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モンゴルバックパッカー旅①~遊牧民宅にホームステイ&ノープラン旅~
モンゴル…日本から近いようで、でも旅先としてはメジャーではないんじゃないでしょうか。 モンゴルは広すぎて、公共交通機関が
モンゴルバックパッカー旅続編②。 モンゴルの遊牧民家族とホームステイをしていたたまですが、ホストファミリーとお別れし、一
Holy Places Around the World 今までに訪れた 45ヵ国の各地で 実際に足を運んだ 聖地、古代遺跡、エネルギーポイント、神殿、寺院、教会、神社、仏閣、祠(ほこら)、神木 など
幸せの甘いチーズ そんなわけで心身ともに不調のまま過ごしているモンゴルである。 一番こたえたのは、ある乳製品を前にしたときのことだ。 先日博物館で、乳製品製…
スポニチアネックスNHK大改編平日午後1時から5時間情報番組による生放送民放各局にも衝撃https://news.yahoo.co.jp/articles/fce17f3592ea75abfba2885ac0ef28c5bb5fea68スポニチアネックスフリーアナウンサー・三雲孝江さんの長女星麻琴・NHKアナウンサー看板番組「ニュースウオッチ9」のメインキャスター就任へhttps://news.yahoo.co.jp/articles/5b1e9c20032e9f68045773ec86b5485b13c8e6d3NHKオンライン・首都圏ネットワークhttps://www.nhk.jp/p/shutoken-net/ts/MX1YJ59WZ8/2006年1月20日のNHK総合テレビジョン「首都圏ネットワー...首都圏ネットワーク(NHK総合テレビジョン・首都圏)
東京スポーツ電子版日本大相撲トーナメント・第48回大会豊昇龍智勝が初優勝「パーティーもあるし、良いプレゼントになった。」https://www.tokyo-sports.co.jp/articles/-/291920?utm_source=news.yahoo.co.jp&utm_medium=referral&utm_campaign=related東京スポーツ電子版豊昇龍智勝が大関昇進祝賀会日本相撲協会・八角信芳理事長からハッパ「600人の力士達の模範に」https://www.tokyo-sports.co.jp/articles/-/291987豊昇龍智勝さん(立浪部屋)、2023年の大相撲名古屋場所で大関に昇進、「日本大相撲トーナメント」第48回大会での優勝、おめでとうございます。大関として60...豊昇龍智勝さんへ
成田空港 アエロモンゴリア航空のターミナルはどっち?|車や電車で迷ったときにスマホですぐに確認する方法を解説します。
アエロモンゴリア航空のターミナルってどっちなんだっけ? 成田空港でアエロモンゴリア航空を利用するときのターミナルは、 スマホで簡単に確認できます るるる 公式サイトなら一発です。 成田空港国際線ターミナルの確認方法 STEP1成田空港の公式
『アジア専制帝国世界の歴史8』社会思想社、1974年4モンゴルの復興2オイラート土木の変の当時、エセンはモンゴル最大の実力者ではあったが、カン(汗)ではなかった。モンゴルの伝統においては、チンギス汗の子孫でなければ、カンとして認められなかったのである。ましてエセンは、モンゴル人ではあったが、そのなかでも傍系と見なされたオイラート部の出身であった。オイラート部というのは、モンゴル高原の西北部を本拠としていた部族である。十三世紀の初め、チンギス汗の配下に入り、モンゴル帝国の一翼をなした。しかも当時から四つの万戸を編成したほどに、有力な部族であり、モンゴル帝室とも婚姻を通じていた。さて元朝が、中国を追われてモンゴル高原にしりぞいた後、順帝(元朝最後の朝帝)の子どもはカラコルムに拠って、なお大元の皇帝を袮していた...8-4-2オイラート
『アジア専制帝国世界の歴史8』社会思想社、1974年4モンゴルの復興1捕われた皇帝一四四九年といえば、永楽帝が世を去ってから二十五年、洪煕(こうき)・宣徳(せんとく)の二代をへて、英宗の正統十四年になっている。英宗すなわち正統帝は、まだ二十歳のわかさであり、その側近にあって権力をふるっていたのは、宦官の王振であった。このころ明朝にとって、もっとも大きな問題は北辺にあった。モンゴルに英雄エセンがあらわれて、東は中国の東北地方(満州)から、西はトルキスタンにおよぶ大版図をひらき、しばしば明の辺境にも入冦(にゅうこう=侵入)していた。これに対して明朝は、むしろエセンを挑発する態度をとる。怒ったエセンは、正統十四年の七月、大軍を四手にわけて、明の北境一帯に進攻した。エセンのひきいる本軍は、大同にむかった。大同が侵...8-4-1モンゴルの復興
デイリー新潮がぶり寄りの大相撲人気力士荒勢永英さんが亡くなって15年ウイスキーのTVコマーシャルで人気も実は…魅力は見た目と素顔のギャップだったhttps://news.yahoo.co.jp/articles/6aea0f2506a5e4cb7b39f7d8dfb3f5776ebbcf35玉ノ井部屋・公式ホームページhttps://tamanoi.com/大相撲の栃東大裕さん(大関・玉ノ井部屋)、脳梗塞に冒されての引退から15年が過ぎました。好角家にとっては、悲しい話題となりました。大関在位30場所で優勝3回という輝かしい成績は、今でも忘れられません。「玉ノ井部屋」の主として素晴らしい親方になります様、心よりお祈り申し上げます。栃東大裕さんへ
モンゴルを2日間で120%楽しむモデルコース紹介! 遊牧民のゲルや草原での乗馬体験・ラムしゃぶや現地グルメなど現地ツアーで効率的に観光するルート紹介
モンゴル・ウランバートルの3泊4日観光モデルコースを紹介。 海外旅行好きミニマリストが初冬11月にモンゴル旅行した実体験をもとに、チンギスハーン空港到着からスフバートル広場・チンギスハーン騎馬像・遊牧民ゲル訪問・ラムしゃぶグルメなどモンゴル観光を120%楽しむためのおすすめルートや注意事項を解説します。
【実録】モンゴル旅行の費用はいくら?3泊4日1人旅の総額費用公開 航空券代・宿泊費・食費・通信費・交通費・観光費など実費公開
モンゴル旅行の総額費用感を食費・宿泊費など項目別に紹介。 海外旅行好きミニマリストが初めてのモンゴル・ウランバートル3泊4日1人旅をした実体験をもとに、航空券代・宿泊費・交通費・食費・観光費の目安と、おすすめの滞在日数、効率的に観光する方法や注意事項を解説します。
【実録】モンゴルには直行便で行くべき? MIATモンゴル航空で成田-ウランバートル往復便の搭乗体験より座席・機内食・モニターなど紹介
MIATモンゴル航空の直行便でモンゴル・ウランバートル旅行したフライト実体験を紹介。 海外旅行好きミニマリストが2023年にモンゴルへ直行便で往復旅行した体験談をもとに、MIATモンゴル航空の機内設備や機内食・搭乗方法や、モンゴル旅行で直行便を利用するメリット、注意事項を解説します。
【実録】モンゴル旅行に現金は必要? 現地ATMでキャッシングするも、極力キャッシュレス決済を試みた実体験紹介
モンゴル旅行の現金両替・キャッシュレス事情を解説。 海外旅行好きミニマリストがモンゴル・ウランバートル旅行で現地ATMでトゥグルグにキャッシングしつつもできる限りクレジットカード決済を試みた実体験をもとに、モンゴル旅行ののキャッシュレス利用や現金が必要な場所、おすすめの両替場所や支払い方法、注意事項などを解説します。
【2023年11月】モンゴル・チンギスハーン空港でプライオリティパスは使えない? ウランバートル新空港を利用した体験談紹介
モンゴル・ウランバートルのチンギスハーン国際空港でプライオリティパスの利用を試みた体験談を紹介。 海外旅行好きミニマリストが新しくできたMIATモンゴル航空利用時にチンギスハーン国際空港を使った実体験をもとに、プライオリティパスで利用できるラウンジの座席・食事・ドリンク・アルコール・シャワー・Wi-Fi・充電情報やおすすめの過ごし方・注意事項を解説します。
モンゴル旅行でVISAタッチは使えない? 交通・食事・買い物でクレジットカードのタッチ決済を試みた実体験紹介
モンゴル旅行でクレジットカードのタッチ決済を利用した実体験を紹介。 海外旅行好きミニマリストが週末弾丸モンゴル旅行をした際、VISA・AMEXのタッチ決済を食事・交通・買い物・観光スポットで利用した実体験から、利用できる場所やおすすめの決済方法を解説します。
【注意】モンゴル入国にビザも書類もいらない? MIATモンゴル航空の直行便でウランバートル旅行した入国手続き体験談
ビザも書類記入もなしでモンゴルに入国した体験談を紹介。 海外旅行好きミニマリストが週末弾丸モンゴル旅行をした際、MIATモンゴル航空の直行便で入国した実体験をもとに、モンゴル旅行のビザ取得・機内での書類記入や初心者でも旅行しやすい理由を解説します。
おはようございます。モンゴルに行った話をすると皆さん『なんで?』とおっしゃいますが大自然に触れることができて世界観が変わった気がしています。それにモンゴルの方…
VIVANTにハマってモンゴルへ最終章・まさかのダブルブッキングとVIVANT巡り
おはようございます。無事に帰国していますがまだ投稿していない最終日の様子です。ホント色々ありすぎて載せてみました。事前に告知されていたのですが航空会社のまさか…
おはようございます。おかげさまで無事に帰国しました。ブログのアップが追いつかずもう少しモンゴル記事が続きます。早起きをしてモンゴルのご来光を見ました。モンゴル…
おはようございます。朝晩は冷え込むモンゴルですが日中はコートが要らないくらい暖かく1日を通しての寒暖差が激しいのですがロングコートを着ているのは観光客ばかり。…
おはようございます。日本とモンゴルでは時差が1時間あるので現在6:00、まだ外は真っ暗です。モンゴルの話が続きますがテレルジ国立公園方面の観光をしました。大自…
おはようございます。今回の旅の目的のゲルへお邪魔しました。ウランバートルとは真逆の大自然を満喫。心の底から癒されました。ランチはモンゴルで有名な揚げ餃子ホーシ…
おはようございます。ウランバートルで朝を迎えています。実はVIVANTにハマって娘とモンゴルへ飛びました昨日はゆっくりめのフライトだったのでドライブしながら成…
【海外の記憶】はじまりは南モンゴルから!初海外は沙漠緑化活動
チキンハートLovesand、思いきって参加を決める みなさんにとって、思いきってチャレンジした記憶はなんでしょうか? わたしにとってのソレは、大学1年生の夏に参加した南モンゴルでの沙漠緑化活動です。 当ブログでは、行政区としての内モンゴル
The Times, 3 October 2023 モンゴルの古代のパワーを称えるミュージカルが、初日の夜に中国当局によって封鎖された。 『モンゴル・ハーン』が来月ウエスト・エンドに登場 ウェスト・エンドで上演されるミュージカルが中国で上演禁止となり、当局が観客を追い払い、キャ...
9月の人気記事トップ10・・・日本, チベット, モンゴル, スペイン, ドイツ
こんにちは Megumi Piel(ドイツ在住)です。10月に入っても暖かい日が続いているドイツ そのせいかいつもの年より蚊が多く発生している気がします。 と…
博物館での夫 『チンギス•ハーン博物館の一日【前編】』 ウランバートルのミュージアム モンゴルでは前述のようにトレッキングをしたりカラコルムに出かけてみ…
鹿石、そして石人 『チンギス•ハーン博物館の一日【前編】』 ウランバートルのミュージアム モンゴルでは前述のようにトレッキングをしたりカラコルムに出かけて…
ウランバートルのミュージアム モンゴルでは前述のようにトレッキングをしたりカラコルムに出かけてみたりしていたのだが、大半の時間を過ごしたのは首都ウランバート…
「YouTubeで旅する世界遺産(おうちで世界遺産)」に「モンゴルの世界遺産(ウヴス・ヌールとオルホン渓谷他)」を公開しました
PCR検査できる病院の検索サイト 「YouTubeで旅する世界遺産(おうちで世界遺産)」に「モンゴルの世界遺産…
カラコルム博物館 「あれがカラコルムの博物館。日本人でしょ、JICAって知ってる?その協力で建てられたもので、わたしたちは誇りに思っているんだよ」 バスター…
夢の跡 『カラコルム滞在記【前編】』 忙しくのんびりした日々 ウランバートルから約6時間。 ぼっとん便所のある食堂での休憩を除けばサービスエリアなどな…
見果てぬ夢 モンゴル 出来ればご声援お願いいたします m(__ __)m 馬も嬉しいだろうなぁ~ 祖先は 東北で これをやってたはず・どんなに 長けていても 緩みがあると やられる。 それが闘いだ。 かつての夢は モンゴル平原を 馬で行きたかった。 もう、羽黒の天狗を見付けるのも 屋...
忙しくのんびりした日々 ウランバートルから約6時間。 ぼっとん便所のある食堂での休憩を除けばサービスエリアなどなく、草原で用を足すモンゴルのバス。 揺られて…
変化するウランバートル わたしの旅はたいてい本とともにあり、済州での旅を伴走してくれたのは茨木のり子『ハングルへの旅』であったが、ここモンゴルでは司馬遼太郎の…
パステルのモンゴル 『モンゴル「オルレ」日誌【前編】』 済州からモンゴルへ 団体行動のツアーなど、面倒で金がかかってなるべく避けたいものだと常々思っているわ…
愛と憎しみの綱引き1週間前、突然嘔吐した。 月が綺麗なモンゴルの夜のことだ。旅をしていて吐いたのは初めてだった。 モンゴルに来る以前から下痢気味だったところ…
8月の人気記事トップ10・・・日本, モンゴル, ドイツ, スペイン
こんにちはMegumi Piel (ドイツ在住)です。日本からドイツへ戻ってみると朝、夜が明けるのが遅くなっていてこちらでも徐々に日が短くなっています。 …
『宋朝とモンゴル世界の歴史6』社会思想社、1974年13内陸の王者3宮廷のヨーロッパ人ティムールが中国への遠征に旅立つすこし前、その宮廷には一人のドイツ人と、一つの使節団の姿があった。ドイツ人とは、ババリア(バイエルン)の兵士ヨハン・ソルトペルゲルであり、使節団とはエスパニア王(正しくは、カスティリァ・レオン王)エンリケ三世からつかねされた騎士ルイ・ゴンザレス・デ・クラビホを団長とするものであった。シルトペルゲルは、ハンガリー王のひきいる十字軍に加わり、オスマン帝国の「稲妻王」バヤジット一世の軍隊と戦って捕虜になった(一三九六)。ところがアンカラの戦(一四〇二)で、今度はティムール軍に捕えられ、サマルカンドに連行される。そしてティムールの死後、キプチャク汗国につれ去られたが、一四二七年に釈放され、ようやく...6-13-3宮廷のヨーロッパ人
『宋朝とモンゴル世界の歴史6』社会思想社、1974年13内陸の王者4世界の首都クラビホの報告のうち、ティムールの手によるサマルカンドの町造りを述べたところは、とくに注目をひくものがある。「サマルカンド地方では商業が非常にさかんだったので、毎年この町には、シナやインドやタタール、そのほか各地から、あらゆる種類の商品が、たくさん移入されていた。しかしいままでこれらの品物を置き、陳列するのに適当た場所というのが、この町にはなかったのである。そこでティムールがこのたび命じたのは、両側にあらゆる種類の品を売る商店をならべた通りを一本、サマルカンドを貫通するように建設することだった。……職人は、監督が必要とするだけ集められ、こと欠くことはなかった。ひるま働いたものは夜になると帰り、かわって同じだけの人数のものが夜どお...6-13-4世界の首都
こんにちはMegumi Piel (日本に一時帰国中)です。 以前、夏のモンゴルで大草原を馬に乗って5日間、野営テント生活をしました。 木もない、建物もない、…
『宋朝とモンゴル世界の歴史6』社会思想社、1974年12元朝の支配5ラマ僧の権威元朝はモンゴル人の天下である。いかに色目人が重用せられたからといって、それはモンゴル人の補佐たる役割のものであった。サンガのように、色目人であって宰相につぐ地位にのぼった者もあるが、それは特例にすぎなかった。中央と地方とを問わず、長官たる地位を占めたのは、やはりモンゴル人であった。社会生活においても、モンゴル人は特権をもっていた。たとえば「モンゴル人と漢人とが争って、(モンゴル人が)漢人をなぐっても、漢人は報復することはできない。役人に訴えることをゆるす。」――これは法令として、正式に布告されたものなのである。中国人がモンゴル人(色目人を含む)を殺せば、もちろん死刑である。その上に、犯人の遺族は埋葬金をおさめねばならなかった。...6-12-5ラマ僧の権威
『宋朝とモンゴル世界の歴史6』社会思想社、1974年12元朝の支配1ベニスの商人ちょうどフビライが即位したころのことである(一二六〇頃)。キプチャク汗のベルケ(バツの子)はめずらしい客人を引見していた。ベニスの商人で、ニコロ・ポーロとマッフェオ・ポーロの兄弟であった。二人は一二五三年にベニスを発し、商売のためにコンスタンティノープルにおもむいた。そこに六年ほど滞在し、それからモンゴル人と取引しようと思いたって、キプチャク汗国まで出むいてきたのであった。ボーロ兄弟は、ペルケに宝石を贈り、その二倍の値段にあたる品物を受けとった。取引は大もうけであった。勇(いさ)んでベニスに帰ろうとしたところ、イル汗国のプラグとベルケとのあいだに戦争がはじまった。南西への道は危険となる。帰りたくとも帰れない。そこで東方へむかっ...6-12-1元朝の支配
『宋朝とモンゴル世界の歴史6』社会思想社、1974年12元朝の支配2カトリック伝道ポーロ一家がまだ中国にいた一二八九年、イタリアを出発して東方へむかった宣教師があった。これこそローマ教皇(ニコラウス四世)の命令をうけたジュアン・ド・モンテ・コルビノの一行であった。インドおよび中国(モンゴルを含む)にカトリックを伝道することが、その使命であった。ヨーロッパからモンゴルに宣教師がおもむくことは、これが初めてではない。すでに一二四六年、プラノ・カルピニはローマ教皇の使節として、モンゴルにおもむいた。そして時の大汗グユクに謁見し、教皇からの書簡をわたした。一二五四年には、フランク王(ルイ九世)の使節として、ギョーム・ド・ルブルクがつかわされ、大汗モンゲに謁見している。これらの使節は、キリスト教を伝道するという目的...6-12-2カトリック伝道
ワシントンの技術制裁への報復としてレアアース輸出規制を利用する北京の計画に対抗できる可能性がある。 Jeff Pao Asia Times August 8, 2023Statista.comによると、中国は昨年21万トンのレアアースを生産し、世界最大の資源輸出国であり続けた。中国の埋蔵量は約4,400万トンで、ベトナムの2,200万トン、中国のBRICSメンバーであるブラジルとロシアの各2,100万トンがこれに続く。アメリカも230万トンのレアアースを保有しているが、環境問題を理由に探査を避けている。これは、現在の技術戦争において北京に影響力を与えるものと考えられていた: 中国を制裁すれば、…
『宋朝とモンゴル世界の歴史6』社会思想社、1974年11悲劇の朝鮮半島2内憂と外冦そもそも半島に「高麗」が建国したのは、十世紀のはじめ(九一八)のことであった。それまで二百年ちかくにわたって統一国家を維持してきた新羅も、九世紀には国勢がおとろえる。国内のあちこちに一揆がおこり、反乱があいつぎ、これに乗じて各地の有力者が立ちあがった。半島は騒乱のちまたとなり、北部に、また西部に、新しい国が建てられた。九世紀の末、すでに新羅は、半島の南部のみをたもつ小国にすぎなかった。動乱のなかから、ひとりの英傑があらわれた。王建(おうけん)である。国を建てて高麗と号し、しだいに勢力をひろげた。ついに新羅王も、これに降伏する(九三五)。半島の統一が完成したのは、その翌年であった(九三六)。高麗は、その内政をととのえるとともに...6-11-2内憂と外冦
『宋朝とモンゴル世界の歴史6』社会思想社、1974年10大モンゴル8グユクとモンゲつぎの大汗としてオゴタイが期待していたのは、孫にあたるシラムンと、そしてモンゲであった。しかしオゴタイの死後は、その皇后(ドレゲネ)が監国(かんこく)となって、政務をみる。彼女にとってみれば、みずからの子であるグユクを位につけたがった。(グユク中華ドラマ「フビライ・ハン」より)もちろん、それにはクリルタイをひらいて、承認してもらわねばならない。ところがグユクはかねてからバツと仲たがいしていた。したがってバツは、グユクを大汗に推すことには、まっこうから反対している。クリルタイをひらこうとしても、ロシアにとどまっていて、出席しようとはしない。むなしく二年、三年とすぎていった。バツは、ヨーロッパへの遠征を中止したものの、そのままロ...6-10-8グユクとモンゲ
『宋朝とモンゴル世界の歴史6』社会思想社、1974年10大モンゴル5巨星は落ちたチンギス汗は、大西征のつ彼をいやすひまもなく、早くも同じ年(一二二五)の秋には、つぎの遠征に出陣した。さきに命令にそむいた西夏の国を討伐するためのものであった。そして西夏の征服は、金の帝国を完全に屈服させるためにも、必要と考えられたからである。しかし不世出の英雄も、すでに六十歳をこえていた(年齢には数説あり)。その年の冬には、狩猟のさなかに落馬して傷を負った。左右の人たちはカンの身を案じて、ひとまず撤退することにきめたが、チンギス汗は承知しなかった。あくまでも軍を進めることを命じたのである。攻撃はつづけられた。一二三六年から翌年にかけて、モンゴル軍は、西夏のはげしい抵抗をやぶりながら、やがて国都の興慶をかこんだ。軍の進むところ...6-10-5巨星は落ちた