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娑婆に出ました。(退院しました)子宮全摘出で入院中に読んだ本。
本日、午前中に退院しました! 空がとっても青くて、お日様も眩しくて。そして思った以上に暑くて🥵 ちなみに、手術費と入院費は、病理検査の結果が出てからこの検査費と合算で請求されるそうなので、本日は支
ゴータマ・ブッダが説く「色(物質、容姿)の楽味とは何か?」四聖諦を理解するために。「苦Dukkhaドゥッカ」の意味とは?大苦蘊経 PART10[次第説法43 色(物質、容姿)の楽味]
↑前回の続きです。 今までは↓ 一方に坐ったポッカラサーティ・バラモンに、世尊は、順々の話[次第説法]をされた。 すなわち、布施の話、戒の話、天の話、もろもろの欲望における危難、卑劣・汚れを、離欲における功徳を説明された。 世尊は、ポッカラサーティ・バラモンが従順な心になり...
「第一官律名義弁」其十六(釈雲照律師『緇門正儀』を学ぶ・16)
ということで、もう10回以上、釈雲照律師『緇門正儀』の「第一官律名義弁」の内容を見ている。なお、これは【1回目の記事】でも採り上げたように、「今略して、僧に位官を賜ひし和漢の官名、職名及び初例を挙示せん」とあって、職名の意味というよりは、任命された最初の事例を挙げることを目的としているようである。よって、この連載では、本書の内容を見つつ、各役職の意義については、当方で調べて、学びとしたい。なお、前回までは『大宋僧史略』を典拠に、中国での事例を検討していたが、今回からは日本となるようである。よって、登場する人物名は、日本史などで見たことがある人かもしれないので、読者諸賢にとっては中国仏教の記事より親しみやすいだろうか。一、三宝棟梁推古天皇三年五月丁卯、高麗僧・慧慈、帰化す、則ち皇太子、之を師とす。是の歳、百...「第一官律名義弁」其十六(釈雲照律師『緇門正儀』を学ぶ・16)
今日は秋分の日。二十四節気は秋分となりました。秋分の初候は雷乃収声。(かみなりすなわちこえをおさむ)夏の間ゴロゴロ鳴っていた雷がおさまる頃です。雷雲、入道雲…
ところで、曹洞宗の彼岸会について調べてみると、意外と資料的には少ない。明治時代に入ってからは、以下の文脈などから知られる。彼岸会の事は諸清規に見る処なし。故に本規も亦之を掲載せず。然れども朝廷已に春分秋分を以て皇霊祭を修し玉ふことなれば、僧侶は無論、旧慣に拠て二期の彼岸に臨時の法会を営み、開山世代及び檀越の亡霊を普同供養し、且つ毎日説教を修して可なり。「春秋二季彼岸会」、『洞上行持軌範』「年分行持」項ただし、冒頭であるように、「諸清規」に見るところはないわけである。明治時代に入り、国が「皇霊祭」を行うようになってから、この時期に儀礼を行うことに対し、積極的になったと思われるわけである。そんな中、以前【『彼岸之弁』参究】で採り上げた『彼岸之弁』については、江戸時代に曹洞宗関係者によって学ばれた彼岸会に関する...彼岸会の話(令和5年度・秋の彼岸会)
『彼岸之弁』の連載が終わったので、残り2日は、関連する事柄を学んでみたい。よって、かつての彼岸会の様子を探るために、『江戸年中行事』(三田村鳶魚編・朝倉治彦校訂、中公文庫・昭和56年)に基づいて、記事を書いておきたい。本書には全部で15編の江戸における年中行事に関する文献が収録されている。それを見ていると、「彼岸会(ひがん)」に関する記述があることが分かったので、関連する文脈のみを抜き出し、備忘としておきたい。なお、この15編の文献だが、元禄3年(1690)から、安永6年(1859)までに開版(刊行)されたものであり、江戸時代のごく初期はやや不明瞭ながら(とはいえ、都市としての江戸を造営中であり、記録されるまでも無かろう)、江戸時代中期から末期にかけてよく知られるものといえる。それから、確認しておくが、今...江戸時代の彼岸会の様子(令和5年度・秋の彼岸会)
今日は秋の彼岸会5日目である。そこで、早速ではあるが、彼岸会について検討したいと思っている。ところで、今回紹介している『彼岸之弁』という文章なのだが、いよいよ彼岸期間中に天上界で何が行われているか、理解が進んできた。今日も読み進め、中世から近世にかけての彼岸に因む世界観を学んでみたい。彼の天の須臾の間は下界の七日にあたる。故にせめて其の魔王が、状を納めらるヽ間でも、善を作す心を七日と定め、たのもしや。又、人間五十年を以て下天の昼夜に当るとあれば、上天の夜魔王都卒天は人間の四百年を以て一日一夜とあれば、彼の諸天善神の一須臾の間、寄集りて衆生の善悪に業を三復八校し玉ふ為なりとも、悪を断じ善を修せよと定め勧善懲悪の道を教示せられしは、仏世尊を始、龍樹菩薩及び善導大師并和朝聖徳太子の貴訓あれば、如是に島々遠国のは...『彼岸之弁』参究5(令和5年度・秋の彼岸会)
四苦、である。 生まれ(生きて)、老いて、病気になって、死んでゆく。この四苦が人生である、とブッダは云ったそうな。 仏教(親鸞でも法然でもなく、ブッダの仏教)を、虚無、となぞらえる人もある。哲学、という人もいる。 何にしても、この四苦はあ
今日は秋の彼岸会4日目である。いわゆるお中日である。そこで、早速ではあるが、彼岸会について検討したいと思っている。ところで、今回紹介している『彼岸之弁』という文章なのだが、いよいよ彼岸期間中に天上界で何が行われているか、理解が進んできた。今日も読み進め、中世から近世にかけての彼岸に因む世界観を学んでみたい。然るに炎王に二人の冥官あり。一人を龍行人と云へり。一人を夜叉神と名く。刹那の間に世界を廻り、其の所々の善悪を造る者を、一々告げしらすとあり。此の二人も十王十体も心の外になし。善性・悪性の二人より、十悪十人の目付出る也。是れを三鬼七鬼と云ふ。合して十体なり。扨、又、司名司録神と云有て、筆を染て善人をば金札に付け、悪人をば鉄札に付、無記性のものを非宝非博印とて、金鉄和合の帳札に付、其れを三復八校と云ふて、三...『彼岸之弁』参究4(令和5年度・秋の彼岸会)
さてさて…「一向に」という言葉は…一向に涼しくならないとか、一向に改善されないとか… 否定的な意味で使われるけれど… 一向一揆の一向宗は…南無阿弥陀仏の念仏…
「宗教は人間の妄想を商品化しているだけです。」と、その老師は言いました。あ、老子じゃなくて、老師、ね。その老師とは、テーラワーダ仏教を、日本に伝えた人。摩訶不思議を遠ざけ、大乗仏教の妄想を打ち砕き、ありのままに生きることを説く、本来の仏陀釈尊の教えは、お
今日は秋の彼岸会3日目である。そこで、早速ではあるが、彼岸会について検討したいと思っている。ところで、今回紹介している『彼岸之弁』という文章なのだが、いよいよ彼岸期間中に天上界で何が行われているか、理解が進んできた。今日も読み進め、中世から近世にかけての彼岸に因む世界観を学んでみたい。亦、有る経に曰、「浄土を欲すれば先ず須く其の心を清むべし。其の心浄なれば浄土なり」とあれば、是れにてもすべて、仏説は因縁咄しの内に眼を高く著けて看よ。咸く文字の外に仏智見の道理あり。又、仏の密意、開示悟入の近道有ることを知るべし。惣て人間の生るヽより死する迄、両の肩に倶生神と云ふて、二人の冥官あり。一人を日生界と名けて左の肩にあり。一人を日名男と名けて右の肩にあり。二人共に其の人の生の善悪を記すとあり。然るに日生界は悪を(※...『彼岸之弁』参究3(令和5年度・秋の彼岸会)
今日は秋の彼岸会2日目である。早速ではあるが、彼岸会について検討したいと思っている。ところで、昨日から紹介している『志妄想分別集』という写本なのだが、一文字目について「想」ではないか?とのご指摘をいただいた。確かに、単独で見れば「志」よりも「想」に近い気もするが、3文字目の「想」とは明らかに形が違う。とっても悩ましい・・・もし、『想妄想分別集』であれば、「妄想分別を想う」と訓ずることが出来ると思う。そこで、全5回の内、2回目として『彼岸之弁』を検討していきたい。両経中には彼岸と云事を天正とも説てあり。如何となれば、天正樹と云木によりて人の善悪を知る故ひなり。又た、時正とも説てあり、其の訳如何となれば、時正文字はときただしし書なり。此の意にて春秋彼岸のころは、昼と夜とちゃうと等分にして、時の長短なく、又、寒...『彼岸之弁』参究2(令和5年度・秋の彼岸会)
今日から秋の彼岸会である。早速ではあるが、彼岸会について検討したいと思っている。ひょんな事から、拙僧は『志妄想分別集』という写本を入手した。紙質・筆致などから、江戸時代後期のものと思われ、収録される文章の数々から、曹洞宗系の人の筆者であると思われる。題名について、本来宗門は「第一義」を志す宗派のはずだが、敢えて、それ以外の供養や軌範などをまとめたものという意味で、「妄想分別を志(こころざし、ではなくて、書き記すの意)して集める」という題名になっていると思われる。草書体で書かれる一字目について、拙僧も何度か「莫」ではないか?と思ったが、どうやってもそちらでは読めないので、諦めて先に挙げたような解釈を施したわけである。さて、本写本の冒頭に『彼岸之弁』という一章が見られる。おそらくは、誰かの法語などを写したもの...『彼岸之弁』参究1(令和5年度・秋の彼岸会)
我々が檀信徒法要などで主に読誦する場合が多い『修証義』について、以下のような文脈がある。彼の三時の悪業報必ず感ずべしと雖も、懺悔するが如きは重きを転じて軽受せしむ、又滅罪清浄ならしむるなり。「第二章懺悔滅罪」今日問題にしたいのは、この「軽受」の読み方である。我々が習った読み方だとこれは「きょうじゅ」と読むべきだということであった。ところが、近年、同語を「けいじゅ」と読む人が増えてきているように思う。これはどういうことなのだろうか?そこで、何が正しい読み方なのかを、調べてみることにした。まず、宗門の公式見解、要するに、出版部で出している経本の読み方をチェックしてみようと思う。まずは、『曹洞宗日課勤行聖典』や、檀信徒に配布する場合が多い『洋本修証義』では、みな「きょうじゅ」とルビが振られている。流石にこのルビ...「軽受」の読み方について
21世紀に入り、脳を開いたり電極を入れたりしなくても、どのように働いているかが分かってきた。これから後期高齢者に向かう私にとって、たいへん参考となる知見も多い。すでに薄々想像がついたことではあったが、魂はなく幽霊もいない。そして、「自意識」とか「感情」も脳や体と別々にあるものではなく、その方が生存に有利だから、脳がそのようにモデルを作ってシミュレーションしているに過ぎない。だから、「五感」とか「喜怒...
今日は敬老の日である。拙僧が生まれた頃は、9月15日に固定されていたが、2003年から9月第3月曜日に移動となった。それで、今年は今日である。敬老について、これは禅宗でいうところと、一般世間でいうところの意味は異なっている。例えば、禅宗には「長老」という言葉がある。無論、原始仏教からあったようだが、我々の定義は「凡そ道眼を具え、尊するべきの徳有るは、号して長老と曰う。西域の道高く臘長きを須菩提等と呼ぶ等の謂いが如くなり」(『禅門規式』)というものであるが、要するに年齢よりも、仏道修行者としての境涯などを問われているのである。よって、禅門に於いて「敬老」というのは、仏道修行の貴き様を敬うことになる。その前提を元に、以下の一節を参究していきたい。雪峰いはく、老僧罪過。いはゆるは、あしくいひにける、といふにも、...今日は敬老の日(令和5年度版)
これまで、大内青巒居士について、何度か論文を書いたことがあったのだが、気付かなかった一節を見出した。いや、その本自体は読んでいたので、単純にこのことに関心が及ばなかった、ということだろう。それは、次の一節である。明治十七年十一月東京絶江の露堂に於て菩薩戒弟子藹々居士大内青巒謹識大内青巒編『曹洞宗両祖伝略』鴻盟社・明治17年このように、青巒居士自身は自称の中に、「菩薩戒弟子」と入れ込んでいる。そうなると、この段階で受戒していたことを意味している。問題は、戒師が誰だったのか?ということと、いつ頃の受戒だったのか?ということが気になった。それで、結論からいうと、良く分からなかった。例えば、この署名について、この後の文献も使い続けているのなら、その前の受戒という理解が可能だが、どうも、前の著作でも後の著作でも、こ...大内青巒居士は誰から受戒したのか?
これは、有名な事績なのだろうか?一諸国寺数五十四万千九百八十九ヶ寺「享保十九年甲寅五月改」、『吹塵録』巻下・第三十二冊「社寺之部」この『吹塵録』だが、勝海舟による編集で、江戸幕府の財政経済に関する史料集となっている。かなり大部で、全体では35冊となっている。編集の経緯は、明治20年(1887)に、当時の大蔵大臣・松方正義が依頼し、しかも、政府が費用負担することで、勝海舟が明治維新前から収集した史料が元になって、幕府の公文や法令、私記・談話・随筆などを集めて採用史料に考証を加えたものとされる。この内、幕府勘定所の史料から、各時代の人口・財政収支・貨幣鋳造高・金銀産出高・貿易輸入高などが明らかになっていることが、貴重だといえよう。そして、その内、「社寺之部」から幕府が把握していた寺院数を示してみたのだが、数字...『吹塵録』に見える江戸時代の仏教寺院数について
今日は「宇宙の日」らしい。・「宇宙の日」とはどういう日ですか?(ファン!ファン!JAXA!)よし、ということで、「宇宙」と仏教に因む記事を書いてみよう。雲門衆に示して云く、乾坤の内、宇宙の間、中に一宝有り、形山に秘在す。灯籠を拈じて仏殿裏に向かい、三門を将て灯籠上に来たる。師云く、雲門、他家の旧物を将て人情を為すなり。灯籠・仏殿、相ひ唱和して云く、不知不知、何を以てか、昨日は是、今日は非、吾れ閑暇無し、と。「雲門秘在形山」則、指月慧印禅師『拈評三百則不能語』巻下、38丁裏こちらは、道元禅師が編集された『真字正法眼蔵』を元に、江戸時代の学僧・指月慧印禅師(1689~1764)が本則として拈じ、評唱したものである。なお、道元禅師は『真字正法眼蔵』で集めた各本則は、『正法眼蔵』『永平広録』などで引用したりはされ...今日は「宇宙の日」らしい(令和5年度版)
ちょっと、必要があって中国律宗の道宣(596~667)が書いた『教誡新学比丘行護律儀(以下『教誡律儀』と略記)』を読んでいたが、入浴法に気になる記述を見つけた。予め申し上げておくが、ちょっと汚い話ですので、特に食事時にご覧にはならないようにご注意いただきたい。さて、『教誡律儀』には「入温室法」が十六條にわたって示されており、浴室に行って入浴するまでの規則が簡単に書かれている。その中に、気になるお話しが・・・入温室法第十六〈十六條〉一、威儀を具し坐具を持つ。二、尊宿未だ浴せざれば先に浴することを得ざれ。三、要らず須らく瓶を持つべし。四、手を垂れて瓶を把ることを得ざれ。五、当に手を揖して瓶を把るべし。六、大已五夏の人と共に同じく浴することを得ざれ。七、初め衣を脱ぎ将に袈裟をもちて余衣の下に在くことを得ざれ。八...お風呂とトイレの混同禁止
今日は9月10日、語呂合わせで「弓(9)道(10)の日」らしい。弓道って、全国組織があったのか?と思って調べたら、大阪にある有限会社猪飼弓具店という会社の代表取締役の方が定めたらしい。・弓道の日(有限会社猪飼弓具店)それで、弓道と聞くと思い出すことがある。ゆえいかんとなれば、菩提心をおこし、仏道修行におもむくのちよりは、難行をねんごろにおこなふとき、おこなふといへども百行に一当なし。しかあれども、或従知識・或従経巻して、やうやくあたることをうるなり。いまの一当は、むかしの百不当のちからなり、百不当の一老なり。聞教・修道・得証、みなかくのごとし。きのふの説心説性は百不当なりといへども、きのふの説心説性の百不当、たちまちに今日の一当なり。行仏道の初心のとき、未練にして通達せざればとて、仏道をすてて余道をへて仏...今日は「弓道の日」(令和5年度版)
今日9月9日は五節句の一、重陽の節句(重九の拙句、菊の節句)である。9という数字は、陽の数字とされるが、それが重なるから、重陽と呼称する。陰陽説に従い、中国では丘に登る行楽行事が行われたりしたが、日本では、奈良時代の頃から菊を観賞したことで知られる。そして、8日の晩に菊の花に綿をかぶせ、9日の朝に菊の水を吸った綿で顔をふいて浄め、美顔を目指したともされる。今日は、この「重陽」に因んだ、禅僧の説法を見ていきたいと思う。重陽の上堂。重陽黄菊、金綻びて新たなり。一掬秋香冷神に入る。雲天雁の陣南山の頂。誰ぞ在らん東籬感興の人。感興は且らく置く。臨済の三玄三要、還た会得すや、也、無しや。若し会得すれば今晨、旧に依って是れ重陽。其れ或いは未だ然らざれば、汾陽の句偈を挙して注脚しもて去くなり。三玄三要の事分かち難し〈鉄...今日は重陽の節句(令和5年度版)
この本では日常のイライラやストレスから自由になるためのノウハウを仏道(仏教ではない)の教えを通して、やさしく、やわらかく教えてくれます。自分を大事にしすぎる人たち自分のことばかりしゃべる人、人に対して上から目線で否定する人、不幸自慢をする人
先日アップした【「三防心離過貪等為宗」について】の続きとして、簡単な記事を一本書いておきたい。先の記事の末尾で、もともと「五観の偈」は黙然・観法していたのであり、口称していたものではないという指摘をした。それに関してSNS上でご質問を頂いたので、関連した記事をアップしておきたい。そもそも、唱えていなかった、というのは、以下の文脈から理解出来る。合掌して食に揖す。次に五観を作す〈一計功多少量彼来処。二忖己徳行全欠応供。三防心離過貪等為宗。四正事良薬為療形枯。五為成道故応受此食也〉。然る後に出生す(未だ五観を作さざれば己が食分に非ず。出生することを得ざれ)。偈に云く〈汝等鬼神衆。我今施汝供。此食遍十方。一切鬼神共〉。『禅苑清規』巻1(1103年成立)「赴粥飯」良くご覧頂くと、「五観」については「作す」となって...観法としての「五観の偈」について
旧暦9月の別名を「長月」という。その由来について、以下のような説明が知られている。◎九月和名と長月と云は、夜やうやうながきゆへに夜長月といふ略せるよし、奥義抄にしるせり。「江府年行事」、三田村鳶魚編『江戸年中行事』中公文庫・昭和56年、50頁以上である。確かに、かつて夏至は旧暦5月であり、そこから4ヶ月が過ぎつつあるわけで、9月は夜の長さが理解される季節であったため、「夜長月」となり、そこから「長月」が生まれたとされている。ところで、「江府年行事」の作者は、その見解を『奥義抄』という文献から得たとしている。この『奥義抄(または、奥儀抄)』とは、平安時代後期の歌学書で、藤原清輔の著である。全3巻で、天治元年(1124)~天養元年(1144)の間に成立し、崇徳天皇に献上された後も増補されたという(そのため、各...「長月」一考
以前、【「暫到」考】という記事を書いたのだが、その際、「暫到」という用語について、どうも近現代で用いられた意味とずれている印象を得た。その後、近現代の用法の典拠となったと思われる文脈を見出したので、確認しておきたい。掛搭願ふ雲水、結夏は三月末、結冬は九月末に来錫す、先づ旦過寮に包を卸し、威儀を具し、知客寮の行者に通覆し、知客に拝し、次に住持に拝謁は、侍者に通じ、允を得て、知客引て、方丈に詣で拝す、茶話了て、旦過に休す、これは乍入の拝なり、次に掛搭を願ふは、再び知客に啓す、知客より知事等に通じ、生処来歴を詢問して、住持に白し、許を得て、安下の所に休息せしむ、この間を暫到と云、大掛搭の日定りて、久参僧を一人参頭とす、参頭、夏前の掛搭僧をみな領し、先づ知客寮に到て、門の右に列して、参頭白して云く、暫到相看と、知...「暫到」考其二
江戸時代に面山瑞方禅師が当時の永平寺40世・大虚喝玄禅師に招かれて拝登した際の記録が『傘松日記』である。面山禅師が当代随一の学僧であったことは間違いないが、大虚禅師もまた、特に宗門の戒学について第一人者であった。そのため、お二人の議論などは、後代の我々にとっても非常に益となる。今日は、その一つとして、以下の一節を見ておきたい。二十四日、方丈に上って喫粥し、退く。〈中略〉粥後、方丈従り命有り、「威儀を具えて、来られたし」と。余、即ち盥薫して衣を整えて、上る。即ち命じて侍者を室外に出だし、戸を闔づ。預め拝席一枚を展べ、炉を装う。即ち黒漆の筐を開き、法衣を出だし、「是れ乃ち吾が祖、昔著ける所の大衣なり。袱子、福井城主の祖母・長松院瑞嶺玄祥大姉の施す所の其の様、古風にして、今の世に無き所なり」と。法衣、象鼻の九条...面山瑞方禅師『傘松日記』に見られる道元禅師の御袈裟について
司法書士・行政書士の山口です。 相続(そうぞく)。一般的には「個人の権利(財産)・義務(借金)を受け継ぐ」。相続にはこうしたイメージがあると思います。 なぜ、…
拙僧の手元に、『〈密宗必須〉三聚戒本』という冊子があって、内容は『梵網経』『瑜伽戒本』『根本説一切有部戒経』の3種の戒本を収録したもので、「密宗必須」とある通り、日本の真言宗で用いたものである。そこで、その中に、「四十八軽戒略頌」が収録されていた。今日はその「偈頌」を見ておきたい。四十八軽戒略頌前の三十戒は摂善法なり。末の十八戒は摂衆生なり。是を梵網後二戒と名づく。原典に随って訓読以上である。これは、『梵網経』の「四十八軽戒」について、前後に区分し、更にその意義付けを行ったものである。それで、この「略頌」であるが、典拠は新羅・義寂による『菩薩戒本疏』巻下之本に「又四十八中、前の三十戒、多く摂善と為す。後の十八戒、多く利生と為すなり」とあることに由来するようである。そこで、「四十八軽戒」を前三十、後十八に分...「四十八軽戒略頌」について
これは、禅宗系の食事作法で用いる「五観の偈」の第三句が、タイトルに用いた「三防心離過貪等為宗」である。この読み方については、近代以降、何度か疑義を呈されていたようである。確かに、現行、読まれている通りの訓読法をすると、かなりややこしいこととなる。三つには、心を防ぎ過を離るることは貪等を宗と(為)す。・・・意味不明。これを、直訳すると、「三つ目には、心を防ぎ、過ちを離れることとは、むさぼり等を宗(拠り所)としている(と観ずるべきである)」となるだろう。「むさぼり等をよりどころ」?ここがツッコミどころである。だけれども、「宗」という言葉を訳すと、どうしてもこのように理解してしまいたくなる。よって、疑義を呈さざるを得ないのである。一方で、臨済宗などでは、次のように読んでいるという。三つには、心を防ぎ過貪等を離る...「三防心離過貪等為宗」について
1923年9月1日11時58分に関東地方南部を震源として発生した地震によって、発生した地震災害の総称を「関東大震災」と呼ぶ。後に、伊勢湾台風などもあって、9月1日が「防災の日」となったが、今年は関東大震災から100年となる。よって、少しく震災について記事を書いておきたい。これは、従来の拙ブログでは一度も採り上げたことは無かったように思うのだが、明治時代に曹洞宗で活躍された学僧・来馬琢道老師(1877~1964)という方がおられ、以下の書籍が知られている。・『一仏教徒の体験せる関東大震火災』鴻盟社・大正14年なお、現在は国立国会図書館デジタルコレクションで閲覧可能であるため、リンクを貼っておいた。興味のある方は、ご参照願いたい。まず、本書は「大震災のその時」とあって、震災の瞬間から記述が始まる。大正十二年九...9月1日防災の日(関東大震災から100年・令和5年度版)
『浄土布薩式』「大科第六 受者発心」(『浄土布薩式』参究7)
ここ数回『浄土布薩式』の本文を学んでいる。当作法は、冒頭で布薩の日程を出した後で、実際の作法に入っていくが、今回は「大科第六」の項目を学んでいきたい。ところで、一応「受者発心」というタイトルにしたが、以下の通り項目は「発心偈」というべき偈文を、随喜衆一同で唱えるところから始まる。大科第六受者発心諸衆、同じく唱えて云うべし、我等今身に善縁に遇い、能く隔時の菩提心を発し、一切の持破信不信、同く極楽に生じて三忍を得ん。今、菩提心を発すに就いて、即ち二種有り、一には直成の菩提心、即ち此の娑婆濁刹の中に於いて、直に無上仏果を成せんと求むの心なり。二には隔時の菩提心、則ち直成の修業に堪えざるが故に穢土を厭ひ、浄土を欣む。凡身を捨て、聖身を得て、二土を分かち、隔時隔念の得益を求むるが故に、隔時隔土の菩提心と名くるなり。...『浄土布薩式』「大科第六受者発心」(『浄土布薩式』参究7)
江戸時代後期の国学者・平田篤胤(1776~1843)の『出定笑語』では、『過去現在因果経』などの典拠を踏まえてではあるが、釈尊伝を篤胤目線で講釈しているのだが、その中に弟子達との関わりがある。既に【「善来比丘」に関する篤胤の雑感(拝啓平田篤胤先生26)】でも採り上げたことだが、今回は特に実質的な釈尊の後継者となった摩訶迦葉尊者について、釈尊との関係を篤胤がどう見ていたかを確認したい。扨かくの如く大山ごとを工夫して、とうとう釈迦は一大家となつて国々をあるく所が、彼婆羅門の輩も多くしめられて弟子と成たるが多き中に、摩揭陀国の王舎城と云所に摩訶迦葉と云婆羅門が有、是は其父なる者は甚だの大富長者で天竺の内に十六大国と名におふ国が十六有て、其国々に肩を并る者はなかつたといふ事でござる。『平田先生講説出定笑語(外三篇...釈尊と摩訶迦葉尊者について①(拝啓平田篤胤先生31)
来るべき時が来た!最重大警告!地球上の誰もがメメント・モリの意識で生きろ!!
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「第一官律名義弁」其十五(釈雲照律師『緇門正儀』を学ぶ・15)
ということで、もう10回以上、釈雲照律師『緇門正儀』の「第一官律名義弁」の内容を見ている。なお、これは【1回目の記事】でも採り上げたように、「今略して、僧に位官を賜ひし和漢の官名、職名及び初例を挙示せん」とあって、職名の意味というよりは、任命された最初の事例を挙げることを目的としているようである。よって、この連載では、本書の内容を見つつ、各役職の意義については、当方で調べて、学びとしたい。なお、『僧史略』の続きとして、「一宗師」などを挙げているが項目名のみであり、説明文は「一開府儀同三司」にあるのみである。この役も、当方は以前まで知らなかったが、密教系の不空三蔵・金剛三蔵などのことだったようである。そして、個人的にはこの一節よりも、次の一文が気になった。右の外、猶お遺漏多し、今唯慷慨を挙るのみ、蓋し之を賜...「第一官律名義弁」其十五(釈雲照律師『緇門正儀』を学ぶ・15)
明治時代以降は、新暦への変換などがあって、9月29日に曹洞宗では両祖忌を執行しているが、当ブログでは諸事情もあって、かつての日付のまま、高祖道元禅師忌の記事を書くようにしている。曹洞宗の両祖の忌日は、旧暦の表記では次の通りである。永平道元禅師御遷化:建長5年(1253)8月28日瑩山紹瑾禅師御遷化:正中2年(1325)8月15日そこで、拙ブログでは、8月15日は「終戦の日」の記事を書くため、瑩山禅師忌を9月29日に書き、道元禅師忌を8月28日に書くようにしている。よって、本日の記事となっていることをご理解いただきたい。さて、改めて、道元禅師の最初期の伝記から御遷化された時の状況を学んでみたい。建長四年壬子秋、病を示す。建長五年癸丑八月二十八日夜半、偈を示し、自書して云く、五十四年、第一天を照らす、箇の𨁝跳...旧暦の日付で高祖道元禅師の忌日(令和5年度版)
拙僧の手元にある『總持両祖行術録』に収録されている「開山和尚退院上堂」について、学んでみたい。開山和尚退院上堂瑩山老和尚、退席に臨んで、紹碩、衆と同じく請うに、上堂す、機前に卓立して、独り物表に超え、峨峨たる青山、蒸蒸たる山雲、父子長年相離せず、君臣道合して内外無し、〈叙・謝、録さず〉記得す、世尊拈華瞬目し、迦葉破顔微笑す、世尊曰く、「吾に正法眼蔵有り、摩訶迦葉に付属す」と、這裏に到て吾に有る底の事、如何、良久して曰く、頂門凸出す一円相、徧界蔵せず新總持、遂に衣を首座紹碩に付して曰く、梧桐葉落ち秋風興る、竹林自ら知る百卉の長きことを、渠が金衣著実の処を見て、大陽目に盈て自ら堂に当たる、卓、拄杖して、下座。〈此の袈裟藕糸、梧竹の紋、鴿色なり、世世に相承して今に到る〉『總持両祖行術録』13丁表、訓読は拙僧この...瑩山紹瑾禅師「開山和尚退院上堂」について
以前、【「晨朝六念法」という作法】という記事を書いたのだが、その時には全体の作法を紹介したのみであった。詳細は、この記事で見ていきたいと思う。ところで、先の記事で允堪律師の言葉に「僧祇の文を出す」とあったものの、完全にスルーしてしまった。調べてみると、『摩訶僧祇律』に関連する文献で、「六念法」が出ていた。六念法一には、当に日数を知るべし、月一日、二日、乃至十四日、十五日。月大、月小、悉く応に知るべし。二には、清旦に当に施食法を作すべし、「今日食を得て某甲に施す、某甲、我、意を計らず、我れ当に食すべし」〈是の如く三説す〉。三には、日日に自ら若干臘数を憶すべし。四には、当に受持衣及び浄施者を憶念すべし。五には、当に衆食の別ならざるを念ずべし。六には、当に病・不病を念ずべし。『摩訶僧祇律大比丘戒本』允堪律師が述...「晨朝六念法」の内容について(1)
拙僧の手元には、特に題が付いているわけでは無いが、慈雲尊者飲光(1718~1805)の提唱録の写本(当記事では仮に『慈雲尊者御垂示』とする)がある。一部は、『慈雲尊者全集』に収録されていることを確認したので、おそらくは内容は既に知られた文章だと思うのだが、拙僧自身は今回、写本を読んで初めて知った内容が多いので、それを3回程度に分けて学んでみたい。なお、今回から学ぶのは、「当日受戒会」というタイトルの御垂示である。当日受戒会師、垂示云、一切諸法をおつ束て一大縁起じや、此縁起の法には必ず染浄の二法が分れ子ばならぬ、染汚縁起相続究竟すれば、必ず三悪趣に出現したものじや、三悪趣と云て、別に此縁起の外に定た所が有ではない、其染汚縁起の中にも厚薄あるゆへに、三悪趣の中にも苦報の軽重がある、清浄縁起相続究竟すれば、必ず...慈雲尊者の「当日受戒会」垂示参究(1)
備忘録的に記事にしておきたい。現在、道元禅師の『正法眼蔵』「嗣書」巻には「草案本」「修訂本」の2系統があると知られている。ほとんどの内容は一緒だが、例えば個人的にその違いに注目している一節がある。・いまわが洞山門下に嗣書をかけるは、臨済等にかけるにはことなり。「修訂本」・いまわが洞山宗門にかける、臨済等にかけるにことなり。「草案本」前者であれば、法系としての洞山門下を強調しているように見えるが、後者は「洞山宗門」とあって、どこか「洞山宗」というべき宗派意識の表出のように感じてしまうのである。もちろん、「仏道」巻などで、曹洞宗を含めた全ての宗派名の名のりを批判することはよく知られているから、違うという意見もあると思うが、道元禅師は『正法眼蔵』各巻で第一とする発想が異なるので、宗門と名乗っても問題無いように思...懐奘禅師による『正法眼蔵』「嗣書」巻の書写について
とりあえず、以下の一節をご覧いただきたい。制戒十益二意僧祇律に云わく、舍利弗、仏に白して言わく、幾ばくの利益有りて、弟子の為に制戒するや。仏言わく、十の利益有り。一には僧を摂するが故に。二には極めて僧を摂するが故に。三には僧をして安楽せしむるが故に。四には無羞人を折伏するが故に。五には慚愧有る者の、安穏を得て住持なるが故に。六には不信なる者をして、信を得せしむるが故に。七には正信なる者の益を増す故に。八には現法中に於いて、漏尽を得るが故に。九には未だ生ぜざる諸漏をして、生ぜざるが故に。十には正法、久住することを得て、諸天人の為に甘露門を開く故に。○摂大乗論に云わく、如来の制戒、二意有り。一には声聞の自度の為の故に。二には菩薩の自度度他の為の故に。『釈氏要覧』巻上まずは以上である。これは、『釈氏要覧』にてま...如来が制戒した意義について
以前、【「赤袈裟」一考】という記事を書いた時、「赤袈裟」と「緋袈裟」の関係を検討する必要を感じた。既に「赤袈裟」は論じた通りなので、この記事では主として「緋袈裟」を検討したい。前提として、上記リンク先の記事でも申し上げた通りで、赤袈裟よりも、いわゆる緋袈裟の方が一般的だという見解もあり、更にこの「緋」とは、元々皇室が身に着ける色だったともいう。この記事では、その辺を明らかにしてみたい。其の華台上に一の化仏と作り、緋袈裟を著け、結跏趺坐し、項背に光有り。『陀羅尼集経』巻6「観世音等諸菩薩巻下」このように、「観世音菩薩」との関連で、「緋袈裟」を着けた「化仏」があるという。なお、この経典は密教系であるので、日本には密教系経典を通して「緋袈裟」が知られたと思っていたら、そこまで簡単な話では無かった。ただし、関連す...「赤袈裟」と「緋袈裟」について
「黒衣」という字を見て、日本史を考えてみると、「黒衣の宰相」と呼ばれた金地院崇伝国師(1569~1633)が知られる。それで、記事の内容としては、既にアップした【仏教用語としての「緇素」考】などとほとんど変わらないかもしれないが、別の典拠となる文脈があったので、それを学んでみたい。【十六】僧を緇衆と謂ふ事〈付・黒衣を著る因縁等の事〉△諸臣の朝服皆玄袍なるを、俗素と云、僧侶の内衣必ず白色なるを緇徒と云、又黒衣と云。由来、誠に毛詩に緇衣の篇あり、是をば卿士の朝服也と云り、俗の著る袍の色也、僧の衣に非ず、又論語には喪は主素、吉は主玄、吉凶異服と云て、緇衣をば吉衣と定めたり、但日本紀には、道俗と書て、なひ人しろきぬとよみて、しろきぬをば、白衣の衆とする也、是の儀に叶へり、又出家を緇徒と云は、法衣を云、内衣を指に非...仏教用語としての「黒衣」考
仏の光は七色なんでしょ。それって、どういうことなの?なーんて疑問もってる人、いませんか?幸福の科学の大川隆法先生は、『永遠の法』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。「仏の光は七色である」と言われますが、実際、そのとおりです。そして、九次元世界においては、仏の光を七色に分けており、この七色の光が、八次元以降で、さまざまな如来を通じて、十数種類、あるいは二十数種類の光に分光されているのです。この七色の光を受け持っている九次元大如来たちの名前をあげてみましょう。中心光線である黄色い光線、黄金色の光線を受け持っているのは、ゴータマ・シッダールタ、釈迦牟尼仏です。仏陀の黄色い光線は、法の色、あるいは慈悲の色です。白色光線を受け持っているのはイエス・キリストです。イエスの白い光線は、愛としての光です。医療系の...七色の光って?
とりあえず、以下の一節をご覧いただきたい。知るべし、諸法はわが諸法なり。われはすなはち諸法のわれなり、われと諸法と唯是れ水波のわかるなり。水波のわれは即ち三宝の正体なり。三宝はすなはち我らが全体なるを知らば、応ぜざる三宝あらず。そのよく三宝の正体をしるを帰依の道理とす。帰依に別路あらず、たゞわが正体にかへるときを正帰依とす。我を知らず只だ帰依の名のみ思ふは、正帰依にあらず。正帰依なるとき、われこれわれにあらず。我にあらざれば彼れにあらず。かれとわれと二もまたなし。このなしといふを、われとしかりとして三宝たつ帰依たつ。たてばいまの三宝あり。帰依ありてひとしく無上甚深微妙法なり。帰依の第一義は、別の容儀にあらず、五体投地して一心頂礼するなり。一心礼恭は、能礼所礼性空寂なり。性の空寂なる、必ず自心他心体無二なり...三宝帰依の一様相
今日8月19日は、語呂合わせで「俳句(8・19)の日」らしい。少し調べてみると、以下のような成立の経緯が知られるようである。・俳句の日(コトバンク)京都教育大学名誉教授の坪内稔典先生などが提唱され、1991年に制定されたのが「俳句の記念日」とのことである。そういうことなので、今日は「仏教と俳句」という観点から記事を書いてみたい。とはいえ、俳句、元々は「俳諧」とも呼ばれ、江戸時代に連歌の発句のみ連句する様子を指したという。確かに、百人一首を含めてそれまでの和語の道歌といえば、和歌(短歌)の形式が主であり、俳句を詠んだ仏教者は、江戸時代以降しかいない、ということになる。また、俳人で仏教俳句を詠んだ事例も多いが、この辺は既に【8月19日俳句の日】などで紹介したこともある。参照されたい。それから、最近では、バラエ...今日は「俳句の日」(令和5年度版)
夢窓疎石国師の「懺悔」観といえば、1つは『夢中問答』を見れば良いと思うのだが、他の通称『二十三問答』と呼ばれる法語集にも「懺悔」についての教えが2つほどあるのだが、1つは既に【仏教に於ける「懺悔滅罪」の話】で見たので、ご参照願いたい。今回は、もう1つを見ておきたい。十四懺悔に二つある事問ふて曰く、二つの懺悔のうちには、何れをなすべきぞや。答へて云ふ、人の心にまかすべしといへども、万心のなきことにて候へば、無想無念肝要にて候。有想にて念おこり候にも、根本なく心なしと悟り候はゞ、念のあるもなきにて候。誠に身ありて罪を作り、実に心ありて罪をつくるとは思ふべからず。『二十三問答』、山田孝道老師編『禅門法語集―校補点註』光融館・明治28年、84頁この「二つの懺悔」という話だが、詳細は冒頭のリンク先をご覧いただきたい...夢窓疎石国師が示す「懺悔」の話
或る文献を読んでいたら、『地獄経』という経典からの引用があった。ちょっと良く分からない経典だったので、採り上げてみたいと思った。参考までに、その引用文とは、以下の通りである。地獄経に云わく、衆生有り、蹇吃瘖瘂にして、口、言うこと能わず。若し説く所有りて、目を閉じ、手を挙げても乃ち言い了らず。何の罪ありて致す所なりや。仏言わく、前世の時に三宝を誹謗し、聖道を軽毀し、他の好悪を論じ、人の短長を求め、強いて良善を誣ひ、聖人を憎嫉するに坐せらるを以てなり。『仏祖正伝禅戒鈔』「第十不謗三宝戒」・・・良い文章では無いな。前世の問題を元に、現状の問題を論じる方法は、「悪しき業論」と呼ばれ、明らかに人権問題を含み、場合によっては霊感商法などを助長する可能性がある。よって、上記内容を元に、更なる人権問題の発生などが無いよう...じ、『地獄経』?!(令和5年度「裏盆」の学び2)