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我欲を捨て去り、煩悩を滅し、悩み、苦しみの世界から脱する為の方法、その王道こそが、坐禅。
徒(いたずら)に百歳(ひゃくさい)生(い)けらんは、恨(うら)むべき日月(じつげつ)なり悲(かな)しむべき形骸(けいがい)なり設(たと)い百歳(ひゃくさい)の日月(じつげつ)は声色(しょうしき)の奴卑(ぬび)と馳走(ちそう)すとも其中(そのなか)一日(いちにち)の行持(ぎょうじ)を行取(ぎょうしゅ)せば一生(いっしょう)の百歳(ひゃくさい)を行取(ぎょうしゅ)するのみに非(あら)ず百歳(ひゃくさい...
ありとあらゆる生きとし生けるものの幸せを願う事、それは、自分自身の幸せを願う事。
衆生(しゅじょう)を利益(りやく)すというは四枚(しまい)の般若(はんにゃ)あり一者(ひとつには)布施(ふせ)、二者(ふたつには)愛語(あいご)、三者(みつには)利行(りぎょう)、四者(よつには)同事(どうじ)是(こ)れ即(すなわ)ち薩埵(さった)の行願(ぎょうがん)なり(修証義、しゅしょうぎ 道元禅師、どうげんぜんじ)世の人々を幸せにするには、四通りの尊い仏の教えがあります。一つ目は、布施(ふせ...
明治時代の仏教啓蒙家といわれる大内青巒居士が、次のような礼讃文を編んだという。(講師先づ合掌して曰く)人身受け難し、今已に受く、仏法聞き難し、今已に聞く、此の身今生に向つて度せずんば、更に何れの生に向つてか此身を度せん、大衆諸共に三宝に帰依したてまつるべし。『礼讃文』、大日本仏教青年会『仏教講話録』明治26年この次に三帰礼文などが続くのだが、今回見たいのは以上の一節である。なお、明治中期以降、この礼讃文は宗派を超えて、様々な研修会や講演会の場で講師によって読誦されたようである。それで、この一節の典拠なのだが、最初の数句はおそらく、大慧宗杲禅師の言葉であろう。人身得難し、仏法逢い難し、此の身不向今生に向かって度せずんば、更に何れの身に向かって此の身を度せん。『大慧書』巻30なお、別の文献では、「古徳云く」の...或る『礼讃文』について
愛語こそ、財が無くとも誰もができる布施であり、縁ある人々、周囲の人々を幸せにして、 自分も幸せになる方法。
愛語(あいご)というは、衆生(しゅじょう)を見(み)るに、先(ま)ず慈愛(じあい)の心(こころ)を発(おこ)し、顧愛(こあい)の言語(ごんご)を施(ほどこ)すなり。 慈念衆生(じねんしゅじょう)、猶如赤子(ゆうにょしゃくし)の懐(おも)いを貯(たくわ)えて、言語(ごんご)するは愛語(あいご)なり。 徳(とく)あるは讃(ほむ)むべし、徳(とく)なきは憐(あわれ)むべし。 (修証義 道元禅師) このお...
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光陰(こういん)は矢(や)よりも迅(すみや)かなり、 身命(しんめい)は露(つゆ)よりも脆(もろ)し 何(いず)れの善巧方便(ぜんぎょうほうべん)ありてか、過(す)ぎにし一日(いちにち)を復(ふたた)び還(かえ)し得(え)たる (修証義 道元禅師) 「光陰矢の如し(こういんやのごとし)」という言葉もありますが、これは、光陰(月日)が過ぎ去る事は、まるで飛ぶ矢のように、あっと言う間で速い、という意味...
こういった教え、これまで余り気にしていなかった感じがしたので、採り上げてみる。夫れ、菩提心を発して菩薩戒を受けざるは、則ち三世諸仏入仏道の基本に背く。面山瑞方禅師『永平家訓綱要』「序」確かに、菩提心を発したのであれば、菩薩戒を受けないのは、入仏道の基本に背くなぁと思った。それで、こんな当たり前のことに、何故思いが至らなかったのか?について考えてみた。いや、個人的にこういう流れが無いという話では無い。拙僧どもはありがたいことに、出家する際には受業師から、伝法する際に本師から、それぞれ菩薩戒を伝授する。菩提心についても、古来の祖師と比べてどうなのか?という指摘があるかもしれないが、まぁ、僧侶としてやっていこうという覚悟を決めた段階で、或る種の菩提心の発露だと思っている。よって、問題はここにあるのではない。実は...菩提心と菩薩戒の関係について
現在の曹洞宗の宗典になっている『修証義』の思想構造について考えてみると、いわゆる「四大綱領」を基本にしていることは明らかだが、「四大綱領」を考えた大内青巒居士の見解を参照すると、大事なのは「受戒入位」と「行持報恩」になる。そして、これは以前、別の文章でも書いたことがあるのだが、青巒居士がこの2つを基本に据えたのは、「四恩十善」という考えが元になっているとされる。「四恩十善」については、青巒居士が主体的に関わった明治時代初期の仏教結社であった和敬会や明道協会などで重視された。そして、この記事で見ておきたいのはこの原典であり、本来ならばどういう文脈で語られたものなのか?ということである。然るに、「四恩十善」というのは、伝統的な文脈に存在しているのだろうか?その辺について見ておきたい。ところで、青巒居士は浄土宗...「四恩十善」にかかる雑考
今日3月9日は、語呂合わせで「サンキューの日」、転じて「ありがとうの日」である。「ありがたい」という気持ちがあれば、自ずとそれは我々にとって貴重な想いを抱かせ、感謝や尊敬の念を生むものである。ところで、曹洞宗の『修証義』、つまり「四大綱領」には「行持報恩」という項目がある。行持を行うことで、報恩となることだが、『修証義』では、次のような故事をもって報恩の重要性を明らかにしている。・利行というは貴賎の衆生に於きて利益の善巧を廻らすなり、窮亀を見病雀を見しとき、彼が報謝を求めず、唯単えに利行に催おさるるなり。「第四章・発願利生」・病雀尚お恩を忘れず三府の環能く報謝あり、窮亀尚お恩を忘れず、余不の印能く報謝あり、畜類尚お恩を報ず、人類争か恩を知らざらん。「第五章・行持報恩」これらに共通するのは、「病雀三府環」「...今日3月9日は「ありがとうの日」(令和6年版)
※修証義しゅしょうぎ曹洞宗の信仰指導書の一。1890年(明治23年)成立。道元の「正法眼蔵しようぼうげんぞう」より文章を選び、五章三一節に整理したもの。(大辞林) (修証義 総序)冒頭の言葉を引用させて頂きます。生を明らめ 死を明きらむるは 仏家一大事
我々が檀信徒法要などで主に読誦する場合が多い『修証義』について、以下のような文脈がある。彼の三時の悪業報必ず感ずべしと雖も、懺悔するが如きは重きを転じて軽受せしむ、又滅罪清浄ならしむるなり。「第二章懺悔滅罪」今日問題にしたいのは、この「軽受」の読み方である。我々が習った読み方だとこれは「きょうじゅ」と読むべきだということであった。ところが、近年、同語を「けいじゅ」と読む人が増えてきているように思う。これはどういうことなのだろうか?そこで、何が正しい読み方なのかを、調べてみることにした。まず、宗門の公式見解、要するに、出版部で出している経本の読み方をチェックしてみようと思う。まずは、『曹洞宗日課勤行聖典』や、檀信徒に配布する場合が多い『洋本修証義』では、みな「きょうじゅ」とルビが振られている。流石にこのルビ...「軽受」の読み方について