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前述の通り、1016年(長和五年)、藤原道長の外孫、後一条天皇が、即位すると、道長は、摂政に就任した。 翌年の1017年(長和五年)藤原道長の長男、頼通は、…
藤原道長は、三条天皇の治世に入ると、兄の藤原道隆と同じことを始めた。 藤原道長は、自身の息子達を強引に引き立てるようになったのである。 長男の頼通は、20歳…
藤原道長は、996年(長徳二年)、31歳の年に、当時の一上であった、左大臣に任官し、以降、1017年(長和六年)、51歳の年に、摂政を辞任するまでの20年間、…
1020年(寛仁四年)3月、御堂の落慶法要が行われ、藤原道長の娘達の三后、太皇太后の彰子、皇太后の妍子、皇后の威子の行啓を伴う、盛大な儀式であった。 2年後…
作家の井沢元彦氏は、『逆説の日本史』において、朝廷が、刀伊の入寇の最大の功労者、藤原隆家に恩賞を与えなかったのは、朝廷の「危機管理能力の欠如」であり、その伝…
しかし、996年(長徳二年)正月、藤原隆家は、従者の武士を連れて、花山法皇の一行に矢を射かけて、法皇の衣の袖を弓で射抜く、事件を起こす。 その事件を藤原道長…
藤原頼通及び、一上の藤原実資は、重大な案件に関しては、出家後の道長に判断を仰いだ。 しかし、道長の意見が、摂関、太政官の方針に異論を挟んだ場合にて、頼通達が…
実は、藤原氏の歴史において、天皇の外祖父が、摂関になったのは、藤原良房、藤原兼家、そして、藤原道長が、三人目である。 歴代の藤原氏の摂関は、基本的に天皇の外…
その頃、藤原道長との関係改善を図るため、三条天皇は、第二皇女の禔子内親王の頼通への降嫁の打診がある。 道長は、一旦同意するが、道長の長男の藤原頼通は、妻の隆…
その後、藤原道長は、重病に伏して、一時は、飲食物を受け付けないほど状態が、悪化し、致仕の上表を行う。 道長の病について、前述の通り、比叡山に騎馬で登ったため…
しかし、藤原娍子の立后の日及び、藤原妍子の参内の日が、同じ、4月27日に重なった。 当日は、藤原妍子の参内の儀を終えた後に、娍子の立后、即ち、本宮の儀が、開…
1011年(寛弘八年)5月下旬、一条天皇は、急病に倒れ、5月27日には、道長に対して、譲位の準備を指示する。 譲位に先立って、一条天皇は、厚く信頼する、権中…
筆者が、長々と『光る君へ』の解説をしたのは、藤原道長の時代の登場人物達について、イメージして欲しかったためである。 前述の通り、『光る君へ』は、フィクション…
【平安貴族】「光る君へ」で人気再燃の藤原実資と藤原道長:平安時代の政治を彩った関係
小説家・今村翔吾 2024年に読んだおすすめ書籍3選「資料として購入したけど面白すぎた本」の内容とは? 3冊目は、大河ドラマ『光る君へ』の時代の超一級資料『小右記』の現代語訳版。藤原実資の日記ですが、
1006年(寛弘2年)12月29日、または、1007年(寛弘3年)12月29日に中宮の彰子の女房として、仕えたのが、日本史上、否、世界史上最古の長編小説、『…
999年(長保元年)11月7日に藤原彰子は、入内した。 同日、偶然、中宮の藤原定子が、一条天皇の第一皇子・敦康親王を産んだ。 皇子の誕生と同日に彰子の入内が…
藤原道長が、太政官の頂点に立った、当時、一条天皇の後宮には、中宮の藤原定子の他、藤原公季の娘、藤原義子、藤原顕光の娘の藤原元子が、女御として、入内していた。…
さてさて…2月15日は入滅した日、涅槃会でした…平家物語は末法思想、滅びの美学に基づいている…と云われたりしますが… 釈尊が入滅してから千年間は正しく仏法の行…
藤原隆家は、996年(長徳二年)2月7日、従者の武士を連れて、花山法皇の一行を襲い、法皇の衣の袖を弓で、射抜いた。 花山法皇は、出家の身で、女通いが露見する…
藤原道長は、991年(正暦二年)、権大納言、992年(正暦三年)、従二位に叙任される。 しかし、兄の藤原道隆は、嫡男の藤原伊周を後継者に擬して、強引に昇進さ…
藤原道長が、源倫子と結婚した、理由は、諸説あって、定かではない。 藤原兼家の次男、庶子の藤原道綱は、源雅信の娘と結婚していたため、藤原兼家と源雅信の関係は、…
藤原道長は、980年(天元三年)、従五位下に初叙して、983年(天元六年)に侍従に、984年(永観二年)2月、右兵衛権佐に任ぜられる。 同年6月には、円融天…
中関白家と呼ばれた、藤原道隆の死の年、嫡男の藤原伊周は、二十一歳の若さであった。 それに対し、藤原道兼は、三十五歳のため、道兼の関白就任は、当然と言えるかも…
①②から続き 『②大人の遠足、京都九条通り筋歩きの旅』①から続く 『①大人の遠足、京都九条通り筋歩きの旅』これだっ!催行1週間前に申し込んだバスツアークラブツ…
NHKで「光る君へ」の総集編を放映しました。NHK大河ドラマで初めて最初から最後まで見続けました。この話が現実の紫式部や藤原道長そのものとはまったく思いません。寧ろ平安時代を舞台とした現代ドラマに見えました。史実に忠実とも言えませんが、それでも源氏物語を中心とした古典文学の...
宇治川の鵜飼は平安時代からの歴史を持っており、『蜻蛉日記』には、天禄2年(971)奈良の長谷寺に参詣した藤原道綱母が川岸から鵜飼を見物しかがり火を焚いた数え切れぬほどの鵜舟が鮎を捕る様子が記されています。蜻蛉日記(岳亭春信画)平安時代の後期になると、仏教の教えの影響をうけて次第に宇治川での殺生が戒められるようになりました。平安貴族の没落と共に 衰退しましたが、大正なって再興され、現在では宇治の夏の風物...
12月も下旬にになりましたね。このブログは、もともと京都の各地域などもご紹介していたのですが、いつの間にかカウンセリング記事のご希望が増加し、ほとんどメンタルへルスのお話になっています。新年も、山手心理相談室は30~3日以外営業しています。ふと不安
【光る君へ】#48 最終回!心広く潔い敗者の倫子様に涙😢 道長が守った泰平の世、まひろはその後の嵐(武士の世)到来を予感する旅へ
ロス決定!初回からのスゴイ仕掛けにも溜息 NHK大河ドラマ「光る君へ」最終の第48回「物語の先へ」が、1週間以上前の12/15に放送された。ずっと見続けたいのに、とうとう来てしまった最終回。ああ・・・そんなに簡単に気持ちが終われないってば・・・12/29の総集編を見ないと終われないな。いや、見ても終われない。ロス決定です。 最終回から1週間後の12/22(日)はちょうど忘年会だったので、「光る君へ」があるはずの時間帯を穴埋めするように放送された「ダーウィンが来た」のスペシャルを呆然と見る必要も幸いなかったが、もう「光る君へ」の放送が無いと思うと、ああ~と心の中で勝手に打ちひしがれてしまった。 …
2024年の大河ドラマ『光る君へ』が終わりましたね。昨年の『どうする家康』まで15年間、当ブログで大河の解説レビューを素人なりにやってきましたが、今年はと...
東福寺駅から徒歩5分、京都市東山区本町にある法性寺(ほっしょうじ)は、延長2年(924年)に藤原忠平によって創建されたと伝えられています。藤原氏の氏寺として栄え、藤原忠通(法性寺入道)の時代には、現在の東福寺と泉涌寺までの広大な寺域に大伽藍を構え、京洛21カ寺の一刹に数えられています。その後、兵火により衰退しましたが、明治以降、旧名を継いで再建されました。本堂の千手観世音菩薩像は、旧法性寺の潅頂堂(かんち...
放送が終わってあちらこちらの感想や考察を見て回って、そうだったのかと唸らせられたり、いろいろと感じ入ったり。乙丸が『姫さま』と旅立つことについて、きぬさんはよく許したなと思っていたんですが、途中で彼が..
サブタイトルは「物語の先に」。いやはや、なにはともあれ私にとっては初大河。リアルタイムで48回、走り切りました!この一年、本当に楽しませてもらいました終盤、けっこうさくさく時間がとんでいたっぽい、かな..
NHK 光る君へ に、ツッコミたい① 12/15 最終回まとめ
最終回だからね 今までのツッコミどころが全部でてきて総まとめになりました みんな老いたのにやっぱり吉高由里子だけは老けないね カツラに白髪が混じっただけ老け…
【光る君へ】#47 乙丸、渾身の「帰りたい」連発でメンタルボロボロまひろを動かす大活躍。「あと1回」には悲鳴😢終わらないで~
周明の死が悲しくて、私も迷走 NHK大河ドラマ「光る君へ」第47回「哀しくとも」が12/8に放送された。前回終わりで賊の矢を左胸に受けた周明は、やはり絶命。か細い声で、泣き叫ぶまひろに「逃げろ」と言う、切ない最期だった。 乙丸に引っ張られ逃げなかったら、まひろは周明のそばで泣き続けて同様の害を被っただろう事は容易に想像できる。乙丸、姫様を守り切ったね。ナイス。いつも役立たずみたいに書いてゴメンよ。今回、乙丸はきぬとの約束通り、まひろを守り切り、京に連れ帰った。大活躍だ。 公式サイトからあらすじを引用する。 (47)哀しくとも 初回放送日:2024年12月8日 まひろ(吉高由里子)たちは異国の海…
宇治市内には許波多神社(こはたじんじゃ)という名前の神社が木幡と五ヶ庄の隣接する2つの地区にあります。今回参拝したのは、木幡の許波多神社です。藤原道長が寛弘2年(1005)から2年がかりで創建した藤原家の菩提寺「浄妙寺」はこの北東の木幡小学校辺りにあったとされています。社伝では、大化元年(645年)、皇極天皇が夢で「吾れ天神故に下土に神陵なし吾が霊を祭祀し給へ」とのお告げを受け、中臣鎌足に命じ木幡荘に社殿を造...
宇治市の木幡(こはた)は、平安京から宇治に向かう途中にあり、藤原道長をはじめ、藤原氏の埋葬の地でした。藤原氏の菩提寺や墓所・宇治陵があります。そこで、木幡の藤原氏ゆかりの地を巡ってみました。浄妙寺は、藤原道長が寛弘2年(1005)に藤原氏の菩提を弔うために建立した寺です。道長は、1005年(寛弘2年)に木幡三昧堂を、その後も多くの建物を建て、1007年に浄妙寺を完成させました。1005年10月の供養会には、道長や中関白...
真如堂、東北院の西側には、後一條天皇の菩提樹院陵があります。後一條天皇は、一条天皇第2皇子で、母は藤原道長の藤原彰子 です。一条天皇藤原彰子後一條天皇一条天皇の第二皇子。母は藤原道長女中宮彰子。その誕生の様子は「紫式部日記」に詳しく、道長にとって待望久しい外孫皇子出生はその後の一族の栄華の初花となる。三条天皇の譲位(長和5年1月29日、1016年3月10日)により践祚、2月7日(3月18日)に数え8歳で即位。幼帝の...
京都市左京区浄土寺にある東北院は、藤原道長の没後、道長の娘である藤原彰子(上東門院)の発願によって道長が建立した法成寺東北の一郭に常行三昧堂として建立されました。彰子は東北院を建てた後、晩年ここを在所としたため、別称を東北院ともいいます。法成寺の区域の東北にあり、上東門院の母・源倫子が建立した常行三昧堂が法成寺の区域の西北にあって「西北院」と呼ばれていたことから、こちらは「東北院」と称せられました。...
おゆすき的には開始10分ほどは不要でしたがね もうね、ストーリーについては何も...言うまい... 今日は演技についての感想だよ 吉高由里子さんのファンに怒ら…
東福寺の塔頭・同聚院は、1006年(寛弘3年)に藤原道長が法性寺の境内に造営した五大堂の遺跡です。かつて、この地には延長2年(924年)に藤原忠平が建立した天台宗の法性寺があった。そこに藤原道長が寛弘3年(1006年)に、仏師康尚(定朝の父)に作らせた不動明王を中心とする五大明王を祀った五大堂を建立した。しかし、後に兵火によって不動明王を残して五大堂は焼失した。その後、嘉禎2年(1236年)に九条道家は衰微した法性...
寛仁3年(1019年)3月に藤原道長は胸病の苦しみが激しくなり、剃髪して出家しました。戒師は院源、法名は行観(後に行覚)。『栄花物語』によると、彰子が末妹・嬉子の行く末を心配して出家を制止しようとした、倫子が夫の後を追って出家しようとしたが道長が押し止めたなどの話が伝わっています。晩年は浄土信仰に傾倒、極楽往生を願い、寺の造営に力を注ぎました。1019年(寛仁3)から土御門殿の東にあたる鴨川西岸に、九体阿弥...
【光る君へ】#45 道長、失恋➡出家!まひろと道長の物語は終わりを迎え、まひろは自立の旅へ
望月の歌を四納言が解説 NHK大河ドラマ「光る君へ」第45回「はばたき」が11/24に放送された。源氏物語を脱稿したまひろ(藤式部)は、これまでの道長との生き方に別れを告げ、羽ばたいていった。まずは公式サイトからあらすじを引用する。 (45)はばたき 初回放送日:2024年11月24日 まひろ(吉高由里子)の源氏物語はいよいよ終盤を迎えていた。ある日、まひろは娘・賢子(南沙良)から、宮仕えしたいと相談され、自分の代わりに太皇太后になった彰子(見上愛)に仕えることを提案。まひろは長年の夢だった旅に出る決意を固める。しかし道長(柄本佑)の反対にあい、ついにまひろは賢子にまつわる秘密を明かすことに。…
では、勝林院の境内を散策してみましょう。法華堂は、後鳥羽天皇ご冥福のため、梨本主尊快親王母公修明門院御計らいにて水無瀬の御所を以て仁冶元年 (1240)に建立されました。享保21年(1736)類焼し、現在の堂宇は、安永年度に再興されたものです。 法華堂は、後鳥羽天皇ご冥福のため、梨本主尊快親王母公修明門院御計らいにて水無瀬の御所を以て仁冶元年 (1240)に建立されました。享保21年(1736)類焼し、現在の堂宇は、安永年度に...
大原の勝林院は、延暦寺の僧・円仁によって創建され、荒廃した後、寂源法師により、長和2年(1013)に復興された天台声明発祥の寺です。寂源は、俗名は源 時叙(みなもとの ときのぶ)といい、左大臣・源雅信の八男、母は藤原穆子。藤原道長の妻・倫子の兄(弟)です。永観2年(984年)、当時侍従であった時叙は、同僚の侍従・藤原斉信、蔵人・藤原宣孝(のちの紫式部の夫)とともに賀茂臨時祭に怠けて出席しなかったことから花山天皇の...
開始20分あたり 道長よ、行かないでくれじゃねぇ なにこの道長という男女々しすぎて吐きそう そして賢子はあなたの子じゃねぇ 不義の子設定いらんって何度言えば…
おゆすきはね、望月の歌は月見てガッツポーズと思ってたんだよ 前回、ついにガッツポーズしたんか権力バンザイなんか と、思っていたのに 冒頭から否定かよ 公達が道…