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カトリック情報 Catholics in Japan https://blog.goo.ne.jp/catholic_info

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2016/07/09

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  • 天国は暴力に襲われ、暴力の者これを奪う

    (5)-心から望まなければならぬー「人の世にあるは戦いに在るが如し」(ヨブ七ノ一)とヨブはいい、御主も「我地に平和を持ち来たれりと思うこと勿れ、我が持ち来たれるは平和に非ずして刃なり」(マテオ十ノ三十四)だの、「天国は暴力に襲われ、暴力の者これを奪う」(マテオ十一ノ十二)だの、「人もし我後につきて来たらんと欲せば己を棄て、己が十字架を取りて我に従うべし」(マテオ十六ノ二十四)だのと教え給うた。して聖人などは皆その教に従い、絶えず悪戦苦闘を続けて、天国に昇られたのであります。しかるにこれを見ると、天国の福楽をかち得るためには、随分と辛い目を見、苦しい戦いを経なければならぬ。やれ朝夕の祈りだ、やれ日曜日のミサだ、やれ公教要理だ、説教だ・・・祝日が来た、告白をして下さい、聖体を拝領しなさい、伝道に手伝って下さい...天国は暴力に襲われ、暴力の者これを奪う

  • 蓄財のために弱い人を虐げる者、富める者に貢ぐ者 聖書

    蓄財のために弱い人を虐げる者、富める者に貢ぐ者は欠乏にあえぐことになる。箴言22章16節蓄財のために弱い人を虐げる者、富める者に貢ぐ者聖書

  • 聖フーベルト司教 St. Hubertus E.

    聖フーベルト司教St.HubertusE.記念日11月3日中世紀の多数の聖人たちは狩猟を楽しんだが、聖フーベルトもその一人であった。ある日、彼がアルデンヌの森の中を歩いていた時、一頭の鹿が目の前に現れたので、すぐに殺そうとした瞬間、鹿の角の間に十字架が見えてきた。その日は聖金曜日であった。フーベルトがその場で跪くと「もし、キリストに信頼して生活しなければ、地獄に落ちるであろう」という声が聞こえた。この瞬間に彼にとって新しい生活、より偉大な価値ある人生のスタートになった。これはアルデンヌの森での出来事であった。フーベルトはペピン公爵に仕えていたが、彼の妻は685年に息子を生んでまもなく死去した。その時から彼は今までの職務から退いて、メストリヒトのランベルト司教の許に行って指導を受け、森林の中で隠修士として数...聖フーベルト司教St.HubertusE.

  • 聖人はどのようにして天国に昇られたか

    十一月二日(4)-聖人などはどのようにして天国に昇られたかー一口に聖人と申しましても、天主から特別の聖寵をかたじけなうし、人目を驚かすようなことをして、高い高い徳域に進まれた御方もあれば、普通の途を踏み、普通の徳をただ普通ならぬ心掛けで以って実行し、それによって聖人となり、天国へ昇られた御方もございます。人目を驚かすような徳を行って聖人となることは、誰にでもできる話ではありませんが、しかし普通の徳を普通ならぬ心掛けで以って実行し、天に昇ることならば、できない人はないはずである。すなわちこの祝日のついでに、誰しも、どうしたら天国に昇れるかということを篤く考えて見る必要があろうかと存じます。聖トマス博士の妹が、ある日兄博士に向かい「聖人となるにはどうしたらよいのですか」と問いました。すると聖人はたった一口、「...聖人はどのようにして天国に昇られたか

  • 聖書を知らないことは、キリストを知らないこと 聖ヒエロニムス

    聖書を知らないことは、キリストを知らないことです。聖ヒエロニムス聖書を知らないことは、キリストを知らないこと聖ヒエロニムス

  • 死者の日 Commemoratio Omnium Fidelium Defunctorum

    死者の日CommemoratioOmniumFideliumDefunctorum記念日11月2日煉獄の霊魂の記念が11月2日に行われるのは、それが前日の諸聖人の祝日の補足ともいうべきものであるからである。この両日には「我は諸聖人の通功を信ず」という使徒信経の言葉を思い出さずにはいられない。広い意味で聖人と言えば、天国の霊魂は勿論のこと、煉獄の霊魂も、又成聖の聖寵を有するすべての人々をも含む。これらは皆天主の愛子であって、従ってまた相互に兄弟姉妹である。ただその異なる所は名々の状態で、天国に在る者は永福を楽しみ、この世に在る者は誘惑と闘い、主の聖寵を保ち、功徳を積もうと努め、煉獄に在る者は、やがて天国に入れられる日を待ち侘びつつ。己を清める為暫く精錬の苦痛を嘗めているのである。煉獄の霊魂達も成聖の聖寵を有...死者の日CommemoratioOmniumFideliumDefunctorum

  • 諸聖人の大祝日 Festum Omnium Sanctorum

    諸聖人の大祝日FestumOmniumSanctorum大祝日11月1日聖会は一年を通じて毎日ずれかの聖人を記念する。しかし本日は一切の聖人を総括して記念し祝賀するのである。今この祝日の起源を尋ねれば、キリスト御誕生前から既に、ローマにはあらゆる神々に献げられた壮麗な神殿があった。古代のローマ人達は多種多様の神々を崇め、自分達の征服した諸民族の神々までも尊敬するにやぶさかでなかった。但しその夥しい神々を一々祀るのは大変なので、彼等は一つの円形神殿を建ててこれに一切諸神を合祀したのである。ローマ人のいわゆるパンテオンとは即ちこの神殿で、今なお存し、ローマ市に遊ぶ者の目を楽しませている。ローマがキリストの恵みに浴するようになると、その神殿は聖堂に改められ、嘗て神々の像のあった所に諸聖人の聖像が安置されたばかり...諸聖人の大祝日FestumOmniumSanctorum

  • 聖アルフォンソ・ロドリゲス証聖者 St. Alphonsus Rodriguez C

    聖アルフォンソ・ロドリゲス証聖者St.AlphonsusRodriguezC.記念日10月31日旧約の義人ヨブは暫くの間に財産を失い、一朝にして7人の子に死なれるなど、不慮の災禍が打ち続いても、更に天主を怨む心なく「主与え給い、主取り給う、主の聖名は讃むべきかな!」と祈ったという。この感ずべき態度に倣い、不幸のどん底に於いても主を讃美した聖人は決して少なくないが、本日の主人公アルフォンソ・ロドリゲスもその一例とする事が出来よう。この人は1531年7月25日、スペインのセゴヴィアに呱々の声を挙げた。富裕な商人を父に持った彼は、春の夢にも似た美しい少年時代を過ごし、やがてその財産を相続して愛する妻との間に数人の子供を儲け、相も変わらぬ恵まれた生活を続けたが、幾干もなく天主の酷烈な試練の聖手は、人々の羨望の的で...聖アルフォンソ・ロドリゲス証聖者St.AlphonsusRodriguezC

  • 聖マルケルス百人隊長 St. Marcellus the Centurion

    聖マルケルス百人隊長St.MarcellustheCenturion記念日10月30日マクシミアヌス皇帝の誕生日の祝賀において、ローマの軍団によって行われた催し事の時に、そのような催し事を偶像礼拝とみなした百人隊長マルケルスは、自分の軍用ベルトを振り捨てた。「私はただ永遠の王、イエズス・キリストにのみ仕える」と彼は宣言した。タンジール副知事の前に連行されたマルケルスは、地上の指導者に対する忠誠を拒んだ自分の罪を弁解したが、死刑に処せられた。後に、公式の速記者、聖カッシアヌスは処刑に憤慨したために、その処置を報告することを拒み、その結果彼もまた処刑された。これはタンジールにカッシアヌスという名の殉教者がいたことをうかがわせるが、聖マルケルスの真正の記事に対する想像上の付加であるかもしれない。聖マルケルス百人隊長St.MarcellustheCenturion

  • エルサレムの聖ナルチッソ司教

    エルサレムの聖ナルチッソ司教記念日10月29日ギリシャ人であったナルチッソがエルサレムの司教に任命されたのは老年になってからであった。しかし、彼は老齢にもかかわらず教区を厳しく管理したので、敵意を持っていた者から無実の罪で訴えられた。多くのキリスト者たちはこれを信じなかったが、ナルチッソ自身は隠遁して祈りと黙想のうちに過ごしたいとかねてから望んでいたので、これ幸いとエルサレムを去った。数年間誰もナルチッソに会う者はいなかった。ナルチッソの留守の間、代わりに教区を治めるために任命された人物が亡くなってしまったため、他の人物が司教に任命された。ちょうどその時ナルチッソが現れた。長い間彼はエルサレムを離れていたので、人々は彼がよみがえったのかと思った。彼は非常に高齢になっていたので、アレキサンデルという司教が彼...エルサレムの聖ナルチッソ司教

  • 聖シモン、聖ユダ・タデオ両使徒 St. Simon et St. Juda Ap.

    聖シモン、聖ユダ・タデオ両使徒St.SimonetSt.JudaAp.祝日10月28日聖書を見れば、主が公生活に入られて諸所を遍歴、さまざまの奇蹟を行い、世人を驚倒せしめ、ナザレトに帰郷、ここかしこの会堂で教えを宣べ給うた時、人々は感嘆して「あれは職人の子ではないか?あの母親はマリアといい。あの親戚はヤコボ、ヨゼフ、シモン、ユダなどという者ではないか?そういう身分の彼があんな深い智慧や奇蹟を行う力を、一体何処で得て来たのだろう?」と語り合ったとあるが、この言葉から一つの興味ある事実が判明する。それは外でもない、主が使徒と選び給うた12人の中ヤコボ、ユダの二人が主の親戚であったという事である。もちろんこのユダは主を敵の手に引き渡したあのイスカリオテのユダとは別人で、それと区別するためタデオ(勇者)とあだ名さ...聖シモン、聖ユダ・タデオ両使徒St.SimonetSt.JudaAp.

  • 聖フルメンチオ司教 St. Frumentius E.

    聖フルメンチオ司教St.FrumentiusE.記念日10月27日アフリカ北部のアビシニアは、住民いずれもキリスト教を奉じているものの、それは遺憾ながらカトリックでなく、コプトと称する離教である。しかしその地方にはじめてキリスト教を伝えるに最もあずかって力あったのは4世紀のわがカトリック聖人フルメンチオ司教に他ならない。彼は小アジアのチルスに生まれ、少年の頃弟エデシオと共に伯父メロピオに連れられ、海路インドまで行ったが、その帰途食糧ならびに土地の産物を積み込む為舟がアビシニアの某所に寄港した所、土着民の襲撃を受けて、二少年を除く外乗り組みの人々はことごとく殺されてしまった。そしてフルメンチオ兄弟は国王の宮殿へ連れ行かれ、奴隷に売り飛ばされたのである。しかし国王は利口そうな二人を愛し、兄フルメンチオには書記...聖フルメンチオ司教St.FrumentiusE.

  • 十一月二日(3)、浦川和三郎 司教『祝祭日の説教集』

    (3)-今日天国の聖人などは皆こういう楽しみをほしいままにしていられる。思えば思えば羨ましい次第ではございますが、しかし必ずしも聖人などの身の上を羨むにも及びません。我々も聖人などの踏み分けなさった道を進んで行きさえすれば、一度は必ず彼の楽しい天国へ辿り着くことができるのであります。「我が父の家に住むところ多し」(ヨハネ十四ノ二)と御主はのたまうた。随って誰でも、またいくらでも天国には昇れる、聖人などに与えられた福楽は、我々にも約束されてある。天主が我々に、罪を犯すな、善を励め、掟を守れ、熱心に務めよ、と命じ給う時は、もとより天地万物の御主、我々の造主にて在ますのですがら、御褒美なんか何一つ下さらずとも、我々は飛び立って御命令に従わなければならぬはずである。しかし天主様は決して善業のために善業を行えとは命...十一月二日(3)、浦川和三郎司教『祝祭日の説教集』

  • 悪魔が最も喜ぶ時 アッシジの聖フランシスコ

    悪魔が最も喜ぶのは、人の心の喜びを奪うときです。悪魔は、私たちの良心のほんのわずかな隙間に投げ込んで、私たちの心の汚れと人生の純粋さを汚すために、粉を持ち歩いているのです。しかし、霊的な喜びが私たちの心を満たすとき、蛇はその猛毒を無駄にするのです。アッシジの聖フランシスコ悪魔が最も喜ぶ時アッシジの聖フランシスコ

  • 聖エヴァリスト教皇殉教者

    聖エヴァリスト教皇殉教者記念日10月26日エヴァリストは救い主イエズス・キリストのようにベトレヘムで生まれた。ギリシャ系のユダヤ人であったがキリスト信者となってローマに行った。そこで97年から100年の間にクレメンス教皇のあとを継いで教皇となった。エヴァリストは発展途上の初代教会の組織造りに大いに貢献して、ローマを小教区に分割して7人の助祭を任命して仕事をさせた。これは使徒達がエルサレムの貧しい人々の世話をするために7人の助祭を任命したことと同様であった。エヴァリストは107年に殉教者として亡くなったと伝えられているが、明らかな証拠はない。しかし、キリスト教の初期においては有力な信者達が信仰のゆえに残酷な死を遂げたことは当然なことであった。聖エヴァリスト教皇殉教者

  • 聖クリスピノと聖クリスピニアノ殉教者

    聖クリスピノと聖クリスピニアノ殉教者記念日10月25日クリスピノとクリスピニアノという兄弟は、ローマに住んでいた熱心なキリスト信者であったが、迫害が始まった時ゴールに逃げてキリスト教の宣教師になった。彼らは貴族であったが全財産を捨ててきたので、靴製造人になって、昼間は教えを宣べ、夜はもっぱら商売に励んだ。しかしわずかばかりの収入に甘んじて、貧しい生活をしていた。彼らの住居は現在ソワソンと呼ばれているノヴィオドヌムにあった。数年間彼らは多数の異教徒を改宗させながら平和に過ごした。しかし、マクシミアヌス皇帝がソワソンを訪問したとき。ある異端者たちがクリスピノたちの宣教活動について訴えたため、二人はリクチオ・ヴァロというキリスト教嫌いの男に引き渡されて残酷な苦しみを受けた。しかし彼らの心は変わらなかった。リクチ...聖クリスピノと聖クリスピニアノ殉教者

  • 「煉獄」浦川和三郎 司教『祝祭日の説教集』

    浦川和三郎司教『祝祭日の説教集』十一月二日(一)煉獄の霊魂の記念(2)-天国とはいかなるところであるかー天国とは苦しみや禍が一つもなく、かえってあらゆる福楽のみち溢れているところであります。どなたも御存じの通り、この世は涙の谷でございまして、寒さや暑さや、餓え渇きや、病の苦しさ、貧の辛さなど涙をこぼさねばならぬことが随分多いものである。しかるに天国には暑さもなければ寒さもない、餓渇きを覚えることもなければ、貧に悩む気遣い、病に苦しむ憂いもない。我々の足が一たび天国の門をくぐりますとすべての涙は綺麗に拭き取られる。もう泣くにも及ばぬ、嘆く必要もない。かえっていわれぬ幸福を楽しみ、喜びに踊るのである。無上の善にして、最高の美、限りもなく愛すべき天主を眼前に仰ぎ見その天主を我が物として、いつまでもいつまでも楽し...「煉獄」浦川和三郎司教『祝祭日の説教集』

  • 天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない 聖書

    天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。ルカによる福音書21章33節天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない聖書

  • 聖アントニオ・マリア・クラレ司教 St. Antonius Maria Claret

    聖アントニオ・マリア・クラレ司教St.AntoniusMariaClaret記念日10月24日彼は1807年にスペインで生まれた織工の息子で、1835年に司祭に叙階された。5年後彼は与えられた教区の布教を開始し、カタロニア中の施設をまわり、1849年にもっと大規模に仕事を進めていくために、現在ではクラレティアン宣教会と呼ばれている団体を創立した。同じ年に、女王イサベル2世の要請で、キューバのサンチアゴの大司教に挙げられた。この司教区の人々は、ひどい状態の中にあり、クラレの厳格な改革の方法は、彼の生涯に幾つかの試練を引き起こした。1857年に、女王は自分の宗教顧問とするために彼を呼び戻した。その地位は、説教と出版による宣教活動を進める時間を彼に与えるものであった。彼はまた、エスコリアルに科学実験所を設立し、...聖アントニオ・マリア・クラレ司教St.AntoniusMariaClaret

  • 浦川和三郎 司教『祝祭日の説教集』煉獄

    『祝祭日の説教集』浦川和三郎(1876~1955)著(仙台教区司教、長崎神学校長歴任)十一月二日(一)煉獄の霊魂の記念(1)煉獄に苦しめる霊魂の憫(あわれ)むべき状態を思いなさい。彼らは善を尽くし、美を尽くし給う天主を一時も早く仰ぎ見、心を傾けて尊び愛したいとやる瀬なき思いに焦がれている。彼らは実に遠島せられた罪人が、故郷の天を恋い慕う以上に、真っ暗な牢屋に繋がれている囚人が、晴天白日をこい願う以上に、最愛の母に別れた孤児(みなしご)がその母にあこがれる以上に主を思い焦がれ、その御国にあこがれているのであるが、しかし少しの汚点でも残っている間は、何うすることもできない。苦しんで苦しんで、その汚点を磨き落すより他はない。なお、彼らは自分の犯した罪、なおざりにして顧みなかった過失を悔しがり、良心の鞭にひどく責...浦川和三郎司教『祝祭日の説教集』煉獄

  • 貧しい人を忘れず、見知らぬ人へは親切に 聖アタナシウス

    貧しい人を忘れず、見知らぬ人への親切を忘れず、何よりも、魂と力を尽くして神を愛し、隣人を自分のように愛するようにしよう。聖アタナシウス貧しい人を忘れず、見知らぬ人へは親切に聖アタナシウス

  • 聖セヴィリノ・ボエチオ殉教者 St. Severinus Boethius

    聖セヴィリノ・ボエチオ殉教者St.SeverinusBoethius記念日10月23日ボエチオは480年、ローマのアニチイ家という有名なキリスト教の家庭に生まれ、早く父を亡くしたため、元老院議員アウレシウス・シマクスに引き取られて、その娘のルスチカナと結婚した。510年ボエチオはローマの執政官となり520年から2年間東ゴート族のテオドリック王の高官として仕えたが、不幸にしてテオドリック王に対する謀叛を起こしたと訴えられた。彼は東のユスチヌス1世皇帝をテオドリック王の代わりに王位につけようとしたと言われ、また魔術師で、正しい秩序を破壊する手紙を書いたと非難されたのであった。ボエチオは9ヶ月間パヴィアの牢獄に入れられ、その間に有名な「哲学の慰め」のほかに三位一体についての論文も書いた。これはエウティケスとネス...聖セヴィリノ・ボエチオ殉教者St.SeverinusBoethius

  • フィエゾレの聖ドナート司教 St. Donatus de Fiesole

    フィエゾレの聖ドナート司教St.DonatusdeFiesole記念日10月22日9世紀の中頃、ドナートというアイルランド人がローマに巡礼に行き、帰りにフィレンツェの近くのフィエゾレに立ち寄った。そこのカテドラルではたくさんの人々が新しい司教選出を前にして祈るために集まっていたが、小柄のドナートが堂内に入った瞬間に教会の鐘が鳴り出し、全部のろうそくに火がともった。人々は大変驚いて、これは神が示されたしるしで、たった今聖堂に入ってきたばかりのこの見知らぬドナートこそ次の司教に選ばれるべき人だと思って彼を任命した。幸いにして彼は非常に信心深い人で、また学者でもあり、詩人でもあった。現在まで残っている彼の墓碑銘によると、彼はすばらしい教師であって、フランク王ロテアとルイ皇帝に仕えたと伝えられている。彼は修道院の...フィエゾレの聖ドナート司教St.DonatusdeFiesole

  • 聖ウルスラおとめ等殉教者 St. Ursula et Soc. Vv.

    聖ウルスラおとめ等殉教者St.UrsulaetSoc.Vv.記念日10月21日聖ウルスラ童貞を始め、彼女と最後を共にしたこれらの聖女たちについては、いつ誰がどこで生まれたか。どういう生涯を送ったか、また総てで何人であったか、一向に知られていないが、ただその致命の原因が自己の貞操を護る為であったことだけは、歴史に明らかに伝えられている。されば聖会が彼等を聖女の群れに加えたのは、その生涯を聖と認めた為ではなく、その貞操への壮烈な殉死をよみした結果に他ならない。聖会の純潔を尊重することが如何に深いかは、以て察すべきである。聖ウルスラ等が生命を献げたのは、5世紀にかのフン族が欧州に来寇して、都市村落の家々を焼き、人々を殺し、掠奪をほしいままにし、あらん限りの残虐を働きつつライン河に沿うてケルン市に侵入したことであ...聖ウルスラおとめ等殉教者St.UrsulaetSoc.Vv.

  • 信仰とその報酬 聖アウグスティヌス

    信仰とは、見えないものを信じることであり、この信仰の報酬は、信じたものを見ることである。聖アウグスティヌス信仰とその報酬聖アウグスティヌス

  • 聖アッカ司教

    聖アッカ司教記念日10月20日アッカはイギリス北部のノーサンブリアで、ヘクサムのウイルフリド司教に仕え、彼に従ってローマに行ったこともあった。ローマでは。教会の組織について自分の国では到底学ぶことのできない貴重なことを学んだのであった。その後ウイルフリド司教が死去した時、アッカがあとを継いで司教となった。アッカはイギリスの教会にローマの習慣を取り入れる必要性を感じていたが、彼の関心は何よりもローマの典礼の美しさを導入することであった。彼はケントからマバンという有名な聖歌の歌手を招いて、教会で司祭たちに教えさせたが、マバンはグレゴリオ教皇がローマからイギリスに送った修道士たちの指導を受けた音楽家であった。マバンは教会音楽を12年間教えて古い聖歌と共に新しい聖歌も練習させた。アッカも自ら美しく歌って模範を示し...聖アッカ司教

  • アルカンタラの聖ペトロ証聖者 St. Petrus de Alcantara C.

    アルカンタラの聖ペトロ証聖者St.PetrusdeAlcantaraC.記念日10月19日主イエズス・キリストの聖言に「人もし我に従わんと欲せば、己を捨て、己が十字架を取りて我に従うべし」とあるが、アルカンタラの聖ペトロの生涯は、それを文字通り体現したような禁欲克己の一生であった。彼は1499年スペインのアルカンタラ市に、同市の市長を父、貴族の娘を母として生まれた。長じて彼はその町で哲学を研究したが、そのうちに父が死ぬと、息子の立身をこいねがう母は、彼を有名なサマランカ大学に送り、法律を学ばせた。卒業後ペトロは故郷に帰ったが、その学識と家柄を以てすれば、どんな出世も思いのままであったろうに、世間の栄誉や快楽のはかなさを痛感した彼は、出家入道をこいねがい、種々の修道会の会則を調べた結果、アッシジの聖フランシ...アルカンタラの聖ペトロ証聖者St.PetrusdeAlcantaraC.

  • 教皇「イスラエルの作戦は非道徳的」(ロイター/AFP/時事 等)

    ローマ教皇、イスラエルの武力行使「不道徳」2024年9月30日11:18(AFP)【9月30日AFP】ローマ・カトリック教会のフランシスコ教皇(PopeFrancis)は29日、イスラエルによるレバノンおよびパレスチナ自治区ガザ地区(GazaStrip)への攻撃について、度が過ぎており、「不道徳」だと非難した。教皇は訪問先のベルギーからイタリア・ローマに戻る機内で、イスラエル軍の空爆で民間人が死傷していることについて問われると、「どの国であれ、あのようなやり方で武力を行使し、度の過ぎた行動を取れば、不道徳な行為に走るようになる」と指摘。「防衛は常に攻撃と釣り合ったものでなければならない。そうでなければ、道徳を逸脱しがちになる」「たとえ戦争でも守るべき道徳規範はある。戦争はそもそも不道徳なものではあるが、戦...教皇「イスラエルの作戦は非道徳的」(ロイター/AFP/時事等)

  • 祈りと読書の優先順位 セビリアの聖イシドロ

    祈りは私たちを清め、読書は私たちを導く。どちらもできるならば、どちらも善いものである。そうでないときは、祈りは読書に優る。セビリアの聖イシドロ祈りと読書の優先順位セビリアの聖イシドロ

  • 聖ルカ福音史家 St. Lucas Evang.

    聖ルカ福音史家St.LucasEvang.祝日10月18日聖ルカと言えば読者は読者はすぐに、筆を手に画架に向かって聖母の御姿を描きつつある聖人を思い出すであろう。しかし彼が果たして絵をよくしたか否かは明らかでない。唯古い伝説に聖マリアの聖絵を描いた最初の人は彼であったと言われているのである。聖ルカの職業は医者であって、聖福音書の一つを著した故にあまねくその名を世に知られている。彼の故郷は学校の多いシリア国のアンチオキア市であった。キリスト教がようやく弘布し始めた西暦40年頃、同市にも信者の団体が組織されたが、ルカはその中の熱心な一青年であった。彼は少年時代から勉学を好み、ギリシャ語に通じ、また自己の見聞を広める為にギリシャやエジプトへ旅行したこともあったが、その中に聖パウロや聖バルナバがアンチオキア市に来...聖ルカ福音史家St.LucasEvang.

  • アンチオキアの聖イグナチオ司教殉教者 St. Ignatius E. et M.

    アンチオキアの聖イグナチオ司教殉教者St.IgnatiusE.etM.記念日10月17日古い伝説によれば聖イグナチオは聖ポリカルポや聖パピアスのように、使徒聖ヨハネの弟子であったと言う。そして子供の時既に聖主のお選びを蒙ったと伝えられている。即ち聖福音書に、ある日イエズスが弟子達に謙遜を教え給うた時「人もし第一の者たらんと欲せば一同の後となり、一同の召使いとなるべし」と仰せられ、更に一人の幼子を呼び寄せ、之を抱いて「総てこの幼子の如くへりくだる人は、天国にて大いなる者なり」と宣うたとあるが、この幸いな子供こそ実に幼き日のイグナチオであったと言うのである。彼は紀元24年頃の生まれで、その時は六、七歳位であったと推察される。イグナチオはその主の聖教を清い心に深く深く刻み込んで生涯を忘れなかった。彼がアンチオキ...アンチオキアの聖イグナチオ司教殉教者St.IgnatiusE.etM.

  • 聖マルガリタ・マリア・アラコクおとめ St. Margarita Maria Alacoque V.

    聖マルガリタ・マリア・アラコクおとめSt.MargaritaMariaAlacoqueV.記念日10月16日人にはそれぞれ天主から与えられた使命がある。殊に聖人聖女の使命は重大な意義をもっているものが多い。しかし身分の貴い人には大なる使命が託せられ、身分の賤しい人には小なる使命が委ねられるとは限っていない。却って「智者を辱めんとて天主は世の愚かなる所を召し給い、強き所を辱めんとて天主は世の弱き所を召し給う」という聖パウロの如く、世間から蔑ろにされているような人が、大使命を受けてかくかくたる功績をたてることも少なくない。例えばイエズスの聖心の信心の提唱者で聖女の列に加えられたマルガリタ・マリア・アラコクなども、今こそカトリック界には誰一人知らぬ者もないが、その昔は全く世に隠れた一介の修道女に過ぎなかったのを...聖マルガリタ・マリア・アラコクおとめSt.MargaritaMariaAlacoqueV.

  • パソコンが壊れる

    突然、パソコンが壊れてしまいました。電源を押しても、電源周りを点検しても、動く気配がありません。幸いなことに、数日前に殆ど全データのバックアップを取り、予備のパソコンに移していました。そういうわけで、しばらくは予備のパソコンを使おうと思います。今まで使っていたパソコンは、修理するか、買い替えるか、考えないといけません。予備機もメインPCと同程度の性能はあるのですが、このような緊急時用に、なるべく予備機は温存しておきたいのでパソコンが壊れる

  • 律法を聞く人ではなく律法を守る人 聖書

    神の前に義とされるのは、律法を聞く人ではなく律法を守る人である。ローマ人への手紙2章13節律法を聞く人ではなく律法を守る人聖書

  • イエズスの聖テレジアおとめ教会博士 St. Theresia ab Avila V.

    イエズスの聖テレジアおとめ教会博士St.TheresiaabAvilaV.記念日10月15日アヴィラの聖テレジアは、やはり同名で知られた聖女、イエズスの小さきテレジアと区別するため、時に大テレジアと呼ばれる事があるが、実際彼女はその名に値するほど類稀な大聖女で、聖会の為、また宗教の為、抜群の功績をたてたのであった。大テレジアは1515年3月28日、スペインのアヴィラ市に産声を挙げた。両親は信心深い貴族で、その子女には皆カトリックの教育を授けたが、なかんずく父は甚だ読書を好み、子供にも種々有益な書物を与えるようにしたから、テレジアも7歳頃から4歳年上の兄ロデリコと共に聖人伝に親しみ、殉教者達の壮烈な最期に感動して幼い心に自分も聖教の為に生命を献げたいと思い、父母の反対を恐れて無断で家を飛び出した。しかしその...イエズスの聖テレジアおとめ教会博士St.TheresiaabAvilaV.

  • 時間の短さと永遠の長さを考えなさい。 聖ジェラルド・マイエラ

    時間の短さ、永遠の長さを考え、この世の全てがいかに終わりを迎え、過ぎ去っていくかを考えなさい。支えることのできないものに寄りかかることに何の意味があるのでしょうか。聖ジェラルド・マイエラ時間の短さと永遠の長さを考えなさい。聖ジェラルド・マイエラ

  • 聖カリスト1世教皇殉教者 St. Callistus Pap. M.

    聖カリスト1世教皇殉教者St.CallistusPap.M.記念日10月14日キリスト教の初代に聖会を統治された教皇方は、殆ど皆殉教されたが、217年から222年までペトロの聖座に在ったカリストも、同様の運命を免れることが出来なかった。彼はローマ人に最も蔑視されていた奴隷階級に生まれたが、幸いにも主人はキリスト信者で、自分も聖教を奉じて人となった。その中でユダヤ人に邪宗門の信者と訴えられた為、サルディニア島に流され、そこの鉱山で鞭打たれつつ労役に服したが、過度の労働と日毎の虐待とは、いたく彼の健康を損ね、この分では遠からず生命を落とすであろうと我から覚悟を定めた位であった。所がちょうどその頃キリスト教に好感を持つ皇后マルチアの執り成しにより一同赦されることとなったので、彼も自由の身となってローマに帰ること...聖カリスト1世教皇殉教者St.CallistusPap.M.

  • 聖エドワード2世王証聖者 St. Eduardus II. C.

    聖エドワード2世王証聖者St.EduardusII.C.記念日10月13日エドワードというイングランド国王は数名あって、中にはエドワード6世の如くカトリックを忌み嫌い、これに迫害を加えた者もあったが、またその反対に聖教を熱愛し徳を修め聖人と崇められるようになった英君も二方ある。それはエドワード1世及びその甥に当たるエドワード2世で、本日記念するのは後者の方である。彼は1013年エテルレッド王とその妃エンマの間に生まれた。まだ幼少の折り無法なデンマーク軍が来り寇し,王の一族を追い出し教会修道院等を焼き払い、掠奪を働き、司祭修道者達を虐殺し、国を乗っ取って人民に圧政の限りを加えた。それでエドワードは母と共にその故郷なるフランスのノルマンディー州に逃れたが、信心深い王妃はその間にも王子の心に聖い教えを刻みつけよ...聖エドワード2世王証聖者St.EduardusII.C.

  • 聖ウイルフリド司教

    聖ウイルフリド司教記念日10月12日664年にイギリスのウイットビーで大きな教会会議が開かれた。そこは修道士と修道女両方が住む修道院を聖女ヒルダ院長が管理している所であった。会議の主な問題は復活祭の期日を定めることであった。これについてケルトの教会とローマ教会は異なる意見を持っていた。福者ベーダによると、キリスト教国のイギリスにおけるこの意見の相違を多くのキリスト信者たちが嘆いていた。オスウィ王が教会会議を司会し、唯一の神に奉仕する者は皆一つの規定を守るべきであると言った。リンディスファーンのコルモン司教は、復活祭を守るためのケルトの規定は正しいと主張して、復活祭の日を決定する方法は聖ヨハネから伝わったと言った。これに対して聖ウイルフリドは「聖ヨハネを愚かだと言うつもりはありませんが、ローマ教会の復活祭を...聖ウイルフリド司教

  • 今すぐ始めなさい リジューの聖テレーズ

    今すぐ始めなさい。私を信じて、聖人になるために明日まで待たないでください。リジューの聖テレーズ今すぐ始めなさいリジューの聖テレーズ

  • ケルンの聖ブルーノ司教

    ケルンの聖ブルーノ司教記念日10月11日ブルーノは聖女マチルダとヘンリー皇帝の末子として生まれ、4歳の時ユトレヒトに送られてバルデリコ司教のもとで、当時有名であった教区学校に入学したが、わずか14歳でヘンリー皇帝の弟のオットー1世皇帝の秘書に選ばれた。950年に司祭に叙階され、3年後にケルンの大司教に任命された。彼はそこに聖パンタレオン修道院を創立したが、その美しい聖堂は今日まで残っている。ブルーノの望みは生まれ故郷の市にベネディクト会の修道院を建設することであった。大司教としての彼の功績は司教の基準を高めたことや、学問の奨励、修道院の刷新などであった。しかし彼の宗教的義務は政治家としての世俗の義務を妨げることはなかった。オットー皇帝はブルーノをロレイン公爵に任命し、自分が教皇によって戴冠されるためにロー...ケルンの聖ブルーノ司教

  • ヨークの聖パウリヌス司教 St. Paulinus de York

    ヨークの聖パウリヌス司教St.PaulinusdeYork記念日10月10日625年にケントの王エドバルドの姉妹、王女エテルブルガがノーサンブリアの聖エドウィンと結婚するために北に行ったとき、彼女は自分のチャプレンとしてパウリヌス司教を同伴した。彼は、601年にローマからイングランドに派遣された第二回目の宣教師の一団の一人であり、カンタベリーで聖ユストゥスによってその職に聖別された。627年にヨークで、ベダによって詳しく物語られている状況の中で、エドウィン王や貴族たち、また多くの他の者たちが、復活祭の前夜にパウリヌスによって洗礼を授けられた。パウリヌスは背が高く、肌の黒い男で「堂々としていて畏敬の念を起こさせる」風貌の人物であり、南はリンカーンにまで至り、数多くの者たちを回心させ、洗礼を授け広範囲にわたる...ヨークの聖パウリヌス司教St.PaulinusdeYork

  • パリの聖ディオニジオ司教と同志殉教者

    パリの聖ディオニジオ司教と同志殉教者記念日10月9日フランスの保護の聖人の一人聖ディオニジオはイタリア人で、250年頃6人の宣教師と共にパリへ派遣された。その中には大胆なエレウテリオとルスティコが居た。宣教師達の非常な努力によって多数の市民が改宗した。これを見たローマ総督フェスチェンニヌスは3人を捕らえて牢獄に入れた。彼等は長い間牢獄の中で乏しい生活に苦しめられたが、275年頃、首を斬られ、その遺体はセーヌ川の中に投げ込まれた。モンマルトルの「殉教の丘」は3人の殉教した場所を示している。彼等を記念して建てられたサン・ドニの修道院の教会堂は、575年聖ジェネヴィエーヴによって再建され。この聖人たちを記念するため小修道院を付設した。ダゴベルト1世王はこの教会を改築して、自分の墓をそこに置くように計画した。75...パリの聖ディオニジオ司教と同志殉教者

  • 聖デメトリオ殉教者

    聖デメトリオ殉教者記念日10月8日テサロニケのデメトリオは歴史と伝承の偉大な「軍人の聖人」の一人である。彼は多くの弟子達を信仰の為に必要ならば殉教するように励ました。ある時ネストルという人はガレリアヌス皇帝の率いる剣闘士と戦うために闘技場に投げ込まれた。不幸にして、ガレリアヌス皇帝の選手はネストルに殺されたので、怒った皇帝はネストルばかりでなく、彼の教師デメトリオまで捕らえて死刑にした。これは4世紀の出来事であった。デメトリオ殉教者はたくさんの奇蹟で有名になったが、特に注目されたことは。586年スラブ人たちの攻撃からテサロニケを守ったことであった。スラブの侵入者の数はテサロニケ軍の守備兵よりもずっと多かったが、それにもかかわらず彼等は敗北して逃げ去った。力強い軍隊が来て、その司令官はきらびやかな軍装に身を...聖デメトリオ殉教者

  • 人生の有終の美 聖ジャン・マリー・ヴィアンネ

    聖人たちは皆、うまく始められなかったが、皆、うまく終わった。聖ジャン・マリー・ヴィアンネ人生の有終の美聖ジャン・マリー・ヴィアンネ

  • 菊地大司教様、枢機卿に親任

    最近、長らくブログをお休みしていました。私もしばらく充電期間をと菊地大司教様が枢機卿に親任されたようです。おめでとうございます。FacebookやTwitterなどSNSもまめになさっていらっしゃいますし、しばしばコメントも頂ける方ですので、親しみをお持ちの方も多いと思います。【速報】菊地功大司教、枢機卿に教皇フランシスコは、10月6日正午、バチカン・サンピエトロ広場に集まった巡礼者や訪問者に向けての「お告げの祈り」を祈る際、12月8日の枢機卿会議において、21人の枢機卿...カトリック中央協議会ローマ・カトリック教会新枢機卿に菊地功氏任命日本人7人目 NHK【NHK】ローマ・カトリック教会のフランシスコ教皇は、新たな枢機卿に東京大司教の菊地功氏を任命すると発表しました。枢機卿に日本人が…NHKニュースロ...菊地大司教様、枢機卿に親任

  • ロザリオの聖母

    ロザリオの聖母記念日10月7日全世界のカトリック信者が最もしばしば誦える祈祷の一つはロザリオであろう。それは極く簡単で誰にでもわかる。無学な信者でもその意味を悟り得るが、またロザリオは深い玄義をも蔵しているから、偉い学者でもなかなかその奥底まで究め尽くすことは出来ない。ロザリオには(1)大切な信仰箇条や(2)イエズス御自身の教え給うた祈祷や(3)大天使ガブリエルが聖マリアに語った言葉や(4)聖会がそれに付け添えた短い祈祷などが含まれている。これらの祈祷は天主の讃美と童貞聖マリアに対する祈願とに外ならない。我等はこれから右の各々について簡単に調べてみよう。(1)大切な信仰箇条、聖教の大切な信条は一切ロザリオの使徒信経に含まれている。信ずべき事は公教要理の第一部に説明してあるから。益々信条を語り信仰を堅くする...ロザリオの聖母

  • 聖ブルーノ司祭証聖者 St. Bruno C.

    聖ブルーノ司祭証聖者St.BrunoC.記念日10月6日シャルトルーズ会は数ある修道会の中でも、最も厳格な教団であるが、聖ブルーノは即ちその創立者である。彼は1032年ドイツのケルン市に生まれた。両親は貴族で、我が子を司祭達の経営にかかるクニベルト学校に学ばせ、後レンスに送った。ブルーノはなおそこからツールに移り、またケルンに帰って勉学を終え、司祭となり、やがて大司教座付き付属の学校で教鞭を取ったが、その教え子の中には、後年名を成した人が少なくない。例えば教皇ウルバノ2世の如きもそうである。それらの名士達は常に師の恩を忘れず、ブルーノの名も彼等によって天下に知られるに至ったのである。しかしブルーノは相変わらず謙遜で、忠実に天主に仕え、そして益々深く天主を愛す事にのみ力を注いだ。彼に学んだ人々は彼の事を次の...聖ブルーノ司祭証聖者St.BrunoC.

  • アッシジの聖フランシスコ証聖者 St. Franciscus Assis. C.

    アッシジの聖フランシスコ証聖者St.FranciscusAssis.C.記念日10月4日聖書に記されている聖人方は別として、カトリック界のみならず一般世間に知られている諸聖人の中でも、アッシジの聖フランシスコほど有名な方はまたとあるまい。彼は1182年イタリアのアッシジに呱々の声を挙げた。父はペトロ・ベルナルドと言い、フランスにまでも支店を持っている豪商で、その妻ピカが未来の聖者を儲けた時もフランスへ旅行中であった。子供は洗礼の際ヨハネという霊名を授けられたが、父は帰国後これにフランシスコと命名したのである。若いフランシスコは身分相応の教育を受け、さまざまの知識と共に、ラテン語やフランス語なども学んだ。彼は陽気な性質で遊び事や大盤振る舞いや青年らしい放縦が大好きであった。それで彼はいつでも町の青年達から首...アッシジの聖フランシスコ証聖者St.FranciscusAssis.C.

  • 聖フランシスコ・ボルジア司祭証聖者 St. Franciscus Borgias C.

    聖フランシスコ・ボルジア司祭証聖者St.FranciscusBorgiasC.記念日10月3日ボルジアの聖フランシスコは始め国家の重臣として国王に忠勤をぬきんで、後には修道者となって一身を天主に献げ、聖会に対しても数々の功労をたてた聖人である。彼は1510年、スペインのガンヂア市にその地方の領主を父、皇帝の近い縁戚を母として生まれ、幼時より敬虔な性質で、かりそめの遊びにも戦争ごっこよりミサ聖祭の真似事を好むという風であった。19の年齢召し出されて宮中に近待の役を勤めることとなったが、その忠実な働きぶりは当時欧州の半分を領していた皇帝カルロ5世やその皇帝イサベラの信任を博し、ついにはイサベラの御意でその寵愛する侍女エレオノレ・デ・カストロを妻とし、侯爵の称号を授けられたほどであった。このエレオノレも夫に劣ら...聖フランシスコ・ボルジア司祭証聖者St.FranciscusBorgiasC.

  • 守護の天使 Fest. Sts. Angelorum Custodum

    守護の天使Fest.Sts.AngelorumCustodum記念日10月2日守護の天使の祝日を迎えるに当たり、我等は天主の広大な御慈悲の程を、つくづくと感ぜずにはいられない。即ち天主はその御憐れみから、聖い天使を我等の友とし案内者とし守護者として与え給うた。それで我等は天主並びに天使方に感謝を献げる為、10月2日に守護の天使の記念を行うのである。天主が人間を守護せしめる為聖天使を遣わし給うたことは、既に旧約聖書の中に記してある。トビアがその旅行中一位の天使に導かれ護られたなどはその一例で、なおかような話はヤコボ、ユディト、ダニエル、エリアその他多くの人々の場合にも見出されるのである。更に転じて新約聖書を見ると、使徒聖ペトロが天使に獄中から救い出された話がある。聖ヨゼフが天使に先ずエジプトへ逃れよとの告げ...守護の天使Fest.Sts.AngelorumCustodum

  • 幼きイエズスの聖テレジアおとめ教会博士 St. Theresia ab Inf. Jesus V.

    幼きイエズスの聖テレジアおとめ教会博士St.TheresiaabInf.JesusV.記念日10月1日幼きイエズスのテレジアほど一朝にして世人の驚嘆感動を巻き起こした聖女は珍しい。彼女はフランスで生まれフランスで死んだ。しかし彼女に対する崇敬は幾ばくもなく全世界に広まった。彼女は僅か24歳というまだうら若い年齢で世を去ったが、彼女はその死後短時間で列聖された聖人は滅多にない。この聖女は1873年の1月2日に生まれて、1897年の9月30日に死んだから、先ず現代の聖人と言えよう。その生誕地は北フランスのアランソンである。彼女の父母は甚だ信心深く、その間に儲けた9人の子供を天からの授かり物として、そのことごとくを生まれぬ前から天主に献げた位であった。テレジアはこの9人の末子で、幼少から至って敬虔の念に篤かった...幼きイエズスの聖テレジアおとめ教会博士St.TheresiaabInf.JesusV.

  • 聖ヒエロニモ司祭教会博士 St. Hieronymus C. et D. E.

    聖ヒエロニモ司祭教会博士St.HieronymusC.etD.E.記念日9月30日聖ヒエロニモは西暦342年頃パンノニアとの国境近くにある、ダルマチアのストドリンという町で生まれた。両親は甚だ富み、カトリックを奉じていたが、当時の習慣に従い、ヒエロニモが洗礼を授けられたのは、既に成長の後であった。彼は才能も豊かに元気活発な少年で、おおよそ354年頃ローマに赴き、ある学校に入って勉強する身となった。ローマはその頃コンスタンチヌス大帝がカトリックを国教と定めてから漸く40年を経たばかりで、神々の像やそれを祀る神殿など昔の異教の名残が至る所に見られた。そればかりか、利己心から、カトリック信者となっても異教の思想を捨て去らぬ人も決して少なくはなかった。なかんずく学問や芸術、政治方面などでは、そのよからぬ影響が明ら...聖ヒエロニモ司祭教会博士St.HieronymusC.etD.E.

  • 聖ミカエル、聖ガブリエル、聖ラファエル大天使

    聖ミカエル、聖ガブリエル、聖ラファエル大天使祝日9月29日大天使聖ミカエル「神に並ぶ者は誰か?」(ミ・カ・エル)という意味の名のある大天使は、聖書の中で2度も「選ばれた民族」の守りの天使だと言われている。聖ユダの手紙によると、大天使聖ミカエルが悪魔と戦ったとあり、黙示録では、ミカエルとその使いたちは悪魔である大きな竜、すなわち全世界を迷わすあの昔のへびと戦って勝利を得たことを述べている。ミカエルは「太陽につつまれた婦人」聖母マリアの指導の下に、現代の”選ばれた民族”である教会を守るために戦っておられる。それで私達は「天軍の総帥である大天使聖ミカエルに祈りを献げて、霊魂をそこなおうとして、この世をさまようサタンと他の悪魔たちを、神のおん力によって地獄にとじこめて、その兇悪なはかりごとに勝たせてくださるように...聖ミカエル、聖ガブリエル、聖ラファエル大天使

  • 聖トマス西と15殉教者

    聖トマス西と15殉教者祝日9月28日今日祝う長崎の16聖人は、三つのグループで、1633年、1634年、1637年長崎で殉教したものである。1633年のグループ1、スペイン人のドミニコ会宣教師ドミンゴ・イバニエス司祭(日本名タイエモン)2、長崎生まれの伝道師フランシスコ正右衛門3、大村領生まれのヤコボ朝長五郎兵衛司祭4、長崎生まれの伝道師ミゲル九郎兵衛1634年のグループ5、イキツキ島生まれのトマス・ひょうじ西六左衛門司祭6、イタリア人宣教師ホルダン司祭7、スペイン生まれのドミニコ会ルカス・アロンソ司祭8、長崎生まれの修練伝道士マテオ小兵衛9、大村生まれのマリナ、女子ドミニコ会第三会員10、長崎生まれのマグダレナ伝道婦1637年のグループ11、スペイン人のアントニオ・ゴンザレス司祭12、フランス人のトマス...聖トマス西と15殉教者

  • 聖ヴィンセンシオ・ア・パウロ司祭証聖者 St. Vincentius a Paulo C.

    聖ヴィンセンシオ・ア・パウロ司祭証聖者St.VincentiusaPauloC.記念日9月27日ヴィンセンシオ・ア・パウロは聖会において大聖者の一人に数えられているばかりか、世間に於いてもその慈善に尽くした功労の故に人類社会の恩人と仰がれている信仰の英傑である。それで聖会は彼をあらゆる博愛事業の総保護者とし、また彼を師父と尊んでその精神を汲みそのあとに倣う敬虔な男女も夥しい数に上っている。彼は1576年4月26日、フランスのガスコーニュ州のランキーヌ村に生まれた。両親は子沢山で甚だ貧しかったから、彼も年少の頃から牧童として家事の手伝いをしなければならなかった。しかし12歳になると、かねて彼の人並みすぐれた利発さを惜しんでいた父は、これを付近のフランシスコ会修道院に委ね、その訓育を受けさせた。ヴィンセンシオ...聖ヴィンセンシオ・ア・パウロ司祭証聖者St.VincentiusaPauloC.

  • 聖コスマと聖ダミアノ兄弟殉教者 St. Cosmas et St. Damianus Mart.

    聖コスマと聖ダミアノ兄弟殉教者St.CosmasetSt.DamianusMart.記念日9月26日西暦303年2月24日、聖会に対する最も残忍な迫害者と言われるローマ皇帝ディオクレチアヌスは、突然詔勅礼を出して国中のキリスト教会礼拝堂を焼き払い、その信徒は直ぐさま棄教せよと厳命した。これより先40年間は、別に弾圧らしい事もなく、カトリックは隆盛に赴くばかりで、上流名士、宮廷の人々にも信ずる者多く、聖堂の数も著しく増加するという風であったから、今この疾風迅雷的な禁教令に接しては、一人として寝耳に水の驚きを感じない者はなかった。かくてまず迫害の火蓋は、帝都ニコメヂアの存する小アジア地方から切って放たれたが、本日記念する聖コスマ及び聖ダミアノ両兄弟も、その時に殉教致命した人々の仲間であった。この二人はアラビア...聖コスマと聖ダミアノ兄弟殉教者St.CosmasetSt.DamianusMart.

  • ラドネツの聖セルジオ

    ラドネツの聖セルジオ記念日9月25日セルジオは1314年ロシアのロストフの上流階級の家に生まれ、洗礼名はバルトロメオであった。15歳の時モスクワとロストフの間に内戦が起こって、彼の家族は全財産を失って逃げ出す必要に迫られ、モスクワから50マイル先のラドネツに貧しい農夫として住むことになった。5年後に、バルトロメオと兄のステファはラドネツをとりまく淋しい森の中でキリスト教の隠修士として住むことに決めて、丸太小屋と聖三位一体にささげられた木造の小さな聖堂を建てた。しかし兄はロシアの冬と食糧の不足と襲ってくる動物を耐え忍ぶことができず、自分の家に帰った。バルトロメオはその地方の修道院長のもとで誓願を立て、セルジオという名を与えられて、森の中に住み続けた。しかし、ただ一人で暮らしたいという望みはとげられず、だんだ...ラドネツの聖セルジオ

  • サン・セヴェリノの聖パチフィコ司祭証聖者 St. Pacificus a San Severino C.

    サン・セヴェリノの聖パチフィコ司祭証聖者St.PacificusaSanSeverinoC.記念日9月24日聖パチフィコは西暦1653年3月1日イタリアはアンコナ州のサン・セヴェリノに生まれた。幼くして父母を失い、伯父の家に引き取られた彼は、早くから荊棘の道を歩まねばならなかった。というのは独身の伯父は家事のすべてを二人の女中に委せていたのに、彼女たちは何故かパチフィコ少年を厭い、事毎に叱ったり虐めたり嘲弄したり、つらく当たったからである。しかしその頃から既に天主の特別な御導きを蒙っていた彼は、感ずべき忍耐を以て一切を甘受し、いじらしくもやるせない悲しみを小さな胸一つに秘めて伯父にも告げず、その家の平和を守り通した。パチフィコとは「平和の使者」という意味であるが、奇しくもその名は体を現しているではないか。...サン・セヴェリノの聖パチフィコ司祭証聖者St.PacificusaSanSeverinoC.

  • ピエトレルチナの聖ピオ司祭

    ピエトレルチナの聖ピオ司祭記念日9月23日「受難のしるしを受けた司祭」、ピエトレルチナの聖ピオ神父がその身に主キリストの受難のしるしである「聖痕」を受けたのは1918年9月20日の朝、彼が御ミサを献げ、その後十字架の前で感謝の祈りを献げているときであった。この日彼はいつもよりまして祈りに潜心し、脱魂状態にあった。すると突然十字架から五筋の光がさして、彼の両手、両足、脇に傷をつけたのである。ピオ神父の身体にはこの日以来亡くなるまでずっとこの傷を身に帯びていた。フランシスコ・フォルジオーネ、後のピオ神父は1887年5月25日にイタリアのサンニオ地方にあるピエトレルチナ(小さな岩の意味)という岩の多い貧しい小さな村に聖父オラツィオと母ベッパとの間に七人兄弟の四番目の子として生まれた。彼の家はたいへん貧しかったが...ピエトレルチナの聖ピオ司祭

  • フィラノヴァの聖トマ大司教 St. Thomas de Villanova Ep.

    フィラノヴァの聖トマ大司教St.ThomasdeVillanovaEp.記念日9月22日この聖人は西暦488年スペイン、カステリア州の一小都市ヴィラノヴァに生まれた。両親は別にこれという財産もない人々であったが、共に信仰厚く慈善心に富み己の窮乏も顧みずに貧民を助けるという風であった。その称うべき心がけが愛子トマに遺伝し、後に偉大な博愛の聖者と仰がれるに至った事を思えば、その家門の面目は全く情け深い父母への天主の御報酬と考えられるのである。トマは敬虔な両親を見習い、幼少の時から慈悲憐憫は勿論、潔癖及び聖母マリアに対する特別な尊敬心をもって育った。されば彼は早くから司祭になって身を天主に献げようと志したのも敢えて異とするに足るまい。トマはアルカラの大学を卒業すると、僅か26歳の若年で名高いサラマンカ大学の哲学...フィラノヴァの聖トマ大司教St.ThomasdeVillanovaEp.

  • 使徒聖マタイ福音史家 St. Matthaeus Ap. et Evang.

    使徒聖マタイ福音史家St.MatthaeusAp.etEvang.祝日9月21日イエズス・キリストの十二弟子中口ばかりでなく筆を以ても聖教を伝え広め、為に福音史家と呼ばれている人が二人ある。それは主の愛弟子聖ヨハネと、始めて福音書の著作に手を染めた聖マタイとである。このマタイは元の名をレヴィと称し、ユダヤ国の北部ガレリア州にアルフェオという者の子と生まれ、ユダヤ人であるのに常時その国を支配していたローマ帝国の収税吏となり、聖主が第二の故郷の如く考えておられたカファルナウムの収税所に勤めていた。その頃収税吏といえば、定めの税金を取り立てる外に、いろいろの不正を行い人民の膏血を搾って私腹を肥やす者が多く、従って人々に蛇蝎の如く嫌われ、祖国ユダヤを裏切った者と卑しめられ、やもすれば「罪人と税吏」と併称されたもの...使徒聖マタイ福音史家St.MatthaeusAp.etEvang.

  • 天国と地獄 試みに描いてみました!

    最近はやりの生成AIを使って、天国や地獄を描いてみました。AIの力は、本当に凄いですね。試行錯誤で、いろいろ頑張りましたが、ついにここまで迫力ある絵を描くことができました。こちらは天国こちらは地獄をイメージして作りました。このような技術やツールに私を導いてくれた神に感謝です。ほんとに驚いています。描きたい絵をなんでもある程度、描いてくれます。天国と地獄試みに描いてみました!

  • レバノン中の無線通信機が爆発 32名死亡、500名失明、4000名負傷

    もう沢山報道されていますが、レバノン中のポケベルと多数のトランシーバーが爆発したようです。イスラエルの関与が、確実視されています。今日までの報道によると、32名死亡、4000名負傷、500名が失明し、イラン大使も片目が失明し、もう片目も重症、失明寸前なのだそうです。ヒズボラのポケベル爆発レバノン各地、4000人以上死傷イスラエル工作か 毎日新聞イスラエルと戦闘を続けているレバノンのイスラム教シーア派組織ヒズボラの戦闘員らが保有する無線通信機が17日、レバノン各地で一斉に爆発した。レバノン保健省などによ...毎日新聞昔から、細々とあった戦い方ではありますが・・・。かつて、米ソ冷戦たけなわの頃、ソビエト連邦がパイプラインの調整機器をカナダに発注したと知ったアメリカ合衆国は、発注先を説得して、工作し、それは数年...レバノン中の無線通信機が爆発32名死亡、500名失明、4000名負傷

  • 施しをする理由 聖アンブロシウス

    あなたが乞食に与えるのは、あなたの財からではなく、あなたが彼に返すのは、彼の財の一部なのです。地上はすべての人のものです。つまり、あなたは借財を返しているのであって、自分が束縛されないために施しをするのです。聖アンブロシウス施しをする理由聖アンブロシウス

  • 聖ヤヌアリオ司教殉教者 St Januarius m.

    聖ヤヌアリオ司教殉教者StJanuariusm.記念日9月19日イタリアのベネヴェントで生まれたヤヌアリオは、ディオクレチアヌス皇帝がキリスト教信者達を迫害し始めた頃、そこの司教であった。カンニアの異教徒のドラゴンティウス総督は数人の助祭と信徒を捕らえて地下牢へ投げ入れた。ヤヌアリオは彼等を慰めに訪れた。獄吏は彼を見つけると、ヤヌアリオを捕らえて他の2人の信者フェストとデシデリオと共にノラ市へ連れて行った。総督はノラからポッツォリへ行くところだったので、自分の車の前の重い鎖を三人に運ばせて彼等を苦しめた。その後彼等は円戯場に連れ出され、猛獣の前に立たされた。しかし猛獣は急に殉教者の足許にうずくまり猫のようにおとなしくなった。総督はしかたなく3人の首を斬ることを命じた。ヤヌアリオ司教の遺体はポッツォリの近く...聖ヤヌアリオ司教殉教者StJanuariusm.

  • クペルチノの聖ヨゼフ証聖者 St Joseph a Cupertino C.

    クペルチノの聖ヨゼフ証聖者StJosephaCupertinoC.記念日9月18日聖人はいずれもこの世から天主と一致した方々であるが、主が御自分への一致に招き給う途は必ずしも一つではない。ある聖人方は人目を引かぬ平凡な日常生活により、ある聖人方は神秘的な特恩、例えば奇蹟、脱魂、受痕等により主への一致を成就された。それは皆天主の思し召しによることで何れを優り、何れを劣るとすることは出来ないが、本日祝うクペルチノの聖ヨゼフの如きは、この中の後者に属し、常人の望むべからざる賜物を恵まれ、特別な途によって聖人となった方である。彼は1603年6月17日南イタリアの田舎町クペルチノに生まれた。両親は貧しかったから彼も少年の頃からある靴屋へ徒弟に入れられたが、病気になって間もなく家に帰らねばならなかった。再び健康を快復...クペルチノの聖ヨゼフ証聖者StJosephaCupertinoC.

  • 御言葉の顕示はあらゆる次元にある 聖アタナシウス

    御言葉の顕示はあらゆる次元にある。上は被造物、下は受肉、深さは黄泉、幅は全世界にある。万物は神の知識で満たされている。聖アタナシウス御言葉の顕示はあらゆる次元にある聖アタナシウス

  • 自民党総裁選

    少しでもましな方が選ばれますように・・・。み旨の天に行われるごとく、地にも行われんことをでも、それはおそらく、きっと。秋田の聖母などを思い出すと、想像してしまうところはあります。とはいえ、できることをしつつ、知るべきことは知り、見守りましょう。***優勢だった小泉進次郎は、自民党員を対象とした世論調査によると3位に後退しているようです。今は、高市と石破がトップを争っているようです。経済面で見ると、高市は積極財政論者で、その政策はアベノミクスの継続です。他の方は、多かれ少なかれ緊縮で、小林鷹之に至っては、財務省出身ですから、かなりシビアなのでしょう。一方で、外交・防衛面では、高市と小林は、共にかなりなタカ派です。日本と中国が不幸にして戦うことが、もし将来あるのであれば、日本単独では既に勝ち目はないですし、米...自民党総裁選

  • 聖ロベルト・ベラルミノ司教教会博士 St. Robertus Bellarmin E. et D. E.

    聖ロベルト・ベラルミノ司教教会博士St.RobertusBellarminE.etD.E.記念日9月17日イタリアのベラルミノ家より出でたこの聖人は、聖ペトロ・カジニオと同様イエズス会の司祭修士であって、16世紀新教の異端が跋扈する時に当たり、聖教の真理を擁護すべく天主の御選びを蒙った方である。彼は1542年10月4日、フィレンツェ州のモンテ・プルチアノ市に生まれた。つとに故郷の中学に通学していた頃から、その卓越した才智と勉学と熱心とは、しばしば教師達の舌を捲かしめた。彼は18の歳を迎えて、イエズス会に入会を申し込んだが、彼の英才の誉れを聞き知っていた長上は快くそれを許可した。20歳に達するや、早くも修辞学の教授を命ぜられ、暫くその任を全うした後、更に哲学神学研究の為、去ってベルギーのルーヴァンに赴き、そ...聖ロベルト・ベラルミノ司教教会博士St.RobertusBellarminE.etD.E.

  • 聖コルネリオ教皇と聖チプリアノ司教殉教者

    聖コルネリオ教皇と聖チプリアノ司教殉教者記念日9月16日コルネリオ教皇は、迫害の嵐のなかで3年間教会を指導した。迫害のために転んだ信者が悔い改めてかえってくるとき、彼は歓迎し、彼等を寛大に再び教会に受け入れていた。厳しすぎる人がそれを見て、激しく非難し、離教するほどであったが、北アフリカのカルタゴ市の司教チプリアノは教皇の立場を強く守った。二人とも、迫害のさなかにあって、殉教に直面する信者を激励し、教皇は253年、チプリアノは258年に殉教した。チプリアノは教父として、ラテン・キリスト教文学の先駆者で、貴重な著書と書簡を残している。これによると、ローマ教会とカルタゴ教会がどれほど深い交わりがあって、はげまし合っていたかがわかる。教皇と一致し、教皇を守る事はまことの教会のしるしであり、忠実な信仰生活の保証で...聖コルネリオ教皇と聖チプリアノ司教殉教者

  • 御悲しみの聖母 Septem Dolorum B. Mariae Virg.

    御悲しみの聖母SeptemDolorumB.MariaeVirg.記念日9月15日聖マリアは天主の御母という尊厳極まりない御位にあらせ給う御方であるから、その聖心には常に歓喜と楽しみが満ち溢れていたと考えられるかも知れぬが、これは大いなる誤りであって、実際は悲哀の御母と呼ばれるほど、数々の辛酸を嘗め給うたのであった。それは祖先アダムとエヴァ以来の人類の罪を、受難によって償い、救世の大業を果たし給う御子イエズス・キリストに、御母として、また女性の代表として、力をあわせ、労苦を分かたれるのは、当然でもあり、必要でもあったからである。イエズスの御降誕後40日を経て、聖母が之をエルサレムの神殿で天主に奉献された時であった、シメオンという敬虔な老人が彼女の将来に就いて「貴方の御心も苦痛の剣で刺し貫かれましょう」と預...御悲しみの聖母SeptemDolorumB.MariaeVirg.

  • 聖十字架称讃の記念 Exaltatio S. Crucis

    聖十字架称讃の記念ExaltatioS.Crucis祝日9月14日世人の崇敬をあつめている聖遺物中、わけても貴いのは、主イエズスキリストが全世界の罪の贖いに、御自らを磔け給うた聖十字架ではないだろうか。というのは、これなくしては我等に救霊の恵みも与えられなかったに相違ないからである。されば聖会は之が賛美尊敬の為、聖金曜日の他になお二つの祝日を設けている。それは即ち5月3日の聖十字架発見の記念と、本日の聖十字架賞賛の記念とである。聖十字架賞賛の記念は聖会に古くから行われ、キリスト復活祭や昇天祭などと共に大祝日とされていた。殊にこの祭りの盛大に催されたのは、聖主御受難の聖地エルサレムで、当日は聖榮大聖堂に荘厳な儀式が執行され、遠隔の地からも多数の信者が巡礼参加し、イエズスの磔り給うた十字架を称讃すると共に、わ...聖十字架称讃の記念ExaltatioS.Crucis

  • 人類よ、目を覚ませ 聖アウグスティヌス

    人類よ、目を覚ませ。神が人となられたのは、お前たちのためだったのだから。目を覚まして、それがすべて自分のためだったことを理解しなさい。もし、神がこの世にお生まれにならなかったのならば、永遠の死がお前を待っていたことだろう。もし彼が罪深い肉の似姿にならなければ、あなたは決して罪深い肉から解放されることはなかっただろう。この慈悲深い行いをされなかったら、お前の惨めさは永遠に続いただろう。もし、主がお前の死に臨んでくださらなかったら、お前は再び生き返ることはないだろう。彼が来なければ、お前は滅んでいただろう。聖アウグスティヌス人類よ、目を覚ませ聖アウグスティヌス

  • 聖ヨハネ・クリゾストモ司教教会博士 St. Joannes Chrysostomus Patriarcha

    聖ヨハネ・クリゾストモ司教教会博士St.JoannesChrysostomusPatriarcha記念日9月13日紀元438年1月27日の晩の事である。東ローマ帝国の首府コンスタンチノープルの海岸には、何十万という人々が手に手に松明を振りかざして、物々しく詰めかけていた。海上にも星の降ったように、点々と輝いているのは、数多の船に焚いてある篝火なのである。やがてそれらの船に迎えられて、また幾艘かの船が港へ入って来た。そしてそれから上陸したのは幾百人とも知れぬ司教司祭達や男女の修道者等で、その中の数人は深い哀悼の沈黙の中に、石の柩を担いでいる。その時浜辺に立つ人々の中から、その前へつと進み出た美服威容の人があった。彼は跪いてその柩に額を押し当て、恭しく敬意を表した後、沈痛な声で言うのであった。「ああ聖ヨハネよ...聖ヨハネ・クリゾストモ司教教会博士St.JoannesChrysostomusPatriarcha

  • 兵庫県の問題、斉藤知事への不信任案

    兵庫県の問題も、大変ですね。斎藤知事への批判も物凄く、兵庫県議会の議員86人が全会一致で辞職を要求しているとか。日本史上、全会一致で首長が辞職を要求されるケースは、もしかしたらこれが初めてなのではないでしょうか。宮澤喜一の時もここまでではなかったようですし、阿久根市長の時も、多少は市長の味方がいました。おかしな議員が全会一致で問責されることは、たまにあったのですが、首長となると殆ど例が見当たりません。斉藤知事への批判に上っていることは、見た感じ、職員2名の自殺を除くと、あとは県知事本人のミクロな過失や徳を欠いた行いが多いようでした。例えば、兵庫県の自動販売機に知事本人の音声を入れてみたり、贈呈品を常に常に大量に持ち帰ったり、などなどです。兵庫県知事の声が流れる自販機、パワハラ問題で「気色悪い」の声県立高校...兵庫県の問題、斉藤知事への不信任案

  • 聖ヴィクトリア・フォルナリ・ストラタ修道女

    聖ヴィクトリア・フォルナリ・ストラタ修道女記念日9月12日1579年イタリアのジェノバで、ヴィクトリア・フォルナリがアンジェロ・ストラタと結婚した時、彼女は17歳であった。結婚生活は非常に幸福であったが、9年後に夫が死んだので、子供たちの将来について心配したあげく、再婚しようと思った時に、聖母マリアのまぼろしを見た。聖母は言われた。「勇気を出しなさい。私はあなたと子供達を保護してあげます。心配しないで平和に暮らしなさい。私にすべてをまかせて、すべてに越えて神の愛にあなた自身を奉献しなさい。」ヴィクトリアは、聖母マリアの御言葉に忠実に従った。自分の財産の大部分を貧しい人々に施したが、自分の子供たちが困るようなことはなかった。1604年、裕福な友人の助力で、10人の女性達と共に修道院を建て、翌年誓願を立てた。...聖ヴィクトリア・フォルナリ・ストラタ修道女

  • トランプとハリスの公開討論

    トランプとハリスが、フィラデルフィアで公開討論をしたようです。私はCNNで聞いていましたが、YouTubeでもTBSが日本語吹き替えで中継をしていたようです。こちらは、今からでも聞けます。インフレや中絶、不法移民の問題から議論は始まり、最後は防衛や環境問題で終わりました。一度は聞いた方がいいかもしれません。トランプとハリスの公開討論

  • 9-8-5 ジャン・ジャック・ルソー

    『絶対主義の盛衰世界の歴史9』社会思想社、1974年8フランス啓蒙思想――貴婦人たちのサロン5ジャン・ジャック・ルソージャン・ジャック・ルソー(一七一二~七八)は時計師を父として、一七一二年スイスのジュネーヴにうまれた。先祖は十六世紀中ごろ、フランスから亡命したカルバン教徒である。ルソーは自分の誕生を「最初の不幸」としているが、こうしたペシミズムは彼の生涯をつらぬく基調である。彼は神経質で内気、猜疑(さいぎ)心がつよく、放浪癖があり、傲慢(ごうまん)でエゴイストであった。十三歳のとき、、時計師の徒弟奉公にだされたルソーはこれをきらい、一七二八年からジュネーブをすてて、放浪生活にはいった。スイス各地やフランスをさまよったのち、彼は三二年から約八年はど、シャルメットのバラン夫人(一七〇〇~六二)のもとに寄食す...9-8-5ジャン・ジャック・ルソー

  • マリア様の生活 聖ウジェーヌ・ド・マゼノッド

    聖霊に開かれたマリアは、救い主の人と業に対して卑しい召使いとして自らを完全に奉献したのです。彼女は、キリストを希望とする全ての世界とキリストを分かち合うために、キリストを受け入れたのです。彼女の中に、私たちは教会の信仰の模範と私たち自身の信仰の模範を認めるのです。聖ウジェーヌ・ド・マゼノッドマリア様の生活聖ウジェーヌ・ド・マゼノッド

  • 聖プロトと聖ヒアチント殉教者

    聖プロトと聖ヒアチント殉教者記念日9月11日1845年、ヨゼフ・マルキという司祭が旧サラリア街道を発掘していた時、壁にそって作られた墓を発見した。それは一枚の板で閉じられていて、ラテン語で「9月11日に殉教者ヒアチントを葬った」と記してあった。ヨゼフ・マルキが墓をあけてみると、その中に人間の身体の灰と、黒こげになった骨を包んだ布きれがあった。そして、ヒアチントの墓の傍らに「殉教者プロトの墓」というもう一つの碑銘が発見された。古い伝承によるとプロトとヒアチントは、エジプトの総督の娘でキリスト信者であったエウジェニアの奴隷であったが、彼等はローマに逃げて来て、そこで異教徒の役人に捕らえられて火刑に処せられたのであった。ヴァレリアヌス皇帝の治世にこの3人が殉教したことはほとんど確実である。聖プロトと聖ヒアチント殉教者

  • 日本205福者殉教者

    日本205福者殉教者記念日9月10日我が国に於ける切支丹宗門の迫害も数百回にわたって行われ、その都度数多の犠牲者を出したが、中にも西暦1622年(元和8年)9月10日の殉教は、大殉教と称せられている。それは史家レオン・パジェーの言葉の如く「致命者の総数が多かった上に、彼等の素質も優秀であった」為である。その日長崎郊外立山に露と消えた人々は総数55名、これを細別すれば外国人宣教師9名、法人司祭1名修道士等、その他彼等を宿し、匿った者、その連累者、教え方及び彼等の家族達などであった。その一人一人の生涯につき詳述し得れば幸いであるが、それは限られた紙面の都合上、到底できぬ事であるから、ことにはその中の主要な人物の略伝をあげるにとどめる。まずカルロ・スピノラ師はイタリア人で、1584年イエズス会に入会し、12年後...日本205福者殉教者

  • 聖ペトロ・クラヴェル司祭証聖者 St.Petrus Claver C.

    聖ペトロ・クラヴェル司祭証聖者St.PetrusClaverC.記念日9月9日昔は諸国に奴隷というものがあって、人でありながら物品の如く売買され、買い主の意のままに働かねばならなかった。これら奴隷達の運命は、時に甚だ悲惨を極めた。彼等は人間扱いを受けず、少しの自由も与えられずして、全く主人の所有物であった。しかしイエズスが「人を己の如く愛すべし」という掟を与えられてからは、信者達は奴隷までも愛するようになった。聖会は及ぶ限り奴隷をするように努めたが、奴隷制度を阻止するまでの力はなかった。故に賠償金を以て良き訓戒を以て彼等を解放し、或いは少なくともこれを慰めようとした。数多の熱心なキリスト信者達は、司祭も平信者も金を拠出し、全力を尽くしてこの博愛事業に当たった。こういう憐れな奴隷達の為に奔走し布教した最大の...聖ペトロ・クラヴェル司祭証聖者St.PetrusClaverC.

  • 聖母マリアの御誕生の祝日 Nativitas B. Mariae V.

    聖母マリアの御誕生の祝日NativitasB.MariaeV.祝日9月8日世間ではいろいろ知名の士の誕生が祝われるが、本来から言ってイエズスの御母聖マリアの御誕生日ほど祝すべく慶すべきはあるまい。彼女は天の元后であり、世の救い主の御母であり、全人類中罪の汚れなき唯一のお方であり、殉教者の元后と称せられるほど苦しまれたお方であり、恐らくまた過去のあらゆる名高き人々のそれを合わせたよりも多数の、教会、小聖堂、彫刻、絵画等の記念物を有し給うお方である。また人と生まれて聖マリアほどその名を呼び慕われ、誌に、音楽に説教に褒め讃えられるお方はない。彼女はイエズスの御母として救世の御事業に携わられた。イエズスは世の光であり、正義の太陽である。太陽は曙の中から生まれる。されば聖マリアは世の救いの曙と言えよう。我等はこの聖...聖母マリアの御誕生の祝日NativitasB.MariaeV.

  • 聖ソゾン殉教者

    聖ソゾン殉教者記念日9月7日4世紀の初め頃、タラシオという羊飼いの少年がシチリアに住んでいた。当時は迫害の時代で、信者達の生活は危険であったが、彼は洗礼を受けて名前をソゾンと変えた。ある日、野原で寝ていると、イエズスが夢の中に現れて、信仰の為に死ぬ覚悟をするために、彼が常に羊を守るために使っている武器を捨てて、ただ羊飼いの杖だけ持つように命じられた。ソゾンはすぐに町の神殿に行って、その中の黄金の偶像を羊飼いの杖でこなみじんに砕いてしまった。そして、偶像の金の手の一つを細かく分けて貧しい人々に与えた。ちょうどその時、あるキリスト信者たちが捕らえられ、偶像をこわしたと訴えられた。ソゾンは、自分が壊したことを自ら名乗り出た。役人達はソゾンの靴の裏から釘を打ち込んで、そのまま円戯場まで無理に歩かせた。ソゾンの勇気...聖ソゾン殉教者

  • 聖カグノールド司教

    聖カグノールド司教記念日9月6日フランスのルュクスイユにあった聖コロンバン修道院からは、多数の聖人たちが出て、7世紀までにフランスの最も重要な修道院となっていた。聖人たちは司祭や信者を高い霊的生活に導いた。モー市の司教となったファロとラオン市の司教となったカグノールドという兄弟は、聖人の中でも著名であった。コロンバンがテオドリック2世王の不道徳な行為を批判したとき、王は怒って610年彼を追放した。カグノールドは聖コロンバンといっしょにフランスを去って、コンスタンス湖の近くで宣教師として働いた。しかし、テオドリック王はその地方にも勢力を伸ばして、容赦せずにまた二人を追放した。とはいえ、この二人は敵に対しても慈悲深かった。ヌーストリアのテオデベルト2世はカグノールドとコロンバンに、コンスタンス湖の近くに隠れ家...聖カグノールド司教

  • 聖ラウレンシオ・ユスチニアノ司教証聖者 St. Laurentius Justiniani E. C.

    聖ラウレンシオ・ユスチニアノ司教証聖者St.LaurentiusJustinianiE.C.記念日9月5日多くの他の聖人方がそうであるように、聖ラウレンシオ・ユスチニアノも信心深い母の子と生まれた。父は早くこの世を去ったから、その忘れ形見五人を養育する大任はか弱い母の双肩にかかって来た。彼女はその重責を果たすためには自分一個の力のあまりにも微弱に過ぎることをよく知っていた。それで彼女は全能の天主に信頼し、しばしば祈り、及ぶ限りの事をした。為に天主も豊かな祝福を与え給い、子はいずれも健やかに善良な心をもって生い立った。それは何者にも換え難い母の歓びであった。その中でもラウレンシオは一際すぐれた子であった。彼は1381年の生まれであったが、才能あり柔和な性格で、あらゆる人に恭倹かつ親切であった。彼は子供の時分...聖ラウレンシオ・ユスチニアノ司教証聖者St.LaurentiusJustinianiE.C.

  • 毎年減り続ける米の生産量

    過去20年の米の作付面積の推移です。データの出典は農林水産省です。米の生産量は、毎年、減少傾向にあるようです。労働者力の不足が主因のようです。農家は高齢化し、若者は来ず、外国人労働者も減りつつあります。後者はヨーロッパに行ってしまうようです。ヨーロッパの方が遥かに高賃金で、英語が通じればやっていけるからだとか。勿論、2018年まで続いた減反政策や、今でも残っている関連の諸政策・システム・構図の影響もあるでしょうね。毎年減り続ける米の生産量

  • 9-8-4 百科全書派

    『絶対主義の盛衰世界の歴史9』社会思想社、1974年8フランス啓蒙思想――貴婦人たちのサロン4百科全書派イギリスでは一七〇四年ジョン・ハリスによって、また二八年イフレイム・チェンバーズによって、百科辞典が発行された。これらに注目したパリの出版業者ル・ブルトンは三人の同業者をさそい、四六年に、「ハリスおよびチェンバーズの英語辞典を増補しつつ、翻訳する……」という認可を当局から交付された。そしてこの企画の編集者として、白羽の矢をたてられたのがズニ・ディドロ(一七一三~八四)である。彼はシャンパーニュ地方、ラングルの刃物業者の旧家にうまれ、パリに出て学んだが、親の期待に反して定職につかず、文筆生活にはいった。そして詩、小説、文芸評論、美術論、哲学および科学論など、数多くの著作をものにし、彼に匹敵するのはボルテー...9-8-4百科全書派

  • 謙遜さ パドゥアの聖アントニオ

    「父よ、あなたの真実のうちに(つまり、へりくだった、貧しく、家を失ったあなたの御子のうちに)あなたは私をへりくだらせました。イエズス・キリストは聖母の胎内でへりくだり、羊の飼い葉桶の中で困窮し、十字架の木の上で家なき子となられました。イエズス・キリストの人間としての謙遜さほど、高慢な罪人を謙虚にさせるものはありません。パドゥアの聖アントニオ謙遜さパドゥアの聖アントニオ

  • ヴィテルボの聖ローザおとめ St. Rosa de Viterbio V.

    ヴィテルボの聖ローザおとめSt.RosadeViterbioV.記念日9月4日天主はその聖人の中に奇蹟を行い給う。我等はあらゆる聖人の生涯に天主の聖寵の奇蹟を認め得るが、なかんずくその顕著に窺われるのはヴィテルボの聖ローザの一生であろう。彼女は1235年イタリアのヴィテルボに生まれた。両親は貧しい人々であったが、子供といっては彼女一人であったので、及ぶ限りの注意を以て教え育てようとした。しかし彼女の教育に大いなる役割を演じたのは、父母の力よりも寧ろ天主の聖寵であった。まだようよう二、三歳の頑是ないローザが、おぼつかない足取りで近所のフランシスコ会の聖堂へ行き、天使の如く敬虔な態度でミサ聖祭にあずかるのを見た時の両親始め他の人々の驚嘆はどれほどであったろう!ローザは説教の間鈴のような眼をみはって司祭の一語を...ヴィテルボの聖ローザおとめSt.RosadeViterbioV.

  • キーボードの買い替え

    キーボードを買い換えました。今まで使っていたキーボードにお茶をこぼしてしまい、キーの殆どが反応しなくなったからです。合わせて、カバーも買いました。シリコンカバーをした後のキーの見やすさを考えて、LEDのバックライト付きのものにしました。一応、ブライドタッチもできるのですが、たまに見ながら打つ時もあります。使ってみて、そう悪くないですね。全く不満を感じません。なお、他に廉価版のキーボードを三つほど買いました。今回のように、キーボードも壊れることがあるからです。以前使っていたノートパソコンも、キーボードのキーのいくつかが故障してしまいましたしキーボードの買い替え

  • 主が貧しくお生まれになった意味 アッシジの聖クララ

    偉大で善良なる主が、聖母の胎内に入られたとき、この世で軽蔑され、乏しく、貧しく見えることを望まれました。そうなることによって、貧しく、天国の食物を切望して苦しんでいる人々が、主によって豊かにされるのです。アッシジの聖クララ主が貧しくお生まれになった意味アッシジの聖クララ

  • 聖グレゴリオ1世教皇教会博士 St. Gregorius Magnus P.P.

    聖グレゴリオ1世教皇教会博士St.GregoriusMagnusP.P.記念日9月3日聖グレゴリオ1世教皇は有名な西方教会側四聖会博士中の一人で、その聖会及び社会に尽くした功労の甚大な点から、世に大グレゴリオと尊称されている。彼は540年ローマ市に呱々の声を挙げた。母シルヴィアは光栄ある聖女の列に加えられており、又貴族で家富み政府の要職にあった父も、グレゴリオの誕生後はそれらの門地財宝顕官を弊履の如く捨てて一介の聖職者となったほどの人であったから、その血を承けたグレゴリオが生来信心に厚く聖徳に秀でていたのも蓋し偶然ではあるまい。さてグレゴリオは何不足ない家の子息とて、教育も十分に授けられ、修辞学、法学、哲学等を修めたが、殊に聖アンブロジオや聖アウグスチノ、或いは聖ヒエロニモ等聖会博士の著書の判読を好んだと...聖グレゴリオ1世教皇教会博士St.GregoriusMagnusP.P.

  • ロスキルドの聖ウイリアム司教

    ロスキルドの聖ウイリアム司教記念日9月2日ウイリアムという名のアングロサクソン人の司祭がクヌート王の宮廷付き司祭となった。ある日、王と共にデンマーク旅行した時、その地方における宣教の必要を大いに感じて、生涯そこに留まって働くことを決心した。やがて彼はゼーラントのロスキルドの司教に任命された。クヌート王の後継者であったスウェイン・エトストリドセン王は多くの長所をもった人物であったが、がんこでわがままな人で、キリスト教の掟には何度も背く行為をした。ウイリアムは王を責めたため自分の生命が危うくなったこともあった。しかし、最後まで王の良い友人としてとどまることができた。福音の証しをすることは容易ではなかったとはいえ、彼はそれを全うしたのだった。ある時、王は数人の男達を公平な裁判なしに死刑にした。ウイリアム司教はそ...ロスキルドの聖ウイリアム司教

  • 聖エジディオ修道院長 St. Aegidius C.

    聖エジディオ修道院長St.AegidiusC.記念日9月1日聖エジディオは640年頃ギリシャのアテネに生まれた。両親は信心深い人々であったが、早く世を去り、息子にかなりの大きな財産を残した。エジディオは若年の頃から既に、唯天主の為にのみ生きたいという望みを抱いていた。それで、どこか静寂な所に退き、誰にも妨げられず祈りに専念しようと決心し、全財産を貧民に施してしまい、自分は乞食をしながらイタリアを通ってフランスに来た。それは彼の26歳ころのことであった。エジディオはアルルに至り同市の司教の快諾を得て2年間その許に止まった。司教は彼をいつまでも手放したがらなかったが、彼自身は全くの孤独を憧れるあまり、窃かにそこを立ち去り人里離れた場所に行き、みすぼらしい小屋を建てて起居した。けれどもやがてその隠れ家も発見され...聖エジディオ修道院長St.AegidiusC.

  • 聖ライムンド・ノンナート証聖者 St. Raymundus Nonnatus C.

    聖ライムンド・ノンナート証聖者St.RaymundusNonnatusC.記念日8月31日サラセン人は8世紀頃からヨーロッパ諸国を侵略し、殊にスペインを全く征服して数多のキリスト信者達を北アフリカに連れ行き、奴隷に売り飛ばした。残った信者達はこの憐れむべき兄弟姉妹を救い出す為あらゆる方法を講じ、メルセデの聖母マリア会と呼ぶ奴隷救済の修道会を組織したことさえあった。聖ライムンド・ノンナートは同会中最も有名な一人である。彼は1204年スペインのポルテロに生まれた。そのノンナートというのはあだ名で「生まれざる」という意味であるが、これは出産に際し死亡した母の胎内から帝王切開の大手術を行って取り出されたに基づいているのである。両親はさしたる財産もなかったが、清廉潔白な信心深い人々で、父は母なきライムンドを慈しみ育...聖ライムンド・ノンナート証聖者St.RaymundusNonnatusC.

  • 聖フェリクスと聖アダウクト殉教者

    聖フェリクスと聖アダウクト殉教者記念日8月30日304年フェリクスがローマの教会で司祭として熱心に任務を果たしていた時、ディオクレチアヌス皇帝による迫害が始まった。多くの信者と共に彼も捕らえられて残酷に苦しめられたが、信仰を固く守ったので、ついに斬首の宣告を受けた。刑場に引き出されたフェリクスの落ち着いた態度を見て感心した群衆の中の一人が大声で叫んだ。「私もこの人が公に宣言する同じおきてを守っている者です。私もイエズス・キリストを信じて、彼に従っています。私もその教えを広めるために命をささげます」この男は、ローマの兵士に早速捕らえられて、フェリクスと並んで首を斬られた。しかし、誰もこの人の名前を知らなかったので、彼は「アダウクト」と呼ばれた。この名の意味は「追加された者」である。二人の殉教者はオスチア街道...聖フェリクスと聖アダウクト殉教者

  • 台風とお米と・・・

    台風10号が、今日未明から鹿児島県に上陸したようですが、進行ペースが非常にゆっくりなようです。そのお陰もあって、渦巻方向での上陸でありながら(台風の渦巻きの方向と、台風自体の進行方向が重なる時、普通、合成風力となって強大な力が発生する)、風速は今現在、普通の台風とさほどに差がないようです。しかし、もともと大規模なうえに、ゆっくり進むため、地域あたりの降雨量が物凄く、既に九州の7か所の河川で、氾濫が起きているようです。氾濫する川は、今後も増えていくのでしょう。懸念事項のひとつは、九州であっても、お米の大部分が、まだ収穫前であったことです。稲刈りの時期はいつ?都道府県や品種ごとのタイミングや、お米の収穫時期を解説! UMM農業とつながる情報メディア稲刈りや収穫の時期は北海道、本州、四国、九州地方など都道府県や...台風とお米と・・・

  • 洗礼者ヨハネの殉教 Decollatio S. Joannis-Baptistae

    洗礼者ヨハネの殉教DecollatioS.Joannis-Baptistae記念日8月29日旧約時代には下万民を虐げ享楽に耽るような暴君悪王が出ると、天主はしばしば預言者を遣わして之を戒め給うた。例えばアカズ王に対するイザヤの如きそれである。しかし多くの場合かような非道の君主は改心を拒み、諫言した人々を蛇蝎の如く憎んでその生命を奪うのが常であった。主の先駆者にして旧約時代最終の預言者と言われている洗礼者ヨハネもそういう悲運の犠牲となった一人であった。主イエズス・キリストが公生活始め給うた頃、ヘロデ・アンチパスという者がローマの許可を得てユダヤ分国の王位にあった。これはかのベトレヘムに於ける罪なき幼子を虐殺したヘロデの子であるが、父に劣らぬ悪虐非道を以て聞こえ、殊にその正当の妃であったベドイヌ王アレタスの王...洗礼者ヨハネの殉教DecollatioS.Joannis-Baptistae

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