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「ヨーロッパの古典芸術と聖アンのフーガと」18歳くらいの頃、友人がヨーロッパの女性と付き合い出した。金髪で青い目の女の人。しかもアッと驚くようなインテリ女性。…
「ヨーロッパのインテリとの付き合い方(笑)」結論:芸術、芸術、芸術(笑)昨日、ヨーロッパ人のインテリは厄介だと書いた。具体的にその厄介さを書いてみたい。ヨーロ…
### **スペイン内戦(1936年~1939年)** #### **1. 概要** スペイン内戦は、1936年7月17日に始まり、1939年4月1日に終結した内戦で、**スペイン第二共和政政府**と\*\*反乱軍(フランシスコ・フランコ将軍率いる国粋派)\*\*の間で戦われました。この戦争の結果、反乱軍が勝利し、フランコによる独裁政権が樹立されました。 #### **2. 背景** 1930年代のスペインは、社会的・政治的対立が深刻化していました。特に…
【北欧で人気急上昇中】サウナソング「1,2,3,サウナァ~!」
北欧発のサウナをテーマにした曲Bara Bada Bastuが話題です。一回聴いたら耳から離れない中毒性のある曲の中に見られるフィンランドのサウナ文化やスウェーデンとの関係を深堀りして紹介します。
なぜ英国はEUを離脱することにしたのか『問題は英国ではない、EUなのだ』
2016年6月23日に行われた国民投票でイギリス国民はEU(ヨーロッパ連合)からの離脱を選択したが、そこにはEUがあまりに移民の流入に寛容すぎることや、政策上の自由がなくなること、EUの官僚主義的狂気によって社会の破壊が進んでいることなどの理由があるという。 さらに、EUが事実上ドイツがヨーロッパを支配するための組織として機能してしまっているところも問題だ。 問題は英国ではない、EUなのだ 21世紀の新・国家論 (文春新書) イギリスはEUの前身であるEC(ヨーロッパ共同体)への加盟も1973年であり比較的遅い。さらに通貨統合にも参加しておらず、EUとは一定の距離を置いていたことがわかる。2度…
『絶対主義の盛衰世界の歴史9』社会思想社、1974年6雷帝後の動乱のロシア5ロマノフ朝の成立それから四ヵ月たった一六一三年二月、モスクワには各地からの代表、約六百名が集まり、ロシアで空前絶後といわれる大がかりな全国会議(ゼムスキー・ソボー=イワン四世時代につくられた)が開かれた。この身分制議会では、「動乱」の厄払いとして三日間の斎戒(さいかい)がおこなわれたのち、議事にはいり、新しいツァーリの選出がおこなわれた。しかし、ツァーリの立候補者はたくさんいた。すなわちポーランド王子、スエーデン太子、偽ディミートリーの遺児(マリーナの息子)、コリーツイン公、ムスチスラウスキー公、ツルベツコイ公などである。そこでまず、外国の王室から、ツァーリを招へいすることは、コサック代表のつよい反対にあって否決された。つぎにロシ...9-6-5ロマノフ朝の成立
『絶対主義の盛衰世界の歴史9』社会思想社、1974年7西欧に窓を開くピョートル大帝の大改革6ベーリングの後援者ロシア人のシベリア進出は十六世紀から本格的に行なわれているが、またこの地は流刑地として有名である。まさしく「シベリア流刑史は、シベリアの発見とともにはじまる」のである。そして十七世紀にもシベリア経営は、主としてコサックにより原住民を征服しつつ行なわれ、その間にはオホーツク海岸や、いまのベーリング海にのぞむ地方も探検された。このシベリア開発のおもな目的は良質の毛皮をうることにあり、これをもとめて、多くのロシア商人が出かけた。彼らによって都市がつくられ、これに応じて、農民の強制植民もすすめられた。ヤクーツク市は、シベリア東部進出の拠点となった。しかし十七世紀中ごろ、ロシア人がアムール川(黒竜江)の流域...9-7-6ベーリングの後援者
『絶対主義の盛衰世界の歴史9』社会思想社、1974年8フランス啓蒙思想――貴婦人たちのサロン4百科全書派イギリスでは一七〇四年ジョン・ハリスによって、また二八年イフレイム・チェンバーズによって、百科辞典が発行された。これらに注目したパリの出版業者ル・ブルトンは三人の同業者をさそい、四六年に、「ハリスおよびチェンバーズの英語辞典を増補しつつ、翻訳する……」という認可を当局から交付された。そしてこの企画の編集者として、白羽の矢をたてられたのがズニ・ディドロ(一七一三~八四)である。彼はシャンパーニュ地方、ラングルの刃物業者の旧家にうまれ、パリに出て学んだが、親の期待に反して定職につかず、文筆生活にはいった。そして詩、小説、文芸評論、美術論、哲学および科学論など、数多くの著作をものにし、彼に匹敵するのはボルテー...9-8-4百科全書派
(挿絵はフリーメーソンの紋章。1980年ごろまで、教会はカトリック信者がこの結社に入ることを禁じていた。)『絶対主義の盛衰世界の歴史9』社会思想社、1974年8フランス啓蒙思想――貴婦人たちのサロン1理性の光明啓蒙思想とは、十七世紀、とくに十八世紀に発展した合理主義、自由主義、進歩主義的な思想の総称である。個々の面をみると、宗教では理神論や無神論、哲学では経験論、感覚論、唯物論などが展開され、政治・社会思想では自然権にもとづく社会契約説が支配的であり、経済上では重農主義などの自由放任論があらわれた。とくにここで注目すべきは政治、社会上で専制王政、封建遺制、カトリック教会の権勢などに対して、「理性の光明」をもって批判がおこなわれたことであろう。この啓蒙思想は、十七世紀市民革命によって絶対主義を倒し、早くも自...9-8-1理性の光明
『絶対主義の盛衰世界の歴史9』社会思想社、1974年5ルイ十四世が造ったベルサイユ宮殿の盛衰3廷臣たち新装のベルサイユ宮殿には廷臣の用に供するための多くの部屋があり、ルイ十四世はこれらを貴族たちに適当に与えたわけであるが、それこそ彼らにとって、まず何よりの恩寵であった。それから廷臣たちは何かの役職にありつかなければならない。前にのべた王の一日のスケジュールをとってみても、それらに参加、列席できる資格は厳重に定められ、王もこれを巧みに分配して貴族たちをあやつった。太陽王排便のときにも、それに参列できることは廷臣の大きな特権の一つであったという。豪奢を愛する王は、万事にたいへんな浪費家であったが、廷臣もそうでなければならなかった。これは王の恩寵にあずかる一手段であるとともに、貴族たちの生活を苦ししくて、王権に...8-5-3廷臣たち
『絶対主義の盛衰世界の歴史9』社会思想社、1974年4イギリスの王政復古から名誉革命へ2ドーバーの密約一六六〇年、チャールズ二世はクロンウェルの航海法を更新、拡充した。当時はロンドンの実業界ばかりでなく、宮廷も貿易には熱心で、親王、大臣や上流社会のめんめんが貿易会社に出資した。たとえば王の弟で、海軍総司令官であったヨーク公ジェームズ(一六三三~一七〇一)が、王立アフリカ会社の初代総裁となり、東インド会社の株を買っている。一六六四年、イギリスはアフリカ西岸のオランダの根拠地を占領し、アメリカ大陸でもニュー・ネーデルラントをとって、ニュー・アムステルダムをニュー・ヨークと改めた。戦争とペストに痛みつけられて、さらにロンドンに大火事が起ったそして、第二次イギリス・オランダ戦争(一六六五~一六六七)がおこったので...9-4-2ドーバーの密約
『絶対主義の盛衰世界の歴史9』社会思想社、1974年3イギリスのピューリタン革命9デ・ウィットの苦悩さて前述のように、一六四八年ウェストファリア条約で、オランダの独立も国際的に承認され、平和も回復された。しかし、ときの総督、オランイェ家のウィレム二世(在職一六四七~五〇)は、さらにスペインとの戦いをつづけようとしたが、これは、南のスペイン領ネーデルラントを支配しなければ、オランダは安全でないと考えたためである。これに反対したのは、商業上の利益を第一とし、平和を欲するアムステルダムをはじめとする、ホラント州の諸都市であった。そこでウィレム二世は一六五〇年、ホラント州の指導者六名を逮捕し、アムステルダムを夜間に急襲しようとした。アムステルダムに至る街道には、途中、何本かの道が交差した地点があり、迷いやすかった...9-3-9デ・ウィットの苦悩
『絶対主義の盛衰世界の歴史9』社会思想社、1974年3イギリスのピューリタン革命8オランダの繁栄一六四八年六月十日、オランダのパーク駐在ポルトガル大使は、本国に至急便を送った。それは、オランダ人がウェストファリアの条約成立のお祝いをしていることを報告するとともに、つぎのような文をしるしている。「ここでは講和は、本月五日午前十時、最高裁判所において、条約の条文を読みあげることによって公表された。この日、この時刻がえらばれたのは、八十年前、この日、この時刻に、エグモント伯とホルン伯とがブリュッセルにおいて処刑されたからである。国民は、二人が自由を擁護して倒れた同日同時刻を期して、自由の身になることを期待した。」ピューリタン革命がちようど高潮期にさしかかる一六四八年、ネーデルラントのオランダは独立戦争(一五六八...9-3-8オランダの繁栄
『絶対主義の盛衰世界の歴史9』社会思想社、1974年2ブルボン王朝余話、フランスの大政治家リシュリュー6サロンの客このフロンドの乱に関係した貴族のひとりに、ラ・ロシュフコー(一六一三~八〇)という人物があった。彼の家柄は父がフランソワ五世と袮するような、大貴族中の大貴族である。彼はこの父の死(一六五〇)まで、マルシャック公とよばれた。少年期のことはよくわからないが、公爵家の領地ベルツイユの城館でのびのびした、しかし孤独な日々をおくったらしい。まだ十四歳半くらいで、やはり名門の貴族の娘と結婚、八人の子供ができたが、この夫人についてはほとんど不明である。一方、彼は一六二八年から三六年ごろ、軍務に服するとともにルイ十三世の宮廷につかえている。この宮廷では、シュブリュース公妃らの反リシュリュー陰謀に加担して失敗し...9-2-6サロンの客
「小学生でもわかる世界史」朝日新聞出版YouTubeで非常に有名な「ぴよぴーよ速報」がとうとう本になりました。世界史を異様に軽妙な語り口かつ、ナメたような調子…
スパルタ教育の語源とは?古代ギリシャにあったポリスの育児方法がヤバ過ぎる。
スパルタ教育というのは厳しい教育をすることを言います 辞書などで調べると 厳しい訓練のような教育を施すことを言います。 その語源を調べると非常に古い言葉だと思われます &a
日本人の恋愛と欧米人の恋愛はかなり違う:告白恋愛と非告白恋愛
「日本人の恋愛と欧米人の恋愛はかなり違う:告白恋愛と非告白恋愛」 以前、パリ在住の日本人男性の漫画家が当地の恋愛事情を描いて非常に驚いたと書いた。 それは恋愛…
冷戦下における東西陣営の対立 楽しい世界史 -ヨーロッパの歴史-
・資本主義 VS 社会主義の「冷戦」のはじまり・西欧は資本主義陣営、東欧は社会主義陣営に・ドイツは東西に分裂し
ヒトラーの野望と第二次世界大戦 楽しい世界史 -ヨーロッパの歴史-
・ヒトラー率いるナチスがドイツを牛耳る・日本・ドイツ・イタリアが同盟・第二次世界大戦で日独伊が連合国に敗れる
第一次世界大戦とロシア革命 楽しい世界史 -ヨーロッパの歴史-
・市民も巻き込まれた第一次世界大戦・ロシア革命で史上初の社会主義国家が誕生・大戦後、厳しい制裁がドイツに課せら
ベーグルはユダヤ人が作った?歴史を紐解くと可哀想になってくる
ベーグルといえばドーナツみたいな形で妙に思いパンという印象があります。 ベーグルがどこで作られたのかを知るとユダヤ人に行き着くそうです。 差別的な発想でユダヤ人はベーグルを発明するしかな
クリスマスの歴史はとても長い 西暦2023年現在で考えれば分かる通り かなり古くからある風習です。 クリスマスがいつから始まったのかを紹介します。 クリスマス
混迷する世界大戦直前の情勢 楽しい世界史 -ヨーロッパの歴史-
・仏・独・露と対立したイギリスは日本と同盟・日露戦争で負けたロシアはバルカン半島に進出・バルカン半島の民族紛争
ヨーロッパ哲学の流れ 知を愛する学問の発展と歴史 楽しい世界史 -ヨーロッパの歴史-
・哲学はギリシア語「Philosophia」(フィロソフィア)を訳した言葉・「知を愛する」という意味をもつ哲学
台頭するビスマルクのドイツ 楽しい世界史 -ヨーロッパの歴史-
・ドイツの主導権がオーストリアからプロイセンへ移行・首相ビスマルクが鉄血政策を推進し、ドイツ帝国成立・フランス
『文芸復興の時代世界の歴史7』社会思想社、1974年10悲劇の女王メアリー・スチュアート3カーク・オ・フィールドの謎しかしメアリーの恋情を一身に受けているとしても、ダーンリーが存在するかぎり、ボズウェルは彼のような男にとってもっとも必要なもの、すなわち権力を手中にすることはできない。そしてこの短気で向こう見ずな男は、それをにぎるために殺害という方法を選んだ。この計画にメアリーは参加していたのか?暗黙のうちに承認していたのか?それとも無関係であったのか?従来から議論のわかれるところである。一五六七年一月、ダーンリーは天然痘のためグラスゴーで病床にあった。ダーンリーは子供への伝染を恐れて、宮殿があるエジンバラから数週間離れていたのであるが、二十二日、メアリーは夫を見舞うため、このグラスゴーにおもむいた。それか...7-10-3カーク・オ・フィールドの謎
『文芸復興の時代世界の歴史7』社会思想社、1974年10悲劇の女王メアリー・スチュアート1宿命のライバルルネサンス的教養を十分に身につけ、フランスの王妃、それからスコットランド女王として最高の地位にもついた一世の美女が、よりによって断頭台上で、なぜ命を落とさねばならなかったか?これはその悲劇のささやかな物語である。メアリー・ステュアートはスコットランドの王、ステュアート家のジェームズ五世(在位一五一三~四二)と、フランスの貴族マリー・ド・ギーズとのあいたに生まれた。それは一五四二年十二月、父王の死のまえ数日のことであり、彼女は揺籃(ゆりかご)のなかからすでに女王であった。彼女だけが無事に成長した子供であっだから。そしてメアリーの祖母はイギリス王家のチューター家の出であり、したがって彼女はイギリス王位の継承...7-10-1悲劇の女王メアリー・スチュアート
『文芸復興の時代世界の歴史7』社会思想社、1974年9カルバンとフランス・ルネサンス7テレームの僧院ここでラブレーは自分が書いている物語の筋さえも忘れはてて、ひたすら明けそめた時代にかけた希望と理想とあこがれとの夢、すなわちルネサンスの夢にふけるかのようである。まずこの僧院の建築の描写が、ルネサンス期王侯貴族のはなやかな城館を総合して考えられており、しかもそれらのどれよりも見事だと、作者自身が信じている。ほとんど貪欲ともいうべき好奇心と新鮮なよろこびをもって、ラブレーはテレームの僧院を構想する。それは世のいっさいの僧院とは、まったく正反対のものである。ふつうでは僧院と尼僧院とはまったく別の土地にあるが、テレームでは、男がいないときは女もいてはならず、女がいないときは男もいてはならないことになっている。また...7-9-7テレームの僧院
ロシアの南下政策と東方進出 楽しい世界史 -ヨーロッパの歴史-
・不凍港獲得のため南下政策を進めるも失敗し東方へ進出・クリミア戦争敗北で近代化の必要性を痛感し、改革を実行・改
『文芸復興の時代世界の歴史7』社会思想社、1974年9カルバンとフランス・ルネサンス4カルバン派の都ジュネーブジュネーブにおけるカルバンの仕事は、まず改革派としての教会を再組織することであったが、その礼典、儀式や讃美歌、祈祷(きとう)文などはすでにストラスブールの時代にできていた。また彼は、市当局から教会をきりはなし、長老会議が聖書の主旨にしたがって市民生活を監視し、指導することとした。長老とは信仰も日常の行ないもすぐれた市民のことである。カルバンは公式の地位にはつかなかったが、うしろから長老会議を動かしたことはいうまでもない。そしてはでな服装や身のまわり品は禁止され、娯楽や料理も制限され、書物の印刷には許可がいり、外国あての手紙は許されず、客は宿屋の主人に素姓をさぐられ、子供の名前にはイサク、アダムなど...7-9-4カルバン派の都ジュネーブ
大英帝国の繁栄とフランスの変遷 楽しい世界史 -ヨーロッパの歴史-
・イギリスは経済繁栄とともに自由主義的改革を推進・政権がめまぐるしく変わるフランスで資本家が成長・植民地をめぐ
『文芸復興の時代世界の歴史7』社会思想社、1974年8ヒューマニストの運命1日本にいたエラスムス栃木県の西南、佐野市上羽田(旧足利郡吾妻村)にある竜江院(りゅうこういん、禅宗)の山門をくぐると、左手に小さな観音堂がある。この観音堂に江戸時代の初期から大正時代の末期まで、観音さまとともに「貨狄(かてき)さま」と呼ばれる木像が安置されていたが、それは高さ一メートルばかり、大黒帽に似た頭巾をつけ、右手に開いた巻き物を持った立像である。この「かてき」については、カテキスム(カトリック教の教理を問答体で書いたもの)、またカテキスタ(信者と教理問答を行う役僧)から出たとか、あるいは中国で大むかしにはじめて舟を作ったと伝えられる人のことだとか、いろいろと解釈されている。この木像の存在が日本でも注目を集めはじめたころ、そ...7-8-1日本にいたエラスムス
『文芸復興の時代世界の歴史7』社会思想社、1974年7マルティン・ルターの場合5神の前での平等ルターは「大農民戦争」のさなか、一五二五年五月、四十二歳で結婚した。妻は尼僧で二十六歳のカタリナ・フォン・ポーラといった。ルターは『貴族に与うる書』のなかで、つぎのように書いている。「聖書によれば僧侶はりっぱな人物で学問があり、一人の女の夫であるべきなのだが、キリスト教がローマ時代、権力者に圧迫され、そのため勇気が必要だったために、結婚しないという決心をする僧侶がたくさん出た。ところが教皇は、このすぐれた人びとにとって自発的な意志であったものを、一つの規則として僧侶すべてに強制した。それは教会の財産を、ローマ教会に全部結びつけることに役立った」と書いた。僧侶のなかには「めかけ」をもつ者もいたが、恋愛をし子供ができ...7-7-5神の前での平等
・ナポレオンの戦争後の国際秩序、ウィーン体制が確立・七月革命を皮切りに各地で反乱が勃発し弾圧される・二月革命、
「シシィ」の愛称で呼ばれるえりエリーザベト皇妃について今日は少し触れます。 少しというのはすべて書くとかなり長くなるので、さらっとまとめます。 画像は用意できなかったのですが、検索すると実際の写真も見ることができます。 エリーザベト「Elisabeth」/シシィ エリーザベトは1837年クリスマスイヴにバイエルン王家であるヴィッテルスバッハ家の次女として、父バイエルン公マキシミリアン・ヨーゼフ、母ルドヴィカ・フォン・バイエルンのもとに生まれました。 ※バイエルン王国とは、ドイツ南部の王国であり、首都をミュンヘンとして、ヴィッテルスバッハ家によって治められていました。 日本では英語読みでエリザベ…
『文芸復興の時代世界の歴史7』社会思想社、1974年5斜陽のイタリア半島――イタリア・ルネサンスの片影Ⅱ――5ローマの掠奪(りゃくだつ)軍事的であるという点で非難されたユリウス二世は、その剛毅果断な性格をもって、聖職売買のような悪習を禁じ、腐敗堕落を正した。そしてミケランジェロにシスティナ礼拝堂の天井画を描かせ、ブラマンテにイタリア・ルネサンス最大の記念物、聖ピエトロ寺院の改築を行なわせ、ラファエロにバティカン宮の壁を飾らせたのも、この気宇(きう)雄大な教皇であった。ユリウス二世のあとをついだのは「豪華王」ロレンツォの次男で、ピエロの弟にあたるメディチ家のジョバンニ(一四七五~一五二一)であり、一五二二年教皇レオ十世となった。彼は政治的野心においても、文化の保護においても、アレクサンデル六世やユリウス二世...7-5-5ローマの掠奪
英雄ナポレオンの栄光と挫折 楽しい世界史 -ヨーロッパの歴史-
・ナポレオンのクーデターによりフランス革命が終結・ナポレオンは領土を広げ、内政でも手腕を発揮し皇帝に・ロシア遠
『文芸復興の時代世界の歴史7』社会思想社、1974年5斜陽のイタリア半島――イタリア・ルネサンスの片影Ⅱ――1一修道僧の怒りフィレンツェの繁栄は、思えばこのロレンツォの時代を絶頂としていた。彼の治世の晩年、奢侈(しゃし)、悦楽(えつらく)のフィレンツェのただなかにおいて、激烈な言葉で神を説き、終末の日、裁きの日が近いことを警告するひとりの修道僧があらわれたのだ。彼、ジロラモ・サボナローラは一四五二年、フェラーラの平凡な中流階級の家庭に生まれ、周囲は医学の道に進ませようとしたが、彼は孤独を愛して、世俗的生活をきらい、二十二歳のとき、ドメニコ派のある修道院にはいってしまった。「私を教団に走らせたものは、この世のみじめさ、堕落、人びとの愚劣である」と、彼は父母への別れの手紙に書いたという。それから修道僧として修...7-5-1一修道僧の怒り
『文芸復興の時代世界の歴史7』社会思想社、1974年4フイレンツェの支配者――イタリア・ルネサンスの片影Ⅰ――4「豪華王」ロレンツォ理想化されたコジモの孫のロレンツォ「豪華王」コジモの子ピエロ(一四一六~六九)は痛風を病みながらも、五年のあいだ、メディチ家の勢威を守った。彼は病気のため公の場所に出ず家にひきこもりがちで、多くの歴史家の評価はさえないが、金融家として蓄財に努力し、外には平和政策をとるとともに、熱心な文芸保護者でもあった。この点、彼が長生きしていたならば、父にまけない文芸のパトロンになったかもしれない。そしてピエロの妻、才媛ルクレティアはみずから詩作し、学芸に対する理解も深く、夫によく協力した。なおピエロの弟ジョバンニ(一四二四~六三)も魅力あふれた人物で、才能にも恵まれていたが、一四六三年父...7-4-4「豪華王」ロレンツォ
7-4-1 フイレンツェの支配者――イタリア・ルネサンスの片影Ⅰ――
『文芸復興の時代世界の歴史7』社会思想社、1974年4フイレンツェの支配者――イタリア・ルネサンスの片影Ⅰ――1水難の都昭和四十一(一九六六)年十一月、イタリアの都市、人口五十万のフィレンツェは思いがけない災難によって、遠く離れた日本人の関心をひいた。それは十一月四日の暴風雨で、「千年に一度」といわれる集中豪雨がイタリア中・北部をおそい、多数の犠牲者を出したが、とくに被害がひどかったトスカナ地方のフィレンツェ市では、アルノ川の氾濫によって大洪水が起こったのだ。この水害はイタリアの三分の一におよんだが、そのなかでとくにフィレンツェが大きく取りあげられたのは、被害の中心地だったこともあるが、またこの都市がイタリア・ルネサンスの面影をこんにちに残し、「生きている美術館」であり、「かけがえのない宝石」といわれてい...7-4-1フイレンツェの支配者――イタリア・ルネサンスの片影Ⅰ――
『文芸復興の時代世界の歴史7』社会思想社、1974年3大航海時代5銀と香料コンキスタドレスには、自分の生命をも粗末にした者が多かった。彼らはスペイン中南米植民地初期の政治、軍事未分化の状態の産物であった。その後の中南米社会の主役は、カトリック教会の僧侶に肩がわりされる。ヨーロッパでとかく保守的反動的な役割を果たした僧侶たちも、中南米では積極的な社会建設の役割を果たすのである。このあいたにスペインの植民地経営方式は、コロンブス流の分配方式から委託方式というのに変わった。一五二一年からスペイン王が、原住民の保護を条件に、スペイン人領主に土地と住民を委託するということである。一五一七年からは黒人奴隷の輸入が、ネーデルラントの業者の請負として許可された。この権利は後に持ち主がジェノバ人に変わり、十八世紀はじめには...7-3-5銀と香料
・ルイ14世のもと絶対王政が最盛期を迎える・アンシャン=レジームへの不満が高まり、革命が勃発・共和政が成立し、
『文芸復興の時代世界の歴史7』社会思想社、1974年3大航海時代3マジェランの世界一周ポルトガル王家が新領土の保証を、絶えずローマ教皇に求めていたことは前に書いた。一四八八年バルトロメウ・ディアスが喜望峰を発見した。その帰路は海岸づたいではなく、北北西にアフリカ大陸後頭部に直航している。もはや大西洋はポルトガルにとって、使いやすい海となりつつあった。さらにアフリカ東岸のようすも、陸路の調査とディアスの航海でだいたい見当がついていた。あとは船の改良など準備をととのえて、アフリカ東岸とインドへの航海に出かければよいと思っているところへ、降ってわいたコロンブスの「インド発見」のショックである。コロンブスの新世界は一四九三年、教皇アレクサンデル六世によってスペイン領とみとめられた。どんな認めかたかというと、地球の...7-3-3マジェランの世界一周
『文芸復興の時代世界の歴史7』社会思想社、1974年2航海王という名の王子――ポルトガル夜話――2セウタ(イスラム海賊の本拠地)攻略エンリケの父ジュアン一世の政治家としての立場は、はじめけっして楽でなかった。彼は王族とはいえ、妾腹でポルトガルの大貴族たちからは内心軽んじられていた。王室財政は戦争のため極度に悪化しており、ごたぶんにもれず、貨幣改鋳による利益に頼らねばならなかった。リスボンの繁栄はめざましく、商人たちはたしかに新しい王家を支持していたが、封建領主としての王家は商人から上手に多くの税を吸い上げる習慣がなかった。もともと封建領主は地主であり、農業から収入をあげるのがたてまえである。しかしたとえば一三四五年王家が発見したカナリア諸島の場合、これはジェノバ商人への課税という独占的利益をもたらした。ジ...7-2-2セウタ(イスラム海賊の本拠地)攻略
『文芸復興の時代世界の歴史7』社会思想社、1974年2航海王という名の王子――ポルトガル夜話――3騎士団長エンリケ王子はこの遠征でアフリカと深く結びつけられた。セウタの占領は多くの無理をしながらつづけられ、一四一八年と三七年には、エンリケみずから遠往軍を指揮しなくてはならなかった。西アフリカがある程度までしかイスラム化されておらず、キリスト教布教の可能性があるという事実がしだいに判明した。またセウタ確保の費用をひねり出すことにも、新しい富を求めて探検を開始する理由があった。エンリケは一つには王室の一員として、一つには「キリスト騎士団長」としての立場から、その役目を果たしたのであるが、この団長の地位は、コンスタンツ公会議できまった統一教皇マルティヌス五世(在位一四一七~三一)から認可されたものである。ところ...7-2-3騎士団長
『文芸復興の時代世界の歴史7』社会思想社、1974年2航海王という名の王子――ポルトガル夜話――1イギリスの血(写真:エンリケ航海王子。ロカ岬のこの像には「ここに地終わり、海始まる」と刻まれている)ポルトガルの「ヘンリー航海王」というひとが、コロンブスやバスコ・ダ・ガマの先輩として航海事業に手をつけた。ヘンリー航海王は英語のヘンリー・ザ・ナビゲーターの邦訳。直訳なら「航海者」であって、けっして「王さま」ではない。英語からの邦訳者は「第一人者」の意味で、こうしたのであろう。ヘンリー(ここでは以下、ポルトガル名エンリケを使用する)は王子として、一三九四年から一四六〇年まで生きた。日本では足利義満の時代から、太田道灌が江戸城をつくったころまでにあたり、日明(にちみん)貿易と倭寇(わこう)の時代にもあたっている。...航海王という名の王子――ポルトガル夜話――
議会政治を確立したイギリス革命 楽しい世界史 -ヨーロッパの歴史-
・エリザベス1世が即位し絶対王政の絶頂期に・ピューリタン革命で台頭したクロムウェルが独裁開始・名誉革命により議
海外交易を制した覇権国家の移り変わり 楽しい世界史 -ヨーロッパの歴史-
・ポルトガル・スペインが大航海時代をけん引・中継貿易で栄えたオランダが経済の中心に・いち早く産業革命を迎えたイ
絶対王政とハプスブルク家 楽しい世界史 -ヨーロッパの歴史-
・国王が全権を握る「絶対王政」のはじまり・フランス王家とハプスブルク家が対立・両家の対立が近世ヨーロッパの国際