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次の御垂示を拝する機会を得た。十六条戒の内、三帰戒は正信門で、この三聚戒は誓願門で、次の十重禁戒は修行門と見ることが出来ます。而して十六条戒はもともと一心の三門なれば、別々に離して述べられる訳のものではないが、解り易くする為に、暫く分けて御話して見ませう。秦慧昭禅師『仏戒大意』大本山永平寺不老閣・昭和55年、42頁なお、拙僧の手元にあるのは昭和55年の改訂版であるが、初版は昭和10年であった。内容としては、大本山永平寺68世・秦慧昭禅師が説かれた説戒の記録である。仏祖正伝の受戒・授戒会について、その大意を示されたものであった。さて、今回参究しておきたいのは、十六条戒の構造的理解についてである。ただし、拙僧自身の不勉強があって、このような構造的理解について、他の典拠を見出していない。三帰・三聚浄戒・十重禁戒...十六条戒の構造的理解について
なんでも、最近読んだ、或る在家信者の方の文章によると、説法に於いては、確固たる“信念”を述べてくれるような禅僧がありがたいそうだ。確かに、そういう評価も必要かもしれない。なお、拙僧は、その方に何ら含むところはないので、以下の記事はあくまでも拙僧自身の問題意識に於いて考えていくのだが、正直、信念を述べることについては不可解な思いがしている。もちろん、全く歯も立たないような禅語録や、『正法眼蔵』といった著作を読むために、師から読み方を習うことがあるのは良いだろう。しかしながら、師が確定的に述べてくれることというのは、そんなにありがたいことなのか???また、拙僧は以前から、確定的言説を特定の師に求める態度に、「教条主義」を感じている。今回は、その想いというか、疑問を元に記事を書こうと思う。何だって人は、こういう...決定法はそれほどに大切か?
現在の長野県のお話し。とりあえず、以下の一節をご覧いただきたい。(※元禄)同八年乙亥師十四歳の冬、坂木(※原文ママ)大英寺戒梵孝和尚の結制、師、受業師の命を受て、往て会にあづかる、彼師は始行脚の時に宇治俵(※原文ママ、一般的には「田原」)禅定寺に往て月舟和尚に参随す、帰て住職の後も平日行業純一にして、諸人のために帰仰せらる、此故に遠近多く菩薩戒の弟子あり、ほとんど信州菩薩戒の中興とも謂べきなり、『宝寿大梅老和尚年譜』、『曹洞宗全書』「史伝(下)」巻こちらの年譜は、大梅法撰禅師(1682~1757)のもので、この方の法系としては了庵派となり、その語録や年譜が残っていることで知られる。また、各種仮名法語集に収録される『大梅和尚法語』はこの人のものだとされている。それで、『宝寿大梅老和尚年譜』自体、非常に多くの...信州菩薩戒中興の祖について
宗門喪儀法における『大宝楼閣善住秘密根本陀羅尼』の導入について
以前から気になっていたことについて、記事にしてみたい。現在の曹洞宗の喪儀法では、『大宝楼閣善住秘密根本陀羅尼』が読誦されることがある。例えば、以下の差定の通りである。喪場を特に寺又は他に設ける場合は、行列が喪場に到着のころ、維那は、「大宝楼閣善住秘密根本陀羅尼」を挙し、霊棺、式場を右遶三帀して所定の位置に安置する。『行持軌範』「檀信徒喪儀法」項以上の通りだが、実は現行の宗門で設定している三種の喪儀法の内、行列に因んで「大宝楼閣」を唱えるのはこの「檀信徒喪儀法」のみとなっている。「大宝楼閣」はいうまでも無く、宗門で読誦する経文の中では、『甘露門』に入っているけれども、そこからこちらにまで出て来たわけである。だが、何故、「檀信徒喪儀法」でのみ、「大宝楼閣」を読誦するのだろうか?今日はその辺を探ってみたい・・・...宗門喪儀法における『大宝楼閣善住秘密根本陀羅尼』の導入について
道元禅師の言葉は、様々な出典があるが、これなどは珍しい方に入るのかもしれない。たとへばこれ、敗軍之将さらに武勇をかたる。『正法眼蔵』「王索仙陀婆」巻なお、原典は良く知られていて、以下の一文がそれに当たる。敗軍の将は以て勇を言う可からず。『史記』淮陰侯列伝これは、漢の韓信に敗れた趙の李左車が、韓信から燕と斉を破る方法を尋ねられた際、恥じ入って述べた言葉とされる。要するに、戦で負けた者は、戦争について教えられることが無いという意味になろう。しかし、道元禅師の言い方は、「さらに武勇をかたる」となっていて、元々の意味とは正反対になっている。その意味で、何故このように改めたかが気になるわけである。この一文は、香厳智閑禅師が「王索仙陀婆」について尋ねられた際の問答が元になっている(なお、【昨日の記事】をご参照願いたい...敗軍之将さらにどうする?
いや、余り面白くない記事で本当に申し訳ないm(__)m香厳襲燈大師、因みに僧問う、如何なるか是れ、王索仙陀婆。厳云く、遮辺を過ぎ来たれ。僧、過ぎ去く。厳云く、鈍置殺人。しばらくとふ、香厳道底の、過遮辺来、これ索仙陀婆なりや、奉仙陀婆なりや、試請道看。ちなみに、僧過遮辺去せる、香厳の索底なりや、香厳の奉底なりや、香厳の本期なりや。もし本期にあらずば、鈍置殺人といふべからず。もし本期ならば、鈍置殺人なるべからず。香厳一期の尽力道底なりといへども、いまだ喪身失命をまぬかれず。たとへばこれ、敗軍之将さらに武勇をかたる。『正法眼蔵』「王索仙陀婆」巻・・・((((((((;゚Д゚))))))))ガクガクブルブルガタガタブルブルとりあえず、香厳襲燈大師とは、香厳撃竹の話で有名な香厳智閑(?~898)のこ...「鈍置殺人」事件発生
「電話貸してくれ」ナイフ持った男が民家に押し入る宮城・美里子機を持って逃走県警遠田署が強盗事件として捜査(河北新報)「電話貸してほしい」と夜に寺を訪ねた男、住人に刃物向け子機奪い逃走…宮城県警は強盗事件で捜査(YomiuriOnline)7月18日21時40分頃だそうですが、宮城県遠田郡美里町福ケ袋にある寺院を尋ねてきた男が、「電話を貸して欲しい」と述べたそうで、寺では電話の子機を貸したそうですが、すると、寺の人に向けて刃物を向けたとのこと。しかし、寺の人(御住職なのでしょうけれども)から、制せられると、子機だけ持って逃げたそうです。まさか子機を盗むための強盗とは思えないのですが、悪質は悪質です。寺の関係者にはけが人などがなかったのが良かったですが、大変でした。お見舞い申し上げます。美里町ということで、涌...宮城県内の寺院で電話の子機を盗む強盗事件発生
江戸時代の洞門学僧・面山瑞方禅師(1683~1769)が、このような批判を行っている。是れに臆病なる僧が、職務し住持すれば、常に衆に謗ぜられじと用心して、典座・菜頭も衆の機に合うを専らとし、常住を費やして、後の事管せず。後まで畜儲物も、我が職の内にみな払底して護惜せず。住持も、無道心の大衆が我が侭云うに随わざりしを制すれば、悪作を以って会下を悩乱するゆえに、恐れて衆の機嫌とるにかかりて、一会の結制に、住持は一言も出さず。解制しては、太息をつく。悲しき末世の弊風なり。『洞上僧堂清規行法鈔』第5巻「僧堂新到須知」これは、当時の修行道場の様子を示したものである。当時の修行道場は、一定数の修行者(安居僧)を集めなければならず、そのために涙ぐましい努力がされた。それはつまり、修行僧に批判されないように臆病になってし...弟子に気に入られやすいダメな指導者
既に連載は終了しているが、かのグルメマンガ『美味しんぼ』106巻に、道元禅師の言葉が引用されているらしい。「広く学ぶことはとてもできることではない、むしろすっぱりと思い切って、ただひとつのことにもっぱら励むことだ」by山岡士郎これが、道元禅師の言葉って事らしいが、出典は何処だろうか?『美味しんぼ』は料理に関するマンガだから、それを思う時、主として、『赴粥飯法』とか『典座教訓』辺りを考えてしまいたくなるが、ここで引かれたものを見ると、『正法眼蔵随聞記』っぽいかな。よって、探してみた。示曰、広学博覧はかなふべからざる事なり。一向に思ひ切て、留るべし。『正法眼蔵随聞記』巻2手元でちくま学芸文庫を開いたら、たまたま最初のページにこれが出て来て、一瞬で発見した・・・まず間違い無くここを指していることだろう。現代語訳...『美味しんぼ』に引かれた道元禅師の言葉
今日7月18日は、道元禅師が吉峰寺から大仏寺に移動した日として知られている。『永平広録』巻2冒頭には次のように記載されている。師、寛元二年甲辰七月十八日に当山に徙る。明年乙巳、四方の学侶、座下に雲集す。寛元2年は「1244年」であり、前年の7月に京都を出られた道元禅師は約1年の寓居生活(吉峰寺、禅師峰)を経て、この日大仏寺に移られた。ただしこれは、上記文章を見れば分かるように、直ちに修行を開始したという意味では無く、翌年から「四方の学侶」が集まってきたことを示すように、とりあえず、京都から連れてきた弟子達とともに大仏寺に移動した、という意味で捉えるべきである。逆にいえば、大仏寺は何人かの収容・生活が可能なくらいに伽藍の整備が進んだと理解すべきなのだろう。その上で、後代の記録ではあるが、次のようなことが行わ...7月18日道元禅師が大仏寺に移動
今日は、旧暦の7月17日を命日とする天童如浄禅師(1162~1227)のことを採り上げてみたい。ところで、道元禅師伝に詳しい方々については、如浄禅師の説明は、もはや不要であろうと思います。一応、【如浄―つらつら日暮らしWiki】なんていう項目もあるので、興味のある方はご覧いただきたい。さて、今日見ていくのは道元禅師が、本師である天童如浄禅師のために行った追悼の上堂である。永平寺に入られてからはほぼ毎年行われている追悼の上堂であり、年回法要とは関係なく、いわゆる「毎歳忌」扱いになる。今年のは、整合的ではない順番で入っている上堂なので、具体的な年号は分からない(一応、推定されてはいる)。寛元4年(1246)巻2-184上堂宝治元年(1247)巻3-249上堂宝治2年(1248)巻4-274上堂不詳巻4-276...7月17日天童如浄禅師忌
色々と読んでいる時に、以下の一節があることに気付いた。洞下は、永平祖師の家訓にて、剃髪の時、大乗戒の血脈を授かって、皆な菩薩僧なれば、剃髪戒臘が、祖意に叶うなり。面山瑞方禅師『洞上僧堂清規行法鈔』巻5「僧堂新到須知」実は、この一節を見て、拙僧は困ってしまった。その理由として、上記一節で、面山禅師は出家時に「大乗戒の血脈」を授かるとしている。ところが、面山禅師が編集して敷衍したという『得度略作法』には、血脈授与の項目が見えないのである。以前も見たことであるが、面山禅師の『得度略作法』は以下のような差定となっている。・準備物・奉請三宝・十仏名・嘆徳文・出家の偈・発心の偈・剃髪・安名・授坐具衣鉢法(坐具・五条衣・七条衣・九条衣・応量器)・授菩薩戒法(懺悔・三帰戒・沙弥十戒・三聚浄戒・十重禁戒)・回向・略三宝・処...出家時の『血脈』の有無について
今日は海の日である。もう何年か前から「ハッピーマンデー」になっていたので、今日となる。ところで、大乗仏教で「海」といえば「海印三昧」がある。この三昧は、本来無礙なる仏の智慧の海に、一切の真実相が「印」されて映るような禅定三昧を意味し、『華厳経』という仏典は、この「海印三昧」を説いたものであるとされる。道元禅師は、この「海印三昧」を承けて、中国禅宗の祖師方が説いた教えをもって解釈し『正法眼蔵』「海印三昧」巻を、仁治3年(1242)4月20日に興聖寺で著されたが、他にも道元禅師の著作には「海」が多く登場する。寮中の清浄大海衆、いまし凡いまし聖、誰か測度するん者ならんや。〈中略〉但、四河海に入って復た本名無く、四姓出家しても同じく釈氏と称せよとの仏語を念え。『永平寺衆寮箴規』そもそも、修行僧は「清浄大海衆」とさ...道元禅師と「海の日」(令和6年度版)
明日は7月15日、仏教的には色々と重なっている。ただ、明日は「海の日」らしく、そのための記事も書いているので、今日は「色々と言いたい日」ということで記事を書いていきたい。まず、明日は解夏の日である。解夏の日は、旧暦で4月15日に始まる夏安居が90日間過ぎて終わる日となる。それはさておき、当然に夏安居が始まれば、終わる時も来るわけで、終わる時について道元禅師は以下の様に示されている。解夏。七月十三日、衆寮煎点諷経、またその月の寮主、これをつとむ。十四日晩の念誦、来日の陞堂・人事・巡寮・煎点、並んで結夏に同じ。『正法眼蔵』「安居」巻諷経と念誦くらい?始める時ほど、大変では無い印象。そこで、瑩山紹瑾禅師の時代になると夏中楞厳会を行うようになり(道元禅師の時代に行っていたかどうかは不明。「していない」という断定が...7月14日仏教的には色々と言いたい日
拙僧は、故・澤木興道老師について、色々と申し上げたいことがある。もちろん、拙僧の先師が駒澤大学で学生をしていた頃、坐禅の担当の先生で、ずいぶんと厳しくご指導を受けたご恩があったとしてもだ。その理由は、次のような一節を仰るからだ。・坐禅ということはいったい何ものか、これはわかったようでもいっこうわかっていない。大きな声ではいえないが、禅宗の坊主でもわからずに死んでしまう者が大方である。(154頁)・戦争がすんで一年ほどして勲章をもらったが、私は嬉しかった。年金やら恩給やらで勉強ができると思って嬉しかった。だが私は極端な坊主気質で押しとおしてきたから、その後一度もぶらさげたことはない。(156~157頁)それぞれ「坐禅による自己の完成」、『曹洞宗布教選書』巻11この文章だが、2点問題がある。「禅宗の坊主」のこ...先祖の菩提は自分の菩提
7月は東京や神奈川の一部で「盂蘭盆会」の季節となっているが、以前に【施食会と盂蘭盆会の関係について】で示した通り、曹洞宗では「施食会」という儀式で盂蘭盆会を行う。施食会は古来から「施餓鬼会」「水陸会」「冥陽会」などと呼ばれた儀式で、餓鬼道にあって苦しむ一切の衆生に食べ物を施して供養するという内容である。そもそも餓鬼道とは「生前に嫉妬深かったり、物惜しみやむさぼる行為が甚だしかった者が赴く場所である」とされた。もしくは、ヒンドゥー教では死後1年経つと祖霊の仲間入りをするが、その1年間に供物がきちんと与えられないと亡霊となってしまい、これが餓鬼であるともされるようだ(人権問題的には、色々と注意しなくてはならないと思う)。そこで、中国ではこういった餓鬼道へ堕ちないように、餓鬼を供養することが流行した。その原典は...盂蘭盆会と釈尊の弟子について
施食会と盂蘭盆会、非常に良く似ていることもあって混同されていることがあるという想いを持っているのだが、この発想自体が実は「宗旨と行持」との関わりがあると知った。よって、その文面を紹介しながら、考察を加えていきたいと思う。まず、そもそものきっかけは、明治期に編まれた最初の『洞上行持軌範』の影響である。本書は、江戸時代末期に混乱した宗門行持を斉整ならしめるために編まれた文献で、その際に何故斯様に定めるに至ったかを説明したところに特徴がある。そこで、この施食会(当時は「施餓鬼会」と呼ばれているが、拙僧の文では「施食会」とし、引用は資料としてそのまま用いる。なお、「施餓鬼」は現在は用いられない呼称である)については、以下の記載がある。以上諸規の示す処に拠るに、解制自恣の日、即ち盂蘭盆会施餓鬼を修するは禅林の通規な...施食会と盂蘭盆会の関係について
今日は五節句の一、七夕の節句である。日本では、いわゆる織り姫と彦星の話で、中々見えない天の川に思いを馳せまするが、この節句に於いて、禅宗寺院では、毎回行事が行われてた。ただし、5月5日や9月9日などには、その活動を行っていた形跡がある道元禅師なのですが、何故か7月7日には何もやっていない。そもそも、「五節句」は江戸時代に整備されたともいう。ところで、禅宗寺院と「七夕」の関係について、以下の一節をご覧いただきたい。衆僧の斎粥は、常に勝心を運らし、四来を管待して、軽易すべからず。冬斎・年斎・解夏斎・結夏斎・炙茄会・端午・七夕・重九・開炉・閉炉・臘八・二月半のごとき、この如上の斎会に、もし監院力あらば自ら営弁すべし。もし力およばざる所は、即ち人を請して勾当す。『永平寺知事清規』これは、当時の中国の禅宗道場で用い...今日は七夕の節句(令和6年度版)
語呂合わせで、今日7月6日は「南無の日」だと勝手に認定。ということで、「南無」の素晴らしさを確認したい。いま提婆達多、かさねて三逆をつくれり、一逆つくれる罪人の苦には、三陪すべし。しかあれども、すでに臨命終のときは、南無の言をとなへて、悪心、すこしきまぬかる。うらむらくは、具足して南無仏と称せざること。阿鼻にしては、はるかに釈迦牟尼仏、帰命したてまつる、続善ちかきにあり。12巻本系統『正法眼蔵』「三時業」巻提婆達多は、釈尊の身内だったが、どうも信仰を異としていたようで(他には、律解釈の問題など)、教団を分けてしまった。しかも、ついでに色々とやらかしたと伝える仏伝もあって、結果的に「五逆罪」の内3つを犯したという。よって、道元禅師は、本来的に「一逆」でもとんでもない地獄の責め苦があるけれども、その三倍だと述...今日7月6日は「南無の日」
現在、【『正法眼蔵』勉強会】にて、『正法眼蔵』「海印三昧」巻を読んでいる。実際、拙僧にしてみれば、久方ぶりの同巻であった。無論、常日頃『正法眼蔵』を読みつつ目を通してはいるが、受講者にしっかり学んでもらえるくらいまで読むとなると、12年ぶりらしい。そこで、この記事では、勉強会で申し上げることをまとめているときに改めて、以前から気になっていた、「海印三昧」巻冒頭の一節について、私見を開陳してみたい。大学院生だった頃にまとめた、ゼミ用の予習ノートを見返していたところ、「海印三昧」巻冒頭について、「本則の場所が不明瞭」「これ、別の本則があったのではないか?」という書き込みがされていた。最初は、記憶の彼方にあったことなので、何のことか本人が分からなかったのだが、色々と考えている内に思い出した。それは、本文をご覧い...『正法眼蔵』「海印三昧」巻冒頭の話
最近夙に、近代の仏教研究者の業績に対し、懐疑的な視線を投げかけるようにしている拙僧、とりあえず鈴木大拙居士についても、その例外ではない。そこで、或る文章から、大拙居士の見解について検証しておきたいので、今日は記事にする次第である。大拙居士の盟友、西田幾多郎博士の文章から、道元禅師に関する記述を抜き出していたら、面白い記述を見付けた。無心と云ふことは、単に無分別とか如赤子とか云ふことではない。道元禅師が支那から帰つた時、何を学んで来たかといふ人の問に答へて、何も取立てて云ふことはないが、唯「柔軟心」を得て来たと云つたと云ふ。『日本文化の問題』、岩波書店『新編西田幾多郎全集』第9巻、55頁正直、不思議な記載である。不思議というのは、拙僧自身、このエピソードを知らないためである。江戸時代くらいまでの、道元禅師伝...鈴木大拙居士と道元禅師
7月2日は、道元禅師が本師・天童如浄禅師から学んだことを記録した『宝慶記』と学ぶ日としている。理由は、以下の通りである。宝慶元年七月初二日、方丈に参ず。『宝慶記』つまり、道元禅師が初めて如浄禅師に参じたのがこの日だったといえるため(本当は、暦が新旧で違うので、変換が必要)その一節に、「菩薩戒序」の話が出ているので、今日はそれを見ておきたい。身心悩乱する時は、直に須く菩薩戒の序を黯誦すべし。問うて云く、菩薩戒とは何ぞや。和尚示して曰く、今、隆禅の誦する所の戒の序なり。『宝慶記』第5問答ここで如浄禅師が仰っているのは、坐禅などの時に身心が悩乱した時に、「菩薩戒序」を読むと良いという話をしているのである。そこで、この場合の「菩薩戒」とは何か?という道元禅師の質問に対し、隆禅和尚が誦する「菩薩戒序」のことだと教示...『宝慶記』に見える「菩薩戒序」の話
今日は7月1日である。東京都内、横浜市、山形県鶴岡市など、一部地域では、「7月盆」が始まった。その意義については、以下の通りである。七月朔より望まで、毎日晡時、放参にて施食を行う。朔日より、施食の刹竿をたつ。幡の文に「宝楼閣」の小呪を写す。小施架を殿前に設け、架上に五如来の幡をかく。浄水に浄飯を和して、架に安ず。外の供具は、住持の意楽による。或いは寺院の先例あり。洒水枝は溝萩を束ねて用う。華炉燭、湯茶菓を備え、鳴鐘集衆。両序、施食架に近きを上位とし、大衆は両序の後に立つ。維那初めに焼香し、帰りに住持を揖請して帰位す。時に行者、大磬三声、首めに『大悲呪』、次に「施食文」。大衆、同音なり。誦呪の間に、住持、飲食加持の印契・観念・三業、如法なるべし。「以此修行」の回向の時、両序、上首より両々相い揖して、施架に焼...7月1日一部地域では「盆月」
江戸時代に幕府から出されていた法度の関係で、男性住職の寺院に女性が、女性住職の寺院に男性が宿泊することは出来なかった。以下の通りである。一他人は勿論、親類の好これ有ると雖も、寺院坊舎に女人これを抱置すべからず、但し有来妻帯は各別なるべき事。『諸宗寺院法度』「条」段、分かりやすく訓読したこの『諸宗寺院法度』は寛文5年7月11日に徳川家綱による署名でもって「定」が、また老中の連署によって「条」が定められている。今回取り上げたのは後半部分に当たるものだが、上記の通り、寺院においては(どうしても男性住職が多いので)女性を置いてはならず、それは親戚などにも規制が及んでいた。さて、そうなると気になるのは、授戒会の加行で約7日間寺院に滞在するのだが、その場合、女性はどうしていたのだろうか?その辺が気になったので、ちょっ...江戸時代の授戒会で随喜していた女性はどうしていたのか?
拙僧が所持している切紙集(これは、資料として購入したもので、拙僧が室内で伝えられたものではない)には、幾つかの伝法作法に関わる内容のものが入っているのだが、今回紹介するのは「法鉢伝付」という名前の切紙である。正直なところ、拙僧はこの切紙を、他で見たことが無い。おそらく、石川力山先生などは、各地でご覧になっているのだと思うのだが、主著の『禅宗相伝資料の研究(上下巻)』(法蔵館)の索引などでも探すことが出来ないので、詳しいことは分からない。そこで、今回の記事では、当該切紙の内容を紹介することで、読者諸賢の見識に教えていただければ幸いである。なお、予め述べておくと、内容は2段落である。おそらくは、前段だけで十分なのだが、他の切紙同様に、関連する説話を挿入することで、この切紙の価値を高める努力が後段で行われている...「法鉢伝付」切紙について
拙僧つらつら鑑みるに、「受戒」の意義について、単純な入信の儀式とでも捉えられる状況があると思われ、それはややもすると受戒本来が持つ意義を局限している恐れがあると思われたので、以下にちょっとした記事を書いておきたい。今即ち、是の如く勧誘するは、古今一揆なり。故に仏言く、「是れ諸仏の本原、行者菩薩道の根本なり。是れ、大衆・諸仏子の根本なり」〈已上、梵網〉。又、言く、「仏家に住在するは、戒を以て本と為す。〈中略〉初めて発心・出家して、菩薩位を紹がんと欲する者は、当に先ず正法戒を受けるべし。戒は是、一切行の功徳蔵の根本なり。正に、仏道の果に向かって、一切行の本なり」〈已上、瓔珞〉。是の故に、一切の仏子、先ず戒に依りて入る。戒に依りて住す。戒に依りて成弁す。『禅苑清規』曰く、「参禅問道は、必ず受戒を先とす。三世諸仏...指月慧印禅師『禅戒篇』「勧戒」を学ぶ
拙僧が昨年度から講師を担当している【『正法眼蔵』勉強会】は2つあるが、その1つで「画餅」巻を読み終えた(次回からは「海印三昧」巻となる)。そこで、末尾に結構難しい一節があるので、それを学んでみたい。しかあればすなはち、画餅にあらざれば充飢の薬なし、画飢にあらざれば人に相逢せず、画充にあらざれば力量あらざるなり。おほよそ、飢に充し、不飢に充し、飢を充せず、不飢を充せざること、画飢にあらざれば不得なり、不道なるなり。しばらく這箇は画餅なることを参学すべし。この宗旨を参学するとき、いささか転物物転の功徳を、身心に究尽するなり。この功徳、いまだ現前せざるがごときは、学道の力量、いまだ現成せざるなり。この功徳を現成せしむる、証画現成なり。『正法眼蔵』「画餅」巻さて、注意しなければならないのは、「飢」「不飢」「充」「...『正法眼蔵』「画餅」巻の一節の参究
鈴木大拙居士(1870~1966)の随筆で、曹洞宗の禅を以下のようにまとめていた。一方日本の曹洞禅があつて禅戒一如の思想や、一寸坐れば一寸の仏と云ふやうな見方、「正法眼蔵」の研究、道元中心の禅などと云ふものが出来たが……大拙居士「公案禅と念仏禅」、『禅:随筆』大雄閣・昭和2年、350頁ここで気になったのは、「一寸坐れば一寸の仏と云ふやうな見方」であり、これは曹洞宗の教えといえるのだろうか?確かに、この一句を御垂示等に用いられた事例も少なくないように思うが、ただ、少し議論を要すると思うのだ。例えば、江戸時代の学僧・天桂伝尊禅師が次のような批判を行ったことで知られる。老僧常道、汝等坐禅修行すといへども、但修習行儀無実究道理、只管打坐、仏祖眼睛、在規矩中、一寸の坐禅、一寸の仏などヽ云、瞎禿子の妄談を信じて、著眼...一寸坐れば、一寸の仏?
拙僧の好きなことの1つに、ただ『東方年表』を眺めるという変なのがあるのだが、それを見ていると、或る元号について気になることがある。それは、曹洞宗の大本山永平寺の名前の由来になったとされる「永平」という元号についてである。現在、福井県永平寺町に所在する永平寺は、元々吉祥山大仏寺(『永平広録』巻2冒頭参照)と呼称され、その後改名された。大仏寺を改めて永平寺と称する上堂〈寛元四年丙午六月十五日〉。〈中略〉良久して云く、天上天下当処永平。『永平広録』巻2-177上堂このように、寛元4年(1246)6月15日に改名されたことが分かる。ただし、道元禅師が何に由来して「永平寺」と名付けられたのか、ご自身の御著作・御提唱などからは判明していない。しかし、永平寺5世・義雲禅師がご見解を示されている。夫れ、永平とは仏法東漸の...「永平」という元号(6月15日の記事)
ちょっと興味深い一節を見出したので、参究してみたい。一行鉢は朔望二十八日、毎月三度なり、故へあれば侍者寮より触れ出し休むる也、袈裟を搭することは、暁天より夜坐に至る迄、一座もかく不可、行鉢は新到初心の僧に能く教訓ある可し、此の事諸山になしと云て、悪言を吐く雲衲は好与無数棒たるべし、これを永祖の親伝を未夢不見の漢と云て、近くは鉢盂の巻、袈裟功徳等の巻を拝看すべし、衣鉢の護持は九旬中方丈和上より教訓ある可し、『太平山諸寮日看』「侍者寮要看」、『曹洞宗全書』「清規」巻・750頁上段まずは以上の通りだが、現在の埼玉県内に所在する太平山龍淵寺山内で用いられていた『諸寮日看』の一部を採り上げてみた。これは、「行鉢」とあるので、いわゆる鉢盂(応量器)を用いた食事についての話をしているものと思われる。そして、当時は毎月3...江戸時代の僧侶教育と『正法眼蔵』について
現在の曹洞宗は、「出家得度式」の作法に於いて、「沙弥戒」を授与していないため、この辺は余り議論されないものではある。しかし、今後の曹洞宗の戒体系を考える上では、「沙弥戒」の位置付けは避けては通れない。よって、この記事では道元禅師に於いて「沙弥戒」がどの位置付けであったのかを探るものである。まず、「沙弥戒」は、道元禅師撰とされる『出家略作法』に於いて以下のように位置付けられている。次に戒の作法を授く。次に懺悔・三帰・五戒、尽形受。次に沙弥十戒、尽形受。次に菩薩三聚浄戒〈今身従り仏身に至るまで〉。次に根本十重禁戒〈今身従り仏身に至るまで〉。各三拝して之を受く。後、仏を礼して去る。『出家略作法』ここである通り、「在家五戒」を授け、菩薩の三聚浄戒・十重禁戒を授ける間に「沙弥十戒」を授けている。しかし、ここで「沙弥...道元禅師に於ける「沙弥戒」授与の意義
今日6月9日は「ロックの日」らしい。だが、禅宗にロック好きは多く、或る意味全員ロックな禅僧だという話があるくらいなので、誰でも良いのだが、敢えてこの一則である。鄂州巌頭清厳大師〈徳山に嗣ぐ、諱は全豁〉因みに僧問う、「三界の競起する時、如何」。師曰く、「坐却せよ」。僧云く、「未審し、師意、如何」。師曰、「廬山を移取し来れ、即ち汝に向かいて道ん」。『真字正法眼蔵』上75則この問答だが、徳山宣鑑禅師の弟子である巌頭全豁禅師(828~887)に、或る僧が聞いている。何を聞いたかといえば、「三界」というのは、この我々の世界を含めた全宇宙くらいの意味で考えて貰えば良いと思うが、それが「競起する」としている。昔、この意味を或る先生に聞いたら、向こうから盛んにドンドンくるようなイメージだと仰っていたように覚えている。よっ...今日は6月9日「ロックの日」らしい
現在、拙僧が承っている『正法眼蔵』勉強会では「渓声山色」巻を読み終えたのだが、同巻巻末に見られる或る一節について学んでみたい。その前に、曹洞宗の読誦教典として100年以上にわたって用いられている『修証義』の「第二章懺悔滅罪」の一節を見ていこうと思う。其大旨は、願わくは我れ設い過去の悪業多く重なりて障道の因縁ありとも、仏道に因りて得道せりし諸仏諸祖我を愍みて業累を解脱せしめ、学道障り無からしめ、其功徳法門普ねく無尽法界に充満弥綸せらん、哀みを我に分布すべし、仏祖の往昔は吾等なり、吾等が当来は仏祖ならん。我昔所造諸悪業、皆由無始貪瞋痴、従身口意之所生、一切我今皆懺悔、是の如く懺悔すれば必ず仏祖の冥助あるなり、心念身儀発露白仏すべし、発露の力罪根をして銷殞せしむるなり。下線は拙僧特に下線部をご覧頂きたいが、この...龍牙居遁禅師の言葉と懺悔
とりあえず、以下の一節を学んでみたい。この下は、護法の厳重なるべきことを示す、微妙の法門の興るも廃るも、出家沙門の仏弟子にかヽるなれば、僧は福田ゆへに俗が尊重す、僧が自らを重じて、三学厳密なれば、如来の大法も重くなり、僧が破戒無慚なれば、法も自然と軽くなる、僧は仏法中の当人ゆへに、内護と云ふ、俗の檀越は外から仏法を守護す、内護が善なれば帰依す、左なければ背くゆへに、内護の僧はつヽしまねばならぬ、この内護外護と云ことは、涅槃経の第三に出たり、面山瑞方禅師『亀鏡文聞解』江戸時代最大の洞門学僧である面山瑞方禅師は、三学厳密を弟子達に求めたことで知られている。それは特に、晩年に記したとも考えられる『信施論』などで非常に強く主張されるに至ったが、基本は若い頃から同様だったと見て良い。それで、以上の一節だが、『禅苑清...仏教の内護・外護について
我々は、道元禅師が用いた言葉であっても、それが現代と同じ意味として使われているとは限らないことを知るべきなのだろう。例えば、次の御垂示はどう理解すべきだろうか?しかうしてのち、衆僧、おのおのこころにしたがひて人事す。人事とは、あひ礼拝するなり。たとへば、おなじ郷間のともがら、あるいは照堂、あるいは廊下の便宜のところにして、幾十人もあひ拝して、同安居の理致を賀す。しかあれども、致語は、堂中の法になずらふ、人にしたがひて今案のことばも存す。『正法眼蔵』「安居」巻これは、「安居(特に、道元禅師の時代は「夏安居」に限定)」が始まるときに、修行僧達がお互いに挨拶する行持(人事)について指摘されたものである。それで、今でもそうだが、当時、修行僧達は住持に対して挨拶をした後で、お互いに挨拶したのであった。「人事(読み方...「同安居」という言葉
今日、6月1日は半夏節である。半夏節とは、夏安居の半分という意味で、旧暦の時代は4月15日結夏、7月15日解夏であったため、6月1日が半夏であった。六月一日、半夏節と称す。若しくは上堂の次で、坐禅を放下する由を報ず。即ち随意坐禅なり、打鈑せざるのみ。『瑩山清規』「年中行事」以上の通りである。そこで、「半夏」で調べてみると、以下の事績が確認されたので、学んでおきたい。・師、又、末世の規矩を遺す為に、越前中浜に在りて、半夏頭院(陀?)行化す。『三祖行業記』「懐奘禅師章」・師、又、末世の規矩の為に、越前中浜に在りて、半夏頭陀化を行ず。『三大尊行状記』「懐奘禅師章」上記は、大本山永平寺二祖・懐奘禅師(1198~1280)の最古の伝記に位置付けられる『三祖行業記』『三大尊行状記』を引用したものだが、それらの伝記の末...6月1日旧暦なら半夏節
明庵栄西禅師(1141~1215)は、中国に二度留学して、二度目の留学時には臨済宗黄竜派の虚庵懐敞禅師から法を嗣いで帰国されている。なお、帰国後、栄西禅師は、中国天童山の伽藍修築のため、日本から木材を送るなどしたという。そこで、栄西禅師が遷化された後、日本から弟子の明全和尚と、道元禅師など一行が中国に渡った時、栄西禅師の年忌を修行したという。その経緯について、『日本国千光法師祠堂記』(『続群書類従』9上)に書いているので、見て行きたいと思う。臨終を予め期して、両手に印を結び、安坐して化す。寿は七十五、臘は六十二。後十年、其の徒明全、復山中に来たりて、捐楮券千緡を諸庫に寄せて、転息して七月五日の忌、冥飯を設ける為とす。衆の本孝なり。このようにある。そこで、ここで考えてみたいのはこの供養自体がいつ行われたかと...天童山に於ける栄西禅師供養について
今日5月25日、道元禅師が弟子の慧運直歳の行いを讃える機縁となった日でもある。早速、当該の文章を学んでみたいと思う。慧運直歳の充職は、乃ち延応庚子の歳なり。去冬除夜に請を承けて、今、供衆す。五月二十五日、梅雨霖霖として、草屋漏滴す。因みに、山僧入堂坐禅するに、照堂と雲堂と、両屋の簷頭、平地に波瀾を起こす。清浄海衆、進歩退歩、中間に兀立す。時に直歳に告ぐるに、匠人と等しく裰を脱ぎ笠つけず、屋上に上りて管す。雨脚、頂に潅げども辞労の色無し。予、潜かに発意を感ず、一句、他に与えん、と。乃ち、本祖の時、他を鑑憐するのみなり。爾して自り以来、月六箇を経、日、二百に将んとす。未だ工夫有らずも、其の意、忘れ難し。暑中に未だ筆をとらず、寒に至って墨を使う。是、則ち先仏の骨髄なり。一身の卜度に滞ること勿れ。吾子充職より已来...5月25日その日京都は雨だった
現在の曹洞宗では、「焼香師」という言葉が用いられている。しかし、この言葉は古い文献にさかのぼることが出来ず、『曹洞宗宗制』や『行持軌範』には用例はあるものの定義されていないらしい。よって、今回は定義的な問題を含めて検討したい。まず一般的な仏教辞典には、「焼香師」は立項されていない。これは、中国で編まれた漢訳仏典に「焼香師」が登場しないことを意味する。また、江戸時代の臨済宗の学僧・無著道忠禅師『禅林象器箋』にも、立項されていない。これは、江戸時代中期に、用例が存在しなかったと理解して良いのではなかろうか。ただし、『禅学大辞典』には「焼香師」が立項され、以下の意味を見出すことが可能である。①法会に際し香語を唱え香を拈ずる式師で、導師のこと。②本山などの大寺院の特別法要に、とくに外部から式師の役を勤めるもの。そ...焼香師について
昨日の【『正法眼蔵』勉強会】では、「画餅」巻を読んでいった。さて、禅語(禅の言葉)には、本来の仏教学からすれば独特なものがある。それは、いわゆる経典や論書(註釈書)で使われる仏教語を脱して、世俗で使われている日常語を大胆に導入した結果、生み出されたものが多い。その中に、極めて禅語的な響きを持つ言葉に「画餅」がある。古来は「わひん」だったそうだが、現在の曹洞宗では「がびょう」と読む言葉で、通常の日本語でも「がへい」と読んで、「画餅に帰す」といった用法がある。意味としては、「無駄」ということであり、様々な行いが、無駄になってしまったときに嘆息混じりでいわれる言葉ということになるだろう。又香厳智閑禅師、かつて大潙大円禅師の会に学道せしとき、大潙いはく、なんぢ聡明博解なり、章疏のなかより記持せず、父母未生以前にあ...画にかいた餅は飢を充たさず
今日は5回目である。江戸時代の学僧・面山瑞方禅師「肥後求麻永國寺満戒普説」を参究する連載記事である。昨日は、熊本県人吉市周辺では、未だ授戒会が行われていなかったと、面山禅師が認識していたことを示したが、今日はどのような内容であろうか。又、血脈を授くるとは、釈書栄西章に謂く、迦文従りの譜図を受く。五十三世、系連明覈なり。是れ今の血脈なり。古を按ずるに、六祖壇経に謂く、五祖、堂前に血脈図を画く。亦、日本叡山伝教大師、血脈譜一巻を作し、中に謂く、達磨大師相承血脈一首、是れ伝教は、法を馬祖法嗣の王姥山倐然に受くるの由来なり。我が相承する所は、天童浄祖、永平祖に授くる所の図なり。法灯国師の年譜に、いわゆる天童浄和尚従り相伝の血脈とは是れなり。今、仏祖正伝大戒血脈と題するものなり、知るべし。是の故に此の血脈、龍に授け...面山瑞方禅師「肥後求麻永國寺満戒普説」参究(5)
今日は4回目である。江戸時代の学僧・面山瑞方禅師「肥後求麻永國寺満戒普説」を参究する連載記事である。昨日は、「讃戒の偈」を中心に、戒の功徳を示した。それでは、今日はどのような内容であろうか。然れば亦、経に謂く、小乗戒は犯有れば即ち捨す。大石の破れるが如く、修補すべからず。菩薩戒は則ち金銀なるが如く、若し損すれども幾回も修補すべし。是の故に若し人心中に犯有ることを覚えるは、半月半月、布薩し礼仏懺悔すべし。晦日に懺悔すれば則ち十六日より後の罪悉く滅す。十五日に懺悔すれば、朔日より後の罪皆消えるべし。一生、是の如し。則ち縦い臨終に及ぶも、少しも罪有ること無し。是の故に謂く、命終時正見なれば心歓喜す。豈爾らずや。伝聞するに、此の郷、昔従り未だ菩薩戒の授受有らず。是れ、因縁の未だ到らざるなり。者回因有り縁有り、授受...面山瑞方禅師「肥後求麻永國寺満戒普説」参究(4)
【4月の結夏5月の結夏】の続きの記事と言うべきか。特に、現在の「結制祝祷上堂」の作法について、途中に「垂語」というのが出てくる。一応、軌範上の定義は以下の通りである。垂語住持は拄杖を卓てゝ垂語し、「何々底の漢あらば出で来て商量せよ」などゝ法問を促す。『昭和改訂曹洞宗行持軌範』「年分行持・五月十五日・結制祝祷上堂」項、138頁問題は、この「垂語」という表現である。無著道忠禅師『禅林象器箋』巻11「垂説門第十一」を見ると、「又た是れ垂示なり」(「垂語」項)とある一方で、「忠曰く、上堂の垂語、索話と称するは非なり。索話の処を見よ」(同)とあって、垂語と索話の違いについて論じている。実は、拙僧も、先に挙げた『行持軌範』の記述について、「垂語」の意味で係る範囲が何処までか分からないことがあった。もちろん、拙僧自身の...垂語と索語と釣語
今日は3回目である。江戸時代の学僧・面山瑞方禅師「肥後求麻永國寺満戒普説」を参究する連載記事である。昨日は、戒を受けない場合には仏道修行が継続できないことを示された。それでは、今日はどのような教えになっているだろうか。是の故に縦い是の男女、此の戒を受けざれば、彼と異ならず。者回の真俗の男女、二百三十五人、等しく仏位に入るは、無上の大功徳なり。豈に並ぶもの有りや。是を以てか、讃戒の偈に言わく、戒を妙法の蔵と為し、亦た出世の財と為す。戒を大なる舟船と為し、能く生死の海を渡る。戒を清涼の地と為し、諸熱悩を澡浴す。戒を無畏の術と為し、邪毒の害を消伏す。戒を究竟の伴と為し、能く険悪の道を過ぐ。戒を甘露の門と為し、衆聖の遊ぶ所なり。『永福面山和尚広録』巻10「肥後求麻永國寺満戒普説」既に【(1)】で述べたように、永国...面山瑞方禅師「肥後求麻永國寺満戒普説」参究(3)
江戸時代の学僧・面山瑞方禅師には、いくつかのまとめられた説戒録が残されているけれども、最晩年の説戒録として知られているのが、「肥後求麻永國寺満戒普説」である。これは、現在の熊本県人吉市内にある永国寺さまにて行われた授戒会に随喜された面山禅師の説戒録になる。同寺にて説戒を行った経緯は、『年譜』の以下の文章から知られる。明和4年(1767)師85歳十一月肥後球麻永国寺円髄力生至りて、師を来夏の結制に請う。師、諾す。明和5年(1768)師86歳二月二十三日京より発して、肥後永国寺結制の請に赴く。三月二十三日を以て到る。制中に、『金剛経纂要』及び『参同契吹唱』を開示し、且つ戒会を開く。得戒者、二百三十五人。事畢りて、五月二十八日を以て求麻を発し、六月二十五日を以て京に入り、直ちに建仁西来院に寓す。このようにあって...面山瑞方禅師「肥後求麻永國寺満戒普説」(1)
万仭道坦禅師『禅戒本義』所収「嵩嶽元圭禅師戒文」について(1)
まず、万仭道坦禅師の『仏祖正伝禅戒本義(以下、『禅戒本義』)』は『曹洞宗全書』「禅戒」巻に翻刻収録されているが、安永3年(1774)序・跋の版本があって、拙僧の手元には明治期の貝葉書院後刷本がある。それを見ても、「嵩嶽元圭禅師」と書いてあるので仕方ないのだが、「嵩嶽元珪禅師」と表記されるのが一般的である。その表記だと、『景徳伝灯録』巻4の表記から、五祖弘忍―嵩嶽慧安―嵩嶽元珪と続く法系の人で、要するに五祖からの傍出(例えば慧能禅師や神秀禅師ではない)の法系の人、ということになるだろうか。それで、万仭禅師は『禅戒本義』に「嵩嶽元圭禅師戒文」を収録したのだが、これは先に挙げた『景徳伝灯録』を初め、『聯灯会要』巻3・『五灯会元』巻2などの「嵩嶽元珪禅師章」にも見え、見ることは全く難しくない。おそらく、中国禅宗で...万仭道坦禅師『禅戒本義』所収「嵩嶽元圭禅師戒文」について(1)
今日、5月9日は語呂合わせで「呼吸の日」らしい。以前は、機動戦士ガンダムに出てくるジオン軍のゴッグの日だと思っていたが、今日は「呼吸の日」に因んで、坐禅の呼吸について学んでみたい・・・と思ったが、決して難しくはない。鼻息微かに通じ、身相既に調えて、欠気一息し、左右揺振すべし。流布本『普勧坐禅儀』呼吸の基本は、「鼻息微かに通じ」なので、実際には口を閉じて鼻から呼吸する。以下の御垂示もある。鼻息は通ずるに任せ、喘がず声せず、長からず短からず、緩ならず急ならず。『弁道法』通ずるに任せというのは、ごく自然に呼吸することをいう。腹式呼吸などを強調すべきだという見解もあるが、実はそこまででも無いし、むしろ、そういった呼吸の強調が否定されている部分もある。上堂。衲子の坐禅、直に須らく端身正坐を先と為すべし。然る後に調息...5月9日「呼吸の日」に学ぶ坐禅の呼吸
ちょうど、【『正法眼蔵』勉強会】で「画餅」巻を読み始めたので、備忘録的に書いておきたい。この一言をあきらめざらん、たれか余仏の道取を参究せりと聴許せむ。『正法眼蔵』「画餅」巻この一節は、香厳智閑禅師はそれまで経論を学んだ秀才の僧侶だったのだが、潙山霊祐禅師の下で学んでいた時に父母未生以前の言葉を持ってくるようにいわれ、それが出来なかった時に発した言葉「画餅不充飢」を指したものである(詳細は「渓声山色」巻を学ばれると良い)。その言葉は、経論の学びをただ無駄なものだと、如何にも禅宗らしく理解されていたのだが、道元禅師はそういった理解は正しくないとし、真実の「画餅」理解を示すために本巻を著された。よって、先の一節は、「この一言を明らかにしないのなら、誰が他の仏であっても、この言葉を参究していたと許すことがあろう...「余仏の道取を参究せり」について
5月6日は、「5月(may)6日(ろ)」の語呂合わせで、「迷路の日」らしい。なお、いわゆる「迷路」の語句は、英語の「maze」の訳語として「曲折、混雑、迷惑、迷路、曲路」(明治6年『英和字彙』参照)の1つとして見える。なお、本来の漢語としては「路に迷う」という動詞で使われる。その意味で、以下の一節を学んでみたい。梁の普通よりのち、なほ西天にゆくものあり、それ、なにのためぞ。至愚のはなはだしきなり。悪業のひくによりて、他国に跉跰するなり。歩歩に謗法の邪路におもむく、歩歩に親父の家郷を逃逝す。なんだち、西天にいたりてなんの所得かある、ただ山水に辛苦するのみなり。西天の東来する宗旨を学せず、仏法の東漸をあきらめざるによりて、いたづらに西天に迷路するなり。『正法眼蔵』「行持(下)」巻「西天に迷路するなり」と示され...今日は「迷路の日」
さて、端午と言えば、古来から禅宗でも重要な日であり、道元禅師も端午に因む行持を行われた。この日に行持を行う理由は、中国の風習に由来する。そして、五月の端(はじめ)の五日、つまり五月夏至の端(はじまり)の意味を持ち、端午の称は午月午日午時の三午が端正に揃うことに因む。このように五月五日を端午と明らかに称するようになるのは唐代以後のこととされ、宋代以後には「天中節」とも呼称された。これは、五月五日の五時が天の中央にあたることと、この日の月日時の全てが数字の“一三五七九”の天数(奇数)の中央である“五”にあたることから、天中節と称する。端午には廳香・沈香・丁子などを錦の袋に入れ、蓬・菖蒲などを結び、五色の糸を垂らさせた「薬縷(薬玉)」を作り、柱にかけたり身に付けたりして、邪気を払い長命息災を祈った。また、薬狩と...今日は「端午の節句」(令和6年度版)