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前述の通り、菅原道真の死後、7年の間に、昌泰の変に関わった、藤原菅根、藤原時平、源光が、死去した。 923年(延喜二十三年)に、醍醐天皇の第二皇子で、藤原穏…
醍醐天皇は、摂関を置かず、また、延喜格式が編纂されるなど、後世の人々は、天皇親政の理想の政治が行われた治世と評価され、「延喜の治」と呼ばれた。 しかし、実際…
宇多上皇の側近集団対して、藤原時平、大納言の源光等の上級貴族のみならず、藤原清貫、藤原菅根、三善清行等の中下級貴族を含めた、激しい反発があったされる。 大納…
893年(寛平五年)2月16日、菅原道真は、参議兼式部大輔に任ぜられ、公卿に列し、2月22日には左大弁を兼務した。 4月2日、敦仁親王が、皇太子となったが、…
菅原道真は、菅原是善と、その夫人の伴氏の三男に生まれた。 菅原氏は、天孫、瓊瓊杵尊の叔父に当たる、天穂日命の子孫で、野見宿禰を家祖とし、葬送を職掌としていた…
藤 原時平は、871年(貞観十三年)、藤原基経の長男として、生まれた。 父の藤原基経は、光孝天皇を擁立し、太政大臣として、絶大な権力を有していた。 光孝天皇は…
藤原良房は、その後、応天門の変によって、伴良男と同時に、弟の良相を失脚させている。 太政大臣の藤原良房、右大臣の藤原良相、また、太皇太后の藤原順子が、共闘し…
橘 広相は、橘氏長者で、藤原基経の養父、藤原良房と近い関係にあった。 貞明親王、即ち、陽成天皇の東宮学士で、陽成天皇の即位と共に、正五位上に叙せられる。 更に…
光孝天皇から、宇多天皇への代替わりの時期に問題となったのは、光孝天皇と宇多天皇を擁立し、長く、執政の任にあった、太政大臣の藤原基経の権限の確認である。 宇多…
887年(仁和三年)、光孝天皇は、重篤に陥った。 陽成上皇と皇太后の高子は存命であり、基経は、自身の外甥の貞辰親王ではなく、光孝天皇の第七皇子の源定省を皇嗣…
また、当時は、摂関政治の成立期であり、母后の高子と、摂政の基経の力関係は、極めて、不安定であった。 藤原基経を摂政に任じた、清和上皇が健在だった時期には、基…
藤原基経は、836年(承和三年)、藤原良房の兄、長良の三男に産まれる。 正確な時期は、不明であるが、息子がいなかった、叔父の良房に見込まれると、その養嗣子と…
藤原良房への「摂政」の詔は、左大臣の源信が、自宅で籠居して、右大臣の藤原良相が、病気で、出仕が滞り、それに次ぐ、大納言の伴善男に放火の疑いをかけられる中で、…
864年(貞観六年)冬、藤原良房は、大病を患って政務を退いいて、その間に太皇太后の藤原順子、その信任を得ている、良房の弟の右大臣・藤原良相、太皇太后宮大夫を…
承和の変により、太政官の上席は、老齢の左大臣・藤原緒嗣と大納言・橘氏公、そして、嵯峨天皇の皇子の若い、右大臣の源常のみになり、良房は、朝廷での影響力を一挙に…
嵯峨天皇の以降の天皇は、度々、皇族を源氏として、臣籍に下したため、各々の祖とする、天皇毎に集団を形成し、氏爵を受けるようになった。 その集団は、年号により、…
嵯峨天皇の以降の天皇は、度々、皇族を源氏として、臣籍に下したため、各々の祖とする、天皇毎に集団を形成し、氏爵を受けるようになった。 その集団は、年号により、…