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紫式部と同じ時代を生きた「源氏物語」光源氏のモデルの一人でアラサーになって京都から宮城に来た“超イケメンな実力派・天才歌人”和歌の才能に優れ、中古三十六歌仙に選ばれた一人。職務をしながら様々な歌枕(和歌に多く詠まれる名所)を訪ねて回った。
続いて、平安時代の衣装の展示です。十二単平安時代後期になって成立した晴の女房装束。構成は唐衣,裳,表衣 (うわぎ) ,打衣 (うちぎぬ) ,袿 (うちき) ,単衣 (ひとえぎぬ) ,袴などから成っている。唐衣はその最上衣で,もと中国の唐に発した奈良時代の背子 (はいし) の変化したもの。上半身丈で広袖がつき,地質,色目,文様などによって階級を異にした。裳は表衣の上から腰のうしろ半身だけをおおうもの。奈良時代は裙 (くん...
②王朝文化の粋を競う婚礼仕度・冊子作り~『源氏物語』に記された明石の姫君の婚礼仕度~(『源氏物語』「梅枝」より)源氏物語第32巻「梅枝」光源氏39歳。明石の姫君の裳着と入内の準備などを描いています。入内が決まると、持参品の草子などが集められます。草子「さくし(冊子)」の変化した語。「ぞうし」とも )(紙をとじ合わせて本の体裁にしたもの。書や歌や文章を書いてあってもなくても、冊子の形態をなしたものをいう。①...
市バス「西本願寺前」下車、西本願寺の斜め向かいのビルにある風俗博物館に出かけて来ました。エレベーターが5階に到着しドアが開くと、いきなり平安時代の世界が広がっています。風俗博物館では、『源氏物語』の六条院の館「春の御殿」を4分の1のサイズの模型で作り、人形・調度品・寝殿などで、源氏物語の世界を表現しています。①六條院移徙(『源氏物語』「少女」より)②王朝文化の粋を競う婚礼仕度・冊子作り~『源氏物語』に...
城南宮から徒歩数分のところに鳥羽離宮跡公園があります。伏見区竹田・中島・下鳥羽一帯は、平安時代後期に白河・鳥羽上皇が造営の離宮があり院政を行ったところです。院政のシンボルである鳥羽離宮は、白河天皇の御所として建てられました。白河上皇は、『源氏物語』を好み、光源氏が造営した六条院に触発されて鳥羽離宮を築いたといわれています。すべてが完成したのは、鳥羽上皇の時代になってからのことで、鳥羽殿とも呼ばれま...
宇治の「お茶と宇治のまち交流館 茶づな」のすぐ側に「菟道稚郎子尊宇治墓」(うじのわきいらつこのみこと うじのはか)があります。菟道稚郎子は、名前の「菟道」が山城国の宇治(現在の京都府宇治市)の古代表記とされるように、宇治地域と関連が深い人物である。郎子は宇治に「菟道宮(うじのみや)」を営んだといい、郎子の墓も宇治に伝えられている。郎子については『古事記』『日本書紀』等の多くの史書に記載がある。中でも、...
華厳寺(けごんじ)は、京都市西京区にある臨済宗の寺院。享保8(1723)、学僧鳳潭8ほうたん9上人が最福寺跡地に華厳宗の再興の為に当寺を創建。慶応4年(1868年)、慶厳が入寺して臨済宗に改められました。『源氏物語』第38帖「鈴虫」では、光源氏が、女三の宮の御殿の庭に鈴虫を放ち、彼女の気を引くという場面が描かれています。八代目住職 台巌和尚が鈴虫の音に開眼し研究を始め、鈴虫を四季を通して飼育しているため、通称「鈴...
京都市右京区嵯峨北堀町にある曇華院(どんげいん)は、単立宗教法人の尼寺。鹿王院に隣接しています。本尊は十一面観音。曇華院門跡とも呼ばれています。普段は非公開ですが、「秋の京都非公開文化財特別公開」で、本堂、庭園、茶室の他、尾形月耕(げっこう)が描いた源氏物語の錦絵など『源氏物語』にちなんだ寺宝や、源氏物語の世界が描かれている平安時代の遊び・「貝合わせ」の貝などが公開されました。かつて以仁王が住んでい...
京都市右京区嵯峨広沢西裏町にある遍照寺(へんじょうじ)は、真言宗御室派の準別格本山の寺院です。山号は広沢山。本尊は十一面観音。永祚元年(989年)花山天皇(もしくは円融天皇)の御願によって、寛平法皇(宇多天皇)の孫である寛朝僧正が、広沢池畔の山荘を改めて寺院にしたものです。寛朝が没すると次第に衰退、鎌倉時代には後宇多天皇により復興されましたが、室町時代の応仁の乱で廃墟と化しました。奇跡的に難を逃れた赤...
東福寺駅から徒歩5分、京都市東山区本町にある法性寺(ほっしょうじ)は、延長2年(924年)に藤原忠平によって創建されたと伝えられています。藤原氏の氏寺として栄え、藤原忠通(法性寺入道)の時代には、現在の東福寺と泉涌寺までの広大な寺域に大伽藍を構え、京洛21カ寺の一刹に数えられています。その後、兵火により衰退しましたが、明治以降、旧名を継いで再建されました。本堂の千手観世音菩薩像は、旧法性寺の潅頂堂(かんち...
雲林院は、京都市北区紫野にある大徳寺の塔頭です。こちらも『源氏物語』ゆかりの寺院です。もとは、淳和天皇の離宮・紫野院として造成された。紫野一帯は野の広がる狩猟地であったが、桜の名所でもあった。文人を交えてたびたび行幸したという。その後仁明天皇の離宮となり、やがて皇子常康親王に譲られた。869年(貞観11年)親王が亡くなった後、僧正遍昭に託し、ここを官寺「雲林院」とした。884年(元慶8年)、遍昭はこれを花...
宇治神社は、隣接する宇治上神社と二社一体の存在であったとされています。創建年代などの起源は明らかではありませんが、延長5年(927年)成立の『延喜式』神名帳では、山城国宇治郡に「宇治神社二座 鍬靫」の記載があるそうです。祭神は、菟道稚郎子命(うじのわきいらつこのみこと)で、その名が宇治の地名の由来とされています。菟道稚郎子は、応神天皇の皇子であり、仁徳天皇の弟です。幼い頃から聡明だったため、父の応神天...
宇治駅から『源氏物語』ゆかりの宇治を散策しました。駅を出てすぐ目に入るのがこの茶壺型ポスト宇治らしさ満点ですね😄史跡を見ながら宇治橋に向かって行きます。京都銀行宇治支店前に「宇治代官所跡」の石碑があります。宇治代官所跡江戸時代には、この場所に代官所が置かれていました。宇治代官の上林家(かんばやしけ)については、本能寺の変の際に、堺から三河に逃げ帰る徳川家康を先導したと伝えられています。上林家は、将...
京都市伏見区の醍醐寺(だいごじ)は、平安時代初期の貞観16年(874年)、空海の孫弟子にあたる聖宝(理源大師)が創建した真言宗醍醐派の総本山となる寺院です。後に醍醐天皇が醍醐寺を自らの祈願寺とし、薬師堂、釈迦堂(金堂)、五重塔が建立されるなど発展を遂げました。釈迦堂(金堂)五重塔弁天堂『源氏物語』第23帖「初音」では、末摘花の兄が醍醐寺の阿闍梨という設定になっています。末摘花(すえつむはな)「源氏物語」の登場...
小町庭苑入口随心院の本堂裏には、小町文塚があります。小町文塚 深草少将や多くの貴公子から小野小町に寄せられた千束の文を埋めたと伝わります。小町文塚 百夜通いで有名な深草少将をはじめ当時の貴公子たちから小野小町に寄せられた恋文を埋めたところと伝えられています。 このように丁重に供養された理由として、当時は思いを伝えるために書かれた恋文は、思いの篭ったったものであり粗略な扱いをしては相手に恨まれたり祟...
京都市山科区勧修寺にある勧修寺(かじゅうじ)は、真言宗山階派の大本山の寺院で、皇室と藤原氏にゆかりの深い寺院でもあります。門跡寺院であり、「山階門跡」とも称します。昌泰3年(900年)、醍醐天皇が、若くして死去した生母藤原胤子の追善のため、胤子の祖父にあたる宮道弥益(みやじいやます)の邸宅跡を寺に改めとされています。胤子の父は、紫式部の先祖にあたる藤原高藤(ふじわらのたかとお)、母は宮道弥益の娘・列子(...
古典文学にも登場する仁和寺『紫式部日記』には、仁和寺の僧都・済信(さいじん)が、また、『枕草子』には、仁和寺の僧正・寛朝(かんちょう)が登場します。中門五重塔寛永21年(1644年)再建。御室桜と共に仁和寺のシンボル的存在となっています。桃山時代建築の国宝建造物。仁和寺の本尊である阿弥陀三尊を安置する御堂。堂内は四天王像や梵天像も安置され、壁面には浄土図などが極彩色で描かれています。経蔵寛永18年(1641年)か...
京都文化博物館「近衞家 王朝のみやび 陽明文庫の名宝14―御堂関白記と源氏物語」
京都文化博物館で開催されている「近衞家 王朝のみやび 陽明文庫の名宝14 御堂関白記と源氏物語」を見学して来ました。今回の陽明文庫の名宝展では、国宝『御堂関白記』より、藤原道長による自筆本のみ4巻が紹介されています。また、鎌倉時代に書写された重要文化財『源氏物語』のほか、室町時代と江戸時代の写本が展示され、各時代の源氏物語の歴史を辿っています。この中でも、特に見たかったのは、道長の自筆です。(『御堂関...
御室仁和寺は、真言宗御室派大本山。宇多天皇が譲位後ここに住したので御室御所とも呼ばれ、その後、代々の別当は宇多天皇の子孫が務めていました。その後、三条天皇の皇子である性信入道親王が当寺の別当の上に新設された検校に任じられ、これ以降、門跡寺となって明治維新まで歴代法親王が住持となりました。寛弘7年(1010年)に藤原道長の妻である源倫子の御願によって、観音院潅頂堂が建立されましたが度々の火災で焼失。現在...
比叡山延暦寺には、多くの貴族が参詣しました。目や耳の病気に苦しんでいたという三条天皇もその一人です。三条天皇が天皇の位を退いた後、延暦寺に参詣したことが藤原実資の『小右記』書かれており、比叡山へと続く、きらら坂を輿で半日かけてのぼり、延暦寺の根本中堂で病気の回復を祈願したといいます。4年前に訪ねた時の画像です。ケーブル延暦寺から延暦寺の参道を歩いていきます。歩くこと7分で、延暦寺に到着。比叡山の山内...
12/22(日) 15時開演〜 朗読公演:源氏物語『葵』~愛と哀しみの物語~ 紫式部 📚おとがたり朗読とヴァイオリン🎻
皆さんこんにちは!長浜奈津子です🌸 2024年12月、年内最後の"おとがたり”朗読ライヴのお知らせです。『葵』源氏物語紫式部/与謝野晶子訳。*先行・仮チラシを掲載していますが、公演案内をさせて下さい。 <愛と哀しみの物語〜無限の味わい>源氏物語といえば…幽玄なる愛の世界が描かれていますが…『葵』では、光源氏、葵上、六条御息所の物語が語られ有名な章です。三人の織りなすこの物語は、平安時代の人々の情緒の奥深さを描き出し、心に残る余韻を与えます。 愛と哀しみの物語、と言いましたが、ひとの感情というものは、無限の味わいがあります。昔々、海外から俳優座に来た、ある演出家がワークショップで言っていた言葉なのですが、あらゆる感情は美しいもので、我々俳優は、それを使って物語を奏でるのだといっていたことが、とても印象深かっ...12/22(日)15時開演〜朗読公演:源氏物語『葵』~愛と哀しみの物語~紫式部📚おとがたり朗読とヴァイオリン🎻
京都市北区紫野にある大徳寺の塔頭・真珠庵の特別公開に出かけて来ました。今回の特別公開では、本堂、現代作家が描く⽅丈襖絵書院 通僊院(つうせんいん)茶室 庭⽟軒(ていぎょくけん)⽅丈東庭「七五三の庭」、通僊院庭園『源⽒物語図屏⾵』が公開されています。真珠庵は、永享年間(1429年~1441年)に、大徳寺を復興した一休宗純を開祖として創建されました。応仁の乱により焼失し、延徳3年(1491年)に堺の豪商・尾和宗臨(...
朱色に染まった紅葉を愛でながら、鐘楼の建つ小高い丘へと進んで行きます。ちょうど紅葉の中央に見えるのが鐘楼です。平等院の鐘は、姿の美しさから日本三名鐘に数えられています。こちらには、複製の梵鐘が懸けられており、実物は鳳翔館にあります。梵鐘鳳凰堂と同じ11世紀頃の制作と推定される。全面に天人、獅子、唐草文様などの繊細な浮き彫りを施した、他に例を見ない鐘である。「音の三井寺」、「銘の神護寺」、「姿、形の平...
宇治の地は、『源氏物語』の「宇治十帖」の舞台であり、平安時代初期から貴族の別荘が営まれていました。現在の平等院の地は、9世紀末頃、光源氏のモデルともいわれる嵯峨源氏の左大臣・源融が営んだ別荘だったものが陽成天皇、宇多天皇に渡り、朱雀天皇の離宮「宇治院」となり、それが宇多天皇の孫である源重信を経て長徳4年(998年)、摂政・藤原道長の別荘「宇治殿」となったもの。表門道長は万寿4年(1027)に亡くなったため、当...
明石市鍛治屋町にある浄土宗の寺院・光明寺は、元和5年(1619)、明石城築城時に三木市から現在地に移築されました。山門通称「浜光明寺」と呼ばれています。本堂本堂は、明石市内の寺院で最大級の大きさなのだそう。観音堂鐘楼享保14年(1729)、藤原国次によってに作られた釣鐘は、明石市内最大級で市の指定文化財になっています。1885年(明治18年)8月9日、山陽道御巡幸中の明治天皇が宿泊した場所でもあり、 1976年(昭和51年)2...
無量光寺も戒光院同様、『源氏物語』明石の巻に登場する明石入道が光源氏に与えた邸の「浜の館」のモデルとされています。また、明石西国第2番観霊場となっている浄土宗本派の寺で、文学にゆかりの深い寺としても知られています。山門の彫刻は、左甚五郎作といわれています。山門を入ると左手に源氏稲荷が祀られています。大正時代には、作家の倉田百三、武者小路実篤らが訪れているそうです。にほんブログ村 歴史ブログランキング...
無量光寺の山門前には、光源氏が自分の住む「浜の館」から明石の上の住む「岡辺の館」へ通う時に通ったとされる「蔦の細道」があります。何気ない細い道ですが、ロマンを感じますね。にほんブログ村 歴史ブログランキングに参加しています。応援よろしくお願いします!にほんブログ村歴女日記ブログランキングに参加しています。ご協力お願いしますm(__)m歴女日記ランキング...
明石の『源氏物語』ゆかりの地(1)善楽寺「明石入道・浜の館」
光源氏が明石の君と出会う舞台である兵庫県の明石を訪ねました。須磨で寂しい生活を送っていた光源氏が、住吉の神の導きにより、須磨を離れることに。その予言どおり、翌朝、明石入道が迎えの船に乗って現れ、源氏一行は明石入道の邸へと移りました。そこで、明石入道の娘の明石の君と出会い、姫を授かることになります。善楽寺は、戒光院・円珠院の総称です。戒光院は『源氏物語』の第13帖「明石」で、明石入道が澄んでいた「浜の...
須磨区多井畑には、在原行平に寵愛された松風・村雨の墓があります。松風・村雨 まつかぜ・むらさめ在原行平(ありわらの-ゆきひら)が須磨(すま)でよんだという歌をもとに生まれた説話上の姉妹。かつて行平に愛された海女の姉妹が亡霊となって旅の僧の前にあらわれ,行平形見の狩衣(かりぎぬ)を身につけて舞う。能「松風」,御伽(おとぎ)草子「松風村雨」,人形浄瑠璃(じょうるり)「松風村雨束帯鑑(そくたいかがみ)」などは松風物とい...
読書記録:あさきゆめみし10:源氏物語(講談社コミックスミミ269) 大和和紀 本 通販 Amazon強引な口説きと行き違いにより母を死なせ、しかも外堀を埋めた形となった二の宮を、強引に妻とする夕霧。後ろ盾もなく二夫..
多井畑厄除八幡宮の近くには、義経腰掛けの松があります。源平合戦の折り、源義経一行は、多井畑厄除八幡宮で先勝祈願をした後、この地の松に腰をかけ休息を取り出陣したと言い伝えられています。義経腰掛の松 1184年(寿永3年)2月7日未明源義経一行は多井畑厄除八幡宮で戦勝祈願した後、この松の木の下で休息をとり一の谷に向かったと伝えられている。それから後、村人はこの場所に社を作り「ほんがんさん」の愛称で親しみと尊敬...
読書記録:あさきゆめみし9:源氏物語(講談社コミックスミミ225) 大和和紀 本 通販 Amazon女三の宮が隠していた柏木からの文を見つけ、若い二人に出し抜かれるとは、かつての光源氏も落ちたものよと自嘲しつつも怒り..
多井畑厄神にある「鏡の井」の一帯は、字畑殿と呼ばれ、松風・村雨の育った館の跡だと伝わっています。須磨にわび住まいした在原行平に寵愛された松風・村雨は、多井畑の村長の娘だったといわれています。「中納言行平朝臣、須磨の浦に左遷され村雨・松風二(ふたり)の蜑(あま)に逢ひ、戯れるの図」 月岡芳年画。多井畑には、二人が水鏡として使ったといわれている泉があり、「鏡の井」と呼ばれています。鏡の井由来仁和三年(...
神戸市須磨区に鎮座する多井畑厄除八幡宮(たいのはたやくよけはちまんぐう)は、多井畑の厄神さんの愛称で親しまれています。須磨に配流された在原行平や、一の谷の合戦の際には源義経が祈願したといわれており、日本最古の厄除けの霊地と伝えられています。 770年(神護景雲4年)6月に疫病が大流行し、それを鎮めるために五畿内(大和、山城、河内、摂津、和泉)の国境10ヶ所に疫神を祀り、疫祓いが行われました。多井畑厄除八幡...
須磨寺の宝物館の一角にある「須磨寺小石人形舎」では、アートデザイナーの故木島武雄氏が、須磨や各地の小石を集めて『源氏物語』や源平合戦の場面を表した小石人形が展示されています。光源氏を彩る人々光源氏、葵の上、桐壺帝、桐壺更衣、紫の上など百人一首の詠人清少納言、小野小町など在原行平と松風村雨源平合戦などの情景が、センサーで作動して動くしくみになっています。一の谷合戦平敦盛青葉の笛を吹く平敦盛平家の公達...
読書記録:あさきゆめみし8:源氏物語(講談社コミックスミミ) 大和和紀 本 通販 Amazon女三の宮が六条院の対屋ではなく寝殿(母屋)に迎えられたことで、己が正妻ではなく正妻格でしかなかったことを思い知り、絶望..
読書記録:あさきゆめみし7:源氏物語(講談社コミックスミミ) 大和和紀 本 通販 Amazon玉鬘を尚侍として入内させようとしつつ、裳着の腰結いを頭中将改め内大臣に頼むことで親子の再会&源氏自身との和解も済ませ、..
読書記録:あさきゆめみし6:源氏物語(講談社コミックスミミ57) 大和和紀 本 通販 Amazon梅壺の女御の宿下がりから始まって秋好中宮として中宮宣下。朝顔の君とのプラトニックに終わったやりとり。夕霧と雲居の雁の..
今宮神社の祭神は、大己貴命(おおなむちのみこと)・事代主命(ことしろぬしのみこと)・奇稲田姫命(くしいなだひめのみこと)で、正暦5年(994)に船岡の上に創立されたといわれ、平安初期に疫病を祓うために、京中の人々が疫神お祀ったのに由来するとされています。東門長保3年(1001)の疫病流行の際、一条天皇が船岡山に安置されていた疫神を当地に移し、今宮と名付けたのが始まりとされています。楼門本殿本殿は明...
須磨離宮公園の日本庭園の方に進んで行きます。石灯籠傘亭(傘形四阿舎 かさがたあずまや-)傘亭は、大正3年に造営された武庫離宮内に建てられた一本柱・六角形屋根の四阿舎で、青銅製擬木の柱や竹穂葺屋根という全国的にも珍しい特徴を持った四阿舎です。昭和20年の神戸大空襲で屋根部分が焼失したといわれ、柱だけが残っていましたが、平成23年10月に復元されました。月見台と四阿舎「傘亭」在原行平月見の松跡源氏物語の主人公...
須磨を巡る(11) 須磨離宮公園 噴水広場~王侯貴族のバラ園
須磨離宮公園は、かつての皇室の別荘「武庫離宮」の跡地に整備された都市公園です。正門離宮道の松並木を含めて離宮当時の面影をとどめています。丘陵に広がる面積82ヘクタールの広大な敷地に、西洋式庭園を中心とする本園と植物園からなっています。須磨離宮(正式名称・武庫離宮)約100年前、皇室の別荘である「須磨離宮」が建造されました。 総檜造り2階建ての御殿は、大正天皇や皇后、昭和天皇、満州国皇帝の溥儀もご利用されま...
本堂仁和二年開創当時の本堂には、松風村雨物語で有名な在原行平が参籠して、勅勘を許されたと伝えられています。その後、火災、洪水、地震などの災害によりたびたび建て直されました。現在の本堂は、慶長七年(1602)に、片桐且元を建築奉行とし、豊臣秀頼が再建したものです。(但し内陣の宮殿は応安元年(1368)の建造)三重塔弘法大師千百五十年御遠忌、当山開創千百年、平敦盛卿八百年遠忌を記念して昭和59年に再建されました。(旧...
読書記録:あさきゆめみし3:源氏物語(講談社コミックスミミ962)コミック–1982/9/1源氏物語の80年代少女漫画なコミカライズ。3巻目は源氏が葵祭の勅使を任命されて、見物に行った葵の上と六条の御息所が..
読書記録:あさきゆめみし4:源氏物語(講談社コミックスミミ963)コミック-1983/5/1源氏物語のコミカライズ。4巻目は須磨で謹慎することにした光源氏の旅立ちから始まって、嵐の中での先帝の導き。明石の入道との出会..
読書記録:あさきゆめみし5:源氏物語(講談社コミックスミミ56)コミック-1984/7/1須磨から都へ戻った源氏が5年ぶりに末摘花を訪ねる、それまでの末摘花のあれこれと、石山寺詣でで未亡人となった空蝉と行き合ったこ..
JR二条駅から徒歩5分、中京区西ノ京北聖町にある大学寮跡。大学寮(だいがくりょう)は、式部省に所属した官僚育成のために設けられた高等教育機関です。官僚の候補生である学生に対する教育と試験及び儒教における重要儀式である釋奠を行いました。大学寮で、紀伝道(漢文や歴史を学ぶ学科)を修めると、文章生となり任官しました。紫式部の父・藤原為時は、その文章生でした。為時の息子で、紫式部の同母兄もしくは同母弟ある藤原...
山陽電車「須磨寺」駅より徒歩7分ほどのところにある須磨寺公園は、源平ゆかりの古刹「須磨寺」に隣接した公園です。春は堂谷池を中心に桜が咲き誇り、桜の名所にもなっているそうです。ここを訪ねたのは、昨年の秋でしたので、春の光景も見てみたいです。浮御堂にはベンチがあり、休憩できます。『源氏物語』の「須磨」の一節が書かれていました。ここから須磨寺を目指して坂道を登っていきます。仁王門が見えてきました。仁王門...
松風村雨堂(まつかぜむらさめどう)は、須磨区離宮前町1丁目にある平安時代の多井畑の村長の娘「もしほ」(松風)と「こふじ」(村雨)が在原行平を慕い建てた庵の跡です。在原行平は、平安時代の歌人で、同じく光源氏のモデルの一人とされる 在原業平の兄です。 松風村雨堂(神戸市地域史跡)松風村雨堂は、謡曲「松風」を初め、多くの文学に取り上げられた松風、村雨の二人の姉妹にまつわるお堂で、次のような伝説によって広く...
大徳寺前から市バスに乗車、 二度目ましての下鴨神社、糺の森リベンジ。 糺の森「憂き世をば今ぞ別るるとどまらむ名をばただすの神にまかせて」須磨に流される前に光源…
続いては、須磨の菅原道真ゆかりの「菅の井」を訪ねました。伝説によれば、901(延喜元)年、菅原道真が九州太宰府に流される途中、風波を避けて須磨に一時上陸した際、浦人たちは漁網の大綱を巻いて円座をつくり、道真に休んでいただいたといわれています。その時に西須磨の旧家である前田家の人が井戸の水をくんで差しあげたところ、道真は大いに喜び自画像を前田家に与えたそうです。前田家ではこの井戸を「菅の井」と名付け、そ...