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JR東海道本線の垂井駅です。3年ほど前に2日かけて名古屋から岐阜羽島経由で垂井まで歩きましたが、その続きになります。 私の東京ー大阪間を歩く個人的目標の一部でもあります。 垂井駅に到着する直前に電車の窓からきれいな桜が見えたので行ってみることにしました。 揖斐川の支流、相川沿いの桜です。ちょっと散りかけですが、やっぱり桜は青空のほうが映えますね。 こいのぼりが春の風に舞っていました。 伊吹山と桜とこいのぼり。 中山道の垂井宿から次の関ケ原宿まで歩きます。電車では1駅、距離にして約7㎞。 ゆっくり写真を撮りながら歩いて2時間弱になります。 旅籠の看板が掲げられた建物。 亀丸屋だそうです。えっ、現…
出身地が岐阜県のウシです。 日本史で必ず出てくる関ケ原の戦いって実は岐阜県なんですよ。そんな歴史の地・岐阜ですが観光をわざわざしたことありませんでした。 ところがリニューアルした関ケ原古戦場記念館に行
岐阜県出身のウシです。 私の実家からほど近い場所に関ケ原合戦上跡地があります。もとは関ケ原町歴史民俗学習館という古い建物が建っていましたが2020年にリニューアル。"関ケ原古戦場記念館"がオープンしま
大垣城は歴史上は関ヶ原の戦いにおいて戦い前に、西軍が駐留していたことで有名です。ここで清洲城の東軍と対陣し前哨戦をします。そんな大垣城です。なかなか格好のよい🏯でした。宜しければポチお願いします🙇⤵️にほんブログ村過去の投稿記事です。彦根城天守閣と城門-リタイアじーじの徒然絵日記国宝の彦根城は現存のお城です。昔のままの風景が残されています。江戸時代の武士も同じ風景を見たと思うとちょっと感動です。なんとも趣のある風景です。登城する武士が城...gooblog国宝彦根城-リタイアじーじの徒然絵日記過去に彦根城は行ったことがありましたが、今回は彦根に宿泊してじっくり訪れました。前回の短時間の訪問では解らなかったお城の色々な顔に接することが出来ました。先ずは...gooblog日本100名城明石城-リタイアじーじ...続日本100名城大垣城と城門
明石城は重要文化財の二つ櫓があります。櫓はそれぞれ異なる城から移築されたものだそうです。舟上城から移築された巽櫓伏見城から移築された坤櫓城はいろいろリサイクルされていたようです。伏見城と言えば関ヶ原の前哨戦で家康の家臣が全員討死した城です。討死した武士に想いを馳せます。歴史はロマンがあります。宜しければポチお願いします🙇⤵️にほんブログ村過去の投稿記事です。郡上八幡城堂々たる城郭続日本100名城-リタイアじーじの徒然絵日記正面の入口です。麓のから急斜面を歩いて登城します。フィナーレにこの景色に出会えます。山城は登城も大変ですが、頂上の景色は努力に報いてくれます。宜しければポチお願...gooblog郡上八幡城🏯と紅葉炎上続日本100名城-リタイアじーじの徒然絵日記秋の郡上八幡城に行ってきました。郡上八幡城...日本100名城明石城石垣と櫓
子どもの頃(1983~1984年)に放送されていた『まんが日本史』の「関ヶ原の合戦」について、どのように描かれていたのか、ヒストリーチャンネルで放送されていた…
ラッキーなことに、車窓観光からおりての観光になった椎根の石屋根倉庫。その後われら一行が向かったのは、万松院でした。万松院。元和元年(1615年)に宗家20代義成(よしなり)が父義智の冥福を祈って創建した寺で、以降、宗家累代の菩提寺となりました。このブログで何度もお世話になっている「長崎しま旅行こう」HPにそう書いてあるように、対馬を明治まで治めた宗家の菩提寺です。HPや観光マップをみると、なんだか山の中にある...
日時:令和5年11月21日 時刻不明 住所:岐阜県垂井町宮代 状況:ツキノワグマの目撃情報 現場:続ぎふ百山のひとつ「南宮山」(標高419m)のハイキングコース ※関ヶ原の戦いでは主に毛利氏が南宮山に陣を構えた ※目撃を受け、令和5年12月31日まで南宮山ハイキングコースは閉鎖させていただきます(垂井町) ※クマを目撃された時は、速やかに役場産業課または垂井警察署までご連絡ください(垂井町) ...
11月25日号のリビング滋賀に 掲載されていたこの記事。 リビング滋賀⇒リビング滋賀 2023年11月25日号 (living.jp) 日程が合えば行きたい…
皆さぁ〜ん、大河ドラマ「どうする家康」見てますかぁ〜関ヶ原後、どうなったかなぁ…って第44話の感想ぉ〜!「関ヶ原の戦い」後、豊臣秀頼に挨拶をした家康。茶々さん…
情報操作や印象操作はこうして起こる!【大河ドラマ『どうする家康』不人気の理由】第43回「関ヶ原の戦い」で感じた歴史認識への酷すぎるミスリード。
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皆さぁ〜ん、大河ドラマ「どうする家康」見てますかぁ〜いよいよ関ヶ原の戦いだぁ〜ってことで第43話の感想ぉ〜!城攻めではなく、石田三成の誘いに乗った徳川家康。決…
彦根市中央町の長松院は、井伊直政が荼毘に付されたところです。慶長7年(1602年)直政は、関ヶ原の戦いで受けた戦傷で、破傷風にかかり病没。その遺意により当時暴れ川であった芹川の三角州にて荼毘に付されました。その跡地に創建された寺院が長松院です。故事によると、善利川(現芹川)の中州において、慶長7年2月1日、井伊直政が42歳にして死去、生前より遺言されていた当地において火化し骨灰遺物を埋葬、塚を建立しその傍に...
天下統一を目指す信長・秀吉・家康がどこでどんな戦いをし世の中が変わっていったのか、分かりやすくまとめています。忘れがちな戦いの“場所”をチェックできる地図を見ながらしっかり覚えよう!
関が原で東西両軍が激突する4日前の慶長5年(1600年)9月11日、徳川家康は清州に到着し、翌12日もそこに逗留しました。ところが、中山道を進軍している...
どうする家康 第43話「関ヶ原の戦い」 その2 ~エピローグ~
「その1」のつづきです。 慶長5年(1600年)9月15日、美濃国は関が原において、東西両軍15万人余の軍勢が衝突した関が原の戦いは、わずか半日、徳川家...
彦根市栄町の蓮成寺が、この地に建立されたのは1602年のことで、前身は石田三成の居城佐和山城にありました。1559年、当時の城主・磯崎丹波守員昌(かずまさ)が織田信長の命により法華丸を建立したのが始まりです。1600年の関ヶ原の戦いで三成が敗れると、法華丸も廃寺となりました。しかし、彦根藩初代藩主・井伊直政の命令により現在の地に蓮成寺として再建されました。蓮成寺の正面側には彦根藩の足軽屋敷が立ち並び、彼らの檀...
慶長5年(1600)10月1日、石田三成は、徳川家康の命により、京の六条河原で斬首されました。享年41。辞世は筑摩江や 芦間に灯す かがり火と ともに消えゆく 我が身なりけり三成の首は三条河原に晒された後、生前親交のあった春屋宗園、沢庵宗彭に引き取られ、京都大徳寺の三玄院に葬られました。大徳寺山門(金毛閣)大徳寺三玄院前の石田三成墓所石碑こちらには、石田三成の墓所があります。こちらの塔頭は、一般公開されておらず...
前回の補遺:稲チャンの「一歩も通しませぬ」って・・・通せんぼは本多家のお家芸かッ(笑) で,アヴァンでこれまでの戦のおさらいね。幾つも泣かせるシーンが;;; 輝元サン,もう最初から最後まで目が泳ぎまくって,まあ。そりゃ,茶々サンもイラつきますわな(笑)何度もタイトル回収すんなよ〜♪ 開戦前の静かなモノローグが,いいですな。 で,先陣のお墨付き,出すのねえ。口実に使った忠吉クンは,どこ? 今回の脚本,とにかくポン...
関ヶ原の戦いに敗れた石田三成は、伊吹山の東にある相川山を越えて春日村に逃れました。その後、姉川に出た三成は、曲谷を出て七廻り峠から草野谷に入り、小谷山の谷口から古橋に逃れました。しかし9月21日、徳川家康の命令を受け、三成を捜索していた田中吉政の追捕隊に捕縛されました。東軍の攻撃を受けて三成の居城・佐和山城は落城し、三成の父・正継、兄・正澄を含む石田一族の多くは殺害されました。9月22日、三成派大津城に...
#477 第43回「関ヶ原の戦い」感想~大河ドラマ『どうする家康』
美濃で向かい合う徳川家康と石田三成、ついに二人の手紙工作の結果なる天下分け目の関ヶ原の戦いを描いた大河ドラマ『どうする家康』の第43回「関ヶ原の戦い」(11月…
【どうする家康】第43話あらすじ・感想考察「関ケ原の戦い」|戦なき世などまやかしの夢「それでもわしはやらねばならぬ」
家康は、赤坂の陣所で三成との決戦の時を迎えようとしていました。 https://twitter.com/nhk_ieyasu/status/1721132756208431131 前回のあらすじはこちら 【どうする家康】第42話あらすじ・感
「英雄たちの選択」で小早川秀秋をやりました。15日に再放送があるそうです。
『どうする家康』で、関ヶ原の戦い、ついに終わりましたね。私自身は見てないのですが、Twitter(X)で見た限り、「問い鉄砲」のエピソードもなく、自分で東軍につくことを決断する、「カッコいい小早川秀秋」だったようです。 秀秋ファンに春が来たかもしれません。 その半面、従来のイメージの強い人には、なんでこんなにカッコよく描くの?昔のドラマであった問い鉄砲のバンバンはないの? というご意見もありましょう。 今回の小早川秀秋の扱いに快哉を叫んでいる人にも、疑問を感じている人にも、見ていただきたい番組が先日BSで放送されました。 それがこちら。『英雄たちの選択』で小早川秀秋の最新の研究成果をもとに、も…
関ヶ原には戦死者を葬った首塚が2つあり、そのひとつがこの東首塚で、JR関ヶ原駅から歩いてすぐのところにあります。朱色の大きな門を抜けると、その奥にスダジイの大木が茂った塚があります。関ケ原合戦後、徳川家康が床几場で首実検をし、その後東西2ヶ所に埋葬したことから「東首塚」と呼ばれています。この首塚に、当時この地の領主であった竹中重門が、家康の命により関ケ原の戦いで戦死した兵士たちを埋葬しました。首洗いの...
『どうする家康』を見て、また見たくなった 岡田准一 主演映画『関ケ原』!!!【雑記夜更かし・めちゃ推しYouTube】
11月12日の『どうする家康』は”関ケ原の戦い”でした。これを見て、また見たい映画がありました。岡田准一 主演『関ヶ原』です。
皆さぁ〜ん、大河ドラマ「どうする家康」見てますかぁ〜関ヶ原にどんどん近づいてドキドキするねってことで第42話の感想ぉ〜!挙兵した石田三成。三成に「家康を討て」…
陣場野公園に「徳川家康最後陣跡」があります。関ケ原合戦の午前11時ごろ、家康は本陣を桃配山から三成本陣の笹尾山のすぐ下(直線距離にて500~600m)へ移動させ、ここからの伝令により松尾山の小早川秀秋に発砲を命じ、関ケ原合戦を勝利へと導いたのでした。合戦後この場にて引見が行われ、敵の首実検が行われました。家康は真っ先に現れた黒田長政に慰労の言葉を惜しまず、腰の吉光の銘刀を与えたといいます。 その後、幕府の命...
#471 関ヶ原の戦い直前まで from『三河物語』~『どうする家康』を楽しむため
10月22・29日・11月5日の大河ドラマ『どうする家康』では秀吉が死に、三成失脚、家康が政治を担当し、会津征伐から三成挙兵、両軍とも美濃終結までが描かれてい…
笹尾山の石田三成陣跡へ島左近陣跡ここから笹尾山に上ります。わずか5分ほどで山頂へ。石田三成陣跡見晴の良いところで、休憩するのは良いのですが、撮影スポットである石碑の前に荷物を置いたり、座り込むのはちょっと・・・(-_-;)三成の兜のモニュメントここから次の目的地まで1.1km歩きます!にほんブログ村 歴史ブログランキングに参加しています。応援よろしくお願いします!にほんブログ村歴女日記ブログランキングに参加し...
関ヶ原の戦い(1)「本多忠勝陣跡~徳川家康最初陣地~決戦地」
2015年に関ヶ原に行った時の記事を再アップします。この日は、JRのさわやかウォーキングに参加しました。駅からすでに合戦がスタートしているようです。最初の陣跡は、駅から0.7kmの本多忠勝陣跡ここから1.8km先には徳川家康最初陣地「桃配山」は二大戦の陣跡と言われています。壬申の乱にて、勝者の大海人皇子が野上行宮より出陣し、陣を敷いたという言い伝えがあり、家康は縁起を担ぎこの場所に陣を置いたといわれています。家康...
関ケ原の戦いの本戦の舞台となるはずだったこの大垣城の展示室には、当時の戦国武将たちの貴重な資料や、江戸以降、実際に戸田氏が使用した甲冑、石田三成をはじめとする西軍・東軍の武将による連署禁制の書が見られます。(複製なので撮影OKです)石田三成が本拠地を置いたこの大垣城から、東軍が陣をおいた岡山(現在のお勝山)までは約5キロあります。(赤で囲んであるところが、東軍が陣をおいた岡山)当時はここからお勝山を見...
大垣城は、1500年(明応9年)に竹腰尚綱によって揖斐川(牛屋川)東河岸にあった牛屋に築かれたとも、1535年(天文4年) に宮川安定が大尻に築いたともいわれ、この当時は、牛屋城と呼ばれていたとされています。1544年(天文13年)に織田信秀により落城し、織田信辰が5年間城主を務め、その後、竹越尚光、氏家直元、池田恒興らが城主となりました。1588年(天正16年)一柳直末によって、若しくは 1596年(慶長元年)頃、伊藤祐盛...
にほんブログ村の「日本史」カテゴリで、注目度でなら10位前後に入ることが時々あるので、今までに書いた歴史関連の記事で代表的なものを集めてみました。と言ってもほとんどNHKの歴史系番組の感想文なんですが……。
どうする家康 第43話「天下分け目」 ~小山評定、伏見城の戦い~
徳川家康とともに会津の上杉景勝討伐に向かった諸将に、上方で石田三成が挙兵したとの報せが入ったのは、慶長5年(1600年)7月20日過ぎのことでした。この...
皆さぁ〜ん、大河ドラマ「どうする家康」見てますかぁ〜家康さんが狸って言われているのは演技なんかなぁ?ってことで第41話の感想ぉ!石田三成を政(まつりごと)から…
#435 2023年10月の購入本について その1 『歴史街道2023.11』
2023年10月購入本は、100分de名著はすでに持っているものでしたので、『歴史街道2023年11月号(特集1「新・関ケ原)』の最新号だけを購入。歴史街道2…
一昨年は「あかりの日」と「直哉忌」をご紹介しました。 昨年は再び「あかりの日」をご紹介しました。 今年はこちらをご紹介いたします。 関ヶ原の戦い開戦日 慶長5年9月15日(西暦1600年10月21日)、美濃国不破郡関ヶ原で徳川家康率いる東軍と石田三成率いる西軍が開戦。 主戦...
【清和源氏】編『新田一族』章「徳川氏」節 75.徳川家康・六十参
9月27日、徳川家康は、大坂城に入城して、豊臣秀頼に拝謁し、西の丸を取り戻すと、嫡子の徳川秀忠を二の丸に入れた。 しかし、10月2日、徳川家康は、黒田長政を…
【清和源氏】編『新田一族』章「徳川氏」節 74.徳川家康・六十弐
徳川家康は、毛利輝元退去後の大坂城西の丸へ入り、井伊直政・本多忠勝・榊原康政・本多正信・大久保忠隣・徳永寿昌の六名に徳川家康に味方した、諸大名の論功行賞の調…
新説がいろいろ出される「関ヶ原の戦い」、NHK大河ドラマ『どうする家康』も、天下人秀吉が亡くなり、次はどうなる関ヶ原の戦いってことでその新説確認してみようと読…
【清和源氏】編『新田一族』章「徳川氏」節 73.徳川家康・六十壱
石田三成が、逮捕された場所は、三成の領内であり、同地の農民が、処罰を覚悟の上で、匿っていた。 しかし、石田三成は、発覚したことを知ると自身、田中吉政の兵に対…
豊臣秀吉の喪は、ただちには発表されませんでした。その理由は、今なお朝鮮に10万の将兵が留まったままで、戦場を混乱させないための配慮でした。慶長3年(15...
ずっとご無沙汰してすみません。前の記事からずっとダウと日経の値動きを追いかけるのに夢中で、取引記録をかけませんでした。 しかも、新しい記事は関ヶ原の戦い関連の話だったりします。 以前から関ヶ原の戦いとそのキーマン? の小早川秀秋のことは記事にしてますので、下記の過去記事をどうぞ。 gonstock.hatenablog.com gonstock.hatenablog.com 以前、「突っ込んだ記事は、関ヶ原合戦の日の旧暦新暦変換の10月頃書けたらいいな、とおもいます。」などと書いておきながら、結局バタバタするままに、あまりいいネタは書けないと思います。ちょっと小早川秀秋ばかりだったので、少し離…
【清和源氏】編『新田一族』章「徳川氏」節 72.徳川家康・六十
9月16日には、伊勢亀山城が開城し、城主の岡本良勝は自刃を命じられた。 良勝の嫡男の岡本重義は、近江水口で自刃した。 東軍に加担するつもりであったが、西軍の…
【清和源氏】編『新田一族』章「徳川氏」節 71.徳川家康・五十九
徳川家康は、関ヶ原の戦いが、東軍の大勝利で終わると、当日、首実検の後、大谷吉継の陣があった、山中村へ陣を移し、休養を取った。翌日の9月16日、 徳川家康は、…
【清和源氏】編『新田一族』章「徳川氏」節 70.徳川家康・五十八
島津義弘は、撤退戦の際、捨て奸と言われる、数人の隊が、留まって、全滅するまで、敵の足止めをし、その部隊が、全滅すると、更に、新しい足止めの舞台隊を残すという…
【清和源氏】編『新田一族』章「徳川氏」節 69.徳川家康・五十七
関ケ原の合戦は、二次史料が、複数あるため、実態は、不明である。 以下は、筆者が、要約した、当日の様相である。 宇喜多秀家は、石原峠を背後に南東の方角に向けて…
【清和源氏】編『新田一族』章「徳川氏」節 68.徳川家康・五十六
細川幽斎は、『古今集証明状』を八条宮に贈り、『源氏抄』と『二十一代和歌集』を朝廷に献上した。 遂に、後陽成天皇は、細川幽斎の歌道の弟子、三条西実条と中院通勝…