メインカテゴリーを選択しなおす
6月の下旬に、締め切りまで1週間くらい残して、公募へ応募しました。とりあえず、ファンタジー小説とだけ言っておきましょう。 ですが、公募の郵便を発送した直後、身辺で慌ただしいことが相次いで発生し、早めに応募しておいてよかったと、胸をなでおろしたところです。締め切りは6月末の消印有効だったのですが、ギリギリまで粘っていたら、トラブルになっていたかと思うと、冷や汗がでます。 とにかく、郵送してしまったら、手を離れたわけで、まな板の鯉状態です。応募した後も、ついつい原稿を見直してみてしまうのですが、誤字脱字を複数発見。複雑な気持ちです。でも、致命的な誤りではないので、なんとかなるか。 それで、気が抜け…
聖ジャンヌ・ダルクおとめ殉教者記念日5月30日1329年、フランス王チャールズ4世の逝去によりカペー王朝が断絶し、そのいとこにあたるヴァロア家のフィリプがあとを継いだ。ところが、英王エドワード3世はチャールズ4世のおいにあたるという理由からフランス王位相続権を主張して一歩もゆずらなかった。ここで両国は戦端を開き、フランス国内で「百年戦争」という悲惨な攻防戦をくりひろげた。その後、国内でも王族間の内紛が起こり、ブルゴーニュ党とアルマニャック党に分かれ、前者は英軍と共同し、後者はあくまでフランスの正統王朝、ヴァロア家のシャルル6世の太子を守って優勢な英軍に抵抗した。この必死の抵抗もむなしく、1428年、仏軍の最後の堅固な城オルレアンが包囲され、ヴァロア王朝の運命は風前のともしびとなった。このとき天来の救い主の...聖ジャンヌ・ダルクおとめ殉教者
『中世ヨーロッパ世界の歴史5』社会思想社、1974年12聖女ジャンヌ・ダルク3ジャンヌの謎ジャンヌ聖女観とならんで古来かたく信じられてきた伝説に、シャルル七世阿呆(あほう)説というのがある。この両者は、たがいに補いあうものだといってもよい。阿呆であった若き日の王太子シャルルが、神の御使ジャンヌによって正気にたちかえったという話である。この話の舞台に登場する王太子は、ブールジュないしシノンの城で、廷臣どもにばかにされながら、日がな一日、拳玉にうち興じている。かとおもうと、自分は父王シャルル六世の嫡子(ちゃくし)ではないのではないかと、くよくよ思いなやんでいる。なにしろ、彼の父は狂人であり、母イザボー・ド・バビエールは、さかんな浮き名を流した女性であったから、そのおそれはおおいにあるというわけだ。シノン城で、...5-12-3ジャンヌの謎
『中世ヨーロッパ世界の歴史5』社会思想社、1974年12聖女ジャンヌ・ダルク1娘ジャンヌ「このころ、人の言によれば、ロワールの河縁(かわべり)にひとりの娘あり。予言者を称して、これこれのことは真実となるであろうなどといい、フランス摂政とそれを助けるものたちに敵対していた。人の言によれば、オルレアンの前に陣をかまえていた軍勢をものともせず、多数のアルマニャック勢とともに、多量の食糧をたずさえて市中に入った。また、陣のものたちは、まったく身動きできず、アルマニャック勢が、彼らのそば近く、矢のとどくところ、ないしはその倍ほどのところを通って市中にはいるのをみていたとのことであり、また、市中の人々は、食糧がたいへん欠乏していたので、じつに三フランもするパンを夕食に食べていたとのことであり、そのほか、その娘について...5-12-1聖女ジャンヌ・ダルク
シャルル・ダンジュー領とアラゴン王領『中世ヨーロッパ世界の歴史5』社会思想社、1974年9シチリアの晩祷6事件のあとアラゴン王ペドロは、九月二日、パレルモに入り、市政府からシチリア王の冠をうけた。シャルルはペドロとの決戦を避け、カラブリアのレッジオにひきあげた。ペドロは、十月二日、メッシナに入った。これで終わりであった。これまで、シチリア問題を起動ばねに、かみあって動いていた歯車仕掛けは解体した。ビザンティンのミカエルは、危機が去ったいま、もはや西方にはなんの関心も示さない。彼は、十二月に、生涯の事業に満足して死んでいった。ペドロにしても、さらにその目をビザンティン帝国、あるいは神聖ローマ帝国に向けていたわけではない。だいいち、シチリア征服を財政的に支えたバルセロナ、ナルボンヌの商人たちは、王がこれ以上、...5-9-6事件のあと
『中世ヨーロッパ世界の歴史5』社会思想社、1974年10黒い死――恐怖のペスト1死神ペスト来たる地中海の主要貿易路――ペストの流行は、カッファを包囲していたモンゴル軍から起った。そして鼠によって、カッファから船に乗ってヨーロッパ各地に拡散していった。一三四七年、死神がクリミア半島の港町カッファに姿を現わした。カッファは、十三世紀のなかば以降ジェノバ領であり、ジェノバの黒海貿易の拠点であったが、当時クリミア半島を南下したモンゴルのキプチャク汗国の軍勢に攻囲されていた。その攻囲軍の陣営に、ベストが発生したのである。キプチャクの汗ジャニペクは、ペストに倒れた将士の屍体を、投石機を使って市中に投げこませたという。ジェノバ人にも、この災禍のおすそわけをしてやろうという腹づもりだったのだろう。だが、その心づくしには、...5-10-1黒い死――恐怖のペスト
『中世ヨーロッパ世界の歴史5』社会思想社、1974年10黒い死――恐怖のペスト2パニック考えてもみるがいい、四人のうちひとりが死ぬのだ。きのうまで元気だった身内のものが、きょうは全身膿(う)みただれて、土間のわらの上にころがってもがき苦しみ、翌日は黒ずんだ屍(しかばね)となって葬られるのだ。黒い死の不安が、町に村にひろがった。相手の正体のはっきりしている敵ならば、まだしも身を守るすべもある。だが、このようにみえない敵が相手では、人々はただ恐怖に脅えるほかなかった。悪魔の仕業だという発想はすぐに出てくる。また、神の怒りではないかとの畏れの念も、当時の人々にはごく自然だった。だから、芳香を放つアロエという薬用植物を大量に燃やしてみたりした。悪魔が空気を汚しているのだと考えたからである。聖体を護持して練り歩く行...5-10-2パニック
『中世ヨーロッパ世界の歴史5』社会思想社、1974年8くずれゆくアンジュー王国――アンジュー王家の人々Ⅱ――1ヘンリー王の死(挿絵はリチャード1世とフィリップ2世)ジョンがアイルランドでもたもたしているあいだに、兄ジョフリーが、トーナメントで重傷を負って死んだ。彼にはすでに一女エリナーがあり、死後男子アーサーが生まれたから、ブルターニュ侯領をジョンが継承するというわけにはいかなかった。だが、末っ子のジョンは、ここに、一歩、王冠へ近づいたのである。ヘンリーとリチャードの仲は険悪であった。リチャードの許婚(いいなずけ)、フランス王女アリスは、まだヘンリーの宮廷にいて、ヘンリーとの関係をひそかにうわさされていた。アキテーヌ侯領のジョンヘの分与という問題をめぐるさきの争いの結果、ヘンリーはリチャードを下位継承者に...5-8-2くずれゆくアンジュー王国
7エニシダの枝(プランタジネット)の王たち――アンジュー伯家の人々Ⅰ――4ライオンの子供たちアリエノールは、この夫に満足していたのだろうか。ヘンリーとアリエノールのあいだには、八人の子が生まれた。ヘンリーからジョフリーまでの四人は、一一五五年から五八年まで、毎年生まれた。末子ジョンは一一六七年に生まれ、彼の誕生後すぐ、両親は別居生活にはいっている。別居したアリエノールは、リチャードをつれてボワツーに閉じこもり、ポワチェの彼女の城は、ふたたび、吟遊詩人や、小粋(こいき)で軽薄な若い騎士たちでにぎわった。(挿絵はリチャード1世)放浪の学僧(ゴリアルディ)仲間にとっても、また、アリエノールの名が強い牽引力をもったことは、彼らの作ったラテン詩を集めた詩歌集『力ルミナ・ブラーナ』に収録されている詩句からもわかる。こ...5-7-4ライオンの子供たち
7エニシダの枝(プランタジネット)の王たち――アンジュー伯家の人々Ⅰ――5兄弟、あい争う「若いヘンリー」王には、ふしぎな人気があった。それと対照的に、リチャードには人気がなかった。「優雅で高貴、愛らしく、言葉なめらか、容貌美しく、典雅なものごし、どこからみても魅力にあふれ、背丈はといえば、天使にわずか劣る――リチャードは、ちょうど、この逆をいっている」と、ある記録はいい、ウォルター・マップは、リチャードを評して、「なみはずれての不信心者、じつにごりっぱな罪の宮殿」といっている。そのじつ、『若いヘンリー』王には、父王の行政手腕も、リチャードの示した軍人としての能力も、いっさい欠けていた。いわば彼は、その弟たちにくらべれば、一見美しくりりしげな五月人形みたいなものだったのである。それだけに、人々は、彼のうちに...5-7-5兄弟、あい争う
『中世ヨーロッパ世界の歴史5』社会思想社、1974年3シャルルマーニュ(シャルル大帝)1ロランの歌「熱心に、ほとんどたえまなく、境界のしかるべき場所に軍を配置して、サクソン族と戦いをつづけるいっぼう、徴しうるかぎりの兵力を集めて、スペインを攻めた。ピレネー山脈を越え、行く手にある砦や城を残らず制圧し、自軍になんらの損傷をこうむることもなく帰途についた。だが、しかし、その途上、行きと同じピレネー越えにおいて、バスク人の背信にいささか悩まされる仕儀(しぎ)とあいなったのである。山あいをぬける道のせまさに、やむなく長い列をつくって軍を進めていたとき、山の高みにかくれひそんでいたバスク人たちが――実際、そのところには樹木が密生し、かくれひそむには絶好だったのだ――逆落(さかお)としをかけ、荷駄隊の最後尾に、また、...5-3-1ロランの歌
『中世ヨーロッパ世界の歴史5』社会思想社、1974年4ノルマン侵入でのバリの戦い3ノルマン侵入でのパリの戦い喜びをもって語れ、おお、汝、全能の神に救われしもの、ルテチアよ。アボンのラテン語韻文『バリ(古名ルテチア)の町の戦い』はこう歌い出している。アボンはパリの東、サン・ジェルマン・デ・ブレ修道院の一修道士で、ネウストリア、別のいいかたでは「セーヌとロワールのあいだの土地」の生まれだった。その生涯のことは、ほとんど知られていない。九一四年ないし一九年の日付をもつ勅令の記載に、同修道院の「訪問客宿舎係」としてアボンという修道士の名がみられ、おそらくこれと同一人物と考えられている。その後、おそらく九二〇年代まで生きていたらしい。とすると、この詩に歌われた八八五年から六年にかけての事件のあったときには、彼は、ま...5-4-3ノルマン侵入でのパリの戦い
『中世ヨーロッパ世界の歴史5』社会思想社、1974年4ノルマン侵入でのバリの戦い2ノルマンは北辺の海賊一九〇三年、ノルウェーのオスロ湾口の西岸オセペルクに、高さ六メートル、径三六メートルにおよぶ巨大な「舟塚」が発見された。翌年、発掘が行なわれた結果、みごとな彫刻をほどこしたした舟が現れた。青粘土と泥炭土とが木材の腐敗を防いだのである。舟は船首を南に、つまり沖のほうに向け、大きな石に繋留された格好になっていた。船尾にしつらえられた小室には、女性の骨が二体分横たわっていた。ある学者は、この二体のうちの年若のほうの遺骸は、ノルウェー王ハラルド美髪王の祖母にあたる王妃アサではないかという魅力ある説を立てている。遺物による年代測定の結果は、この舟塚の作られたのが九世紀の後半であることと示し、この説を裏づけているのだ...5-4-2ノルマンは北辺の海賊
『中世ヨーロッパ世界の歴史5』社会思想社、1974年2動乱の地中海1東ローマ帝国ユスティニアヌス皇帝の再征服ローマ帝国は、五世紀末に滅亡したのではなかった。帝国の東半分は、なお存続していたのである。だが、なお存続していたとはいえ、このいわゆる東ローマ帝国(首都コンスタンチノーブルの古名ビザンティウムから、通称「ビザンティン帝国」)も、けっして、ゆるぎなく安泰であったわけではなかった。皇帝アナスタシウス(四九一~五一八)が、黒海からマルモラ海にかけて、「アナスタジウスの壁」と呼ばれる長城を建設したことにうかがえるように、ドナウ川は、もはや防衛線ではなくなっていた。ドナウ川の南にはゲルマン諸族が、北にはスラブ諸族、ブルガリア人、フン族がひかえていた。シリアのペルシァとの国境は、つねに危機をはらんでいた。しかも...5-2-1東ローマ帝国ユスティニアヌス皇帝の再征服
フランス旅行記の合間に、私の小説の方は少しづつ進展しているのですが、今回はかの有名なランカスター家のセシリー・ネヴィルとベアトリスの関係をより理解していただけるように、また新たな家系図を作りました。セシリーにはいくつかの呼び名があったそうで、「レヴィの薔薇」や「誇り高きシス」と呼ばれた美しく立派な女性だったようですが、彼女が有名なのは息子の2人エドワード4世とリチャード3世がイングランド国王になっ...
ブログはフランス旅行の途中ですが、今回また「薔薇戦争」相関図を家系図にしたので、ご紹介させていただきます。この家系図を見ると薔薇戦争の当事者同士がみんな親戚同士だったことがよくわかります。薔薇戦争初期の主役はヘンリー6世、サマセット公エドムンド・ボーフォート、ヨ-ク公リチャードですが、親同士が従兄弟同士だったり、ヨ-ク公リチャードの妻セシリー・ネヴィルは夫と敵対するサマセット公エドムンド・ボーフォ...
「はぁ、また家系図~?!!!」とがっかりされた方、本当に申し訳ありません。こちらは物語の中でアリシアと行動を共にしているベアトリスの家系図になります。ベアトリスとその父(ヘンリー6世の庶子)は創作上の人物になりますが、ベアトリスの母に設定したカタリーナは実在の人物でマクシミリアン1世の母エレオノーレの2歳下の妹でした。物語の中で、ヘンリー6世の若かりし頃の過ちで生まれた庶子ジョージと尼僧になったカタリ...
「また家系図か」と思われる方もいるかもしれませんが、家系図を作るとどうしても披露したくなってしまうのです。どうかお許しください。今回の家系図はヨーク家の子供達をまとめたものです。そして今回は私の小説の主人公の一人アリシアの家系図上では初の登場になります。「マリーとマクシミリアン」の物語を書く際、創作上の魅力的な人物も入れたいと考えて最初に作ったキャラクターがこちらの「アリスことアリシア」でした。ア...
今回の小説でも少し登場したジャンヌ・ダルクなのですが、今回は彼女に関係する場所のお話です。この3年来夏の休暇はフランスへ行っているのですが、2年前はロワール地方のお城巡りをしていました。その際、オルレアンへも寄ったのは、ここが「聖なる乙女ジャンヌ・ダルク」が彗星のごとく現れ、フランス軍の窮地を救った有名な場所だったからなのですが、そんなわけで「ジャンヌ・ダルク博物館」へも行ってきました。(オルレアン...
「百年戦争相関図」その3 イングランド王朝プランタジネット家
こちらは前回に続き、イングランド王家プランタジネット朝の家系図ですが、今回はヨーク公リチャードのプランタジネット家での位置がよく理解できるように作成してみました。そのヨーク公リチャードとセシリー・ネヴィルの子供達である、エドワード4世やリチャード3世も載っています。今回は、百年戦争の第3期(後期)について執筆しました。ついにジャンヌ・ダルク登場です。彗星の如く突然現れた「聖なる乙女ジャンヌ・ダルク」...