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カトリック情報 Catholics in Japan https://blog.goo.ne.jp/catholic_info

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2016/07/09

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  • シグマリンゲンの聖フィデリス司祭殉教者 St. Fidelis Mart.

    シグマリンゲンの聖フィデリス司祭殉教者St.FidelisMart.記念日4月24日15世紀はイギリスにジョン・ウイクリフ、ボヘミアにヨハネ・フス等が出て、公教会に逆らい異説を立て、後のいわゆる宗教改革の先駆者となり、全欧州の宗教界を混乱におとしいれる原因を作った時代であるが、天主はまたその深い思し召しから、一方には幾人かの聖人聖女を起こし、不信心に流れようとする世をいましめ、迷わんとする人々に正しい道を示そうと努め給うた。聖フィデリスもその中の一人であった。彼は1577年、ドイツの南部にあるシグマリンゲンという所に生まれた。洗礼の時受けた霊名はマルコであった。父はヨハネ・ロイ、母はジェノヴェーファといい、共に敬虔篤信の人であったが、ヨハネは早く世を去ったから、マルコは幼くしてベネディクト会の修道院に預け...シグマリンゲンの聖フィデリス司祭殉教者St.FidelisMart.

  • 教皇フランシスコの霊的遺言(バチカンニュース)

    教皇フランシスコの霊的遺言教皇フランシスコ(ホルヘ・マリオ・ベルゴリオ)による遺言が公表された。教皇フランシスコ(ホルヘ・マリオ・ベルゴリオ)が、2022年6月29日にバチカンのサンタ・マルタ館で記した遺言が次のように公表された。**********Miserandoatqueeligendo(※教皇フランシスコの紋章名「あわれみを受け、そして選ばれた」(尊者聖ベーダの言葉より))至聖三位一体の御名によって。アーメン。わたしのこの世における人生の夕暮れが近づくのを感じるにあたり、永遠のいのちにおける大きな希望をもって、わたしの埋葬の場所についてのみ、遺言としての意志を表明したい。わたしは自らの人生と司祭職および司教職を、常にわれらが主の御母、至聖マリアにゆだねてきた。それゆえに、わたしの亡骸が教皇付大聖堂...教皇フランシスコの霊的遺言(バチカンニュース)

  • 天使にも大天使にもない力 聖ヨハネ・クリゾストモ

    司祭は、神が天使にも大天使にも与えなかった力を受けている。彼らにこう言われた。「あなたがたが地上で縛るものは、天でも縛られ、あなたがたが地で解くものは、天でも解かれる」。この世の支配者は確かに縛る力をもっているが、縛ることができるのは肉体だけである。それに対して、司祭は霊魂にかかわる,まさに天を超越した結びつきで縛ることができる。神は彼らに天のすべての力を与えたではないか。これより大きな力があるだろうか。御父はすべての判断を御子に委ねられた。そして今、私は御子がこのすべての力を人の手に委ねられるのを見ている。彼らは、あたかもすでに天に召されたかのように、この威厳に引き上げられるのだ。聖ヨハネ・クリゾストモ天使にも大天使にもない力聖ヨハネ・クリゾストモ

  • 聖ジェオルジオ殉教者 St. Georgius Mart. 軍人の守護者

    聖ジェオルジオ殉教者St.GeorgiusMart.軍人の守護者記念日4月23日聖会の初代にはローマの軍隊中に数多のキリスト信者が出来、殉教した人も少なくなかった。かように軍人が入信し易かったのは恐らく厳しい軍紀に慣れた身には聖教を守ることも難しくなく、またいつ何時祖国の為生命を投げ出さねばならぬか解らぬ身には天国の観念が大いなる慰安となったからであろう。それは兎に角、本日語らんとする聖ジェオルジオもやはりそういうローマ帝国の勇ましい軍人の一人であった。彼は昔から公教会の栄えある聖殉教者中に数えられ、ギリシャ正教会に於いてはより以上の尊敬を得て大殉教者とさえ呼ばれている。彼に献げられた聖堂は既に五、六世紀頃から建て始められ、十字軍の時代には英国の獅子王リチャード一世が彼を己が軍隊の守護者と頼んだが、それ以...聖ジェオルジオ殉教者St.GeorgiusMart.軍人の守護者

  • 次期教皇様の有力候補

    ロイターやインディペンデントなど、大手各紙は以下の数名を、次期教皇の有力候補だと予想しています。当たるかどうかはわかりません。前回のように、こうしたメディア各紙の予想が外れることも、しばしばあるようです。***教皇フランシスコが亡くなった場合、次の教皇になりそうな有力候補は以下の5人と考えられますが、選出プロセスは複雑で予測が難しいです:枢機卿ピエトロ・パロリン(イタリア)枢機卿ピーター・タークソン(ガーナ)枢機卿ルイス・アントニオ・タグレ(フィリピン)枢機卿ペーテル・エルドー(ハンガリー)枢機卿マッテオ・ズッピ(イタリア)背景教皇の選出は、カトリック教会のカレッジ・オブ・カーディナルズ(枢機卿団)によって行われ、80歳未満の138人の枢機卿が投票権を持ちます。そのうち110人は教皇フランシスコによって任...次期教皇様の有力候補

  • 主の復活

    さて、安息日を終えて、週の始めの日の夜明けごろ、マグダラのマリアと他のマリアは墓を訪れた。すると大地震が起こり、主の天使が天から下って石をわきに転ばし、その上に座った。その姿は稲妻のように輝き、その服は雪のように白かった。番兵たちは恐れおののいて死人のようになった。そのとき天使は婦人たちに向かって言われた、「恐れるな。私はあなたたちが、十字架につけられたイエズスをさがしているのを知っている。だが、もうここにはましまさぬ。おことばどおり復活された。イエズスが納められたその場所を見に来るがよい。それからすぐ弟子たちに知らせに行き、<イエズスは死者の中からよみがえられた。みなに先立ってガリラヤに行かれるからそこで会える>と言え。これが私の告げることのすべてだ」。婦人たちは恐れと同時に非常な喜びを感じ、すぐ墓を去...主の復活

  • 聖アダルベルト司教殉教者 St. Adalbertus Ep. et Mart.

    聖アダルベルト司教殉教者St.AdalbertusEp.etMart.記念日4月22日中央ヨーロッパの一小公教国、チェコ・スロバキアの首府プラハは、古来文化の中心地として世に聞こえているが、それにもまして同市の誉れとなるのはヨハネ・ネポムク(5月16日)、ヴェンセスラオ王(9月28日)それに本日記念されるアダルベルト司教の三聖人を出したことである。このアダルベルトは956年同市のスラヴニクという貴族の家に生まれ、受洗の時にはヴォイテクと名付けられた。両親は始め彼に家をつがせるつもりであったが、そのまだ子供の内に大病に罹った時、付近の聖堂の聖母像の前へ連れ行き、もしこの子の病を癒して下されば、必ず聖職者にして天主に献げますと祈願をこめた所、それが聴かれたので、誓いのままにその後彼をマグデブルグ大司教座付属神...聖アダルベルト司教殉教者St.AdalbertusEp.etMart.

  • 教皇様が逝去

    教皇様が亡くなられたようです。イタリア時間で4月21日午前7時、復活祭の翌日でした。願わくば、教皇様に永遠の安息のあらんことを。また、次期教皇様に、どうぞ、最善の方が選ばれますように【速報】ローマ教皇フランシスコ(88)死去呼吸器の感染症や肺炎の治療のため2月中旬から入院…前日にはサンピエトロ広場に姿も(FNNプライムオンライン(フジテレビ系))-Yahoo!ニュースバチカンは21日、ローマ教皇フランシスコが死去したと発表しました。88歳でした。1936年にアルゼンチンのブエノスアイレスで生まれたフランシスコ教皇はイエズス会出身と...Yahoo!ニュースフランシスコ教皇死去、各国首脳らから哀悼の意【4月21日AFP】ローマ・カトリック教会のフランシスコ教皇が21日に死去したことを受け、各国の首脳らが哀悼...教皇様が逝去

  • 聖アンセルモ大司教教会博士 St. Anselmus Archiep. et D.

    聖アンセルモ大司教教会博士St.AnselmusArchiep.etD.記念日4月21日中世期の大学者大人物と讃えられる聖アンセルモは、1034年イタリアのピエモント州アオスタ市の富貴の家に生まれた。子供の頃から信心の業を好み、修道院に入って一生を天主に献げようと志した。しかし血気盛んな青年時代を迎えると、いつかそうした殊勝な考えを忘れ果て、浅はかにも放蕩に身を持ち崩すようになった。父も折々は意見したが一向にききめがない。それで思い切って厳罰を加えようとすると、アンセルモは家を飛び出してフランスへ行き、三年というものを行方定めぬ流浪の中に過ごした。けれどもそういう彼の良心もついには目覚めずにはいなかった。彼は前非を後悔し、その償いにそれからは、専心学問の研究を始め、その目的の為、当時碩学として名高かったラ...聖アンセルモ大司教教会博士St.AnselmusArchiep.etD.

  • パルザムの聖コンラド証聖者 St. Conradus a Parzham C.

    パルザムの聖コンラド証聖者St.ConradusaParzhamC.記念日4月20日聖コンラドは1818年、ドイツのバワリア州バッサウ司教区の一小村パルザムに、素朴な農民の子と生まれた。敬虔な母親の薫育よろしきを得て、幼時より聖徳の芽生えが見られ、当時は異例の7歳で初聖体拝領を許されたほどであった。小学生の頃から、もう人々の尊敬を受け、誰もその面前で無礼な言葉を用いる者はなかった。彼は小さい時分に父母を失ったから、早くから苦労をせねばならなかったが、世間の穢れに染まるような事は少しもなく、その少年時代を清い白百合のように過ごした。それは勿論彼が信心に熱心であったからで、世を離れて独り父祖伝来の田畑を守り、絶えず祈りの中に天主と霊的交通をしていたおかげである。実際彼の祈りを好む事は一通りでなく、働きに疲れた...パルザムの聖コンラド証聖者St.ConradusaParzhamC.

  • 御復活の大祝日 Dominica Resurrectionis Domini

    御復活の大祝日DominicaResurrectionisDomini春の始めの満月に続く最初の日曜日にはイエズス・キリストが死者の中より蘇り給うた事を記念する。これはキリスト教に於ける最も古くまた最も重要な祝日で、聖会の一年を連山に喩えればその最高峰とも見るべきである。昔一般信者は三日にわたり、新受洗者は洗礼の白衣を着けたまま一週間の間、主の御復活を祝った。今日においてもこれは第一級の特別週間とされ、その間毎日特有なミサ聖祭が執行される事になっている。かような事はいかなる他の大祝祭にも見られぬ所である。そして御復活節の間は毎日ミサ聖祭中にも、聖務日課中にも、聖会は「この日こそ主の造り給える日なれ。我等楽しまん。この日において喜び躍らん」と祈るのである。実際この日は全能の天主に依って設けられたものであった...御復活の大祝日DominicaResurrectionisDomini

  • 聖レオ9世教皇

    聖レオ9世教皇記念日4月19日レオ9世教皇は、聖人としての生活と軍の司令官としての生活を統合して生きた人であった。1002年に、フランスのアルサスで生まれ、コンラド2世皇帝がイタリアに侵入した時は、助祭であった。聖職者ではあったが、軍隊に入って勇ましく戦った。20年間、レオはトゥールの司教を務め、規律のゆるんだ司祭たちを厳しく取り締まり、修道院に正しい秩序をもたらした。彼が教皇に選ばれたのは1048年であった。それまでトゥール司教区の小さな範囲で行ったことを、今や全教会にわたって実行しようと思い立ち、改革するために西ヨーロッパ中を旅し続けたので、巡礼の教皇として知られるようになった。行く先々で、教皇は司教と司祭達を集めて会議を開き自分の指導に従わせた。レオ9世は、教皇庁の財政を堅固にするために、南イタリア...聖レオ9世教皇

  • 聖アポロニオ殉教者 St. Apollonius Mart.

    聖アポロニオ殉教者St.ApolloniusMart.記念日4月18日ローマ皇帝マルコ・アウレリオは聖会に峻烈な迫害を加えた。しかしその死後帝位を継いだ彼の子コモドはキリスト教徒に寛大であったので、聖会も暫く平和を楽しむ事が出来、信者の数も著しく増加し、上流の家庭からも信仰に入る者が少なくなかった。ここに述べる篤学にして容姿端麗な聖アポロニオもその中の一人であった。彼が最初聖書その他のキリスト教書を手にしたのは、ただ好奇心に駆られた為に過ぎなかった。けれどもその中に燦然と輝いている美しい真理の光は、やがて彼の心を捕らえずにはいなかった。彼はキリスト教の信仰を一層深く極める為に、聖堂に参り、司祭の教えを聞き、それにも増して度々教皇エロイテリオと語り合った。かように徹底的に研究した結果、遂に彼は聖い洗礼を受け...聖アポロニオ殉教者St.ApolloniusMart.

  • 聖ベネディクト・ヨゼフ・ラブル証聖者 St. Benedictus Joseph Labre C.

    聖ベネディクト・ヨゼフ・ラブル証聖者St.BenedictusJosephLabreC.記念日4月17日18世紀の中頃、全欧州の上流社会には一般に奢侈享楽の風がみなぎり、わけてもフランス国王ルイ14世や同15世、その貴族達は贅の限りを尽くしたものであったが、聖ベネディクト・ヨゼフ・ラブルはかかる時代に生まれて珍しくも清貧の聖さを知っていた一人である。彼は1748年3月26日、フランスのアメット村にラブル家十五子中の長男として生まれた。幼い時から智慧もすぐれ信心も深かったので、両親は将来聖職者にしようと思い、その教育を彼の伯父にあたるある司祭に頼んだ。彼はこの人に仕込まれたが、どちらかと言えば学問よりも信心の業を好み、暇さえあれば聖堂にもうでて祈りを献げ、また貧しい人々がすきで喜んでこれと交わるという風であ...聖ベネディクト・ヨゼフ・ラブル証聖者St.BenedictusJosephLabreC.

  • 聖ベルナデッタおとめ St. Bernadetta Virg.

    聖ベルナデッタおとめSt.BernadettaVirg.記念日4月16日フランスのルルドは、1851年2月21日天主の御母が14歳の一少女に現れ給うた所として、全世界に有名であるが、その御出現に就いては既にその祝日なう2月11日のくだりに記した。本日は右の少女ベルナデッタの記念日であるから、簡単ながらその生涯を物語る事にしよう。我等はそこに又、心素直にして謙遜篤信な者を選び、大事を行い給う天主の御摂理の程を伺う事が出来る。彼女は1844年前記のルルドに生まれた。幼い時は健康な子であったが、7歳頃から病身になり、その二、三年後には一度大病を患い、死ぬまで喘息の病から逃れる事が出来なかった。その上彼女の一家は大いなる試練も来た。それは予期せざる不幸から赤貧の中に沈み、住み慣れた家も去ってみすぼらしい小屋同然の...聖ベルナデッタおとめSt.BernadettaVirg.

  • 聖リドヴィナおとめ St. Lidwina Virg.

    聖リドヴィナおとめSt.LidwinaVirg.記念日4月15日我等はなぜ、また何の為に苦しまねばならぬか?これは古来人類にとって一つの大いなる謎である。この謎を解く鍵として、天主は旧約時代ヨブという聖人を世に遣わし給うたが、新訳時代に於いて同じ使命を託されたと見るべき人の中に、聖女リドヴィナがある。彼女は1380年3月18日(その年の枝の祝日)、オランダのシーダム市に九人兄弟中ただ一人の女の子として生まれた。生まれつき器量よしで、柄も年齢の割に大きかったから、12歳の時早くも結婚の申し込みがあり、長ずるにつれて益々求婚者が増えた。しかし彼女は幼時より聖母マリアを深く信心し、同様終生童貞を守るつもりであったので、降るような縁談をむしろ心憂い事に思い、なにとぞ人の心を惹かぬ身体となりますようにと常々祈ってい...聖リドヴィナおとめSt.LidwinaVirg.

  • 聖ユスチノ殉教者 St. Justinus Mart.

    聖ユスチノ殉教者St.JustinusMart.記念日4月14日第二世紀の聖ユスチノは初代キリスト教会に於ける最も有名な聖人の一人で、その事跡も聖人自身がものにした記録によって比較的明瞭に知ることが出来る。彼はパレスチナのシケムに生まれた。この町は紀元七十年ローマ皇帝ティトの軍勢が聖地に侵入のおり、エルサレム市と同じく廃墟と化したが、その後ローマ及びギリシャの移民が続々その地に入り込み、ユダヤ人を圧迫した。ユスチノの父もかかるギリシャ移民の一人であったのである。両親共にキリスト教の信者でなかったのでユスチノも偶像教の迷信を抱いて人となったが、青年時代から極めて真面目な性質で、思索を好み真理を求める心を持っていた。為に緒々の哲学者にも師事し、緒学派の書物も読んで研究したが、ストア派、ペリパテト派、ピタゴラス...聖ユスチノ殉教者St.JustinusMart.

  • 大阪万博の開会式

    昨日始まった大阪万博の開会式です。例によって、ピラミッドや目玉ですね。ここ数十年、こうした催しはいつもこうです。大阪万博の開会式

  • 己を知り、受け入れ、乗り越えよ 聖アウグスティヌス

    自分を知ること。自分を受け入れよ。そして、自分を乗り越えろ。聖アウグスティヌス己を知り、受け入れ、乗り越えよ聖アウグスティヌス

  • 聖マルティノ一世教皇殉教者

    聖マルティノ一世教皇殉教者記念日4月13日マルティノ1世教皇は殉教の苦しみを受けた最後の教皇であった。彼はイタリアのウンブリアで生まれ、聖職者として早くから重要な職務について、教皇テオドロ1世の大使としてコンスタンチノープルに赴任した。その頃、多数のキリスト信者たちが、キリストは神であるから、人間としての意志は持たないという異説を主張していた。649年に教皇に選任されたマルティノは、ラテラノ公会議を召集してこの説を排斥した。これは勇気のある行動であった。なぜならこの異説は東ローマ皇帝コンスタンティヌス2世が支持していたからである。皇帝は激怒して、病気の教皇をコンスタンチノープルへ強制的に送って、3ヶ月間、牢獄に入れた。その後、法廷で死刑の宣告を下した。コンスタンチノープルの総大司教は瀕死の状態であったが、...聖マルティノ一世教皇殉教者

  • 聖ゼーノ司教殉教者 St. Zeno Ep. et Mart.

    聖ゼーノ司教殉教者St.ZenoEp.etMart.記念日4月12日聖ゼーノはイタリアのヴェロナ市の司教で、4世紀に起こったアリオ派の異端と戦い、その害毒に滅びんとする者を救おうと努めた聖教教父達の一人である。司教になる前の事はあまり詳しく知られていないが、兎に角聖アウグスチノと同時代の人で、およそ紀元310年頃アフリカの北部に生まれ、当時大雄弁家として名声のあったカルタゴのアプレイオに師事し、修辞学その他を学んだ事がある。されば彼も弁舌文章に秀で、その説教に於いても、内容の豊富深遠なる、表現の適切巧妙なる、優に大アウグスチノに比すべきものがあると言われている。しかしゼーノの信仰や愛徳はその博学にも優っていた。彼がヴェロナ市の司教に挙げられたのは362年12月8日の事であったが、その頃アリオ派の異端は北イ...聖ゼーノ司教殉教者St.ZenoEp.etMart.

  • 聖スタニスラオ司教殉教者

    聖スタニスラオ司教殉教者記念日4月11日「正義のために迫害される人は幸せである。天の国は彼等のものだからである。」(マタイ5-10)世に信仰道徳を乱す者があれば、責任者は一身を顧みず、にがいいましめの言葉も言わねばならない。聖スタニスラオ司教殉教者も、義のために命を捧げたひとりである。彼の両親は家名、財産とも何不足ない身であったが、ただ一つさびしいのは結婚後三十年も子宝に恵まれないことだった。祈りに祈りを重ねて、ようやく1030年7月玉のような男の子を授けられた。これが後の聖スタニスラオ司教である。喜ぶ両親は我が子を将来聖職者として神に捧げることにきめ、心身両面からいたわり育てた。スタニスラオも親の期待にそい、よく祈りよく学び、国の一流校グネーゼン大学を卒業後、パリ大学に留学した。そこでもいっしんに学問に...聖スタニスラオ司教殉教者

  • 収入と資産はどちらが大切なのか?

    人において、収入と資産は一体、どちらが大切なのでしょうね。ここに、二つの考え方ができます。①収入の伴わない資産は減っていく一方である。それに対して、収入は資産を増やしていく。今、資産がなくても、収入があれば、やがて大きな資産を創ることができる。一方は時間が経てば経つほど減っていき、他方は時間と共に増えていく。よって、資産よりも収入の方が価値がある。一方で、こういう考え方もできます。②、適切に資産運用をすれば、資産はそれだけで増やしていくことができる。一方で、収入は決して将来を保証しない。なぜなら、収入は瞬間風速であり、今年の収入が来年もあるとは限らないからだ、無駄遣いしたり、盗まれなければ、存在し続ける資産と、瞬間風速に過ぎない収入とでは、優劣は明らかである。現実性において、資産は収入よりも勝っている。さ...収入と資産はどちらが大切なのか?

  • 愛することとやりたいこと 聖アウグスティヌス

    愛することとやりたいこと。黙るなら愛で黙る、叫ぶなら愛で叫ぶ、正すなら愛で正す、許すなら愛で許す。聖アウグスティヌス愛することとやりたいこと聖アウグスティヌス

  • 聖ジェンマ・ガルガニおとめ St. Gemma Galgani V.

    聖ジェンマ・ガルガニおとめSt.GemmaGalganiV.記念日4月10日ジェンマと呼ばれる聖なる婦人が二人ある。共にイタリアの人であるが、一人は始め羊飼いで後に隠遁生活を営み、1429年5月12日帰天したスルモナの聖女、もう一人は本日記念されるジェンマ・ガルガニで1933年5月14日ピオ11世教皇に列福され、1940年5月2日ピオ12世教皇に列聖された20世紀の新聖者である。このジェンマ・ガルガニは1878年3月18日、イタリアはカミリアノに生まれ、ほとんど一生を隣町であるルッカ市で送った。父は多忙な薬剤師で、子の教育を顧みる暇もなかったから、幼いジェンマは、虚弱で常に病床にあった母の枕べにおいてさまざまの事を学ぶより仕方がなかった。その頃彼女にとって最も楽しかったのは、病める母に教えられて、共に天主...聖ジェンマ・ガルガニおとめSt.GemmaGalganiV.

  • 聖女ワルトルーディス St. Waltrudis Vid.

    聖女ワルトルーディスSt.WaltrudisVid.記念日4月9日聖女ワルトゥーディスは680年今のベルギーのヘンネガウ州に生まれた。両親はフランスのメロヴィング王室の親戚にあたり、その血縁からは聖女アデルグンディス、その夫聖ヴィンセンシオ、その三子ランドリコ、聖女マデルベルタ、聖アデルトルーディス等多数の聖人を出している。ワルトルーディスは年頃を迎えると父母の希望に従って、マデルガルという貴族の一青年と結婚したが彼等は全くキリスト教的夫婦の典型ともいうべく、己の家庭の祈りの道場とし、財産は慈善事業に投じ、四人の子供は天主の愛子として清く育てた。その中一人は早く死んだが、残る三人は男を聖職者に、女を修道女にしてことごとく天主に献げた。かように敬虔な二人であったから、間もなく子供等の後を追って自らも修道生活...聖女ワルトルーディスSt.WaltrudisVid.

  • 聖ペルペトゥオ司教

    聖ペルペトゥオ司教記念日4月8日ペルペトゥオは、5世紀の中頃、フランスのトゥール市の司教になった。彼は貧しい人々を後継者として自分の財産であった牧場や森、ぶどう園、家屋、庭園、水車、金や銀、そして衣服まで、彼等に施すことを生前から遺言していた。彼が尊敬していた聖人は聖マルティノであった。マルティノは軍人で、マントを切り裂いて半分を乞食に与えた聖人である。その墓はトゥールの大聖堂の中にあったが、ペルペトゥアはこの建物を再建して、多数の巡礼者たちが宿泊できるようにした。ペルペトゥオは教区民に、教会の祝日を除く毎水曜日と毎金曜日に大斉を守るように布告に出し、なお、年間の月曜日にも数度、大斉日を定めた。彼の影響は非常に大きかったので、その死後13世紀たってから聖人の遺言書だと言って、次のような偽りの文書を作った者...聖ペルペトゥオ司教

  • 聖ヨハネ・バプチスタ・ド・ラ・サール司祭

    聖ヨハネ・バプチスタ・ド・ラ・サール司祭記念日4月7日近代教育の先駆者と呼ばれるヨハネ・バプチスタ・ド・ラ・サールは1651年フランスのランスで生まれ、10歳で司祭を志して勉強を始め27歳の時叙階された。彼は貧しい少年達の教育に身を献げることを決心して、司教座聖堂参事会員の地位と自分の家族の遺産を放棄し、献身的な教師12人を選んで従順の誓願を立て、1684年、青少年の教育を目的とするキリスト教学校修道会(ラ・サール会)を創立した。会員はごく質素な衣食住に甘んじ、ほとんど無料で青少年の教育にあたったが、新しい教授法をとった結果、学校は非常に良い評判をかち得て、各地から設立を要請された。当時行われていたラテン語の読み書きを教える代わりに、まず母国語を教えることを実行した。しかし多くの人々はヨハネを誤解し、貧し...聖ヨハネ・バプチスタ・ド・ラ・サール司祭

  • 聖ヴィンセンシオ・フェレリ証聖者 St. Vincentius Ferrerius C.

    聖ヴィンセンシオ・フェレリ証聖者St.VincentiusFerreriusC.記念日4月5日聖ヴィンセンシオ・フェレリは中世期に於いて、最も名高い説教家の一人である。彼は殆ど全欧州を歴遊して説教を試み、多大の成功を勝ち得た。しかしこの成功は決して彼の弁舌のみに依ってもたらされたものではない、むしろ彼の聖徳の然らしめた所と言えるのである。聖ヴィンセンシオは1357年の1月23日スペインに生まれた。父はワレンチア市の一公証人で、母は名をコンスタンチアと言った。このコンスタンチアとは「忍耐」という意味の言葉であるが、その名の通り彼女はいかにも辛抱強く夫と共に愛子の教育に当たり、ヴィンセンシオもよく両親や先生方の言う事を聞き、精を出して勉強しまた祈ったから、天賦の英才は存分に発揮され、学業の進歩は驚くばかり、そ...聖ヴィンセンシオ・フェレリ証聖者St.VincentiusFerreriusC.

  • 聖イシドロ司教教会博士 St. Isidorus Ep. et D.

    聖イシドロ司教教会博士St.IsidorusEp.etD.記念日4月4日聖イシドロの家はスペインの王室と縁続きであり、殊にもの聖人を出した事で名高い。イシドロの父はカルタゲナ州の総督で、母はテオドリッヒ王の後裔であった。さればこれら父祖の勇ましい血を受けた4人の子、レアンドロ、フルゲンチオ、イシドロ、及びフロレンチナが、こぞって聖人に列せられる光栄を得、前三者は司教となり、最後の妹フロレンチナは修道女となって数多の修道院を治める身となった事も、けだし不思議ではないかもしれない。長兄のレアンドロはまず修士となり、後セビリアの司教に任ぜられた。彼は自分の創立した学校で自ら末弟イシドロを教育したが、ほとんど酷と思われるまで厳格な態度で臨んだ。彼はしばしばイシドロを激しく叱責する事があった。しかしそれもイシドロに...聖イシドロ司教教会博士St.IsidorusEp.etD.

  • トランプが日本にも24%の関税を宣言!

    とっくにご存じと思いますが、トランプが世界各国に関税をかけまくっています。ついには、日本にも24%の相互関税を宣言してきました。こんなことをやって、アメリカは大丈夫なのか?と思わなくもないですが、向こうの国を心配している場合ではないですね。とりあえずは、世界中が値上げラッシュです。だって、現代は、企業も工場もグローバル化が進んでいるからです。複数の国にまたがって、企業間貿易をやりながら、部品をやりとりして、製品を組み立てるのは、今では日常です。特に、アメリカ・メキシコ・カナダ間では、多いことでしょう。アメリカが高額の関税をかければ、相手国も報復関税をかけてきます。よって、あらゆる形で物が値上がりしていきます。アメリカをまたいで商品を組み立てている場合には勿論のこと、アメリカ製の部品を使うだけでも、そのやり...トランプが日本にも24%の関税を宣言!

  • 私達が創られた目的 聖書

    私たちは神に創られた者であり、神があらかじめ備えられた善業を行うために、キリスト・イエズスにおいて創造された。エフェゾ人への手紙2章10節私達が創られた目的聖書

  • 黒人聖ベネディクト証聖者 St. Benedictus a S. Philadelpho C.

    黒人聖ベネディクト証聖者St.BenedictusaS.PhiladelphoC.記念日4月3日聖書に「神には人就きて偏り給うが如き事なし」(ローマ人への手紙2-1)とあるが、その通り天主は誤り易い人智の判断とは異なり、その底の底まで見抜き給う全知のよしとする所に従って、聖寵を分かち与え給う。これから述べようとする黒人の聖ベネディクトなどもそのよき例の一つと言えよう。この聖人は1526年イタリアのメッシナ付近に生まれた。父も母も共に奴隷階級に属する黒人であったが母は早く自由の身となり、かつその長男ベネディクトをも同様解放してもらう約束をした。身分こそ賤しかったものの両親はいずれも信心深く、我が子をも極めて敬虔な人に育て上げる事に成功した。さてベネディクトはやや長ずると、早くも牧童として牛や羊を守る仕事をさ...黒人聖ベネディクト証聖者St.BenedictusaS.PhiladelphoC.

  • パオラの聖フランシスコ証聖者 St. Franciscus de Paola C.

    パオラの聖フランシスコ証聖者St.FranciscusdePaolaC.記念日4月2日イタリアのパオラ市に住む敬虔なヤコボ・マルトリラ夫妻は子宝がないのを悲しみ、アッシジの聖フランシスコの取り次ぎによってこれを与えられん事を天主にお願いした。その甲斐あって1416年、遂に男の子を儲けたが、代願の聖人に感謝の心を表すため、その名もフランシスコと名付けた。ところがこの子が眼病に罹ったので、両親は再び聖フランシスコの取り次ぎを願い、もし治してくださったら、将来必ず貴方の修道院に入れて、天主に献げましょうと誓った。するとその眼病はたちまち全快してしまった。父は自分でも厳格な生活をしている人で、愛子にも同様厳しいしつけをした。そしてその施す所はただ宗教教育ばかりであった。フランシスコが13歳になると、父母は誓いの如...パオラの聖フランシスコ証聖者St.FranciscusdePaolaC.

  • 聖フーゴ司教証聖者 St.Hugo E.

    聖フーゴ司教証聖者St.HugoE.記念日4月1日聖人達の伝記を調べて見ると、敬虔な父母の子と生まれた人が非常に多い、例外もあるが大方は「善き木は善き実を結ぶ」という聖福音の聖言葉通りである。即ち善き親は大抵善き子を恵まれるのである。聖フーゴの両親もやはり信心深い人々であった。父は勇ましい軍人ながら、又熱心なキリスト信者で、82歳の老齢に達してから聖ブルノの修道会に入り、厳しい戒律を守って善終の準備をした。母も敬神の念に富み、フーゴを生む前天主から不思議な御示現を受けた。というのは聖ペトロが可愛い彼女の子を抱いて他の緒聖人を引き連れて天に昇り、天主の玉座にそれを献げる所をありありと見たのである。これは彼等夫婦に我が子を立派に教育せねばならぬとの訓戒にもなった。何となればその御示現によって、我が子を聖なる召...聖フーゴ司教証聖者St.HugoE.

  • 聖バルビナおとめ St. Balbina Virgo

    聖バルビナおとめSt.BalbinaVirgo記念日3月31日聖女バルビナは2世紀初めの人である。父はクイリノのいいローマ帝国の軍人で、大佐まで昇進した。父も娘も最初は偶像教の信者であったが、後には共にカトリック教に入り、二人ながら聖人の列に加えられたのは、いかにも恵まれた親子ではないか。バルビナはその少女時代器量も美しく、才能も豊かであったから、父も殊の外寵愛すれば多くの青年達も想いを寄せ、殊にその家は富んでもいたので、縁談は降るようにあった。しかし諸行無常のたとえに漏れず、思いがけなくも彼女は首に悪声の腫物を生じ、それ以来うってかわった醜い容貌となり、恥ずかしさのあまり人目を避けねばならぬほどになった。父はこれを大いに悲しみ、方々の医者にかけるやら様々の薬を試みるやら、神々に祈願をこめるやら、まじない...聖バルビナおとめSt.BalbinaVirgo

  • 聖ヨハネ・クリマコ山修士 St. Joannes Climacus Monachus

    聖ヨハネ・クリマコ山修士St.JoannesClimacusMonachus記念日3月30日第4世紀には、修道的な目的として或いはエジプト、或いはアラビアの砂漠に隠遁する信者が甚だ多かった。で、ローマ皇帝ユスチニアノは、モーゼが十戒を授かったシナイ山の付近に住むこれらの山修士等の為、その山上に一つの修道院を建てれれた。するとある日の事である、まだ16歳にしかならぬというヨハネと名乗る一少年がその修道院の門をたたいて、切に入院を請い願った。かくてその願いは一応ゆるされて、少年は修道者の群れに加えられたが、何分まだ若年でもあり、体格も極めて華奢なので、その指導を命ぜられたマルチリオ老修士も、果たして彼が長くその厳しい生活に耐えうるかと危ぶまずにはいられなかったのである。ところがヨハネ少年は入院の日から他の人々...聖ヨハネ・クリマコ山修士St.JoannesClimacusMonachus

  • 聖ヨナ、聖バラキシオ兄弟殉教者

    聖ヨナ、聖バラキシオ兄弟殉教者記念日3月29日327年、ペルシャの王シャプール2世が国中のキリスト信者たちに対してははげしい迫害を始めた。多くの信者が牢獄に入れられたので、ベト・アサ市に住んでいた2人の兄弟のヨナとバラキシオが信者を慰めるために牢獄へ出かけ、捕縛されて裁判に渡された。裁判官は彼等に、ペルシャ王を崇めると共に太陽と月、火と水も礼拝するように命じた。二人はただ愚かな者だけが、天の不滅の神の代わりに、死をまぬがれない人間を拝むのだと答えた。二人は野蛮な方法で殺された。恐ろしい責め苦の後で、ヨナのめった切りされた体はぶどうしぼり器の中に入れられて押しつぶされた。バラキシオも同じように残酷に扱われた。何百本もの芦のを切って鋭い破片にし、彼の体に突き刺した。そして地上をころがされて、長い破片が体を深く...聖ヨナ、聖バラキシオ兄弟殉教者

  • ミャンマーで大地震

    ミャンマーで大地震が発生したようです。規模はM7.7で、震源地はマンダレー付近、1分間にわたって揺れたそうです。耐震建築でもない都市で、M7.7もの超巨大地震が直下型で起こり、1分間にもわたって揺れたなら、甚大な被害が出ないでしょうか?心配です。祈りましょう。そして、何よりも、これは他人ごとではありません。日本も地震国で、いつ同じような災害に見舞われても、おかしくないのです。ミャンマーで大地震

  • 何かを欲しがる資格 聖アウグスティヌス

    自分の持っているものを与えることで、自分に足りないものを受け取る資格がある。聖アウグスティヌス何かを欲しがる資格聖アウグスティヌス

  • カピストラノの聖ヨハネ St. Joannes a Capistrano C.

    カピストラノの聖ヨハネSt.JoannesaCapistranoC.記念日3月28日14世紀末から15世紀初めにかけて、イタリアには巡回説経家と呼ばれる熱心な人々が現れ、南欧諸国を巡って、古の洗者聖ヨハネの如く世人に悔い改めをすすめ、信仰の復興を計った。それはいずれもフランシスコ会修士であるマルコの聖ヨハネやシェナの聖ベルナルディノやカピストラノの聖ヨハネ達であるが、この3人の中でも社会に対し特に広くかつ深い感化を及ぼしたのはカピストラノの聖ヨハネであろう。彼は1386年イタリアのカピストラノという小さい町に住むドイツ人騎士夫妻の間に生まれた、幼時より優れた才能を恵まれていたヨハネは、僅か14歳にして早くも大学に入り、法律を修め、26歳の若干の身でナポリ王ラジスラオの信任を蒙り、ペルージャ市長に任命される...カピストラノの聖ヨハネSt.JoannesaCapistranoC.

  • ザルツブルクの聖ルペルト司教

    ザルツブルクの聖ルペルト司教記念日3月27日ザルツブルクのルペルトは、ドイツ人ではなくフランクの人で、フランスの王チルディック3世が、彼に宣教師としてババリアに行くことを勧めた時、ウォルムスの司教であった。チルディック王がルペルトに依頼したことは、ババリア公爵テオド2世を改宗させることであった。ルペルトは改宗した公爵と共に多くの人をキリスト教徒にした。当時の宣教師は異教の寺院を破壊したりしたが、ルペルトは彼らに倣わず、それらをキリスト教会として奉献して、レーゲンスブルクとアルテッティングに礼拝の場所を作った。教会として使用できるような建物のない場所には適当なキリスト教の教会を建てた。やがて信者の数が増加し、より多くの宣教師がフランコニアから到着した。ルペルトの妹のエラントルドは、現在ノンベルグと呼ばれてい...ザルツブルクの聖ルペルト司教

  • 統一教会に解散命令

    統一教会に解散命令が出た模様です。遅すぎた感はありますが、それでも素晴らしい決定ですね。まだ地裁の判決で、今後、最高裁まで争うことになるのだろうと思いますが、是非にも確定してほしいものです。それにしても、保守派の一部が統一教会をかばうのが、不思議でなりません。彼らは伝統的に反韓で韓国が大嫌いなはずですが、どうして韓国のカルトである統一教会を庇おうとするのか。他にも統一教会は、騙した日本人に高額献金を強いたり、秘書斡旋を通じて、日本の政治中枢の秘密を汲み上げていたりしています。保守派の言葉を借りるなら、どう見ても反日の集団でしょうに・・・。おそらくは、故安倍首相支持からの反射的な行動なのでしょうが、浅はかというほか、ありません。統一教会に解散命令

  • 神を信じている人が、神の外のものを愛するなんて! 聖フィリポ・ネリ

    神を信じている人が、神の外のものを愛するなんて!聖フィリポ・ネリ神を信じている人が、神の外のものを愛するなんて!聖フィリポ・ネリ

  • 聖ルドゲーロ司教 St. Ludgerus E.

    聖ルドゲーロ司教St.LudgerusE.記念日3月26日さしもに栄華を誇ったローマ大帝国も4世紀民族移動の結果敢えなくも滅び去り、退廃を極めたこの老民族に取って代わって欧州の覇権を握ったのは、新興気鋭のフランク民族であった。かくて三百年間ローマ歴代の皇帝に、至らざるなき迫害を蒙ったカトリック教もフランク族には受け容れられて信教の自由を楽しむ事が出来るようになり、まず同民族によってドイツ、イギリス、フランス、オーストリアなどに伝えられた。しかしドイツの西北地方に棲むフリソン人等やサクソン人等はカトリック宣教師を排撃し、なかなか真理の教えに帰依しようとしなかったが、天主の御摂理は不思議なもので、この頑迷極まるフリソン人の中から一人の篤信な司教が現れ、同胞の使徒として目覚ましい活躍をし、ついにその大部分の改宗...聖ルドゲーロ司教St.LudgerusE.

  • 保守派や伝統派にありがちな陥穽 聖書

    あなたはよく忍耐して、私の名のために我慢し、疲れ果てることがなかった。しかし、あなたに言うべきことがある。あなたは初めのころの愛から離れてしまった。だから、どこから落ちたかを思い出し、悔い改めて初めのころの行いに立ち戻れ。もし悔い改めなければ、私はあなたのところへ行って、あなたの燭台をその場所から取りのけてしまおう。ヨハネの黙示録2章3-5節保守派や伝統派にありがちな陥穽聖書

  • 聖母マリアの御告げの大祝日 Frestum Annuntiationis B. Mariae V.

    聖母マリアの御告げの大祝日FrestumAnnuntiationisB.MariaeV.大祝日3月25日聖マリアの親戚聖エリザベトが懐妊して六月目の事であった。ある日大天使ガブリエルがマリアの許に現れ、「めでたし、恩寵に満てる者よ、主は御身と共に在す。御身は女の中にて祝せられた者であります」と、突然思いがけない祝辞を述べた。そのわけを知らぬマリアは大いに驚き、何事の祝辞かと思い惑っていられると、天使はまた言葉を継ぎ「ご心配には及びません。御身は天主の特別な御恩寵を得られたのであります。御身は懐胎して一子を儲けられるでありましょう。また主なる神はその御子に祖先ダビデの玉座を賜うて、ヤコブの家を限りなく治め、その治世は世々に終わる時がありますまい」と言った。それでマリアも事の次第を始めて悟られたが、彼女は同じ...聖母マリアの御告げの大祝日FrestumAnnuntiationisB.MariaeV.

  • 大天使聖ガブリエル St. Gabriel Archangelus

    大天使聖ガブリエルSt.GabrielArchangelus記念日3月24日救い主イエズス・キリストは弟子達を選び給う時之に向かって「誠にまことに汝等に告ぐ、汝等は天開けて神の使いたちが人の子の上に上り下りするのを見るであろう」(ヨハネ1-51)と仰せになった。主はこの聖言を以て御自分が天使達と親しく交わり給う事を示されたのである。実際聖福音書をひもとけば、天使達が現れて主にお仕えした例が少なからず発見されるが、中でも本日祝う大天使ガブリエルの如きは、最も聖主と深い関係を有し、特別な使命を委ねられた方と言うことが出来よう。ガブリエルはまず聖書にその名を記された三大天使の一位であって、又ラファエルの如く主の御前に立つ七天使の一位でもある。従って彼は天使の九階級中最上の階級に属し、「天主の力」という意味のガブ...大天使聖ガブリエルSt.GabrielArchangelus

  • 聖グイニア殉教者

    聖グイニア殉教者記念日3月23日聖パトリックが5世紀にアイルランドを改宗させようと努力していた時、クリト王の宮廷で侮辱され、追い出されたことがあった。しかし王子のグイニアは父王よりも礼儀正しく、まだキリスト教徒ではなかったが、パトリックの信心深さを認めて、自ら立ち上がって自分の椅子を彼に差し出した。後に狩りをしながらキリスト教について考え、ついに信者となった。そして自分の馬を手放して隠修士として暮らし始めた。クリト王の死後、彼は宮廷に帰ったが、王位にはつかずに、770人の男女の信徒(改宗した妹のビアラも含めて)を集めて、ウェールズとブリタニーにキリスト教を広めた。ブリタニーのプビグナーで聖人が行ったと言われる奇跡の一つは動物に対する愛を示すものであった。水が不足したので聖人が地面を打ちたたいたところ、3つ...聖グイニア殉教者

  • スウェーデンの聖女カタリナ乙女 St. Catharina a Suecia V.

    スウェーデンの聖女カタリナ乙女St.CatharinaaSueciaV.記念日3月22日一口に善と言っても、天主の御命令を果たした善もあれば、その御勧告に従った善もある。御命令の場合には之を怠れば罪になるが、御勧告の場合には従わずとも別に罪にはならぬ。しかし従えば特別の功績となるのである。本日語らんとするカタリナはかような功績を立てた聖女であった。彼女は聖女ビルジッタの四女で1331年北欧スウェーデンに生まれた。母は彼女の為を思い、7歳の幼時に之を手放し、リセベルグの修道院に入れて教育する事にした。後カタリナは同院に於いて、自ら望んで終世童貞を守る誓願を立てたが、それと知らぬ父は独断で彼女をエドガーと呼ぶ貴族の一青年の妻とする取り決めをしてしまったのである。これを聞いて驚いたのはカタリナである。彼女は父に...スウェーデンの聖女カタリナ乙女St.CatharinaaSueciaV.

  • フリューエの聖ニコラス

    フリューエの聖ニコラス記念日3月21日1481年、スイス連邦は崩壊しかけていた。戦争でほとんどの敵を敗北させたが、戦利品の分配の仕方や、フリブールとソルールとを連邦の中に入れるべきか否かの問題についても争っていた。その時、相談を持ちかけられたのは、ランフト村の聖堂の近くの小屋に住んでいた64歳の老隠修士のニコラス・フォン・フリューエであった。彼は読み書きも出来なかったが、スイスでは最も賢明な人物とみなされていたのである。聖人の勧告により、代表者達は有名なスタンスの布告を作り上げた。それは、国の平和と一致を救うものであった。彼はウンターワルデン近くの豊かな土地に生まれ、初め農業をしていたが、後に軍隊に入ってチューリッヒと戦い、14年後には司令官として再び戦った。敬虔な女性ドロテア・ウィスリングと結婚して10...フリューエの聖ニコラス

  • 聖クトベルト司教 St. Cuthbertus Ep.

    聖クトベルト司教St.CuthbertusEp.記念日3月20日聖クトベルトは7世紀英国に生まれた人である。当時英国は純然たるカトリック教国で、国王御自身率先して聖会のため尽くされるという有様であったから、教勢の盛んな事言うばかりなく、聖人数多排出し、他国へ布教に赴く宣教師も夥しい数に上ったのである。クトベルトの生まれ故郷はイングランドの田舎町であったが、彼は早くより修道に志し651年メイルロス修院に入り。イータ修院長の指導の下に鋭意徳に励み、司祭となり副院長に選挙され、一院の修士達は勿論、付近の信徒達をも指導し、多大の尊敬を受けた。661年メイルロスにペストが発生し、勢い猖獗を極めるや、彼は身を挺して患者の救済につくし、為に自分も罹病したが、天主の御加護か奇跡的に全快し、その後は国内諸々を巡回して教えを...聖クトベルト司教St.CuthbertusEp.

  • キリストの御養父 聖ヨゼフ St. Joseph, sponsus B. Mariae V

    キリストの御養父聖ヨゼフSt.Joseph,sponsusB.MariaeV.祭日3月19日世には、他の草葉の間や木陰などに隠れて人目にはつかぬものの、奥ゆかしい芳香をあたりに漂わせ、日足の高くなるままに益々その匂いを強めて、ついには付近の大気全体を馥郁と薫らしめるような花があるが、聖ヨゼフもそういう花の一つに喩えるべき方であった。彼は人も知る如く、救い主の御養父であり天主の御母の保護者であるが、彼について福音書中に記された所は甚だ少ない。そして世人も謙遜な聖人の生前には別に注意を払わなかったが、ただその黙々と積まれた聖徳の光は、いつまでも埋もれてはいず、殊にイエズス・キリストによって福音が伝播せられるにつれ、その御養父の徳も次第に世に知れ渡り、衆人の讃仰を集めるにいたったのである。聖ヨゼフはダビデ王家の...キリストの御養父聖ヨゼフSt.Joseph,sponsusB.MariaeV

  • エルサレムの聖チリロ総主教教会博士 St. Cyrillus Hierosolymit. Patriarcha et D. E..

    エルサレムの聖チリロ総主教教会博士St.CyrillusHierosolymit.PatriarchaetD.E..記念日3月18日同じくチリロ総主教教会博士と呼ばれる聖人に二人ある。共に3世紀に生まれ、アリオ派の異端者に苦しめられつつもその謬説と闘った人であるが、一人は2月9日に記念されるアレクサンドリアの聖チリロで、他は本日祝われる聖チリロである。このチリロは西暦315年頃生まれた。20歳までは退いて宗教研究に精魂を打ち込み、聖書はおろか教父の著書なども余す所なく調べ究め、傍ら異端説なども一渡り研究していよいよ聖教の真理なるを悟った。19歳の時エルサレムの司教マカリオに選ばれて助祭となり、信者等に説教したり求道者を導いたりしたが、彼の教え方が如何に諄々として痒いところへ手が届くようであったかは、その求...エルサレムの聖チリロ総主教教会博士St.CyrillusHierosolymit.PatriarchaetD.E..

  • 財務省解体デモ

    財務省解体デモが盛んですが、その趣旨には私は賛成ではありません。理由は今まで、何度も書いたとおり、私はMMTには懐疑的だからです。財務省解体デモは、日本では10年前から広まり始めたMMTを論拠にしており、簡単に言えば、国が減税をし(特に消費税廃止)、お金を発行することでその穴埋めすれば、国民は豊かになるし、消費も喚起されるし、国も困らないと主張しています。正確には、国債を発行して、間接的に日銀に買わせる等、もう少しだけ複雑なプロセスを経るのですが。それがどうして無理筋なのかは、これまでに何度も書きました。日本の累積債務は総額でもGDP比でも世界第2位であること、金利を上げたら、日銀の資産である過去に発行した日本国債の評価額が下がり、ある段階で債務超過してしまうこと、高額で非一過性と見られる債務超過は通貨の...財務省解体デモ

  • 主は見せびらかすために来たにあらず 聖アタナシウス 『受肉について』

    主は見せびらかすために来られたのではありません。主は苦しんでいる人を癒し、教えるために来られたのです。見せびらかしたいと思う人にとっては、ただ現れて見る人の目をくらませることだったでしょう。しかし、癒しと教えのために来られた方にとっての道は、単にここに留まることではなく、ご自分を必要とする人々の自由になることであり、彼らがそれを受け止める能力を超えて神の出現の価値を損なわないように、彼らの耐えられる範囲内で顕現されることであったのです。聖アタナシウス『受肉について』主は見せびらかすために来たにあらず聖アタナシウス『受肉について』

  • 長崎の信徒発見記念日 BeataMaria Virgo de inventione christianorum

    長崎の信徒発見記念日BeataMariaVirgodeinventionechristianorum記念日3月17日聖母マリアは世界各国の中でも、殊更我が国を愛し、その国民のため天国に於いても、特別の配慮を以て御子イエズスに執り成し給うのではなかろうか。我等はそう信じたい。そしてそう信ずる理由もあながちない訳ではないのである。400年前聖教がはじめて日本に伝来して以来、我が国民は始終聖母に対し絶大な尊敬を献げて来た。禁教時代の歴史を見ると、信者達が殉教の場へ臨むにはいつもロザリオを爪繰ったり、聖マリアのれんとうを唱えたり、或いは聖母が御自ら口にし給うた「マグニフィカト」を歌ったりしながら歩みを運んだと記してある。之によっても当時のカトリック信者が聖母マリアに対していかに深い信心を有していたかが察せられるで...長崎の信徒発見記念日BeataMariaVirgodeinventionechristianorum

  • 聖ヘリベルト大司教 St.Heribertus Archep.

    聖ヘリベルト大司教St.HeribertusArchep.記念日3月16日古来政治家にして聖人となった人は割合に少ない。しかしかかる人は何れも君主に忠実で、人民を憐れみ、国家を安寧幸福に導く。聖ヘリベルトもそういう偉大な人物の一人であった。彼は970年頃ドイツ中央ウォルムス市の侯爵家に生まれ、同地司教座聖堂付属学校で教育を受け、後ロートリンゲン州ゴルゼにあるベネディクト修道院で研究を続け、帰郷後間もなくヒルデバルト司教に叙階されて大聖堂の主任司祭となり、傍ら同地にあるイタリア政策局に勤めることになった。その内にドイツ皇帝オットー三世がウォルムスに行幸の際、彼ヘリベルトは見いだされて侍従に任ぜられ、その後は常に皇帝に随従して奉仕する身となった。他の侍従達はその官職地位を利用して、殆ど私利を計らざるはなっかた...聖ヘリベルト大司教St.HeribertusArchep.

  • 聖ルイズ・ド・マリアック修道女 St. Ludovica de Marillac, Vidua

    聖ルイズ・ド・マリアック修道女St.LudovicadeMarillac,Vidua記念日3月15日カトリック教会はいつの時代にも、貧民病者その他救済を要する人々の間で、慈善のために働くことを人類の福利に資する己が事業中の珠玉と目して来た。かかる不幸な人たちに対するこの愛は、天主の浄配たる教会が、その聖なる創立者から、結納として贈られたものである。この博愛の活動は始め幾世紀の長い間、どちらかと言えば個人の手で多く行われたのであったが、後次第にこの方面の活動を旗印とするいろいろな信心会が出来、ついにはそういう修道会まで起こるに至ったのであった。17世紀には聖ヴィンセンシオ・ア・パウロが博愛の姉妹会と称する、病者看護の大規模な一つの会を創設した。その協力者として大なる功労のあったのが、1934年3月11日ピオ...聖ルイズ・ド・マリアック修道女St.LudovicadeMarillac,Vidua

  • 聖マチルダ皇后 St. Mathildis Vidua

    聖マチルダ皇后St.MathildisVidua記念日3月14日聖マチルダ皇后は9世紀の末にドイツ、ウエストファーレン州のテオドリコ侯爵家に、もとデンマークの王女ラインヒルヂスを母として生まれた、当時は子供を修道院に託して教育を授けるのが上流社会の習慣であったから、彼女もそれに従って叔母が院長を勤めているヘルフォルド女子修道院に預けられ、一般必要な知識と共に宗教もよく教え込まれ、敬虔に生い立ったのである。その内に彼女は若くしてサクソニア候ハインリッヒと結婚し、夫婦仲も睦まじく三男二女を挙げた。その結婚後ちょうど三年目の912年の事である。ドイツ皇帝コンラド一世が崩御になり、ハインリッヒがその後継者に推戴され、したがってマチルダも国母と仰がれる身となったが、謙遜な彼女は少しも高ぶる色なく、かえって貧者に恵み...聖マチルダ皇后St.MathildisVidua

  • 聖オイフラシア修道女 St. Euphrasia Virgo

    聖オイフラシア修道女St.EuphrasiaVirgo記念日3月13日7歳にして修道女となるとは甚だ珍しい例であるが、オイフラシアは之を実行した聖女であった。彼女は380年、東ローマ帝国の首府コンスタンチノープルに生まれた。父は宮廷に仕える高官でアンチゴノといったが彼女の誕生後一年にして世を去った。母は東ローマ教会で聖女と崇められているほどの人で、夫の死んだ頃はまだ年も若かったからしきりに再婚を勧められたけれど、故人を偲び遺児の為を思っては、到底そうした気持ちになれず、かえって世間をうるさいものに思い、縁談を断って娘と共に亡夫の財産のあるエジプトに退いた。それから未亡人は諸々を巡り、或いは聖人隠者に道を聞き、或いは慈善の業を行いなどしていたが、たまたま一修道院の童貞方の厳しい生活振りに感心し、その後は同院...聖オイフラシア修道女St.EuphrasiaVirgo

  • 聖マクシミリアノ殉教者

    聖マクシミリアノ殉教者記念日3月12日275年23歳のマクシミリアノは、ローマの軍隊に入るのを許否したので、法廷に引き出された。兵士の多数は志願制であったが、退役軍人の息子は徴兵として戦わねばならなかった。父ファビウス・ヴィクトールは、息子と同じくキリスト信者になったので、息子の徴兵拒否を支援した。法廷はアルジェリアのテベサで開かれた。軍役を拒否する者は死刑に処せられることになっていたので、緊張がみなぎった。賢明な裁判官ディオンが尋問した「他のキリスト信者たちは、兵士として服役している」。マクシミリアノは答えた「それは彼等の自由で、私のことではありません。私もキリスト信者です。しかし、兵士になることはできません」。ディオンはマクシミリアノの父に向かって「あなたの息子を正常にしなさい」と言ったが、父は答えた...聖マクシミリアノ殉教者

  • ボローニャの聖カタリナ修道女 St. Catharina de Bologna Virgo

    ボローニャの聖カタリナ修道女St.CatharinadeBolognaVirgo記念日3月11日聖女コレタ(記念日3月6日)がフランスにその高徳を謳われていた頃、イタリアにも同じく聖徳に秀でていた一女性があった。それは聖クララの跡を踏む修道女、聖カタリナである。彼女は1413年9月8日聖マリア御誕生の祝日に呱々の声を挙げた。父母は共に貴族の家柄で、学徳並び備わった人々であった。さればその血を承けたカタリナが早くから才知の鋭い閃きと善徳への強い傾向を示したのも敢えて不思議ではない。9歳の時彼女はフェララ候の懇望に従いその城中におくられ、候の息女エリザベトと共に教育されることになった。この二少女は仲も良く互いにふさわしい相手であったが、わけてもカタリナの信心の深さと知識の進歩の速やかさはあらゆる人々を驚かせず...ボローニャの聖カタリナ修道女St.CatharinadeBolognaVirgo

  • セバステの40聖人殉教者 Sts. 40 Martyres de Sebaste

    セバステの40聖人殉教者Sts.40MartyresdeSebaste記念日3月10日烈しい吹雪にも喩えるべきローマ帝国に於けるキリスト教の迫害は、313年コンスタンチノ大帝の御代に終息し、聖会には一陽来復、信仰の春が廻って来た。けれどもその信仰の自由が比較的長く許されていたのは西ローマ帝国に於いてであって、東ローマ帝国に於いては間もなく又皇帝チリニウスの禁教迫害が始まったのである。その迫害は当初は密かに行われたが、やがて公然となり、信者達の中にはその圧迫に堪えかねて棄教した者も少しはあったけれど、また深山幽谷に身を潜め、荒れ野の果てに身を隠して信仰を全うした人もあれば、官憲の暴虐にも屈せず栄えある殉教の冠を戴いた勇士もある。次に記すセバステ町(今のアルメニア地方に在る)の四十聖人殉教者の如きはその最も著...セバステの40聖人殉教者Sts.40MartyresdeSebaste

  • ローマの聖フランシスカ修道女 St. Francisca Vid.

    ローマの聖フランシスカ修道女St.FranciscaVid.記念日3月9日世にローマの聖寡婦フランシスカとして知られているこの聖女は、その呼び名の如くローマで育ち、ローマ市民の為に尽くしてローマで死去した生粋のローマっ子であった。またその霊名フランシスカは、彼女の両親がアッシジの聖フランシスコを大方ならず尊崇していたに由来するものであるが、名は体を表すとやら、貧者に対する同情に篤かった点に於いてフランシスコにごく酷似じているのも一奇である。彼女は1384年ローマの貴族の家に呱々の声をあげた。両親共に熱心な信者で、殊に教皇庁の為に少なからず尽くす所があったという。フランシスカはそういう親の子と生まれて、幼少の頃より善い感化を受け、聖母マリアの小聖務日課その他の祈りも母と共に唱え、また彼女に連れられてローマの...ローマの聖フランシスカ修道女St.FranciscaVid.

  • 聖ヨハネ・ア・デオ証聖者 St. Joannes de Deo C. 聖ヨハネ病院修道会創立者

    聖ヨハネ・ア・デオ証聖者St.JoannesdeDeoC.聖ヨハネ病院修道会創立者記念日3月8日聖ヨハネ・ア・デオ、即ち「天主の聖ヨハネ」とは、この聖人がその改心後、全く天主の御旨のままに生きられた所からそう呼ばれるのであるが、彼はまた聖会に於いて聖ヴィンセンシオ・パウロと共に慈善事業を目的とする修道会の創立者として有名な人である。彼ヨハネは1495年ポルトガルの一小村モンテモール・ノヴォに生まれた。父母は極めて信心深い人々であったが、若い頃のヨハネは両親に似ず、あまり信仰熱心でもなく、冒険心好奇心が強く、むしろ悪に流れやすい方であった。それが始め大した罪悪にも陥らずに済んだのは、全く彼の唯一の美点、聖母マリアに対する尊敬心の深かったに依るものであろう。7歳の時彼は、ふとスペインの旅人から聞いたその国の有...聖ヨハネ・ア・デオ証聖者St.JoannesdeDeoC.聖ヨハネ病院修道会創立者

  • 聖ペルペトゥア、聖フェリチタス両聖女殉教者 Sts.Perpetua et Felicitas MM

    聖ペルペトゥア、聖フェリチタス両聖女殉教者Sts.PerpetuaetFelicitasMM記念日3月7日聖会初代の殉教者中特別有名なのは、ペルペトゥア、フェリチタス両聖女であろう。その為両聖女の名前は毎日のミサ聖祭中に唱えられる事になっている。西暦202年ローマ皇帝セプチモ・セヴェロは全国にユダヤ教及びキリスト教の禁令を公布した。その内ユダヤ教の方は間もなく信教の自由を許されたが、キリスト教の方は益々圧迫が甚だしくなるばかりで、分けてもアフリカに於ける迫害は残忍過酷を極めたものであった。かくて203年か204年に法官ミヌチオの前に引き出された聖教志願者の中にはサトゥルニノ及びセクンドゥロという二人の奴隷や弁護士レボカート、その妹で既にさる人に嫁いでいたフェリチタス、また貴族の出であるペルペトゥアという夫...聖ペルペトゥア、聖フェリチタス両聖女殉教者Sts.PerpetuaetFelicitasMM

  • 聖コレタ修道院長 St. Coletta V.

    聖コレタ修道院長St.ColettaV.記念日3月6日老年まで子供を恵まれなかった夫婦が、熱心に祈った結果、首尾よく子宝を得たという話は、聖書にも幾つか記されているが、聖女コレタの両親もその通りで、長い間の念願が遂に叶って一人の女の子を産んだのは、母が60歳の時の事であった。そのコレタという名は、ニコレッタ、即ち「小さいニコレア」の略称で、常々聖ニコラオを一方ならず尊敬していた親達が、同聖人にあやかれとわざわざ愛児につけたものである。彼女の父は大工で、家はフランスのコルビーにあった。コレタは祈りの結果出来た子である為か、幼い時から祈りが大好きであった。そして祈りを好んでよくこれをなす霊魂には、必ず従順、貞潔、謙遜、隣人愛などの諸徳が現れて来るもので彼女の場合もそうであった。その上コレタは花のような艶麗な器...聖コレタ修道院長St.ColettaV.

  • クレモナの聖エウゼビオ

    クレモナの聖エウゼビオ記念日3月5日エウゼビオが聖ヒエロニモにローマで初めて会った時、ヒエロニモはダマソ教皇の秘書をしながら、厳しい修徳の道を人々に説教していた。エウゼビオはこの厳格な聖書学者に心を惹かれて、彼に従って聖地に行った。途中のアンチオキアで、ヒエロニモの友人であった聖女パウラとその娘の聖女エウストキウムが加わり、4人は、イエズスが地上で過ごされた地所を巡礼し、最後に、ベトレヘムで住むことに決定した。ヒエロニモは、非常に貧しい人々が多数ベトレヘムに来ることに感動して、彼等のために宿舎を建てることに決め、エウゼビオをダルマチアとイタリアに送って資金を集めさせた。聖女パウラは、このためにローマの土地を売り、エウゼビオもクレモナの自分の土地を売って助けた。400年にエウゼビオはクレモナに帰り、死ぬまで...クレモナの聖エウゼビオ

  • 聖カシミロ王子証聖者 St. Casimirus C.

    聖カシミロ王子証聖者St.CasimirusC.記念日3月4日聖カシミロは偉大な国王の王子に生まれて童貞の願を立て、死に至るまで忠実にそれを守った聖人である。彼の父はポーランドの王カシミロ4世で、母はオーストリア皇帝アルベルトの皇女であった。彼女は極めて信心深い婦人で、薫陶よろしきを得、子供等も皆天主に対する畏敬の念を持って育ったが、聖カシミロも幼少の時から彼女に仕込まれ、殊に聖母への尊敬と貞潔の尊さを深く心に植え付けられた。6歳の時からは有名な司祭に師事し、色々な学問、分けても宗教をよく教え込まれた。1471年彼の兄がボヘミアの王になった。すると隣国ハンガリーの人民も、かねがね国王マチアス・コルヴィンに不満を抱いていたので、彼を廃しその代わりにポーランドの一王子を奉戴しようとした。そこでポーランド王はカ...聖カシミロ王子証聖者St.CasimirusC.

  • 聖クネグンディス皇后 St.Cunegundis V.

    聖クネグンディス皇后St.CunegundisV.記念日3月3日篤信の信者は身の貴賤貧富にかかわらず、天主の聖寵の助けによりその霊魂に見事な実を結ぶ。聖女クネグンディスはドイツ国皇后という高い地位に昇ったのみならず、その両親も王侯の家柄であった。皇帝や皇后で聖人と崇められる方は外にもないわけではないが。聖クネグンディスは徳に広く世に知られている一人である。彼女は信心深いキリスト信者の父母に薫陶されて敬虔に生い立ち、また王侯の息女たるに恥じぬ教育も授けられた。年頃になるとクネグンディスはバワリア王に望まれてその皇后になる事となり、盛大な結婚式もあげた。所が彼女は、前から童貞の誓願を立てていたかどうかは定かではないが、結婚式の後、良人たる王に天主に清い心を以てお仕えする為一生童貞を守りたいと申し出たのである。...聖クネグンディス皇后St.CunegundisV.

  • トランプとゼレンスキーが口論し決裂(動画あり)

    トランプ大統領とゼレンスキー大統領が、公開で口論になり、会談は決裂したようです。いろんな意味で、相互の認識の違いが出ていますね。ウクライナがどうして「ありがとう」と言わないのか、常識的に考えれば、とても不思議なのですが、歴史を紐解くと、納得もできたりもします。そういえば、約80年前、ロシア人やウクライナ人は、スターリンの下でドイツ軍と戦っていました。彼らは決してアメリカに感謝をしなかったのだそうです。なぜなら、アメリカが弾薬やトラックをソ連に供給する代わりに、ソ連兵は何百万人という膨大な犠牲を出しながら、ドイツ軍と戦っていたから。ノルマンディーまでの4年間、ドイツ軍の殆どをソ連一国だけで引き受けていたから。ソ連兵は「アメリカは、コンビーフの缶詰で、ロシア人(ウクライナ人も)の血と肉を買っている」と愚痴った...トランプとゼレンスキーが口論し決裂(動画あり)

  • 信仰の闘いを戦い抜け 聖書

    信仰の闘いを立派に闘い抜いて、永遠の命を獲得しなさい。テモテへの手紙一6章12節信仰の闘いを戦い抜け聖書

  • 聖ヘンリー・スーソ修道者

    聖ヘンリー・スーソ修道者記念日3月2日ヘンリー・スーソは、1295年スイスで生まれ、15歳の時、コンスタンス市のドミニコ会修道院に入ったが、非常に苦しい霊的生活を経験し、神との神秘的な一致によって心の平和を得ることができた。彼は偉大な説教家で、多数の改宗者があった。しかし嫉妬心に燃えた敵もいて彼を苦しめた。一人の子供がスーソに盗みと涜聖の罪を着せた時、数人の大人たちは子供の言うことを信じた。捨て子を拾って助けると、その子の父親だと誤解されたり、毒物を人々に与えたり、奇跡を行うふりをしたなどという根も葉もないうわさを立てられたりした。ある日一匹の犬が一枚の布を加えて遊んでいるのを見て、スーソは、次のように書いた。「私は考えた『この布は、犬のしたい放題に勝手にさせている。悪く取り扱われているのだ』と。それから...聖ヘンリー・スーソ修道者

  • 聖スイトベルト司教 St.Suitbertus E.

    聖スイトベルト司教St.SuitbertusE.記念日3月1日英国では今からおよそ1200年前に、イングランド及びアイルランドの宣教師達が、かかるこの世の国ではなく神の御国を広めるために、盛んに活躍したものである。イングランドの南部はもとローマ帝国の植民地で、かなり早くキリスト教が伝えられたから、程なくイングランドからは宣教師が続々と外国、殊にドイツ、オランダ、スイスなどへ布教に赴くようになった。その中に聖ウイリブロルドという人があったが、彼は幾人かの宣教師等を引き連れ、紀元690年オランダのフリースランドに乗り込んだ。聖スイトベルトもその時彼と行を共にした一人であったのである。勿論その地でも十分働き甲斐はあるに相違なかったが、その辺は当時フランス領で王は既にキリスト教を奉じていたから、スイトベルトはまだ...聖スイトベルト司教St.SuitbertusE.

  • 聖ヒラロ教皇

    聖ヒラロ教皇記念日2月28日449年にエフェソで司教会議があったが、あまりにも荒れたので、教皇レオ1世は盗賊的司教会議と呼んだ。教皇の2人の使節は話すことを禁じられた。コンスタンチノープルの総大司教フラヴィオは押し倒され、蹴られたり打たれたりして殺されたが、教皇使節の一人であったヒラロは逃げ出して無事にローマに帰ることができた。ヒラロは福音史家聖ヨハネの特別な保護によって助けられたことを信じて、ローマの聖ヨハネ・ラテラノ教会の中に感謝のしるしとして礼拝堂を建て、「解放者の福音史家聖ヨハネへ、キリストの僕で教会の司教のヒラロより」という言葉を記した。461年にレオ1世教皇が亡くなったとき、ヒラロが後を継ぎ、教会の自由を守るために全力を尽くし、国の最高権力者をも恐れずに公に非難した。帰天したのは468年であっ...聖ヒラロ教皇

  • 聖ガブリエル・ポセンティ修道者 おん悲しみの聖母のガブリエル

    聖ガブリエル・ポセンティ修道者おん悲しみの聖母のガブリエル記念日2月27日イタリアの小都市アッシジが全世界にその名を知られるに至ったわけは、申すまでもなく13世紀にあの清貧の使徒、修道会の創立者として有名な聖フランシスコがその町から出た為であるが、19世紀に至ってアッシジ市は更に宗教的一偉材を生んで光栄を新たにした。それは聖ガブリエル・ポセンティで、多くの点、殊にその快活な性質、完徳への熱心、突然の改心等において、かれが郷里の先輩フランシスコに酷似しているのは、まことに興味のあることと言わねばならない。聖ガブリエル・ポセンティは1838年3月1日、前述のようにアッシジ市に生まれ、俗名をフランシスコと言った。兄弟は沢山あり、彼は13子中の第11子にあたっていたのである。父はアッシジ市の市長であり、母アグネス...聖ガブリエル・ポセンティ修道者おん悲しみの聖母のガブリエル

  • コルトナの聖女マルガリタ

    コルトナの聖女マルガリタ記念日2月26日「ひとりの罪人が悔い改めれば、悔い改めの必要のない99人の義人より天ではいっそうの喜びがあろう」(ルカ15-7)。神の無限の慈悲によって教会はどんな極悪人にでも本人が望めば救いの門を開く。聖女マルガリタは、若い頃の美しさがあだとなって転落したものの、ひとたび恩恵の光に打たれてからは全く人が変わったように神を愛し、これに仕えて罪を償い、人類社会によい影響を及ぼした。彼女は、1247年、イタリアのコルトナに生まれた。両親は善良な農民だったが一人娘のマルガリタをかわいがるあまり、別に信仰にもとづいて厳しくしつけることもしなかった。そのうえ、彼女は目の覚めるような美人だったので人々にちやほやされるままに衣服を着飾り、浮かれまわった。実母の死後、少女マルガリタは継母に育てられ...コルトナの聖女マルガリタ

  • 聖ワルバーガ修道院長

    聖ワルバーガ修道院長記念日2月25日ワルバーガは、イギリスのデポンシャの領主の娘として生まれ、ドーセットの修道院で教育を受けてそこの修道女になった。8世紀のイギリスは、熱心な宣教の中心地とも言えた。聖ボニファチオは、ドイツの改宗の為にイギリスの修道士や修道女に呼びかけたので、ワルバーガと兄のウィンバルトはそれに答えて2年間ビショスハイムでワルバーガが教理を説くと共に、医術で異教徒を助け、ウィンバルトはハイデンハイムに男性と女性のための修道院を創立して、自分は修道士を指導し、妹を修道女の長上とした。ウィンバルトが亡くなった時、ちょうどアイヒシュテットの司教であったもう一人の兄が、ワルバーガを修道士と修道女の2つの修道院長に任命した。779年にワルバーガは亡くなったが、彼女の名声はたちまちヨーロッパ中に広まっ...聖ワルバーガ修道院長

  • 聖エセルバート王

    聖エセルバート王記念日2月24日カンタベリーの聖アウグスチノがイギリスに到着したとき、彼はケントのエセルバート王の助けを非常に望んだ。王はキリスト教徒と結婚していたが、自分はまだ異教徒であった。とはいえ親切な王であった。アウグスチノとその従者たちを、もしかすると魔法使いではないかと恐れたエゼエルバート王は、彼らを室内に入れなかった。万が一、逃げる場合のことを考えたからである。それでタネット島の野外で会見が行われることになった。アウグスチノと従者たちは銀の十字架とイエズスの姿が描かれた板を持って近づき、自分たちとイギリス人の救霊のために祈った。エセルバート王はていねいに言った、「あなた方の言葉と約束は真に立派であるが、私にとっては新しくて異様である。私はそれを受け入れることも出来ないし、全イギリス人が長年信...聖エセルバート王

  • 聖ポリカルポ司教殉教者 St. Polycarpus E. et M.

    聖ポリカルポ司教殉教者St.PolycarpusE.etM.記念日2月23日火に近づけば近づくほど、その熱を受ける事も甚だしい。されば火のような信仰の持ち主であった使徒達の直弟子が、衆に勝れた熱烈な信仰を有していたのも不思議ではあるまい。一昨日の所に記した聖パウロの愛弟子聖テモテオなどもその一例であるが、本日此処に語ろうとする聖ポリカルポも同様に、主の最愛の使徒であった聖ヨハネの弟子で、恩師の名を恥ずかしめぬ信仰の勇士であった。聖ポリカルポの生い立ち、その他年少の頃の事は別に知られていない。知られているのは彼が使徒聖ヨハネの掩祝を受けて、スミルナの司教に挙げられた時からである。その後彼の感ずべき言行の数々は、彼の弟子なる聖イレネオの言葉にも、また彼の親友で107年に殉教したアンチオキアの司教聖イグナチオが...聖ポリカルポ司教殉教者St.PolycarpusE.etM.

  • 聖ペテロの使徒座

    聖ペテロの使徒座祝日2月22日およそ座には三種類のものがある。第一に、王たる尊厳の座である。「ダビデは、座についていた」と書かれている座のことである。第二は、司祭たる尊厳の座である。「そのとき、祭司エリは、座にすわっていた」と書かれている座である。第三は、教師の座である。「律法学者とパリサイ人とは、モーセの座にすわっている」と書かれている座のことである。聖ベテロは、これらすべての座をしめていた。第一の座は、彼がこの世のすべての王たちの王であったから、第二の座は、役がすべての司祭たちのうえに立つ牧者であったから、第三の座は、彼が全キリスト教徒の教師であったからしめていたのである。教会は、聖べテロが教座を定めた日を祝日として祝う。なぜなら、記録に残っているように、この日聖ペテロは、非常な栄誉をもってアンティオ...聖ペテロの使徒座

  • 聖ペトロ・ダミアノ司教教会博士 St. Petrus Damiani E. et Doct.Eccl

    聖ペトロ・ダミアノ司教教会博士St.PetrusDamianiE.etDoct.Eccl記念日2月21日主イエズス・キリストの聖言に「汝等は世の光なり。(中略)汝等の光は人の前に輝くべし」(マテオ5-14,16)とあるが、中世紀の有名な教父、聖ペトロ・ダミアノ枢機卿こそは、まことにその熱烈な信仰と博識な知識を以て、冷淡不信の暗黒に迷っていた当時の人々を松明のごとく照らし、これに正しい途を示した「世の光」であったと言えよう。彼は1006年、イタリア、ラヴェンナ市の貧しい日傭取りの息子として生まれた。9歳の頃既に両親を失ったので、最初長兄の手で養育されたが、この人はあいにく冷酷な性質で、彼を邪魔者扱いしたため、司祭の職にあった次兄が見かねてやがて手元に引き取り、愛を以て育てる傍ら自ら初等教育を施した、そのうち...聖ペトロ・ダミアノ司教教会博士St.PetrusDamianiE.etDoct.Eccl

  • レオニッサの聖ヨゼフ証聖者 St Josefus a Leonissa

    レオニッサの聖ヨゼフ証聖者StJosefusaLeonissa記念日2月20日西暦1556年北イタリアのミラノ市で聖フランシスコの流れをくむカプチン会修道者フェルノのヨゼフという一司祭が逝去した。この人は欧州に盛んな「四十時間の御聖体訪問」という信心の業をはじめて提唱したので知られているが、それはその名の如く、信者が聖堂を訪問し、四十時間、昼も夜も絶えず祭壇に顕示され給う御聖体に対し、祈りを献げる事をいみするのである。ところが丁度その同じ年、ウンブリアのアッシジにほど近い、レオニッサという町に、後年この「四十時間の御聖体訪問」の信心を盛大ならしめた聖人が呱々の声を挙げたのは一奇と言わざるを得ない。彼はデシデチのヨハネというさして裕福ではない伯爵の家に生まれ、受洗の折りにはオイフラニオという霊名を与えられた...レオニッサの聖ヨゼフ証聖者StJosefusaLeonissa

  • ピアツェンツァの聖コンラド修道者 St. Conradus a Piacenza C.

    ピアツェンツァの聖コンラド修道者St.ConradusaPiacenzaC.記念日2月19日物質的不幸がかえって精神的幸福を招く事はしばしばあるが、聖コンラドの生涯もその一例であるといえよう。彼は北イタリアのロンバルジア州ピアツェンツァ市に生まれ、地位も高く財産も豊かで、何不足ない身であった。別に働かずとも食うに困らぬ彼は道楽として狩猟を殊の外好んでいた。ある日コンラドは例によって山へ狩りに行ったが、その時射損なった一匹の獣が、とある藪の繁みに逃げ込んでしまった。すると彼はそれを追い出したいばかりに、浅はかにもその藪に火を放った。所が折からの晴天続きで、草木がすっかり乾ききっていたからたまらない。火は見る見るうちに燃え広がって、手のつけようもない山火事になってしまった。それと知った近所の人々は、急いで駆け...ピアツェンツァの聖コンラド修道者St.ConradusaPiacenzaC.

  • 聖シメオン司教殉教者 主イエズスの従兄弟である聖人

    聖シメオン司教殉教者主イエズスの従兄弟である聖人記念日2月18日聖福音書に折々「イエズスの兄弟」という言葉が見いだされる。しかし主が聖母の御一人子であった事は周知の事実であるからこの兄弟とは実の兄弟を意味するのではなく、従兄弟と指している事は言うまでもない。例えば小ヤコボ、ユダ・タデオ、カアナンのシモン等三使徒や、ここに語らんとする聖シメオンも主の従兄弟にあたる人々である。このシメオンはイエズスの御降誕の幾年か前に生まれ、父の名はアルフェオといった。シメオンは十二使徒の中には加えられなかったが、直接主から聖教を聞き、又聖霊降臨の時には、かの百二十人の弟子達の中に加わっていたと信ぜられる。エルサレム最初の司教小ヤコボの兄弟であって、紀元62年ヤコボが殉教するや、その後任に選ばれ、麗しい徳行に信徒の多大な尊敬...聖シメオン司教殉教者主イエズスの従兄弟である聖人

  • ”聖母マリアのしもべ会”七聖人創立者Sts.Septem Fundatores Ord.Servorum B.M.V.

    ”聖母マリアのしもべ会”七聖人創立者Sts.SeptemFundatoresOrd.ServorumB.M.V.記念日2月17日古来聖会に於いては七を聖なる数字として尊んできた。なるほどちょっと考えても七つの秘跡、聖霊の七つの賜物、七枝の燭台、主の十字架上の七つの御言葉等七に縁のある聖なる事物は沢山ある。殊に黙示録などを読めば枚挙にいとまないほどその例を発見し得るのである。ここに語らんとする七聖人が協力一致「聖母マリアのしもべ会」を起こし修道に精進したのも、けだし偶然ではあるまい。これら七聖人はいずれも北イタリアなるフロレンス市の豪商で、その名をボンフィリオ・デ・モナルデ、ヨハネ・デ・ボナジュンタ、ベネディクト・デル・アンテラ、バルトロメオ・デリ・アミディ、リコヴェロ・デ・ウグチォネ、ゲラルヂノ・デ・ソス...”聖母マリアのしもべ会”七聖人創立者Sts.SeptemFundatoresOrd.ServorumB.M.V.

  • 聖ユリアナおとめ殉教者 分娩および伝染病の守護の聖人

    聖ユリアナおとめ殉教者分娩および伝染病の守護の聖人記念日2月16日ユリアナは、ニコメデニア市の裁判官エウロギオスと婚約していた。しかし、彼女は、彼がキリスト信仰を受け入れなければ結婚しないと、言い張った。そこで彼女の父は、彼女を裸にしてひどく殴らせたあげくに、その裁判官に引き渡した。裁判官は、彼女に言った。「最愛のユリアナよ、なぜあなたは結婚を拒んで、私に恥をかかせたのですか」ユリアナは答えた。「あなたもわたくしの神をあがめてくださいましたら、よろこんで結婚いたしますは。そうでなければ、けっしてわたくしを思いどおりになさることはできないでしょう」彼は言った、「最愛の人よ、そんなことをしたら、わたしは、皇帝に首をはねられてしまいます。」ユリアナは答えた、「あなたがそれほど地上の皇帝にびくびくなさるのであれば...聖ユリアナおとめ殉教者分娩および伝染病の守護の聖人

  • 聖クロード・ラ・コロンビエール イエズスの聖心の使徒

    聖クロード・ラ・コロンビエールイエズスの聖心の使徒記念日2月15日1641年フランスに生まれたクロードは、1658年にイエズス会に入会し、1669年に司祭に叙階される。1675年、パレール・モニアール市のイエズス会修道院院長に任命され、同市の聖母訪問会の女子修道院の特別聴罪司祭に任命された。ちょうどその時、1674年、主は聖母訪問会の修道女シスター・マルガリタ・マリア・アラコックに出現され、特別なメッセージを伝えようとされた。シスター・マルガリタは主の語りかけに恐れと困惑とを感じていたが、彼女の聴罪司祭となったコロンビエール神父は彼女の良き相談相手、指導者として彼女を励ました。1675年6月、御聖体の祝日に主は「聖心の信心」について、メッセージをマルガリタ・マリアに託された。人類を限りなくお愛しになるご自...聖クロード・ラ・コロンビエールイエズスの聖心の使徒

  • 聖チリロ隠世修道者と聖メトジオ司教

    聖チリロ隠世修道者と聖メトジオ司教記念日2月14日聖書に「良い便りをもたらす者の足は美しい」(ローマ、10-15)とある。この言葉はスラヴ民族の使徒として崇敬される両聖人にもぴったりと当てはまる。両聖人は9世紀現在のチェコスロバキアを中心とする中部ヨーロッパのスラヴ族に福音を述べ伝え、これを多数改宗させたことで有名である。また聖チリロはスラヴ語の文字を創案し、これでもって聖書を翻訳したのでスラヴ文字の創始者としても名高い。この両聖人は兄弟でチリロは802年、メトジオは810年、共にギリシャのテサロニケ市に生まれた。当時ここは東ローマ帝国の重要な貿易港として栄え、さまざまな民族が居住していた。その為チリロとメトジオはスラヴ人と交わる機会を得、スラヴ語を自由に話し、その風俗に親しみ、後年スラヴ族の宣教師となる...聖チリロ隠世修道者と聖メトジオ司教

  • 聖ヴァレンチノ司祭殉教者 St.Valentinus Presbyter et M.

    聖ヴァレンチノ司祭殉教者St.ValentinusPresbyteretM.記念日2月13日(2月14日)本日祝う聖ヴァレンチノ司祭は、同名の聖人数人の中で最もよく知られ、司祭の聖務日課にもその名を載せられている人である。この人は3世紀の中頃ローマ教会に於いて人望篤く、その徳行も衆に勝れていたので、当時聖会を迫害しつつあったクラウディオ皇帝は、早くも彼に目をつけ、これを召して棄教を命じた。しかしもとより熱烈な信仰を持つヴァレンチノである。どうして威嚇に恐れて聖教を棄てるようなことがあろう、決然としてこれを拒んだから、皇帝は然るべき処置をとらしめる為彼をローマ市長の許に送り、市長はまたこれを法官アステリオに渡したのである。ヴァレンチノはアステリオの邸に入ると、讃美歌を歌い声高らかに「主イエズス・キリスト、願...聖ヴァレンチノ司祭殉教者St.ValentinusPresbyteretM.

  • 聖ユリアノ看護人

    聖ユリアノ看護人記念日2月12日旅人と渡し守の守護者とされているユリアノは若いときに、普通の常識で考えたらあり得ないような大罪を犯した。それはある日彼が自分の城に帰り寝室に入った時、二人の人が寝台に寝ていたので侵入者と思ってその場で切りつけて殺してしまったのであった。ところがその二人はユリアノの両親であったのである。彼らは外出先から帰ったときにあまりに疲れていたのでユリアノのベットに入ったが、ベットにかけてあった布が両親の身体を覆っていたのであった。その瞬間ユリアノが抱いたもう一つの疑いは、どこかの男性がユリアノの妻と寝ていたのではないかということであった。しかし彼女は教会に行っていたのである。彼女が帰って来るなり、取り乱した夫が出てきて、自分はもはや立派な人々といっしょに暮らすことはできないから、彼女と...聖ユリアノ看護人

  • 全ての規則より偉大な物 聖ヴィンセンシオ・ア・パウロ

    慈善(貧者への施しなど)はどんな規則よりも確実に偉大です。そのうえ、すべての規則は慈善に通じていなければいけません。聖ヴィンセンシオ・ア・パウロ全ての規則より偉大な物聖ヴィンセンシオ・ア・パウロ

  • ルルドの聖母 (ルルドに於ける聖母マリアの御出現)

    ルルドの聖母(ルルドに於ける聖母マリアの御出現)記念日2月11日ApparitioB.V.ImmaculataeinLourdesルルドにおける聖母マリアの御出現1858年2月11日ー7月16日ルルドはフランスの南境を横走するピレネー山脈の麓に位置する小さな町で、元は殆ど世に知られていなかったのに、1858年2月11日以後十数回に渡って聖母マリアの御出現があってから、一躍天下にその名を知られるようになったところである。その町の郊外、カルワリアという山の裾に沿って、ガヴ河という流れがあり、その中央にシャーレー島と称する島があって河水を二つに分かっているが、その再び相い合する所に一大岸壁が屹立し、中にマッサビエールと呼ぶ洞窟がある。これぞ聖母御出現の聖域なのである。それは教皇ピオ9世が聖母無原罪の御宿りを、新...ルルドの聖母(ルルドに於ける聖母マリアの御出現)

  • 聖スコラスチカおとめ St. Scholastica V.

    聖スコラスチカおとめSt.ScholasticaV.記念日2月10日聖スコラスチカ童貞は、修道会創立者として名高い聖ベネディクトの妹であって、5世紀の末ローマ市に生まれた。母は彼女の生後まだ一年も経たぬ内にこの世を去ったから、彼女は兄と共に父の手一つで育てられ、幼い時から主を畏れ敬う心を養われつつ生い立った。そして兄のベネディクトが世間の喧噪を去って深山の静寂裏に隠れ、厳格な修道生活を始めてからも、彼女だけはなお父の膝下に留まっていたのである。スコラスチカは天成の美貌にかてて加えて、家も甚だ富んでいたから、年頃になると数多のローマ青年貴族達から降るような結婚の申し込みを受けたが、彼女は少しも心を動かされず、それらの縁談を片っ端から断った。というのは、彼女も兄と同じく一生を天主に献げたいと望んでいたからであ...聖スコラスチカおとめSt.ScholasticaV.

  • アレクサンドリアの聖チリロ総主教教会博士 St. Cyrillus ab Alexandria Patriarcha Doctor Eccl.

    アレクサンドリアの聖チリロ総主教教会博士記念日2月9日St.CyrillusabAlexandriaPatriarchaDoctorEccl.紀元313年、コンスタンチノ大帝がローマ帝国内にキリスト教信仰の自由許可してから、聖教のひろまりは目覚ましいものがあり、聖会は日に日に隆盛を加えたが、一方種々の異端を唱える者も出たので、これに対し真理擁護の為に力を尽くした宗教学者が幾人かあった。その中の一人がここに語る聖チリロ総主教である。チリロは北部アフリカの大都会のアレクサンドリアに生まれ、青年の頃から聖職者になる志を立てた。それでまず故郷の町で哲学と神学を修め、その後修養の為暫くエジプトの修道士等と共に生活し、更にエルサレムの司教ヨハネの許に行ってその教えを受けた。412年、アレクサンドリアの総主教テオフィロ...アレクサンドリアの聖チリロ総主教教会博士St.CyrillusabAlexandriaPatriarchaDoctorEccl.

  • 聖ヒエロニモ・エミリアニ

    聖ヒエロニモ・エミリアニ記念日2月8日孤児や捨て子の守護の聖人のヒエロニモ・エミリアニは、1486年ヴェニスの貴族の子として生まれた彼は15歳の時、軍隊に入った。そして25歳にしてカステル・ヌオヴォの砦の主となったそれはちょうどヴェニスとフランスの戦争の時で、敵軍の激しい攻撃に持ちこたえられず、砦は占領され、彼も地下の牢獄で鉄の鎖につながれて囚われの身となる。不運な牢獄の生活は、ひどい屈辱的な日々で、遂に彼も悩みのあまりに反省せざるを得なかった。「もし神の恵みで自由が与えられるなら、これまでの悪い生活から、きっぱりと足を洗おう」と、心にかたく誓い、聖母マリアに祈りを捧げたのであった。こうしたある日、それは7月26日であったが、まったくありえないことが彼の身の上に起こった。彼はぜんぜんその姿を見られないで、...聖ヒエロニモ・エミリアニ

  • 聖ヨセフィーナ・バキタ

    聖ヨセフィーナ・バキタ記念日2月8日バキタは1869年ころ、アフリカのスーダン西部、ダルフール地方のアジレレ山の近くにに生まれた。7歳くらいの時に奴隷商人にさらわれ、その後、奴隷としての人生を歩むこととなる。奴隷の印である刺青を身体中に施され、何度も人から人へ売られた。刺青はカミソリで切れ目をつけそこに墨を入れ、傷口を広げておくために塩をすりこんでおくという過酷なものであった。そして彼女はイタリアに渡った後に自由になるとベネチアでカノッサ会のシスター達にと出会い、そこで洗礼を受けキリストと出会うこととなる。自分の意志でシスターへの道を選び、カノッサ修道受会のシスターとなり、イタリア北部のビエチェンツァに近い町スキオで50年の長きにわたって人々から愛されるシスターとして働き、また自分に危害を加えてきた全ての...聖ヨセフィーナ・バキタ

  • 聖コレタおとめ

    聖コレタおとめフランシスコ会固有記念日2月7日1381年-1447年1381年フランスの信心深い両親から生まれたコレタは、小さいときからよく祈り、イエズスのご受難を黙想していた。両親がなくなった18歳の時、彼女は遺産を貧しい人々に与え、フランシスコ女子会つまり聖クララ会に入会した。当時の修道会は、創立当時の規律がひどくゆるんでいたので、コレタは、当時の教皇の励ましを受けて、その刷新を促進した。大離教に悩んでいた教会内の一致の為にも、彼女は聖ヴィンセンシオ・フェレリとカペストロの聖ヨハネと力を合わせて、大いに活躍した。多くの奇跡を行うなど、神秘的な賜物に恵まれ、教会に素晴らしい影響を与えた。1447年に帰天。聖コレタおとめ

  • 聖テオドロ殉教者

    聖テオドロ殉教者記念日2月7日聖テオドロは小アジアのヘラクリアの住民で、リシニウス皇帝の軍隊の司令官であった。彼は政治的な手腕もあり、リシニウスの領土の一部を統治していた。ある時、テオドロが偶像を礼拝することを拒絶したことによって、部下の兵士達は、彼がキリスト教徒になったことに気づいた。その為にテオドロは投獄されて責め苦を受けた後、一時釈放された。ところが異教の女神に奉献されていた寺院に放火したので、再び捕らえられて火あぶりにされた。しかし息を引き取る前に天国のまぼろしを見て慰められた。彼は軍人の保護の聖人として東方教会で崇敬されている。聖テオドロ殉教者

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