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吉祥寺ラーメン(ホープ軒本舗/宏ちゃん/野方ホープ)(2024年1月)
吉祥寺北口でラーメン3食いただきました。■ホープ軒本舗:中華そば(750円)吉祥寺サンロード近くにあるお店。中華そばを注文。大盛無料でした。具はチャーシュー1枚、もやし、のり1枚、ネギ少々卓上の唐辛子を振りかけました。■宏ちゃん:辛味噌らーめん(920円)サンロードを抜けて五日市街道を左に進んだところにある、味噌ラーメンがメインのお店。辛味噌ラーメンを注文。平日11時-14時半ライス無料です。スープは見た目どおり辛かったです。具はチャーシューぶつ切り、メンマ、わかめ、もやし、ネギなど。卓上のにんにくを小さじ1杯入れました。■野方ホープ:元(950円)ヨドバシカメラの手前にあるお店。お店の前でぎょうざ5個サービス券をもらいました。元=「はじめ」と読みます。ランチタイムは麺大盛、小ライスが無料です。小ライスは...吉祥寺ラーメン(ホープ軒本舗/宏ちゃん/野方ホープ)(2024年1月)
『宋朝とモンゴル世界の歴史6』社会思想社、1974年11悲劇の朝鮮半島5反逆と抵抗井上靖の『風涛(ふうとう)』は、モンゴルの圧力の前に、高麗の人々がいかに苦しんだか、その間の動きを克明につづったものである。小説のかたちをとっているけれども、正確な記録にもとづき、史実に即して、えがかれている。ともあれ高麗は、フビライが日本に目をむけたことによって、ふたたび受難の時代をむかえたのであった。フビライの詔書をみると、当然のことながら、みずから「大蒙古国皇帝」と袮し、日本の君主は一段ひくく「日本国王」とよんでいる。それだけでも日本が、モンゴルの申しいれを拒絶することは、明らかであった。かねてから日本の天皇は、中国の皇帝にむかって対等の礼をとろうとしてきたし、高麗の国王にむかっては朝貢の礼をもとめてきた。その日本が、...6-11-5反逆と抵抗
『宋朝とモンゴル世界の歴史6』社会思想社、1974年10大モンゴル8グユクとモンゲつぎの大汗としてオゴタイが期待していたのは、孫にあたるシラムンと、そしてモンゲであった。しかしオゴタイの死後は、その皇后(ドレゲネ)が監国(かんこく)となって、政務をみる。彼女にとってみれば、みずからの子であるグユクを位につけたがった。(グユク中華ドラマ「フビライ・ハン」より)もちろん、それにはクリルタイをひらいて、承認してもらわねばならない。ところがグユクはかねてからバツと仲たがいしていた。したがってバツは、グユクを大汗に推すことには、まっこうから反対している。クリルタイをひらこうとしても、ロシアにとどまっていて、出席しようとはしない。むなしく二年、三年とすぎていった。バツは、ヨーロッパへの遠征を中止したものの、そのままロ...6-10-8グユクとモンゲ
『宋朝とモンゴル世界の歴史6』社会思想社、1974年9草原の英雄1モンゴルの勇者よく晴れた日であった。いつものように、エスゲイは、ひとりで鷹狩りに出かけた。オノン川のほとりまでゆくと、むこうから一団の人々が来る。メルキト国の人々であった。メルキトのチレドという若者が、嫁をもらって連れてゆくところなのであった。さぐって見ると、顔かたちのすぐれた、うつくしい女である。エスゲイは、たちまちわが家に走りかえった。エスゲイは、兄と弟とを連れてきた。そしてチレドの行列を追った。チレドはおそれた。足のはやい黄馬(きうま)にまたがり、むちうちながら丘をこえて、身をかくした。そのうしろから、三人はつづいて追った。女は車に乗っている。チレドは山のはしをひとめぐりして、車のところへもどってきたところに、三人が行きついた。チレド...6ー9ー1草原の英雄モンゴルの勇者
中国の歴史 皇帝独裁の明と秀吉の朝鮮出兵 楽しい世界史 -中国と東アジアの歴史-
世界帝国を築いたモンゴル(元)だったが、やがて不安定になり、明が建国される。また、そのころ日本では豊臣秀吉の朝
中国の歴史 世界帝国となったモンゴル帝国 楽しい世界史 -中国と東アジアの歴史-
中国・江南地区で南宋文化が栄えた頃、モンゴルではチンギス=ハンがモンゴル族を統一した。 そのモンゴルについて、
13世紀末、元軍の侵攻を受け、樺太からオホーツク文化人が南下。 ※抜粋(漢数字⇒アラビア数字、[]内はルビ) 1284年に、元軍は樺太遠征も行いました。これは、その前年に、アムール河下流から樺太に住んでいた吉里迷[ギレミ](ギリヤーク族、今はニブフと呼ばれる)が、モンゴル建国の功臣ムカリ(国王と呼ばれる)の子孫シデの遠征により、モンゴルに服従したことによります。元の家来になっていた樺太の吉里迷が、...
1281年旧暦5月21日、二度目の蒙古襲来、弘安の役が始まります。 (弘安の役、防塁で元軍の侵入を阻む) 鎌倉時代の1281年、元のフビライは蒙古・高麗など4万の東路軍と10万からなる旧南宋の江南軍のあわせて14万の大軍で日本に押し寄せます。弘安の役です。 東路軍は対馬・壱岐を攻めココで殺戮を繰り返し、江南軍と合して博多湾に侵入します。 このとき鎌倉幕府は博多湾に石を積んでつくった防塁を作らせ、これが蒙古軍の侵入を食い止めました。上陸が出来なかった元軍が船に戻りますが、やがて暴風雨が起きて 元の船の多くが大破し、生き残った元軍は戦争をあきらめ撤退します。 この防塁、石のブロックですね。 (今も…