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781(天応元年)4月3日、山部親王は、父の光仁天皇に譲位されて、桓武天皇となった。 翌日の4日は、同母弟の早良親王を皇太子と定めて、11日後の15日に即位…
前回の続き。 一本道を間違え、余計な体力を消費した、方向音痴のおじさん。 鳥居の前に辿りついたときには息が切れ、 動悸が中々、収まってくれませんでした。 …
782年(天応二年年)正月14日、氷上川継の乱が、鎮圧されたが、同年6月には、突如、左大臣の藤原魚名が、罷免され、大宰帥として、大宰府への赴任を強要され、左…
藤原浜成は、724年(神亀元年)、藤原不比等の四男、藤原麻呂の嫡男として、生まれた。 藤原麻呂は、藤原不比等の四人の息子達、藤原四兄弟の中では、唯一の異母兄…
前回おさらいした梶原景時の変で原田種雄が秋月荘を拝領し、古処山に城を築いたのが1203年(建仁3年)です。古処山城については、過去にどこかで詳しく書いたつもりでいたんですが、今探しても見つけられないので、ちょっと書いておきます。 古処山は、福岡県のど真ん中にある山です。朝倉市と嘉麻市の間に跨っています。先述した通り、原田種雄が梶原景時の変に際して武田有吉の共謀を知らせた功によって秋月の領主となり、古処山に山城を築きました。以後、有事にはこの古処山を拠点に秋月氏は戦国時代を戦い抜きます。原田種雄が秋月を拝領したことで「秋月」の姓を名乗ることとなり、以後、一族は筑前秋月氏と呼ばれます。 古処山城は…
藤原魚名の大納言への抜擢は、藤原永手の死去後、北家の公卿が、魚名一人になったため、藤原氏一族の連帯を図るため、南家・北家・式家の釣り合いを取った結果によると…
771年(宝亀二年)2月、光仁天皇の即位の翌年には、左大臣の藤原永手が、死去する。 永手の死後、式家の藤原良継が、内臣に任じられ、右大臣の大中臣清麻呂に次い…
称徳天皇の生前、道鏡の政権下では、765年(天平宝字九年)に、右大臣の藤原豊成が、死去すると、藤原永手が、太政官の筆頭公卿の地位を保った。 藤原永手は、弟の…
769年(神護景雲三年)5月、道鏡の弟である、大宰帥の弓削浄人と中臣習宜阿曾麻呂が、「道鏡を皇位に就かせれば、天下は泰平である」との内容の宇佐八幡宮の神託を…
765年(天平神護元年)は、飢饉及び、和気王の謀叛事件が起きて、藤原仲麻呂の乱後の政情は、不安定であった。 和気王は、天武天皇の曽孫で、舎人親王の孫に当たる…
予告通り今回は梶原景時の変です。『変』が正しいのか『乱』がいいのかわかりませんけど、個人的には『乱』にはなってないんじゃないかと思いました。 大河ドラマなんかをご覧になっている方は、よくご存知ではないかと思います。『鎌倉殿の13人』なんかはこの辺がクライマックスなのではないでしょうか?私は大河ドラマがどうにも苦手で、この事件のこともわかっていないので、しっかりおさらいしようと思います。知らない事を「おさらい」って、そこが『変』ですけど さて。 治承寿永の乱で義経と超仲が悪かった梶原景時ですが、頼朝には心底信頼されていたようです。 と、いうのも、1180年(治承4年)に小田原で頼朝が惨敗した時、…
2025年に行われる、大河ドラマのコンサート情報をまとめました。「べらぼう」はじめ、最新の大河ドラマから過去の名作まで、数々のテーマ曲をオーケストラで聴いてみませんか?
藤原宇合の九男、藤原蔵下麻呂は、藤原仲麻呂の乱が、勃発すると、孝謙上皇に味方し、前述の通り、近江国へ逃走した、仲麻呂軍を孝謙上皇軍が、追討した際に、藤原蔵下…
筆者は、藤原氏が、「皇位簒奪」を行って、「万世一系」の天皇を滅ぼす、最大の機会は、藤原仲麻呂の乱であったと考えている。 藤原仲麻呂は、淳仁天皇を擁立した、張…
「伝承零戦」秋元実の感動作:零戦パイロットたちの勇気と絆の物語
開発経緯から実戦での活躍、パイロットたちの生々しい体験談まで、当時の空の壮絶な様子が描かれています。戦争の残酷
(88)2024年・榛葉幹事長は深娑大将(じんじゃだいしょう)の生まれ変わりか?
(88)2024年・国民民主党・榛葉(しんば)幹事長は深娑大将(じんじゃだいしょう)の生まれ変わりか? 妖怪だらけの砂嵐の中に沈もうとする今の日本。 日本国民の生活を守ろうと現れた現代の「じんじゃだいしょう」 その昔、西遊記の玄奘三蔵が息絶えようとしたとき、流砂の中より現れ守った「深娑大将」、七度生まれ変わりそのドクロを自らの首に下げ、砂漠の砂にまぎれた妖怪・悪疫・熱風を除いたとされる旅人の守護神。 今ま...
吉備真備は、在唐中に取得した、軍学の知識を買われ、孝謙上皇に藤原仲麻呂の追討軍に任じられたのである。 吉備真備は、藤原仲麻呂の行動を予測し、山背守の日下部子…
藤原仲麻呂は、焦燥感を深めると、軍事力によって、孝謙上皇と道鏡に対抗しようとし、764年(天平宝字八年)9月、新設の「都督四畿内三関近江丹波播磨等国兵事使」…
763年(天平宝字6年)1月、藤原仲麻呂は、自身の息子の真先を、氷上塩焼(塩焼王)と共に参議に任じた。 しかし、同年6月、仲麻呂の正室の藤原袁比良が、死去し…
藤原豊成は、大宰員外帥に左遷されると、抗議の意を込めて、「病気」と称して、難波の自身の別荘に籠ったことから、豊成の大宰府行きは、無期限延期状態となり、別荘に…
小野東人達は、一転して、謀反を自白した。 内容は、橘奈良麻呂、大伴古麻呂、安宿王、黄文王らが一味して、兵を発し、藤原仲麻呂の邸を襲って殺して、皇太子を退ける…
同年3月、前述の通り、孝謙天皇が、皇太子の道祖王を廃すると、翌月、群臣を集めて、次の皇太子について、意見させた。 藤原豊成、藤原永手は、塩焼王を推挙して、文…
当時の太政官は、藤原仲麻呂の上位に外伯父の橘諸兄及び、実の兄、藤原豊成が、左右の大臣として、並んでいた。 藤原仲麻呂は、兄の豊成を中傷するための機会を窺って…
729年(天平元年)、藤原光明子は、皇后に立てられると、家政機関として、皇后宮職が、設置された。 749年(天平勝宝元年)、孝謙天皇の即位後、光明皇后は、皇…
藤原広嗣の乱の最中、聖武天皇は、突然、伊勢国、美濃国への行幸を始め、平城京には、戻らないまま、恭仁京へ遷都を行った。 恭仁京は、山背国相楽郡に位置しており、…
9月4日、聖武天皇は、朝廷に出仕していた、隼人24人に従軍を命じる。 9月5日に、佐伯常人・阿倍虫麻呂が、勅使に任じられた。 朝廷からは、伊勢神宮へと幣帛が…
木曽義仲が宇治川の戦いに敗れたことで一息つけた後白河上皇は、安徳天皇復権の芽を摘むために、後鳥羽天皇の即位の大礼を行おうとします。が、大礼に必要な三種の神器は、安徳天皇と一緒に平氏に持ち出されていました。 1184年(寿永3年)1月26日。後白河上皇は、旧平家領500ヶ所を頼朝に与え、平家追討と三種の神器奪還の院宣を出します。一方、福原に戻った平氏の方でも、2月には京都奪還の軍を出そうと、軍備を進めていました。 2月4日、源範頼・義経は京を発ち、範頼は50,000騎以上の兵を率いて大阪側の平地から、10,000騎を率いた義経は丹波の山道を迂回して明石側から福原(神戸市中央区付近)を目指します。…
前述の通り、橘諸兄の父、敏達天皇の曽孫、または、別説では、五世孫の美努王とされる。 諸兄の母は、県犬養三千代、即ち、橘美千代である。橘美千代は、美努王との間…
戦争と人間の本質を探る壮大な歴史小説 『地図と拳』小川哲(著)
直木賞を受賞した小川哲の長編小説『地図と拳』は、日露戦争から第二次世界大戦にかけての満州を舞台とした...
730年(天平二年)9月に大納言の多治比池守、天平3年(731年)7月に大伴旅人が、死去して、高齢の中納言の阿倍広庭を除くと、知太政官事の舎人親王の下にて、…
藤原宇合は、式部卿を務めると共に、726年(神亀三年)、知造難波宮事に任ぜられると、後期難波宮造営の責任者を兼ねる。 729年(神亀六年)長屋王の変に際して…
翌年正月に、藤原武智麻呂及び、房前の兄弟は、同時に従三位に昇進したために、二人の位階の差がなくなるが、房前は、従四位上から、三階の昇進によるものであった。 …
同年、聖武天皇は、元号を「神亀」から、「天平」に変えている。 729年(天明元年)は、天候の不順が続いて、天変地異が、頻繁に発生したため、聖武天皇は、自身の…
映画「アラビアのローレンス」を久しぶりにみた。😊何十年ぶりかな?イギリス🇬🇧人の陸軍将校、T・E・ローレンスがオスマン帝国 (トルコ🇹🇷)からの独立をめざすア…
729年(神亀六年)2月、左京の人で、従七位下の漆部造君足及び、中臣宮処連東人が、長屋王の謀反を密告した。 朝廷は、その夜の内、使者を派遣して、不破関・鈴鹿…
藤原武智麻呂は、太政官の席次で、弟の房前の上位となり、藤原氏の中心的存在となる。 一方、前述の通り、同年10月、元明上皇は、死の床にて、右大臣・長屋王と共に…
さて、平治の乱から15年くらい経った1176年(安元2年)、夏ごろから急に宮中は不幸が続きます。後白河上皇の妻、建春門院。二条天皇の中宮、高松院。後白河上皇の孫、六条上皇。近衛天皇の中宮、九条院。と、相次いで亡くなってしまいます。 この時の天皇は、六条上皇の三つ年上の叔父で、後白河上皇の息子、高倉天皇です。六条天皇は享年13才ですから、この当時16才ということになります。高倉天皇の母親は建春門院こと平滋子(たいらのじし)。清盛からみれば義妹にあたる人です。つまり、高倉天皇はお母さんを亡くしたことになり、同時に母方のバックアップを失ったことになります。奥さんは清盛の娘の平徳子(たいらのとくし)で…
元正天皇以降、女性天皇は、聖武天皇の皇女、孝謙天皇、そして、江戸時代の名正天皇、後桜町天皇の三人がいるが、全員、生涯、独身であった。 そのため、天皇、または…
713年(和銅六年)、元明天皇は、首皇子の異母兄である、広世王及び、広世王の兄弟を臣籍降下させ、首皇子が、文武天皇の唯一の皇子となる。 元明天皇は、翌年の6…
日本の全ての土地・人民を、天皇(公)の所有・支配とする、「公地公民制」は、財産の私的所有を禁止し、「国家」による、挙動所有とする、現代の「共産主義」であると…
鸕野讚良皇女は、父の天智天皇と同様、称制を続けたが、幼少の軽皇子の成長を待つため、690年、自身が、持統天皇として、即位した。 持統天皇には、草壁皇子以外に…
(87)沈みゆく日本 2024年9月27日 石破自民党総裁誕生から暗黒の海へと沈みゆく日本。高石早苗氏つぶしで旧体自民党員に担がれた石破茂総裁?1.財務省官僚とその旧体自民党族議員のコントロールと指示に従い(経済にはうといらしが?)2.右にアメリカのネオンコンとウオール街のキャッシュデスペンサーとして、強欲な拝金主義者たちに日本の税金を上納金として差し出しを強要され続け。3.左に中国からの指令をもこなさなけれ...
天武天皇は、外交方針は、親新羅に転換したが、天智天皇の律令国家建国を引き継いだ。 日本は、「大王」を中心とする、豪族の連合政権から、「天皇」を中心とする、中…
前回まで、秋月家に関する歴史を4回にわたってやって来ました。その中で節目となった出来事とその背景を、今回からいくつかおさらいしようと思います。 まずは、秋月家のご先祖、大蔵春実が秋月にやってくるきっかけとなった、承平天慶の乱(じょうへいてんぎょうのらん)から始めます。 承平天慶の乱は、「平将門の乱」「藤原純友の乱」と分けて呼ばれることもあります。全く別の土地で、全く別のことをきっかけとして始まった反乱なので、分けて呼ぶのが妥当かも知れませんが、この二つの内乱がほぼ同時期に起こったことで武士の台頭が始まり、貴族政治が揺らぎ始めることになります。 将門と純友が示し合わせて反乱を起こしたわけではない…
今回は、刀伊の入寇をおさらいします。 これって意外にタイムリーなお話なんですね。私、大河ドラマは見ないのですが、そういえば同じ時期のお話ですね。 さて、参ります。 「刀伊」とは、高麗の人々が彼らを指して呼んでいた「トイ」という音に漢字をあてたもので、その正体は女真族だといわれています。 女真族は後の満州族で、現在の中国黒竜江省とロシアのアムールを合わせたあたりに住んでいた、ツングース系の民族です。現在は居住地によって中国語を話しますが、元はツングース語系の女真語を本来は話していたようで、文字は、1019年当時はわかりませんが、1119年以降は女真文字を使い、その後満州語を話すようになって、明代…
筑前秋月家 その2でちらっと書いた、源平合戦こと治承寿永の乱をおさらいしようとしたんですが、なにしろ知識が中学レベルの素人なもので、ここからおさらいしないと理解できませんでした。 なので、保元の乱からはじめます。 承平天慶の乱で、平将門と対立した将門の従兄弟、平貞盛(承平天慶の乱 おさらい参照)は、北山の決戦で平将門を討ち取り、従五位上に叙せられ、その後も出世を重ねます。貞盛の息子たちもそれぞれに地歩を固め、四男維衡(これひら)は伊勢国に地盤を築き、藤原道長の元で『道長四天王』と呼ばれるまでになります。以後、平維衡の子孫たちは『伊勢平氏』とよばれることとなりました。 維衡から100年ほど経った…
前述の通り、井沢元彦氏は、『逆説の日本史』にて、天智天皇は、暗殺されたとしている。 そして、筆者は、井沢氏の見解を完全に否定する。 その理由の第一は、暗殺犯…
平城宮跡の北方に位置する「歌姫町」という名。その響きは、古都奈良の歴史の中で一際印象的な風景を思い起こさせます。かつてこの地には、横穴墓が存在し、陶棺に納められた二体の成年の遺骨が静かに眠っていました。その墓には、埴輪の破片が散りばめられ、土師器や須恵器、鉄刀や貝殻、さらには金の装飾品まで、様々な遺物が共に発見されています。歴史の重みと人々の想いが深く刻まれた場所です。そんな歌姫町の近くに広がる「...