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カトリック情報 Catholics in Japan https://blog.goo.ne.jp/catholic_info

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2016/07/09

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  • 聖シルベストロ1世教皇証聖者 St.Silvester P. P.

    聖シルベストロ1世教皇証聖者St.SilvesterP.P.記念日12月31日ローマのコンスタンチノ大帝がマクセンシオと戦った時のことである、敵方は味方よりも遙かに優勢であったが、大帝は突然空に光り輝く十字架が現れ、その上に「この印に依りて勝利を得べし」と記されてあるのを見、試みに十字架を描いた軍旗を作って陣頭に押し立てた所、果たしてローマ門外の戦いに大勝利を得、天下を掌握することが出来た。それは紀元312年10月28日のことであったが、彼はここに於いてキリスト教こそ真の宗教であると悟り、之をローマ帝国の国教と定めるに至った。かくてそれまで300年の長きにわたり行われた同国のキリスト教迫害も、全くそのあとを断つようになったから、時の教皇メルキアデスを始め、全聖会の喜びは筆舌に尽くせぬものがあった。やがてメ...聖シルベストロ1世教皇証聖者St.SilvesterP.P.

  • 聖アニシアおとめ殉教者

    聖アニシアおとめ殉教者記念日12月30日テサロニケで4世紀の初めに生まれたアニシアは、両親の残した財産を貧しい人々のために使いながら、祈りの生活をしていた。ある日信者達の集まりに出かける途中一人の軍人が話しかけてきた。彼はアニシアが信者だということを見抜いて、彼女を強引に異教の神殿へ連れて行き、供え物をさせようとした。しかしアニシアがかぶっていたヴェールをはぎ取ろうとしたが、彼女はそれも拒んだ。彼は非常に怒り、剣を抜いてアニシアをその場で殺してしまった。聖アニシアおとめ殉教者

  • 聖トマス・ベケット大司教殉教者 St. Thomas Becket Archiep. Mart.

    聖トマス・ベケット大司教殉教者St.ThomasBecketArchiep.Mart.記念日12月29日主が嘗て御弟子達に向かい「わが為に汝等、官吏帝王の前に引かれて、彼等及び異邦人に証となることあるべし」と仰せられた御預言は見事適中し、爾来今日に至るまでの数え切れぬ迫害に、官吏帝王の前に引き出され、堂々信仰を宣言して殉教致命した信者の数多あることは、既に読者のよくご存じの通りであるが、ここに語る聖トマス・ベケットも英国の出した最も著名な殉教者の一人に外ならない。彼の父はギルベルト・ベケットと言い、熱心なカトリック信者であったが、若い時聖地パレスチナへ巡礼しての戻りに、サラセン人の首領の奴隷にされ、その間にその娘マチルヂスに聖教を伝えたのが縁で、自由の身となってから彼女を妻に貰い受け、ロンドンへ帰って一子...聖トマス・ベケット大司教殉教者St.ThomasBecketArchiep.Mart.

  • 聖なるおさな子たち殉教者 Sts. Innocentes Mart.

    聖なるおさな子たち殉教者Sts.InnocentesMart.祝日12月28日救世主の御降誕を不思議な星の出現によって知った東の国の三人の博士たちは、その星に導かれるままにエルサレムまで来、ユダヤ国王ヘロデに謁し、「お生まれになったユダヤの王はどこに居られますか」と尋ねた。ヘロデはこの言葉を聞いて大いに驚いたが、早速国中の学者を召し、いにしえの預言によれば、救い主はどこに生まれることになっているかと訊くと、彼等が答えて言うには「ベトレヘムに」との事であったので、ヘロデはその旨を三人の博士に告げ、「もし救い主となる嬰児が発見されたら私にも知らせてほしい、私も拝みに行くから」と言った。しかしこれは本心から出た言葉ではなく、救い主が将来自分の王位を奪いはせぬかという心配から、その所在が知れたらこれを殺して禍を未...聖なるおさな子たち殉教者Sts.InnocentesMart.

  • 使徒聖ヨハネ福音史家 St. Joannes Ap. Evangelista

    使徒聖ヨハネ福音史家St.JoannesAp.Evangelista祝日12月27日第四の聖福音を著した使徒聖ヨハネは、鷲をその象徴とされている。これは何故かというと他の三福音史家マタイ、マルコ及びルカ等は、いずれも主イエズス・キリストの救世の御事業に就き記しただけなのに、独りヨハネは救い主の神性を示すという更に高い目的を以て筆を執った。それがあらゆる鳥よりも高く飛翔する鷲を忍ばせるからである。なお使徒聖ヨハネはその人格に於いても他の使徒達に卓越して特別主の御寵愛を蒙っていたことは、その聖書中に「イエズスの愛し給える一人の弟子(ヨハネを示す)御懐あたりに寄りかかりいたり」とあるによっても想像できよう。このヨハネは以前洗礼者ヨハネの熱心な弟子で、他のユダヤ人と同様預言された救世主の来たり給う日を、千秋の思い...使徒聖ヨハネ福音史家St.JoannesAp.Evangelista

  • 聖ステファノ助祭殉教者 St. Stephanus Diaconus Protomartyr.

    聖ステファノ助祭殉教者St.StephanusDiaconusProtomartyr.祝日12月26日「誠に実に汝等に告ぐ、麦の粒地に落ちて、もし死ざれば唯一つにして止まるも、もし死すれば多くの実を結ぶ」主のこの聖言は誰よりもまず主御自身に適合する。何となれば、主が十字架上で聖血を流し世の罪を贖い給うたればこそその御功徳を蒙って救霊の恵みに浴洗ものと、聖霊降臨の日に受洗した3000人を始め、その後も続々聖教に帰依する者が出たからである。そしてこれら教会初代の信者達は互いに口で兄弟姉妹と呼び合うばかりでなく、実際同心一致、各自自発的に財産を教会に寄付して共同生活を営み、食糧などは必要に応じて使徒達から配給を受け、何物をも共有として信仰に精励した。されば世人は彼等の友愛の麗しさに感じ入り、自分もその仲間入りが...聖ステファノ助祭殉教者St.StephanusDiaconusProtomartyr.

  • いと高き所には、神に栄光、地には善意の人々に平和

    「恐れることはない。全ての人々の為に大きな喜びの知らせを告げる。今日、ダビドの町で、あなた達の為に救い主が生まれ給うた、すなわち主キリストである。あなた達は、布に包まれてまぐさおけに寝ているみどり児を見るだろう。それがしるしである。」すると、たちまち天の軍勢の大群が天使に加わり、「いと高き所には、神に栄光、地には善意の人々に平和」と神を賛美した。ルカによる福音書2章10-14節いと高き所には、神に栄光、地には善意の人々に平和

  • 主のご降誕 聖ボナヴェントゥラ 『生命の木』

    ローマ皇帝アウグストゥスの治下、世界的平和のしずかな休息が、それまで混乱していた時代を晴れやかにしたとき、そしてまた、この君主が全世界の人口調査を命じたとき、神の摂理の配慮によって、「処女」の夫ヨセフは、やがて母になろうとしていた王族出の若い妻を、ベトレヘムの町に案内した。すると、受胎後九か月のとき、「平和の王」が生まれた。かれは、快楽とはなんのかかわりもなく宿されたのであったが、その母にはなんの変化も与えないで、「浄配が婚姻の室から出る」ように、処女の胎外に進み出たのであった。かれは、強く富んでいたにもかかわらず、愛によって、小さく貧しくなって、わたしたちのもとに来ること、自分の家にではなくはたご屋で生まれること、みすぼらしいむつきに包まれること、処女の乳でやしなわれること、牡牛とろばのあいだで、まぐさ...主のご降誕聖ボナヴェントゥラ『生命の木』

  • キリスト御降誕の大祝日 Festum Nativitatis D. N. Jesus Christi

    キリスト御降誕の大祝日FestumNativitatisD.N.JesusChristi大祝日12月25日聖会には大祝祭も数多あるが、クリスマスに増して喜ばしい日は又とあるまい。天使方でさえ羊飼い達に「懼れるには及ばぬ。私は人民一般に及ぶべき大いなる喜びの福音をその方達に告げるのである」と言った。それではその喜びはどういう所にあるのであろうか。世の救い主が生まれ給うた所にある。そしてこの救世主の御降誕は、その時代の人々ばかりでなく、善意を有する全世界万国万代の人々の為であった。その救い主により天国の扉は彼等に開かれ、最大の幸福を蒙ることが出来るのであるから、また救世主イエズスを知る人々にとっては毎年その御降誕記念は如何なる時代に於いても等しく大いなる歓喜たるを失わない。しかもそれは大人の歓喜であるばかりで...キリスト御降誕の大祝日FestumNativitatisD.N.JesusChristi

  • 聖アナスタシア殉教者 St. Anastasia Vid. M.

    聖アナスタシア殉教者St.AnastasiaVid.M.記念日12月24日聖女アナスタシアは初代キリスト教会に於いて最も有名な殉教者の一人である。それは彼女の名がミサ典文中に記された少数の聖人方の中に加えられ、また緒聖人の連祷中に出てくる事によっても知れよう。アナスタシアは3世紀の中頃ローマに於いて貴族の家に生まれた。父プレテクスタトは熱心な偶像教信者であったが、母フラヴィアは窃かにキリスト教を奉じ、娘にも之を教え育てた。その中母が死ぬと、やはり後に殉教した聖司祭クリソゴノが代わって彼女の教育に当たった。アナスタシアが年頃になると、父はプブリオという富豪の一青年に娶せた。ところがこの若い夫は奢侈贅沢や放蕩を好み、妻に一方ならぬ心配をかけた。それでもアナスタシアは出来るだけ柔和親切に夫に仕え、その気に入るよ...聖アナスタシア殉教者St.AnastasiaVid.M.

  • カンティの聖ヨハネ司祭

    カンティの聖ヨハネ司祭記念日12月23日ヨハネは1390年6月23日、ポーランドのクラクフ付近のカンティに生まれ、1413年クラクフ大学に入学した。卒業後、同大学で聖書の講義を担当したが、彼の成功を妬む人々がいて、彼をオルクス村の主任司祭に追いやってしまった。そこで8年間働いてから再びクラクフ大学に呼び戻されたが、その時、教会の信者たちは涙を流して別れを惜しんだ。大学では哲学と神学の有名な教授となり、彼の死後、高い学位を取りたいと望んだ学生たちは、ヨハネの残した古いガウンを着て成功を祈ったと伝えられている。ヨハネは高度の学問的知識のほかに、信心深さ、清貧の精神、貧しい人に対する愛と償いの精神によって多くの人々に大きな影響を及ぼした。ローマへ4度歩いて巡礼し、一度はエルサレムへ巡礼した。カンティのヨハネは1...カンティの聖ヨハネ司祭

  • ディセンベルクの聖ユッタ修道女

    ディセンベルクの聖ユッタ修道女記念日12月22日11世紀の終わり頃、ディセンブルクのユッタは、スパンハイム候メギナルドの妹としてドイツで生まれた。彼女は神に一生涯身を献げた信者の女性たちを集めて小さな修道院を作り、その院長となって22年過ごした。その間にドイツにおける最も偉大な神秘化のビンゲンのヒルデガルドの世話をして、ラテン語や聖書の読み方などを教えた。1136年にユッタが亡くなった時、ヒルデガルドが代わりに院長となった。彼女はユッタについて次のように書き残している。「ユッタは、神の恵みで満ちあふれているたくさんの支流を持った川のような人でした。喜ばしい死によって解放される最後の日までユッタは苦行を続け、絶え間なく神に祈っていました」彼女の死後たくさんの人々が遺徳をしたって、墓に詣でた。ディセンベルクの聖ユッタ修道女

  • シロスの聖ドミニコ

    シロスの聖ドミニコ記念日12月20日11世紀の初め頃ドミニコはスペインのナバラの農夫の家に生まれ、その時代の最も有名な修道者の一人となった。彼は希望がかなってサン・ミリャン・ド・コゴリャのベネディクト会に入り、その学徳をみとめられて修道院長となった。その頃ナバラのガルシア3世王が、修道院が所有しているある土地は王家のものだと主張しはじめた。しかしドミニコは非常に強く修道院の権利を防御したために、彼と2人の修道士は追放されて、カスティールのフェルディナンド1世王の許に身を寄せた。この王はブルゴス教区内のシロスのサン・セバスチャン修道院にドミニコと2人の仲間を招き、ドミニコに院長になるように頼んだ。その修道院は長い間に霊的に活気を失っていた上に、経済的にも、全く衰えた状態であったが、ドミニコにより徐々に改善さ...シロスの聖ドミニコ

  • 聖アンドレア・ボボラ殉教者 St. Andreas Bobola M.

    聖アンドレア・ボボラ殉教者St.AndreasBobolaM.記念日12月19日典礼聖省曰く「殉教の調査も数多したが、その、残虐さにおいてアンドレア・ボボラのそれに優るものは未だ嘗て聞いたことがない」と。それにも拘わらず彼の聖人に挙げられるのは比較的遅く、ようやく殉教致命後300年を経て、1938年4月17日、キリスト復活祭の佳辰を卜しピオ11世教皇最後の列聖式にその栄誉を授けられたのであった。アンドレア・ボボラは1591年ポーランド国サンドミール州に産声をあげた。両親は貴族で、父祖伝来の熱心なカトリック信者、伯父も聖教の為には随分尽くし、アンドレアが少年の頃入学したイエズス会の学校も主にその寄付で建てられたものであった。さればそういう一家に人となったアンドレアが幼少より敬神の念厚く、21歳にしてイエズス...聖アンドレア・ボボラ殉教者St.AndreasBobolaM.

  • 聖ワインバルド修道院長

    聖ワインバルド修道院長記念日12月18日8世紀のイギリスで重要な地主であったサクソンのリチャードは、ウィリバルドとワインバルドという2人の息子を連れてローマへ巡礼に行った。ウィリバルドはローマから聖地に行き、歴史上イギリス人として最初に聖地を訪ねた人となった。しかしワインバルドは兄のような体力がなく、ローマへ着く頃は病気になったので、ローマに7年間、学生として留まった。やがて彼は修道士となってイギリスへ帰ったが、友人を連れて再びローマに帰った時、739年にボニファチオに出会った。ボニファチオの最大の関心はドイツに福音をもたらすことであった。彼はワインバルドがまだ病気ではあったが、彼に勧めていっしょにドイツへ宣教に出かけた。彼はチューリンゲンに到着後、司祭となり、7つの教会を司牧した。人々の妨害にも負けずに...聖ワインバルド修道院長

  • 聖ラザロ司教 St. Lazarus E.

    聖ラザロ司教St.LazarusE.記念日12月17日ラザロという名はルカ聖福音書とヨハネ聖福音書とに記しているが、これは同名異人であって同一人ではない。即ち前者は主の無慈悲な富豪のたとえ話中に出てくる乞食で、実際の人物か否か不明であり、後者はエルサレムに近いベタニア村に住み、二人の妹マルタ、マリアと独身生活を送っていた人である。本日聖会の記念する聖ラザロ司教とはこのベタニアのラザロに他ならない。彼はイエズス御自ら親友と呼び給うたほど主と親密な関係にあり、主がエルサレムへ往復の御途すがらなどしばしばその御訪問をかたじけのうした。そして常にその御傍離れず仕える御弟子にこそならなかったが、その御教えの熱心な信者であったのである。主が御受難の暫く前、ユダヤ国の東部にあるペレア方面で布教しておられた時のことである...聖ラザロ司教St.LazarusE.

  • 聖アデライデ皇后 St. Adelaide

    聖アデライデ皇后St.Adelaide記念日12月16日10世紀のはじめに、フランスのブルゴーニュの王女であったアデライデは、一生涯種々の苦しみを忍んだが、常に神に対する深い信頼と人に対する深い信頼と人に対する慈愛を保ち続けた。最初に結婚した夫は毒殺され、その上毒殺者の息子と結婚を強いられて、それを拒絶した時、彼女は城の中に閉じ込められた。しかし、後にドイツのオットー大帝が彼女を解放して自分の王妃とした。大帝の死後、長子が後を継いでオットー2世となったが、その妻がアデライデを追放した。しばらくして王はアデライデに詫びて再び連れ戻したが、彼の死後、彼女は再び追い出され、年をとってから帰ることを許された。999年12月16日、彼女は自分が創立したアルサスの修道院で神の許に召された。聖アデライデ皇后St.Adelaide

  • 聖マリア・ディ・ローザ修道女

    聖マリア・ディ・ローザ修道女記念日12月15日マリア・ディ・ローザは自分の故郷北イタリアのブレシアで、17歳の時から貧しい人々の為に奉仕し始め、わずか42歳で亡くなった時には弱い体を全く使い果たしていた。貧しい人、困っている人の為にすることは、みなイエズス自身の為にすることであるという主の言葉を文字通りに取りたいと熱望して、ブレシアの工場で虐げられながら働く工員達、特に女工達を助けた。また毎日病院を訪ねて、耳や口の不自由な人々の世話を手がけた。1849年、27歳の時に愛徳の侍女会を創立して、組織的に慈善事業をすることになった。1849年のオーストリアとの戦争の時、そして1852年のコレラ蔓延の時には特にこの会は大きな貢献をしたのであった。聖マリア・ディ・ローザ修道女

  • 十字架の聖ヨハネ司祭教会博士 St. Joannes de Cruce C., D. E.

    十字架の聖ヨハネ司祭教会博士St.JoannesdeCruceC.,D.E.記念日12月14日16世紀は読者も知る通り、いわゆる宗教改革者達が種々の異端説を唱道して人心を惑わし、為に信仰の堅からぬ者が数多真の聖教を捨て去った悲しむべき時代であったが、その一方に喜ぶべきは、やがて真の改革者なる聖人方が多数輩出し、聖会内部の刷新に着手すると共に、熱心に布教して一時衰えた教勢をたちまち快復した事であった。本日記念する十字架の聖ヨハネの如き、中でも偉大な聖人であり神秘家である。彼は1542年6月24日スペインのカスチリア州のフォンチベロスという町に呱々の声を挙げた。祖先は名門の貴族であったが、零落して彼の生まれた頃は家も甚だ貧しかった。その受洗の折りヨハネと名付けられたのは、誕生日があたかも洗礼者聖ヨハネの祝日に...十字架の聖ヨハネ司祭教会博士St.JoannesdeCruceC.,D.E.

  • 人を躓かせる者への報い 聖書

    人をつまずかせるこの世に災いあれ。つまずきは必ず来るが、つまずきをもたらす者には災いがある。マタイによる福音書18章7節人を躓かせる者への報い聖書

  • 聖ルチアおとめ殉教者 St. Lucia V. M.

    聖ルチアおとめ殉教者St.LuciaV.M.記念日12月13日聖ルチアは初代キリスト教会の偉大な殉教童貞であって、聖アガタ、聖アグネス、聖セシリアなどと共にミサ典文にも諸聖人の連祷にもその名を記されている。ルチアとは「光明」という意味であるから、実際聖会の光となった彼女に、最も相応しい名前ということが出来よう。彼女は前後300年間の長きに亘ったローマ帝国のキリスト教迫害末期シシリー島のシラクサで生まれ、ディオゥレチアノ皇帝の御代壮烈な死を遂げた。両親はいずれもカトリック信者で、彼女を手中の珠といつくしみ育てたが、父は早く世を去ったので、母オイチキアは娘の身を堅めようと、折柄申し込みのあった某貴族の縁談を承諾した。然るにルチアは既に天主に身を献げ、終生童貞を守る誓願を立てていたから、これを聞いて大いに当惑し...聖ルチアおとめ殉教者St.LuciaV.M.

  • イスラエルのシリア侵攻

    前回の記事の追記部分にも簡単に書きましたが、本当にひどいですね。イスラエルがシリアの重要施設300箇所以上を空爆したばかりか、ゴラン高原を越えて、シリア領奥深くに侵攻しているようです。緩衝地帯を多めに設定したいのだろうという推測もあれば、どさくさに紛れた領土欲だろうという見解もあり、シリアを国境沿いに縦断し、レバノンとシリアの関係を絶ちたいのだと解説する方(青山教授)もいます。いずれにせよ、無法が過ぎます。まるで、150年前の行動様式です。というよりも、これから、世界はそういう時代に逆戻りしていくのでしょうか。ベルサイユ条約以後に提唱され、二次大戦後にほぼ確立された「領土不可侵の原則」は、遠からぬ将来、忘れ去られ、世界は過去の元来た時代に戻っていくのかもしれませんね。イスラエルのシリア猛攻撃「最悪の事態」...イスラエルのシリア侵攻

  • 聖書は愛 聖ヒエロニムス

    聖書の知識をあなたの愛としなさい。聖書と共に生き、聖書を黙想し、聖書をあなたの知識と探求の唯一の対象としなさい。聖ヒエロニムス聖書は愛聖ヒエロニムス

  • シャンタルの聖フランシスカ修道女

    シャンタルの聖フランシスカ修道女記念日12月12日フランシスカは1572年、フランスのディジョン市の貴族の家に生まれ、1592年熱心なカトリック信者シャンタル男爵と結婚して6人の子供の母となり、幸福な家庭を営んでいた。しかし29歳の時、最愛の夫に先立たれ、その後はもっぱら祈りと遺児の教育と慈善とに献身した。彼女がフランシスコ・サレジオに出逢ったのは1604年で、その時から霊的指導を願い出て、自分はカルメル会に入りたいと打ち明けた。フランシスコは、かねてから若い女性や未亡人が容易に入会できるような、戒律の厳しくない修道会を創立したいと望んでいたので、彼女に勧めて、3人の友達とともに修道生活を始めさせ、聖母訪問修女会を創立することになった。総長としての彼女は、サレジオのフランシスコが目ざした信心生活の理想のよ...シャンタルの聖フランシスカ修道女

  • 天国には欲しいものは何でもある 浦川和三郎 司教「諸聖人の祝日」『祝祭日の説教集』

    (4)-天国には欲しいと思うものは何でもあるー目はその見事な景色、そこに住んでいられる天使、聖人聖母マリア、神の御子、至聖三位の美しい立派な御姿に見入り、耳は絶えず天使や聖人などの曲(ふし)面白く天主を讃美するその楽しい歌にうっとりと我を忘れて聴きとれるのであります。殊に聖人などが何よりも嬉しく覚えられるのは、善の善なる天主を面(まのあた)りに仰ぎ見て楽しむことであります。天主を仰ぎ見ると共に、その底知れぬ深い深い愛を悟るのであります。自分のために人となり、厩に生まれ、十字架上に死し、聖体の中に食物となって、自分を養い下さったその感ずべき愛を悟って、何んなに吃驚するでしょうか。自分を改心せしめるために浴びせ給うた聖寵、自分を勧め戒めて下さった数限りなき御恵みを一々数え上げては、どんなに仰天するでしょうか。...天国には欲しいものは何でもある浦川和三郎司教「諸聖人の祝日」『祝祭日の説教集』

  • 人を改心させる方法 聖トマス・アクィナス

    誰かを改心させるためには、その人の手を取って導くことだ。聖トマス・アクィナス人を改心させる方法聖トマス・アクィナス

  • 聖ダマソ1世教皇 St. Damasus P.

    聖ダマソ1世教皇St.DamasusP.記念日12月11日聖ダマソは西暦305年呱々の声を挙げた。その頃ローマ帝国はディオクレアノ皇帝の治世で、古今未曾有の酷烈なキリスト教迫害が行われていた。しかし幸いに同信徒である彼の両親には官憲の魔手も及ばなかった。ダマソは父母のこまやかな愛を育まれてすくすくと生い立った。そして8歳を迎えたとき。天下を掌握したコンスタンチノ大帝から聖教信奉の自由を差し許す旨の布告が下り、聖会の上には一陽来復の春が訪れたのである。彼の一家はことごとく篤信敬虔な人達ばかりであった。父は後に聖職に就き、母は修道誓願を立て、妹イレーネは終生童貞を守った。さればその間に伍してダマソが父と同じく聖職者として世に立ちたいと志すに至ったのも、別に不思議ではなかったのである。かくて彼は355年教皇リベ...聖ダマソ1世教皇St.DamasusP.

  • シリア・アサド政権の崩壊

    アサド政権の崩壊は、シリアの為に幸いなことだと思います。私は最近はイスラエルに批判的な記事を載せることがありますが、だからと言って、イスラム教を支持するものでも、バース党を支持するものでもありません。特にシリアのそれとは別問題です。例えば、反米でも、北朝鮮は支持できないという人はそれなりに多いと思います。似たようなところが、シリアのアサド政権にはありました。アサド政権では、刑務所事情と恐怖政治がひどく、2016年頃から、その凄惨な記事を沢山、読んでいました。シリアの刑務所はこの世の地獄であり、ある者は、収監されるとペニスを縛られ、2リットルの水を飲まされて、性器が壊れ、性的不具になり、常に小便等を尻から漏らすオムツ生活になったとか・・・刑務所は収監者ですし詰めで、疥癬など、あらゆる皮膚病が蔓延し、壁まで死...シリア・アサド政権の崩壊

  • 全てにみことばがある 聖アタナシウス『受肉について』

    実に、あらゆるものが驚異的であり、人はどこに視線を向けても、みことばの神性を見、畏敬の念に打たれるのである。聖アタナシウス『受肉について』全てにみことばがある聖アタナシウス『受肉について』

  • 聖エウラリアおとめ殉教者 St. Eulalia V. M.

    聖エウラリアおとめ殉教者St.EulaliaV.M.記念日12月10日304年に殉教したエウラリアがスペインで最も有名な殉教者の一人になった理由は、いたいけな子供ながら、神に対する信仰を棄てるよりは死を選ぶ方が真のキリスト信者であることを知っていたからである。エウラリアはダシアヌスという裁判官に会って、彼が信者達に信仰を棄てるように脅かしたり、賄賂を取っていることを責めるつもりであった。彼女は12歳であったが、裁判官が何をしようと恐れなかった。死刑執行人たちが来て、金属のフックでエウラリアの若い体を引き裂き始めた。次ぎに、たいまつに火をつけて彼女を焼こうとしたが、髪の毛に火が移ったため、彼女は焼死せずに、煙にまかれて窒息死したのであった。聖エウラリアおとめ殉教者St.EulaliaV.M.

  • 聖ペトロ・フーリエ司祭証聖者 St. Petrus Fourrier C.

    聖ペトロ・フーリエ司祭証聖者St.PetrusFourrierC.記念日12月9日フランスの聖人の中、華々しい活動を以て特に聞こえているのはペトロ・フーリエである。彼は1565年、まだ独立国であったロレーヌ州に生まれた。父は商人であったが、彼がまだ幼い頃から宗教を好み、祈祷に耽るのを見て、ポンタ、ムッソンへ遊学させた所、ペトロの学業、並びに信心完徳に於ける進歩は著しいものがあった。彼は別して天主の聖母を尊敬し、その御加護によりさまざまの霊魂の危険を免れることが出来た。彼の先生方はいずれもイエズス会の司祭たちであった。それで彼も暫くは同会に入ろうと思っていたが、後アウグスチノ会の修士となる決心をした。時に彼は20歳であった。フーリエは翌年誓願を立て、その4年後の1589年めでたく司祭に叙階されたが、その初ミ...聖ペトロ・フーリエ司祭証聖者St.PetrusFourrierC.

  • 無原罪の御宿りのおとめ聖マリア Festum Immaculatae Conceptionis B. Mariae V.

    無原罪の御宿りのおとめ聖マリアFestumImmaculataeConceptionisB.MariaeV.大祝日12月8日楽園にいた最初の人間は、成聖の聖寵に包まれていた。しかし遺憾なことには不従順から一つの罪を犯し、自分及びすべての子孫が蒙る筈の聖寵をことごとく失ってしまった。従ってそれからというもの生まれ落ちる子供の霊魂は皆、罪を犯す前のアダムやエヴァが持っていたような聖寵は具えていない。この聖寵の欠乏状態、これを称して原罪というのである。それで原罪はある人が犯した殺人もしくは盗みの罪というように、その人一人が罰せられてお仕舞いになる個人的罪ではなく、親から子、子から孫へと行く末長く受け伝えて行く悲しむべき病気のようなものである。それはあたかも遊蕩に身を持ち崩し、恐るべき病毒に感染した親が、それを子...無原罪の御宿りのおとめ聖マリアFestumImmaculataeConceptionisB.MariaeV.

  • 有機ELのディスプレイを購入!

    有機ELのパソコンモニターを購入しました。驚くほど綺麗ですね。Amazonのブラックフライデーセールで半値ほどで買いました。前のパソコンモニターは、中古で買ったHP製の液晶のものを6年も使っていました。今や、おそらく製造年から12年くらいは経っているのではないでしょうか。さすがに劣化もあり、画面を換える必要は感じていたのですが。有機ELの鮮やかさはスマートフォンで体感していたつもりですが、大画面にしてみると、また圧巻ですね。欠点もあり、寿命が短いことです。サムスンのGalaxyS10を5年ほど使いましたが、既に画面が相当に暗くなっています。2年ほど前に新機種を買っており、最近、メインで使うようになったのですが、比較しても一目瞭然です。極端に高いのに、寿命が液晶の半分なのは残念ではありますが、人によっては一...有機ELのディスプレイを購入!

  • 地獄の火は現世の苦しみのすべてに勝る 聖アウグスティヌス

    その火(地獄の火)は、人が現世で受けるどんな苦しみよりも致命的である。聖アウグスティヌス地獄の火は現世の苦しみのすべてに勝る聖アウグスティヌス

  • 聖アンブロジオ司教教会博士 St. Ambrosius E., D. E.

    聖アンブロジオ司教教会博士St.AmbrosiusE.,D.E.記念日12月7日聖会初代の偉大な教父達の中で、一際頭角を抜きん出ている聖アンブロジオは、340年ドイツのトリールに生まれた。父はその地の総督を務めていたが、まだ彼の少年時代にこの世を去ったので、母は三人の遺児を連れてローマに上り、細心の注意を以て彼等を教育した。中二人は男の子で長ずるや亡き父の如く官途に就いたが、アンブロジオは熱心なカトリック信者のプロブスという裁判所長の部下となった。かくて372年、32歳の時彼がリグリア及びエミリア両州の総督を任命されてその首都ミラノに赴くに当たり、上司にして且つ善き友であったプロブスに別れを告げた所、プロブスは「貴方はこれから法官よりも寧ろ司教のような心持ちで政治を執らねばならぬ」と教え諭したという。アン...聖アンブロジオ司教教会博士St.AmbrosiusE.,D.E.

  • 聖ニコラオ司教 St. Nicolaus E.

    聖ニコラオ司教St.NicolausE.記念日12月6日キリスト教国の子供達に最も人気の或る聖人といえば、誰しも気がつく通り聖ニコラオ司教であろう。世に言うサンタ・クロースのお爺さんが即ちそれで、日本やプロテスタントの国などではクリスマスに子供達へいろいろの贈り物を持って来てくれると言われているが、ドイツその他のカトリック国では、その祝日の12月6日に、親親戚などが聖ニコラオに扮して良い子には褒美を与え悪い子には訓戒を与える習慣がある。しかし実際は聖ニコラオはただ子供達の保護者であるばかりでなく、また処女、囚人、船員、商人、学生たちの保護の聖人として知られ。信仰を擁護した有名な司教である。この聖人は270年小アジアのパターレに或る富豪の子と生まれた。そして身分相応に学問はもちろんのこと宗教方面に於いても立...聖ニコラオ司教St.NicolausE.

  • 聖サバス大修道院長 St. Sabas

    聖サバス大修道院長St.Sabas記念日12月5日6世紀頃、多くの修道士は完全な隠遁生活をしていた。サバスは、エウティミオという有名な聖人がエリコとエルサレムの間の荒野の洞穴に住んでいることを聞いて、18歳の時彼の所へ行って、弟子達の仲間に入れてくれるように頼んだ。その時、エウティミオは、彼に向かって30歳になったら来るようにと言って、彼を聖テオクティストの修道院へ送った。そこで、サバスは修練を積み、30歳になった時、エウティミオに許されて、1週間のうちの5日間は洞穴に住み、週末には修道院へ帰ることになった。しかし、エウティミオは、サバスが祈りだけに耽ることを許さず、毎日、小枝でバスケットを10個作るように命じて、毎土曜日に50個のバスケットを修道院へ持ち帰らせた。エウティミオが亡くなった時、サバスは4年...聖サバス大修道院長St.Sabas

  • ダマスコの聖ヨハネ証聖者 St. Joannes Damascenus

    ダマスコの聖ヨハネ証聖者St.JoannesDamascenus記念日12月4日シリアの都市ダマスコは、先に大使徒聖パウロが主イエズスの御出現を蒙り、奇跡的に改心した所として有名であるが8世紀に至り又偉大なる教父の聖ヨハネが出て、更にその名を高らしめた。この聖人が如何に博学高徳で、一世に重きを成していたかは、歴史家達が彼を呼ぶに、ダマスコ市を巡り流れるクリソロアス(黄金の河)の名称を以てし、十分の尊敬を示している所からも察せられるのである。聖ヨハネは7世紀の末ダマスコ府の総督にして熱心な公教信者なる人の子と生まれた。彼とその弟との教育に当たったのは、かつてサラセン人等に捕虜として引かれ、後釈放されたコスマスというイタリア人の一修士であったが、二少年の無垢の心に一般の学問は勿論、神学の知識も深く深く刻みつけ...ダマスコの聖ヨハネ証聖者St.JoannesDamascenus

  • 聖フランシスコ・ザビエル司祭証聖者 St. Franciscus Xaverius C.

    聖フランシスコ・ザビエル司祭証聖者St.FranciscusXaveriusC.記念日12月3日東洋に福音を宣べ伝えた宣教師の中で誰が最も名高いかと言えば、それは聖フランシスコ・ザビエルであろう。彼は1506年4月7日スペインはナヴァラの貴族の子として生まれた。不幸間もなく戦乱その他の災禍が相次ぎ、家は次第に微祿するに至ったが、それでも両親は子供達の教育に意を注ぎ、殊にフランシスコはパリの大学におくって高等の学問を修めさせた。で、彼は貧しい生活の中にも将来の立身出世を夢みつつ孜々として勉学に専念していたのである。所がその頃やはり同じ大学にいたのがロヨラの聖イグナチオであった。彼はフランシスコやファーベルという学生などと同じ屋根の下に起居していたが、その時分から既に一修道会を起こす決心を有し、敬虔にして有為...聖フランシスコ・ザビエル司祭証聖者St.FranciscusXaveriusC.

  • 聖ヴィヴィアナおとめ殉教者 St. Bibiana V. M.

    聖ヴィヴィアナおとめ殉教者St.BibianaV.M.記念日12月2日聖女ヴィヴィアナはローマ名門の令嬢で、両親も共に高徳の人々であった。ユリアノ皇帝のキリスト教迫害が始まるや、高官の父はそれに反対した為皇帝の逆鱗に触れ、流罪に行われそのまま配所で不帰の客となり、母ダフローザもやがて捕らえられて自宅に監禁の憂き目を見、更に食物を与えられず、餓死は殆ど時日の問題であったが、始末を急ぐ役人に首を刎ねられて殉教の花と散った。そしてその財産は悉く皇帝に没収されたから、憐れや後に遺されたヴィヴィアナ及びその姉妹は、たちまち赤貧のどん底に叩き込まれたが、ユリアノはそれでもなお足れりとせず、彼等に棄教させようとあらん限りの迫害を加え、やはり之を捕縛して数日間食物を与えなかった。それから二人は法官の前に引き出されたが、不...聖ヴィヴィアナおとめ殉教者St.BibianaV.M.

  • 聖エリジオ司教 St. Eligius E.

    聖エリジオ司教St.EligiusE.記念日12月1日聖エリジオはフランス王朝に仕えた聖人が少なくない中でも、一際すぐれた人物である。彼は590年に生まれた。父母は共に信心深く、わが子を宗教の旨に従って教え育てたから、彼もすこぶる敬虔に生い立ち、幼少より既に祈祷を好む事が甚だしかった。しかしその最も優れた才能を示したのは美術の方面であったので、両親は彼に金銀細工を習わせたのに、彼はその技に大いに上達し、その道の大家となったが、それと共に彼は徳を磨く事にも心を傾け、一切の人に親切で、わけても貧者に慈悲深かった。そして熱心に聖書を研究し、その説明を聞くことを一方ならず好んだ。彼の芸術家としての名声が天下に轟き渡るや、フランス王国クロタールはその時まだ30歳の彼を宮中に招かれ、宝石貴金属を以て美麗な玉座を造るよ...聖エリジオ司教St.EligiusE.

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