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道元禅師の会下にいた、達磨宗の懐鑑首座が、先師である仏地覚晏道人のために上堂を請したことがあった。以下の通りである。懐鑑首座、先師覚晏道人の為に上堂を請す。拈香罷、座に就いて払子を取って云く「前来の孝順、誰人か斉肩ならん。今日の廻向、聖霊炳鑑すべし。弟子が先師を仰ぐの深き志、先師独り知る。先師、弟子を憐れむの慈悲、弟子一り識る。余人焉ぞ知らん、外人未だ及ばず。所以に道う、『有心もって知るべからず、無心もって得るべからず、修証もって到るべからず、神通もって測るべからず』と。這田地に到って如何が商量せん」。卓、拄杖して云く「唯、拄杖有って了々常に知るのみ。拄杖甚と為てか了々常知するや。職として、過去の諸仏も也、恁麼、現在の諸仏も也、恁麼、未来の諸仏も也、恁麼。然も是の如くなりと雖も、這箇は是、仏祖辺の事、作麼...道元禅師の覚晏道人への上堂は「宣疏」だったのか?
道元禅師が、日本に帰ってきて最初に行った正式な説法(=上堂)について、卍山本『永平広録』、或いは『永平略録』の冒頭に出る上堂が最初であると考えられた時代もあってか、「眼横鼻直」と並んで「空手還郷」は、道元禅師の「あるがままの禅境」を示す好語であるとして理解されてきた。ところが、既に祖山本『永平広録』の研究から、道元禅師の「最初の上堂」とは、興聖寺開堂のものであり、いわゆる「眼横鼻直」については、いつの頃に付加されたものか不明であるという事態に至った(詳細は【眼横鼻直-つらつら日暮らしWiki】参照のこと)。しかし、「空手還郷」は祖山本にも残っていて、今日はその語について考えてみたい。この語が出ているのは以下の箇所である。上堂に、云く。山僧、是、叢林を歴ること多からず。只、是、等閑に先師天童に見えしのみなり...「空手還郷」について
今日は8月10日。世間では「ハットの日」とか「ハット同盟」が話題になっているようだが、拙僧的には「8(はっ)10(とお)」から、勝手に「法堂」に掛けて「法堂の日」とし、その解説を行いたい。「法堂」とは、禅寺では極めて重要な建物(伽藍)である。それは、仏像(本尊)を祀る「仏殿」よりも重要であるとの評価もある。それは、次の文脈から知られる。仏殿を立てずに唯だ法堂のみを樹てるは、仏祖の親しく嘱し、当代に授けて尊と為すを表するなり。『禅門規式』『禅門規式』という文献は、唐代の百丈懐海禅師がどのような規範を確立したかを伝える文献だとされるが、以上の通り「仏殿」は否定的だけれども、「法堂」を構えていることが分かる。それは、道場の主たる当代の祖師こそが、「尊」だからであり、形ばかりの仏像に把われる必要が無いためである。...今日は「法堂の日」(令和5年度版)