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#718 レビュー 『第8回 帝国の解体 ティムールとルネサンスへ』-3か月でマスターする世界
14世紀の危機で解体したモンゴル帝国のその後の影響を描く『第8回 帝国の解体 ティムールとルネサンスへ - 3か月でマスターする世界史 - NHK』についてモ…
『宋朝とモンゴル世界の歴史6』社会思想社、1974年13内陸の王者1星の王様一方が相手を「混血児(あいのこ)」とけなせば、もう一方は相手を「匪賊(ひぞく)」とさげすむ。そのどちらもチンギス汗の子孫なのであった。チャガタイ汗国の王者たちなのであった。チャガタイ汗国は、チンギス汗の次子チャガタイを始祖として、中央アジアの大部分を支配してきた。それが十四世紀になると、パミール高原をはさんで、東西に分裂する(一三二一)。東チャガタイでは、自分たちこそモンゴルの後裔(こうえい)、モグール人だと主張し、イスラム文化の洗礼をうけた西の人たちを「混血児」とよんだ。西チャガタイでは、我らこそチャガタイの正統だと袮して、遊牧民の伝統をたもつ東の人々を「匪賊」とよんだのであった。こうした東西の対立と抗争によって、やがて西チャガ...6-13-1内陸の王者
『宋朝とモンゴル世界の歴史6』社会思想社、1974年13内陸の王者3宮廷のヨーロッパ人ティムールが中国への遠征に旅立つすこし前、その宮廷には一人のドイツ人と、一つの使節団の姿があった。ドイツ人とは、ババリア(バイエルン)の兵士ヨハン・ソルトペルゲルであり、使節団とはエスパニア王(正しくは、カスティリァ・レオン王)エンリケ三世からつかねされた騎士ルイ・ゴンザレス・デ・クラビホを団長とするものであった。シルトペルゲルは、ハンガリー王のひきいる十字軍に加わり、オスマン帝国の「稲妻王」バヤジット一世の軍隊と戦って捕虜になった(一三九六)。ところがアンカラの戦(一四〇二)で、今度はティムール軍に捕えられ、サマルカンドに連行される。そしてティムールの死後、キプチャク汗国につれ去られたが、一四二七年に釈放され、ようやく...6-13-3宮廷のヨーロッパ人
『宋朝とモンゴル世界の歴史6』社会思想社、1974年13内陸の王者4世界の首都クラビホの報告のうち、ティムールの手によるサマルカンドの町造りを述べたところは、とくに注目をひくものがある。「サマルカンド地方では商業が非常にさかんだったので、毎年この町には、シナやインドやタタール、そのほか各地から、あらゆる種類の商品が、たくさん移入されていた。しかしいままでこれらの品物を置き、陳列するのに適当た場所というのが、この町にはなかったのである。そこでティムールがこのたび命じたのは、両側にあらゆる種類の品を売る商店をならべた通りを一本、サマルカンドを貫通するように建設することだった。……職人は、監督が必要とするだけ集められ、こと欠くことはなかった。ひるま働いたものは夜になると帰り、かわって同じだけの人数のものが夜どお...6-13-4世界の首都