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『絶対主義の盛衰世界の歴史9』社会思想社、1974年8フランス啓蒙思想――貴婦人たちのサロン4百科全書派イギリスでは一七〇四年ジョン・ハリスによって、また二八年イフレイム・チェンバーズによって、百科辞典が発行された。これらに注目したパリの出版業者ル・ブルトンは三人の同業者をさそい、四六年に、「ハリスおよびチェンバーズの英語辞典を増補しつつ、翻訳する……」という認可を当局から交付された。そしてこの企画の編集者として、白羽の矢をたてられたのがズニ・ディドロ(一七一三~八四)である。彼はシャンパーニュ地方、ラングルの刃物業者の旧家にうまれ、パリに出て学んだが、親の期待に反して定職につかず、文筆生活にはいった。そして詩、小説、文芸評論、美術論、哲学および科学論など、数多くの著作をものにし、彼に匹敵するのはボルテー...9-8-4百科全書派
1812年4月18日、ナポレオンは、後方、即ち、西方の半島戦争の憂いを無くすために、イギリスに和平を提案した。 ナポレオンの兄、ジョセフは、スペイン王の地位…
第3位【ナポレオン・ボナパルト】249.ワルシャワ公国駐在大使
1812年2月26日、パリにおける、ロシアの皇帝の代理人、チェルニチェフの邸宅が、フランスの警察によって、捜索を受けた。 前述の通り、チェルニチェフは、ロシ…
第3位【ナポレオン・ボナパルト】248.ベルナドットとロシアの同盟
1812年1月20日、スウェーデン王太子、ベルナドットは、スウェーデン領ポンメルンのイギリスの密輸を停止させるように、ナポレオンから、命令を受けた。 ベルナ…
1811年6月9日に、パリのノートル・ダム大聖堂において、ナポレオン・フランソワの洗礼式が、行われた。 6月17日には、ノートル・ダムにて、全国宗教会議が、…
第3位【ナポレオン・ボナパルト】245.ナポレオン2世の誕生
1811年2月6日、スウェーデンの王太子、ベルナドットは、ナポレオンに、フランスの同盟国のデンマーク王国の利害を大きく、損なう、ノルウェーの占領を認めてくれ…
第3位【ナポレオン・ボナパルト】244.駐露大使コランクール
フランスのロシア駐在大使、コランクールは、タレーランの意見に同調し、協力して、戦争回避に動いていた。 コランクールは、1811年6月パリに召喚されると、タレ…
オルデンブルクは、ドイツの領邦国家の一つで、デンマーク王家のオルデンブルク朝を輩出している。 その後、1667年~1773年の間には、デンマーク王国の支配下…
アレクサンドル1世は、外交官である、ネッセルローデをロシア大使館の参事官として、パリに派遣すると、タレーランと接触させた。 タレーランは、エルフルトの協定の…
ウェリントン公爵は、ベレスフォード将軍の戦況報告を読むと、意気消沈する、内容を不満に思い、「これではダメだ。イギリス国民を発狂させてしまう。勝利と書き直せ。…
『絶対主義の盛衰世界の歴史9』社会思想社、1974年5ルイ十四世が造ったベルサイユ宮殿の盛衰3廷臣たち新装のベルサイユ宮殿には廷臣の用に供するための多くの部屋があり、ルイ十四世はこれらを貴族たちに適当に与えたわけであるが、それこそ彼らにとって、まず何よりの恩寵であった。それから廷臣たちは何かの役職にありつかなければならない。前にのべた王の一日のスケジュールをとってみても、それらに参加、列席できる資格は厳重に定められ、王もこれを巧みに分配して貴族たちをあやつった。太陽王排便のときにも、それに参列できることは廷臣の大きな特権の一つであったという。豪奢を愛する王は、万事にたいへんな浪費家であったが、廷臣もそうでなければならなかった。これは王の恩寵にあずかる一手段であるとともに、貴族たちの生活を苦ししくて、王権に...8-5-3廷臣たち
『絶対主義の盛衰世界の歴史9』社会思想社、1974年5ルイ十四世が造ったベルサイユ宮殿の盛衰2太陽王のある一日ベルサイユの宮殿と庭園の工事には、当時の美術家たちが動員された。宮殿中央の主館を設計したのはル・ボー(一六一二~七〇)であり、マンサール(一五九八~一六六六)はこれをうけつぐとともに、有名な「鏡の間」や礼拝堂を建造した。この「鏡の間」の装飾にあたったループルン(一六一九~九〇)は、画家としてよりも装飾家として天才的であり、かずかずの絵とともに、宮殿のため椅子、テーブル、じゅうたん、銀細工、鍵穴までデザインした。造園を担当したル・ノートル(一六一三~一七〇〇)は個人的にも王に親しかった。そしてこの雄大、豪華なベルサイユ宮殿は、当時のバロック美術を代表するものであった。そしてルイ十四世はベルサイユに熱...8-5-2太陽王のある一日
アルテンのスールト元帥は、退却を支援するため、擲弾兵2個大隊の最後の予備兵力を前進させ、連合軍の砲撃により、大損害を追ったが、擲弾兵及び騎兵は、戦線を守った…
アルテンのスペイン兵が、連合軍右翼に到着する前にゴディノが、アルブエラを奪取し、連合軍の反対の側面も、フランス軍に晒されることとなった。 コールは、ベレスフ…
狭い縦隊の正面及び、側面に射撃で、圧力を加えられるため、通常は、連合軍の横隊とフランス軍縦隊の戦闘では、横隊のより、大きな火力が、決定的要素となった。 しか…
イギリス軍の右翼は、フランス軍と射撃戦を続けていたが、銃剣を付けて、突撃した。 ホートンの旅団が、戦場に降る、視界を遮る、雹と雨へ向かって移動したので、両軍…
スペイン軍のフラゲ将軍は、スペイン国王近衛隊の2個大隊を、険しい、傾斜の頂上に横隊にて、展開させると、残りの2個密集縦隊が、背後に就いた。 その全体を支援す…
ベレスフォード将軍は、戦場にある、丘の反対斜面に部隊を配置した。 スールト元帥は、連合軍を視認できなかったため、ブラケの師団が昨夜到着したことに気付いていな…
ベレスフォード将軍は、ブラケ将軍、カスターニョス将軍に説得されると、スールトのフランス軍との決戦に挑むことを決断した。 イギリス・ポルトガル・スペインの連合…
第3位【ナポレオン・ボナパルト】234.ホアキン・ブラケ将軍
ベレスフォード将軍は、ウェリントン公爵の指示に着実に従い、最終的には、5月4日、バダホスの包囲を開始した。 更に、イギリス・ポルトガル連合軍に、新たなスペイ…
ベレスフォード将軍の前衛部隊が、東岸に取り残されたことは、破滅的に思われたが、バダホスの守備を指揮していた、ラトゥール=モブールは、連合軍と対峙するより、要…
モルティエ元帥のフランス軍は、3月14日の夜に、サン・ジョアン要塞を占領したが、カンポ・マイオルの要塞の攻略は、更に困難であった。 ホセ・タラージャ少佐の指…
第3位【ナポレオン・ボナパルト】231.マッセナのポルトガル撤退
スールト元帥は、マッセナ元帥が、病気、飢餓、そして、尋常でない、冬に悩まされて、崩壊した、軍隊を率いて、ポルトガルから、退却したことを、学習していた。 その…
スールト元帥は、フランスのナポレオンから、マッセナ元帥への援軍要請を受けたが、ナポレオンの命令は、古い情報に基づいていたため、小部隊を送るのみとの命令であっ…
第3位【ナポレオン・ボナパルト】229.マッセナのポルトガル侵攻
1810年4月17日、ナポレオンは、マッセナ元帥をポルトガル軍最高司令官に任命した。 5月10日、マッセナは、スペインのバヤドリッドにおいて、司令官職に就任…
第3位【ナポレオン・ボナパルト】228.ベルナドットと解放証書
ベルナドット元帥は、既に、ハノーファー及び、ハンザ都市同盟の総督時代に、広範囲の優れた、管理能力を示していたが、アウグステンブルク公には、備わっていなかった…
第3位【ナポレオン・ボナパルト】227.ファビアン・ヴレーデ
メルネル中尉は、7月12日に、スウェーデンに帰国したが、独断専行で、スウェーデン王位継承候補者を探したため、地方に左遷させられた。 しかし、メルネル中尉の計…
第3位【ナポレオン・ボナパルト】226.カール・オットー・メルネル
スウェーデン王カール13世の使者の一人、カール・オットー・メルネル中尉は、パリに到着後、フィンランド奪回のため、フランスとの関係を強固にする、人物を、王位継…
第3位【ナポレオン・ボナパルト】225.スウェーデン王カール13世
スウェーデン王、グスタフ4世アドルフは、ナポレオンとの同盟を悉く、拒否したため、スウェーデン領ポメラニアを失った。 更に、ティルジットの和約によって、ナポレ…
古代から中世初期にかけて続いたゲルマン人の移動と影響力 #ゲルマン人 #移動
ゲルマン人は古代から中世初期にかけてヨーロッパの広範囲に影響を及ぼしたインド=ヨーロッパ語族に属する民族群である。彼らは紀元前の時代から北ヨーロッパのバルト海沿岸地域に居住し始め、徐々に南下してライン川やドナウ川方面へと進出した。4世紀には、フン族の圧迫を受けていわゆる「民族大移動」を開始し、ローマ帝国の領土内に侵入した。この過程で、ゲルマン人はいくつもの王国を建国し、ヨーロッパの歴史において重要な役割を果たした。 東ゴード王国とロンバルディア王国 東ゴード王国は、5世紀後半にテオドリック大王の下で最盛期を迎え、イタリア半島を中心に展開した。テオドリック大王はローマ文化を尊重し、ゴート人とロー…
カール大帝の死後、フランク王国はヴェルダン条約、メルセン条約により分裂した
カール大帝の死後、彼の広大な領土は子孫たちによって継承された。ゲルマン人の社会では分割相続が行われる。そのため、フランク王国は分裂する運命にあった。フランク王国は843年のヴェルダン条約によって、西フランク王国、中部フランク王国、東フランク王国の三つに分割された。この分割は、カール大帝の孫たちの間での領土を巡る争いの結果であり、フランク王国の将来に大きな影響を与えることになる。 ヴェルダン条約は、カール大帝の孫であるシャルル2世(禿頭王)、ロタール1世、ルートヴィヒ2世(ドイツ人)の間で結ばれた。この条約により、西フランク王国はシャルル2世が、中部フランク王国はロタール1世が、東フランク王国は…
クローヴィス1世は現在のドイツ・フランス・イタリアを中心とした地域を支配したフランク王国の初代の王である。クローヴィス1世はフランク族のメロヴィング家に生まれ、481年に王となった。彼が王位に就いた時、フランク族はガリア北部に分散していた。クローヴィスは即位後、これらの部族を統一するための戦いをはじめた。 軍事遠征と領土の拡大 カトリックへの改宗とその影響 法の統一と社会秩序の確立 クローヴィスの遺産と後世への影響 軍事遠征と領土の拡大 クローヴィスは軍事遠征を通じてフランク王国の領土を拡大した。496年のトルビアックの戦いでアレマンニ族を打ち破り、ガリアの広範囲を支配下に置いた。これらの軍事…
カロリング・ルネサンスは、8世紀後半から9世紀にかけて、カロリング朝フランク王国カール大帝のもとで起こった文化的復興運動
カロリング・ルネサンスは、8世紀後半から9世紀にかけて、フランク王国のカロリング朝のもとで起こった文化的復興運動である。この時期、ヨーロッパでは学問、芸術、建築が活性化し、ラテン語文学が復興した。カロリング・ルネサンスは、特にカール大帝の治世下で顕著になり、彼の強力な支援と保護のもとで進行した。この運動は、中世ヨーロッパの知的基盤を形成し、後のルネサンスへも影響を与えた。 学問と教育の振興 写本文化の発展 芸術と建築の革新 カロリング・ルネサンスの影響 結論 学問と教育の振興 カロリング・ルネサンスの中心的な側面は、学問と教育の振興であった。カール大帝は、宮廷学校を設立し、子供たちだけでなく、…
ナポレオンは、1804年の皇帝即位直前、ベルナドットと和解したが、常に、嫡子のない、ナポレオンの後継者候補に名前の挙がる、ベルナドットに警戒心を抱いていた。…
キリスト教世界の勝利!トゥール・ポワティエ間の戦いでイスラームを退ける
トゥール・ポワティエ間の戦いは、732年にフランク王国の宮宰カール=マルテルがピレネーを越えて侵攻してきたイスラーム軍を撃退した歴史的な戦いである。この戦いは、中世ヨーロッパのキリスト教世界とイスラーム世界の境界を形成する重要な出来事とされている。 ウマイヤ朝のイスラーム勢力は、711年にイベリア半島に侵入し、西ゴート王国を滅ぼした。このイスラームのヨーロッパ侵入はキリスト教世界にとって大きな脅威となった。720年にはピレネー山脈を越えてガリア侵入を開始し、アキテーヌ公ユードはフランク王国に救援を依頼した。しかし、メロヴィング朝の王には抵抗する力がなく、宮宰であるカロリング家のカール=マルテル…
第3位【ナポレオン・ボナパルト】223.ハンザ都市総督ベルナドット
1807年7月のティルジットの和約後、ベルナドットは、ハンザ都市総督及び、総司令官に任命され、ハンブルクに司令部を置いた。 ベルナドットの第1軍団の指揮権は…
第3位【ナポレオン・ボナパルト】222.ハノーファー総督ベルナドット
1804年5月、ナポレオンに批判的な将軍と目されていた、ベルナドットは、ナポレオンに招かれ、自分の味方になる様に説得された。 ナポレオンは、ベルナドットに、…
第3位【ナポレオン・ボナパルト】221.グスタフ4世アドルフ
1803年、スウェーデン王国は、イギリス、オーストリア、ロシア、ナポリ王国と共に、第三次対仏大同盟に参加した。 1805年のアウステルリッツの戦いにより、オ…
統領政府以来、ナポレオンの独裁体制を支えたのは、タレーランの外交能力、そして、フーシェの情報収集能力であった。 ナポレオン、タレーラン、フーシェのトロイカ体…
第3位【ナポレオン・ボナパルト】219.警察大臣フーシェの解任
ナポレオンは、ウィーンのシェーンブルン宮殿にて、フーシェが、南部諸県に対して、国民衛兵を招集しているとの報告を、陸軍大臣、クラルクから受け取った。 ナポレオ…
1806年6月5日、前述の通り、ナポレオンは、現在のオランダ、パタヴィア共和国を、ホラント王国にとし、ナポレオンの弟のルイ・ボナパルトが、ホラント国王の座に…