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全ての存在に慈しみの心を持ち、愛せる人は、全ての存在から慈しみの心を持たれ、愛される人。
無事是貴人(ぶじこれきにん)(臨済録 臨済禅師)この言葉の中の「無事」とは、大変な事、困った事が取り立てて起こらず、平穏無事に、普段と変わりない、平凡な日常が過ごせている、という意味ではありません。日々、自己を律して、仏道修行に猛進し、励もうとする心も、時に、煩悩に打ち負かされ、自己を律する事無く、怠慢な日々を過ごそうとする心も、そのような、善きも悪しきも、何かを求める心を完全に手離して、ありのま...
道元禅師が仰った世尊による「二十年の遺恩」「二十年の福分」などについて、実は結構難しい問題を含む。①然れば出家人は、学仏の力によりて食分も尽くべからず、白毫の一相、二十年の遺恩、歴劫に受用すとも尽くべきにあらず。長円寺本『正法眼蔵随聞記』巻1-3②況やまた仏二千年の福分を以て末法の我等に施す。是に因て天下の叢林、人天供養不絶。長円寺本『随聞記』巻2-13良く知られているのは、『正法眼蔵随聞記』であろうと思う。なお、この一節の典拠は、特に①が分かりやすいとされる。世尊二千年の遺蔭、児孫を蓋覆す。白毫光の一分の功徳、受用すれども尽きず。『禅苑清規』巻8「亀鏡文」『随聞記』では、上記の一節を少し入れ替えていますが、「白毫」の記述も含め、明らかに影響を受けている。そして、「亀鏡文」をそのまま引いたと思われるのが、...道元禅師が示す「世尊二十年の遺恩」について
ありとあらゆる生きとし生けるものの幸せを願う事、それは、自分自身の幸せを願う事。
衆生(しゅじょう)を利益(りやく)すというは四枚(しまい)の般若(はんにゃ)あり一者(ひとつには)布施(ふせ)、二者(ふたつには)愛語(あいご)、三者(みつには)利行(りぎょう)、四者(よつには)同時(どうじ)是(こ)れ即(すなわち)ち薩埵(さった)の行願(ぎょうがん)なり(修証義 道元禅師)世の人々を幸せにするには、四通りの尊い仏の教えがあります。一つ目は、布施(ふせ)を行う事です。二つ目は、愛...
明治時代の仏教啓蒙家といわれる大内青巒居士が、次のような礼讃文を編んだという。(講師先づ合掌して曰く)人身受け難し、今已に受く、仏法聞き難し、今已に聞く、此の身今生に向つて度せずんば、更に何れの生に向つてか此身を度せん、大衆諸共に三宝に帰依したてまつるべし。『礼讃文』、大日本仏教青年会『仏教講話録』明治26年この次に三帰礼文などが続くのだが、今回見たいのは以上の一節である。なお、明治中期以降、この礼讃文は宗派を超えて、様々な研修会や講演会の場で講師によって読誦されたようである。それで、この一節の典拠なのだが、最初の数句はおそらく、大慧宗杲禅師の言葉であろう。人身得難し、仏法逢い難し、此の身不向今生に向かって度せずんば、更に何れの身に向かって此の身を度せん。『大慧書』巻30なお、別の文献では、「古徳云く」の...或る『礼讃文』について
曹洞宗では、出家の儀式に当たる「出家得度式」において、3種類の御袈裟を授けることになっている。それは、「出家得度式作法」の中の「授坐具衣鉢」項目であり、その際に、坐具と五条衣・七条衣・九条衣と鉢盂を授けるのである。いわば、「比丘六物」の内の五物までを授けることを意味している。この辺は、曹洞宗の清規に多大なる影響を与えている中国雲門宗の長廬宗賾によって編まれた『禅苑清規』の影響もあるといえるだろうか?受戒の法は、応に三衣・鉢具并びに新浄の衣物を備うべし。新衣無きが如きは、浣染して浄めしめよ。入壇受戒は、衣鉢を借賃することを得ざれ。〈中略〉若し衣鉢を徣借すれば、登壇受戒すると雖も、竝びに得戒せず。『禅苑清規』巻一「受戒」項このように、非常に厳しく「三衣」の必要性を説くのである。それで、現状の得度作法であれば、...出家と三衣について
生きる時はただ生き死ぬときは死に向かってただ従う。厭ったり願ったりしてはいけない。薪は燃えて灰になるが、だからといって灰は後、薪は先と見てはいけない。その前後関係はあくまで断ち切れており、あるのは現在ばかりなのだ。人の生死も同じで、生が死になるのではない。生も死も一時の在り方に過ぎない。ー道元禅師正法眼蔵
現在、2講座承っている『正法眼蔵』勉強会の内、1つでは「行持(上)」巻を読んでいる。その中で、以下のような一節が見られた。光陰なにとしてかわが功夫をぬすむ。一日をぬすむのみにあらず、多劫の功徳をぬすむ。『正法眼蔵』「行持(上)」巻そもそも、この一節は、古聖・先賢と称される古来の優れた者達が、自らの時間を惜しんでなすべきことをなしていたと評した文章に続くものとなっている。そして、道元禅師は光陰(時間)が、我々から功夫(修行)を盗むとしている。更に、ただ1日のみでは無く、無限の時間に得たはずの功徳までも盗まれるという。そう考えると、この盗むとは、仏道の成就に直結しない、無駄な人生を過ごしていることを批判した教えだといえる。ただし、本当に時間が我々から修行や功徳を盗むのだろうか?むしろ、仏道の成就を目指していな...何が自分の修行の功徳を奪うのか?
こんばんは〜!ご訪問ありがとうございますにほんブログ村よく降りますねぇ☔️寒いし。でも明日は17℃予想が出ていて春らしくなるようですね。さて福井旅行記はまだまだ続きますよ〜。福井県は永平寺の七堂伽藍の1番上に位置する法堂に入ります。ここからスリッパを脱いで堂
今日から4月である。世間的には新年度となり、新たな気持ちで新たな環境に行く人もいれば、不安に感じている人もいると思う。居場所の不安を感じている人は、以下の記事などを読んでいただけると良いのでは無かろうか。・4月1日から居場所を失ってしまう方へ(Yahoo!ニュース)それにしても、今日は、多くの商品が値上げされたり、多分大変なのだが、年度最初から暗い話ばかりしていてもシャクに障るだけだから、とりあえず仏教の記事を採り上げていきたい。今日は、道元禅師が、曹洞宗と梅の華の関わりについて述べた文章があるため、見ていきたいと思う。吾宗に梅を本とすること、別なる事なし。六祖の在処は梅の道地なり、仏法もこの地より繁昌す。一花五葉にわかつなり、梅花も又五葉なり。夫五葉といふは、曹洞、臨済、雲門、潙仰、法眼なり。たとへば、...日本曹洞宗と梅の華(4月1日版)
為せば成る、為さねば成らぬ、何事も、成らぬは、己が為さぬなりけり。
一心欲見仏(いっしんよっけんぶつ)、不自惜身命(ふじしゃくしんみょう)、自我及衆僧(じがぎゅうしゅそう)、倶出霊鷲山(ぐしゅつりょうじゅせん) (妙法蓮華経如来寿量品偈、みょうほうれんげきょうにょらいじゅりょうほんげ) ただ一心に、仏を見たいと願い、真実を見定めたいと強く念じながら、心を一つにして、集中して、没頭して、仏の道をひたすらに信じ切る事。 そのような心で、身命を惜しまず、捧げ尽くす気...
一人の人が、ほんの一時でも坐禅をする無限の功徳は、全宇宙の諸仏が共に力を合わせても、推し量る事はできない。
それ、修証(しゅしょう)はひとつにあらずとおもへる、すなはち外道(げどう)の見(けん)なり。 仏法(ぶっぽう)には、修証(しゅしょう)これ一等(いっとう)なり。 いまも証上(しょうじょう)の修(しゅ)なるゆゑに、初心(しょしん)の辨道(べんどう)すなはち本証(ほんしょう)の全体(ぜんたい)なり。 かるがゆゑに、修行(しゅぎょう)の用心(ようじん)をさづくるにも、修(しゅ)のほかに証(しょう)をまつ...
昨日から、『正法眼蔵』勉強会は、「仏教」巻に入った。そこで、最初から読んでいくと、こういった一節が見られる。このゆえに、朝に成道して夕に涅槃する諸仏、いまだ功徳かけたり、といはず。「仏教」巻この一節について、江戸時代の学僧・瞎道本光禅師が以下のように註釈している。須扇多仏、朝に成道して夕べに涅槃し、化仏の住世甚大に長りき。大智度論に証するが如し、後に当に附録すべし。『正法眼蔵却退一字参』「仏教」篇つまり、瞎道禅師は『大智度論』に見られる「須扇多仏」に因む話だと断定されたのである。典拠は、以下の通りである。亦た須扇多仏の如し、弟子本行未熟なり、便ち捨てて涅槃に入り、化仏として一劫留まりて以て衆生を度す。『大智度論』巻7つまり、須扇多仏は弟子が未熟だったため、涅槃に入った後で「化仏」という存在となって長く衆生...朝に成道して夕に涅槃する話
今日は、3月10日である。昨日まで、日付に従った記事を書いていたのだが、今日も懲りずに語呂合わせ的記事を書いてみたい。主として大乗仏教で広く用いられる「三世十方」という言葉がある。意味としては、過去・現在・未来の三世、そして、上下・八方を総じて十方となる語句を組み合わせ、あらゆる時間・空間を意味する言葉である。この言葉が用いられる背景としては、結局は存在する全ての事象に、特定の「法」が適用されることを示すものである。例えば、こういう一文だと理解しやすいのでは無かろうか。請仏といふは、請釈迦牟尼仏のみにあらず、請無量無尽三世十方一切諸仏なり。請諸仏の数にあづかる、無諱不諱の親曾見仏なり。『正法眼蔵』「見仏」巻この「請仏」とは、以下の一節を承けたものである。賓頭盧尊者、阿育王宮の大会に赴いて斎す。王、行香の次...「三世十方」の話(令和7年版)
3月9日は、語呂合わせで「サンキューの日」、転じて「ありがとうの日」である。「ありがたい」という気持ちがあれば、自ずとそれは、我々にとって或る対象へ貴重な想いを抱かせ、感謝や尊敬の念を生むものである。ところで、同じ語呂合わせといえば、「参究」だってそうである。「参究」とは、以下のような意味である。参究とは、即ち此の一箇の話頭に参ずるなり。話頭に参ずるに、外に疑情を起こさず。所謂、小疑小悟・大疑大悟・不疑不悟なり。疑は、即ち参なり。『百丈清規証義記』巻8まぁ、だいたいこんな感じ。参究とは、疑悟一如の処に於いて行われる修行であり、一箇の話頭(公案)に対して、疑悟一体となって取り組むのである。疑悟一体とは、疑問だけを先に置くのではなく、自らをまず仏道に置いて(よって、熱心な坐禅が必要である)、その中で、疑悟が一...3月9日は「ありがとうの日」もとい「参究の日」
間違いなく、勉強不足の拙僧が悪いのだが、まだ学生の頃、或る数字を見て大いに迷乱を深めたことがあった。例えば、以下のような文脈に見える数字である。監寺に謝する上堂。已に両年三七月を鼻するに、算じ来りて六百有余日なり。許多か労謝に叉手せん。更に蒲団を把るの功失せず。這箇は是れ、現前の大衆、相い謝せん。且く道え、仏祖、他に謝する、又た作麼生か道わん。良久して、払子を以て禅牀の右辺を撃つこと一下して云く、仏祖、各各、先監寺に謝し了れり。『永平広録』巻2-137上堂問題は、この「両年三七月」という記述である。ここで「三七」と出ているのだが、学生の頃の拙僧は、現代的な縦書きの感覚があったためだろう、これを「37ヶ月」だと当初理解した。そうなると、丸3年を超えるわけであるが、ずいぶん永く、監寺を務めた人もおられたものだ...「三七」という数字に勘違いした日々
自分に与えられた仕事は、今、できる時に、精一杯の力で取り組む。それが禅の教えであり、仏の生き方。
他不是吾、更待何時。 他(た)は是(こ)れ吾(わ)れにあらず、更(さら)に何(いず)れの時(とき)にか待(ま)たん。 (典座教訓、てんぞきょうくん 道元禅師) これは、道元禅師様が、禅の本場である宋(中国)に渡り、修行生活を送られていた頃のお話しです。 それは、ある夏の暑い日の事でした。 道元禅師様が昼食を終えられ、自分の部屋に戻ろうと、廊下を歩いていました。 すると、仏殿(仏像を安置している建物...
とりあえず、以下の一節をご覧いただきたい。当寺は、二位殿・右大臣殿の御菩提の為にし奉り、御建立候の上、始めて布薩説戒を行ぜられ候〈天〉、廻向し奉らるべき候の由、謹んで承り候し了んぬ。折節、在国し候は、勤仕せしむるべき候。且く、六波羅殿の御書、畏くも拝見し候し了んぬ。早く、寺庫に納むべき候。今月十五日、布薩説戒し、既に勤仕せしめ候し了んぬ。恐惶謹言。十月廿日道玄「贈波多野義重書状」、『曹洞宗全書』「宗源(下)」巻・268頁下段~269頁上段、訓読は拙僧上記書状だが、江戸時代の学僧・面山瑞方禅師の編集に係る『訂補建撕記』にのみ収められているもので、その経緯などについて、面山禅師自身は以下のように述べている。○檀那義重への返書の艸、一通文言左の如し、〈先の書状原文〉右の祖筆、現今永平寺の室中にあり、年号見へず、...永平寺開創の意義と布薩説戒について
物の大切さ 101回目の記事は私の初めての法話を書き記したいと思います。 永平寺では2月ごろに「法話発表会」がございます。 各寮舎で一人づつ選出され、役僚(指導者)、修行僧の前で10分間法話をします。 この話があったとき「これはやるしかない!!」と率先して立候補をしま、、、 してないです じゃんけんで負けて法話をすることになりました笑 今思えば、結果としてよい経験ができたなと思います。 といことで法話をつくるわけですが、今まで作ったこともないし、学生の頃の作文や読書感想文も苦手だったので法話となったらもう何から始めればいいのかさっぱり ということで法話に関する本を購入し真似すればいいかなと思っ…
小学生の頃、鼻づまりで何度も鼻をかんでたとき 母に「鼻水は脳が溶けてるんだよ」と言われて その後なんか簡単な算数の問題出されたときに全く答えがわからなかった時がありました。 それからちょっと怖くなって鼻をかむのを我慢していた思い出があります。 ただ実際のところ鼻をかんで脳が溶けるなんてことはありません 小学生の頃の私は 脳が溶けて頭が悪くなったという思い込みからそういう症状がでてしまったのではと今では思います。 これならまだ可愛い方ですが これから学生、社会人になって知らないことを教えられたときに 先輩の話、周りの人の話を鵜呑みにしすぎてしまうと危ないということに気づいてほしいです。 放てば手…
いつも思うのだが、やはりその美しさが禅僧の心も捉えたようで、「富士山」を題材として偈頌を詠んだ僧は少なくない。曹洞宗の高祖・道元禅師は、宝治元~2年にかけて鎌倉に行化されたため、その往来中などに富士山をご覧になったと思うのだが、残念ながら『永平広録』『道元禅師和歌集(傘松道詠)』などには見えない。江戸時代に入ると、幕府による政治も安定し、徐々に人の往来が盛んとなり、僧侶も全国への行脚が可能になったようで、「富士山」について論じる場合も珍しくなくなる。そこで、江戸前期の曹洞宗の学僧、独菴玄光禅師(1630~1698)が「富士山高」という偈頌を詠まれた。ただ、その詩は難しいので、詩に付けられた「序」を見てみたい。当時の富士山がどういう位置付けだったか分かると思う。富士山は日本国の高山なり。春・秋・冬は登るべか...「富士山」を語る禅僧(1)
愛語こそ、財が無くとも誰もができる布施であり、縁ある人々、周囲の人々を幸せにして、 自分も幸せになる方法。
愛語(あいご)というは、衆生(しゅじょう)を見(み)るに、先(ま)ず慈愛(じあい)の心(こころ)を発(おこ)し、顧愛(こあい)の言語(ごんご)を施(ほどこ)すなり。 慈念衆生(じねんしゅじょう)、猶如赤子(ゆうにょしゃくし)の懐(おも)いを貯(たくわ)えて、言語(ごんご)するは愛語(あいご)なり。 徳(とく)あるは讃(ほむ)むべし、徳(とく)なきは憐(あわれ)むべし。 (修証義 道元禅師) このお...
以下の記事が公開されていた。・「外国人との共存無理」京都のお寺が怒りの投稿“観光公害”のリアルとは?モラルやマナー直すハードルは(ABEMATIMES)詳細は上記記事を見ていただければと思うが、宗教都市として世界遺産にも登録されている京都市であるが、同市内にある仏教寺院の関係者が、いわゆる観光公害、或いはオーバーツーリズムについての問題提起を行っていることが話題となっているそうだ。拙寺のように、全く観光とは縁が無い「持たざる寺」の関係者からすると、或る意味で「贅沢な悩み」のような気がするが、深刻なのだろう。心よりお見舞い申し上げる。それで、そもそも寺院と観光という話になると、修行寺という性格を持つお寺も日本にはあって、「拝観謝絶」などと明言している場合もある。曹洞宗の場合、例えば両大本山ともに修行道場(宗...京都の寺院に於ける観光公害問題について
とりあえず、こちらの記事があった。・生臭坊主と言わないで。お寺の多角経営が進んでいる(ASCIISTARTUP)それで、寺院も経営面を思うと、収入の多角化が必要だという話で、それに取り組んでいる事例を紹介した記事なのだが、気になるのは冒頭の一節で、「御朱印ブームが落ち着いた昨今」とあることだろう。これは、実はこの通りであると思う。例えば、以下の記事はどうか。・あんなにハマっていたのに…「御朱印集め」ブームから去った人たち「コラボ御朱印はありがたみが減る」「見返しても思い出が蘇らない」(マネーポストWEB)ちょっとこの記事の書き方は、ブームが去るときに、敢えて対象を叩き気味に論じるような論調なので、それは割り引いて考える必要もあるけれども、御朱印のブームは去ったと思う。なお、御朱印のブームには功罪があって、...ASCIIの寺院経営に関する記事
今日2月15日は、三仏忌の一、釈尊涅槃会である。つまり、仏教の開祖である釈迦牟尼仏が入滅された日である。この日は、釈尊の般涅槃の意義を探りながら、後孫として必要な学びを重ねていきたいと思う。今日は、この一節を学んでいきたい。浄法界の身、本と出没無し。大悲の願力、去来を示現す。仰いで照鑑を願い、俯して真慈を請う。南閻浮提大日本国北陸道国庄山寺開闢〈某甲等〉今月十五日、恭しく本師釈迦如来大和尚入般涅槃の辰に遇う。謹んで香華灯明の微供を弁備し、以て最後の慇懃の供養を伸ぶ。恭しく現前の一衆を集め、秘密神咒を諷誦す、集むる所の殊勲は、上み慈蔭に酬いん者なり。右、伏して以れば、常在霊山の微月、幽光遠く輝き。泥洹双樹の残花、余薫尚お郁る。涅槃常楽の接化、今時なる迄も、無為実相の徳用、来際を被う。是を以て上乗一心の法供養...今日は釈尊涅槃会(令和7年版)
明日2月15日は釈尊涅槃会である。端的に、釈迦牟尼仏が入滅された日である。古来から、この日は三仏忌の一として、禅宗では法要を行っている。具体的には、以下のような流れである。二月十五日、涅槃会なり。力に随って供具を弁ず。兼日、衆中の大小、山中の諸人、各おの七文銭を出して、涅槃仏を供養し、机上にこれを点ず。庫下よりこれを勤めて、供具を調う。是れ永平の旧儀なり。供具弁備の後、上堂、例の如し。但だ拈香して云く(以下、疏が続く)……宣疏罷、啓唱諷経、常の如し。主人、坐具を収めて、起立し行道す。又た諷経了ずる時、焼香し礼三拝なり。維那、回向に云く、上来、楞厳秘密神咒を諷誦し、供養する功徳は、今月入般涅槃・本師釈迦牟尼如来大和尚、以て法乳の恩に酬いんものなり。『瑩山清規』「年中行事」なお、「疏」については、明日の記事で...明日は釈尊涅槃会(令和7年版)
洞門学僧による或る法語で、『仏垂般涅槃略説教誡経(遺教経)』を用いた例があったため、学んでみたい。凡仏道を修行するには、持戒を第一の根本とするなり、戒を持つときは、おのづから心が清浄になるゆゑ、禅定も智慧も、自然とこの内より出るゆゑ、持戒と礎となし、禅定を屋宅となして、よく智慧の造作をなすと、梵網経にも仰せられ、又遺教経にも、わが涅槃の後は、まさに戒法を尊重とたふとみ、珍敬とうやまひ奉るべし、たとへば暗夜に松炬挑灯をもつがごとく、又貧しきものの、財宝を得るがごとし、此ゆゑに戒法さへあれば、末世の大導師といふものにて、如来の世にましますと同じ事なり、寂室堅光禅師『菩薩戒童蒙談抄』ということで、江戸時代末期の学僧・寂室堅光禅師(1753~1830)の教えを見ていきたい。これは、曹洞宗で相伝してきた仏祖正伝菩薩...曹洞宗に於ける『遺教経』の学び(3)
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光陰(こういん)は矢(や)よりも迅(すみや)かなり、 身命(しんめい)は露(つゆ)よりも脆(もろ)し 何(いず)れの善巧方便(ぜんぎょうほうべん)ありてか、過(す)ぎにし一日(いちにち)を復(ふたた)び還(かえ)し得(え)たる (修証義 道元禅師) 「光陰矢の如し(こういんやのごとし)」という言葉もありますが、これは、光陰(月日)が過ぎ去る事は、まるで飛ぶ矢のように、あっと言う間で速い、という意味...
以前に、道元禅師の伝記を書いた時、結局古伝(14世紀までに成立した伝記群)に見付からなかったため採り上げなかった記事に、以下の一節がある。・(建長)四年夏、遺教経を講ず、黒白駢擁して聴き聳ゆ。『永平開山道元和尚行録』・四年壬子師、五十三歳○夏、遺教経を講ず、緇白雜襲す○師、預め前途促逼するを知りて、是の経を講ず。蓋し、如来最後の垂範を擬すなり。正法眼蔵大人覚巻、茲に萌ず。『永平仏法道元禅師紀年録』上記記事で、道元禅師は御入滅される前年の夏に、『遺教経』を講義したというのである。その結果、出家・在家が多く集まってきたという。また、上記の講義が行われた理由として、『紀年録』では前途(ご自身の寿命)が「促逼(追い詰められる)」していることを知って、『遺教経』を講義したという。つまり、釈尊が涅槃を前にして垂誡した...曹洞宗に於ける『遺教経』の学び(2)
自分の事より他者の事を優先する考えをあらわす四文字熟語に「忘己利他」(もうこりた)というものがある。この精神を覚悟徹底することで、自分でも思いもよらなかった自分に出会えるかもしれない。「ただわが身をも心をも放ち忘れて、仏の家に投げ入れて、仏の方より行われて、これに随いもてゆく時、力をもいれず、心をも費やさずして、生死を離れ仏となる」と、道元禅師の如意。忘己利他
今日1月26日は曹洞宗で「高祖降誕会」である。つまり、大本山永平寺を開かれた道元禅師の御誕生日に当たる。江戸時代には正治2年(1200)1月2日に誕生日を定め(面山瑞方禅師『訂補建撕記』など)、更に新暦への転換に合わせて日を動かしたのが、明治33年(1900)のこと(ちょうど、道元禅師御生誕700年)となっている。さて、毎年この日には、道元禅師生誕に関する記事をアップするようにしており、だいたい新しい学説に従い、色々と考えてきたが、今日は敢えて、江戸時代に構築された道元禅師伝を見ていこうと思う。土御門院(人王八十三代)正治二年(庚申)正月二日に道元和尚誕生す。洛陽の人、源氏。村上天皇九代の苗裔。后中書王八世の遺胤なり。『訂補建撕記』、一部表現を改める分かりやすくするために、一部の漢字を訓読し、またカナをか...今日は高祖降誕会(道元禅師の御誕生日)
「掃除とは人生を整える事、自分の為に心地よく清めるのです。」
威儀即仏法(いいぎそくぶっぽう)、作法是宗旨(さほうこれしゅうし) (正法眼蔵、しょうぼうげんぞう 道元禅師) 威儀(身なり、姿、恰好、姿勢)を整え、正す事が、仏道を行じる事であり、修行であり、仏様のお教えそのものであり、歩むべき道である。 作法(立ち振る舞い、所作、礼儀、態度)を整え、正す事が、仏道の実践、仏様の体現そのものであり、宗旨(曹洞宗の教えの根本)であり、私達曹洞宗においては、一日の全...
こういった教え、これまで余り気にしていなかった感じがしたので、採り上げてみる。夫れ、菩提心を発して菩薩戒を受けざるは、則ち三世諸仏入仏道の基本に背く。面山瑞方禅師『永平家訓綱要』「序」確かに、菩提心を発したのであれば、菩薩戒を受けないのは、入仏道の基本に背くなぁと思った。それで、こんな当たり前のことに、何故思いが至らなかったのか?について考えてみた。いや、個人的にこういう流れが無いという話では無い。拙僧どもはありがたいことに、出家する際には受業師から、伝法する際に本師から、それぞれ菩薩戒を伝授する。菩提心についても、古来の祖師と比べてどうなのか?という指摘があるかもしれないが、まぁ、僧侶としてやっていこうという覚悟を決めた段階で、或る種の菩提心の発露だと思っている。よって、問題はここにあるのではない。実は...菩提心と菩薩戒の関係について
道元禅師の著作を丹念に見ていくと、現在では当たり前のように修行道場(本山僧堂・専門僧堂)にいると思われている役寮と通称される役僧が、実は、徐々に整備されていった。道元禅師の行跡は、そのまま日本に於ける正伝の道場の「建立作業」そのものだったのである。今日紹介したい「知客」は、「六頭首」という配役の1つで、寺院に来訪する客や施主、或いは遊行する僧侶などの接待を行う役である。例えば、道元禅師御自身、中国に留学していた頃、基本的な居場所として修行をしていた天童山から別の寺に行ったとき、「知客和尚」の接待を受けた様子を以下のように述べられた。予、雲遊のそのかみ、大宋国にいたる。嘉定十六年癸未秋のころ、はじめて阿育王山広利禅寺にいたる。西廊の壁間に、西天東地三十三祖の変相を画せるをみる。このとき領覧なし。のちに宝慶元...いらっしゃいませ知客和尚
曹洞宗の坐禅の極意、ただひたすらに座る「只管打坐(しかんたざ)」
「いわゆる坐禅(ざぜん)とは習禅(しゅうぜん)にはあらず。唯(ただ)これ安楽(あんらく)の法門(ほうもん)なり」 (普勧坐禅儀 道元禅師) この言葉は、小浜市の発心寺30世住職 原田雪溪老師が、摂心会(一週間の座禅修行)の提唱でよく説明されていた道元禅師様のお言葉です。 「坐禅とは、将来の為に習う、もしくは、修するものではなく、今にもっともっと成り切り、今だけにクローズアップしていくもの。」なのだそ...
ネガティブ思考はネガティブな出来事を呼び、ポジティブ思考はポジティブな出来事を引き寄せる。
今(いま)の世(よ)に因果(いんが)を知(し)らず、業報(ごっぽう)を明(あき)らめず、三世(さんぜ)を知(し)らず、善悪(ぜんあく)を弁(わき)まえざる、邪見(じゃけん)の党侶(ともがら)には郡(ぐん)すべからず。大凡(おおよそ)因果(いんが)の道理(どうり)歴然(れきねん)として私(わたくし)なし。 (修証義 道元禅師) 今現在の、この世の中、この世界においては、今までの自分自身の身口意(行動と言葉と心)...
こんな話が伝わっている。宝治元年、寛元五年〈丁未〉正月十五日之布薩の時、開山和尚説戒し給ゑば、五色の雲、方丈の正面の障子に立ち移りて、半時斗あり。聴聞の道俗あまた之を見奉る。其中に河南庄の中の卿より参詣す人達、此の子細を起証文を以て申し上げる。其の文に云く、志比庄方丈不思議の日記の事。寛元五年〈丁未〉正月十五日、説戒。然る日、未の始自り、申の半分に至って、正面障子に五色の光有り。聴聞の貴賤、之を拝す。其の中、吉田河南庄中の郷自り、参詣を企み、之を見奉るの輩、廿余人、但だ説戒の日、多く相当すと雖も、斯の日参詣の條、然らしむ故なり。此の條、虚言ならば、永く三途に堕在せしむ、仍って自今以後、伝聞随喜として記し置くの状、件の如し。二代和尚、御自筆を以て書して云く、当山の開闢堂頭大和尚、方丈に就いて布薩説戒の時、五...或る年の1月15日永平寺で何が?
拙僧的に、いつも疑問に思うことがあって、それが『正法眼蔵』「渓声山色」巻の以下の説示である。居士、あるとき仏印禅師了元和尚と相見するに、仏印さづくるに法衣・仏戒等をもてす。居士、つねに法衣を搭して修道しき。居士、仏印にたてまつるに無価の玉帯をもてす。ときの人いはく、凡俗所及の儀にあらずと。「渓声山色」巻ここで、蘇東坡居士は、仏印禅師から「法衣・仏戒」などを授けられたという。この時授けられた「戒」とは、一体何だったのであろうか?しかあればすなはち、たとひ帝位なりとも、たとひ臣下なりとも、いそぎ袈裟を受持し、菩薩戒をうくべし。人身の慶幸、これよりもすぐれたるあるべからず。「袈裟功徳」巻12巻本『正法眼蔵』に分類される同巻に於いては、同じような文脈で、やはり「袈裟の受持」と「受菩薩戒」を説いている。気になるのは...この仏戒・菩薩戒は何だったのか?
拙僧的に良く分からないのは、ここでいう「仏祖正伝」という語句の典拠についてである。宗門の場合、「仏祖正伝」という語句は、道元禅師が「菩薩戒」に付けて表現されることが多かった。比丘戒をうけざる祖師かくのごとくあれども、この仏祖正伝菩薩戒うけざる祖師、いまだあらず、必ず受持するなり。『正法眼蔵』「受戒」巻このように、「仏祖正伝菩薩戒」という表現が見られ、また、天童如浄禅師から受けた作法は『仏祖正伝菩薩戒作法』とされ、ここに「仏祖正伝」と見える。そこから、道元禅師が如浄禅師から受けた口訣とされる『宝慶記』には、以下の一節が見られる。薬山の高沙弥は、比丘の具足戒を受けざりしも、また、仏祖正伝の仏戒を受けざりしにはあらざるなり。然れども僧伽梨衣を搭け、鉢多羅器を持したり。是れ菩薩沙弥なり。『宝慶記』第43問答このよ...「仏祖正伝」という言葉について
道元禅師の『正法眼蔵』は、数え方によっても違うけれども、最後の一巻が著されたのは建長5年(1253)1月6日であり、仏陀釈尊最期の説法を論じた「八大人覚」巻である。よって、今日はその一巻の一節を学んでいきたい。一には少欲〈彼の未得の五欲の法の中に於いて、広く追求せず、名づけて少欲と為す〉。仏言く、汝等比丘、当に知るべし、多欲の人、多く利を求めるが故に、苦悩も亦、多し。少欲の人、無求・無欲にして、則ち此の患い無し。直爾、少欲、尚応に修習すべし、何に況んや少欲、能く諸功徳を生ず。少欲の人、則ち諂曲にして、以て人の意を求めること無し。亦復、諸根の為に牽かれず。少欲を行ずる者は、心則ち坦然として、憂畏する所無し、事に触れて余り有り、常に不足無し。少欲有る者は、則ち涅槃有り。是を少欲と名づく。『正法眼蔵』「八大人覚...一月六日『正法眼蔵』最後の一巻について(令和7年版)
端的に、出家者が持つべき道具として、「三衣一鉢」というのは、良く知られているところだと思う。いわゆる、五条・七条・九条以上の3種類の御袈裟(三衣)と、食器(応量器・鉢盂=一鉢)を持たなければ、出家を許されない。然るに、もちろんこれだけに収まることはなくて、様々な物を必要に応じて持っていたが、それらは常に“最少”に留めるべきであるとされた。曹洞宗(禅宗)では、行脚する雲水修行が、大切な要素だったためである。今日は、その観点から、或る教えを見ていきたい。ところで、衆生に仏道を勧めることというのは、ただ教えを述べるだけではなくて、出家は本から一物もないことをもって、衣食住の処から、様々な道具に到るまで、皆他人から乞うて、道具の用をまかなっていたのである。そこで、出家は仏道修行に用いるからこそ、(それらの道具を)...出家者が持つべき道具とは?
令和7年元旦、新年となった。心からお祝い申し上げる。なお、今年の干支は「乙巳(きのとみ)」となる。そこで、早速だが新年に関する仏教の記事を見ていきたい。道元禅師は、弟子達を前に新年の挨拶を行われた。歳朝の上堂に、挙す。宏智古仏、天童に住せし歳朝の上堂に云く「歳朝坐禅、万事自然。心々絶待、仏々現前。清白十分なり江上の雪。謝郎満意す釣魚の船、参」と。師云く、今朝、大仏其の韻を拝続せん。良久して云く、大吉歳朝、喜坐禅、応時納祐、自ら天然なり。心々慶快にして春面を笑う。仏々牛を牽いて眼前に入る。瑞を呈し、山を覆う、尺に盈つる雪。人を釣り己を釣る、釣漁の船。『永平広録』巻2-142上堂意味だが、元旦の朝に、道元禅師は上堂されて、公案を採り上げられた。「宏智古仏が天童山の住持をしていたときの元旦の上堂に言われるには「...令和7年乙巳元旦
「除夜」という言葉は、「1年使ってきた暦を除く」ことから、大晦日の夜を意味しているという。今日は1年最後の学びとして、道元禅師の教えを参究したい。除夜小参に、挙す。薬山、雲巌に問う「汝、百丈に在りしを除いて、更に什麼の処に到りてか来る」。雲巌云く「曾て、広南に到りて来る」。薬山云く「見説すらくは、広州城東門の外の一団石、州主に移却せらる、と、是なりや、否や」。雲巌云く「但、州主のみに非ず、闔国の人移せども亦、動かず」。薬山・雲巌、既に恁麼に道う。永平、豈、道ぜざることを得んや。但だ州主のみに非ず、闔国のみに非ず、三世の諸仏、一切の祖師、尽力して移せども亦、動かず。甚と為てか斯の如くなる。良久して云く、彼々如にして内外無し、塵々固くして必ず三昧なり。也大奇、也大奇。全体明らかに瑩いて、宝貝無し。『永平広録』...今日は除夜(令和6年度版)
巨海東流禅師『普勧坐禅儀述解』参究⑳(令和6年度臘八摂心短期連載記事20)
拙僧つらつら鑑みるに、「臘八摂心」で、道元禅師の『普勧坐禅儀』(流布本)について、様々な解説を行ったのだが、その際には参照出来なかった、巨海東流禅師『普勧坐禅儀述解』について、嘉永7年(1845)の写本を入手したので、参究することとした。なお、引用に際しては、カナをかなにするなど見易く改め、誤字なども適宜修正した。況復拈指竿針鎚之転機此は皆祖々臨機応変の働きも此非思量の道力より出ることを示さる、先づ四件は指竿は倶胝の一指よ、竿は釣竿を下して人の為にするなり、南泉は百尺竿頭如何が進歩せんと示された、阿難は門前の刹竿を倒却着せよとなり、針は龍樹針水投合の因縁などよ、鎚は世尊陞座文殊白鎚等の如し、皆夫々に機転する妙用も此の三昧の力より出るじや10丁表~裏こちらは、ほとんど面山禅師『聞解』の略述となっている。よっ...巨海東流禅師『普勧坐禅儀述解』参究⑳(令和6年度臘八摂心短期連載記事20)
巨海東流禅師『普勧坐禅儀述解』参究⑲(令和6年度臘八摂心短期連載記事19)
拙僧つらつら鑑みるに、「臘八摂心」で、道元禅師の『普勧坐禅儀』(流布本)について、様々な解説を行ったのだが、その際には参照出来なかった、巨海東流禅師『普勧坐禅儀述解』について、嘉永7年(1845)の写本を入手したので、参究することとした。なお、引用に際しては、カナをかなにするなど見易く改め、誤字なども適宜修正した。当知正法自現前昏散先撲落昏散は昏沈散乱の義なり、是の正法とは不思量底の正法じや、前に本来面目と有るがやはり同体異名じや、撲落は払ひ落すなりと註に有て今は払ひ尽すの心なり、故に枕子撲落地とも有るじや10丁表巨海禅師の見解と、面山禅師『聞解』が絶妙に混じり合っている。その上で、「是の正法とは不思量底の正法じや」は巨海禅師の見解だと見て良い。また、「故に枕子撲落地とも有るじや」も同様だが、「枕子撲落地...巨海東流禅師『普勧坐禅儀述解』参究⑲(令和6年度臘八摂心短期連載記事19)
巨海東流禅師『普勧坐禅儀述解』参究⑱(令和6年度臘八摂心短期連載記事18)
拙僧つらつら鑑みるに、「臘八摂心」で、道元禅師の『普勧坐禅儀』(流布本)について、様々な解説を行ったのだが、その際には参照出来なかった、巨海東流禅師『普勧坐禅儀述解』について、嘉永7年(1845)の写本を入手したので、参究することとした。なお、引用に際しては、カナをかなにするなど見易く改め、誤字なども適宜修正した。公案現成羅篭未到若得此意如龍得水似虎靠山公案は天下の定法とやらるゝ御高札なり、支那に是を公案と云、中峰山坊夜話に公案は乃ち聖賢牘一其轍天下同其途之至理也云々、隠れなくそこにあるわと云義、宗門の公案は三世の諸仏の号令じや、分別の羅籠にとり込らるゝはづはないぞ、此の思量分別のあみかごさへなければ自由自在じや、龍の――如く虎の――似りじや9丁裏これはほとんど、面山禅師『聞解』なのだが、略し方が余り適切...巨海東流禅師『普勧坐禅儀述解』参究⑱(令和6年度臘八摂心短期連載記事18)
巨海東流禅師『普勧坐禅儀述解』参究⑰(令和6年度臘八摂心短期連載記事17)
拙僧つらつら鑑みるに、「臘八摂心」で、道元禅師の『普勧坐禅儀』(流布本)について、様々な解説を行ったのだが、その際には参照出来なかった、巨海東流禅師『普勧坐禅儀述解』について、嘉永7年(1845)の写本を入手したので、参究することとした。なお、引用に際しては、カナをかなにするなど見易く改め、誤字なども適宜修正した。所謂坐禅非習禅也坐禅と云は広くかゝる故諸流の習禅とは別なるを示さる如何んとなれば下の句に唯――と有る通り四威儀共に皆な此の三昧の坐禅なれば妄想も不除不求真なれば下の文ゑ移る9丁表習禅ではないという意義が余り出てないのと、四威儀共に皆、三昧の坐禅だという話がちょっと気にはなるが、「妄想も不除不求真」についてもどうなのか?とはいえ、道元禅師は「妄想」自体を中心に扱うことは少ないので、この辺は掘り下げ...巨海東流禅師『普勧坐禅儀述解』参究⑰(令和6年度臘八摂心短期連載記事17)
今日は冬至である。よって、冬至は禅宗の説法が多く残されているので、その1つを学んでみたい。冬至の上堂。年年、一を加う三陽の一。旧に非ず新に非ず、功、転た深し。佳節佳辰、千万化。噇眠喫飯、今より起こる。『永平広録』巻1-115上堂道元禅師は仁治3年(1242)に興聖寺で行われた冬至の上堂(11月22日だったと思われる)で次のように示された。毎年毎年、この日には一陽来復する三陽の一である。よって、今日は古くもなく新しくもないが、その働きは極めて深いのである。良い時節、良い時間であって、千変万化していくのだ。睡りを貪り、食事を摂るという日常底も、今から起きるのである、と示された。さて、冬至とは、一年の内でもっとも昼の長さが短い冬の極点の日とされており、中国古来の陰陽五行思想などでは、陰が極まり陽の始まる日である...道元禅師と冬至について
巨海東流禅師『普勧坐禅儀述解』参究⑯(令和6年度臘八摂心短期連載記事16)
拙僧つらつら鑑みるに、「臘八摂心」で、道元禅師の『普勧坐禅儀』(流布本)について、様々な解説を行ったのだが、その際には参照出来なかった、巨海東流禅師『普勧坐禅儀述解』について、嘉永7年(1845)の写本を入手したので、参究することとした。なお、引用に際しては、カナをかなにするなど見易く改め、誤字なども適宜修正した。思量箇不思量底不思量底如何思量非思量此乃坐禅之要術也思量するは有心故要術にそむく、高く眼を着よ、此の非思量の境を正伝の恵命のやれ仏祖の三昧ぞと口斗り言ては要術とは不言令也、此の一段は全く薬山に僧問の公案を用らる参熟して究明すべし広録挙此語有頌曰非思量の処絶思量切忌将玄喚作黄剥地識情倶裂断すれば钁湯炉炭也、清涼と只此非思量の境は識情裂断故に識情にて造作する三界六道は一時に消殞す8丁裏~9丁表ここは...巨海東流禅師『普勧坐禅儀述解』参究⑯(令和6年度臘八摂心短期連載記事16)
巨海東流禅師『普勧坐禅儀述解』参究⑮(令和6年度臘八摂心短期連載記事15)
拙僧つらつら鑑みるに、「臘八摂心」で、道元禅師の『普勧坐禅儀』(流布本)について、様々な解説を行ったのだが、その際には参照出来なかった、巨海東流禅師『普勧坐禅儀述解』について、嘉永7年(1845)の写本を入手したので、参究することとした。なお、引用に際しては、カナをかなにするなど見易く改め、誤字なども適宜修正した。鼻息微通身相既調欠気一息左右揺振兀兀坐定此の一段三蔵法数十八に委く出、此の鼻息微に自然に通とき三昧の現成なり、故に仏々祖々も此の鼻孔裡に向て妙脈貫通せり、欠気とはためいきを吹出なり、揺振とは身を左右にふり動して麁より細に至り止む、是を坐定と云仏説の如し、兀々とは不動の㒵之安住不動如須弥山の姿なり、かなの坐禅儀(※「箴」の誤記)に兀々地は仏量に非ず法量に非ず悟量に非ず会量に非るなりと已上、此祖意を...巨海東流禅師『普勧坐禅儀述解』参究⑮(令和6年度臘八摂心短期連載記事15)
巨海東流禅師『普勧坐禅儀述解』参究⑭(令和6年度臘八摂心短期連載記事14)
拙僧つらつら鑑みるに、「臘八摂心」で、道元禅師の『普勧坐禅儀』(流布本)について、様々な解説を行ったのだが、その際には参照出来なかった、巨海東流禅師『普勧坐禅儀述解』について、嘉永7年(1845)の写本を入手したので、参究することとした。なお、引用に際しては、カナをかなにするなど見易く改め、誤字なども適宜修正した。乃正身端坐不得左側右傾前躬後仰要令耳与肩対鼻与臍対舌掛上腭脣歯相著目須常開正身端坐は王三昧の巻に尽界を超越し仏祖裡に大尊貴生なることは結跏趺坐なり仏祖の極之極を越るは只だ此の一法なりと已上仏言見画趺坐魔王驚怖すとあり、況や此の真箇の趺坐をや、又目須常開とは無用にして開を云なり、物を見て眼に用有ときは瞼上下するものなり、常に開とは生たまゝに開を云なり8丁表~裏ここは、坐禅を行う際の上半身の作法を示...巨海東流禅師『普勧坐禅儀述解』参究⑭(令和6年度臘八摂心短期連載記事14)