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「キングダム 70巻」いよいよ韓非子登場。個人的に最も好きなストーリー展開かも。最近、韓非子の言葉に割と心酔してたので、凄く面白い。意外だったのは70巻のみで…
No.004【中国史の運命を決定した、殷周革命と劉邦の即位】百参十九
甘茂は、斉に出奔する際に、函谷関にて、蘇代に会い、秦に復帰できるように依頼した。 蘇代は、秦に行き、「甘茂は、非凡の士です。 長く、秦に仕えていたために、秦…
No.004【中国史の運命を決定した、殷周革命と劉邦の即位】百参十八
燕の昭王は、斉に攻め込む以前に、将軍の秦開を派遣して、北方遊牧民族の東胡を討った。 秦開は、東胡に人質に出されていたが、その元で東胡の信頼を得て、彼等の風俗…
No.004【中国史の運命を決定した、殷周革命と劉邦の即位】百参十七
田単は、千頭の牛に続き、後千の兵が、無言のまま、猛攻をかけ、更に民衆に銅鑼や鐘等、天地を鳴動させるかのように打ち鳴らし、混乱を煽った。 そのため、燕軍は、大…
No.004【中国史の運命を決定した、殷周革命と劉邦の即位】百参十六
楽毅によって、斉の国都、臨淄が占領されると、田単は、東の安平へ逃げ込んだ。 しかし、燕の勢いを察知し、一族の者に馬車を補強させた、燕軍により、安平が、陥落す…
No.004【中国史の運命を決定した、殷周革命と劉邦の即位】百参十五
郭隗が、昭王に自分に宮殿を与え、優遇させたため、有能な人材を集めることに成功した。 有名な「隗より始めよ」の故事成語の由来である。 なお、趙の武霊王は、燕の…
キャンプに行けない秋の夜長にぜひ読んでほしい本として、人気マンガ『キングダム』のもととなった歴史書『史記』の魅力をたっぷりご紹介します。
No.004【中国史の運命を決定した、殷周革命と劉邦の即位】百参十四
紀元前288年10月、秦の昭襄王が、西帝を自称した。 そして、斉の湣王へ魏冄を派遣し、東帝を称して、共同で、趙を攻めるように要請した。 斉の湣王は、蘇秦に問…
No.004【中国史の運命を決定した、殷周革命と劉邦の即位】百参十参
その結果、函谷関は開かれたため、孟嘗君は、関を抜けると、秦を脱出することができた。 昭襄王の追っ手は、夜明け頃に、函谷関へ着いたが、孟嘗君達が、夜中に関を通…
三国志とはわかりやすく解説!三国志とは簡単に言うと「激爆おもしろい」三国志あらすじを超わかりやすく解説2
超絶人気歴史物語「三国志」。全然わからない人に向けて超わかりやすく面白く解説していきます。
No.004【中国史の運命を決定した、殷周革命と劉邦の即位】百参十弐
宣王は、弟の田嬰を宰相として、重用した。 田嬰は、後世には、靖郭君と呼ばれる。 田嬰の息子が、田文、即ち、中国史上に名高い、孟嘗君である。 田嬰は、薛に領地…
『宋朝とモンゴル世界の歴史6』社会思想社、1974年10大モンゴル2西夏へ、金へ「チンギス汗の名声をきいて、我らはおそれていた。いま、威霊(みいつ)ある汝が、みずからここまで来られて、威霊をおそれた。おそれて、我らタングートの民(西夏)は、汝の右の手となって力を添えよう。しかし、我らは動かぬ住地ある(定住の)、築いた城あるものである。伴(とも)となっても、すばやい出征におもむくとき、するどい戦いをたたかうとき、追いつくことはできぬ。たたかうことはできぬ。チンギス汗よ、恩賜あれば、我らタングートの民は、たくさんのラクダを出して、たてまつろう。毛の糸を織りなして、反物(たんもの)としてたてまつろう。鷹(たか)狩りの鷹をならして、あつめて、そのなかの良いものをささげることにしよう。」西夏とて、過去二百年余りも強...6-10-2西夏へ、金へ
『宋朝とモンゴル世界の歴史6』社会思想社、1974年11悲劇の朝鮮半島1太子の入朝第四代大汗モンゲが四川(しせん)の陣中で病死した頃(一二五九年七月)、その本営たる六盤山(ろくばんざん)をめざして、ひたすら道をいそいでいる一行があった。高麗(こうらい)の太子倎(てん)と、その従者たちである。モンゴル兵の一隊が、これを守っていた。太子の一行は、したしくモンゴルの大汗に謁見するために、降衣をささげて、モンゲのもとにおもむこうとしていたのである。太子が六盤山についたのは、九月の初めであった。ついてまもなく、大汗の死を知った。異常な事態にたちいたって、一行はむなしく六盤山をひきあげた。いま来た道を、ひきかえす。国を出てから四ヵ月半、それも服属をちかうために、半島の都から、川をこえ、山野をわたって、はるばる中国の西...6-11-1悲劇の朝鮮半島
No.004【中国史の運命を決定した、殷周革命と劉邦の即位】百参十壱
鄒忌は、公孫閈の策を受け入れて、威王に説き、威王は、受け入れ、田忌に魏を討たせた。 田忌は、三度、魏と戦い、三度、勝利した。 鄒忌は、その勝利を公孫閈に告げ…
No.004【中国史の運命を決定した、殷周革命と劉邦の即位】百参十
紀元前307年、武霊王は、野望を達成するための準備として、胡服騎射を取り入れることを考える。 中華世界の貴族戦士の伝統的な戦術は、三人人の戦士が、御者と弓射…
No.004【中国史の運命を決定した、殷周革命と劉邦の即位】百二十九
紀元前375年、敬侯の死後、息子の成侯が即位した。 翌年には、公子勝が、侯位を求めて、起兵した。 紀元前372年、成侯は、大戊午を趙の宰相に任用し、衛を攻撃…
No.004【中国史の運命を決定した、殷周革命と劉邦の即位】百二十八
甘茂は、秦に帰国すると、息壌で、武王に会った。 武王は、事情を尋ねた。 甘茂の策は、「韓の重要拠点である、宜陽は大邑です。落とすのは、容易ではありません。現…
映画「キングダム3」が公開され、注目度が高まる中国史。キングダムって何が面白いの?中国史ってほかにどんなのがある?そんな疑問に答える3冊を紹介します。 時は紀元前、春秋戦国時代。いまだ一度も統一されたことのない中国大陸 ...
『宋朝とモンゴル世界の歴史6』社会思想社、1974年12元朝の支配7「省」の由来現代の中国では「省」が地方の行政区両となっている。逝江省とか、福建省とか、いうものである。ところが日本では「省」は中央の官庁である。この違いは、元朝の制度からおこった。そもそも中国では、古代に「三省六部(りくぶ)」の制が完備している。三省とは、中書・門下・尚書であった。中書省は詔勅(法令)の案文を起草し、それを門下省が審議する。こうして案文が決定すると、皇帝が公布し、尚書省をして執行させる。尚書省のもとには六部があって、行政を分担した。六部とは、吏・戸・礼・兵・刑・工であった。この制度を日本でも採用した。ただし国情にあわせて変改をくわえ、「二官八省」の制を立てた。二官とは、神祇(じんぎ)官と大政官である。そして太政官のもとに、...6-12-7「省」の由来
No.004【中国史の運命を決定した、殷周革命と劉邦の即位】百二十七
紀元前313年、張儀は、楚に対する、工作に入り、楚に対し、商・於の地、六百里四方を割譲するので、斉との同盟を破棄して欲しいと申し入れた。 楚の懐王は、喜んで…
『宋朝とモンゴル世界の歴史6』社会思想社、1974年12元朝の支配5ラマ僧の権威元朝はモンゴル人の天下である。いかに色目人が重用せられたからといって、それはモンゴル人の補佐たる役割のものであった。サンガのように、色目人であって宰相につぐ地位にのぼった者もあるが、それは特例にすぎなかった。中央と地方とを問わず、長官たる地位を占めたのは、やはりモンゴル人であった。社会生活においても、モンゴル人は特権をもっていた。たとえば「モンゴル人と漢人とが争って、(モンゴル人が)漢人をなぐっても、漢人は報復することはできない。役人に訴えることをゆるす。」――これは法令として、正式に布告されたものなのである。中国人がモンゴル人(色目人を含む)を殺せば、もちろん死刑である。その上に、犯人の遺族は埋葬金をおさめねばならなかった。...6-12-5ラマ僧の権威
【成績】1学期の成績(中国語Ⅰ・中国と東部ユーラシアの歴史・記号論理学【再】・心理学実験3)
放送大学の成績がでました。今回は再試験を含めて4科目。何よりもびっくりな結果が、中国語Ⅰ。評価自体はCと決してよくありませんが、今回受講して、なんと一回で合格…
『宋朝とモンゴル世界の歴史6』社会思想社、1974年12元朝の支配1ベニスの商人ちょうどフビライが即位したころのことである(一二六〇頃)。キプチャク汗のベルケ(バツの子)はめずらしい客人を引見していた。ベニスの商人で、ニコロ・ポーロとマッフェオ・ポーロの兄弟であった。二人は一二五三年にベニスを発し、商売のためにコンスタンティノープルにおもむいた。そこに六年ほど滞在し、それからモンゴル人と取引しようと思いたって、キプチャク汗国まで出むいてきたのであった。ボーロ兄弟は、ペルケに宝石を贈り、その二倍の値段にあたる品物を受けとった。取引は大もうけであった。勇(いさ)んでベニスに帰ろうとしたところ、イル汗国のプラグとベルケとのあいだに戦争がはじまった。南西への道は危険となる。帰りたくとも帰れない。そこで東方へむかっ...6-12-1元朝の支配
『宋朝とモンゴル世界の歴史6』社会思想社、1974年12元朝の支配2カトリック伝道ポーロ一家がまだ中国にいた一二八九年、イタリアを出発して東方へむかった宣教師があった。これこそローマ教皇(ニコラウス四世)の命令をうけたジュアン・ド・モンテ・コルビノの一行であった。インドおよび中国(モンゴルを含む)にカトリックを伝道することが、その使命であった。ヨーロッパからモンゴルに宣教師がおもむくことは、これが初めてではない。すでに一二四六年、プラノ・カルピニはローマ教皇の使節として、モンゴルにおもむいた。そして時の大汗グユクに謁見し、教皇からの書簡をわたした。一二五四年には、フランク王(ルイ九世)の使節として、ギョーム・ド・ルブルクがつかわされ、大汗モンゲに謁見している。これらの使節は、キリスト教を伝道するという目的...6-12-2カトリック伝道
No.004【中国史の運命を決定した、殷周革命と劉邦の即位】百二十六
張儀は、不遇の時代が、続き、既に、趙において、出世していた、蘇秦を頼った。 しかし、張儀の予期に反して、蘇秦に大いに侮辱されたため、張儀は、発奮し、屈辱を返…
No.004【中国史の運命を決定した、殷周革命と劉邦の即位】百二十五
恵文君は、秦の国力を元に、謀略家である、張儀を登用して、樛斿の次の相邦に任じた。張儀は、度々、魏・斉・楚等を討った。そして、紀元前324年、恵 文君は、即位…
『宋朝とモンゴル世界の歴史6』社会思想社、1974年11悲劇の朝鮮半島5反逆と抵抗井上靖の『風涛(ふうとう)』は、モンゴルの圧力の前に、高麗の人々がいかに苦しんだか、その間の動きを克明につづったものである。小説のかたちをとっているけれども、正確な記録にもとづき、史実に即して、えがかれている。ともあれ高麗は、フビライが日本に目をむけたことによって、ふたたび受難の時代をむかえたのであった。フビライの詔書をみると、当然のことながら、みずから「大蒙古国皇帝」と袮し、日本の君主は一段ひくく「日本国王」とよんでいる。それだけでも日本が、モンゴルの申しいれを拒絶することは、明らかであった。かねてから日本の天皇は、中国の皇帝にむかって対等の礼をとろうとしてきたし、高麗の国王にむかっては朝貢の礼をもとめてきた。その日本が、...6-11-5反逆と抵抗
『宋朝とモンゴル世界の歴史6』社会思想社、1974年11悲劇の朝鮮半島2内憂と外冦そもそも半島に「高麗」が建国したのは、十世紀のはじめ(九一八)のことであった。それまで二百年ちかくにわたって統一国家を維持してきた新羅も、九世紀には国勢がおとろえる。国内のあちこちに一揆がおこり、反乱があいつぎ、これに乗じて各地の有力者が立ちあがった。半島は騒乱のちまたとなり、北部に、また西部に、新しい国が建てられた。九世紀の末、すでに新羅は、半島の南部のみをたもつ小国にすぎなかった。動乱のなかから、ひとりの英傑があらわれた。王建(おうけん)である。国を建てて高麗と号し、しだいに勢力をひろげた。ついに新羅王も、これに降伏する(九三五)。半島の統一が完成したのは、その翌年であった(九三六)。高麗は、その内政をととのえるとともに...6-11-2内憂と外冦
No.004【中国史の運命を決定した、殷周革命と劉邦の即位】百二十四
公孫鞅は、過去の親友、魏の総大将である、公子卬を欺いて招き、公子卬を捕虜にして、魏軍を打ち破り、黄河以西の土地を奪った。 魏は、危険を感じたために、首都を安…
『宋朝とモンゴル世界の歴史6』社会思想社、1974年10大モンゴル8グユクとモンゲつぎの大汗としてオゴタイが期待していたのは、孫にあたるシラムンと、そしてモンゲであった。しかしオゴタイの死後は、その皇后(ドレゲネ)が監国(かんこく)となって、政務をみる。彼女にとってみれば、みずからの子であるグユクを位につけたがった。(グユク中華ドラマ「フビライ・ハン」より)もちろん、それにはクリルタイをひらいて、承認してもらわねばならない。ところがグユクはかねてからバツと仲たがいしていた。したがってバツは、グユクを大汗に推すことには、まっこうから反対している。クリルタイをひらこうとしても、ロシアにとどまっていて、出席しようとはしない。むなしく二年、三年とすぎていった。バツは、ヨーロッパへの遠征を中止したものの、そのままロ...6-10-8グユクとモンゲ
『宋朝とモンゴル世界の歴史6』社会思想社、1974年10大モンゴル5巨星は落ちたチンギス汗は、大西征のつ彼をいやすひまもなく、早くも同じ年(一二二五)の秋には、つぎの遠征に出陣した。さきに命令にそむいた西夏の国を討伐するためのものであった。そして西夏の征服は、金の帝国を完全に屈服させるためにも、必要と考えられたからである。しかし不世出の英雄も、すでに六十歳をこえていた(年齢には数説あり)。その年の冬には、狩猟のさなかに落馬して傷を負った。左右の人たちはカンの身を案じて、ひとまず撤退することにきめたが、チンギス汗は承知しなかった。あくまでも軍を進めることを命じたのである。攻撃はつづけられた。一二三六年から翌年にかけて、モンゴル軍は、西夏のはげしい抵抗をやぶりながら、やがて国都の興慶をかこんだ。軍の進むところ...6-10-5巨星は落ちた
『宋朝とモンゴル世界の歴史6』社会思想社、1974年10大モンゴル1西方にむける目全モンゴルの大汗となったチンギス汗の前には、おびただしい財宝がつまれていた。それはモンゴルのものだけではなかった。はるか西方のイランやアラビアの産物までが、チンギス汗のもとへ、はこびこまれていたのである。そうした遠い国のめずらしい品物をもたらし、遠い国のふしぎな物語をきかせてくれるのは、中央アジア(西域)から来たウイグル人であった。ウイグル人の多くは、イスラム教徒である。かってイスラム教徒は、西アジアからヨーロッパとアフリカの一部にかけて(地中海をめぐって)、サラセン帝国とよばれる大帝国をきずきあげた。それが八世紀から九世紀にかけてのこと(唐代)である。その後、帝国の勢いはおとろえたけれども、イスラム教徒の意気はなおさかんで...6-10-1大モンゴル
No.004【中国史の運命を決定した、殷周革命と劉邦の即位】百二十参
しかし、最初は、新法の成果が上がらず、民衆からは、不満の声が揚がったが、公孫鞅は、意に介さなかった。 公孫鞅は、法が、確実に守られていないと考えた。 紀元前…
『宋朝とモンゴル世界の歴史6』社会思想社、1974年9草原の英雄6モンゴルの統一いまや高原は、テムジンのもと、ひとつになった。毛氈(もうせん)の帳裙(ちょうくん=帳幕のすそ)ある国は、ことごとく平定された。小さなモンゴルの国が、高原をおおう大国となったのである。虎の年(一二〇六)あらゆる部族、氏族の代表が、オノン川の源にあつまった。クリルタイである。クリルタイとは「集会」のことであり、カンの推戴(すいたい)や、戦争の決定など、国家の部族の重大な行事のときに開かれる習わしであった。そのクリルタイが、これまでにない大きな規模をもって、盛大にいとなまれる。白い旗じるしが、九つの脚にささえられて、高くかかげられた。そのもとで、テムジンはふたたびカンに推戴された。さきには小さなモンゴルの国(それは全モンゴルではない...6-9-6モンゴルの統一
『宋朝とモンゴル世界の歴史6』社会思想社、1974年9草原の英雄3カンとなっていくばくかの月日がすぎた。一家の暮らしも、しだいに立ちなおった。テムジンは、父が死んで以来、わかれていたボルテをむかえようと、デイ・セチェンのもとにおもむいた。デイはよろこんで、ボルテをめあわせ、引き出物として、黒い貂(てん)の裘(かわごろも)をおくってくれた。いまやテムジンは、妻をめとった。なき父の縁故によって、数名の部下もできた。この上は強力な後援がほしい。そうしたとき、かつてエスゲイが、ケレイトのトオリル・カン(汗)と、アンダの盟約をむすんでいたことを思いおこした。アンダとは義兄弟のことである。ケレイトの国は、はやくから西方の文明をとりいれ、トラ川とオルホン川のほとりに、ひろい牧地をもって、強大な勢力をほこっていた。そのカ...6ー9ー3カンとなって
中国と東部ユーラシアの歴史、単位認定試験を受けました物凄く難しく感じました一通りの勉強は大分前に終わり、ほぼ忘れている状態……過去問しろよって話ですが、せずに…
『宋朝とモンゴル世界の歴史6』社会思想社、1974年9草原の英雄1モンゴルの勇者よく晴れた日であった。いつものように、エスゲイは、ひとりで鷹狩りに出かけた。オノン川のほとりまでゆくと、むこうから一団の人々が来る。メルキト国の人々であった。メルキトのチレドという若者が、嫁をもらって連れてゆくところなのであった。さぐって見ると、顔かたちのすぐれた、うつくしい女である。エスゲイは、たちまちわが家に走りかえった。エスゲイは、兄と弟とを連れてきた。そしてチレドの行列を追った。チレドはおそれた。足のはやい黄馬(きうま)にまたがり、むちうちながら丘をこえて、身をかくした。そのうしろから、三人はつづいて追った。女は車に乗っている。チレドは山のはしをひとめぐりして、車のところへもどってきたところに、三人が行きついた。チレド...6ー9ー1草原の英雄モンゴルの勇者
No.004【中国史の運命を決定した、殷周革命と劉邦の即位】百二十弐
孫臏の同時代の人物には、中華の歴史上、最大の影響を与えた一人である、商鞅がいる。 商鞅の姓は、姫、氏は、公孫、名は、鞅。 また、衛の公族系のために衛鞅とも呼…
『宋朝とモンゴル世界の歴史6』社会思想社、1974年7都市と農村7農村のすがたさまざまの産業にもまして、めざましい発達をとげたのは、農業であった。華北の畑作地帯では、すでに唐中期には、それまで一年一毛作の農業から、麦と粟(あわ)などをうまく組みあわせて二年三毛作にすることに成功している。ついで宋代にめざましく農業が発達しだのは、江南の水田耕作であった。もともと江南の水田耕作は、ながく中国の政治や文化の中心であった華北の畑作にくらべて、技術的におとっていた。ふるくからの耕法は、火耕水耨(かこうすいどう)といって、草を焼きはらったところに稲をうえ、やがて稲のほかに草が生えてくると、水をひき入れて草を枯らし、稲だけ成育するようにする。いわば一種の焼畑(やきばた)耕作であった。康代になって、ようやく田植えが行われ...6-7-7農村のすがた
『宋朝とモンゴル世界の歴史6』社会思想社、1974年8難解の文字2西夏文字の解読西夏文字は、久しい間、ナゾの文字であった。いや、こうした文字が存在したことさえ、わすれ去られていた。いったんほろび去った西夏文字が、ふたたび姿をあらわしたのは、一八七〇年(明治三年)における居庸関(きょようかん)刻文の発見であった。ここには、元(げん)朝のもとに用いられた六種の文字が、きざまれていた。その一つが、西夏文字であった。しかも当初は、それが西夏文字であることもわからなかったのである。それから十年あまりたった。居庸関のナゾの文字は、西夏の古銭にきざまれた文字と照らしあわせた結果、西夏文字であることが明らかとなる。これから研究がはじまった。西夏語の文献も、次々に発見された。なかでも、カズロフ探検隊がもたらした『蕃漢合時掌...6-8-2西夏文字の解読
『宋朝とモンゴル世界の歴史6』社会思想社、1974年8難解の文字4女真文字の場合「金」国を建てた女真人は、女真文字をつくった。その最初の制定は太祖(阿骨打=アロダ)のときのことで、契丹文字の制作からほぼ百年後にあたっていた。これは女真大字といわれ、おそらく契丹文字を模したものと思われるが、その遺品はまだ発見されていない。こえて第三代の煕(き)宗のとき(一二二八)、いわゆる女真小字が制定された。これは「金」国の領内にひろく使用せられ、碑文や文書として、かず多く残っている。「金」は、宋を圧して南方に追い、華北を領有した。やがて都もいまの北京にうつしたが、そうなると女真人の間には、中国の文化が急速にしみわたる。固有の風俗も、かえりみられないようになる。この傾向をうれえたのが、中興の英主といわれた世宗であった。世...6ー8ー4女真文字の場合
◆第061位 『ノルマン騎士の地中海興亡史』評価:085点/著者:山辺規子/巻数:全1巻/ジャンル:西洋史/2009年 ◆第062位 『韓国の教科書に出てくる…
No.004【中国史の運命を決定した、殷周革命と劉邦の即位】百二十壱
斉軍と魏軍は、桂陵において、合戦をしたが、魏軍は大敗し、龐涓は、生け捕りとなった。 結果的に、魏軍の包囲は解けたのである。「批亢搗虚」は、後世に、「囲魏救趙…
『宋朝とモンゴル世界の歴史6』社会思想社、1974年7都市と農村3民衆の文化都市に住む民衆は、ギルドの中小商人をみてもわかるように、けっして、かならずしも自由な市民とはいえなかった。しかし唐代とくらべるならば、はるかに解放されていた、といえるであろう。こうして民衆にうけいれられ、民衆とむすびついた都市文化が生みだされ栄えてゆく。勾欄(こうらん)で演ぜられる演芸は、まさに民衆のためのものであった。詞(し)もまた、そうであった。「詞」は曲に合わせてつくられた韻文であり、歌う文学ともいえるものであった。唐の中頃からあらわれ、やがて宋代には、「唐詩」に対して「宋詞」といわれるほど、大いに流行した。豪放(ごうほう)な北派と、婉麗繊細(えんれいせんさい)な南派と、ふたつの系統があった。詞はもともと詩から変化してきたも...6-7-3民衆の文化
『宋朝とモンゴル世界の歴史6』社会思想社、1974年7都市と農村2都の明け暮れ開封の都はにぎやかであった。大通りにのぞんで、あちこちにさまざまの店ができた。それだけではない。夜が明けるころには、城門や橋のたもとなど、いろいろの場所で市(いち)がたった。豚や羊をつれて売りにくる者、果子(くだもの)や麺類を売る者、薬や書画を売る者まで、さわがしさと活気にみちた光景がみられた。なかには鬼市子(きしし)といって、泥棒市のようなものまで立った。これは午前三時ごろひらかれ、明けがたには姿を消してしまう。こうして、にぎやかな都市の一日がはじまるのであった。大通りには、酒楼とよばれた料理店がたちならんでいる。酒楼の入口には、色とりどりの紐(ひも)を、のれんのようにむすびあわせて歓門(かんもん)がつくってあり、客はこれをく...6-7-2都の明け暮れ
『宋朝とモンゴル世界の歴史6』社会思想社、1974年7都市と農村1都市のすがた中国では、首部はもちろん、だいたい県庁の所在地ほどの都市になると、周囲に城壁をめぐらし、町をすっぽりつつんでいた。わが平城京や平安京の全体が、城壁にかこまれていたと考えればよいであろう。そして大きな都市ともなれば、城壁が二重、ときには三重にもなっていた。城壁の規模もまことに大きい。後周の世宗(柴栄=さいえい)が全中国の中心にしたいとの願いをこめてつくった開封(かいほう)の都は、いちばん外側の城壁の周囲は二○キロあまり、唐の長安城のほぼ三倍の規模であった。五代十国王朝のひとつ、呉越国の都の杭州では、城壁がさらにひとまわり大きく、三〇キロちかくもあった。城壁の高さは二五メートルほどで、溥(かわら)を積みあげてつくった。城壁の上には女...6-7-1都市と農村
No.004【中国史の運命を決定した、殷周革命と劉邦の即位】百二十
孫臏は、若い頃、龐涓と共に兵法を学び、龐涓は、魏に仕官し、恵王の元で将軍になった。 しかし、龐涓は、自分が、孫臏に及ばないことを感じていたために、偽って、孫…
『宋朝とモンゴル世界の歴史6』社会思想社、1974年5外圧と内争5党争の展開王安石は、江南の出身であった。このころになると、江南出身の文官が、華北の出身者を圧倒するほどに多くなっていた。ところが王安石の新法に反対する者のなかに、華北出身の長老がいた。司馬光や、韓琦などである。新法に反対したので、旧法党とよばれた。新法のひとつに、方田均税法というのがあった。地主層と一般農民との賦税の負担を公平にしようとするねらいで、おもに華北に実施された。こうしたところから、新法党と旧法党の争いには、出身地のちがいによる利害がからみあっていたと見られよう、それでなくとも、官戸はもちろん、大地主や大商人などの富岳層にとって、新法は自分たちの富の集中をおざえるものであった。文官たちも、もとをただせば大地主の出であり、大商人とは...6-5-5党争の展開