メインカテゴリーを選択しなおす
その後、藤原緒嗣は、失意と病気のために、度々、引退を申し出たが、許されなかった。 藤原緒嗣は、昇進において、冬嗣の後塵を拝し続けるが、817年(弘仁八年)、…
(89)わたくし、天岩戸にしばらく引きこもります。............................................................現・石破首相はクリスチャンで浄土真宗の檀家・神道にも関係が深いとのこと。???(産経新聞10-7)書籍「石破茂語録 主よ、用いてください」より「罪人の私をお赦しください」究極祈ることしかできないかなと、日々思っているところです。「南無阿弥陀仏」と念仏も唱えます。 .....................................
嵯峨天皇は、平城京への遷都を拒否することを決断し、9月10日、使節を発し、伊勢国・近江国・美濃国の国府と関を固めさせる。 更に嵯峨天皇は、藤原仲成を捕らえ、…
藤原式家の種継の長男、藤原仲成は、785年(延暦四年)、父の藤原種継が、暗殺される。 藤原仲成は、父の功績によって、22歳で、従五位下に叙され、翌年、衛門佐…
#東奥見聞録 【ゆっくり解説】戦国ウルルン滞在記~南部信直が肥前名護屋で日の本の付き合いと出会った~
・ 東奥人と申します。 長らく続けてきた九戸の乱関連を終了し、再び話は南部信直の一代記へと戻ります。 糠部の小…
歌って踊って飲む!高知の宴会【おきゃく】に欠かせないお座敷遊び4選
お酒好きの多い高知県民は何かと理由を付けてすぐ宴会をします。 高知県では宴会を「おきゃく」と呼びます。 おきゃ
桓武天皇の第三皇子、伊予親王は、父の桓武に生前、寵愛されていた。伊予親王の母は、藤原是公の次男で、藤原雄友の娘、藤原良子である。藤原雄友は、 787年(延暦…
805年(延暦二十四年)12月7日、桓武天皇は、藤原緒嗣と同僚の参議・菅野真道に、天下の徳政について、論争させた。 徳政論争である。 藤原緒嗣は、「現在、天…
なお、同時に追尊・慰霊が行われたのが、井上内親王である。 井上内親王は、光仁天皇の治世の772年(宝亀三年)3月2日、前述の通り、光仁天皇を呪詛したとされた…
784年(延暦三年)、桓武天皇は、政務を委ねていた、藤原種継を中心として、山背国の乙訓郡長岡の地への遷都を建議した。 桓武天皇の命によって、藤原種継は、藤原…
ではでは、前回の続きから オゴタイ崩御の知らせを聞いた時、バトゥはハンガリーを陥落させた直後で、当地の支配は確立していませんでした。なので、カルパチア山脈以西を一旦放棄し、急ぎカラコルムへ戻ります。しかし、この遠征中にトゥルイ家のモンケとは不仲になっていたようで、帰国後はオゴタイの後継者を巡って、次期カンとしてオゴタイの長男グユクを推すオゴタイ家チャガタイ家と、トゥルイの長男モンケを推すジョチ家トゥルイ家とが揉めて、なかなか決着がつかなくなります。 すると、バトゥは自身の領地に戻り、1243年にはキプチャク草原のサライを首都としてジョチ・ウルスを独立政権化します。教科書でキプチャク・ハン国とよ…
藤原継縄は、770年(宝亀元年)、光仁天皇の即位に伴い、従四位上に叙せられる。 翌年、藤原継縄は、従三位と順調に昇進し、光外衛大将・左兵衛督・兵部卿等の武官…
781(天応元年)4月3日、山部親王は、父の光仁天皇に譲位されて、桓武天皇となった。 翌日の4日は、同母弟の早良親王を皇太子と定めて、11日後の15日に即位…
前回の続き。 一本道を間違え、余計な体力を消費した、方向音痴のおじさん。 鳥居の前に辿りついたときには息が切れ、 動悸が中々、収まってくれませんでした。 …
782年(天応二年年)正月14日、氷上川継の乱が、鎮圧されたが、同年6月には、突如、左大臣の藤原魚名が、罷免され、大宰帥として、大宰府への赴任を強要され、左…
藤原浜成は、724年(神亀元年)、藤原不比等の四男、藤原麻呂の嫡男として、生まれた。 藤原麻呂は、藤原不比等の四人の息子達、藤原四兄弟の中では、唯一の異母兄…
前回おさらいした梶原景時の変で原田種雄が秋月荘を拝領し、古処山に城を築いたのが1203年(建仁3年)です。古処山城については、過去にどこかで詳しく書いたつもりでいたんですが、今探しても見つけられないので、ちょっと書いておきます。 古処山は、福岡県のど真ん中にある山です。朝倉市と嘉麻市の間に跨っています。先述した通り、原田種雄が梶原景時の変に際して武田有吉の共謀を知らせた功によって秋月の領主となり、古処山に山城を築きました。以後、有事にはこの古処山を拠点に秋月氏は戦国時代を戦い抜きます。原田種雄が秋月を拝領したことで「秋月」の姓を名乗ることとなり、以後、一族は筑前秋月氏と呼ばれます。 古処山城は…
藤原魚名の大納言への抜擢は、藤原永手の死去後、北家の公卿が、魚名一人になったため、藤原氏一族の連帯を図るため、南家・北家・式家の釣り合いを取った結果によると…
771年(宝亀二年)2月、光仁天皇の即位の翌年には、左大臣の藤原永手が、死去する。 永手の死後、式家の藤原良継が、内臣に任じられ、右大臣の大中臣清麻呂に次い…
称徳天皇の生前、道鏡の政権下では、765年(天平宝字九年)に、右大臣の藤原豊成が、死去すると、藤原永手が、太政官の筆頭公卿の地位を保った。 藤原永手は、弟の…
769年(神護景雲三年)5月、道鏡の弟である、大宰帥の弓削浄人と中臣習宜阿曾麻呂が、「道鏡を皇位に就かせれば、天下は泰平である」との内容の宇佐八幡宮の神託を…
765年(天平神護元年)は、飢饉及び、和気王の謀叛事件が起きて、藤原仲麻呂の乱後の政情は、不安定であった。 和気王は、天武天皇の曽孫で、舎人親王の孫に当たる…
予告通り今回は梶原景時の変です。『変』が正しいのか『乱』がいいのかわかりませんけど、個人的には『乱』にはなってないんじゃないかと思いました。 大河ドラマなんかをご覧になっている方は、よくご存知ではないかと思います。『鎌倉殿の13人』なんかはこの辺がクライマックスなのではないでしょうか?私は大河ドラマがどうにも苦手で、この事件のこともわかっていないので、しっかりおさらいしようと思います。知らない事を「おさらい」って、そこが『変』ですけど さて。 治承寿永の乱で義経と超仲が悪かった梶原景時ですが、頼朝には心底信頼されていたようです。 と、いうのも、1180年(治承4年)に小田原で頼朝が惨敗した時、…
2025年に行われる、大河ドラマのコンサート情報をまとめました。「べらぼう」はじめ、最新の大河ドラマから過去の名作まで、数々のテーマ曲をオーケストラで聴いてみませんか?
藤原宇合の九男、藤原蔵下麻呂は、藤原仲麻呂の乱が、勃発すると、孝謙上皇に味方し、前述の通り、近江国へ逃走した、仲麻呂軍を孝謙上皇軍が、追討した際に、藤原蔵下…
筆者は、藤原氏が、「皇位簒奪」を行って、「万世一系」の天皇を滅ぼす、最大の機会は、藤原仲麻呂の乱であったと考えている。 藤原仲麻呂は、淳仁天皇を擁立した、張…
「伝承零戦」秋元実の感動作:零戦パイロットたちの勇気と絆の物語
開発経緯から実戦での活躍、パイロットたちの生々しい体験談まで、当時の空の壮絶な様子が描かれています。戦争の残酷
(88)2024年・榛葉幹事長は深娑大将(じんじゃだいしょう)の生まれ変わりか?
(88)2024年・国民民主党・榛葉(しんば)幹事長は深娑大将(じんじゃだいしょう)の生まれ変わりか? 妖怪だらけの砂嵐の中に沈もうとする今の日本。 日本国民の生活を守ろうと現れた現代の「じんじゃだいしょう」 その昔、西遊記の玄奘三蔵が息絶えようとしたとき、流砂の中より現れ守った「深娑大将」、七度生まれ変わりそのドクロを自らの首に下げ、砂漠の砂にまぎれた妖怪・悪疫・熱風を除いたとされる旅人の守護神。 今ま...
吉備真備は、在唐中に取得した、軍学の知識を買われ、孝謙上皇に藤原仲麻呂の追討軍に任じられたのである。 吉備真備は、藤原仲麻呂の行動を予測し、山背守の日下部子…
藤原仲麻呂は、焦燥感を深めると、軍事力によって、孝謙上皇と道鏡に対抗しようとし、764年(天平宝字八年)9月、新設の「都督四畿内三関近江丹波播磨等国兵事使」…
763年(天平宝字6年)1月、藤原仲麻呂は、自身の息子の真先を、氷上塩焼(塩焼王)と共に参議に任じた。 しかし、同年6月、仲麻呂の正室の藤原袁比良が、死去し…
藤原豊成は、大宰員外帥に左遷されると、抗議の意を込めて、「病気」と称して、難波の自身の別荘に籠ったことから、豊成の大宰府行きは、無期限延期状態となり、別荘に…
小野東人達は、一転して、謀反を自白した。 内容は、橘奈良麻呂、大伴古麻呂、安宿王、黄文王らが一味して、兵を発し、藤原仲麻呂の邸を襲って殺して、皇太子を退ける…
同年3月、前述の通り、孝謙天皇が、皇太子の道祖王を廃すると、翌月、群臣を集めて、次の皇太子について、意見させた。 藤原豊成、藤原永手は、塩焼王を推挙して、文…
当時の太政官は、藤原仲麻呂の上位に外伯父の橘諸兄及び、実の兄、藤原豊成が、左右の大臣として、並んでいた。 藤原仲麻呂は、兄の豊成を中傷するための機会を窺って…
729年(天平元年)、藤原光明子は、皇后に立てられると、家政機関として、皇后宮職が、設置された。 749年(天平勝宝元年)、孝謙天皇の即位後、光明皇后は、皇…
藤原広嗣の乱の最中、聖武天皇は、突然、伊勢国、美濃国への行幸を始め、平城京には、戻らないまま、恭仁京へ遷都を行った。 恭仁京は、山背国相楽郡に位置しており、…
9月4日、聖武天皇は、朝廷に出仕していた、隼人24人に従軍を命じる。 9月5日に、佐伯常人・阿倍虫麻呂が、勅使に任じられた。 朝廷からは、伊勢神宮へと幣帛が…
木曽義仲が宇治川の戦いに敗れたことで一息つけた後白河上皇は、安徳天皇復権の芽を摘むために、後鳥羽天皇の即位の大礼を行おうとします。が、大礼に必要な三種の神器は、安徳天皇と一緒に平氏に持ち出されていました。 1184年(寿永3年)1月26日。後白河上皇は、旧平家領500ヶ所を頼朝に与え、平家追討と三種の神器奪還の院宣を出します。一方、福原に戻った平氏の方でも、2月には京都奪還の軍を出そうと、軍備を進めていました。 2月4日、源範頼・義経は京を発ち、範頼は50,000騎以上の兵を率いて大阪側の平地から、10,000騎を率いた義経は丹波の山道を迂回して明石側から福原(神戸市中央区付近)を目指します。…
前述の通り、橘諸兄の父、敏達天皇の曽孫、または、別説では、五世孫の美努王とされる。 諸兄の母は、県犬養三千代、即ち、橘美千代である。橘美千代は、美努王との間…
戦争と人間の本質を探る壮大な歴史小説 『地図と拳』小川哲(著)
直木賞を受賞した小川哲の長編小説『地図と拳』は、日露戦争から第二次世界大戦にかけての満州を舞台とした...
730年(天平二年)9月に大納言の多治比池守、天平3年(731年)7月に大伴旅人が、死去して、高齢の中納言の阿倍広庭を除くと、知太政官事の舎人親王の下にて、…
藤原宇合は、式部卿を務めると共に、726年(神亀三年)、知造難波宮事に任ぜられると、後期難波宮造営の責任者を兼ねる。 729年(神亀六年)長屋王の変に際して…
翌年正月に、藤原武智麻呂及び、房前の兄弟は、同時に従三位に昇進したために、二人の位階の差がなくなるが、房前は、従四位上から、三階の昇進によるものであった。 …
同年、聖武天皇は、元号を「神亀」から、「天平」に変えている。 729年(天明元年)は、天候の不順が続いて、天変地異が、頻繁に発生したため、聖武天皇は、自身の…
映画「アラビアのローレンス」を久しぶりにみた。😊何十年ぶりかな?イギリス🇬🇧人の陸軍将校、T・E・ローレンスがオスマン帝国 (トルコ🇹🇷)からの独立をめざすア…
729年(神亀六年)2月、左京の人で、従七位下の漆部造君足及び、中臣宮処連東人が、長屋王の謀反を密告した。 朝廷は、その夜の内、使者を派遣して、不破関・鈴鹿…
藤原武智麻呂は、太政官の席次で、弟の房前の上位となり、藤原氏の中心的存在となる。 一方、前述の通り、同年10月、元明上皇は、死の床にて、右大臣・長屋王と共に…