メインカテゴリーを選択しなおす
ドイツと聞いて思い浮かべるものは何でしょうか?ビール、哲学、自動車、それともベートーヴェン?これらの文化や技術
前記事からちょっと間が空きました。 ↓は過去作品夢想庭園のお姫様BOOTHより noteより 2024年の作品。当時頭の中に勝手に浮かんできた映像をイラスト…
トレドはマドリードから電車で40分弱の場所にある小さな町で、13世紀頃の街並みがそのまま残っている城塞都市です。時間があったのと、スペインに1日しか居られない…
BBC News, 12 January 2011 ノリッチのウィリアムの "儀式殺人 "疑惑でユダヤ人が非難される アリゾナ州で発生し、6人が死亡、ガブリエル・ギフォーズ下院議員が重傷を負った銃乱射事件に対するアメリカの政治家サラ・ペイリンのビデオメッセージには、「血の中...
クリスマスが近づいてきましたので、オリジナルイラストとおすすめ動画を合わせて紹介します。毎年やっている感じですが 天使ともみの木BOOTHよりnoteより …
あまりにもクロイスターズがステキでたくさん写真を撮ってきたので、引き続きクロイスターズの様子を。。。昨日ご紹介した美しい回廊がある階を下に降りると、薬草を...
私の大好きな大好きなクロイスターズ!中世美術専門の美術館ですが、今回はお庭のある回廊を目的に行ってきました。いつ来ても癒されるこの空間。。。建物に入ってか...
ドイツの中世グルメと町歩き〜Horb am Neckar /ホルプ・アム・ネッカー〜
ヨーロッパ中世料理のDinnedeとRäuberspießを食べる!本物の道化師も。丘の上の旧市街はジブリのような石畳やレンガ造りのアーチ、木組の家もある。美しい教会の中庭でディズニープリンセスを発見?シュトゥットガルトから近い中世祭りHorber Ritterspieleでドイツ文化と歴史を体験。
中世の騎士たちの馬上試合を観戦〜Horber Ritterspiele〜
甲冑や兜をつけ槍と盾を持ち、馬に乗って一騎討ち!弓矢も使い、本格的なナイトの衣装で武術を披露。マーベル映画のグルートも参戦?ヨーロッパ中世時代へタイムスリップ!バーデン・ヴュルテンベルク州最大の中世祭り、シュトゥットガルト近くのHorb am Neckar /ホルプ・アム・ネッカー。女騎士も美しい。
ドイツ中世のお祭りへ〜Horber Ritterspiele 〜
ヨーロッパ中世時代へタイムスリップ!王様や家来、貴族や市民の人々と交流できる。マルクト市場では剣や盾、弓矢や動物の毛皮や魔除けグッズも買える。バーデン・ヴュルテンベルク州で最大の中世祭り、シュトゥットガルトから近いHorb am Neckar /ホルプ・アム・ネッカーへ。中世の遊園地も手作りで楽しい
荒神山古墳群で鎌倉時代(13世紀)頃の建物の柱などを支える「礎石」が2か所から発見された。 本日午前10時からと午後2時から現地説明会があるという。[中日新聞]...
今の時期に見てちょうどいい感じの作品シリーズ1。 夢想庭園のお姫様 BASEよりBOOTHより [ホームページ]ホームページ//hisuiawahara/ …
🎄Welcomeイタリアにおけるクリスマスの飾りつけ、プレゼーピオ(プレゼーペとも)。キリスト降誕を表す人形や模型で、自宅手作りする人や、お店のショーウィンドーに飾りとして並べられる。自然素材の飾り、そして毎年新しい人形を購入し、コレクションを増やす人も多い村で行われた、人間によるプレゼーピオ。開始後すぐは、飼い葉桶の中に、人間の愛らしい赤ん坊がいたよう。写真の順番を待っているうちに、人形に交代となった。...
湖西市商工会館で開催された「浜名湖湖西焼き」陶芸体験に参加しました参加者は手動式のろくろに粘土を乗せて、手びねりでそれぞれ作品を完成させました見よう見まねで乾燥まで仕上げた小生の愚作は、マイ湯呑12日(日)には、戦国武将も重用したとされる「曜変天目」茶碗を使用した茶会も開かれ、展示と販売もあるようですご来場、お待ちしております静岡やすま園・インスタグラムhttps://www.instagram.com/yasumaen/★美味しいお茶の淹れ方★静岡県の西の玄関口、湖西市の「お茶専門店」人と人とを結ぶ「静岡やすま園」<https://www.yasumaen.jp>★詳しくは本格静岡茶のサブスクHP本格静岡茶のサブスク始めました!毎月下旬に厳選茶葉が届きます。急須と湯飲みもセットです。季節の移り変わりを感...陶芸体験
日曜日の朝、携帯のアラームでいつもの時間に起きたら、壁時計が1時間進んでいた。夏時間が終わったのだ。1時間多く寝たはずなのだけど、あまり違いがわからない。 今…
ねとらぼ「長野県で人気の城・城跡」ランキング! 2位は「高遠城跡」、1位は?【2023年10月
にほんブログ村にほんブログ村 『幻の城』復元へ 織田信長が築いた安土城の天主台周辺で発掘調査開始 鯱や装飾金具の発見を期待(読売テレビ) - Yahoo!ニ…
『文芸復興の時代世界の歴史7』社会思想社、1974年5斜陽のイタリア半島――イタリア・ルネサンスの片影Ⅱ――5ローマの掠奪(りゃくだつ)軍事的であるという点で非難されたユリウス二世は、その剛毅果断な性格をもって、聖職売買のような悪習を禁じ、腐敗堕落を正した。そしてミケランジェロにシスティナ礼拝堂の天井画を描かせ、ブラマンテにイタリア・ルネサンス最大の記念物、聖ピエトロ寺院の改築を行なわせ、ラファエロにバティカン宮の壁を飾らせたのも、この気宇(きう)雄大な教皇であった。ユリウス二世のあとをついだのは「豪華王」ロレンツォの次男で、ピエロの弟にあたるメディチ家のジョバンニ(一四七五~一五二一)であり、一五二二年教皇レオ十世となった。彼は政治的野心においても、文化の保護においても、アレクサンデル六世やユリウス二世...7-5-5ローマの掠奪
『文芸復興の時代世界の歴史7』社会思想社、1974年5斜陽のイタリア半島――イタリア・ルネサンスの片影Ⅱ――1一修道僧の怒りフィレンツェの繁栄は、思えばこのロレンツォの時代を絶頂としていた。彼の治世の晩年、奢侈(しゃし)、悦楽(えつらく)のフィレンツェのただなかにおいて、激烈な言葉で神を説き、終末の日、裁きの日が近いことを警告するひとりの修道僧があらわれたのだ。彼、ジロラモ・サボナローラは一四五二年、フェラーラの平凡な中流階級の家庭に生まれ、周囲は医学の道に進ませようとしたが、彼は孤独を愛して、世俗的生活をきらい、二十二歳のとき、ドメニコ派のある修道院にはいってしまった。「私を教団に走らせたものは、この世のみじめさ、堕落、人びとの愚劣である」と、彼は父母への別れの手紙に書いたという。それから修道僧として修...7-5-1一修道僧の怒り
『文芸復興の時代世界の歴史7』社会思想社、1974年4フイレンツェの支配者――イタリア・ルネサンスの片影Ⅰ――4「豪華王」ロレンツォ理想化されたコジモの孫のロレンツォ「豪華王」コジモの子ピエロ(一四一六~六九)は痛風を病みながらも、五年のあいだ、メディチ家の勢威を守った。彼は病気のため公の場所に出ず家にひきこもりがちで、多くの歴史家の評価はさえないが、金融家として蓄財に努力し、外には平和政策をとるとともに、熱心な文芸保護者でもあった。この点、彼が長生きしていたならば、父にまけない文芸のパトロンになったかもしれない。そしてピエロの妻、才媛ルクレティアはみずから詩作し、学芸に対する理解も深く、夫によく協力した。なおピエロの弟ジョバンニ(一四二四~六三)も魅力あふれた人物で、才能にも恵まれていたが、一四六三年父...7-4-4「豪華王」ロレンツォ
7-4-1 フイレンツェの支配者――イタリア・ルネサンスの片影Ⅰ――
『文芸復興の時代世界の歴史7』社会思想社、1974年4フイレンツェの支配者――イタリア・ルネサンスの片影Ⅰ――1水難の都昭和四十一(一九六六)年十一月、イタリアの都市、人口五十万のフィレンツェは思いがけない災難によって、遠く離れた日本人の関心をひいた。それは十一月四日の暴風雨で、「千年に一度」といわれる集中豪雨がイタリア中・北部をおそい、多数の犠牲者を出したが、とくに被害がひどかったトスカナ地方のフィレンツェ市では、アルノ川の氾濫によって大洪水が起こったのだ。この水害はイタリアの三分の一におよんだが、そのなかでとくにフィレンツェが大きく取りあげられたのは、被害の中心地だったこともあるが、またこの都市がイタリア・ルネサンスの面影をこんにちに残し、「生きている美術館」であり、「かけがえのない宝石」といわれてい...7-4-1フイレンツェの支配者――イタリア・ルネサンスの片影Ⅰ――
『文芸復興の時代世界の歴史7』社会思想社、1974年3大航海時代5銀と香料コンキスタドレスには、自分の生命をも粗末にした者が多かった。彼らはスペイン中南米植民地初期の政治、軍事未分化の状態の産物であった。その後の中南米社会の主役は、カトリック教会の僧侶に肩がわりされる。ヨーロッパでとかく保守的反動的な役割を果たした僧侶たちも、中南米では積極的な社会建設の役割を果たすのである。このあいたにスペインの植民地経営方式は、コロンブス流の分配方式から委託方式というのに変わった。一五二一年からスペイン王が、原住民の保護を条件に、スペイン人領主に土地と住民を委託するということである。一五一七年からは黒人奴隷の輸入が、ネーデルラントの業者の請負として許可された。この権利は後に持ち主がジェノバ人に変わり、十八世紀はじめには...7-3-5銀と香料
『文芸復興の時代世界の歴史7』社会思想社、1974年3大航海時代3マジェランの世界一周ポルトガル王家が新領土の保証を、絶えずローマ教皇に求めていたことは前に書いた。一四八八年バルトロメウ・ディアスが喜望峰を発見した。その帰路は海岸づたいではなく、北北西にアフリカ大陸後頭部に直航している。もはや大西洋はポルトガルにとって、使いやすい海となりつつあった。さらにアフリカ東岸のようすも、陸路の調査とディアスの航海でだいたい見当がついていた。あとは船の改良など準備をととのえて、アフリカ東岸とインドへの航海に出かければよいと思っているところへ、降ってわいたコロンブスの「インド発見」のショックである。コロンブスの新世界は一四九三年、教皇アレクサンデル六世によってスペイン領とみとめられた。どんな認めかたかというと、地球の...7-3-3マジェランの世界一周
This package contains two different building layouts. Each also includes a basement-less version. (There are 4 types in total) Use a buildin...
『文芸復興の時代世界の歴史7』社会思想社、1974年2航海王という名の王子――ポルトガル夜話――3騎士団長エンリケ王子はこの遠征でアフリカと深く結びつけられた。セウタの占領は多くの無理をしながらつづけられ、一四一八年と三七年には、エンリケみずから遠往軍を指揮しなくてはならなかった。西アフリカがある程度までしかイスラム化されておらず、キリスト教布教の可能性があるという事実がしだいに判明した。またセウタ確保の費用をひねり出すことにも、新しい富を求めて探検を開始する理由があった。エンリケは一つには王室の一員として、一つには「キリスト騎士団長」としての立場から、その役目を果たしたのであるが、この団長の地位は、コンスタンツ公会議できまった統一教皇マルティヌス五世(在位一四一七~三一)から認可されたものである。ところ...7-2-3騎士団長
『文芸復興の時代世界の歴史7』社会思想社、1974年1「カンタベリー物語」の世界5女性論一方、『カンタベリー物語』における色欲のとりあつかい、それにともなう女性への不信、結婚生活への皮肉は有名である。この点では、ダンテの『神曲』に対して『人曲』といわれ、人間の赤裸々な描写でイタリア・ルネサンス文学を代表するボッカチオの『デカメロン』(『十日物語』、十四世紀中ごろの作)と、『カンタベリー物語』はよく似ている。(ただし、この両者の関係の有無については議論が多い)女の忠言は多くの男の身をあやまらせるとか、女性は秘密をかくしえないから、自分の妻にもそれをうちあけるべきではないとか、女は魔性でその性は悪であるとか、いろいろ示されているが、とくに妻の不貞にあざむかれている夫へあびせる笑いは、『カンタベリー物語』にもよ...7-1-5女性論
『宋朝とモンゴル世界の歴史6』社会思想社、1974年13内陸の王者4世界の首都クラビホの報告のうち、ティムールの手によるサマルカンドの町造りを述べたところは、とくに注目をひくものがある。「サマルカンド地方では商業が非常にさかんだったので、毎年この町には、シナやインドやタタール、そのほか各地から、あらゆる種類の商品が、たくさん移入されていた。しかしいままでこれらの品物を置き、陳列するのに適当た場所というのが、この町にはなかったのである。そこでティムールがこのたび命じたのは、両側にあらゆる種類の品を売る商店をならべた通りを一本、サマルカンドを貫通するように建設することだった。……職人は、監督が必要とするだけ集められ、こと欠くことはなかった。ひるま働いたものは夜になると帰り、かわって同じだけの人数のものが夜どお...6-13-4世界の首都
『宋朝とモンゴル世界の歴史6』社会思想社、1974年12元朝の支配5ラマ僧の権威元朝はモンゴル人の天下である。いかに色目人が重用せられたからといって、それはモンゴル人の補佐たる役割のものであった。サンガのように、色目人であって宰相につぐ地位にのぼった者もあるが、それは特例にすぎなかった。中央と地方とを問わず、長官たる地位を占めたのは、やはりモンゴル人であった。社会生活においても、モンゴル人は特権をもっていた。たとえば「モンゴル人と漢人とが争って、(モンゴル人が)漢人をなぐっても、漢人は報復することはできない。役人に訴えることをゆるす。」――これは法令として、正式に布告されたものなのである。中国人がモンゴル人(色目人を含む)を殺せば、もちろん死刑である。その上に、犯人の遺族は埋葬金をおさめねばならなかった。...6-12-5ラマ僧の権威
『宋朝とモンゴル世界の歴史6』社会思想社、1974年12元朝の支配1ベニスの商人ちょうどフビライが即位したころのことである(一二六〇頃)。キプチャク汗のベルケ(バツの子)はめずらしい客人を引見していた。ベニスの商人で、ニコロ・ポーロとマッフェオ・ポーロの兄弟であった。二人は一二五三年にベニスを発し、商売のためにコンスタンティノープルにおもむいた。そこに六年ほど滞在し、それからモンゴル人と取引しようと思いたって、キプチャク汗国まで出むいてきたのであった。ボーロ兄弟は、ペルケに宝石を贈り、その二倍の値段にあたる品物を受けとった。取引は大もうけであった。勇(いさ)んでベニスに帰ろうとしたところ、イル汗国のプラグとベルケとのあいだに戦争がはじまった。南西への道は危険となる。帰りたくとも帰れない。そこで東方へむかっ...6-12-1元朝の支配
『宋朝とモンゴル世界の歴史6』社会思想社、1974年12元朝の支配2カトリック伝道ポーロ一家がまだ中国にいた一二八九年、イタリアを出発して東方へむかった宣教師があった。これこそローマ教皇(ニコラウス四世)の命令をうけたジュアン・ド・モンテ・コルビノの一行であった。インドおよび中国(モンゴルを含む)にカトリックを伝道することが、その使命であった。ヨーロッパからモンゴルに宣教師がおもむくことは、これが初めてではない。すでに一二四六年、プラノ・カルピニはローマ教皇の使節として、モンゴルにおもむいた。そして時の大汗グユクに謁見し、教皇からの書簡をわたした。一二五四年には、フランク王(ルイ九世)の使節として、ギョーム・ド・ルブルクがつかわされ、大汗モンゲに謁見している。これらの使節は、キリスト教を伝道するという目的...6-12-2カトリック伝道
『宋朝とモンゴル世界の歴史6』社会思想社、1974年11悲劇の朝鮮半島5反逆と抵抗井上靖の『風涛(ふうとう)』は、モンゴルの圧力の前に、高麗の人々がいかに苦しんだか、その間の動きを克明につづったものである。小説のかたちをとっているけれども、正確な記録にもとづき、史実に即して、えがかれている。ともあれ高麗は、フビライが日本に目をむけたことによって、ふたたび受難の時代をむかえたのであった。フビライの詔書をみると、当然のことながら、みずから「大蒙古国皇帝」と袮し、日本の君主は一段ひくく「日本国王」とよんでいる。それだけでも日本が、モンゴルの申しいれを拒絶することは、明らかであった。かねてから日本の天皇は、中国の皇帝にむかって対等の礼をとろうとしてきたし、高麗の国王にむかっては朝貢の礼をもとめてきた。その日本が、...6-11-5反逆と抵抗
『宋朝とモンゴル世界の歴史6』社会思想社、1974年10大モンゴル8グユクとモンゲつぎの大汗としてオゴタイが期待していたのは、孫にあたるシラムンと、そしてモンゲであった。しかしオゴタイの死後は、その皇后(ドレゲネ)が監国(かんこく)となって、政務をみる。彼女にとってみれば、みずからの子であるグユクを位につけたがった。(グユク中華ドラマ「フビライ・ハン」より)もちろん、それにはクリルタイをひらいて、承認してもらわねばならない。ところがグユクはかねてからバツと仲たがいしていた。したがってバツは、グユクを大汗に推すことには、まっこうから反対している。クリルタイをひらこうとしても、ロシアにとどまっていて、出席しようとはしない。むなしく二年、三年とすぎていった。バツは、ヨーロッパへの遠征を中止したものの、そのままロ...6-10-8グユクとモンゲ
『宋朝とモンゴル世界の歴史6』社会思想社、1974年10大モンゴル5巨星は落ちたチンギス汗は、大西征のつ彼をいやすひまもなく、早くも同じ年(一二二五)の秋には、つぎの遠征に出陣した。さきに命令にそむいた西夏の国を討伐するためのものであった。そして西夏の征服は、金の帝国を完全に屈服させるためにも、必要と考えられたからである。しかし不世出の英雄も、すでに六十歳をこえていた(年齢には数説あり)。その年の冬には、狩猟のさなかに落馬して傷を負った。左右の人たちはカンの身を案じて、ひとまず撤退することにきめたが、チンギス汗は承知しなかった。あくまでも軍を進めることを命じたのである。攻撃はつづけられた。一二三六年から翌年にかけて、モンゴル軍は、西夏のはげしい抵抗をやぶりながら、やがて国都の興慶をかこんだ。軍の進むところ...6-10-5巨星は落ちた
『宋朝とモンゴル世界の歴史6』社会思想社、1974年10大モンゴル3大西征チンギス汗が金の中都にとどまっているとき(一二一六)、はるばる西アジアからホレズム国王の使節がやってきた。これを引見したチンギス汗は、言った。「わしは東方の支配者となる。国王は西方の支配者となり、たがいに和平と友好をたもって、商人たちが自由に往来できるようにしよう。」モンゴルにとって、定着の民に求めるものは、その豊かな物資である。ほしいだけの物資がえられるならば、このんで戦争をするに及ばない。まして領土をえようとは思わない。都市や田畑はいくらあっても、馬や羊を放牧することができないからである。そこで西方の物資をえるために、通商路を確保しようとしたのであった。ホレズム王国は、中央アジアの西部(いまはソ連領)からイラン、アフガニスタンに...6-10-3大西征
『宋朝とモンゴル世界の歴史6』社会思想社、1974年10大モンゴル1西方にむける目全モンゴルの大汗となったチンギス汗の前には、おびただしい財宝がつまれていた。それはモンゴルのものだけではなかった。はるか西方のイランやアラビアの産物までが、チンギス汗のもとへ、はこびこまれていたのである。そうした遠い国のめずらしい品物をもたらし、遠い国のふしぎな物語をきかせてくれるのは、中央アジア(西域)から来たウイグル人であった。ウイグル人の多くは、イスラム教徒である。かってイスラム教徒は、西アジアからヨーロッパとアフリカの一部にかけて(地中海をめぐって)、サラセン帝国とよばれる大帝国をきずきあげた。それが八世紀から九世紀にかけてのこと(唐代)である。その後、帝国の勢いはおとろえたけれども、イスラム教徒の意気はなおさかんで...6-10-1大モンゴル
『宋朝とモンゴル世界の歴史6』社会思想社、1974年7都市と農村2都の明け暮れ開封の都はにぎやかであった。大通りにのぞんで、あちこちにさまざまの店ができた。それだけではない。夜が明けるころには、城門や橋のたもとなど、いろいろの場所で市(いち)がたった。豚や羊をつれて売りにくる者、果子(くだもの)や麺類を売る者、薬や書画を売る者まで、さわがしさと活気にみちた光景がみられた。なかには鬼市子(きしし)といって、泥棒市のようなものまで立った。これは午前三時ごろひらかれ、明けがたには姿を消してしまう。こうして、にぎやかな都市の一日がはじまるのであった。大通りには、酒楼とよばれた料理店がたちならんでいる。酒楼の入口には、色とりどりの紐(ひも)を、のれんのようにむすびあわせて歓門(かんもん)がつくってあり、客はこれをく...6-7-2都の明け暮れ
『宋朝とモンゴル世界の歴史6』社会思想社、1974年7都市と農村1都市のすがた中国では、首部はもちろん、だいたい県庁の所在地ほどの都市になると、周囲に城壁をめぐらし、町をすっぽりつつんでいた。わが平城京や平安京の全体が、城壁にかこまれていたと考えればよいであろう。そして大きな都市ともなれば、城壁が二重、ときには三重にもなっていた。城壁の規模もまことに大きい。後周の世宗(柴栄=さいえい)が全中国の中心にしたいとの願いをこめてつくった開封(かいほう)の都は、いちばん外側の城壁の周囲は二○キロあまり、唐の長安城のほぼ三倍の規模であった。五代十国王朝のひとつ、呉越国の都の杭州では、城壁がさらにひとまわり大きく、三〇キロちかくもあった。城壁の高さは二五メートルほどで、溥(かわら)を積みあげてつくった。城壁の上には女...6-7-1都市と農村
『宋朝とモンゴル世界の歴史6』社会思想社、1974年4宋朝の創業3皇帝の官僚宋の太祖と太宗は、文官をおもく用いて、武人の権力をちぢめ、集権の体制をつくりあげていった。節度使にして、病死したり、老齢になったりして、欠員ができた場合には、できるかぎり文官を後任にあてた。また知州(ちしゅう=州の長官)にしても、同じであった。こうして藩鎮が解体するころ(九七七)には、じつは節度使などの座に文官が大幅に進出していたのである。いまや文官は、まさしく国家権力の担い手になった。しかも太祖は晩年におよんで、科挙(かきょ)の制度に改革をくわえている。科挙こそは、隋代にはじめられて以来、文官となる資格をうるためには、まず突破すべきものであった。これまで科挙といえば、ふたつの関門があった。地方の州で行われる解試と、首都で行われる...6-4-3皇帝の官僚
『宋朝とモンゴル世界の歴史6』社会思想社、1974年3乱世の皇帝5統一への夢中国の仏教史の上で「三武一宗の法難」とよばれる弾圧がある。武の字のつく三人の皇帝と、それから後周の世宗がおこなった弾圧を、さしたものである。世宗の改革は、仏教界にものびていった。世宗のねらいの一つは、憎尼たちを還俗(げんぞく)させて、一般の俗人なみにすることであった。そもそも僧尼は国家で公認された証(あかし)として、「度牒(どちょう)」というものを持っていなければならない。僧尼になると、納税や労役などの負担をまぬがれることができるからである。ところが特権のあることに目をつけて国の公認もうけずに出家する、もぐりの僧尼もたくさんいた。なかには犯罪人などもいて、寺院は一種の治外法権の場でさえもあった。もう一つのねらいは、銅をもとめようと...6-3-5統一への夢
『宋朝とモンゴル世界の歴史6』社会思想社、1974年3乱世の皇帝1契丹の華北支配契丹(きったん)の太宗は、中国の北辺一帯の地、いわゆる燕雲(えんうん)十六州を手にいれたとき、大いによろこんで、その母后にかたったという。「わたしは近ごろ、石郎(せきろう)がかならず使いをよこすことを夢みました。いま、まさにそのとおりになりました。」石郎というのは、後晋(こうしん)の高祖たる石敬塘(せきけいとう)のことである。石敬塘は、みずから皇帝になろうとして、契丹のたすけをもとめ、燕雲十六州をさざげたのであった。おまけに石敬将は、まことに卑屈な態度をとって、契丹の皇帝には「臣」と袮し、父の礼をもって仕えるにいたった。契丹は石敬塘のことを「児皇帝(じこうてい)」とよんでいるが、「石郎」という表現にも、おなじような意味がこめら...6-3-1乱世の皇帝
『宋朝とモンゴル世界の歴史6』社会思想社、1974年2武人の天下1分裂の時代朱合忠が唐の天下をうばって「後梁」を建国したころ、各地にいた節度使のうちで強大なものは、それぞれ自立の道をあゆんでいた。節度使の数はたくさんあったが、強いものは弱いものをほろぼしたり、あるいは服従させたりして、その支配する領域をひろげていたのである。だから節度使のなかには、主君となったものもいれば、その家臣となったものもいた。朱全忠にしてもそうしたものの一つにすぎなかった。さて朱全忠が皇帝を称すると、各地の強大な節度使は、これに臣従しようとはしない。各々独立の政権をつくりあげた。汴(べん)州(開封)に都をおいた朱全忠の支配も、せいぜい黄河の中流から下流域までにしか及ばない。領域をひろげようとして、隣接する独立の政権とたたかっては敗...6-2-1五代十国
聖ジャンヌ・ダルクおとめ殉教者記念日5月30日1329年、フランス王チャールズ4世の逝去によりカペー王朝が断絶し、そのいとこにあたるヴァロア家のフィリプがあとを継いだ。ところが、英王エドワード3世はチャールズ4世のおいにあたるという理由からフランス王位相続権を主張して一歩もゆずらなかった。ここで両国は戦端を開き、フランス国内で「百年戦争」という悲惨な攻防戦をくりひろげた。その後、国内でも王族間の内紛が起こり、ブルゴーニュ党とアルマニャック党に分かれ、前者は英軍と共同し、後者はあくまでフランスの正統王朝、ヴァロア家のシャルル6世の太子を守って優勢な英軍に抵抗した。この必死の抵抗もむなしく、1428年、仏軍の最後の堅固な城オルレアンが包囲され、ヴァロア王朝の運命は風前のともしびとなった。このとき天来の救い主の...聖ジャンヌ・ダルクおとめ殉教者
『中世ヨーロッパ世界の歴史5』社会思想社、1974年12聖女ジャンヌ・ダルク3ジャンヌの謎ジャンヌ聖女観とならんで古来かたく信じられてきた伝説に、シャルル七世阿呆(あほう)説というのがある。この両者は、たがいに補いあうものだといってもよい。阿呆であった若き日の王太子シャルルが、神の御使ジャンヌによって正気にたちかえったという話である。この話の舞台に登場する王太子は、ブールジュないしシノンの城で、廷臣どもにばかにされながら、日がな一日、拳玉にうち興じている。かとおもうと、自分は父王シャルル六世の嫡子(ちゃくし)ではないのではないかと、くよくよ思いなやんでいる。なにしろ、彼の父は狂人であり、母イザボー・ド・バビエールは、さかんな浮き名を流した女性であったから、そのおそれはおおいにあるというわけだ。シノン城で、...5-12-3ジャンヌの謎
『中世ヨーロッパ世界の歴史5』社会思想社、1974年9シチリアの晩祷5地中海帝国の夢シャルル・ダンジュー領地シチリア王国を確保したシャルルは、つぎの目標をビザンティン帝国においた。当時、地中海東部における西ヨーロッパ人の勢力は退潮期にあった。一三五〇年ごろの情勢をみると、第四回十字軍のときに成立したラテン帝国に対抗して小アジア半島の内陸部に作られたビザンティン帝国の後継王朝、ニケーヤ帝国の勢力は、しだいにラテン帝国を圧し、小アジア半島北西部からバルカン半島北部にかけて進出し、ラテン帝国のコンスタンティノープルを攻囲していた。小アジア半島東部にはセルジューク・トルコのイコニウム帝国があり、アルメニアから東はモンゴル人の支配下にあった。エジプトでは、ちょうどこの年、アイユーブ朝が倒れ、トルコ人のマムルク朝がお...5-9-5地中海帝国の夢
『中世ヨーロッパ世界の歴史5』社会思想社、1974年12聖女ジャンヌ・ダルク1娘ジャンヌ「このころ、人の言によれば、ロワールの河縁(かわべり)にひとりの娘あり。予言者を称して、これこれのことは真実となるであろうなどといい、フランス摂政とそれを助けるものたちに敵対していた。人の言によれば、オルレアンの前に陣をかまえていた軍勢をものともせず、多数のアルマニャック勢とともに、多量の食糧をたずさえて市中に入った。また、陣のものたちは、まったく身動きできず、アルマニャック勢が、彼らのそば近く、矢のとどくところ、ないしはその倍ほどのところを通って市中にはいるのをみていたとのことであり、また、市中の人々は、食糧がたいへん欠乏していたので、じつに三フランもするパンを夕食に食べていたとのことであり、そのほか、その娘について...5-12-1聖女ジャンヌ・ダルク
ニール・ブロムカンプのSF短編集・Oats Studios「グダニスク Gdansk」
作品紹介「Oats Studios」は、映画監督のニール・ブロムカンプが描く、斬新で実験的な映像の数々。終末のような恐怖と絶望に満ちた世界で繰り広げられる、悪夢のような物語を集めた短編集。2017年公開。@OatsStudios監督ニール・
シャルル・ダンジュー領とアラゴン王領『中世ヨーロッパ世界の歴史5』社会思想社、1974年9シチリアの晩祷6事件のあとアラゴン王ペドロは、九月二日、パレルモに入り、市政府からシチリア王の冠をうけた。シャルルはペドロとの決戦を避け、カラブリアのレッジオにひきあげた。ペドロは、十月二日、メッシナに入った。これで終わりであった。これまで、シチリア問題を起動ばねに、かみあって動いていた歯車仕掛けは解体した。ビザンティンのミカエルは、危機が去ったいま、もはや西方にはなんの関心も示さない。彼は、十二月に、生涯の事業に満足して死んでいった。ペドロにしても、さらにその目をビザンティン帝国、あるいは神聖ローマ帝国に向けていたわけではない。だいいち、シチリア征服を財政的に支えたバルセロナ、ナルボンヌの商人たちは、王がこれ以上、...5-9-6事件のあと
『中世ヨーロッパ世界の歴史5』社会思想社、1974年10黒い死――恐怖のペスト1死神ペスト来たる地中海の主要貿易路――ペストの流行は、カッファを包囲していたモンゴル軍から起った。そして鼠によって、カッファから船に乗ってヨーロッパ各地に拡散していった。一三四七年、死神がクリミア半島の港町カッファに姿を現わした。カッファは、十三世紀のなかば以降ジェノバ領であり、ジェノバの黒海貿易の拠点であったが、当時クリミア半島を南下したモンゴルのキプチャク汗国の軍勢に攻囲されていた。その攻囲軍の陣営に、ベストが発生したのである。キプチャクの汗ジャニペクは、ペストに倒れた将士の屍体を、投石機を使って市中に投げこませたという。ジェノバ人にも、この災禍のおすそわけをしてやろうという腹づもりだったのだろう。だが、その心づくしには、...5-10-1黒い死――恐怖のペスト
『中世ヨーロッパ世界の歴史5』社会思想社、1974年10黒い死――恐怖のペスト2パニック考えてもみるがいい、四人のうちひとりが死ぬのだ。きのうまで元気だった身内のものが、きょうは全身膿(う)みただれて、土間のわらの上にころがってもがき苦しみ、翌日は黒ずんだ屍(しかばね)となって葬られるのだ。黒い死の不安が、町に村にひろがった。相手の正体のはっきりしている敵ならば、まだしも身を守るすべもある。だが、このようにみえない敵が相手では、人々はただ恐怖に脅えるほかなかった。悪魔の仕業だという発想はすぐに出てくる。また、神の怒りではないかとの畏れの念も、当時の人々にはごく自然だった。だから、芳香を放つアロエという薬用植物を大量に燃やしてみたりした。悪魔が空気を汚しているのだと考えたからである。聖体を護持して練り歩く行...5-10-2パニック