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運慶作 大日如来像を模写してみた2023年11月以来、身体的諸事情のため1年と半年と描いていなかった。2023年11月以来、身体的諸事情のため1年と半年と描いていなかった。図書館から運慶・快慶の美術書を借りてきたのですが、運慶20代の大日如来像に目を奪われ ついぞ模写してみました。ペンタブの使い方を思い出すのにちょい迷い時間もかかってしまった。運慶作の大日如来像 (智拳印)運慶・快慶の仏像彫刻は好きです...
**満洲国**は、1932年から1945年までの13年間、現在の中国東北部に存在した日本の傀儡国家です。正式名称は「満洲帝国(満州国)」で、日本の関東軍が中心となって成立し、最後は第二次世界大戦の敗北とともに消滅しました。以下に満洲国の歴史的背景と重要な出来事を順を追って解説します。 ### 1. **満洲国成立の背景** 満洲国の成立には、日本のアジアにおける拡張政策が深く関係しています。19世紀後半から20世紀初頭に…
巌流島の戦い(がんりゅうじまのたたかい)は、**江戸時代初期の慶長17年(1612年)**に、剣豪・**宮本武蔵**と**佐々木小次郎**が一騎打ちをしたとされる有名な決闘です。日本の武士道や剣術の象徴的な出来事として語られています。 --- ## 【基本情報】 - **日時**:1612年4月13日(旧暦) - **場所**:巌流島(正式名称:舟島、現在の山口県下関市にある無人島) - **対決者**: - **宮本武蔵**:当時29歳前後…
#東奥見聞録 【ゆっくり解説】『シリーズ津軽信枚③~石田三成のこどもたち~』
・ 東奥人と申します。 津軽信枚を語る上で外せない人間が二人います。 一人は津軽家へ逃れた石田三成の三女・辰子…
影で支えた男「真田信尹(のぶただ)」—裏方こそ実力者!謙虚に潜む実力!
戦国時代、名将・真田昌幸や幸村の陰で真田家を支えた知られざる実力者・真田信尹。表に出ることなく、外交と知略で家の存続を導いたその姿は、現代にも通じる“裏方の美学”の体現者です。波乱の時代をどう生き抜いたのか、その全貌をわかりやすく解説します。
(98)名古屋 熱田神宮で長鳴鳥の「コケコッコー」を聞いてきた
熱田神宮で長鳴鳥の「コケコッコー」を聞いてきた!高野山へは名古屋を中継点にした旅行でした。空港から名鉄名古屋駅の手前の熱田神宮に立ち寄りました。三種の神器「草薙の剣」を祀られている神宮とのことぜひ草薙館の国宝・重要文化財に指定された刀剣を拝観したかった。(飛行機の到着が遅れたため草薙館への入館時間に間に合わず 残念)それでも本宮への参拝はできたので良しとしました。またの機会があればゆっくりと回りた...
高野山に行ってきた(2025年4月13・14日)目的は金剛峯寺 霊宝館の快慶作 四天王立像をこの目で直に見たかった。本館放光閣の扉を開けた瞬間 鳥肌が立った。 大日如来坐像・阿弥陀如来坐像・釈迦如来坐像の拝観に始まり、西廊・本館隅廊の阿弥陀如来坐像などなど拝観し、南廊の小型木製五輪塔など傍らにすぎると本館紫雲殿に入ります。巨大な曼荼羅のタペストリーを仰ぎ、ただ感嘆新館前室に入ると銅鐘のお迎え。新館第一室...
このブログはシャノワール君が管理しています。 シャノワール君と飲酒ネコが歴史に関するわからないことを「なんだろな?」という感じでつぶやいていくメモ的スペースです。 歴史解説&考察はnoteブログ『歴史バカの大冒険』にて、飲酒ネコがもちょっと真面目に書いています。 note.com よろしくね
#東奥見聞録 【ゆっくり解説】『~番外編~雨と御山と姫の神』
・ 投降主の東奥人です。 今回は、歴史成分抑えめでどちらかと言えば文化風俗にまつわる番外編です。 中世説教節の…
歴史好きおじさんのChatGPT活用術!武将と会話できる時代到来!
40〜50代の中年おじさん世代がChatGPTを活用して歴史と深く対話し、知的好奇心を再燃させる新しい趣味とライフスタイルを提案する記事となっています。
源氏物語と言えば、海外でも有名な世界最古の長編恋愛物語。英語・中国語・フランス語・イタリア・ドイツ語など30以上の多様な言語に翻訳され、世界中で読み継がれています。日本では現代語訳された書籍・映画・アニメ・漫画を通じて幅広い年代に支持され、...
京都の街には、芸術と日常が溶け合う素晴らしい文化が根付いています。陶芸家・河井寛次郎は、この地で活躍した代表的な芸術家の一人です。島根に生まれ東京で学んだ寛次郎は、生涯の拠点として京都を選びました。彼による研究や創作、日常と芸術が一体となっ...
菅原道真といえば、受験でおなじみ、学問の神様。かつては怨霊としても恐れられ、日本三大怨霊の一人として知る人も多いでしょう。京都は天神信仰発祥の地として、道真が祀られている天満宮があちこちにあります。また道真が太宰府へ左遷されるまで過ごした地...
誰もが社会の授業で習ったことのある「小野妹子(おののいもこ)」。「いもこ」というインパクトのある名前と、意外にも男性ということで頭に入りやすい人物ですよね。「遣隋使」というワードとセットで覚えているけれど、それ以上のことはあまりよく知られて...
京都の中心街である河原町に流れている高瀬川。繁華街の賑やかさに疲弊しがちな私は、避難するようにして川のほとりに涼みにいくことがあります。実はこちらの高瀬川が、人工的に作られた運河であることをご存知ですか?高瀬川が開削されたのは1611年。江...
「武者の世の始まり」とされる、保元の乱は、日本の権力闘争の構造を根本的に変えた。 藤原忠実、頼長と藤原忠通の政治的暗闘は、27年間続いたが、保元の乱の武力衝…
上皇と天皇、摂関家、源氏、平氏の各家の骨肉の争いは、崇徳上皇派が、藤原頼長及び、源為義、伊勢平氏の平忠正であった。 後白河天皇派は、藤原忠通、源為義の長男、…
藤原忠通は、既に、36歳になっていたが、男子が、生まれない事を危惧した、忠実は、忠通に、23歳年下で、13歳の異母弟、頼長を養子にするように勧め、1125年…
1108年(嘉承三年)の正月の除目において、武家の平正盛が、「最下品」でありながら、「第一国」の但馬国の受領となる等、白河法皇の近臣が、多く受領に任じられた…
藤原師通の長男、藤原忠実は、1078年(承暦二年)に生まれ、母は、藤原全子である。 前述の通り、藤原師通は、全子と離縁し、藤原信子と再婚したため、忠実は、母…
藤原師実の長男、藤原師通は、1062年(康平六年)に産まれ、1076年(承保三年)に、権大納言、藤原俊家の娘、全子を正室に迎える。 藤原俊家は、藤原道長の次…
当時の太政大臣は、既に摂政・関白にその権限を吸収されていただけでなく、左大臣以下の大臣の様に、実務に関わることは、完全になくなった、名誉職だった。 表向きは…
只今 トランプ革命 進撃中!アメリカトランプ政権はヨーロッパNATO離脱の模様で、NATO崩壊へ、ヨーロッパのドイツ・フランス・イギリスなどのグローバリスト国家をはじめフォン・デア・ラインEU委員長を中心に完全に頭が狂って暴走中!何としてでもウクライナでの負け戦を続けるつもりらしい。1914年から始まった第一次世界大戦の様相を呈しています。ヨーロッパの貴族の身内同士の争いから始まるいつもの戦争が世界を巻き込み、...
藤原頼通には、六人の息子、通房、橘俊綱、覚円、定綱、忠綱、師実がいたが、頼通は、正室の隆姫女王を憚り、橘俊綱、覚円、定綱、忠綱を養子に出した。 長男の藤原通…
「いにしえ」という言葉は、具体的に何年もしくは何世紀前かという厳密な定義があるわけではありませんが、日本語では一般的に「遠い昔」や「古代」など、現在からかなり離れた過去を指す表現です。おおまかに以下のように理解されることが多いです: 1. **古代や平安時代など、千年以上昔**:たとえば、万葉集や源氏物語の時代に関連して使われることがあり、飛鳥時代や奈良時代なども「いにしえ」とされることが多いです。 …
どうもこんにちは。ゆずです。【スポーツ、音楽、映画、科学、経済、倫理、働き方、政治、考え方etc‥‥』あらゆる面で諸外国が上回っていると思っている日本人は多いのではないでしょうか(もちろん諸外国が上回っている面もある)。日本人は自分たちの文...
後朱雀天皇の即位後、1039年(長暦三年)8月に、藤原頼通の養女、後朱雀天皇の中宮の藤原嫄子が死去し、後宮は、皇后の禎子内親王(三条天皇皇女)、唯一の状況と…
1061年(康平四年)、70歳の藤原頼通は、太政大臣に任ぜられ、位人臣を極めた。 翌年の1062年(康平五年)、頼通は、父の道長の例に倣い、太政大臣をわずか…
しかし、藤原頼通は、「一家三后」を実現した、父の藤原道長と異なり、子女は、長女の藤原實子のみであった。 なお、頼通には、六人の息子がおり、娘が、一人のみは、…
前述の通り、1016年(長和五年)、藤原道長の外孫、後一条天皇が、即位すると、道長は、摂政に就任した。 翌年の1017年(長和五年)藤原道長の長男、頼通は、…
戦国時代の「最強の武将」は、戦闘能力・戦術・統率力・戦績などを総合的に考えると、評価が分かれるところです。しかし、戦国時代を代表する名将たちをランキング形式で5人挙げると、以下のようになります。 --- ### **1位:武田信玄(たけだ しんげん)** **強さの理由:戦略・戦術・統率力の三拍子が揃った最強の戦国武将** - 甲斐(現在の山梨県)の戦国大名で、「甲斐の虎」と称された。 - **軍略の天才**…
藤原道長は、三条天皇の治世に入ると、兄の藤原道隆と同じことを始めた。 藤原道長は、自身の息子達を強引に引き立てるようになったのである。 長男の頼通は、20歳…
#東奥見聞録 【ゆっくり解説】『シリーズ津軽信枚①~高坂蔵人の乱(前編)~』
・ 【ゆっくり解説】『シリーズ津軽信枚①~高坂蔵人の乱(前編)~』 東奥人と申します。 歴史は再び表街道へ戻り…
藤原道長は、996年(長徳二年)、31歳の年に、当時の一上であった、左大臣に任官し、以降、1017年(長和六年)、51歳の年に、摂政を辞任するまでの20年間、…
1020年(寛仁四年)3月、御堂の落慶法要が行われ、藤原道長の娘達の三后、太皇太后の彰子、皇太后の妍子、皇后の威子の行啓を伴う、盛大な儀式であった。 2年後…
作家の井沢元彦氏は、『逆説の日本史』において、朝廷が、刀伊の入寇の最大の功労者、藤原隆家に恩賞を与えなかったのは、朝廷の「危機管理能力の欠如」であり、その伝…
しかし、996年(長徳二年)正月、藤原隆家は、従者の武士を連れて、花山法皇の一行に矢を射かけて、法皇の衣の袖を弓で射抜く、事件を起こす。 その事件を藤原道長…
1019年(寛仁三年)3月末~4月、刀伊の入寇が、発生した。 刀伊とは、朝鮮の高麗語の高麗以東の夷狄である、東夷を指し、日本語の刀伊を当てたとされる。 刀伊…
藤原頼通及び、一上の藤原実資は、重大な案件に関しては、出家後の道長に判断を仰いだ。 しかし、道長の意見が、摂関、太政官の方針に異論を挟んだ場合にて、頼通達が…
実は、藤原氏の歴史において、天皇の外祖父が、摂関になったのは、藤原良房、藤原兼家、そして、藤原道長が、三人目である。 歴代の藤原氏の摂関は、基本的に天皇の外…
アメリカ政権はトランプ革命の真っ最中!メデイアはウクライナ関連でにぎわっています。金も力もない敗戦同様のウクライナ、このままでは、ヨーロッパ諸国(フランス・ドイツなど)がウクライナに貸した金が回収できないので戦争は継続すると言い、トランプアメリカは中立な立場で(ウクライナとロシア間)仲裁すると言い、ついでにウクライナにバイデン民主党が湯水のごとく貸し付け、ばらまいた金(実際は民主党関連にチューチュ...
その頃、藤原道長との関係改善を図るため、三条天皇は、第二皇女の禔子内親王の頼通への降嫁の打診がある。 道長は、一旦同意するが、道長の長男の藤原頼通は、妻の隆…
その後、藤原道長は、重病に伏して、一時は、飲食物を受け付けないほど状態が、悪化し、致仕の上表を行う。 道長の病について、前述の通り、比叡山に騎馬で登ったため…
幕末志士がもしカフェを開いたら?──長州ファイブの挑戦が現代に蘇る
長州ファイブがもじカフェを開いたら?という歴史の空想物です。彼らがどんなカフェを開き、どんなコンセプトでメニューを開発するのか。明治の近代化に貢献した彼らのifを想像する切り口で記事を作成しました。
幕末、日本の未来を変えた5人の若者「長州ファイブ」は、命がけでイギリスへ密航し、政治・経済・技術を学びました。 彼らの帰国後の活躍により、日本の近代化は大きく前進しました。彼ら若き長州ファイブの挑戦にフォーカスした記事となったいます
福岡市博物館完全ガイド:見逃せないおすすめ観光スポットと魅力を徹底解説!
福岡市博物館の魅力を徹底解説!国宝の金印や多彩な展示物を通じて、地域の歴史と文化を深く理解できるスポット。アクセス情報や訪問時のポイントも紹介。福岡を訪れた際にはぜひ立ち寄って、素晴らしい体験をお楽しみください。
しかし、藤原娍子の立后の日及び、藤原妍子の参内の日が、同じ、4月27日に重なった。 当日は、藤原妍子の参内の儀を終えた後に、娍子の立后、即ち、本宮の儀が、開…
1011年(寛弘八年)5月下旬、一条天皇は、急病に倒れ、5月27日には、道長に対して、譲位の準備を指示する。 譲位に先立って、一条天皇は、厚く信頼する、権中…
筆者が、長々と『光る君へ』の解説をしたのは、藤原道長の時代の登場人物達について、イメージして欲しかったためである。 前述の通り、『光る君へ』は、フィクション…