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チンギスハン 人物列伝 ステータス モンゴル高原統一まで モンゴル遊牧民の一部族であるキヤト族の父イェスゲイと、母ホエルンの長男として1162年(諸説あり)に生まれた。名を「テムジン」とつけられる。少年期においてすでにた […]
『アジア専制帝国世界の歴史8』社会思想社、1974年4モンゴルの復興2オイラート土木の変の当時、エセンはモンゴル最大の実力者ではあったが、カン(汗)ではなかった。モンゴルの伝統においては、チンギス汗の子孫でなければ、カンとして認められなかったのである。ましてエセンは、モンゴル人ではあったが、そのなかでも傍系と見なされたオイラート部の出身であった。オイラート部というのは、モンゴル高原の西北部を本拠としていた部族である。十三世紀の初め、チンギス汗の配下に入り、モンゴル帝国の一翼をなした。しかも当時から四つの万戸を編成したほどに、有力な部族であり、モンゴル帝室とも婚姻を通じていた。さて元朝が、中国を追われてモンゴル高原にしりぞいた後、順帝(元朝最後の朝帝)の子どもはカラコルムに拠って、なお大元の皇帝を袮していた...8-4-2オイラート
『アジア専制帝国世界の歴史8』社会思想社、1974年4モンゴルの復興1捕われた皇帝一四四九年といえば、永楽帝が世を去ってから二十五年、洪煕(こうき)・宣徳(せんとく)の二代をへて、英宗の正統十四年になっている。英宗すなわち正統帝は、まだ二十歳のわかさであり、その側近にあって権力をふるっていたのは、宦官の王振であった。このころ明朝にとって、もっとも大きな問題は北辺にあった。モンゴルに英雄エセンがあらわれて、東は中国の東北地方(満州)から、西はトルキスタンにおよぶ大版図をひらき、しばしば明の辺境にも入冦(にゅうこう=侵入)していた。これに対して明朝は、むしろエセンを挑発する態度をとる。怒ったエセンは、正統十四年の七月、大軍を四手にわけて、明の北境一帯に進攻した。エセンのひきいる本軍は、大同にむかった。大同が侵...8-4-1モンゴルの復興
0914101022A0909101022Bタタール(タルタリア、たたら、韃靼国)と巨人族はプレアデスが産み出した2022年9月14日談10月22日公開阿山>北海道はタルタリアの支配下にありアイヌ人がタルタリアの生き残り?シヴュラ>それはあるみたいですね。アイヌがタルタリアの人達が支配していたと言うよりも割と温厚な感じだったみたいで支配と言うよりは”いた”感じタルタリアの人たちが北海道にもいてロシアの地にもいらっしゃった感じで(映像を)見せてくれるけど占領とか支配とかって言う感じでは無い阿山>美女が多かったそうなんですが?シヴュラ>独特なロシア人の女性の感じではなくて割と土着的なインディアンみたいな格好されてる眉毛の濃い感じの方々100年前のアイヌ人美女(タルタリア人?)阿山>巨人族もいたそうなんですが巨...タタール(タルタリア、たたら、韃靼)と大洪水による海面上昇
見果てぬ夢 モンゴル 出来ればご声援お願いいたします m(__ __)m 馬も嬉しいだろうなぁ~ 祖先は 東北で これをやってたはず・どんなに 長けていても 緩みがあると やられる。 それが闘いだ。 かつての夢は モンゴル平原を 馬で行きたかった。 もう、羽黒の天狗を見付けるのも 屋...
『宋朝とモンゴル世界の歴史6』社会思想社、1974年13内陸の王者3宮廷のヨーロッパ人ティムールが中国への遠征に旅立つすこし前、その宮廷には一人のドイツ人と、一つの使節団の姿があった。ドイツ人とは、ババリア(バイエルン)の兵士ヨハン・ソルトペルゲルであり、使節団とはエスパニア王(正しくは、カスティリァ・レオン王)エンリケ三世からつかねされた騎士ルイ・ゴンザレス・デ・クラビホを団長とするものであった。シルトペルゲルは、ハンガリー王のひきいる十字軍に加わり、オスマン帝国の「稲妻王」バヤジット一世の軍隊と戦って捕虜になった(一三九六)。ところがアンカラの戦(一四〇二)で、今度はティムール軍に捕えられ、サマルカンドに連行される。そしてティムールの死後、キプチャク汗国につれ去られたが、一四二七年に釈放され、ようやく...6-13-3宮廷のヨーロッパ人
『宋朝とモンゴル世界の歴史6』社会思想社、1974年13内陸の王者4世界の首都クラビホの報告のうち、ティムールの手によるサマルカンドの町造りを述べたところは、とくに注目をひくものがある。「サマルカンド地方では商業が非常にさかんだったので、毎年この町には、シナやインドやタタール、そのほか各地から、あらゆる種類の商品が、たくさん移入されていた。しかしいままでこれらの品物を置き、陳列するのに適当た場所というのが、この町にはなかったのである。そこでティムールがこのたび命じたのは、両側にあらゆる種類の品を売る商店をならべた通りを一本、サマルカンドを貫通するように建設することだった。……職人は、監督が必要とするだけ集められ、こと欠くことはなかった。ひるま働いたものは夜になると帰り、かわって同じだけの人数のものが夜どお...6-13-4世界の首都
『宋朝とモンゴル世界の歴史6』社会思想社、1974年12元朝の支配5ラマ僧の権威元朝はモンゴル人の天下である。いかに色目人が重用せられたからといって、それはモンゴル人の補佐たる役割のものであった。サンガのように、色目人であって宰相につぐ地位にのぼった者もあるが、それは特例にすぎなかった。中央と地方とを問わず、長官たる地位を占めたのは、やはりモンゴル人であった。社会生活においても、モンゴル人は特権をもっていた。たとえば「モンゴル人と漢人とが争って、(モンゴル人が)漢人をなぐっても、漢人は報復することはできない。役人に訴えることをゆるす。」――これは法令として、正式に布告されたものなのである。中国人がモンゴル人(色目人を含む)を殺せば、もちろん死刑である。その上に、犯人の遺族は埋葬金をおさめねばならなかった。...6-12-5ラマ僧の権威
『宋朝とモンゴル世界の歴史6』社会思想社、1974年12元朝の支配1ベニスの商人ちょうどフビライが即位したころのことである(一二六〇頃)。キプチャク汗のベルケ(バツの子)はめずらしい客人を引見していた。ベニスの商人で、ニコロ・ポーロとマッフェオ・ポーロの兄弟であった。二人は一二五三年にベニスを発し、商売のためにコンスタンティノープルにおもむいた。そこに六年ほど滞在し、それからモンゴル人と取引しようと思いたって、キプチャク汗国まで出むいてきたのであった。ボーロ兄弟は、ペルケに宝石を贈り、その二倍の値段にあたる品物を受けとった。取引は大もうけであった。勇(いさ)んでベニスに帰ろうとしたところ、イル汗国のプラグとベルケとのあいだに戦争がはじまった。南西への道は危険となる。帰りたくとも帰れない。そこで東方へむかっ...6-12-1元朝の支配
『宋朝とモンゴル世界の歴史6』社会思想社、1974年12元朝の支配2カトリック伝道ポーロ一家がまだ中国にいた一二八九年、イタリアを出発して東方へむかった宣教師があった。これこそローマ教皇(ニコラウス四世)の命令をうけたジュアン・ド・モンテ・コルビノの一行であった。インドおよび中国(モンゴルを含む)にカトリックを伝道することが、その使命であった。ヨーロッパからモンゴルに宣教師がおもむくことは、これが初めてではない。すでに一二四六年、プラノ・カルピニはローマ教皇の使節として、モンゴルにおもむいた。そして時の大汗グユクに謁見し、教皇からの書簡をわたした。一二五四年には、フランク王(ルイ九世)の使節として、ギョーム・ド・ルブルクがつかわされ、大汗モンゲに謁見している。これらの使節は、キリスト教を伝道するという目的...6-12-2カトリック伝道
『宋朝とモンゴル世界の歴史6』社会思想社、1974年11悲劇の朝鮮半島2内憂と外冦そもそも半島に「高麗」が建国したのは、十世紀のはじめ(九一八)のことであった。それまで二百年ちかくにわたって統一国家を維持してきた新羅も、九世紀には国勢がおとろえる。国内のあちこちに一揆がおこり、反乱があいつぎ、これに乗じて各地の有力者が立ちあがった。半島は騒乱のちまたとなり、北部に、また西部に、新しい国が建てられた。九世紀の末、すでに新羅は、半島の南部のみをたもつ小国にすぎなかった。動乱のなかから、ひとりの英傑があらわれた。王建(おうけん)である。国を建てて高麗と号し、しだいに勢力をひろげた。ついに新羅王も、これに降伏する(九三五)。半島の統一が完成したのは、その翌年であった(九三六)。高麗は、その内政をととのえるとともに...6-11-2内憂と外冦
『宋朝とモンゴル世界の歴史6』社会思想社、1974年10大モンゴル8グユクとモンゲつぎの大汗としてオゴタイが期待していたのは、孫にあたるシラムンと、そしてモンゲであった。しかしオゴタイの死後は、その皇后(ドレゲネ)が監国(かんこく)となって、政務をみる。彼女にとってみれば、みずからの子であるグユクを位につけたがった。(グユク中華ドラマ「フビライ・ハン」より)もちろん、それにはクリルタイをひらいて、承認してもらわねばならない。ところがグユクはかねてからバツと仲たがいしていた。したがってバツは、グユクを大汗に推すことには、まっこうから反対している。クリルタイをひらこうとしても、ロシアにとどまっていて、出席しようとはしない。むなしく二年、三年とすぎていった。バツは、ヨーロッパへの遠征を中止したものの、そのままロ...6-10-8グユクとモンゲ
『宋朝とモンゴル世界の歴史6』社会思想社、1974年10大モンゴル5巨星は落ちたチンギス汗は、大西征のつ彼をいやすひまもなく、早くも同じ年(一二二五)の秋には、つぎの遠征に出陣した。さきに命令にそむいた西夏の国を討伐するためのものであった。そして西夏の征服は、金の帝国を完全に屈服させるためにも、必要と考えられたからである。しかし不世出の英雄も、すでに六十歳をこえていた(年齢には数説あり)。その年の冬には、狩猟のさなかに落馬して傷を負った。左右の人たちはカンの身を案じて、ひとまず撤退することにきめたが、チンギス汗は承知しなかった。あくまでも軍を進めることを命じたのである。攻撃はつづけられた。一二三六年から翌年にかけて、モンゴル軍は、西夏のはげしい抵抗をやぶりながら、やがて国都の興慶をかこんだ。軍の進むところ...6-10-5巨星は落ちた
『宋朝とモンゴル世界の歴史6』社会思想社、1974年10大モンゴル3大西征チンギス汗が金の中都にとどまっているとき(一二一六)、はるばる西アジアからホレズム国王の使節がやってきた。これを引見したチンギス汗は、言った。「わしは東方の支配者となる。国王は西方の支配者となり、たがいに和平と友好をたもって、商人たちが自由に往来できるようにしよう。」モンゴルにとって、定着の民に求めるものは、その豊かな物資である。ほしいだけの物資がえられるならば、このんで戦争をするに及ばない。まして領土をえようとは思わない。都市や田畑はいくらあっても、馬や羊を放牧することができないからである。そこで西方の物資をえるために、通商路を確保しようとしたのであった。ホレズム王国は、中央アジアの西部(いまはソ連領)からイラン、アフガニスタンに...6-10-3大西征
『宋朝とモンゴル世界の歴史6』社会思想社、1974年10大モンゴル1西方にむける目全モンゴルの大汗となったチンギス汗の前には、おびただしい財宝がつまれていた。それはモンゴルのものだけではなかった。はるか西方のイランやアラビアの産物までが、チンギス汗のもとへ、はこびこまれていたのである。そうした遠い国のめずらしい品物をもたらし、遠い国のふしぎな物語をきかせてくれるのは、中央アジア(西域)から来たウイグル人であった。ウイグル人の多くは、イスラム教徒である。かってイスラム教徒は、西アジアからヨーロッパとアフリカの一部にかけて(地中海をめぐって)、サラセン帝国とよばれる大帝国をきずきあげた。それが八世紀から九世紀にかけてのこと(唐代)である。その後、帝国の勢いはおとろえたけれども、イスラム教徒の意気はなおさかんで...6-10-1大モンゴル
『宋朝とモンゴル世界の歴史6』社会思想社、1974年9草原の英雄6モンゴルの統一いまや高原は、テムジンのもと、ひとつになった。毛氈(もうせん)の帳裙(ちょうくん=帳幕のすそ)ある国は、ことごとく平定された。小さなモンゴルの国が、高原をおおう大国となったのである。虎の年(一二〇六)あらゆる部族、氏族の代表が、オノン川の源にあつまった。クリルタイである。クリルタイとは「集会」のことであり、カンの推戴(すいたい)や、戦争の決定など、国家の部族の重大な行事のときに開かれる習わしであった。そのクリルタイが、これまでにない大きな規模をもって、盛大にいとなまれる。白い旗じるしが、九つの脚にささえられて、高くかかげられた。そのもとで、テムジンはふたたびカンに推戴された。さきには小さなモンゴルの国(それは全モンゴルではない...6-9-6モンゴルの統一
『宋朝とモンゴル世界の歴史6』社会思想社、1974年9草原の英雄3カンとなっていくばくかの月日がすぎた。一家の暮らしも、しだいに立ちなおった。テムジンは、父が死んで以来、わかれていたボルテをむかえようと、デイ・セチェンのもとにおもむいた。デイはよろこんで、ボルテをめあわせ、引き出物として、黒い貂(てん)の裘(かわごろも)をおくってくれた。いまやテムジンは、妻をめとった。なき父の縁故によって、数名の部下もできた。この上は強力な後援がほしい。そうしたとき、かつてエスゲイが、ケレイトのトオリル・カン(汗)と、アンダの盟約をむすんでいたことを思いおこした。アンダとは義兄弟のことである。ケレイトの国は、はやくから西方の文明をとりいれ、トラ川とオルホン川のほとりに、ひろい牧地をもって、強大な勢力をほこっていた。そのカ...6ー9ー3カンとなって
『宋朝とモンゴル世界の歴史6』社会思想社、1974年9草原の英雄2蒼い狼の子孫エスゲイに死なれて、テムジンたちの境遇は一変した。それまでエスゲイにしたがっていたタイチウト氏の人々が、テムジン一家をすてて、去ってしまったのである。エスゲイのもとにいた部衆も、タイチウトを追って移動した。たちまちにして、一家は窮乏のどんぞこにおちいってしまった。それでも、ホエルンは男まさりに生まれたので、おさない子供を養うに、しっかりと裾(すそ)をからげて、帯しめて、オノンの川を上へ下へと走りまわり、木の実をひろって、草の根をほって、昼夜の糧(かて)とした。子供たちもまた、母を養おうと話しあって、オノンの岸べにすわっては、片目や、かたわの魚をつった。あみを結んでは、小魚をすくった。モンゴリアのように、乾燥した草原に住む人々は、...6-9-2蒼い狼の子孫
『宋朝とモンゴル世界の歴史6』社会思想社、1974年9草原の英雄1モンゴルの勇者よく晴れた日であった。いつものように、エスゲイは、ひとりで鷹狩りに出かけた。オノン川のほとりまでゆくと、むこうから一団の人々が来る。メルキト国の人々であった。メルキトのチレドという若者が、嫁をもらって連れてゆくところなのであった。さぐって見ると、顔かたちのすぐれた、うつくしい女である。エスゲイは、たちまちわが家に走りかえった。エスゲイは、兄と弟とを連れてきた。そしてチレドの行列を追った。チレドはおそれた。足のはやい黄馬(きうま)にまたがり、むちうちながら丘をこえて、身をかくした。そのうしろから、三人はつづいて追った。女は車に乗っている。チレドは山のはしをひとめぐりして、車のところへもどってきたところに、三人が行きついた。チレド...6ー9ー1草原の英雄モンゴルの勇者
中国の歴史 世界帝国となったモンゴル帝国 楽しい世界史 -中国と東アジアの歴史-
中国・江南地区で南宋文化が栄えた頃、モンゴルではチンギス=ハンがモンゴル族を統一した。 そのモンゴルについて、
東公園で元寇を学ぼう 日蓮聖人像と台座レリーフ(福岡市博多区)
JR吉塚駅に近い、福岡市博多区にある「日蓮聖人銅像護持教会」にやってきました。今回はこちらにある、巨大な日蓮像に近づいてみようというのです。日蓮といえば鎌倉時代の僧侶で、日蓮宗を開いた人物としてよく知られています。それにしても、なぜ日蓮の銅像がここ福岡に建立されているのでしょうか。その背景には、大元ウルス(モンゴル)が九州に攻め入った「元寇」の存在があります。日蓮聖人銅像護持教会はちょうど福岡県警の南...
世界史の誕生─モンゴルの発展と伝統 (ちくま文庫) 作者:岡田 英弘 筑摩書房 Amazon 「韃靼人の踊り」(原曲名「ポロヴェツ人の踊り」)は、帝政ロシアの作曲家ボロディンのオペラ「イーゴリ公」の中の曲で、哀調を帯びた美しい旋律はテレビCMでもなじみ深い。 この曲名だが、「世界史の誕生 モンゴルの発展と伝統」(岡田英弘/ちくま文庫)によれば、「ポロヴェツ人」を「韃靼人」と訳したのは誤りだという。 ポロヴェツ人とはチュルク系遊牧民のキプチャク人(クマン人とも呼ばれた)のことで、タタール人(トルコ語を話すイスラム教徒のモンゴル人)を指す「韃靼人」ではないという。 キプチャク人は11世紀から13世…