三時に巡堂し、専精に道心の堅固ならんことを祈祷す。第七日午後、道場を荘厳し、室内に椅を設け、法被之を覆う。椅の後の壁上に高く両鏡を懸く。椅の前に一卓を設け、卓前に師資の拝席を展ぶ。卓上に華瓶・香炉・燭台・洒水器・松燭〈三把〉・衣鉢・血脈嗣書等を置く。瓶に松枝を挿み、洒水枝の松枝なり。当晩の昏鐘鳴の後、師、資を引いて道場に入...『山居伝授儀規』切紙に見る儀礼の簡便性
今日は3月1日である。拙ブログでは、この日に合わせて「閉炉の説法」などを紹介しているが、それは【ブログ内検索:閉炉】で、過去の記事をご覧いただければ良いと思う。そこで今日の記事だが、日付に因んで採り上げておきたい。三月旦の上堂。大衆を召して云く、時有りて常に人を催す、人豈に虚しく時を度らんや。或いは水中に亡躯たり、或いは火裡に失命す。刃刀で腸を割り、箭鋒骨を透る、病患は老少を択ばず、閻王寧ろ貴賤を問う。剛質微繊の罪犯、供に以て鉄牀洋銅となる。宿生善種に依りて箇の人身を得る、般若の良因に答えて祖師の門下に投ず。今日若し空しく過さば、幾劫に又た相逢せん。寒気已に去るも、熱時未だ来たらず。弁道の時最も宜し、空しく光陰を度ること莫れ。『義雲和尚語録』上記一節は、大本山永平寺5世・義雲禅師(1253~1333)の語...今日は3月1日の説法を学ぶ(令和7年版)
物の大切さ 101回目の記事は私の初めての法話を書き記したいと思います。 永平寺では2月ごろに「法話発表会」がございます。 各寮舎で一人づつ選出され、役僚(指導者)、修行僧の前で10分間法話をします。 この話があったとき「これはやるしかない!!」と率先して立候補をしま、、、 してないです じゃんけんで負けて法話をすることになりました笑 今思えば、結果としてよい経験ができたなと思います。 といことで法話をつくるわけですが、今まで作ったこともないし、学生の頃の作文や読書感想文も苦手だったので法話となったらもう何から始めればいいのかさっぱり ということで法話に関する本を購入し真似すればいいかなと思っ…
小学生の頃、鼻づまりで何度も鼻をかんでたとき 母に「鼻水は脳が溶けてるんだよ」と言われて その後なんか簡単な算数の問題出されたときに全く答えがわからなかった時がありました。 それからちょっと怖くなって鼻をかむのを我慢していた思い出があります。 ただ実際のところ鼻をかんで脳が溶けるなんてことはありません 小学生の頃の私は 脳が溶けて頭が悪くなったという思い込みからそういう症状がでてしまったのではと今では思います。 これならまだ可愛い方ですが これから学生、社会人になって知らないことを教えられたときに 先輩の話、周りの人の話を鵜呑みにしすぎてしまうと危ないということに気づいてほしいです。 放てば手…