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【底抜けの桶】中世のこととはいえ鎌倉時代のことともなるとよく分かっていないことが多い件
< 日本の中世は平安時代後期から戦国時代までの約500年間 なんだそうです > 奈良、京都から政権を史上初めて関東に持ってきた鎌倉幕府ですが、源頼朝(1147~1199)、源頼家(1182~1204)、源実朝(1192~1219)の三代で源家は途絶えたってされています。実質的には三代将軍実朝の時に実権は北条氏に握られていたんだそうですけどね。 っていうのか信頼できるまとまった資料が決定的に不足していて、いろんな説がある。昔は「イイクニつくろう鎌倉幕府」だったけど、今は「イイハコつくろう鎌倉幕府」になっていることだけをみても、そういう事情が見えてきます。 頼朝が1192年に征夷大将軍となってから…
法堂跡法堂は、北条高時の時代、北条貞時の13回忌に当たる1323年(元亨3年)に建立されましたが、応安の大火で焼失してしまいました。方丈方丈の前には柏槇ビャクシンが植えられ、裏には、心字池のある美しい庭園が広がっています。百観音霊場の由来は、養老二年(718年)徳道上人が開設した西国三十三観音霊場と、鎌倉時代、観音信仰に篤かった源頼朝が開いた板東三十三観音霊場と、その後にできた秩父三十四観音霊場の総称と...
では、鹿王院の中門をくぐってみましょう。中門本庭は舎利殿前に広がる嵐山を借景とした庭園で、苔で覆われ、石組と植え込みを配した平庭式枯山水庭園。「鹿王院庭園」の名称で京都市の名勝に指定されています。庫裏寛文年間(1661年 - 1673年)の再建。客殿単層入母屋棧瓦葺の建物で、1890年(明治23年)再中興峨山和尚の代の再建。扁額「鹿王院」は、山門の『覚雄山』の額と同様、足利義満の筆。客殿から見た庭園。舎利殿へと進んで...
#4417 木の葉散り秋も暮にし片岡のさびしき森に冬は来にけり
令和6年11月7日(木) 【旧 一〇月七日 仏滅】立冬・山茶始開(つばきはじめてひらく)木の葉散り秋も暮にし片岡のさびしき森に冬は来にけり ~源実朝(1192-1219)『金槐和歌集』 0271 冬歌木の葉が散り、秋も暮れてしまった。片岡の寂しい森に冬がやってきた。 「片岡」
↑ランキングに参加しています ポチッと押してくれると嬉しいです♪ 彼岸花も終わりね 丁度、お彼岸の頃に咲くので几帳面な花ね… と思っていたら今年は遅かったわ。 山のほうでひ
↑源頼朝公が文治5年(1189)の奥州討伐の後に創建した、神奈川県鎌倉市二階堂に所在する国指定史跡、永福寺跡(ようふくじ あと)を探訪しました。永福寺跡は、ブラタモリ「鎌倉〜頼朝は武士の都・鎌倉をどうつくった?」で紹介され、発掘調査を担当した鎌倉市教育文化財部の福田誠氏は「頼朝は一連の権力闘争の勝利宣言をここでしたのではないか?ある意味、頼朝の権力を見せつけるための寺だった」と述べています。↑現地解説板...
↑源頼朝公が治承4年(1180)に大蔵に御所(幕府)を設けた際に鬼門の鎮守とし、以降歴代の将軍も尊奉した、神奈川県鎌倉市に鎮座する荏柄天神社(えがら・てんじんしゃ)を探訪しました。由緒は、現地解説板と荏柄天神社公式サイトの情報を合体させて、以下に整理・引用させて頂きました。■平安時代後期の長治元年(1104)晴天の空が突如暗くなり、雷雨とともに黒い束帯姿の天神画像が天降り、神験をおそれた里人等が社殿を建て、...
鎌倉鶴岡八幡宮の若宮近くに鎮座する、漆黒の白旗神社。源頼朝公と実朝公をご祭神に、勝負運や学業成就のご利益があると言われています。期間限定の御朱印は貴重です。
京都市下京区富小路通五条下る本塩竈町ある本覚寺は、源実朝の後室・坊門信清の娘の坊門信子(西八条禅尼)が貞応元年(1222)に創建したもので、寺名は信子の法名本覚をとったもの。また、当寺は光源氏のモデルとなったという源融の邸宅・河原院の跡地にあります 。山号を佛性山(ぶっしょうざん)といい浄土宗の寺で、開祖は團譽(だんよ)上人玉翁(ぎょくおう)和尚である。ここは嵯峨天皇の皇子・源融(みなもとのとおる)の河...
『愛国百人一首』の選定された35首目は源実朝です。これより鎌倉時代の歌となります。(著者所持の『愛国百人一首』の源実朝の絵札) 山 は さ け …
#3873 葵草かづらにかけてちはやぶる賀茂の祭をねるや誰がこぞ
令和5年5月15日(月) 【旧 三月二六日 仏滅】・立夏・蚯蚓出(みみずいづる)葵草かづらにかけてちはやぶる賀茂の祭をねるや誰がこぞ ~源実朝(1192-1219) 『金槐和歌集』 0643 雑歌葵草を髪に挿頭して賀茂の祭りを練り歩くのは何処の子であろうか。Photo:葵祭の斎王代
~古池や 蛙飛び込む 水の音~~一戸建て まわりを見ると 一戸だけ~上の二つの詩は両方とも五・七・五の十七音から成っているが、ジャンルで分ければ別物の扱いになる。文芸オンチの定評がある姫隊員でもさすがに判断がつくと思うが、前の「古池や・・・」は「俳句」であり
三島山 感応院 瑞光寺(→神奈川県藤沢市大鋸2丁目)は、鎌倉時代前期の1218(建保6)年に鎌倉幕府3代将軍の源実朝(みなもとのさねとも→北条政子の次男)が開基、僧の道教が開山した寺院から始まります。鎌倉幕府滅亡により保護者を失い衰退しましたが、室町時代の1398(応永5)年に僧の幸海が中興し、江戸時代前期の1609(慶長14)年には徳川家康の命で高野山真言宗の檀林所(→僧侶の養成機関)に定められました。1649(慶安2)年には幕府(→3代...
光円山 久成寺(くじょうじ→神奈川県鎌倉市植木5丁目)は、戦国時代に小田原北条氏の家臣梅田秀長が開基、僧の日舜が開山した日蓮宗寺院です。梅田秀長は日蓮宗門徒で、法名を一条院日題と称したといいます。1590(天正18)年の小田原合戦の際、豊臣方の徳川家康が久成寺に立ち寄り寺領3石を寄進しています。家康は、関東入封後も中原御殿(→神奈川県平塚市御殿2丁目)から鷹狩(たかがり)に赴いた際に久成寺に立ち寄っています。その際、...
荏柄天神社(→神奈川県鎌倉市二階堂)は、平安時代後期の1104(長治安元)年に天神を敬う里人が創建したと伝わる天満宮で、源頼朝が鎌倉幕府を開いた際は、大蔵御所(→神奈川県鎌倉市雪ノ下3丁目)の鬼門守護として崇められたといいます。神仏習合の頃は京都の東寺の末寺・一乗院(→廃寺)が別当寺として祭祀を司りました。『吾妻鏡』には、1202(建仁2)年9月11日に2代将軍源頼家が菅原道真三百年忌を行い、奉幣使として政所別当大江広元を...
【武都】章「参考文献」弐十弐・承久の乱~真の「武者の世」を告げる大乱
22.【承久の乱~真の「武者の世」を告げる大乱】 評価:75点/作者:坂井孝一/ジャンル:歴史/出版:2018年 『承久の乱~真の「武者の世」を告げる大乱…
【武都】章「参考文献」弐十・源実朝~「東国の王権」を夢みた将軍
20.【源実朝~「東国の王権」を夢見た将軍】 評価:70点/作者:坂井孝一/ジャンル:歴史/出版:2014年 『源実朝~「東国の王権」を夢見た将軍』は、鎌…
19.【源実朝~歌と身体からの歴史学】 評価:70点/作者:五味文彦/ジャンル:歴史/出版:2015年 『源実朝~歌と身体からの歴史学』は、鎌倉幕府の三代…
今年二度目の訪問となった鎌倉の覚園寺。前回とは違い、秋景色を見せていただきました。鎌倉の覚園寺は、建保6年(1218)、北条義時が 十二神将の戌神将のお告げにより建てた大蔵薬師堂が前身のお寺です。 承久元年(1219年)正月27日、鶴岡八幡宮での右大臣拝賀の際に、将軍・源実朝が源頼家の子公暁によって暗殺される事件が起こり、源氏の正統が断絶。義時はこの時実朝のすぐ側にはいなかった。『吾妻鏡』では、義時は実朝の脇で...
畠山重忠の衣装武士の鑑と言われたほどの畠山殿武士らしく潔く美しく散っていきました。演じた中川大志さんがブレイクしたドラマでもありましたね!源実朝の衣装白地に鶴の柄は、亡く頼朝を思わせますね~北条義時の甲冑今となっては懐かしい梶原殿絵までお上手な後鳥羽上皇全成殿もお気の毒でした(; ;)上総介も存在感のある方でした。みんな大好き和田殿😄北条家の皆さんが、唱える度に間違えていた呪文(^0^;)承久の乱では、幕府方...
再度鎌倉の大河ドラマ館を見学してきました。11月に模様替えされて、初期の頃とは異なる展示物も展示されていました。まだ純粋な青年だった頃の小四郎こと北条義時家族が和気あいあいだった頃の北条家この頃が懐かしいですね~出ました!平六こと三浦義村です!決して相談してはならないお方(^0^;)襟を正すと要注意(..;)源氏三代揃い踏み。いつの間にかお三方とも逝ってしまわれた(; ;)実朝くんの手には、演じた柿澤勇人さんが来館...
今年の大河ドラマ「鎌倉殿の13人」も、いよいよ大詰めを迎えることになった。ただ、こうしたドラマは視聴者に魅力・面白さを提供しないことには見てもらえないわけだから、その作り方もその方向に沿わざるを得ない宿命を背負っている。ということは、大河のような歴史ドラマ
北鎌倉を巡る、寄り道歴史探索 Vol.2 将軍の妻 北条政子と次男 源実朝
Vol.1 から少し日が空いてしまった。 前回は源頼朝、北条政子の長女・大姫と、木曽義仲の嫡男・義高の話をした。 wagamama110.com 切通を抜けた先、岩舟地蔵堂を過ぎて踏切を渡ると、閑静な参道が右手に見えてくる。 鎌倉五山第三位の「寿福寺」である。 丁度この記事を書いている時期的にNHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」が大詰めを迎えていて、物語のクライマックスに大きく関わる鎌倉幕府三代将軍 源実朝、北条政子親子の供養塔がここにあることが解った。 (function(b,c,f,g,a,d,e){b.MoshimoAffiliateObject=a; b[a]=b[a] functio…
承久元年(1219年)7月13日、都を揺るがす源頼茂の乱が勃発!源頼茂(みなもとのよりもち)は、源頼政の孫、源頼兼の子であり、大内裏中の内裏の警固を職務とする大内守護を職務としていました。源頼政源実朝の家司となるとともに、左大将・右大臣拝賀の際は鎌倉に赴いており、実朝と親しい武士でした。しかし、源実朝暗殺後、実朝の後継者・鎌倉幕府第4代将軍として三寅になることが決まり、頼茂は謀反の心を引き起こしたといいまま...
皆さぁ〜ん、大河ドラマ「鎌倉殿の13人」見てますかぁ〜いよいよ雪の鶴岡八幡宮の階段だぁ〜ってことで第45話の感想ぉ〜!複雑な糸が絡んで、結果的に義時の思うとお…
【鎌倉殿の13人】実朝暗殺。義村の本心を知り、義時の闇が深まった
「聖なる儀式」の中、天使の実朝は天命に従う NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」は、11/27に三代将軍実朝の悲劇的最期を描く第45回「八幡宮の階段」を放送した。 最近は主人公に同情たっぷりの家族に引きずられて見ていたせいか、物語は重かった~とにかく重かった。最後の心の拠り所・三浦平六義村にも殺されそうになったと知った我らのダークヒーロー北条義時の絶望。最後の方はもう人間味を完全に失ったロボット顔に変貌し、血の通わない無機物的な、故に迷いがあるはずがない顔になっていた。「かわいそうで仕方ない」と家族は同情しきりだ。 さて、今回描かれた実朝暗殺。まずは源仲章が「寒いんだよ」と出色のセリフを吐いて絶…
【本郷和人の日本史ナナメ読み】波多野家の謎 どこに消えた?「実朝の首」 - 産経ニュース 産
厚労省で「現代の奴隷制度」の議論が再浮上…“労働者いじめ策”に驚きと怒りの声が広がる ニフティニュー…
京都市下京区富小路通五条下る本塩竈町ある本覚寺は、源実朝の後室・坊門信清の娘の坊門信子(西八条禅尼)が貞応元年(1222)に創建したもので、寺名は信子の法名本覚をとったもの。本覚寺は、光源氏のモデルとなった源融の邸宅・河原院の跡地にあります 。山号を佛性山(ぶっしょうざん)といい浄土宗の寺で、開祖は團譽(だんよ)上人玉翁(ぎょくおう)和尚である。ここは嵯峨天皇の皇子・源融(みなもとのとおる)の河原院塩竃...
京都駅から西に歩いて10分ぐらいのところにある六孫王神社。ここは源氏の祖である源経基の邸宅跡で、清和源氏発祥の地で、多田神社(兵庫県川西市)、壺井八幡宮(大阪府羽曳野市)と共に「源氏三神社」の一つとされます。あります。六孫王という名は、経基の父が清和天皇の第六皇子だったことに由来し、経基の子・満仲が邸宅跡に霊廟を建て、六の宮と称したのが始まりです。本殿の背後に経基の墓石があり、境内から「満仲の誕生水...
北条義時ゆかり鎌倉「覚園寺」!義時を救った戌神の伝説と史跡めぐり
こんにちは。夢中図書館へようこそ!館長のふゆきです。全国の城や史跡をぶらり旅する「夢中図書館 いざ城ぶら!」。いま「鎌倉殿の13人」に夢中…。いざ鎌倉殿ゆかりの地へ!今日の夢中は、北条義時ゆかり鎌倉「覚園寺」!義時を救った戌神の伝説と史跡めぐりです。
京都市南区西九条の大通寺(遍照心院)は清和天皇の第六皇子・貞純親王の御子、六孫王経基(つねもと)の子・満仲が父の墓所に堂宇を建立したのが始まりとされています。その後、源実朝が鎌倉八幡宮で甥の公暁に暗殺され、妻が出家して西八条禅尼(本覚尼)と名を改め、夫を弔って創建しました。西八条禅尼坊門信清の娘。元久1(1204)年,将軍源実朝の御台所として鎌倉に下向。この婚姻は,鎌倉幕府と朝廷の融和策として最上の手段で...
武士の都・鎌倉・・・源頼朝によって、日本初の武家政権がこの地に誕生しました。ところが、頼朝の直系は、実朝暗殺によって三代で途絶えることになります。この時、頼朝の妻・政子と二代執権・北条義時兄弟は、次の将軍に皇族の皇子を望みました。しかし、朝廷はこれを受け
寿福寺は、鎌倉市扇ヶ谷にある臨済宗建長寺派の鎌倉五山第3位の寺院で、源頼朝が亡くなった翌年の1120年、頼朝の菩提を弔うために、妻の北条政子が明庵栄西禅師を開山として建立した寺です。栄西は日本に初めて臨済宗を伝えた禅僧で、「喫茶養生記」を著すなど、お茶を飲む習慣を日本に伝えたことでも知られています。 この地はかつて頼朝の父・源義朝の館があったところで、頼朝が鎌倉入りした際、ここに館を建てようとしましたが...
鎌倉殿の13人 第45話「八幡宮の階段」 ~源実朝暗殺事件~
建保7年(1219年)正月27日、半年前と同じ鶴岡八幡宮で、源実朝の右大臣拝賀の儀が行われる運びとなりました。その日、昼は晴れていたものの、夜になって雪が...
鎌倉の鶴岡八幡宮の境内にある白旗神社は若宮の東側にあり、源頼朝と実朝が祭られています。鶴岡八幡宮の三の鳥居若宮白旗神社の参道御社殿は黒漆極彩色、唐破風向拝の柱は漆塗りで、輝くような美しさを持った建物です。社伝によると正治2(1200)年5月、頼朝が白旗大明神の勅号を賜ったことを受け、北条政子が創建したといわれています。この辺りは、人通りも少なく、ひっそりとしています。にほんブログ村 歴史ブログランキング...
鎌倉にわずかに残る公暁の跡「鶴岡二十五坊跡」実朝暗殺の真犯人は誰か?
こんにちは。夢中図書館へようこそ!館長のふゆきです。全国の城や史跡をぶらり旅する「夢中図書館 いざ城ぶら!」。いま「鎌倉殿の13人」に夢中…。いざ鎌倉殿ゆかりの地へ!今日の夢中は、鎌倉にわずかに残る公暁の跡「鶴岡二十五坊跡」実朝暗殺の真犯人は誰か?です。
皆さぁ〜ん、大河ドラマ「鎌倉殿の13人」見てますかぁ〜やはりと言うか、そうなるよねと言うかって感じだねってことで第44話の感想ぉ〜いきなり…白い犬と義時…なん…
1219年1月27日、三代将軍・源実朝は右大臣拝賀の式の直後、鶴岡八幡宮の階段脇の大銀杏の陰に隠れていた二代将軍・源頼家の遺児・公暁によって殺害されました。そのことから、この木は「隠れ銀杏」とも呼ばれています。源実朝というのは、物語の話で、実際は階段を上った辺りで斬られたそうです。建保7年(1219)、前年に朝廷から右大臣に任官された実朝は、昇進を神に報告するため、鶴岡八幡宮に参詣しました。深く雪の積もった夜、...
源仲章のビックリ顔に劣らぬほど驚いた終わり方 11/20に放送されたNHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の第44回「審判の日」は、建保7年(1219年)1月27日の「鎌倉の悲劇の1日」をたっぷり描くのかと思いきや、悲劇を描かないまま直前で終わった。覚悟を決めてテレビ前に臨んだこちらはビックリだ。え~なんでそこで終わるかな! 次回、11/27の「八幡宮の階段」に悲劇は持ち越される。悲劇の1日は、2回に渡って描かれるということだ。27日は実朝君の月命日だからわざわざその日に延ばしたんだとか、実はワールドカップにぶつかることを考えて少しでも大河に引き留めようとしたんだとか、色々想像した。とにかく、せっ…
鎌倉市十二所にある明王院明王院は、寛喜3年(1231年)鎌倉幕府4代将軍藤原頼経によって発願された寺です。1218‐56(建保6‐康元1)鎌倉幕府の第4代将軍。摂政九条道家の子。母は太政大臣西園寺公経の娘綸子。公経の妻全子,すなわち頼経の外祖母は源頼朝の姪。幼名三寅。1219年(承久1)3代将軍源実朝が殺され,源氏の正統が絶えたため,頼朝の遠縁にあたる頼経が鎌倉に迎えられた。25年(嘉禄1)元服,翌年征夷大将軍に任ぜられ(摂家(...
鎌倉殿の13人 第44話「審判の日」 ~実朝の昇進と義時の薬師堂建立~
後鳥羽上皇の皇子を次期将軍に迎えることが内定すると、上皇は現将軍の源実朝を驚異的なスピードで昇進させました。建保6年(1218年)1月13日に権大納言、...