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個人的に興味深い一節を見出したので、採り上げておきたい。如何なるか是れ僧。師云く、鶏狗戒を持せず。『仏光国師語録』巻6、『大正蔵』巻80所収ご存じの方が多いと思うが、仏光国師とは鎌倉時代に来日した無学祖元禅師(1226~1286)のことである。そこで、無学禅師が指摘されることとしては、僧侶とは如何なる存在か?という問いに対して、端的に「鶏狗戒を持せず」としている。これは、中国の宋代、三宝に関する問いというのは、それ自体「公案」として機能しており、今回はその内「僧宝」についての問いとなっている。そこで、ここで無学禅師が意図したところを読み解いてみたい。まず、「鶏狗戒を持せず」とはあるが、この内、「鶏狗戒」は仏道以外の戒として認識されているかと思う。例えば、以下の一節などはどうか。云何が菩薩、戒を修治するや。...無学祖元禅師の問答に見える「鶏狗戒」について
中国に仏典を最初に伝えた迦葉摩騰と竺法蘭が最初に訳したという伝説がある経典『四十二章経』は、禅宗では「仏祖三経」として、修行僧がその学びの中で必ず読まれなくてはならないと珍重された。沙門有り、夜に経を誦して甚だ悲し、意に悔疑有り、思を生じて帰らんと欲す。仏、沙門を呼びて問うて之く、「汝、処として家には将に何を修せんと為すや」。対えて曰く、「恒に琴を弾く」。仏言わく:「絃、緩めば何れの如しや」。曰わく、「鳴らず」「絃、急なれば何れの如しや」。曰わく、「声絶す」。「急緩、中を得れば何の如しや」。「諸もろの音、普ねく悲し」。仏、沙門に告ぐ、「学道猶お然り、心を執りて調適なれば、道、得べきなり」。『四十二章経』「第三十四章」釈尊とその弟子達が経典を読んでいた時に、その場で法要をリードしていた僧侶が、余り上手く唱え...緩急の中道を歩む
先日、或る文章を読んでいたら、或る「滑稽さ」について指摘していたので、参照してみたい。「平家にあらずんば人にあらず」と言ったのは平忠盛とされるが、この意味は"平家じゃなければ人じゃない"。すなわち平家以外の人間たちへの見下し(あるいは平家のみが正義という思い込み)であるが、もうひとつ極めて偏った価値観とそれを信じきる人間のおかしみが含まれているように感じる。今に置き換えて、どれ程の名家があったとしても"その家以外の人は人じゃない"というのは排他的を超えて、滑稽ですらある。中江有里氏「広大な荒野の前に立つ―石母田正『平家物語』」、岩波書店『図書』2014年9月号、12頁この滑稽さは極端で且つ、理由の分からない排他性から生み出されたものである。もう、その当事者以外には分からない排他性、それが滑稽なのである。し...仏教界に見える滑稽さ
言葉って、気をつけなきゃいけないんだよね。でも、分かっていても、口が悪いの、やめられないんだ。どうしたらいいの?なーんて悩み抱えてる人、いませんか?幸福の科学の大川隆法先生は、『大川隆法初期重要講演集ベストセレクション2ー人間完成への道ー』(幸福の科学出版)に収められた御法話「八正道の再発見」で、こう教えておられます。自分の言葉を点検するための、いちばんいい方法があるのです。それが何であるかというと、言葉を発したあと、相手から視線をそらしてはいけないということです。自分が発したあと、相手は必ず受け止めます。それは一秒もかからない時間で受け止めますが、必ず表情が動きます。何らかの表情を示します。それはプラスであるかマイナスであるか、明るく出るか暗く出るか分からないが、自分から発せられた情報を、必ず、相手とい...自分の出す言葉に気をつけるには?
瑩山紹瑾禅師(1264~1325)の文献を見ていたところ、以下の一節が気になった。若し又た土縁・六念及び戒牒を帯びれば、具さに之を書副う。『瑩山清規』さて、問題はこの「六念」についてである。それで、これについては、典拠はおそらく『禅苑清規』巻1「掛搭」項なのだろうと思われるが、同書では以下のように指摘されている。今、本名度牒・六念・戒牒、共に三本を執りて、全く、使衙に赴いて呈験し、判公憑を欲す。『禅苑清規』巻1「判憑式」これは、「掛搭」項中の「判憑式」という項目中にいわれていることで、「判憑式」というのは、中国で僧侶が州の境界を出て遊行する際の許可状(旅券)を申請する際の書式であるという。それで、僧侶が携帯するべき書類について、「度牒・六念・戒牒」があるというのだが、中国の唐代までは「度牒・戒牒」のみだっ...「六念」について
「密」という語を聞くとき、我々自身、どのように考えるべきだろうか?たとえば、「秘密」、要するに「密教」の「密」として採るべきであろうか?或いは、「親密」として、道元禅師の仰る「密語」の「密」として受け取ることも可能である。しかし、親しすぎる対象を、見ることは困難である。正しくは、見ることが出来ても、その「全貌」をありのままに見ることが出来ないというべきであろうか?畢竟、我々にとって、「密」とは、その全貌を対象として明確に受け取ること、知り得ることは不可能だといいたいのである。ただ、これは、安易な「不可知論」とは違う。その辺は、以下の問答からまず見ておきたい。上堂。記得す。雲門、曹山に問うて云く、「密密の処、甚麼と為てか有ることを知らざる」と。山云く、「祗だ密密なるが為に、所以に不知有なり」と。若し是、永平...親密過ぎる仏法
あー、やだやだ。毎日毎日、お掃除とか洗濯とかばっかり、いやだなあ・・・。なーんて悩んでる人、いませんか?幸福の科学の大川隆法先生は、『信仰告白の時代』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。釈尊の弟子には、頭のよい人、身分の高い人や低い人など、いろいろな人がいましたが、なかには「こんな人が?」というような弟子もいたのです。なかでも、頭が悪いことで有名な弟子の一人に、周利槃特(しゅりはんどく)という方がいました。これ以上、頭の悪い人はいなかったのではないか、ということで有名な方です。(中略)釈尊は「周利槃特よ、ちょっと来なさい。おまえは難しい説法はさっぱりわからないようだから、一つだけ教えてあげよう。ここに箒(ほうき)があるから、この箒を持って庭を掃きなさい。落ち葉を掃いたり、ごみを掃いたりしなさい。そ...毎日のお掃除ってなんになるの?
周りの人達が「釈尊は偶像崇拝を禁止していた」という話をしていたのだが、拙僧的にはあれ?と思った。いや、以前から「律蔵」について読んでいるが、仏像はもちろん、偶像についての話など見たことが無い。しかし、釈尊自身が生きている間は、仏陀を像にする必要はないわけで、仏像がどうこうとかいう話にならないのは当然か?!もう一方で、その後、全世界では仏像が造立され、崇拝されている。そうなると、「律蔵」での不在は、偶像崇拝などを「禁止」した形跡が無いことになる。その辺を思って、ちょっとだけ調べてみると、以下のサイトが見付かった。・初期仏教が偶像崇拝を禁止していた言うのは本当ですか?(Yahoo!知恵袋)いや、このアンサーについて、ちょっと笑ってしまった。いくら何でもこれは酷い。ただの日本仏教叩きになってしまっていて、質問者...釈尊は偶像崇拝を禁止したのか?
今日は「お香の日」だそうだ。そこで、今日は道元禅師の教えから、「お香」について論じられた箇所を学んでみたい。・受者、先ず教授師の寮に到り、先ず教授に問訊し罷りて、右手にて香を上り、香炉に挿む〈沈香・箋香等の小片を焼くなり〉。『仏祖正伝菩薩戒作法』・威儀を具すといふは、袈裟を著し、坐具をもち、鞋襪を整理して、一片の沈・箋香等を帯して参ずるなり。『正法眼蔵』「陀羅尼」巻前者は、宗門室内行持の1つだが、「仏祖正伝菩薩戒」を師資相伝する際の作法の中に出て来る一文である。その中に、教授師という授戒には欠かせない師の1人に対して礼拝する場面や、後者は善知識に対する礼拝を行う時の威儀だが、ともに道元禅師は丁寧な作法と、その時に焚くべき「お香の種類」を提示されている。名前として挙がっているのは、「沈香・箋香等」である。沈...道元禅師とお香について
以前、とあるお寺を通りかかったところ、山門横掲示板のポスターに、選挙に行くことを勧めながら「一票では変わらない、しかし一票がなければ変わらない」という言葉が書いてあった。拙僧それを見ながら、坐禅を始めとする修行も、こうすればどうなるかという理論というか妄想だけではなくて、実際に行うという一歩一歩が重要だと思うのである。そうしたら、鈴木正三が面白いことを言っていたので、見ていこう。○廿七、一日示して曰く、東へも西へも行かんと思ひ、一足づゝ運べば、必ず行き着く物也。然るに修し行ずる処に於ては、尺取虫の様にもいじる者無し。皆娑婆に心を取られ居る許り也。達磨大師は外諸縁を息め、内心喘ぐ事無く、心牆壁の如くにして以て道に入るべしと示し給へ共、今時は世縁を離れたる人さへ無しと也。『驢鞍橋』上-27これは、どこまでも自...仏道修行最初の一歩
御開山である道元禅師の時代からは、少し後の記録だが、以下のような一節がある。△中興和尚、永平寺に御住中、虚空に鐘声鳴る。此嘉暦二年四月十六日也。開山和尚御現住の時も堂に鐘声鳴しが、今吾住山の中にも亦鐘声ありとて、中興和尚御悦不尋常。此鐘声により、軈て勧進に思食し立ち、今の大鐘を鑄立て給。此義、則ち鐘の銘に書付給也。『建撕記』嘉暦2年とは西暦では1327年であり、当時の永平寺は五世・義雲禅師(1253~1333)が住持を勤めておられた時代である。それで、その年の夏安居が始まった4月16日に、空から鐘の音が鳴ったとされている。この現象は、道元禅師の御在世時にも発生したとされる。建長三年、当山の奧に常に鐘声の聞ゆる事、自檀越相尋について御返事也。御尋について申候。此七八年之間は、度々に候也。今年正月五日子の時、...永平寺の鐘が響いた日
幸福の科学の大川隆法先生は、3150冊を超える書物を世に発表しておられると言います。なんで、そんなにたくさんの本を出す必要があるの?なーんて疑問もってる人、いませんか?幸福の科学の大川隆法先生は、『幸福の科学の十大原理〔上巻〕』(幸福の科学出版)で、次のように教えておられます。矢継ぎ早に次つぎと書物を出している理由はいったいどこにあるか。(中略)この世の中の価値基準を転換するためには、真理の書を一冊でも多く、一人でも多くの人の目に触れさせる必要があるわけです。(中略)法は、いつの時代にも説かれるわけではありません。しかし、法が説かれるときには、その時代の人びとだけではなく、千年後、二千年後、三千年後の後代の人びとをも悟らしめるだけのものを残していかねばならないのです。数々の書物を世に問うていますが、私が予...大川隆法先生がたくさんの本を出してるって?
今日4月15日は、暦や季節感などを無視してしまえば、古来より「夏安居」の開始日として定められていた「結夏」の日に当たる。なお、現在では5月15日を一般的な「結夏」としているので、古来より行われていた結夏に関する説法などを見ると、若干のズレがある。であれば、5月15日に「結夏」の記事を書けば良いのかもしれないが、とりあえず今日にしておきたい。結夏の上堂に、云く、百草、如今、将に夏を結ばんとす。拈来の尽地、万千茎。一華五葉、天沢に開く。結果自然、必ず当生なり。『永平広録』巻1-44上堂道元禅師がまだ京都宇治の興聖寺に居られた頃、仁治2年(1241)に行われた結夏上堂である。道元禅師は、後には結夏の開始を、上堂ではなくて、小参で行うようになり、また後には中国曹洞宗の宏智正覚禅師や、中国臨済宗の黄竜慧南禅師の説法...4月の結夏5月の結夏
盗難仏像がネットオークションで落札されて元の寺に戻ったとの報道
盗まれた仏像、ネットオークションの落札者が寺に返還「元のお寺に戻ることに満足」(YomiuriOnline)2023年中、奈良県葛城市の当麻寺の塔頭である念仏院から阿弥陀如来坐像が盗まれたのですが、同像がネットオークションに出品され、その後、東京都内の男性に落札されたそうです。しかし、その男性から当該寺院に返還されたとのこと。「市の歴史博物館が仏像の写真などをデータベース化していたことが発見につながった」とか色々とありますが、そろそろネットオークションも、盗品の扱いについての厳罰化が必要な気がします。拙僧も、各種文献などを落札することがありますが、万が一盗品だったら、という思いはいつもあります。そして、もしそれが判明した場合には、すぐに戻そうとも思っております。こういう時代だからこそ、本来の所持者の権利が...盗難仏像がネットオークションで落札されて元の寺に戻ったとの報道
なんで、あの人は、あんなに美人でスタイルがいいの?なんであの人は、あんなに頭がいいの?なんであの人の家は、お金持ちなの?あーあ、それに比べて、私って、おれってなあ・・・なーんて考えて、落ち込んだりしてる人、いませんか?幸福の科学の大川隆法先生は、『永遠の仏陀』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。おまえたちは、いたずらに他の人をうらやんではならない。その人が、たまたま、いい家に生まれたとか、その人の両親が、たまたま優秀であったとか、その人が、たまたま都会に生まれたとか、その人の兄弟が、恵まれた経歴を持っているとか、その人の肉体が、たぐいまれなる美しいものであるとか、このようなもので、心を嫉妬で曇らせてはならない。人には、それぞれの過去があり、過去、積み上げてきたものがある。そのすべての結果が、現在と...他の人の人生がうらやましいって?
明日4月15日から、夏安居(とはいえ、新暦の現在では5月15日)の結制となる。ところで、曹洞宗は道元禅師による伝来当初より、「安居」を導入していたと思われるが、15日の結夏を前に行われる行持を確認してみたい。四月十四日の斎後に、念誦牌を僧堂前にかく。諸堂、おなじく念誦牌をかく。至晩に、知事、あらかじめ土地堂に香華をまうく、額のまへにまうくるなり。集衆念誦す。念誦の法は、大衆集定ののち、住持人、まづ焼香す、つぎに、知事・頭首、焼香す。浴仏のときの、焼香の法のごとし。つぎに、維那、くらいより正面にいでて、まづ住持人を問訊して、つぎに土地堂にむかうて問訊して、おもてをきたにして、土地堂にむかうて念誦す。詞云、竊以薫風扇野、炎帝司方、当法王禁足之辰、是釈子護生之日。躬裒大衆、粛詣霊祠、誦持万徳洪名、廻向合堂真宰。...4月14日「夏安居」を前に
現在の曹洞宗の宗典になっている『修証義』の思想構造について考えてみると、いわゆる「四大綱領」を基本にしていることは明らかだが、「四大綱領」を考えた大内青巒居士の見解を参照すると、大事なのは「受戒入位」と「行持報恩」になる。そして、これは以前、別の文章でも書いたことがあるのだが、青巒居士がこの2つを基本に据えたのは、「四恩十善」という考えが元になっているとされる。「四恩十善」については、青巒居士が主体的に関わった明治時代初期の仏教結社であった和敬会や明道協会などで重視された。そして、この記事で見ておきたいのはこの原典であり、本来ならばどういう文脈で語られたものなのか?ということである。然るに、「四恩十善」というのは、伝統的な文脈に存在しているのだろうか?その辺について見ておきたい。ところで、青巒居士は浄土宗...「四恩十善」にかかる雑考
宗教同士で争ってるでしょ。戦争の背景には宗教があるっていうし。神さまや仏さまが本当にいて、教えが降ろされたんだったら、なんで、宗教同士で争うの?なーんて疑問もってる人、いませんか?幸福の科学の大川隆法先生は、『フランクリー・スピーキング』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。宗教のもと自体は、かなりホンワカしたものだし、そう体系化されたものではないのだけれども、弟子筋が体系化していくうちに、やはり都合の悪いことはだんだん切っていって狭めていくので、あとがたいへんなんですね。都合のいいほうに解釈しはじめるので、情熱ゆえにそういうこともあるんですけれども、あれが辛いですね。さまざまな宗教の歴史を見ていると、いろいろと争いが多いですね。だから信仰しない、という人も出てくるぐらいですが、ずっと見てくると、結...どうして宗教同士で争ってるの?
現代の用語としては、「祖父」とは「父または母の父」、つまりはお祖父さんを意味する言葉である。以下の一節も同様であるといえる。唐憲宗皇帝は、穆宗・宣宗両皇帝の帝父なり。敬宗・文宗・武宗三皇帝の祖父なり。道元禅師『正法眼蔵』「光明」巻これは、血縁関係上の「祖父」をいっていることが分かる。憲宗(778~820)は、唐王朝第14代の皇帝であり、皇太子の長男が若くして亡くなったことで仏教に深く帰依をした。晩年は精神的に疾病を発症し、そのために暗殺されてしまった人である。しかし、その実子である穆宗(憲宗の三男、第15代皇帝)・宣宗(憲宗の十三男、第19代皇帝)が皇帝となり、穆宗の実子である敬宗・文宗・武宗も皇帝となった。なお、中国仏教史上最悪の仏教弾圧である「会昌の破仏」は、この武宗によって引き起こされた。さて、その...『正法眼蔵』に見える「祖父」という言葉
ちょっと読んでいたら、意外な記載を見付けたので、記事にしておきたい。まず、タイトルにもある『大悲呪』とは、『大正蔵』では巻20に収録されている『千手千眼観世音菩薩広大円満無礙大悲心陀羅尼経』に入っている陀羅尼である。そこで、曹洞宗で同陀羅尼は、道元禅師の時代から用いられていた。米を択び菜を択ぶ等の時、行者諷経して竈公に回向せよ。いわゆる諷経とは、安楽行品・金剛般若・普門品・楞厳咒・大悲咒・金光明空品・永嘉証道歌・大潙警策・三祖信心銘等なり。随宜に諷経して竈公に回向するなり。回向に云く、上来某経を諷誦す。又云く、上来諷誦する功徳は、当山竈公真宰に回向す。法を護し人を安んずるものなり。十方三世一切諸仏、諸尊菩薩摩訶薩、摩訶般若波羅蜜。堪能の行者を請して、諷経頭と作せ。『永平寺知事清規』「典座」項以上の通りだが...曹洞宗の回向文に於ける『大悲呪』の呼び方について
皆さま 今回は仏式の祈りの方法についてお話をいたします。 よろしくお付き合いくださいませ。Q.願望達成のための祈りとして、神、神社にお願いする方法をご教示いた…
今日は4月9日なので、「四苦」の話をしてみたい。ところで、明治期より前の日本仏教で、例えば釈尊の教えがどのように語られていたかを見ていくと、現在我々が知っているような様子では無いことが分かる。縁起説や四諦八正道などは、ハッキリ言ってほとんど無いと言って良い。結局の所、大乗仏教まで含めて釈尊の直説だと思われていたのだが、そうなると阿含教系の教えは、初心者、或いは声聞向けだと判断されて、大乗仏教国となった中国や日本で積極的に採り上げる理由が無かったのである。そのような意味で、「四苦」という用語について調べてみると、おそらく道元禅師は用いておられない。ただし、関連する概念が全く無いということではない。例えば、以下の一節はどうか?三乗一者声聞乗四諦によりて得道す。四諦といふは、苦諦・集諦・滅諦・道諦なり。これをき...四苦の話(令和6年度版)
ω・) ソーッ・・・ 皆さん、ご機嫌よろしゅうに。 今日4月4日は「花まつり」の日。3月3日はひな祭り、5月5日は端午の節句と、3~5月にかけて、三か月続けてのゾロ目の日には何かがある? ブッダ(釈迦)の誕生日と言われているのですが、同じ世界的大宗教の祖・イエスキ...
本日4月8日は三仏忌の一、釈尊降誕会(灌仏会・浴仏会・仏生会・花まつり)である。お釈迦様のお誕生日である。なお、江戸時代の様子については既に【4月の和名「卯月」に関する雑考】でも示したが、更に以下の一節も紹介しておきたい。〔八日〕釈迦誕生灌仏会賑ふ、寺院しるしつくしがたし、△諸人、門戸へ卯の花を挿す、薺草を行灯に掛て虫除とし、又蛇よけの歌を厠へ貼る、歌は諸人のしる所也、三田村鳶魚先生『江戸年中行事』中公文庫、380頁やはり、「卯の花」を門戸に挿すことは、江戸時代の流行だったことが分かる。その上で、虫除けや蛇除けをしたそうだが、後者の蛇除けが「厠(トイレ)」であることが、当時の現実を示しているように思う。釈尊の降誕会に、虫除けや蛇除けが行われた経緯が知りたいが、今のところは良く分からない。その上で、今年は簡...今日は釈尊降誕会(令和6年度版)
A001【お釈迦様との歓談①】仏教って何ですか?2021年公開24年3月29日追加更新上記写真は大英博物館の秘蔵お釈迦さまが41歳の時、祖国へ戻られた時父である王様が絵師に炭で描かせた絵。釈迦族滅亡前に洞窟に隠された。近代になりイギリスがインド占領時に発掘持ち帰ったもの現在は非公開。【お釈迦様との歓談①】仏教って何ですか?2021年公開24年3月29日追加更新阿山>仏教って何ですか?お釈迦様>世の道。世の中の道を示すものそれはしいては内なる仏、神と一体化する道でもあるし大いなる創造(神)に対して帰還していく道その道を学んでいくことである道を示すものそれが仏教だ多様化、多言語化し徐々に解釈も変わってきている厳しき修行の中で得たものそれを許したときの方が悟り全てを許されている存在として認めることができた道とい...【お釈迦様との歓談①】仏教って何ですか?
あーあ、なんで思い通りに生きるって、できないんだろう。嫌なことばかりだなあ。恋には敗れるし、嫌な同僚はいるし、争いはあるし、風邪引いて体調悪いし、・・・なーんて悩んでる人、いませんか?幸福の科学の大川隆法先生は、『信仰のすすめ』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。この世のなかを見渡してみると、不幸の種はあちこちにたくさんあるので、「これを取り除かないかぎり、幸福になれない」という考え方をし、不幸の種を完全に取り除いて極楽浄土の姿をこの世に下ろそうとしても、それは極めて難しいことです。しかしながら、「この世という世界は、そういうものである。この世には、闘争や破壊、憎しみ、嫉妬、恨み、狂気の世界がたくさんある。また、この世は弱肉強食の世界でもある。この世は、生きていくのがなかなか難しい世界なのだ」とい...生きてるのがいやになったときには?
「代受苦」という言葉がある。以下の一節などはどうか。仏の功徳をうけとりては衆生仏になり、衆生の罪をうけ取ては仏可堕獄、以大悲代受苦の條、尤不審也。『釈尊讃嘆説法詞』この一節は、仏教に於ける「罪業」論についても使えるので、色々と学ぶべき文脈だが、今回は「代受苦」について検討してみたい。つまり、仏と衆生との関係について、仏の功徳を受け取ると、衆生は仏に成るが、一方で、衆生の罪を受け取った仏は、地獄に落ちるという。それを「大悲を以て代わりて苦を受く」というが、それを「不審」だとしている。この文脈全体を語ると、逆に問題意識から離れてしまうので、まずはこの語句に注目したいが、典拠は以下の通りである。衆生若し名を聞けば、苦を離れて解脱を得、亦た地獄に遊戯するは、大悲もて代りて苦を受く。『請観世音菩薩消伏毒害陀羅尼呪経...「代受苦」のお話し
ちょっとした雑考であるが、もしかするとこれは、拙僧が禅宗の僧侶だからかもしれない。おそらく、一部の日蓮宗系の教団とかだと、この辺が信仰や教義上の生命線となり、必死になって議論している人もいることだろう。まぁ、拙僧どもは、その意味で禅天魔だから関係無いか。さて、初期曹洞宗教団の「本尊」について、ちょっとした考察をしてみたい(というか、先行研究が複数存在しているので、それらを読みたい人は、読まれると良いと思う)。まず、高祖道元禅師が自ら開かれた京都深草興聖寺と越前大仏寺(後の永平寺)について、以下の記述が知られる。聖節の看経といふ事あり。かれは、今上の聖誕の、仮令もし正月十五日なれば、先十二月十五日より、聖節の看経、はじまる。今日上堂なし。仏殿の釈迦仏のまへ、連床を二行にしく。いはゆる、東西にあひむかへて、お...初期曹洞宗教団の「本尊」に関する一考察
ゴータマ・ブッダが説く「わが教えにおいて禅定は真髄ではない。」アッサジ経 part③まとめ 相応部経典から 番外編[禅定について]
⇑ 前回の続きです。 今回は、「禅定を獲得できなかったことへの不行儀と後悔を釈尊へ告白する場面」のまとめになります。 アッサジ経 (Assaji-sutta) パーリ仏典 第三期5 相応部 蘊篇 蘊相応第九 長老の章 大蔵出版p436~ 受を知る(ゴータマ・ブッダ曰く) も...
一昨日の記事をアップした関係で、昨日も今日も記事の日付が後ろにずれてしまった。ということで、「清明」の記事を用意していたのだが、すっかり一日遅れになってしまった。二月末、若しくは三月初、三月の節日に入る、是の日、清明なり。皆な鎮防〈火〉燭を書いて、札に三宝印を行ず。日中諷経の次で、消災咒一遍を誦し、諸堂・諸寮の柱に押貼す。或いは大檀越并びに諸庵、及び諸檀越の舎に賦す。此の日、大国換火す。若しくは換火を鑽るには、楡・柳を用いるべし。楡を錐と為し、柳を台と為す。或いは柳を錐と為し、楡を台と為す。火、若しくは換うるが如きは、諸堂及び山中の諸庵、諸もろの小屋の火、皆な之を換うるべし。『瑩山清規』巻上「年中行事」以上の通り、曹洞宗の太祖・瑩山紹瑾禅師の頃には既に、「清明貼符」を行っていた。そもそも、清明には「鎮防火...昨日が清明だったとのこと
そういえば、4月3日の禅林行持といえば、「夏衆戒蝋牌草」を出すというのがあった。四月三日、必ず夏衆戒蝋牌草を出す。名づけて草単と称す。尚お戒蝋の次第を正さんと為すなり。式に云く、日本国加州山寺海衆の戒蝋、後の如し、陳如尊者堂頭和尚正元元戒某甲上座正應元戒某甲上座右、謹んで具呈す、若し誤錯有らば、各おの指揮を請う。謹んで状、元亨四年四月三日堂司比丘〈某甲〉拝状三日の粥罷自り、放参了りまで出して、之を収む。此の如く三日間、出入の後、収め置くなり。若し衆の指揮有らば、其れに随いて牌上に載定す。『瑩山清規』巻上「年中行事」まず、上記の一節は何かというと、禅林の安居に於いては、「戒臘(出家得度してからの年数)」で僧侶の順番を定めたので、その順番を書いた下書き(夏衆戒蝋牌草)を4月3日に出して、安居のために集まってき...4月初頭の禅林行持について
一昨日から4月になっている。4月の和名といえば「卯月」が知られるが、以下のような命名理由だったらしい。◎四月和名を卯月と云、卯の花さかりにひらくるゆへに、卯の花月といふを略せりと、奥義抄に見へたり。三田村鳶魚先生『江戸年中行事』中公文庫・40頁もう、『奥義抄』を典拠にするのは、確定なんだな。なお、同書については【「長月」一考】をご覧いただければと思う。さて、「卯月」の語源は「卯の花」らしい。そういえば、「卯の花」って何だ?多分、見たことはあると思うが、拙僧の乏しい知識では、「これが卯の花」という理解は出来ていないように思う。調べたところ、或る会社のホームページが詳しかったので、紹介しておきたい。・卯月の語源となった「ウツギ(ウノハナ)」(養命酒)生薬の説明として、「ウノハナ」の紹介があり、「ウツギ(卯木・...4月の和名「卯月」に関する雑考
以下の一節をご覧いただきたい。此ゆへに若仏道を修行せんと思はん人は、ゆめゆめ方便の道に入事なかれ、いたづらにらうして功ある事有べからず、直に円頓の法門に入ば、ちからをついやさずして、すみやかに本覚にいたるべし『永平和尚業識図』「遺教に依りて仏乗を論ずる篇第七」このように、仏道修行に入ろうと思う場合は、方便の道に入ったところで、無駄に苦労するだけであるため、直に円頓の法門に入り、力も入れずに、速やかに「本覚」へ到るべきだという。つまり、自らが生まれながらに具えている仏陀の悟りを否定しなければ、修行などを経ずとも良いのである。・・・まぁ、今日は4月1日でエイプリルフールなので、注意喚起も含めて記事を書いているのだが、本書は道元禅師に仮託されてしまった偽書である。詳細は、上掲の拙Wikiをご覧いただければと思う...道元禅師が示された本覚思想?
『浄土布薩式』「大科第七 問遮」⑦(『浄土布薩式』参究15)
ここ数回『浄土布薩式』の本文を学んでいる。当作法は、冒頭で布薩の日程を出した後で、実際の作法に入っていくのだが、今回は「大科第七」の項目を学んでいきたい。ところで、「問遮(遮を問う)」というタイトルだが、本来であれば、菩薩戒を受ける資格について問う内容となっている。しかし、本書ではどうか?なお、以前の記事で既に「七遮戒(七定業)」について議論することは確認しており、今はその一々の項目について学んでいる。大科第七問遮(続き)六には、羯磨転法輪僧を破るや、否や。答えて曰く、否なり。私に云く、羯磨転法輪僧と云うは、転は能説の語なり。法輪と云うは、所説の法なり。或いは口説、或いは身説、機に随て皆証益を蒙る、既に説法して、他をして得益せしむる僧、之を殺すの罪は、仏の生身を殺すに同じ、豈に此の罪、輙く滅せんや。若し其...『浄土布薩式』「大科第七問遮」⑦(『浄土布薩式』参究15)
前回までの記事などを受けつつ、江戸時代末期の国学者・平田篤胤(1776~1843)の『出定笑語』を読んでいたら、釈尊の親族で、その弟子になった者達について言及していたので、確認しておきたい。さて此とき浄飯王は国中のすぐれたる者百五人を撰み沙門となし、又迦葉らが有状を見る所が至て形が陋げに見へて、釈迦が夫らを従へておつては尊げにみへぬとて、我親族の内からうるわしき者を撰み釈迦の弟子につけたとも有でござる。『平田先生講説出定笑語(外三篇)』72頁これはまず、釈尊にとって最初の弟子となった五比丘についての話題かと思いきや、そうではなかったようだ。釈尊の実父である浄飯王が沙門として選んだのは「105人」だったとあるのだが、典拠は良く分からない。ただ、近いのかな?と思われる文脈としては、以下の一節を見出した。仏、初...釈尊の親族の弟子の話①(拝啓平田篤胤先生37)
「第一官律名義弁」其二十二(釈雲照律師『緇門正儀』を学ぶ・22)
ということで、もう10回以上、釈雲照律師『緇門正儀』の「第一官律名義弁」の内容を見ている。なお、これは【1回目の記事】でも採り上げたように、「今略して、僧に位官を賜ひし和漢の官名、職名及び初例を挙示せん」とあって、職名の意味というよりは、任命された最初の事例を挙げることを目的としているようである。よって、この連載では、本書の内容を見つつ、各役職の意義については、当方で調べて、学びとしたい。現在は日本の役職となっている。それで、前々回の記事では奈良時代の制定された僧侶への位階である【四位十三階】を論じたのだが、詳細を『緇門正儀』で載せている内容から検討してみたい。一修行位〈又、伝灯無位と称す〉八位相当一誦持位一伝灯入位六位相当一伝灯住位六位相当一伝灯満位五位相当已下を三階と謂う一伝灯法師位四位相当一伝灯大法...「第一官律名義弁」其二十二(釈雲照律師『緇門正儀』を学ぶ・22)
道元禅師の会下にいた、達磨宗の懐鑑首座が、先師である仏地覚晏道人のために上堂を請したことがあった。以下の通りである。懐鑑首座、先師覚晏道人の為に上堂を請す。拈香罷、座に就いて払子を取って云く「前来の孝順、誰人か斉肩ならん。今日の廻向、聖霊炳鑑すべし。弟子が先師を仰ぐの深き志、先師独り知る。先師、弟子を憐れむの慈悲、弟子一り識る。余人焉ぞ知らん、外人未だ及ばず。所以に道う、『有心もって知るべからず、無心もって得るべからず、修証もって到るべからず、神通もって測るべからず』と。這田地に到って如何が商量せん」。卓、拄杖して云く「唯、拄杖有って了々常に知るのみ。拄杖甚と為てか了々常知するや。職として、過去の諸仏も也、恁麼、現在の諸仏も也、恁麼、未来の諸仏も也、恁麼。然も是の如くなりと雖も、這箇は是、仏祖辺の事、作麼...道元禅師の覚晏道人への上堂は「宣疏」だったのか?
「宗教は非科学的だからインチキだ」と折伏でこのように反論されたことがある人は多いと思う。死後の世界や生命の連続性(過去世や来世)は科学的に証明されていない。つまり非科学的であるから否定する。ありがちな対話だけど私はむしろ科学的に証明されていない事象をインチキと否定する思考こそが科学を否定する「否科学的」な思考だと思います。フランスの学者で「最後の万能学者」と呼ばれたポアンカレはその著書(『科学と仮説』)の中で「科学とは、自然の真理なんてものではなく、観察結果を上手に説明できたり、再現させるのに使いやすい約束事に過ぎないのだ」と語り「科学の99.9%なんて仮説に過ぎない」と主張しています。私もこ…
道元禅師も『永平広録』巻3-197上堂で引用されている一句に「其の師を観んと欲せば、先ず弟子を観よ」というのがある。これは、元々雲門宗の派祖である雲門文偃禅師(864~949)の言葉(『雲門広録』に初出)であるとされ、禅宗特有の考え方と言ってしまえばそれまでだが、しかし、この考え方からすると目に余る発言が、最近ネット上で多いような気もする。それは、自ら会得してもいないのに、自分の師の言葉をネット上で開陳することである。別に、特定の宗派などに限定された話ではないが、真剣に学ぼうとする方であればあるほど、そのような傾向にある気がする。まぁ、全てが悪いというつもりはないが、しかし、その自分の言葉によって自分だけではなく師まで一緒に観られているという自覚に乏しいような気がする。これは、例えば師の言葉だけを引いて、...その師を観るには先ず弟子を観よ
坐禅終了時の鳴鐘について、どうも2つの呼び方がある気がしていた。拙僧は以前、「抽解鐘」という名称を聞いていた気がするのだが、他に「放禅鐘」という言い方をしている人もいる。そう思っていたら、経行終了時と坐禅終了時とで名称が違うという表現をしていた人もいた気がするのだが、どうなんだろうか?この辺、決まっているのかな?と思い調べてみたら、結果は以下の通りであった。・「抽解鐘」経行または坐禅を終る時、小鐘一声。『昭和改訂曹洞宗行持軌範』339頁昭和27年の『昭和改訂』本では経行と坐禅の両方ともで、終了時の「小鐘一声」を「抽解鐘」だとしている。拙僧が最初に聞いていた名称はここが典拠となっている。だが、これがこうなった。・「放禅鐘」経行又は坐禅を終るとき、小鐘一声。『昭和訂補曹洞宗行持軌範』394頁鳴鐘法としては全く...坐禅終了時の鳴鐘の名称について
早くあったかくなんないかなぁー!いまだにエアコンとグラファイトヒーターがフル稼働なんですけど!窓から見えるよそんちの桜は一つも咲いてないぞ。こんななのに地元では桜まつりをすでに開催しているらしいけど
ブログを読んで頂き、ありがとうございます。今回は親鸞について、解説記事を作成してみたいと思います。よかったら、読んでみてください。 序章:驚きと発見の旅へ日本…
【『彼岸弁疑』を学ぶ④】の続きである。龍樹菩薩天正験記曰く、欲界六欲天の中央、夜摩天と兜卒天との中に、大城有て名て中陽院と曰ふ。中に高楼閣有り、雲処台と号す。此の院内、年二八月七箇日の間、色界の頂、摩醯首羅天尊を上首と為し、八神并に大梵天王大歳神乃至玉女道祖等の人中天上の冥官冥衆集会して、一切善悪を註す。天尊、教勅を降し、八神三巻の勘帳を持し、三複八挍〈愚註云云、今之を略す〉して、天尊に献る。天尊覧了て、善帳を証ん為めには、宝印を指して、悪帳を証ん為めには、縛印を指す。処中の善を証ん為めには、非宝非縛の印を指す。彼の八神は、帝釈と閻王と天大将軍と、天一と、行役と、司命と、司録と、倶生の神也。問、彼の天尊、何由有て、二八月を以て、天の正勅を降し、天地神を召すや。答、阿迦尼吒天の自在尊所居の宮殿の前に、高樹有...『彼岸弁疑』を学ぶ⑤(令和6年春彼岸会6)
ブログを読んで頂き、ありがとうございます。今回は空海について、解説記事を作成してみたいと思います。よかったら、読んでみてください。過去の最澄についての記事も、…
先日の菩提寺で取り行われた彼岸会の法要に妻と一緒に参詣してきました。一昨年の11月に御授戒を受けた妻ですが今回が昨年亡くなった私の母の法要を除けば初めての寺院参詣でした。昨年は私の母だけなく妻の父も亡くなり今回の彼岸では妻が自分で父親の塔婆供養をしました。そして「せっかく塔婆を立てたのだからお寺の法要に一緒に行く?」と誘ったところ「たまには行ってみる」と一緒に参詣することになりました。これまで御登山や寺院に誘っても断られていたので正直彼岸会に一緒に行くとは思ってなくていい意味で予想を裏切られました。勤行はできないし(経本を黙読するだけ)唱題も恥ずかしいのか少ししかしませんでしたが、それでも自分…
【『彼岸弁疑』を学ぶ③】の続きである。一彼岸、二八月七日に限るの説善住陀羅尼経に云く、帝釈天の住処〈忉利天〉に樹有り、善住陀羅尼樹と名く、其木華菓倶に衆生の善悪を顕す、月の八日には使者を下し、十四日には太子を下し、十五日には自ら下る。所引龍蔵目録に見へず、但し倶舎世間品等に所謂須弥山頂上忉利天善見城東北の角に円生樹有り、西南の角に善法堂有り、三十三天此に集会して如法不如法等の事を評論すと云云、誤て此等の説を云ふなるべし、華菓の義明す所なし、月八日等は白月の三斎日なり、黒月を加て六斎日なるべし、十二月惣て尓なり、今の所用に非ず、何ぞ彼岸の証とするに足んや。『彼岸弁疑』巻上・2丁裏~3丁表、カナをかなにするなど見易く改めるそれにしても、『善住陀羅尼経』の件だが、とにかく典拠不明。よって、『彼岸弁疑』の著者も『...『彼岸弁疑』を学ぶ④(令和6年春彼岸会5)
昨日は、あの地下鉄サリン事件の日だったんだよね。犯人だったオウム教の教祖って、じつは悟ったりしてなかったの?なーんて疑問をいまだにもってる人、いませんか?幸福の科学の大川隆法先生は、『麻原彰晃の霊言──オウム事件の「本当の動機」と「宗教的けじめ」』(幸福の科学出版)のあとがきで、次のように説いておられます。私ともう一人のチャネラーに入れて霊言させてみて、麻原が、何らの悟りも得ておらず、「オウム事件」に対しても何ら反省していないことが明らかになった。この後、彼は地獄の最深部にある「無間地獄」という、絶対隔離の世界に赴くことになるだろう。「オウム事件」が、日本の宗教界に激震を走らせて、日本人の宗教嫌いに拍車をかけた事実は否めない。結果的には、日本という国を、中国のような無神論・唯物論の宗教弾圧国家に近づけたこ...オウム教の教祖って?
春の彼岸会の御中日も過ぎたが、残り3日【『彼岸弁疑』を学ぶ②】の続きを学んでいきたい。諸廻向宝鑑に云く、問て曰く、彼岸と言ふ者、如何なる義なり乎。答て曰く、二季彼岸と言ふこと、此の節に臨で仏道修行を勤め、娑婆此岸を離れ、煩悩愛欲苦海中流を過渡して、涅槃常楽の彼岸に到着すと云ふ義也。故に、次第禅門云く、生死を此岸と為し、涅槃を彼岸と為す。煩悩を中流と為し、菩薩無相智慧を以て、禅定の舟𦨞に乗り、生死此岸従り涅槃彼岸に到る。刊定記に云く、生死を此岸と為し、有情居するが故、煩悩を中流と為し、最も渡り難が故に、涅槃を彼岸と為し、諸仏住するが故に〈已上〉。夫れ二季彼岸と云は、世間有為の時節に約して論ず。出世無漏到彼岸の義とは、遥に雲泥を隔たり能譬所譬等の弁へ無く雑乱の失あり、能思察すべし。『彼岸弁疑』巻上・2丁表~裏...『彼岸弁疑』を学ぶ③(令和6年春彼岸会4)
今日は春の彼岸会の御中日である。ところで、現在用いられている新暦での「春分の日」は、毎年大体これくらいの日付になるが、旧暦の場合は以下の通りであった。・旧暦の春分:2月中(2月後半)・旧暦の秋分:8月中(8月後半)現代は、太陽暦であるので、春分も秋分も毎年にそれほど大きな日付のズレは起きないそうだが、旧暦の「太陰太陽暦」の場合、数日から10日以上のズレも起きたそうである。これは、毎月の日付を月に合わせており、年単位で太陽との関係によるズレを解消していくため、当然というべきか。さて、今日は御中日であるので、簡単に彼岸会の説法などを見ていきたいと思うのだが、おそらく、曹洞宗関係者で、最初に彼岸会を論じられたのは、高田道見先生による『彼岸の由来』(国母社・1895年)であったと思われる。これは、同書冒頭にも書い...春の彼岸会御中日(令和6年版)