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【五戒と五常の関係について】の続きの記事になるのかな?でも、あんまり関係無いかもしれない。以前の記事で、仏教で説く五戒と、儒教で説く五常との関係が仏教者によって説かれた文献を見てみたが、今回もその続きのようになってしまった。実は、儒者側の文献を見たかったのだが、拙僧の拙い調査能力では探せていないためである。ということで、以下の一節などはどうか。儒教に五常とて五つのこころもちあり、仁義礼智信これなり、一に仁といふは、慈悲ありて人をあはれむ心なり、二に義といふは、柔軟にしてひがことなき心なり、三に礼と云は、正直にしてふたごころなき心なり、四に智といふは、憲法にしてあやまりなき心也、五に信と云は、真実にして姧りなき心也、五常ただしき時、しゆくぜんの余慶家にあり、これをそむく時、しゆくあくの余殃身にかかる、此五常...五戒と五常の関係について(2)
「密」という語を聞くとき、我々自身、どのように考えるべきだろうか?たとえば、「秘密」、要するに「密教」の「密」として採るべきであろうか?或いは、「親密」として、道元禅師の仰る「密語」の「密」として受け取ることも可能である。しかし、親しすぎる対象を、見ることは困難である。正しくは、見ることが出来ても、その「全貌」をありのままに見ることが出来ないというべきであろうか?畢竟、我々にとって、「密」とは、その全貌を対象として明確に受け取ること、知り得ることは不可能だといいたいのである。ただ、これは、安易な「不可知論」とは違う。その辺は、以下の問答からまず見ておきたい。上堂。記得す。雲門、曹山に問うて云く、「密密の処、甚麼と為てか有ることを知らざる」と。山云く、「祗だ密密なるが為に、所以に不知有なり」と。若し是、永平...親密過ぎる仏法
今日は「お香の日」だそうだ。そこで、今日は道元禅師の教えから、「お香」について論じられた箇所を学んでみたい。・受者、先ず教授師の寮に到り、先ず教授に問訊し罷りて、右手にて香を上り、香炉に挿む〈沈香・箋香等の小片を焼くなり〉。『仏祖正伝菩薩戒作法』・威儀を具すといふは、袈裟を著し、坐具をもち、鞋襪を整理して、一片の沈・箋香等を帯して参ずるなり。『正法眼蔵』「陀羅尼」巻前者は、宗門室内行持の1つだが、「仏祖正伝菩薩戒」を師資相伝する際の作法の中に出て来る一文である。その中に、教授師という授戒には欠かせない師の1人に対して礼拝する場面や、後者は善知識に対する礼拝を行う時の威儀だが、ともに道元禅師は丁寧な作法と、その時に焚くべき「お香の種類」を提示されている。名前として挙がっているのは、「沈香・箋香等」である。沈...道元禅師とお香について
御開山である道元禅師の時代からは、少し後の記録だが、以下のような一節がある。△中興和尚、永平寺に御住中、虚空に鐘声鳴る。此嘉暦二年四月十六日也。開山和尚御現住の時も堂に鐘声鳴しが、今吾住山の中にも亦鐘声ありとて、中興和尚御悦不尋常。此鐘声により、軈て勧進に思食し立ち、今の大鐘を鑄立て給。此義、則ち鐘の銘に書付給也。『建撕記』嘉暦2年とは西暦では1327年であり、当時の永平寺は五世・義雲禅師(1253~1333)が住持を勤めておられた時代である。それで、その年の夏安居が始まった4月16日に、空から鐘の音が鳴ったとされている。この現象は、道元禅師の御在世時にも発生したとされる。建長三年、当山の奧に常に鐘声の聞ゆる事、自檀越相尋について御返事也。御尋について申候。此七八年之間は、度々に候也。今年正月五日子の時、...永平寺の鐘が響いた日
今日4月15日は、暦や季節感などを無視してしまえば、古来より「夏安居」の開始日として定められていた「結夏」の日に当たる。なお、現在では5月15日を一般的な「結夏」としているので、古来より行われていた結夏に関する説法などを見ると、若干のズレがある。であれば、5月15日に「結夏」の記事を書けば良いのかもしれないが、とりあえず今日にしておきたい。結夏の上堂に、云く、百草、如今、将に夏を結ばんとす。拈来の尽地、万千茎。一華五葉、天沢に開く。結果自然、必ず当生なり。『永平広録』巻1-44上堂道元禅師がまだ京都宇治の興聖寺に居られた頃、仁治2年(1241)に行われた結夏上堂である。道元禅師は、後には結夏の開始を、上堂ではなくて、小参で行うようになり、また後には中国曹洞宗の宏智正覚禅師や、中国臨済宗の黄竜慧南禅師の説法...4月の結夏5月の結夏
明日4月15日から、夏安居(とはいえ、新暦の現在では5月15日)の結制となる。ところで、曹洞宗は道元禅師による伝来当初より、「安居」を導入していたと思われるが、15日の結夏を前に行われる行持を確認してみたい。四月十四日の斎後に、念誦牌を僧堂前にかく。諸堂、おなじく念誦牌をかく。至晩に、知事、あらかじめ土地堂に香華をまうく、額のまへにまうくるなり。集衆念誦す。念誦の法は、大衆集定ののち、住持人、まづ焼香す、つぎに、知事・頭首、焼香す。浴仏のときの、焼香の法のごとし。つぎに、維那、くらいより正面にいでて、まづ住持人を問訊して、つぎに土地堂にむかうて問訊して、おもてをきたにして、土地堂にむかうて念誦す。詞云、竊以薫風扇野、炎帝司方、当法王禁足之辰、是釈子護生之日。躬裒大衆、粛詣霊祠、誦持万徳洪名、廻向合堂真宰。...4月14日「夏安居」を前に
現代の用語としては、「祖父」とは「父または母の父」、つまりはお祖父さんを意味する言葉である。以下の一節も同様であるといえる。唐憲宗皇帝は、穆宗・宣宗両皇帝の帝父なり。敬宗・文宗・武宗三皇帝の祖父なり。道元禅師『正法眼蔵』「光明」巻これは、血縁関係上の「祖父」をいっていることが分かる。憲宗(778~820)は、唐王朝第14代の皇帝であり、皇太子の長男が若くして亡くなったことで仏教に深く帰依をした。晩年は精神的に疾病を発症し、そのために暗殺されてしまった人である。しかし、その実子である穆宗(憲宗の三男、第15代皇帝)・宣宗(憲宗の十三男、第19代皇帝)が皇帝となり、穆宗の実子である敬宗・文宗・武宗も皇帝となった。なお、中国仏教史上最悪の仏教弾圧である「会昌の破仏」は、この武宗によって引き起こされた。さて、その...『正法眼蔵』に見える「祖父」という言葉
本日4月8日は三仏忌の一、釈尊降誕会(灌仏会・浴仏会・仏生会・花まつり)である。お釈迦様のお誕生日である。なお、江戸時代の様子については既に【4月の和名「卯月」に関する雑考】でも示したが、更に以下の一節も紹介しておきたい。〔八日〕釈迦誕生灌仏会賑ふ、寺院しるしつくしがたし、△諸人、門戸へ卯の花を挿す、薺草を行灯に掛て虫除とし、又蛇よけの歌を厠へ貼る、歌は諸人のしる所也、三田村鳶魚先生『江戸年中行事』中公文庫、380頁やはり、「卯の花」を門戸に挿すことは、江戸時代の流行だったことが分かる。その上で、虫除けや蛇除けをしたそうだが、後者の蛇除けが「厠(トイレ)」であることが、当時の現実を示しているように思う。釈尊の降誕会に、虫除けや蛇除けが行われた経緯が知りたいが、今のところは良く分からない。その上で、今年は簡...今日は釈尊降誕会(令和6年度版)
ちょっとした雑考であるが、もしかするとこれは、拙僧が禅宗の僧侶だからかもしれない。おそらく、一部の日蓮宗系の教団とかだと、この辺が信仰や教義上の生命線となり、必死になって議論している人もいることだろう。まぁ、拙僧どもは、その意味で禅天魔だから関係無いか。さて、初期曹洞宗教団の「本尊」について、ちょっとした考察をしてみたい(というか、先行研究が複数存在しているので、それらを読みたい人は、読まれると良いと思う)。まず、高祖道元禅師が自ら開かれた京都深草興聖寺と越前大仏寺(後の永平寺)について、以下の記述が知られる。聖節の看経といふ事あり。かれは、今上の聖誕の、仮令もし正月十五日なれば、先十二月十五日より、聖節の看経、はじまる。今日上堂なし。仏殿の釈迦仏のまへ、連床を二行にしく。いはゆる、東西にあひむかへて、お...初期曹洞宗教団の「本尊」に関する一考察
そういえば、4月3日の禅林行持といえば、「夏衆戒蝋牌草」を出すというのがあった。四月三日、必ず夏衆戒蝋牌草を出す。名づけて草単と称す。尚お戒蝋の次第を正さんと為すなり。式に云く、日本国加州山寺海衆の戒蝋、後の如し、陳如尊者堂頭和尚正元元戒某甲上座正應元戒某甲上座右、謹んで具呈す、若し誤錯有らば、各おの指揮を請う。謹んで状、元亨四年四月三日堂司比丘〈某甲〉拝状三日の粥罷自り、放参了りまで出して、之を収む。此の如く三日間、出入の後、収め置くなり。若し衆の指揮有らば、其れに随いて牌上に載定す。『瑩山清規』巻上「年中行事」まず、上記の一節は何かというと、禅林の安居に於いては、「戒臘(出家得度してからの年数)」で僧侶の順番を定めたので、その順番を書いた下書き(夏衆戒蝋牌草)を4月3日に出して、安居のために集まってき...4月初頭の禅林行持について
以下の一節をご覧いただきたい。此ゆへに若仏道を修行せんと思はん人は、ゆめゆめ方便の道に入事なかれ、いたづらにらうして功ある事有べからず、直に円頓の法門に入ば、ちからをついやさずして、すみやかに本覚にいたるべし『永平和尚業識図』「遺教に依りて仏乗を論ずる篇第七」このように、仏道修行に入ろうと思う場合は、方便の道に入ったところで、無駄に苦労するだけであるため、直に円頓の法門に入り、力も入れずに、速やかに「本覚」へ到るべきだという。つまり、自らが生まれながらに具えている仏陀の悟りを否定しなければ、修行などを経ずとも良いのである。・・・まぁ、今日は4月1日でエイプリルフールなので、注意喚起も含めて記事を書いているのだが、本書は道元禅師に仮託されてしまった偽書である。詳細は、上掲の拙Wikiをご覧いただければと思う...道元禅師が示された本覚思想?
道元禅師の会下にいた、達磨宗の懐鑑首座が、先師である仏地覚晏道人のために上堂を請したことがあった。以下の通りである。懐鑑首座、先師覚晏道人の為に上堂を請す。拈香罷、座に就いて払子を取って云く「前来の孝順、誰人か斉肩ならん。今日の廻向、聖霊炳鑑すべし。弟子が先師を仰ぐの深き志、先師独り知る。先師、弟子を憐れむの慈悲、弟子一り識る。余人焉ぞ知らん、外人未だ及ばず。所以に道う、『有心もって知るべからず、無心もって得るべからず、修証もって到るべからず、神通もって測るべからず』と。這田地に到って如何が商量せん」。卓、拄杖して云く「唯、拄杖有って了々常に知るのみ。拄杖甚と為てか了々常知するや。職として、過去の諸仏も也、恁麼、現在の諸仏も也、恁麼、未来の諸仏も也、恁麼。然も是の如くなりと雖も、這箇は是、仏祖辺の事、作麼...道元禅師の覚晏道人への上堂は「宣疏」だったのか?
道元禅師も『永平広録』巻3-197上堂で引用されている一句に「其の師を観んと欲せば、先ず弟子を観よ」というのがある。これは、元々雲門宗の派祖である雲門文偃禅師(864~949)の言葉(『雲門広録』に初出)であるとされ、禅宗特有の考え方と言ってしまえばそれまでだが、しかし、この考え方からすると目に余る発言が、最近ネット上で多いような気もする。それは、自ら会得してもいないのに、自分の師の言葉をネット上で開陳することである。別に、特定の宗派などに限定された話ではないが、真剣に学ぼうとする方であればあるほど、そのような傾向にある気がする。まぁ、全てが悪いというつもりはないが、しかし、その自分の言葉によって自分だけではなく師まで一緒に観られているという自覚に乏しいような気がする。これは、例えば師の言葉だけを引いて、...その師を観るには先ず弟子を観よ
坐禅終了時の鳴鐘について、どうも2つの呼び方がある気がしていた。拙僧は以前、「抽解鐘」という名称を聞いていた気がするのだが、他に「放禅鐘」という言い方をしている人もいる。そう思っていたら、経行終了時と坐禅終了時とで名称が違うという表現をしていた人もいた気がするのだが、どうなんだろうか?この辺、決まっているのかな?と思い調べてみたら、結果は以下の通りであった。・「抽解鐘」経行または坐禅を終る時、小鐘一声。『昭和改訂曹洞宗行持軌範』339頁昭和27年の『昭和改訂』本では経行と坐禅の両方ともで、終了時の「小鐘一声」を「抽解鐘」だとしている。拙僧が最初に聞いていた名称はここが典拠となっている。だが、これがこうなった。・「放禅鐘」経行又は坐禅を終るとき、小鐘一声。『昭和訂補曹洞宗行持軌範』394頁鳴鐘法としては全く...坐禅終了時の鳴鐘の名称について
今日は、「恩師の日」らしい。設定経緯などは以下の通り。・恩師の日(「仰げば尊し」の日)(3月24日記念日) 今日は何の日(雑学ネタ帳)それで、拙僧は色々と禅宗の師弟関係について研究したこともあったので、この辺の「恩師」のあり方について書いてみようと思う。参考までに、拙僧自身の本師は既に遷化しており、また、大学院で最もご指導を頂戴した恩師も、10年ほど前に遷化されている。というか、そもそも「恩師」という用語は、仏教で使われるのだろうか?いや、無いな。この言葉、意外と新しいんじゃないか?それでちょっと考えたが、例えば「恩」を中心に見てみると、知られているのは以下の語句である。・大恩教主釈迦牟尼世尊(『瑩山清規』)やはり、拙僧どもは釈尊こそが「大恩教主」であるから、それを確認しておきたい。他に、以下の一節などは...「恩師の日」の「師恩」の記事
曹洞宗は行持綿密であり、作法是宗旨の宗風であるとされるが、その根拠になったのは道元禅師『永平清規』と、瑩山禅師『瑩山清規』であったといえよう。特に、『瑩山清規』の特徴は年中・月中・日中・臨時の各行持を組織化したことであり、この通り行ずれば、叢林での修行が成立するのである。さて、今日はその中で、月中行事の「十五日」について、見ておきたい。十五日粥時に歎仏、粥罷に人事、祝聖諷経、上堂・巡堂朔望と一致。斎罷に布薩す、作法、別紙有り。『瑩山清規』巻下詳細を見ていきたいが、まず「粥時に歎仏」とあるが、これは朝食の時に、「歎仏」することを指しているが、行法は『赴粥飯法』由来だろうか?その前に、瑩山禅師御自身のご見解を見ておきたい。四日以下、居常に十仏名、歎仏無し。只だ云く、仰惟三宝咸賜証知、仰憑尊衆念。『瑩山清規』「...『瑩山清規』に見る「十五日」の話
宝治2年(1248)3月14日、道元禅師は永平寺にて帰山の報告をされた。宝治二年〈戊申〉三月十四日の上堂に云く。山僧、昨年八月初三日、山を出でて相州鎌倉郡に赴き、檀那俗弟子の為に説法す。今年今月昨日、帰寺、今朝陞座す。這一段の事、或いは人有って疑著す。幾許の山川を渉って、俗弟子の為に説法する、俗を重くし僧を軽んずるに似たり、と。又た疑わく、未曾説底の法、未曾聞底の法有りや、と。然而、都て未曾説底の法、未曾聞底の法無し。只だ、他の為に説く、修善の者は昇り、造悪の者は堕つ、修因感果、抛塼引玉のみなり。然も是の如くなりと雖も、這一段の事、永平老漢、明得・説得・信得・行得なり。大衆、這箇の道理を会せんと要すや。良久して云く、尀耐、永平が舌頭、説因・説果・無由。功夫耕道、多少の錯りぞ。今日、憐むべし水牛と作ることを...道元禅師による永平寺帰山の上堂について
ちょっとした考察である。曹洞宗には「洞雲寺」という呼称の寺院(拙寺に関係している寺院にも同名の寺院がある)があるのだが、この由来が気になった。それで、禅語を調べてみたけれども、特に無い。例えば、以下の一節は見出した。却って将に諸仏諸祖、徳山臨済曹洞雲門、真実の頓悟見性法門をもって建立すると為す。『大慧普覚禅師宗門武庫』ここで、「曹洞・雲門」を並べた時に「洞雲」という表記になるが、これは特定の意味を持った言葉ではない。その意味では、中国曹洞宗の宏智正覚禅師が、以下のように述べている。・洞雲、雨を成すなり。『宏智広録』巻4・石牛哮吼して、洞雲白を生ず。同巻8こうなると、「洞雲」は雨などを生じる雲の位置付けになる。それで、どうやら「洞雲」という用語は、山の洞窟から沸き上がる雲であり、更には仙境にかかる雲という意...洞雲寺という寺院の名称に関する一考
今日は、3月10日である。昨日まで、日付に従った記事を書いていたのだが、今日も懲りずに語呂合わせ的記事を書いてみたい。主として大乗仏教で広く用いられる「三世十方」という言葉がある。意味としては、過去・現在・未来の三世、そして、上下・八方を総じて十方となる語句を組み合わせ、あらゆる時間・空間を意味する言葉である。この言葉が用いられる背景としては、結局は存在する全ての事象に、特定の「法」が適用されることを示すものである。例えば、こういう一文だと理解しやすいのでは無かろうか。しかあれども、最後身の菩薩、すでにいまし道場に坐し、成道せんとするとき、まづ袈裟を洗浣し、つぎに身心を澡浴す。これ三世十方の諸仏の威儀なり。最後身の菩薩と余類と、諸事みなおなじからず。『正法眼蔵』「洗面」巻この文意は、最後身の菩薩というのは...「三世十方」のお話
今日3月9日は、語呂合わせで「サンキューの日」、転じて「ありがとうの日」である。「ありがたい」という気持ちがあれば、自ずとそれは我々にとって貴重な想いを抱かせ、感謝や尊敬の念を生むものである。ところで、曹洞宗の『修証義』、つまり「四大綱領」には「行持報恩」という項目がある。行持を行うことで、報恩となることだが、『修証義』では、次のような故事をもって報恩の重要性を明らかにしている。・利行というは貴賎の衆生に於きて利益の善巧を廻らすなり、窮亀を見病雀を見しとき、彼が報謝を求めず、唯単えに利行に催おさるるなり。「第四章・発願利生」・病雀尚お恩を忘れず三府の環能く報謝あり、窮亀尚お恩を忘れず、余不の印能く報謝あり、畜類尚お恩を報ず、人類争か恩を知らざらん。「第五章・行持報恩」これらに共通するのは、「病雀三府環」「...今日3月9日は「ありがとうの日」(令和6年版)
今日は、三月八日である。ちょうど、「3」と「8」の数字が重なっているので、語呂合わせ的に「三八念誦」の話をしたいと思う。三八念誦というのは、禅宗叢林で行う念誦(仏名のお唱え)のことであり、特に3と8が末に付く日に行ったので、「三八念誦」と通称される。行う目的は、念誦の回向文を見ると分かる。念誦〈三日〉皇風永く扇ぎ、帝道遐かに昌たり、仏日輝きを増し、法輪常に転ず。伽藍土地、護法安人し、十方の施主、福を増し慧を増さんことを。如上の為に縁を念ず。〈十仏名之れ在り〉念誦〈八日〉大衆に白す。如来大師入般涅槃し、今に至って日本〈某〉年、已に二千二百歳を得たり。是の日已に過ぎ、命亦た随って減ず。小水の魚の如し。斯に何の楽しみか有らん。衆等、当に勤精進して頭燃を救うが如くせよ。但だ無常を念じて慎んで放逸なること勿れ。伽藍...三八念誦の話(令和6年版)
原始仏教以来、仏道修行者にとっての衣食住とは「四依法(衣食住+薬)」に見るように、一切のとらわれから脱しなくてはならず、世間の人が用いないもの、捨てるものを利用して生活していた。それとは直接関係無いが、鎌倉時代の僧侶の中には、この辺を別様に整理した事例があった。又云、衣食住の三は三悪道なり。衣裳を求かざるは畜生道の業なり。食物をむさぼりもとむるは餓鬼道の業なり。住所をかまふるは地獄道の業なり。しかれば、三悪道をはなれんと欲せば、衣食住をはなるべきなり。『一遍上人語録』こちらは、時宗の開祖となる一遍上人(1239~89)の語録から引用してみた。なお、一般的に一遍上人とは呼称されるが、僧名などを表記すると一遍智真上人というべきか。ところで、一遍上人の教えの本質について、例えば岩波文庫本の『一遍上人語録』の校注...仏道者にとっての衣食住とは?
まぁ、今日は3月6日なので、語呂合わせから「三徳六味」について見ていきたい。この語句について、現今の曹洞宗では、昼食時の首座施食の偈文の一句として知られている。三徳六味〈三徳とは、一には軽軟、二には浄潔、三には如法作なり。六味とは、一には苦、二には醋、三には甘、四には辛、五には醎、六には淡。涅槃経に云云す〉、施仏及僧、法界有情、普同供養。道元禅師『赴粥飯法』一句目に「三徳六味」とあるのが理解出来よう。なお、この読み方だが、「さんてるみ」と発音している。唐宋音ということになるのだろうなぁ。それで、意味は、先の引用文に見える割註の通りである。なお、「涅槃経に云々す」とあるのは、大乗の『大般涅槃経』巻一「寿命品第一」に挙がっているこの数字のことを指しており、同箇所では在家信者が仏と僧侶のために食事を調える様子の...「三徳六味」の話(令和6年版)
今日は3月5日、拙僧は勝手に語呂合わせで「山居(さんご)の日」だとしている。山居とは、端的に「山に居す」だが、奥深い山の中に庵を構えて修行することである。例えば、道元禅師は『永平広録』に収録された「山居の偈頌(15首)」があって、自ら山にあって修行することを、喜びとされていた。しかし、山居は、場合によっては単独での修行になることもあるからこそ、色々な問題が起きることもある。今日は、それを鈴木正三の言葉から見ていきたい。一日、衆に語りて曰く、我、此前は山居ずきにて、少しの森林を見ても、庵を結び度き心有る故に、度々山居しけれども、天道に許されずして是れを遂げず。乍去今は夫れがよいに成りし也。其侭居たらば能き仏法者に成り、打上りて錯を知らざるべし。此前は山居をよしと思ひしが、今は悪しと思ふは、修行少し上りたると...禅僧は山居すべきかせざるべきか(1)
そもそも、日本には「五節句」があり、1月7日の「人日(じんじつ)」、3月3日の「上巳(じょうし・じょうみ)」、5月5日の「端午(たんご)」、7月7日の「七夕(たなばた)」、9月9日の「重陽(ちょうよう)」である。この内、重陽の節句は現在ではほとんど儀礼としては無くなっている印象だが、他はだいたいまだ行われている。節句は平安時代の貴族の間では、それぞれ季節の節目に自分自身もリフレッシュするという意味があるとされた。さて、3月3日、「桃の節句」の由来についてだが、「上巳」とも呼ばれ、これは「上旬の巳の日」という意味である。つまり、元々は3月上旬の巳の日に行っていたが、室町時代ごろに3月3日に固定的に行われるようになったという。さらに、旧暦の3月3日は桃の花が咲く時期であることから、「桃の節句」とも呼称された。...今日は桃の節句(令和6年版)
道元禅師「春を描くに、花や鳥を描くべからず。春を描くべし」 小澤征爾「(クラシック音楽を指揮するときに何が一番大切かと問われて)楽譜の音を拾わないことでしょう…
以下の記事が話題となっている。・「葬式にお坊さんを呼ばない人」が増えている理由(ダイヤモンドオンライン)上掲の記事は、以下の書籍を刊行した大竹晋先生によって書かれたものであり、同書の要約的内容だと言って良い。・『悟りと葬式─弔いはなぜ仏教になったか―』筑摩書房・2023年それで、前者の記事については要するに、最近、葬儀で坊さんを呼ばない人が増えているけれど、理由の1つは、元々葬儀に坊さんを呼んだ理由として、僧侶の聖性が世間の人々に認められ、求められていたためで、最近の坊さんは堕落し、聖性が足りないので呼ばれなくなったよ、という現代僧侶批判の記事だと評価できる。拙僧などは、現代の僧侶は、明治時代以降世間から痛め付けられていて、或る意味保護の対象だと思っているので、こういう記事については、全くもって賛同できな...葬式仏教と聖人信仰に関する記事への雑感
今日2月23日は、語呂合わせで「2(富)2(士)3(山)」の日である。それで、曹洞宗の祖師方の中には、富士山に実際に登られたり、富士山を題材に偈頌などを詠まれた事例がある(以下は、以前に東海道新幹線の車内から撮った富士山)。なお、大本山永平寺を開かれた道元禅師は、富士山をご覧になったと思われる。機会は1回、もしかしたら2回だったのかもしれない。確実なのは、宝治年間に行われた鎌倉行化である。宝治二年〈戊申〉三月十四日の上堂に、云わく、山僧昨年八月初三日、山を出でて相州鎌倉郡に赴き、檀那俗弟子の為に説法す。今年今月の昨日帰寺し、今朝陞座す。『永平広録』巻3-251上堂以上の通りであるが、道元禅師は宝治2年(1248)8月3日から、翌年3月13日までの期間、鎌倉に赴かれたのである。どのルートを通られたかには諸説...今日は富士山の日(令和6年版)
今日2月22日は、猫の鳴き声「ニャンニャンニャン」に引っ掛けて「猫の日」である。我々仏教界と猫は、おそらくインドの頃から親しくて、北伝の『中阿含経』や大乗仏典である『大般涅槃経』にも登場し、また禅宗的には、やはり【南泉斬猫話】で、ぶった切られるお話しが有名である。そもそも、禅宗寺院に限らず、各地の寺院では境内に穀物を貯蔵する倉庫などを持っていた場合が多かったと思われ、鼠害対策が不可欠であった。よって、もっとも飼いやすい猫をその対策に充てたという。ただ、現在、猫を愛玩動物として考える人が多いように、昔も同様であった。和尚示して云く。貪欲の多き者は、便ち是れ少人なり。虎子・象子等、ならびに猪・狗・猫・狸等を飼うこと莫れ。今、諸山の長老等の猫児を飼うは、真箇、不可なり。暗き者の為(しわざ)なり。凡そ、十六の悪律...今日は「猫の日」(令和6年版)
以前から、一部の宗派や寺院で「在家得度」という表現があることが気になっていた。この「在家得度」が、良く分からない。いや、悪い意味で言っているのではないのだが、ちょっと今回は突っ込んで考えていきたいので、敢えて申し上げるが、分からないのである。さらに、これは言葉的な問題もある。一応「得度」とは、中村元先生『仏教語大辞典』では③として「僧となること。在家から仏門に入ること。出家に同じ」となっていて、その語意の出典に『禅苑清規』と『日本霊異記』を挙げている。だとすれば、おそらく禅宗だけのことではあるまい。したがって、「在家得度」とは語義矛盾している可能性がある。なお、「得度」という言葉について、おそらく意味としては「度牒(戒牒)」を受けるという意味があるのだろうし、その意味では「受戒した人」という意味になるのだ...宗門に於ける「得度」の位置付けに関する一考察
釈尊涅槃会を前に、『仏垂般涅槃略説教誡経(遺教経)』を学んでいるのだが、『遺教経』という語句が道元禅師の教えに出ていたので、見ておきたい。寮中、応に大乗経並びに祖宗の語句を看て、自ら古教照心の家訓に合すべし。先師示衆に云く、你、曽て遺教経を看るや。闔寮の清衆、各おの父母・兄弟・骨肉・師僧・善知識の念に住して、相互に慈愛し、自他顧憐して、潜かに難値難遇の想い有りて、必ず和合和睦の顔を見よ。失語有るが如きは、当に之を諌むべし。垂誨有るが如きは、当に之に順ずべし。此れは是れ見聞の巨益なり。能く親近の大利なるものか。忝くも厚殖善根の良友に交わり、幸に住持三宝の境界を拝す。亦た慶快ならざらんや。俗家の兄弟すら、猶お異族に比せず。仏家の兄弟、乃ち自己よりも親しむべし。黄龍南和尚云く、孤舟共に渡るすら、尚お夙因有り、九...『遺教経』を読む場所について
さて、今日は曹洞宗で釈尊涅槃会に合わせて読まれる『遺教経』の一節を見ていきたいと思う。汝等比丘、諸の功徳に於いて、常にまさに一心に、諸の放逸を捨てること、怨賊を離れるが如くすべし。大悲世尊所説の利益は、皆以て究竟す。汝等、但だまさに勤めてこれを行ずべし。若しは山間に在っても、若しは空沢の中に於いても、若しは樹下に在っても、静室に閑処するも、所受の法を念じて忘失せしむること莫れ。常にまさに自ら勉めて精進して、これを修すべし。為すこと無くして空しく死すれば、後に悔有ることを到さん。我は良医の病を知って薬を説くが如し。服すると服せざると、医の咎に非ざるなり。又、善く導くものの、人の善の道に導くが如し。これを聞いて行わざるは、導くものの過に非ず。『仏垂般涅槃略説教誡経』本経典では、一心に集中して、放逸を捨てるよう...『仏垂般涅槃略説教誡経』を学ぶ(令和6年版)
今日は拙僧の本師の忌日である。来年が二十三回忌なので、今年はいわゆるの年回ではないが、法嗣としては、大寂定中にある先師をお慕いし、ご生前の養育の恩へ報謝の念を申し上げるのみである。ところで、「先師忌」という観点で見てみると、例えば曹洞宗の高祖・道元禅師には、本師・天童如浄禅師の忌日に於けるご供養を寛元4年(1246)以降、ほぼ毎年修行されており、それは「上堂」の形式であった。しかし、その後、太祖・瑩山紹瑾禅師の時代には、いわゆる諷経も行われていた様子が分かる(ただし、急いで自ら註記すると、道元禅師の時代に諷経が無かったとはいえない。その判断が出来ない、という表現が正しい)。さて、その意味では、先師忌の法要差定としては、以下の一節を参照しておきたい。九月十四日先師大乗和尚忌なり。十三日の晩間、法堂の荘厳は、...今日は先師忌(令和6年版)
『遺教経』を学ぶのが、この涅槃会の時期であるが、今回は「創発」概念について検討する。これは、近年のシステム論オートポイエーシスで次のようにいわれる事態である。創発という豊かで曖昧な現象に向かって、自己組織化は進む。眼前の三次元空間内に突如巨大なリンゴが出現したら、ただちに何故そんなことが起きたのか、誰しも理由を問う。そして原因が見出せないと、偶然だったと言う。ところが、起こることには十分な理由がある。現に生じてしまうことの必然か偶然かではなく、そこに固有の機構が見出せるはずだというのが、自己組織化の確信である。河本英夫先生『オートポイエーシス2001』42頁特に、仏教が因果の話題や縁起の機構を用いてしまうため、我々は事象の直接的因果についての直観が豊かに作動していくが、どうしてもそれだけでは説明できない場...道元禅師に見る「創発」概念について
毎年2月の前半は、釈尊涅槃会を控えつつ『仏垂般涅槃略説教誡経(遺教経)』を学ぶように心掛けているのだが、今回は道元禅師による引用例を学んでみたい。昔日、僧有りて法眼禅師に問うて曰く、「如何なるか是れ古仏」。法眼曰く、「即今、也た嫌疑無し」。僧、又た問う、「十二時中、如何が行履せん」。法眼曰く、「歩歩踏著す」。他に亦た道有り、「夫れ出家人、但だ時及び節に随う。便ち寒ならば即ち寒、熱ならば即ち熱を得。仏性の義を知らんと欲すれば、当に時節因縁を観ずべし。但だ分を守りて時に随いて過ぐる、好し」。備さに他の意を観ず。如何なるか是れ時及び節に随い、如何なるか是れ分を守るや。知るべし、色上に於いて非色の解を作す莫れ、亦た色解を作さざれ、亦た両頭に走らざれ。如今、嫌疑を忘れ、他と与に古仏と同住同行す。然りと雖も、争か猶お...修行者は蜂のように……
そもそも、旧暦で春は、新年と共にやってきた。1月から春だったのである。ところで、拙寺では先師が存命だった頃から、前年の年末に「立春大吉札」を貼るようにしているのだが、その後、よくよく考えて見れば「立春大吉札」は立春に合わせて貼るべきで、新年に貼るのはおかしいと気付いてしまった。とはいえ、かつての春を思えば、立春が新年と一緒という見方(厳密な暦というより、慣習として)も可能なので、上記の通りで良いのだろう。ところで、道元禅師には新年と立春が別だった日に詠まれたと思われる偈頌が残されているため、今日はその偈頌を学んでみようと思う。一年有両立春厳冬未だ極らざるに早春臻れり、何ぞ便宜に処して双脚を伸べん、自の頂門を跳して相い透出す、一枚年の内両枚の春。『永平広録』巻10-偈頌97このように、一年に二回立春があるこ...今日は立春(令和6年版)
今日は曹洞宗の高祖・永平道元禅師(1200~1253)の誕生日に当たるとされ、宗派内では「高祖降誕会」と呼ばれている。なお、この日になった経緯だが、以下の通りである。江戸時代に大本山永平寺35世・版橈晃全禅師(1627~1693)は貞享2年(1685)に著した『僧譜冠字韻類』巻88で、道元禅師の御生誕が「正治二年庚申正月初二日」であると示した。その後、面山瑞方禅師などもこの見解を踏襲し、曹洞宗内で一般的な見解となった。そこで、大本山永平寺、及び永平寺東京出張所では道元禅師御生誕700回の記念法要を、明治32年(1899)年2月11日に行った。そして、翌33年1月1日、曹洞宗務局(後の曹洞宗宗務庁)は旧暦1月2日を新暦1月26日と改めて高祖降誕会を定め、現代まで続いているのである。拙僧、これまでの記事で両祖...今日は高祖降誕会(令和6年版)
だいぶ前の話なのだが、「長蘆清了大和尚」について調べたことがあった。この方は、中国曹洞宗の法系に連なる祖師であるが(中国の浄土宗や華厳系文献にも名を残す)、かの『従容録』の元となる「宏智禅師頌古」を著された宏智正覚禅師と兄弟弟子になる人である。この人は、現在の曹洞宗では先の如く「長蘆清了大和尚」と呼ばれるが、場合によっては「真歇清了大和尚」とも呼ばれる。道元禅師も『永平広録』巻9「玄和尚頌古」の第90則にて「真歇禅師、丹霞に参じて入室す」とされているので、後者の呼び名も了解しておられたものと思われる。ところで、結局「真歇」って何だ?という話になったわけである。「長蘆」はすぐに分かる。それは、清了和尚が住していたのが「長蘆山」だったことから付いた名だ。ここは、時代的にそれほど離れていないと思うが、『禅苑清規...真歇清了と長蘆清了の話
拙僧つらつら鑑みるに、曹洞宗に於ける「出家性」と「比丘性」について、どのように担保されているのかが気になった。無論、1つのことで決まるわけではない。例えば、現代の曹洞宗侶の多くは、結婚をし、子供もいる。このような状態で「出家性」や「比丘性」を論じることに意味があるのか?と問う声もあるだろう。だが、転じて、在家者で孤独に生き、性的な欲求が無い人がいたとして、この人を出家者や比丘と呼ぶことも出来ない。このようなことは幾らでも挙げることは可能だが、つまり、現段階で、我々は自らの「出家性」や「比丘性」がどのように担保されているか、分かっていないのではないか?と思えるのである。いや、これは、現代に限った問題ではない。この辺が明確にクリアになっているのは、いわゆる「声聞戒」の受戒及びその実践が生きている地域(僧伽)の...曹洞宗に於ける出家性と比丘性について
色々とあって、最近、『正法眼蔵』「安居」巻を参究していた。無論、何度も拝読している。だが、参究というのは、参学眼を通して、正法眼で本文に自己を没却させていく作業である。こちらが読むのではなくて、本文に読ませてもらう。その時、自己は忘れているが、かえって仏道は学ばれていく。まさしく、「仏道をならうというは・・・」という「現成公案」である。さて、「安居」について以下の一節を参究してみたい。九十日為一夏は、我箇裏の調度なりといへども、仏祖のみづからはじめてなせるにあらざるがゆえに、仏仏祖祖嫡嫡正稟して今日にいたれり。しかあれば、夏安居にあふは、諸仏諸祖にあふなり、夏安居にあふは、見仏見祖なり、夏安居、ひさしく作仏祖せるなり。「安居」巻我々は、仏祖が安居をするものだと思っている。だが、実は逆で、先に「安居」がある...「安居」のシステム論的考察
既に【道元禅師の誓願と未来成仏論】の記事を書いたけれども、関連して以下のような説示を見ておきたい。上堂、仏と謂い祖と謂う、混雑することを得ざるなり。仏と謂うは七仏なり。七仏とは、荘厳劫の中に三仏あり。謂く、毘婆尸仏・尸棄仏・毘舎浮仏なり。賢劫の中に四仏あり。謂く、拘楼孫仏・拘那含牟尼仏・迦葉仏・釈迦牟尼仏なり。此の外、更に仏と称する無きなり。然る所以は、毘婆尸仏に附法蔵の遺弟多く有りと雖も、倶に祖師と称し、或いは菩薩と称して、未だ曾て乱りに仏世尊と称すること有らず。必定、尸棄仏の出世に至って仏と称す。行満劫満の所以なり。〈中略〉吾、今、成仏し、正法の座を以て其の往勲に報ず。仏に対して坐する時、天人咸く仏の師と謂う。是の徳を具うと雖も、未だ称して仏とせず。況んや、澆季全く一徳無きの輩、猥りに吾、是、仏と称す...道元禅師の来世成仏観について
実世界にも先行研究があるところなので、これはあくまでも拙僧なりの備忘録である。拙僧の想いはここまで進んだが、これは道元禅師の教えを見るに付け混乱に変わったのである。確かに、仏と祖師を分けること、これ自体は特記すべき優位性がない考えだが、しかし用いなくて良いとも限らないし、晩年の道元禅師は「仏祖一体論」から「祖師の自覚」へと論点を変更したように思われる。しかあれば六神通は明明百草頭、明明仏祖意なりと参究することなかれ。『正法眼蔵』「仏性」巻この一文が何故道元禅師独自の「仏祖一体論」になる理由だが、ここで引用されている「明明百草頭、明明仏祖意」は龐居士の言葉であるとされ、しかも本来は「明明百草頭、明明祖師意」なのである。しかし道元禅師は祖師を敢えて「仏祖」と書き直した。こうすることで、祖仏一体を明らかにしよう...道元禅師に於ける仏祖の一体論と各別論
ネットによる情報の共有が一般的になってから、仏教を学ぶ方が一定量居られることは良く分かるのだが、その動機について、どうも“自分のために”学ぶ方が多いように見えて、拙僧的には非常に残念。例えば、大乗仏教とは、明確に誓願によって宗教性を発揮するものであり、それこそ阿弥陀如来の「本願」としても、それは前身となる法蔵菩薩の「誓願」に由来する。ここで、誓願とは、菩薩が最初に菩提心を起こし、それが実現するまでは成仏しないと誓い願うことであり、菩提心を起こした菩薩は必ず何かしらの誓願を持つことになる。では、まさに自らの修行という点では、もっとも厳しいのではないか?と思われている道元禅師はどのような誓願をお持ちになられたのか?まず知られているのは『正法眼蔵随聞記』に出る以下のような言葉である。一日示云、我在宋の時、禅院に...道元禅師の誓願と未来成仏論
今日は、道元禅師の『正法眼蔵』の最後の一巻とされる「八大人覚」巻を学ぶ日と(勝手に)定めている。理由は、以下の事柄を学びつつ紹介しておきたい。建長四年、今夏之比より微疾まします。最後之教誨は正法眼蔵八大人覚の巻也。此教誨は仏の遺教経をもととして遺言也と見ゑたり。『建撕記』(『曹洞宗全書』「史伝(下)」巻所収本を参照)を参照しつつ、カナをかなに改める。以下、同じ。これは、『建撕記』でのコメントであるため、普通に考えれば永平寺14世・建撕禅師のお言葉かと思う。なお、建撕禅師がご参考になさった見解は、「八大人覚」巻の奥書に、懐奘禅師が記された事柄であろうと思われる。二代奘和尚云、右本は、先師開山和尚最後の御病中の御草也。仰者、以前所撰仮名正法眼蔵等皆書改、并新草具都廬壹百巻可撰之云々。既に御草案始め此巻当第十二...『正法眼蔵』「八大人覚」巻を学ぶ(令和6年度版)
曹洞宗の太祖・瑩山紹瑾禅師(1264~1325)に於かれては、「入室」に力を入れておられたことは明らかで、特に「立僧入室」は瑩山禅師門下の教育に於いて、重大な意義を持つ行持であった。ところで、「入室」は道元禅師の時代から行われていた。この道取は、大宋宝慶二年丙戌春三月のころ、夜間やや四更になりなんとするに、上方に鼓声三下きこゆ。坐具をとり、搭袈裟して、雲堂の前門よりいづれば、入室牌かかれり。まづ衆にしたがふて法堂上にいたる。法堂の西壁をへて、寂光堂の西階をのぼる。寂光堂の西壁のまへをすぎて、大光明蔵の西階をのぼる。大光明蔵は方丈なり。西屏風のみなみより、香台のほとりにいたりて、焼香礼拝す。入室このところに雁列すべしとおもふに、一僧もみえず、妙高台は下簾せり、ほのかに堂頭大和尚の法音きこゆ。ときに西川の祖坤...『瑩山清規』に於ける「入室」について
拙僧自身の問題意識として、特に、高祖道元禅師自身がそのようであったと思うのだが、京都から越前に移動するに従い、自ら「誓願」という、宗教者として、仏道修行者として重要な事柄を意識されたように思うのだ。道元禅師自身も、大仏寺に入られてから誓願を発しておられるし、その周囲にいた弟子達も、各々誓願を発している。そして、それは出家者に留まらず、外護者である波多野氏まで及んでいた。今日はそれを見ていきたい。開闢檀那如是の事永平寺建て初めの夜、開山和尚と法談の次で、誓願を立て云く、○願くは我、生々に三宝を外護せんことを。○願くは我、世々に信心不退ならんことを。○願くは我、不退に大菩提を証せんことを。○願くは我、一切衆生を済度せんことを。開山大和尚、誉て云く、回心向大の願文なりとてこれを聴許す。『建撕記』「如是」というの...波多野義重公の誓願
本ブログをご覧いただいている常連の皆々様、そして偶然検索で来てしまった方々へも新年のお祝いを申し上げたい。令和6年(甲辰)の元旦である。拙ブログも無事に年を越すことができた。これも、拙ブログを訪れてくださる皆さまのおかげである。心から御礼申し上げるとともに、皆さまのますますのご多幸を祈念申し上げる。さて、今日は元旦であるが、やはり元旦に因んだ記事を挙げるべきであると考える。そこで、道元禅師のお正月に因むお話しをご紹介したい。道元禅師は京都の興聖寺、そして越前の永平寺にて、ほぼ毎年年頭の説法を修行僧相手に行っていたが、その説法の一つである。上堂に、云く、今日は、是、一年の初なりと雖も、乃ち亦、三朝の日なり。三朝とは、年朝・月朝・日朝なり。挙す、僧、鏡清に問う「新年頭に、還、仏法有りや、也、無しや」。清云く「...謹賀新年(令和6年度版)
今日は大晦日、またの名は除夜である。「除夜」の名称の由来だが、「暦を除く夜」という意味などが提起されているが、「暦」に限らず、全ての古いものを新たに変える日だともいう。ところで、曹洞宗の大本山永平寺を開かれた道元禅師(1200~1253)は、除夜に因んだ説法を残されている。道元禅師が開かれた寺院は、興聖寺・大仏寺(永平寺へ改名)とあるが、「除夜」の説法は全て、永平寺で行われたと推定されている。①除夜小参『永平広録』巻8-小参2②除夜小参『永平広録』巻8-小参5③除夜小参『永平広録』巻8-小参10④除夜小参『永平広録』巻8-小参14⑤除夜小参『永平広録』巻8-小参18この内、明らかに永平寺で行われたことが分かるのは、②以降なのだが、①にも「所以に鷲嶺・鶏山・嵩山・黄梅・曹谿・南嶽・青原・石頭・薬山・雲巌・洞...令和5年の除夜(大晦日)
今、仕事の関係で、『永平広録』を全部読み直しているのだが、道元禅師が以下のように述べておられた。監寺・典座を請する上堂。知事は乃ち三世諸仏の護念する所なり。難陀尊者の勝躅、沓婆尊者の勤修なり。『永平広録』巻2-139上堂道元禅師は、大仏寺(後の永平寺)に入られてからというもの、いわゆる知事を中心にした叢林運営を進めようとされ、上記のような知事を請する上堂、或いは知事の退任に因んで謝する上堂などが見られるようになる。併せて、『永平寺知事清規』を著し、叢林に於ける正しい知事の心持ち、振る舞い方、一部では作法などを示された。更に、『永平広録』中の知事の話を見ていくと、多くは『知事清規』と重なるが、『永平広録』独自のところもあるため、晩年の知事に対する考えを見ていく場合には、『永平広録』と『永平清規』とを併せて見...沓婆尊者の知事の話
曹洞宗の大本山永平寺を開かれた道元禅師の『正法眼蔵』は何度読んでも、その都度学びがあるのが不思議というか、自分自身の学びの不足を恥じるしかないが、今回は以下の言葉を学んでみたい。長沙いはく、尽十方界、真実人体。尽十方界、自己光明裏。かくのごとくの道取、いまの大宋国の諸方の長老等、およそ参学すべき道理と、なほしらず、いはんや参学せんや。もし挙しきたりしかば、ただ赤面、無言するのみなり。『正法眼蔵』「諸法実相」巻これは、道元禅師が、中国禅宗の長沙景岑禅師の言葉を採り上げたところである。長沙は、「尽十方界、真実人体」といい、「尽十方界、自己光明裏」と道取された。前者は、まさに我々の生きるこの世界そのものが、如来の身体、法身そのものだという意味である。後者は、我々の生きるこの世界そのものが、我が光明の内にあるとい...ただ赤面、無言のみなり