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チベット人歌手ゴロク・パルデンが裁判もないまま中国当局から懲役3年の判決を受ける
中国当局が若きチベット人歌手ゴロク・パルデンに懲役3年の判決を下した。裁判は行われなかった。 ゴロク・パルデンは、数か月前、チベットを讃える歌を歌ったとして逮…
JAXAジャクサにサイバー攻撃!過去 C国の男 関与 不起訴
情報ダダ漏れが相次ぐ「日本」。 その情けない現状が、またひとつ明らかになりました。 罪状は「私電磁的記録不正作出」だけ、罰金は50万円以下~こんな罪状では抑止にもなりません。 スパイ防止法がない日本~立
このままでは、3年前の繰り返しです。「人の命は運まかせ」で、よいのでしょうか?...情けない。「息を吐くようにウソを吐く」中国を、今だに学ばない人達は「馬◯」「アHO」なのか?...「WHO」「日本政府」「日本の
出典:Bloomberg(写真家: Win McNamee/Getty) キッシンジャー氏と言えば、「親中派」で有名な人。 わたしが4ヶ月前に見た動画(下記)が最後ですが、100歳で存命中に驚きました。 「中国の旧友、キッシンジャー
中国の食品偽造は、昔からです。 米の偽造では、日本人の想像を超えています…古米や偽ブランドなどではなく、プラスチックの米粒を混ぜたもの。 人の命や健康をかえりみず、金儲け!…中国共産党だけでなく、これ
モノづくりは、失敗と成功の繰り返し・・・そこには、多くの経験を積んだ人々がいます。 基礎技術や安全を軽んじて、見た目とメンツだけの「ハリボテの国」。 売れば売るほど損失を出す、中国の電気自動車 Yo
中国警察に殴り殺されたとみられる活動家孙林の情報を口外した人物が拘束される
中国国家治安警察が活動家孙林の自宅の家宅捜索を行った後、孙林は死亡した。この後、中国当局は、この件に関する SNS 投稿をブロックしている。南京警察は、孙林の…
マイコプラズマ肺炎… まず、この病名を鵜呑みにしてはいけません。 今春、習◯平「コロナ収束宣言」後、意図的にコロナを封殺、この病名が連呼されました。 「わたしが気になるのは、9月に書いた記事で紹介して
中国の活動家孙林が警察による家宅捜索後死亡。警察に殴り殺されたか
中国南京市在住の活動家孙林が国家治安警察による家宅捜索後、死亡した。 「17日、警察が繰り返し孙林の自宅に入りました。近所の住人は大きな騒音を聞いています。」…
14日、チベット人元政治犯ゴロク・ジグメが全米民主主義基金から民主主義賞を授与された。 ゴロク・ジグメはチベットで映画を製作したことなどにより、中国当局から3…
(出典:TBS NEWS DIG) 今回の公明党の行動を見て、とても、わかりやすいニュースです。 このお方は、中国の手先なのか、それとも「おバ◯」なのか、のどちらかと、いうことです。 先に言うべきことは、「拘束
仏教の指導者の長寿と幸福を祈ったチベット人4人が中国当局から懲役2年の判決を受ける
中国当局がセルタのチベット人4人に懲役2年の判決を下した。仏教の活動に従事したためだ。4人が逮捕され、有罪となったのは2度目だ。 4人は、ギャロ、ツェド、バモ…
中国の、この種のニュースは「自然現象、異常現象」で片付ける事はできません。 9月の炭鉱(ウラン鉱山)放射能拡散疑惑や雷雨ゼンソク。 春から続いているマイコプラズマ肺炎とコロナウィルスは、現在、感染拡大中
ディズニーが中国政府の圧力を受け、ダライ・ラマ法王の映画クンドゥンの販売を停止
中国政府の圧力を受けたディズニーが、マーティン・スコセッシ監督の映画 Kundun の販売を禁止した。Kundun は、ダライ・ラマ法王および中国政府によるチ…
「自国軍は常に国際法を順守して活動していると反論」…南沙諸島では「国際法廷判決は紙切れ」と言い、米軍戦闘機には3mまで接近、日本には領海侵犯、EEZ内ミサイル着弾、潜水艦が潜航して領海侵犯…息を吐くたびにウ
「キングダム 70巻」いよいよ韓非子登場。個人的に最も好きなストーリー展開かも。最近、韓非子の言葉に割と心酔してたので、凄く面白い。意外だったのは70巻のみで…
最近、C国製"電気自動車EV"推しの報道を目にしますが、このC国車の日本販売に、1台あたり100万円以上(地域差あり)の補助金=税金には納得できません。 記事タイトル:中国のEV車に「脅威を感じました」の声
動画タイトルに「不運」とありますが、「運」の問題ではありません... とても笑えない映像です。 この人々を見ていると、「道徳、倫理、知識、知性、反省、法律、ルール、規律、マナー、思いやり...」人にあるべきも
インターネットの自由度がない国ランキングで中国が9年連続1位に
フリーダム・ハウスの報告によると、世界のインターネットの自由度は9年連続で低下している。この報告書は、世界のインターネットユーザーの88 %を占める70か国が…
「C国の原子力潜水艦の事故」...最初は、あるSNSから始まり、ネット上では、さまざまな憶測が飛びかい、C国は言葉の否定だけ... 潜水艦や乗組員の映像が今日までありません。 しかし、重大事故が起きたことは間違い
C国の海産物輸入停止が続く中、米国のラーム・エマニュエル駐日大使が、頑張ってくれているようです。 一方、日本政府は何をしているのでしょうか?...WTO提訴検討の話は?「検討、遺憾、丁寧に説明…」国民は声を上
C国の水産物輸入停止が続く一方、日本では、C国メーカーの日本国内販売を税金で、お助けしているという、「喜劇のようなお話」です... 笑えません。 「C国 自動車メーカー日本進出」のニュースを聞いたことは、あ
9月10日の記事の続報... C国当局の情報遮断のせいか、目新しい情報はありませんが、炭鉱での出来事の続きと「雷雨ぜんそく(花粉症アレルギー説)」に否定的内容となっています。※動画後半の新たなウィルス研究が気が
「処理水放出1ヶ月 新たな輸出先の開拓や国内消費の拡大が課題に」NHKニュース(2023年9月24日付)。 急な出来事なので、貯まる水産物の冷蔵冷凍保管設備や国内外の販売促進など短期的支援には賛成ですが、何でも支
東京電力福島第1原発処理水の海洋放出が始まった8月24日以降の3週間余りで中国国内から北京の在中国日本大使館に累計40万件を超える迷惑電話があったことが分かった。ピーク時は1日4万件を上回り、現在も1万件前後の着信があるという。日本政府は通
「福島」「汚染水」「不可解」「異常事態」...最近、奇妙なネット広告(google)を頻繁に見かけます。 C国のプロパガンダ、世論誘導ではと思っていましたが、事実のようです。 その内容は幼稚で醜いものですが、野放し
「C国の原子力潜水艦が台湾海峡で事故では?」との一報は、一人の米国人のSNSだったと思いますが、のちに削除、別の情報もなく、うわさのレベルでした。 しかし、ニュース(動画:下段)によると、事実である可能性
※追記(更新日:2023年9月15日) ニュースの内容が真実なら事態は極めて深刻です。 日本の処理水ウソ報道でC国でバ◯売れした「放射能測定器」が役に立つことでしょう... 皮肉を込めて(怒)。 追記(2023年9月15
こんな国と「交渉、説明」は無理だと思います。 「岸田首相が福島水産物で緊急搬送?」と中共の偽造ニュース、洪水で中共軍も被害に、習近平激怒、李強は辞任を覚悟、中共が拘束した「台湾人スパイ」が出獄 「自
米国メディアが言ってほしいことを言ってくれているので、ご紹介します。 日本の旧メディアに捧ぐ~「報道の自由を守る」は「報道しない自由」ではない。 C国が世界中でやっている環境破壊が簡潔明瞭で、わか
動画タイトル「中国の住居建材から放射性物質を検出、放射線量は東京の976倍?日本、中国をWTOに提訴検討」※動画:約18分 追記:放射能測定の話は7:40より。その後、放射能測定器は中国国内で販売禁止になってい
『宋朝とモンゴル世界の歴史6』社会思想社、1974年12元朝の支配7「省」の由来現代の中国では「省」が地方の行政区両となっている。逝江省とか、福建省とか、いうものである。ところが日本では「省」は中央の官庁である。この違いは、元朝の制度からおこった。そもそも中国では、古代に「三省六部(りくぶ)」の制が完備している。三省とは、中書・門下・尚書であった。中書省は詔勅(法令)の案文を起草し、それを門下省が審議する。こうして案文が決定すると、皇帝が公布し、尚書省をして執行させる。尚書省のもとには六部があって、行政を分担した。六部とは、吏・戸・礼・兵・刑・工であった。この制度を日本でも採用した。ただし国情にあわせて変改をくわえ、「二官八省」の制を立てた。二官とは、神祇(じんぎ)官と大政官である。そして太政官のもとに、...6-12-7「省」の由来
数日前のニュースですが、時事関連の記事は一日に多くて一記事を原則としていましたので、書くのを保留にしていました。書こうと思ったその日に、干ばつも話題になりましたので、そちらを優先したのです。8月17日、米国で中国の不動産大手の恒大集団が正式に破産申請し、これが波及して、やがては、古今未曽有の規模の中国バブル崩壊が始まるのでは、という噂があります。いわく、中国不動産大手の碧桂園も同様に危ないので、これもやがては破綻するだろうし、そうなれば、中国の各界に、特に不動産を中心に資金の融資を行っている地方融資平台も危なくなってくる。中国では、共産主義を国是とする独自の法律から、不動産ファンドの結成が長らく困難であり、その抜け道・例外として、地方政府系の公的基金であり地方融資平台が利用されてきた。その規模は、中国の発...中国バブル崩壊の開始?
『宋朝とモンゴル世界の歴史6』社会思想社、1974年12元朝の支配5ラマ僧の権威元朝はモンゴル人の天下である。いかに色目人が重用せられたからといって、それはモンゴル人の補佐たる役割のものであった。サンガのように、色目人であって宰相につぐ地位にのぼった者もあるが、それは特例にすぎなかった。中央と地方とを問わず、長官たる地位を占めたのは、やはりモンゴル人であった。社会生活においても、モンゴル人は特権をもっていた。たとえば「モンゴル人と漢人とが争って、(モンゴル人が)漢人をなぐっても、漢人は報復することはできない。役人に訴えることをゆるす。」――これは法令として、正式に布告されたものなのである。中国人がモンゴル人(色目人を含む)を殺せば、もちろん死刑である。その上に、犯人の遺族は埋葬金をおさめねばならなかった。...6-12-5ラマ僧の権威
『宋朝とモンゴル世界の歴史6』社会思想社、1974年12元朝の支配1ベニスの商人ちょうどフビライが即位したころのことである(一二六〇頃)。キプチャク汗のベルケ(バツの子)はめずらしい客人を引見していた。ベニスの商人で、ニコロ・ポーロとマッフェオ・ポーロの兄弟であった。二人は一二五三年にベニスを発し、商売のためにコンスタンティノープルにおもむいた。そこに六年ほど滞在し、それからモンゴル人と取引しようと思いたって、キプチャク汗国まで出むいてきたのであった。ボーロ兄弟は、ペルケに宝石を贈り、その二倍の値段にあたる品物を受けとった。取引は大もうけであった。勇(いさ)んでベニスに帰ろうとしたところ、イル汗国のプラグとベルケとのあいだに戦争がはじまった。南西への道は危険となる。帰りたくとも帰れない。そこで東方へむかっ...6-12-1元朝の支配
『宋朝とモンゴル世界の歴史6』社会思想社、1974年11悲劇の朝鮮半島3侵略の災禍モンゴルの侵略は、オゴタイからグユクヘ、さらにモンゲの代にいたるまで、やむことなくつづけられた。モンゴル兵のゆくところ、民家は焼かれ、家財はうばわれた。逃げおくれた者は殺され、捕えられた。「鶏犬一空」――ニワトリもイヌも、まったくいなくなる――――という村も少なくなかった。一二三四年における侵攻にあたっては「とらえられた男女は、無慮(むりょ)二十万六千八百余人、殺された者は数えるこどもできない、(モンゴル兵が)過ぎたところの州郡は、みな灰塵(はいじん)となった」と伝えられている。それからのちも、モンゴル軍には秋にたると押しよせてきた。田畑のみのりを刈りつくし、てむかう者はことごとく殺した。人民にとっては、何の手だてもない。モ...6-11-3侵略の災禍
『宋朝とモンゴル世界の歴史6』社会思想社、1974年10大モンゴル5巨星は落ちたチンギス汗は、大西征のつ彼をいやすひまもなく、早くも同じ年(一二二五)の秋には、つぎの遠征に出陣した。さきに命令にそむいた西夏の国を討伐するためのものであった。そして西夏の征服は、金の帝国を完全に屈服させるためにも、必要と考えられたからである。しかし不世出の英雄も、すでに六十歳をこえていた(年齢には数説あり)。その年の冬には、狩猟のさなかに落馬して傷を負った。左右の人たちはカンの身を案じて、ひとまず撤退することにきめたが、チンギス汗は承知しなかった。あくまでも軍を進めることを命じたのである。攻撃はつづけられた。一二三六年から翌年にかけて、モンゴル軍は、西夏のはげしい抵抗をやぶりながら、やがて国都の興慶をかこんだ。軍の進むところ...6-10-5巨星は落ちた
『宋朝とモンゴル世界の歴史6』社会思想社、1974年10大モンゴル1西方にむける目全モンゴルの大汗となったチンギス汗の前には、おびただしい財宝がつまれていた。それはモンゴルのものだけではなかった。はるか西方のイランやアラビアの産物までが、チンギス汗のもとへ、はこびこまれていたのである。そうした遠い国のめずらしい品物をもたらし、遠い国のふしぎな物語をきかせてくれるのは、中央アジア(西域)から来たウイグル人であった。ウイグル人の多くは、イスラム教徒である。かってイスラム教徒は、西アジアからヨーロッパとアフリカの一部にかけて(地中海をめぐって)、サラセン帝国とよばれる大帝国をきずきあげた。それが八世紀から九世紀にかけてのこと(唐代)である。その後、帝国の勢いはおとろえたけれども、イスラム教徒の意気はなおさかんで...6-10-1大モンゴル
『宋朝とモンゴル世界の歴史6』社会思想社、1974年9草原の英雄6モンゴルの統一いまや高原は、テムジンのもと、ひとつになった。毛氈(もうせん)の帳裙(ちょうくん=帳幕のすそ)ある国は、ことごとく平定された。小さなモンゴルの国が、高原をおおう大国となったのである。虎の年(一二〇六)あらゆる部族、氏族の代表が、オノン川の源にあつまった。クリルタイである。クリルタイとは「集会」のことであり、カンの推戴(すいたい)や、戦争の決定など、国家の部族の重大な行事のときに開かれる習わしであった。そのクリルタイが、これまでにない大きな規模をもって、盛大にいとなまれる。白い旗じるしが、九つの脚にささえられて、高くかかげられた。そのもとで、テムジンはふたたびカンに推戴された。さきには小さなモンゴルの国(それは全モンゴルではない...6-9-6モンゴルの統一
19日、中国当局がテントを破り、カラフルな砂曼荼羅を破壊し、チベット仏教徒の集いを妨害した。ここでは、カルサン・タシ・ギャツォがカーラチャクラを行うことになっ…
新刊『チベットの反論 チベットの史実を歪曲する中国共産党に挑む』出版
明日、新刊『チベットの反論 チベットの史実を歪曲する中国共産党に挑む』がリリースされます。 チベットの反論 —チベットの史実を歪曲する中国共産党に挑むAmaz…
『宋朝とモンゴル世界の歴史6』社会思想社、1974年7都市と農村7農村のすがたさまざまの産業にもまして、めざましい発達をとげたのは、農業であった。華北の畑作地帯では、すでに唐中期には、それまで一年一毛作の農業から、麦と粟(あわ)などをうまく組みあわせて二年三毛作にすることに成功している。ついで宋代にめざましく農業が発達しだのは、江南の水田耕作であった。もともと江南の水田耕作は、ながく中国の政治や文化の中心であった華北の畑作にくらべて、技術的におとっていた。ふるくからの耕法は、火耕水耨(かこうすいどう)といって、草を焼きはらったところに稲をうえ、やがて稲のほかに草が生えてくると、水をひき入れて草を枯らし、稲だけ成育するようにする。いわば一種の焼畑(やきばた)耕作であった。康代になって、ようやく田植えが行われ...6-7-7農村のすがた
『宋朝とモンゴル世界の歴史6』社会思想社、1974年8難解の文字4女真文字の場合「金」国を建てた女真人は、女真文字をつくった。その最初の制定は太祖(阿骨打=アロダ)のときのことで、契丹文字の制作からほぼ百年後にあたっていた。これは女真大字といわれ、おそらく契丹文字を模したものと思われるが、その遺品はまだ発見されていない。こえて第三代の煕(き)宗のとき(一二二八)、いわゆる女真小字が制定された。これは「金」国の領内にひろく使用せられ、碑文や文書として、かず多く残っている。「金」は、宋を圧して南方に追い、華北を領有した。やがて都もいまの北京にうつしたが、そうなると女真人の間には、中国の文化が急速にしみわたる。固有の風俗も、かえりみられないようになる。この傾向をうれえたのが、中興の英主といわれた世宗であった。世...6ー8ー4女真文字の場合
『宋朝とモンゴル世界の歴史6』社会思想社、1974年7都市と農村3民衆の文化都市に住む民衆は、ギルドの中小商人をみてもわかるように、けっして、かならずしも自由な市民とはいえなかった。しかし唐代とくらべるならば、はるかに解放されていた、といえるであろう。こうして民衆にうけいれられ、民衆とむすびついた都市文化が生みだされ栄えてゆく。勾欄(こうらん)で演ぜられる演芸は、まさに民衆のためのものであった。詞(し)もまた、そうであった。「詞」は曲に合わせてつくられた韻文であり、歌う文学ともいえるものであった。唐の中頃からあらわれ、やがて宋代には、「唐詩」に対して「宋詞」といわれるほど、大いに流行した。豪放(ごうほう)な北派と、婉麗繊細(えんれいせんさい)な南派と、ふたつの系統があった。詞はもともと詩から変化してきたも...6-7-3民衆の文化
『宋朝とモンゴル世界の歴史6』社会思想社、1974年7都市と農村2都の明け暮れ開封の都はにぎやかであった。大通りにのぞんで、あちこちにさまざまの店ができた。それだけではない。夜が明けるころには、城門や橋のたもとなど、いろいろの場所で市(いち)がたった。豚や羊をつれて売りにくる者、果子(くだもの)や麺類を売る者、薬や書画を売る者まで、さわがしさと活気にみちた光景がみられた。なかには鬼市子(きしし)といって、泥棒市のようなものまで立った。これは午前三時ごろひらかれ、明けがたには姿を消してしまう。こうして、にぎやかな都市の一日がはじまるのであった。大通りには、酒楼とよばれた料理店がたちならんでいる。酒楼の入口には、色とりどりの紐(ひも)を、のれんのようにむすびあわせて歓門(かんもん)がつくってあり、客はこれをく...6-7-2都の明け暮れ
『宋朝とモンゴル世界の歴史6』社会思想社、1974年7都市と農村1都市のすがた中国では、首部はもちろん、だいたい県庁の所在地ほどの都市になると、周囲に城壁をめぐらし、町をすっぽりつつんでいた。わが平城京や平安京の全体が、城壁にかこまれていたと考えればよいであろう。そして大きな都市ともなれば、城壁が二重、ときには三重にもなっていた。城壁の規模もまことに大きい。後周の世宗(柴栄=さいえい)が全中国の中心にしたいとの願いをこめてつくった開封(かいほう)の都は、いちばん外側の城壁の周囲は二○キロあまり、唐の長安城のほぼ三倍の規模であった。五代十国王朝のひとつ、呉越国の都の杭州では、城壁がさらにひとまわり大きく、三〇キロちかくもあった。城壁の高さは二五メートルほどで、溥(かわら)を積みあげてつくった。城壁の上には女...6-7-1都市と農村
天安門事件を想起させるダンス動画をインターネットに投稿した中国人が中国当局から嫌がらせを受ける
1989年の天安門事件を想起させるダンス動画を WeChat にアップロードした中国人女性 Huang Zhihong が中国当局から嫌がらせを受けている。 …
『宋朝とモンゴル世界の歴史6』社会思想社、1974年5外圧と内争5党争の展開王安石は、江南の出身であった。このころになると、江南出身の文官が、華北の出身者を圧倒するほどに多くなっていた。ところが王安石の新法に反対する者のなかに、華北出身の長老がいた。司馬光や、韓琦などである。新法に反対したので、旧法党とよばれた。新法のひとつに、方田均税法というのがあった。地主層と一般農民との賦税の負担を公平にしようとするねらいで、おもに華北に実施された。こうしたところから、新法党と旧法党の争いには、出身地のちがいによる利害がからみあっていたと見られよう、それでなくとも、官戸はもちろん、大地主や大商人などの富岳層にとって、新法は自分たちの富の集中をおざえるものであった。文官たちも、もとをただせば大地主の出であり、大商人とは...6-5-5党争の展開
『宋朝とモンゴル世界の歴史6』社会思想社、1974年5外圧と内争4新法の実施ある宴に、ふたりの客が招かれた。司馬光(しばこう)と王安石である。ふたりとも酒をたしなまなかった。宴がはじまると、主人はしきりに酒をすすめる。やむをえず司馬光は一杯だけ、さかずぎをとった。しかし王安石は、ついに一滴も口にしなかった。王安石は、そういう男であった。おのれを堅持し妥協をゆるさない性格であった。そこを皇帝(神宗)から認められた。十一世紀の後半になると、宋朝の財政はしだいに苦しいものとなっていた。仁宗のときに、西夏とあらそったときも、財政に大きくひびいた。つぎの英宗のときになると、歳出が歳入を大きく上まわった。おまけに遼や西夏に対しては、銀や絹など多額の物資を、毎年おくらねばならない。財政の赤字は、いよいよ大きくなるばかり...6-5-4新法の実施