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#中国の歴史
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【キングダム】第68巻 秦趙宜安決戦のクライマックス 桓騎vs李牧壮絶な攻防戦 あらすじと見どころ(ネタバレ注意)
キングダム第68巻 について漫画レビューします。桓騎vs李牧の戦いもいよいよ佳境!大ピンチの秦軍ですがここから桓騎が本領を発揮します!
2023/09/18 16:29
中国の歴史
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No.004【中国史の運命を決定した、殷周革命と劉邦の即位】百参十壱
鄒忌は、公孫閈の策を受け入れて、威王に説き、威王は、受け入れ、田忌に魏を討たせた。 田忌は、三度、魏と戦い、三度、勝利した。 鄒忌は、その勝利を公孫閈に告げ…
2023/09/18 00:33
#好きな言葉を教えて 巧詐は拙誠に如かず
巧詐は拙誠に如かず最近は韓非子が好きかも。( ^ω^ )
2023/09/16 00:32
No.004【中国史の運命を決定した、殷周革命と劉邦の即位】百参十
紀元前307年、武霊王は、野望を達成するための準備として、胡服騎射を取り入れることを考える。 中華世界の貴族戦士の伝統的な戦術は、三人人の戦士が、御者と弓射…
2023/09/11 01:38
No.004【中国史の運命を決定した、殷周革命と劉邦の即位】百二十九
紀元前375年、敬侯の死後、息子の成侯が即位した。 翌年には、公子勝が、侯位を求めて、起兵した。 紀元前372年、成侯は、大戊午を趙の宰相に任用し、衛を攻撃…
2023/09/04 01:29
【キングダム】第2巻 危険な賭け!?山民族と嬴政の同盟 あらすじと感想(ネタバレ注意)
キングダム第2巻。秦王:嬴政と山民族の同盟について漫画レビューします。
2023/09/02 12:17
【歴史の本】ランキングBest500<131位~140位>
◆第131位 『古代オリエントの歴史』評価:080点/著者:小川英雄/巻数:全1巻/ジャンル:東洋史/2011年 ◆第132位 『海の都の物語~ヴェネツィア共…
2023/08/31 00:40
No.004【中国史の運命を決定した、殷周革命と劉邦の即位】百二十八
甘茂は、秦に帰国すると、息壌で、武王に会った。 武王は、事情を尋ねた。 甘茂の策は、「韓の重要拠点である、宜陽は大邑です。落とすのは、容易ではありません。現…
2023/08/28 00:35
6-12-7 「省」の由来
『宋朝とモンゴル世界の歴史6』社会思想社、1974年12元朝の支配7「省」の由来現代の中国では「省」が地方の行政区両となっている。逝江省とか、福建省とか、いうものである。ところが日本では「省」は中央の官庁である。この違いは、元朝の制度からおこった。そもそも中国では、古代に「三省六部(りくぶ)」の制が完備している。三省とは、中書・門下・尚書であった。中書省は詔勅(法令)の案文を起草し、それを門下省が審議する。こうして案文が決定すると、皇帝が公布し、尚書省をして執行させる。尚書省のもとには六部があって、行政を分担した。六部とは、吏・戸・礼・兵・刑・工であった。この制度を日本でも採用した。ただし国情にあわせて変改をくわえ、「二官八省」の制を立てた。二官とは、神祇(じんぎ)官と大政官である。そして太政官のもとに、...6-12-7「省」の由来
2023/08/22 04:46
No.004【中国史の運命を決定した、殷周革命と劉邦の即位】百二十七
紀元前313年、張儀は、楚に対する、工作に入り、楚に対し、商・於の地、六百里四方を割譲するので、斉との同盟を破棄して欲しいと申し入れた。 楚の懐王は、喜んで…
2023/08/21 00:38
6-12-5 ラマ僧の権威
『宋朝とモンゴル世界の歴史6』社会思想社、1974年12元朝の支配5ラマ僧の権威元朝はモンゴル人の天下である。いかに色目人が重用せられたからといって、それはモンゴル人の補佐たる役割のものであった。サンガのように、色目人であって宰相につぐ地位にのぼった者もあるが、それは特例にすぎなかった。中央と地方とを問わず、長官たる地位を占めたのは、やはりモンゴル人であった。社会生活においても、モンゴル人は特権をもっていた。たとえば「モンゴル人と漢人とが争って、(モンゴル人が)漢人をなぐっても、漢人は報復することはできない。役人に訴えることをゆるす。」――これは法令として、正式に布告されたものなのである。中国人がモンゴル人(色目人を含む)を殺せば、もちろん死刑である。その上に、犯人の遺族は埋葬金をおさめねばならなかった。...6-12-5ラマ僧の権威
2023/08/19 08:05
6-12-1 元朝の支配
『宋朝とモンゴル世界の歴史6』社会思想社、1974年12元朝の支配1ベニスの商人ちょうどフビライが即位したころのことである(一二六〇頃)。キプチャク汗のベルケ(バツの子)はめずらしい客人を引見していた。ベニスの商人で、ニコロ・ポーロとマッフェオ・ポーロの兄弟であった。二人は一二五三年にベニスを発し、商売のためにコンスタンティノープルにおもむいた。そこに六年ほど滞在し、それからモンゴル人と取引しようと思いたって、キプチャク汗国まで出むいてきたのであった。ボーロ兄弟は、ペルケに宝石を贈り、その二倍の値段にあたる品物を受けとった。取引は大もうけであった。勇(いさ)んでベニスに帰ろうとしたところ、イル汗国のプラグとベルケとのあいだに戦争がはじまった。南西への道は危険となる。帰りたくとも帰れない。そこで東方へむかっ...6-12-1元朝の支配
2023/08/14 19:31
No.004【中国史の運命を決定した、殷周革命と劉邦の即位】百二十六
張儀は、不遇の時代が、続き、既に、趙において、出世していた、蘇秦を頼った。 しかし、張儀の予期に反して、蘇秦に大いに侮辱されたため、張儀は、発奮し、屈辱を返…
2023/08/14 00:41
No.004【中国史の運命を決定した、殷周革命と劉邦の即位】百二十五
恵文君は、秦の国力を元に、謀略家である、張儀を登用して、樛斿の次の相邦に任じた。張儀は、度々、魏・斉・楚等を討った。そして、紀元前324年、恵 文君は、即位…
2023/08/07 01:29
No.004【中国史の運命を決定した、殷周革命と劉邦の即位】百二十四
公孫鞅は、過去の親友、魏の総大将である、公子卬を欺いて招き、公子卬を捕虜にして、魏軍を打ち破り、黄河以西の土地を奪った。 魏は、危険を感じたために、首都を安…
2023/07/31 00:56
6-10-8 グユクとモンゲ
『宋朝とモンゴル世界の歴史6』社会思想社、1974年10大モンゴル8グユクとモンゲつぎの大汗としてオゴタイが期待していたのは、孫にあたるシラムンと、そしてモンゲであった。しかしオゴタイの死後は、その皇后(ドレゲネ)が監国(かんこく)となって、政務をみる。彼女にとってみれば、みずからの子であるグユクを位につけたがった。(グユク中華ドラマ「フビライ・ハン」より)もちろん、それにはクリルタイをひらいて、承認してもらわねばならない。ところがグユクはかねてからバツと仲たがいしていた。したがってバツは、グユクを大汗に推すことには、まっこうから反対している。クリルタイをひらこうとしても、ロシアにとどまっていて、出席しようとはしない。むなしく二年、三年とすぎていった。バツは、ヨーロッパへの遠征を中止したものの、そのままロ...6-10-8グユクとモンゲ
2023/07/30 16:50
6-10-5 巨星は落ちた
『宋朝とモンゴル世界の歴史6』社会思想社、1974年10大モンゴル5巨星は落ちたチンギス汗は、大西征のつ彼をいやすひまもなく、早くも同じ年(一二二五)の秋には、つぎの遠征に出陣した。さきに命令にそむいた西夏の国を討伐するためのものであった。そして西夏の征服は、金の帝国を完全に屈服させるためにも、必要と考えられたからである。しかし不世出の英雄も、すでに六十歳をこえていた(年齢には数説あり)。その年の冬には、狩猟のさなかに落馬して傷を負った。左右の人たちはカンの身を案じて、ひとまず撤退することにきめたが、チンギス汗は承知しなかった。あくまでも軍を進めることを命じたのである。攻撃はつづけられた。一二三六年から翌年にかけて、モンゴル軍は、西夏のはげしい抵抗をやぶりながら、やがて国都の興慶をかこんだ。軍の進むところ...6-10-5巨星は落ちた
2023/07/27 18:01
6-10-1 大モンゴル
『宋朝とモンゴル世界の歴史6』社会思想社、1974年10大モンゴル1西方にむける目全モンゴルの大汗となったチンギス汗の前には、おびただしい財宝がつまれていた。それはモンゴルのものだけではなかった。はるか西方のイランやアラビアの産物までが、チンギス汗のもとへ、はこびこまれていたのである。そうした遠い国のめずらしい品物をもたらし、遠い国のふしぎな物語をきかせてくれるのは、中央アジア(西域)から来たウイグル人であった。ウイグル人の多くは、イスラム教徒である。かってイスラム教徒は、西アジアからヨーロッパとアフリカの一部にかけて(地中海をめぐって)、サラセン帝国とよばれる大帝国をきずきあげた。それが八世紀から九世紀にかけてのこと(唐代)である。その後、帝国の勢いはおとろえたけれども、イスラム教徒の意気はなおさかんで...6-10-1大モンゴル
2023/07/24 03:10
No.004【中国史の運命を決定した、殷周革命と劉邦の即位】百二十参
しかし、最初は、新法の成果が上がらず、民衆からは、不満の声が揚がったが、公孫鞅は、意に介さなかった。 公孫鞅は、法が、確実に守られていないと考えた。 紀元前…
2023/07/24 00:49
6-9-6 モンゴルの統一
『宋朝とモンゴル世界の歴史6』社会思想社、1974年9草原の英雄6モンゴルの統一いまや高原は、テムジンのもと、ひとつになった。毛氈(もうせん)の帳裙(ちょうくん=帳幕のすそ)ある国は、ことごとく平定された。小さなモンゴルの国が、高原をおおう大国となったのである。虎の年(一二〇六)あらゆる部族、氏族の代表が、オノン川の源にあつまった。クリルタイである。クリルタイとは「集会」のことであり、カンの推戴(すいたい)や、戦争の決定など、国家の部族の重大な行事のときに開かれる習わしであった。そのクリルタイが、これまでにない大きな規模をもって、盛大にいとなまれる。白い旗じるしが、九つの脚にささえられて、高くかかげられた。そのもとで、テムジンはふたたびカンに推戴された。さきには小さなモンゴルの国(それは全モンゴルではない...6-9-6モンゴルの統一
2023/07/23 00:26
公募完了。そして次回作をどうしたものか?
6月の下旬に、締め切りまで1週間くらい残して、公募へ応募しました。とりあえず、ファンタジー小説とだけ言っておきましょう。 ですが、公募の郵便を発送した直後、身辺で慌ただしいことが相次いで発生し、早めに応募しておいてよかったと、胸をなでおろしたところです。締め切りは6月末の消印有効だったのですが、ギリギリまで粘っていたら、トラブルになっていたかと思うと、冷や汗がでます。 とにかく、郵送してしまったら、手を離れたわけで、まな板の鯉状態です。応募した後も、ついつい原稿を見直してみてしまうのですが、誤字脱字を複数発見。複雑な気持ちです。でも、致命的な誤りではないので、なんとかなるか。 それで、気が抜け…
2023/07/21 00:01
6-9-2 蒼い狼の子孫
『宋朝とモンゴル世界の歴史6』社会思想社、1974年9草原の英雄2蒼い狼の子孫エスゲイに死なれて、テムジンたちの境遇は一変した。それまでエスゲイにしたがっていたタイチウト氏の人々が、テムジン一家をすてて、去ってしまったのである。エスゲイのもとにいた部衆も、タイチウトを追って移動した。たちまちにして、一家は窮乏のどんぞこにおちいってしまった。それでも、ホエルンは男まさりに生まれたので、おさない子供を養うに、しっかりと裾(すそ)をからげて、帯しめて、オノンの川を上へ下へと走りまわり、木の実をひろって、草の根をほって、昼夜の糧(かて)とした。子供たちもまた、母を養おうと話しあって、オノンの岸べにすわっては、片目や、かたわの魚をつった。あみを結んでは、小魚をすくった。モンゴリアのように、乾燥した草原に住む人々は、...6-9-2蒼い狼の子孫
2023/07/18 04:56
6ー9ー1 草原の英雄 モンゴルの勇者
『宋朝とモンゴル世界の歴史6』社会思想社、1974年9草原の英雄1モンゴルの勇者よく晴れた日であった。いつものように、エスゲイは、ひとりで鷹狩りに出かけた。オノン川のほとりまでゆくと、むこうから一団の人々が来る。メルキト国の人々であった。メルキトのチレドという若者が、嫁をもらって連れてゆくところなのであった。さぐって見ると、顔かたちのすぐれた、うつくしい女である。エスゲイは、たちまちわが家に走りかえった。エスゲイは、兄と弟とを連れてきた。そしてチレドの行列を追った。チレドはおそれた。足のはやい黄馬(きうま)にまたがり、むちうちながら丘をこえて、身をかくした。そのうしろから、三人はつづいて追った。女は車に乗っている。チレドは山のはしをひとめぐりして、車のところへもどってきたところに、三人が行きついた。チレド...6ー9ー1草原の英雄モンゴルの勇者
2023/07/17 21:54
No.004【中国史の運命を決定した、殷周革命と劉邦の即位】百二十弐
孫臏の同時代の人物には、中華の歴史上、最大の影響を与えた一人である、商鞅がいる。 商鞅の姓は、姫、氏は、公孫、名は、鞅。 また、衛の公族系のために衛鞅とも呼…
2023/07/17 00:40
6-8-2 西夏文字の解読
『宋朝とモンゴル世界の歴史6』社会思想社、1974年8難解の文字2西夏文字の解読西夏文字は、久しい間、ナゾの文字であった。いや、こうした文字が存在したことさえ、わすれ去られていた。いったんほろび去った西夏文字が、ふたたび姿をあらわしたのは、一八七〇年(明治三年)における居庸関(きょようかん)刻文の発見であった。ここには、元(げん)朝のもとに用いられた六種の文字が、きざまれていた。その一つが、西夏文字であった。しかも当初は、それが西夏文字であることもわからなかったのである。それから十年あまりたった。居庸関のナゾの文字は、西夏の古銭にきざまれた文字と照らしあわせた結果、西夏文字であることが明らかとなる。これから研究がはじまった。西夏語の文献も、次々に発見された。なかでも、カズロフ探検隊がもたらした『蕃漢合時掌...6-8-2西夏文字の解読
2023/07/16 19:39
6-8-3 契丹の文字と国号
『宋朝とモンゴル世界の歴史6』社会思想社、1974年8難解の文字3契丹の文字と国号複雑な文字をつくったのは、西夏人だけではない。西夏文字にさきだつこと、およそ百年、すなわち十世紀のはじめごろには、契丹人が独自の文字をつくりあげていた。西夏文字も、この契丹文字に刺激され、かつ影響をうけて、制作されたものと考えられている。契丹人は、モンゴル系の民族であった。純粋のモンゴル民族ではないが、その用いた言語はモンゴル語に近いものであったにちがいない。そこで契丹人が漢文を学ぶときには、日本人がおこなってきたように、語順を自国語にあわせて、つまり引っくりかえしながら、理解したのである。たとえば、鳥宿池中樹、僧敲月下門。という詩の句がある。これを日本人は「鳥ハ池中ノ樹ニ宿(ヤド)リ、僧ハ月下ノ門ヲ敲(タタ)ク」というよう...6-8-3契丹の文字と国号
6ー8ー4 女真文字の場合
『宋朝とモンゴル世界の歴史6』社会思想社、1974年8難解の文字4女真文字の場合「金」国を建てた女真人は、女真文字をつくった。その最初の制定は太祖(阿骨打=アロダ)のときのことで、契丹文字の制作からほぼ百年後にあたっていた。これは女真大字といわれ、おそらく契丹文字を模したものと思われるが、その遺品はまだ発見されていない。こえて第三代の煕(き)宗のとき(一二二八)、いわゆる女真小字が制定された。これは「金」国の領内にひろく使用せられ、碑文や文書として、かず多く残っている。「金」は、宋を圧して南方に追い、華北を領有した。やがて都もいまの北京にうつしたが、そうなると女真人の間には、中国の文化が急速にしみわたる。固有の風俗も、かえりみられないようになる。この傾向をうれえたのが、中興の英主といわれた世宗であった。世...6ー8ー4女真文字の場合
2023/07/16 19:36
No.004【中国史の運命を決定した、殷周革命と劉邦の即位】百二十壱
斉軍と魏軍は、桂陵において、合戦をしたが、魏軍は大敗し、龐涓は、生け捕りとなった。 結果的に、魏軍の包囲は解けたのである。「批亢搗虚」は、後世に、「囲魏救趙…
2023/07/10 00:55
6-7-3 民衆の文化
『宋朝とモンゴル世界の歴史6』社会思想社、1974年7都市と農村3民衆の文化都市に住む民衆は、ギルドの中小商人をみてもわかるように、けっして、かならずしも自由な市民とはいえなかった。しかし唐代とくらべるならば、はるかに解放されていた、といえるであろう。こうして民衆にうけいれられ、民衆とむすびついた都市文化が生みだされ栄えてゆく。勾欄(こうらん)で演ぜられる演芸は、まさに民衆のためのものであった。詞(し)もまた、そうであった。「詞」は曲に合わせてつくられた韻文であり、歌う文学ともいえるものであった。唐の中頃からあらわれ、やがて宋代には、「唐詩」に対して「宋詞」といわれるほど、大いに流行した。豪放(ごうほう)な北派と、婉麗繊細(えんれいせんさい)な南派と、ふたつの系統があった。詞はもともと詩から変化してきたも...6-7-3民衆の文化
2023/07/05 20:39
6-7-2 都の明け暮れ
『宋朝とモンゴル世界の歴史6』社会思想社、1974年7都市と農村2都の明け暮れ開封の都はにぎやかであった。大通りにのぞんで、あちこちにさまざまの店ができた。それだけではない。夜が明けるころには、城門や橋のたもとなど、いろいろの場所で市(いち)がたった。豚や羊をつれて売りにくる者、果子(くだもの)や麺類を売る者、薬や書画を売る者まで、さわがしさと活気にみちた光景がみられた。なかには鬼市子(きしし)といって、泥棒市のようなものまで立った。これは午前三時ごろひらかれ、明けがたには姿を消してしまう。こうして、にぎやかな都市の一日がはじまるのであった。大通りには、酒楼とよばれた料理店がたちならんでいる。酒楼の入口には、色とりどりの紐(ひも)を、のれんのようにむすびあわせて歓門(かんもん)がつくってあり、客はこれをく...6-7-2都の明け暮れ
2023/07/05 20:34
6-7-1 都市と農村
『宋朝とモンゴル世界の歴史6』社会思想社、1974年7都市と農村1都市のすがた中国では、首部はもちろん、だいたい県庁の所在地ほどの都市になると、周囲に城壁をめぐらし、町をすっぽりつつんでいた。わが平城京や平安京の全体が、城壁にかこまれていたと考えればよいであろう。そして大きな都市ともなれば、城壁が二重、ときには三重にもなっていた。城壁の規模もまことに大きい。後周の世宗(柴栄=さいえい)が全中国の中心にしたいとの願いをこめてつくった開封(かいほう)の都は、いちばん外側の城壁の周囲は二○キロあまり、唐の長安城のほぼ三倍の規模であった。五代十国王朝のひとつ、呉越国の都の杭州では、城壁がさらにひとまわり大きく、三〇キロちかくもあった。城壁の高さは二五メートルほどで、溥(かわら)を積みあげてつくった。城壁の上には女...6-7-1都市と農村
2023/07/03 16:55
No.004【中国史の運命を決定した、殷周革命と劉邦の即位】百二十
孫臏は、若い頃、龐涓と共に兵法を学び、龐涓は、魏に仕官し、恵王の元で将軍になった。 しかし、龐涓は、自分が、孫臏に及ばないことを感じていたために、偽って、孫…
2023/07/03 01:54
新作です「西太后」
新作のご紹介です。 「西太后」 久しぶりの新作は中華かんざしブローチです。 中華かんざしブローチは、歴史上の(主に悲劇の)美女たちの髪を彩るかんざしをイメージしたシリーズを展開してまいりました。 新作は中国三大悪女。まさかの悪の華!? 「悪女は嫌」と顔を背ける向きもありそうですが...
2023/06/28 14:21
新作です「武則天」
新作のご紹介です。 「武則天(ぶそくてん)」 中華かんざしブローチの新作は中国三大悪女。 今日はそのうち2作目。 生きた時代が昔の美女から順にご紹介してまいります。 まわりに少しだけ見えている別のブローチが1作目と3作目です。 悪の華は美しくなければ始まらない! しかもいまだかつ...
6-5-5 党争の展開
『宋朝とモンゴル世界の歴史6』社会思想社、1974年5外圧と内争5党争の展開王安石は、江南の出身であった。このころになると、江南出身の文官が、華北の出身者を圧倒するほどに多くなっていた。ところが王安石の新法に反対する者のなかに、華北出身の長老がいた。司馬光や、韓琦などである。新法に反対したので、旧法党とよばれた。新法のひとつに、方田均税法というのがあった。地主層と一般農民との賦税の負担を公平にしようとするねらいで、おもに華北に実施された。こうしたところから、新法党と旧法党の争いには、出身地のちがいによる利害がからみあっていたと見られよう、それでなくとも、官戸はもちろん、大地主や大商人などの富岳層にとって、新法は自分たちの富の集中をおざえるものであった。文官たちも、もとをただせば大地主の出であり、大商人とは...6-5-5党争の展開
2023/06/27 09:19
新作です「妲己」
新作のご紹介です。 「妲己(だっき)」 久しぶりの新作は中華かんざしブローチです。 中華かんざしブローチは、歴史上の(主に悲劇の)美女たちの髪を彩るかんざしをイメージしたシリーズを展開してまいりました。 新作は中国三大悪女。まさかの悪の華!? 「悪女は嫌」と顔を背ける向きもありそ...
2023/06/26 19:55
中国の歴史 列強のアジア進出とアヘン戦争 楽しい世界史 -中国と東アジアの歴史-
18世紀末、元末に紅巾の乱で弾圧されてからもひそかに活動を続けていた白蓮教徒が再び反乱を起こし、清はその鎮圧に
2023/06/26 11:40
6-5-4 新法の実施
『宋朝とモンゴル世界の歴史6』社会思想社、1974年5外圧と内争4新法の実施ある宴に、ふたりの客が招かれた。司馬光(しばこう)と王安石である。ふたりとも酒をたしなまなかった。宴がはじまると、主人はしきりに酒をすすめる。やむをえず司馬光は一杯だけ、さかずぎをとった。しかし王安石は、ついに一滴も口にしなかった。王安石は、そういう男であった。おのれを堅持し妥協をゆるさない性格であった。そこを皇帝(神宗)から認められた。十一世紀の後半になると、宋朝の財政はしだいに苦しいものとなっていた。仁宗のときに、西夏とあらそったときも、財政に大きくひびいた。つぎの英宗のときになると、歳出が歳入を大きく上まわった。おまけに遼や西夏に対しては、銀や絹など多額の物資を、毎年おくらねばならない。財政の赤字は、いよいよ大きくなるばかり...6-5-4新法の実施
2023/06/26 02:18
No.004【中国史の運命を決定した、殷周革命と劉邦の即位】百十九
この謎かけの後、田困斉は、即墨の大夫を呼び出し、「毎日の様にそなたを非難する声が、我の所に届いているので、本当か、否か、人を遣わし、視察させたが、田畑はよく…
2023/06/26 00:59
6-5-2 澶淵の盟約
『宋朝とモンゴル世界の歴史6』社会思想社、1974年5外圧と内争2澶淵(せんえん)の盟約十一世紀のはじめ、宋では三代目の真宗が立っていた。契丹は、すでに国号を「遼(りょう)」とあらため、いよいよ勢いはさかんであったが、おりから六代目の聖宗が立っていた。北漢がほろんだのち、宋と遼とは、全面的に国境を接し、その関係はいちだんと緊迫の度をくわえていた。遼の聖宗が、大挙して南下し、宋の領内に攻めこんできたのは、一〇〇四年(景徳元年)のことであった。それまでは、軽騎兵をはなって、偵察をつづけていたのである。ときに聖宗は三十七歳であり、宋の真宗は三十四歳であった。遼の大軍いたる。この報が都の汴(べん)京(開封)につたわると、真宗はあわてふためいた。群臣も同様であった。なかには、都を長江南岸の金陵(きんりょう=今の南京...6-5-2澶淵の盟約
2023/06/24 05:57
中国の歴史 異民族国家の清が中国を支配できた理由 楽しい世界史 -中国と東アジアの歴史-
明は内憂外患に加えて干ばつもあり、衰退し、後金(アイシン)を建国される。のちに国号を清に変えた。 その清につい
2023/06/22 12:50
6-4-3 皇帝の官僚
『宋朝とモンゴル世界の歴史6』社会思想社、1974年4宋朝の創業3皇帝の官僚宋の太祖と太宗は、文官をおもく用いて、武人の権力をちぢめ、集権の体制をつくりあげていった。節度使にして、病死したり、老齢になったりして、欠員ができた場合には、できるかぎり文官を後任にあてた。また知州(ちしゅう=州の長官)にしても、同じであった。こうして藩鎮が解体するころ(九七七)には、じつは節度使などの座に文官が大幅に進出していたのである。いまや文官は、まさしく国家権力の担い手になった。しかも太祖は晩年におよんで、科挙(かきょ)の制度に改革をくわえている。科挙こそは、隋代にはじめられて以来、文官となる資格をうるためには、まず突破すべきものであった。これまで科挙といえば、ふたつの関門があった。地方の州で行われる解試と、首都で行われる...6-4-3皇帝の官僚
2023/06/21 08:27
中国の歴史 皇帝独裁の明と秀吉の朝鮮出兵 楽しい世界史 -中国と東アジアの歴史-
世界帝国を築いたモンゴル(元)だったが、やがて不安定になり、明が建国される。また、そのころ日本では豊臣秀吉の朝
2023/06/20 13:42
No.004【中国史の運命を決定した、殷周革命と劉邦の即位】百十八
田恒は、斉国中の女子で、身長七尺以上ある者を自身らの後宮に入れ、その宮女は、百を数えた。 しかし、賓客及び、舎人達が、後宮に出入りすることを禁止しなかった。…
2023/06/19 01:00
6-3-5 統一への夢
『宋朝とモンゴル世界の歴史6』社会思想社、1974年3乱世の皇帝5統一への夢中国の仏教史の上で「三武一宗の法難」とよばれる弾圧がある。武の字のつく三人の皇帝と、それから後周の世宗がおこなった弾圧を、さしたものである。世宗の改革は、仏教界にものびていった。世宗のねらいの一つは、憎尼たちを還俗(げんぞく)させて、一般の俗人なみにすることであった。そもそも僧尼は国家で公認された証(あかし)として、「度牒(どちょう)」というものを持っていなければならない。僧尼になると、納税や労役などの負担をまぬがれることができるからである。ところが特権のあることに目をつけて国の公認もうけずに出家する、もぐりの僧尼もたくさんいた。なかには犯罪人などもいて、寺院は一種の治外法権の場でさえもあった。もう一つのねらいは、銅をもとめようと...6-3-5統一への夢
2023/06/18 01:50
No.004【中国史の運命を決定した、殷周革命と劉邦の即位】百十七
その結果、田穰苴は、全軍に信頼されて、病人までが、出陣したいと願い出た。 田穰苴の一連の出来事を聞いた、晋・燕の軍は、撤退しはじめ、田穰苴はこれを追撃し、失…
2023/06/12 01:05
中国の歴史 世界帝国となったモンゴル帝国 楽しい世界史 -中国と東アジアの歴史-
中国・江南地区で南宋文化が栄えた頃、モンゴルではチンギス=ハンがモンゴル族を統一した。 そのモンゴルについて、
2023/06/09 17:38
6-3-1 乱世の皇帝
『宋朝とモンゴル世界の歴史6』社会思想社、1974年3乱世の皇帝1契丹の華北支配契丹(きったん)の太宗は、中国の北辺一帯の地、いわゆる燕雲(えんうん)十六州を手にいれたとき、大いによろこんで、その母后にかたったという。「わたしは近ごろ、石郎(せきろう)がかならず使いをよこすことを夢みました。いま、まさにそのとおりになりました。」石郎というのは、後晋(こうしん)の高祖たる石敬塘(せきけいとう)のことである。石敬塘は、みずから皇帝になろうとして、契丹のたすけをもとめ、燕雲十六州をさざげたのであった。おまけに石敬将は、まことに卑屈な態度をとって、契丹の皇帝には「臣」と袮し、父の礼をもって仕えるにいたった。契丹は石敬塘のことを「児皇帝(じこうてい)」とよんでいるが、「石郎」という表現にも、おなじような意味がこめら...6-3-1乱世の皇帝
2023/06/09 15:20
6-2-1 五代十国
『宋朝とモンゴル世界の歴史6』社会思想社、1974年2武人の天下1分裂の時代朱合忠が唐の天下をうばって「後梁」を建国したころ、各地にいた節度使のうちで強大なものは、それぞれ自立の道をあゆんでいた。節度使の数はたくさんあったが、強いものは弱いものをほろぼしたり、あるいは服従させたりして、その支配する領域をひろげていたのである。だから節度使のなかには、主君となったものもいれば、その家臣となったものもいた。朱全忠にしてもそうしたものの一つにすぎなかった。さて朱全忠が皇帝を称すると、各地の強大な節度使は、これに臣従しようとはしない。各々独立の政権をつくりあげた。汴(べん)州(開封)に都をおいた朱全忠の支配も、せいぜい黄河の中流から下流域までにしか及ばない。領域をひろげようとして、隣接する独立の政権とたたかっては敗...6-2-1五代十国
2023/06/07 19:29
6-2-3 節度使の力
『宋朝とモンゴル世界の歴史6』社会思想社、1974年2武人の天下3節度使の力皇帝や王を袮した者にしても、一般の節度使にしても、何よりも求めなければならなかったものは、兵力であった。募兵だけでは、まにあわない場合も出てくる。唐代の中期に、民衆の抵抗によって廃止されたはずの徴兵が、ふたたび実施されたりもした。いまの北京にあたる幽(ゆう)州を中心に、勢力をふるったのが、劉仁恭である。そこでは領内の十五歳から七十歳までの男子すべてを徴兵し、そのため村には男子の姿はみられなくなった、と記録ざれている。そのうえ徴兵した二十万人の兵士に強制して、「定覇都(ていはと)」という三字を顔に入墨(いれずみ)した。定覇都とは、羂権を決定づける部隊ということである。入墨したのは、逃亡をふせぎ、たとえ逃亡してもすぐ見つけだせるためで...6-2-3節度使の力
2023/06/07 19:27
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