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No.004【中国史の運命を決定した、殷周革命と劉邦の即位】百八十四
商鞅は、咸陽を中心に秦に41県を配置した。 郡は、秦においては、他国を併合した際にその領域を称することが多く、県を置くのは、その後であった。 そのため、秦の…
No.004【中国史の運命を決定した、殷周革命と劉邦の即位】百八十参
他の一つは、殷の遺民を封じた、宋の様に、旧来の族集団を基本的に維持したままにして、諸侯に封じて、建国させる類型である。 周王権は、その支配領域を再編し、政治…
No.004【中国史の運命を決定した、殷周革命と劉邦の即位】百八十弐
中華世界では、龍山文化期から、殷代にかけての社会統合の制度は、「貢献」と呼ばれる、貢納制であったとされる。 殷末から、西周期にかけて、貢納制は、更に進化し、…
No.004【中国史の運命を決定した、殷周革命と劉邦の即位】百八十壱
「従士団」とは、主君に統率された、一団の自由人男子に形成された、戦士共同体である。 古代ゲルマン人における、支配・服従の関係は、被支配者の自由人男子の隷属化…
No.004【中国史の運命を決定した、殷周革命と劉邦の即位】百八十
「封建制」においては、諸侯達は、領有統治権の代わりに君主に対し、貢納、軍事奉仕等の臣従が、義務づけられ、領有統治権及び、臣従義務は、一般に世襲される。 「封…
No.004【中国史の運命を決定した、殷周革命と劉邦の即位】百七十九
「中華」または、「華夏」の用語は、「優れた文化を持つ者」を意味し、漢民族の間では、「中国」と同様の自称として用いられた。 「中心の国に住む優れた文化の担い手…
No.004【中国史の運命を決定した、殷周革命と劉邦の即位】百七十八
筆者は、「中華世界」との言葉を使用し続けたが、一般に用いられる、「中国」とは、本来、特定の国家や及び、民族を指す言葉ではない。 西周時代には、中原、または、…
No.004【中国史の運命を決定した、殷周革命と劉邦の即位】百七十七
秦王政によって、中華世界は、初めて強大な一人の権力者の支配に入った。 夏・殷・周の三代王朝は、中華世界の唯一の支配者であったが、周の建国当初の中華世界は、黄…
No.004【中国史の運命を決定した、殷周革命と劉邦の即位】百七十六
そのため、楚の旧都の郢陳の民が動揺し、楚の公子である、昌平君が当地へ送られ、楚の民を安撫するように命じられた。 そして、前述の通り、紀元前225年、李信と蒙…
No.004【中国史の運命を決定した、殷周革命と劉邦の即位】百七十五
紀元前226年の秦による、燕への総攻撃は、秦の将軍、王翦、王賁、李信が、指揮した。 燕王喜は、趙の亡命政権である、代国の代王嘉と同盟を結び、秦軍と戦ったが、…
No.004【中国史の運命を決定した、殷周革命と劉邦の即位】百七十四
秦舞陽は、13歳で人を殺しており、壮士として、有名であったが、荊軻は、秦舞陽のことを頼りにならないと見抜き、遠くに住む、旧友を同行者に加えようと待機していた…
No.004【中国史の運命を決定した、殷周革命と劉邦の即位】百七十参
前述の通り、秦が、趙を滅ぼすと、燕は、秦の隣国になったため、秦は、燕に攻め寄せ、燕は、武力では、対抗できなかった。 太子丹は、軍事力ではなく、非常手段である…
No.004【中国史の運命を決定した、殷周革命と劉邦の即位】百七十弐
趙の国都、邯鄲の陥落後、幽繆王は、顔聚と共に東陽へ逃げたが、王翦・羌瘣にその地を平定され、捕らえられた。 その後、幽繆王は、房陵に流され、趙は、遂に滅亡した…
「小学生でもわかる世界史」朝日新聞出版YouTubeで非常に有名な「ぴよぴーよ速報」がとうとう本になりました。世界史を異様に軽妙な語り口かつ、ナメたような調子…
No.004【中国史の運命を決定した、殷周革命と劉邦の即位】百七十壱
紀元前231年、韓王安は、秦に南陽の地を割譲した。 紀元前230年、秦王政は、内史騰を大将とし、10万の軍勢により、韓を攻めた。 韓王安は、捕虜となり、韓は…
No.004【中国史の運命を決定した、殷周革命と劉邦の即位】百七十
秦王政は、新政の開始時、李斯や及び、尉繚等の協力の許、「諸侯を滅ぼして、帝となり、天下を統一する」との策略を立てた。 具体的な措施として、遠国の燕及び、斉は…
No.004【中国史の運命を決定した、殷周革命と劉邦の即位】百六十九
『韓非子』の作者、韓非の出自は、韓の公子であり、後に秦の宰相となった、李斯と共に荀子に学んだとされるが、別説がある。 韓非は、生まれつき、重度の吃音であり、…
No.004【中国史の運命を決定した、殷周革命と劉邦の即位】百六十八
紀元前238年、公子顛は、人質であったが、秦王政に仕え、前述の通り、嫪毐が背くと、甥の昌平君と共に叛乱を鎮圧した。 その功績によって、秦王政から、昌文君に封…
No.004【中国史の運命を決定した、殷周革命と劉邦の即位】百六十七
私は、血脈を鋭い鍼で刺し、劇薬を投じ、皮膚を裂きました。 そのため、しばらくして、諸侯に名声が聞こえ出たのでございます』。 文侯は、『そうか。病が大きく、露…
No.004【中国史の運命を決定した、殷周革命と劉邦の即位】百六十六
小国の殷、周、呉の勝利こそ、孫子の『戦わずして勝つは、善の善なる者なり』であり、また、道家思想に言う、『陰経の法・夜行の道・天武の類』です。 現在、百万の屍…
No.004【中国史の運命を決定した、殷周革命と劉邦の即位】百六十五
秦と五カ国の合従軍との函谷関の戦いの際、趙軍を率いていたのは、老将の龐煖であった。 龐煖は、若い頃、楚の深い山奥で、道家の隠者、鶡冠子(かつかんし)、即ち、…
No.004【中国史の運命を決定した、殷周革命と劉邦の即位】百六十四
秦王政の親政開始頃、趙には、戦国四大名将の一人、李牧がいた。 李牧は、元々は、趙の北方の代郡・雁門郡に駐屯する、国境軍の長官であった。 李牧は、国境防衛のた…
No.004【中国史の運命を決定した、殷周革命と劉邦の即位】百六十参
呂不韋は、「仲父」と呼ばれる程の権威を得ると、多くの食客を養い、紀元前239年には、『呂氏春秋』の編纂を完了した。 『呂氏春秋』は、十二紀・八覧・六論から構…
『アジア専制帝国世界の歴史8』社会思想社、1974年15イスラムとインド5ムガルの栄光一五二六年、カーブルの小国の王であったバーブルは、パーニーパットの戦いで、デリーのローディー朝の軍を破り、ムガル帝国の基礎をきずいた。この帝国の三百数十年にわたる支配の期間に、十七人の皇帝が王座にすわった。最後の皇帝バハーズル・シャーは、十九世紀なかばの「セポイの反乱」の結果、ビルマのラングーンに流され、異国に獄死した。この悲劇の大物のほか、一般の人たちにもよく知られている人物といえば、はじめの六人の皇帝だけにすぎない。ムガルの初期から中期にかけての六人の皇帝は、それぞれインド史上では、名のとおった人物となっている。この六人の帝王の、およそ百八十年にわたる治世の間に、ムガルの勢力は、帝国の体制を完成し、その支配も北インド...8ー15ー5ムガルの栄光
No.004【中国史の運命を決定した、殷周革命と劉邦の即位】百六十弐
紀元前247年、荘襄王が、死去すると、荘襄王と趙姫の息子で、十三歳の政が、秦の王位を継承した。 曽祖父の昭襄王の死は、紀元前251年であるため、秦王政は、曽…
No.004【中国史の運命を決定した、殷周革命と劉邦の即位】百六十壱
兵士の一人、李同が、平原君に「貴方にとって、趙の窮状は、他人事ですか」と聞いた。 平原君は「そんなことは無い。趙が滅びれば、私も滅ぶ」と言ったが、李同は、「…
No.004【中国史の運命を決定した、殷周革命と劉邦の即位】百六十
斉の孟嘗君、趙の平原君、魏の信陵君、楚の春申君を「戦国の四君」と呼ぶ。 前述の通り、孟嘗君は、斉の公族の田文、平原君は、趙の公子の趙勝、信陵君は、魏の王子の…
No.004【中国史の運命を決定した、殷周革命と劉邦の即位】百五十九
当初、信陵君は、5城を受け取ろうとしたが、食客に諭され、以後、固辞した。 信陵君は、趙に滞在中、博徒の間に隠れていた、毛公と味噌屋に身を隠していた、薛公に対…
No.004【中国史の運命を決定した、殷周革命と劉邦の即位】百五十七
宴席の客達は、侯嬴の言葉の意味が、全く訳が解らなかったため、信陵君をどうでもいい用事で待たせる、失礼な爺だと、侯嬴を蔑す、一方で、嫌な顔をせず、待っていた、…
No.004【中国史の運命を決定した、殷周革命と劉邦の即位】百五十七
紀元前250年、孝文王の死後に、太子の子楚が、荘襄王として即位した。 遂に、呂不韋の「奇貨居くべし」が、実を結ぶと、呂不韋は、秦の丞相となった。 荘襄王の義…
『アジア専制帝国世界の歴史8』社会思想社、1974年13清朝の権力と富の行方5王宮の襲撃白蓮の動乱は、十年にしてようやく鎮定をみた。しかし嘉慶帝の親政による弊政の克服は、もはや至難の業(わざ)であった。克服とはいえ、官僚国家の体制が持続されるかぎり、抜本的ではありえたかった。「和珅が弾劾されて、嘉慶は満腹する」との巷間の言は、これを裏書きする。中間地帯から西辺にかけての教乱とはいえ、治政の間隙におこった白蓮の動乱は、中国本土における動乱である。その鎮定に十手を要したことは、社会に不安と動揺をたかめた。くわえて弊政の克服も、短い年月では不可能に近い。動乱の気運は各地におこり、また爆発した。五省にわたった白蓮教軍の動乱は、平定された。しかし、それはあくまでも起乱に参加した者の武力反抗が、ひとまず終結しただけの...8-13-5王宮の襲撃
No.004【中国史の運命を決定した、殷周革命と劉邦の即位】百五十六
しかし、范雎は、重病と称したため、昭襄王は、やむを得ず、范雎を宰相から、免じた。 紀元前251年、昭襄王は、七十五歳で、死去した。 昭襄王の在位期間は、五十…
No.004【中国史の運命を決定した、殷周革命と劉邦の即位】百五十五
原泰久氏の漫画、『キングダム』では、昭襄王の時代、白起を含め、秦の「六大将軍」が、存在したとする。 「六大将軍」は、白起、楊摎、王齕、胡昜、司馬錯、王騎の六…
No.004【中国史の運命を決定した、殷周革命と劉邦の即位】百五十四
紀元前257年、昭襄王は、趙の邯鄲に援軍を送ったが、勝てないため、王陵を更迭して、王齕に代わらせた。 しかし、邯鄲は、陥落せず、趙の援軍として現れた、魏の信…
No.004【中国史の運命を決定した、殷周革命と劉邦の即位】百五十参
趙軍は、秦軍に完全に包囲された、長平城において、46日間も兵糧が届かずに、飢えた、兵士達は、互いに殺し合って、その肉を食らい、飢えを凌ぐ、有様であった。 趙…
No.004【中国史の運命を決定した、殷周革命と劉邦の即位】百五十弐
孝成王は、韓の上党の割譲に対し、悩んだ末、平原君の案を採用して、上党に兵を送ると、上党を接収した。 秦の昭襄王は、激怒し、紀元前260年、王齕を将軍とした、…
評価:80点/作者:宮城谷昌光/ジャンル:歴史小説/出版:2017年 『呉漢』は、2017年に出版された、宮城谷昌光氏の中国史小説である。 本書の主人公、…
No.004【中国史の運命を決定した、殷周革命と劉邦の即位】百五十壱
范雎は、「黄歇は、人臣として、一身を投げ出して主君に殉じました。 仮に、太子完が、楚の王位に即けば、必ず、黄歇を重用します。 今は、黄歇を罰しないで、帰国さ…
体はまるで虎、腰は熊のような体格をしたこの漢(おとこ)は、姓名を孫堅、字を文台といい、孫氏の末裔を称している。十七歳の時、商人から金品を強奪した海賊を討伐した功により、校尉に推挙された。その後、許昌という者が陽明皇帝と称して、子の許韶と反乱を起こしたが、孫堅はこれを鎮圧。
No.004【中国史の運命を決定した、殷周革命と劉邦の即位】百五十
魏冄は、宰相として、内政のみならず、自身、将軍として戦地に赴き、軍事に優れていた。 しかし、魏冄自身の封地、華陽君羋戎、高陵君・涇陽君等を富ませるための戦役…
評価:90点/作者:宮城谷昌光/ジャンル:歴史小説/出版:2015年 『劉邦』は、2015年に出版された、宮城谷昌光氏の中国史小説である。 本書の主人公、…
『アジア専制帝国世界の歴史8』社会思想社、1974年10大清帝国の完成5五族の中国秘密主義ときびしい弾圧をもって、皇帝独裁の体制を確立することにっとめた雍正帝は、在位十三年にして、にわかに世を去った。円明園の離宮で、急死した。恐怖の親政体制を樹立した雍正帝の急死は、巷間(こうかん)に帝の暗殺説がみだれとぶ一幕をもくわえたほどである。秘密の恐怖が生んだ謎の死は、帝の最期にふさわしいといえよう。密建の法により帝位についたのは、帝の第四子、そのとき二十五歳の高宗乾隆帝であった。康熈・雍正と二代にわたる基礎がためのあとをうけた、青年皇帝の本領は外征にあった。乾隆帝の在位は、六十年にわたった。帝は、祖父康煕帝の在位をこえてはと、みすがら帝位を嘉慶帝にゆずったのである。しかし上皇として、なお四年にわたり、実権を行使し...8-10-5大清帝国の完成
No.004【中国史の運命を決定した、殷周革命と劉邦の即位】百四十九
昭襄王は、それを聞き、范雎を迎え入れて、まず、詫びると、「私は、早くから、先生の教えを乞おうと思っていた。 謹んで、主客対等の礼をもって、お話を賜りたい」と…
No.004【中国史の運命を決定した、殷周革命と劉邦の即位】百四十八
楚の春申君は、昭襄王の楚の討伐に対し、上書した。春申君は、現在の天下においては、秦と楚より、強い国はない。 昭襄王は、楚を討とうとしているが、秦と楚の戦いは…
『アジア専制帝国世界の歴史8』社会思想社、1974年10大清帝国の完成1北京の激動北京の春は、黄塵とともにおとずれる。遠くモンゴルの砂浜で天空たかく舞いあがった黄塵は、風にのって長城をこえ、黄雲となって北京城の空をおおいつくす。城内はたちまち夕闇と化し、ともすあかりもさだかではない。舞いおりる黄土は道ゆく人びとの衣服をそめ、茶褐色の足あとを地上にのこす。それは砂というより黄粉というにふさわしい。それが春を告げる足音と知りながらも、黄雲におおわれた一瞬、人びとの心のなかには、一沫の不安がよこぎる。北京の春からは、世界一とうたわれる澄みきった秋空は、夢想だにできない。崇禎十七年(一六四四)三月十八日、北京城は、一瞬にして暗い不安につつまれてしまった。春を告げる黄雲が、西北の空から北京をおおったためではない。不...8-10-1北京の激動
No.004【中国史の運命を決定した、殷周革命と劉邦の即位】百四十七
楚軍は、秦軍の猛攻に反撃できず、撤退した。 秦軍は、長距離を直行し、迅速に漢水流域の要地鄧城を攻め取った。 白起は、秦軍を率い、楚の別都である、鄢城へ向かっ…
No.004【中国史の運命を決定した、殷周革命と劉邦の即位】百四十六
「藺相如殿、この愚か者は、貴方の大きな心を知らずに無礼をしてしまった。 この鞭で、気の済むまで、この身を打って下さい。 しかし、貴方に対し、今まで与えた屈辱…
『アジア専制帝国世界の歴史8』社会思想社、1974年9後金から大清ヘ1女直族(ジョチョク族=北方民族の一派)の怒り第一の恨み、理由もなく、わが父や祖父を殺害したこと。第二の恨み、たがいに国境を越えないと誓いあった約束をやぶったこと。第三の恨み、誓いをやぶった越境者を処刑した報復に、わが使者を殺し、威嚇(いかく)したこと。第四の恨み、われとイェヘ部族の娘との結婚をさまたげ、その娘をモンゴルに与えたこと。第五の恨み、国境ちかくでわが女直の民がつくった穀物をとらせず、追いはらったこと。第六の恨み、悪らつなイェヘ部族を信用して、われらを侮辱したこと。第七の恨み、天の公平な裁きにそむき、悪を善、善を悪とする不公平をおかしたこと。一六一八年の四月十三日、アイシンギーロ(愛新覚羅)・ヌルハチは、この「七大恨」を大書し、...8-9-1後金から大清ヘ
『アジア専制帝国世界の歴史8』社会思想社、1974年8日本の朝鮮侵攻5和議の決裂と再征わが慶長元年(一五九六)九月一日、明の暦では万暦二十四年九月二日、秀吉は大坂城において、明朝の勅使を引見した。秀吉をはじめ、いならぶ諸将は、いずれも明の皇帝から贈られた衣冠をつけて、得意の面もちである。秀吉にしてみれば、待ちのぞんでいた明朝の勅使であった。それも、わが要求をみとめてわざわざ派遣されてきたもの、と考えたに違いなかった。勅書の奉呈はぶじに終わった。秀吉はいよいよ満足であった。ただ明使の「楊・沈が関白に見ゆるや、卑屈の状は言うに堪えざるものがあった。これは随行の者が帰ってから、ひそかに人に語ったところである。ゆえに、小人は重用すべからずということを、まさしく知った。」明国の記録(両朝平攘録)は、このように伝えて...8-8-5和議の決裂と再征