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出身
ハンドル名
カトリック情報 Catholics in Japanさん
ブログタイトル
カトリック情報 Catholics in Japan
ブログURL
https://blog.goo.ne.jp/catholic_info
ブログ紹介文
聖人伝、教会史、格言、みことばなどを掲載します。フェイスブックのカトリックグループにも投稿しています
自由文
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74回 / 160日(平均3.2回/週)

ブログ村参加:2016/07/09

カトリック情報 Catholics in Japanさんの人気ランキング

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カトリック情報 Catholics in Japanさんのブログ記事

  • 3-15-5 漢室の復興

    『東洋の古典文明世界の歴史3』社会思想社、1974年5漢室の復興あけて更始二年(西暦二四)の二月、劉玄は長安へはいる。しかし、あたらしい皇帝は、享楽の生活にひたりきって、たちまち長安の人心をうしなった。よって、さらに次の年(西暦二五)、山東の赤眉軍が西進して長安に入城してくるや、市民は歓呼してむかえたのであった。劉玄は降伏したが、もとの部下から殺された。ところが赤眉軍とて、農民の集団である。教育もなく、秩序もない。またしても長安は、暴行と掠奪とに苦しまねばならなかった。いっぽう劉秀は、劉玄から命ぜられて、河北の平定にしたがっていた。そして各地に割拠した部隊を次々にやぶり、自立の基盤をかためていった。その人望は日ましに高まる。ついに赤眉軍の長安入城にさきだち、その年(二五)六月、諸将からおされて皇帝の位についた。...3-15-5漢室の復興

  • 聖母マリアに対する信心

    『リトアニアの英雄聖カジミロ』アロイジオ・デルコル神父著◆8、聖母マリアに対する信心聖カジミロは、よく好んで苦しむ救い主の黙想をしていたが、その黙想のなかで、主のおん母、悲しみのマリアが、そばに立って剣につらぬかれる心でおん子をあおいでいた。こうした聖母マリアをどうしてイエズスから切り離し得ようか!聖カジミロは、若い頃から、あちこちの聖堂を訪れていたが、かならず聖母の祭壇の前にひざまずいて、長い時間を祈りにささげていた。そのうえ、かれは、毎日マリアにむかって、すばらしい賛美歌をうたいつづけた。この賛美歌は、「わたしの魂よ、日ごとにマリアをたたえよ」という句ではじまるもので、あとで、帰天の120年後にかれの墓が開かれたとき、頭の近くにこの賛美歌を書いた巻物が発見されたといわれている。はじめ、この賛美歌は、「聖カジ...聖母マリアに対する信心

  • 終わりの日

    天の国のこの福音が、全世界にのべ伝えられ、諸国の人々に向かって証明されるとき、そのとき終わりは来る。預言者ダニエルの言った〈荒らす者のいとわしいもの〉が聖所に立つのを見たら、ー読む人は悟れーそのとき、ユダヤにいる者は山に逃げよ。屋根の上にいる者は、家のものを取り出そうとして下りるな。畑にいる者は、外套を取りに引き返すな。その日不幸なのは、みごもった女と乳を飲ます女である。こういうことが冬や安息日に起こらぬよう、その日逃げ出すことのないように祈れ。そのときには、世の始めから今までにもなく、後にもないほどの大艱難が起こる。その日が短くされぬなら救われる者は一人もない。マテオによる福音書24章14-22節終わりの日

  • 聖ジェオルジオ殉教者  St. Georgius Mart.   軍人の守護者

    聖ジェオルジオ殉教者St.GeorgiusMart.軍人の守護者記念日4月23日聖会の初代にはローマの軍隊中に数多のキリスト信者が出来、殉教した人も少なくなかった。かように軍人が入信し易かったのは恐らく厳しい軍紀に慣れた身には聖教を守ることも難しくなく、またいつ何時祖国の為生命を投げ出さねばならぬか解らぬ身には天国の観念が大いなる慰安となったからであろう。それは兎に角、本日語らんとする聖ジェオルジオもやはりそういうローマ帝国の勇ましい軍人の一人であった。彼は昔から公教会の栄えある聖殉教者中に数えられ、ギリシャ正教会に於いてはより以上の尊敬を得て大殉教者とさえ呼ばれている。彼に献げられた聖堂は既に五、六世紀頃から建て始められ、十字軍の時代には英国の獅子王リチャード一世が彼を己が軍隊の守護者と頼んだが、それ以来ジェ...聖ジェオルジオ殉教者St.GeorgiusMart.軍人の守護者

  • 3-15-4 理想と現実

    『東洋の古典文明世界の歴史3』社会思想社、1974年4理想と現実さて王莽(おうもう)は、いよいよ儒学の教義にしたがって、政治の改革にのりだした。まず土地制度である。儒学の理想とするものは「井田(せいでん)法」と称して、田地の共同耕作をたてまえとする。そこには貧富の差もなく、不当に搾取(さくしゅ)する者もいない。しかるに現実では、広大な土地を所有する者があらわれ、土地をうしなった農民は、身を売って奴隷となっている。奴隷は牛馬とおなじように売買されていた。王莽は、この現状を改めようとしたのである。天下の田を王田とよび、奴隷を私属と改称して、その売買を禁止した。一定の基準以上に田地を所有する者は、余分の田地を親族や同郷の人にわがちあたえよ、と命じた。この法令は、貧農や奴隷にはよろこばれたであろう。しかし豪族や大商人は...3-15-4理想と現実

  • 7-3、リトアニアで父王の代理をつとめる

    『リトアニアの英雄聖カジミロ』アロイジオ・デルコル神父著◆7-3、リトアニアで父王の代理をつとめる夕ぐれ頃になると、閉された大聖堂の門にひきつけられるかのように近づいていくのだった。かれは、まるで祭壇の前に撚えている聖体ランプのように、天のおん父のそばにいるのを何よりも好んでいた。かれは、毎日ミサ聖祭や他の典礼儀式にあずかり、長時間祈りに専念した。夜は夜で、また長い祈りをささげるのが常であった。このように、かれは霊的な"かて"をあこがれていた。少年の頃、兄弟たちと祈るカジミロの姿はまるで天使のように見えた、とは、かれの先生方の感動にみちたほめことばである。しかし、成人すると、かれは、人の注意をひくことをさけ、人に見られず、ひとり淋しい所で祈るのだった。それにしても、いくら、かくれていようと望んだにせよ、ミサ聖祭...7-3、リトアニアで父王の代理をつとめる

  • 疑り深いトマ

    イエズスが来られたとき、十二人の一人でディディモと呼ばれるトマは、みなと一緒にいなかった。ほかの弟子たちが「主を見ました」と言ったが、彼は「私はその手にくぎの跡を見、私の指をそのくぎの跡に入れ、私の手をその脇に人れるまで信じません」と言った。八日の後、弟子たちはまた家にいて、トマも一緒にいたとき、戸は閉じてあったのにイエズスが来られ、彼らの真ん中に立ち、「あなたたちに平和」と言われた。またトマに向かい、「あなたの指をここに出して私の手を見なさい。あなたの手を出して私の脇に置きなさい。信じない者でなく信じる者になるように」と言われた。トマは、「私の主よ、私の神よ」と答えた。そのときイエズスは、「あなたは私を見たから信じたが、私を見ずに信じる者は幸いである」と言われた。イエズスは弟子たちの前で、この本には記さなかっ...疑り深いトマ

  • 聖アダルベルト司教殉教者     St. Adalbertus Ep. et Mart.

    聖アダルベルト司教殉教者St.AdalbertusEp.etMart.記念日4月22日中央ヨーロッパの一小公教国、チェコ・スロバキアの首府プラハは、古来文化の中心地として世に聞こえているが、それにもまして同市の誉れとなるのはヨハネ・ネポムク(5月16日)、ヴェンセスラオ王(9月28日)それに本日記念されるアダルベルト司教の三聖人を出したことである。このアダルベルトは956年同市のスラヴニクという貴族の家に生まれ、受洗の時にはヴォイテクと名付けられた。両親は始め彼に家をつがせるつもりであったが、そのまだ子供の内に大病に罹った時、付近の聖堂の聖母像の前へ連れ行き、もしこの子の病を癒して下されば、必ず聖職者にして天主に献げますと祈願をこめた所、それが聴かれたので、誓いのままにその後彼をマグデブルグ大司教座付属神学校に...聖アダルベルト司教殉教者St.AdalbertusEp.etMart.

  • 7-2、リトアニアで父王の代理をつとめる

    『リトアニアの英雄聖カジミロ』アロイジオ・デルコル神父著◆7-2、リトアニアで父王の代理をつとめる聖カジミロは、ボーランドのクラコビア宮殿とラドムのもっと静かな宮殿に、また、リトアニアのビーリニュスの宮殿にいたときも、望みさえすれば、ばく大な財産を利用することができたが、決して無駄使いはしなかった。かえって、貧しい人や、みすてられた人の世話に、その大きな財産を使っていたのである。ちなみに、かれの生活ぶりをしのぶ、かれのミサ文がある。そこには、「汚れなく身を守り、金に追われない金持は、しあわせだ」聖書(集会の書31:7)のことばが引用されている。父王も聖カジミロも、聖堂や修道院の維持のため、喜んで少なからぬ献金をする習慣があった。父はキリスト教を広めるために、聖ベルナルド修道会せんきようしの宣教師をリトアニアに招...7-2、リトアニアで父王の代理をつとめる

  • 主の復活

    さて、安息日を終えて、週の始めの日の夜明けごろ、マグダラのマリアと他のマリアは墓を訪れた。すると大地震が起こり、主の天使が天から下って石をわきに転ばし、その上に座った。その姿は稲妻のように輝き、その服は雪のように白かった。番兵たちは恐れおののいて死人のようになった。そのとき天使は婦人たちに向かって言われた、「恐れるな。私はあなたたちが、十字架につけられたイエズスをさがしているのを知っている。だが、もうここにはましまさぬ。おことばどおり復活された。イエズスが納められたその場所を見に来るがよい。それからすぐ弟子たちに知らせに行き、<イエズスは死者の中からよみがえられた。みなに先立ってガリラヤに行かれるからそこで会える>と言え。これが私の告げることのすべてだ」。婦人たちは恐れと同時に非常な喜びを感じ、すぐ墓を去って弟...主の復活

  • 聖アンセルモ大司教教会博士   St. Anselmus Archiep. et D.

    聖アンセルモ大司教教会博士St.AnselmusArchiep.etD.記念日4月21日中世期の大学者大人物と讃えられる聖アンセルモは、1034年イタリアのピエモント州アオスタ市の富貴の家に生まれた。子供の頃から信心の業を好み、修道院に入って一生を天主に献げようと志した。しかし血気盛んな青年時代を迎えると、いつかそうした殊勝な考えを忘れ果て、浅はかにも放蕩に身を持ち崩すようになった。父も折々は意見したが一向にききめがない。それで思い切って厳罰を加えようとすると、アンセルモは家を飛び出してフランスへ行き、三年というものを行方定めぬ流浪の中に過ごした。けれどもそういう彼の良心もついには目覚めずにはいなかった。彼は前非を後悔し、その償いにそれからは、専心学問の研究を始め、その目的の為、当時碩学として名高かったランドフ...聖アンセルモ大司教教会博士St.AnselmusArchiep.etD.

  • 3-15-3 「新」の建国

    『東洋の古典文明世界の歴史3』社会思想社、1974年3「新」の建国その年の末に、平帝が死んだ。毒殺されたといわれる。あとつぎにえらばれたのは、宣帝の玄孫にあたる劉嬰(りゅうえい)であった。年わずかに二歳。ときに長安のちかくで、井戸のなかから上円下方(上が円く下が方形)の石がでてきた、という報告があった。しかも石には「安漢公莽に告ぐ、皇帝となれ」と書いてあった。これを王莽は、太后に報告させたが、さすがに太后もとりあわなかった。しかし王莽の意を体した人たちは、再三にわたって太后を説得した。ついに太后も、王莽が摂政たるまま、皇帝と称することをみとめた。いまや王莽は服装も礼式も、まったく天子とおなじものを用い、みずからは仮皇帝と称し、臣下からは摂(せつ)皇帝とよばれるようになる。翌年(西暦六)には、元号も居摂(きょせつ...3-15-3「新」の建国

  • 伝え聞くところの日本 聖フランシスコ・ザビエル

    日本についての詳しい報告も、私の手もとに届いた。日本は、シナのすぐ近くに横たわる島である。日本人は、みな不信者である。そこには回教徒もユデア人もいない。克己心が強く、神やその他の自然の事物について、非常に知識を求めている。イエズス会員たる私達が、その活動によって結ぶことのできる成果は、日本人の自力で培われていく希望がある。以上のような理由により、私は非常に慰めをもって、日本へ行くことを固く決意した。ゴアの神学校では、目下、三人の日本人が勉強している。彼らは私がこちらへ来た1548年に、マラッカから来た者である。日本に関する私の重要知識は、みなこの三人から来ている。彼らは道徳的に気高く、才能のある若者であるが、特にパウロにおいてしかりで、彼は既に、自ら父公にシモン神父を通じて、詳細な手紙を差し上げている。8か月も...伝え聞くところの日本聖フランシスコ・ザビエル

  • 7、リトアニアで父王の代理をつとめる リトアニアの英雄 聖カジミロ

    『リトアニアの英雄聖カジミロ』アロイジオ・デルコル神父著◆7、リトアニアで父王の代理をつとめるあまりにもはりきったポーランド国政の2年間は、重労働であった。若い聖カジミロは、いつとはなく、むしばまれていた。かれに肺結核の病状が現われたのである。あのきびしい苦業生活も、この病気の一つの原因となっていた。健康回復には環境をかえるのがいちばん効果かあると思われていたので、さっそくそれを実行に移した。1483年の春かれは、ポーランドを出発して、両親やふたりの兄とともにラドムの町を通って、リトアニアのビーリニュスについた。それは、花の季節5月で、かれは、トラカイ城にも保養に行ったが、王子の健康はよくなるどころか、日ごとに悪化するばかりであった。仕方なく父は、かれを母や兄弟たちといっしょにそこに残して、ポーランドへと帰って...7、リトアニアで父王の代理をつとめるリトアニアの英雄聖カジミロ

  • 聖レオ9世教皇

    聖レオ9世教皇記念日4月19日レオ9世教皇は、聖人としての生活と軍の司令官としての生活を統合して生きた人であった。1002年に、フランスのアルサスで生まれ、コンラド2世皇帝がイタリアに侵入した時は、助祭であった。聖職者ではあったが、軍隊に入って勇ましく戦った。20年間、レオはトゥールの司教を務め、規律のゆるんだ司祭たちを厳しく取り締まり、修道院に正しい秩序をもたらした。彼が教皇に選ばれたのは1048年であった。それまでトゥール司教区の小さな範囲で行ったことを、今や全教会にわたって実行しようと思い立ち、改革するために西ヨーロッパ中を旅し続けたので、巡礼の教皇として知られるようになった。行く先々で、教皇は司教と司祭達を集めて会議を開き自分の指導に従わせた。レオ9世は、教皇庁の財政を堅固にするために、南イタリアのある...聖レオ9世教皇

  • 3-15-2 王莽の登場

    『東洋の古典文明世界の歴史3』社会思想社、1974年2王莽(おうもう)の登場成帝が位につくと、その母の王氏(元帝の皇后)は皇太后となり、これより外戚の王氏は、にわかに権力をにぎるようになった。皇太后の兄の王鳳は大将軍(総司令官)にして総理の職責をもかね、軍事と政務を一手に掌握する。即位して六年目の河平二年(前二七)には、王鳳の弟たち五人が日をおなじくして大名にとりたてられ、世間をおどろかした。王太后の兄弟のなかで王曼(まん)は早く死んだために、その子の莽(もう)は一族のなかでも不遇であった。それだけに王莽は、だれに対しても身をひくく持(じ)し、儒学の勉強に精をだして、なりふりもかまわなかった。ようやく三十歳のときに、王太后の口ききで、大名となる。そして叔父たちのあとをついで、綏和(すいわ)元年(前八)には大司馬...3-15-2王莽の登場

  • 世の終わり

    イエズスがオリーブ山に座っていると、弟子たちがそっと近づいて、「そういうことがいつ起こるか教えてください。また、あなたの来臨と世の終わりには、どんなしるしがあるでしょうか」と尋ねた。イエズスは答えられた「人に惑わされぬように気をつけよ。多くの人が私の名をかたり、〈私こそキリストだ〉と言って多数の人を迷わすだろう。また、戦争や戦争のうわさを聞くだろう。だが、心を騒がすな。そうなってもまだ世の終わりではない。〈民は民に、国は国に逆らって立ち〉、諸方に、飢饉と地震がある。だが、これらはみな生みの苦しみの始めでしかない。そのとき人々は、あなたたちをいじめ、殺し、私の名のためにすべての民があなたたちを憎むだろう。そのときには多くの人が滅び、互いに裏切り、憎み合い、多くの偽預言者が起こって人々を惑わし、不義が増すにつれてお...世の終わり

  • 6-2、ポーランドの副王として   リトアニアの英雄 聖カジミロ

    『リトアニアの英雄聖カジミロ』アロイジオ・デルコル神父著◆6-2、ポーランドの副王としてさて、ローマ聖座(教皇)との関係を、かれはどう取りあつかっただろうか。まず父についていえば、その関係は冷たく、父王は、司祭や司教を任命する権利が自分にあるなどと横車をおしていたのである。またそのうえ、教皇の願いであるキリスト教を守るためにイスラムのトルコ人と戦うことを妨げてさえいたのである。聖カジミロは、たえずこの点をやわらげようと努力していたにもかかわらず、かれもやはり、当時の教皇シクスト4世とは意見があわなかった。教皇は、かえって、モスクワの太公イワン3世(1440-1505)に好意をよせていたのである。それには、教皇の心のなかに、東方教会と西方教会の一致という目的があったのである。そんなことから教皇は、イワン3世が、皇...6-2、ポーランドの副王としてリトアニアの英雄聖カジミロ

  • 聖アポロニオ殉教者           St. Apollonius Mart.

    聖アポロニオ殉教者St.ApolloniusMart.記念日4月18日ローマ皇帝マルコ・アウレリオは聖会に峻烈な迫害を加えた。しかしその死後帝位を継いだ彼の子コモドはキリスト教徒に寛大であったので、聖会も暫く平和を楽しむ事が出来、信者の数も著しく増加し、上流の家庭からも信仰に入る者が少なくなかった。ここに述べる篤学にして容姿端麗な聖アポロニオもその中の一人であった。彼が最初聖書その他のキリスト教書を手にしたのは、ただ好奇心に駆られた為に過ぎなかった。けれどもその中に燦然と輝いている美しい真理の光は、やがて彼の心を捕らえずにはいなかった。彼はキリスト教の信仰を一層深く極める為に、聖堂に参り、司祭の教えを聞き、それにも増して度々教皇エロイテリオと語り合った。かように徹底的に研究した結果、遂に彼は聖い洗礼を受けて聖会...聖アポロニオ殉教者St.ApolloniusMart.

  • 3-15-1 儒学の隆盛

    『東洋の古典文明世界の歴史3』社会思想社、1974年15仮面の聖人1儒学の隆盛武帝が死んで、八歳になったばかりの太子が即位した。昭帝である。武帝の遺命によって、霍光(かくこう)が政務を取りしきった。霍光は、かの名将たる霍去病(かくきょへい)の弟である。謹直な人柄で、よく政治をひきしめ、財政をととのえた。昭帝は在位すること十三年で死去し、子がなかった。いったん兄の子が即位したが、精神に異常があるというので、二十七日にして廃立せられる。この思いきった処置をとったのも、霍光の英断であった。あらためて武帝の曾孫にあたる十八歳の青年がむかえられた。これが宣帝である。その祖父は、武帝に反抗して自殺した衛太子であり、その父も母も、事件のあとで殺された。悲惨な境遇のうちに成長したのが、宣帝であった。賢明にして学をこのみ、下情に...3-15-1儒学の隆盛

  • 6、ポーランドの副王として リトアニアの英雄 聖カジミロ

    『リトアニアの英雄聖カジミロ』アロイジオ・デルコル神父著◆6、ポーランドの副王として1481年から1483年までの2年間を、聖カジミロは、副王の資格でポーランドを治めた。かれは当時22才だった。カジミロが心をくだいたのは、国の経済、国法の尊重、国際関係であった。なぜなら、そこに幾多の難問題があったからである。しかし、かれは、知恵ぶかく、賢明にふるまった。なかでもかれは、国庫を大切にした。父王は、多くの負債をしては保証金として大きな領土を担保に入れていたのである。これほどの危険を父王がおかしていたのは原因があった。2-3回の戦争、王女たちの結婚式……当時の王女たちは、嫁ぐときに大きな持参金を要求されていた。また、父の過度な浪費などである。聖カジミロは、この浪費と無益な費用をきっちりと、切りつめた。その上、害虫とも...6、ポーランドの副王としてリトアニアの英雄聖カジミロ

  • キリストの味方、キリストの敵

    人々の前で、わたしの味方であると宣言する者すべてを、わたしもまた、天におられる父の前で、わたしの味方であると宣言する。しかし、人々の前でわたしを否定する者を、わたしもまた、天におられる父の前で否定する。マタイによる福音書10章32-33節キリストの味方、キリストの敵

  • 聖ベルナデッタおとめ     St. Bernadetta Virg.

    聖ベルナデッタおとめSt.BernadettaVirg.記念日4月16日フランスのルルドは、1851年2月21日天主の御母が14歳の一少女に現れ給うた所として、全世界に有名であるが、その御出現に就いては既にその祝日なう2月11日のくだりに記した。本日は右の少女ベルナデッタの記念日であるから、簡単ながらその生涯を物語る事にしよう。我等はそこに又、心素直にして謙遜篤信な者を選び、大事を行い給う天主の御摂理の程を伺う事が出来る。彼女は1844年前記のルルドに生まれた。幼い時は健康な子であったが、7歳頃から病身になり、その二、三年後には一度大病を患い、死ぬまで喘息の病から逃れる事が出来なかった。その上彼女の一家は大いなる試練も来た。それは予期せざる不幸から赤貧の中に沈み、住み慣れた家も去ってみすぼらしい小屋同然の住まい...聖ベルナデッタおとめSt.BernadettaVirg.

  • 天国  聖ジャン・マリ・ヴィアンネ

    天国では、信徳と望徳とはなくなります。天国では、私共の理性に暗くたれこめている霧は消え去るからです。知恵は、この世で隠されていた事柄を知るでしょう。すべてがあるのですから、もう何も希望しなくなります。宝を持てばそれ以外のものを獲得しようと、望みません。だから愛徳は、ああ、私共は愛に酔いしれるでしょう。神様の愛の太陽の中に、溺れ沈み、イエズス様のこの広大な飛の中に溶け込んでしまうでしょう。愛は、この世ながらの天国の味わいです。もし、愛を悟り、感じ、味わうことができるならば、どんなに幸福になることでしょう。それなのに、人々は神様を愛しないのです。聖ジャン・マリ・ヴィアンネ天国聖ジャン・マリ・ヴィアンネ

  • 聖リドヴィナおとめ    St. Lidwina Virg.

    聖リドヴィナおとめSt.LidwinaVirg.記念日4月15日我等はなぜ、また何の為に苦しまねばならぬか?これは古来人類にとって一つの大いなる謎である。この謎を解く鍵として、天主は旧約時代ヨブという聖人を世に遣わし給うたが、新訳時代に於いて同じ使命を託されたと見るべき人の中に、聖女リドヴィナがある。彼女は1380年3月18日(その年の枝の祝日)、オランダのシーダム市に九人兄弟中ただ一人の女の子として生まれた。生まれつき器量よしで、柄も年齢の割に大きかったから、12歳の時早くも結婚の申し込みがあり、長ずるにつれて益々求婚者が増えた。しかし彼女は幼時より聖母マリアを深く信心し、同様終生童貞を守るつもりであったので、降るような縁談をむしろ心憂い事に思い、なにとぞ人の心を惹かぬ身体となりますようにと常々祈っていたので...聖リドヴィナおとめSt.LidwinaVirg.

  • 5、王の供をする ーリトアニアの英雄 聖カジミロ

    『リトアニアの英雄聖カジミロ』アロイジオ・デルコル神父著◆5、王の供をする18才の聖カジミロは、旅に出る父王の供をして、国政の助け手となった。父は、いっも自慢の息子のうえに期待にみちた配慮をめぐらすのだった、「カジミロは、もう18才になった、あれは、やがて、わたしの王位をうけつけいけんぐのだから、国の問題や政治面に大いに経験をつませる必要がある」と。そこで聖カジミロは、父王と共に国会に参加し、王の国賓やや外国大使の歓迎会を催すことも度々であった。その記録をたどると、ダンチヒ(グダニスク)でスエ一デン国王と会見したときに聖カジミロは、当時の国際語であったラテン語に通じていなかった父王のために通訳の役目を果たしている。また1479年には、リトアニアのトラカイ市で、ヴェネツィア(ヴェニス)共和国の大使歓迎があった。そ...5、王の供をするーリトアニアの英雄聖カジミロ

  • 4-2、クラコビアの宮殿での模範的な生活

    『リトアニアの英雄聖カジミロ』アロイジオ・デルコル神父著◆4-2、クラコビアの宮殿での模範的な生活そもそも、宮殿の環境は、聖徳の道を選んだ人にはふさわしいものではない。それで、ポルトガルの女王聖エリザベット(1268-1336)は、王座をあとにして、1325年修道院入りをしたし、イタリアのマントヴァ公爵の長男聖アロイジオ・ゴンザガ(1568-1591)は、公国を断念してイエズス会に入ったのである。聖カジミロも、そうしたのだろうか?いな、かれには、別の道、別の考えがあった。両親とともに宮殿にとどまり、政治からも離れなかった。神の摂理が、国民の利益のために、そうすべきだと定めたと確信していたのだろうか?かれ、聖カジミロにとって、聖なる王のイメージがあったのである。聖なる王、それは、"宮殿のぜいたくさの中にあり、世間...4-2、クラコビアの宮殿での模範的な生活

  • 時間の使い方 聖マキシミリアノ・コルベ

    汚れなき聖母は刺激をもっても導かれる。平和。決して変えることのできない時間を定めよ。活動の配分。聖マキシミリアノ・コルベ時間の使い方聖マキシミリアノ・コルベ

  • 聖ユスチノ殉教者      St. Justinus Mart.

    聖ユスチノ殉教者St.JustinusMart.記念日4月14日第二世紀の聖ユスチノは初代キリスト教会に於ける最も有名な聖人の一人で、その事跡も聖人自身がものにした記録によって比較的明瞭に知ることが出来る。彼はパレスチナのシケムに生まれた。この町は紀元七十年ローマ皇帝ティトの軍勢が聖地に侵入のおり、エルサレム市と同じく廃墟と化したが、その後ローマ及びギリシャの移民が続々その地に入り込み、ユダヤ人を圧迫した。ユスチノの父もかかるギリシャ移民の一人であったのである。両親共にキリスト教の信者でなかったのでユスチノも偶像教の迷信を抱いて人となったが、青年時代から極めて真面目な性質で、思索を好み真理を求める心を持っていた。為に緒々の哲学者にも師事し、緒学派の書物も読んで研究したが、ストア派、ペリパテト派、ピタゴラス派、プ...聖ユスチノ殉教者St.JustinusMart.

  • 4、クラコビアの宮殿での模範的な生活

    『リトアニアの英雄聖カジミロ』アロイジオ・デルコル神父著◆4、クラコビアの宮殿での模範的な生活かれは、いさぎよく、ハンガリーの王座をあきらめると、ふたたび自分を育成する道へと戻っていった。聖カジミロは、兄弟のなかでも、いちばん頭がよかった。先生たちもかれのことをほめ、なかでもカリマコと呼ばれる先生は、かれのことを「聖なる若もの」とさえ呼ぶほどだった。父の望みも、この聖カジミロに置かれていた。父は、かれに自分のあとをつがせてポーランド国王にと考えていた。聖カジミロは、幼い頃から心やさしく、克己心にもすぐれていた。あの当時の習慣では、子どもに、よく体罰が与えられ、断食させたり、かたいベットに寝かせるなどのことがあったが、聖カジミロには、こんな方法に訴える必要は少しもなかった。かれには、もちろん王子にふさわしい服が西...4、クラコビアの宮殿での模範的な生活