↑桜田門外で暗殺された井伊直弼の墓がある、東京都世田谷区に所在する彦根藩井伊家の菩提寺、大谿山豪徳寺(だいけいざん・ごうとくじ)を探訪しました。※以下「豪徳寺」と寺号のみに省略させて頂きました。縁起は、現地解説板より以下に転記させて頂きました。大谿山 豪徳寺(曹洞宗) 豪徳寺は、世田谷城主 吉良政忠(きら・まさただ)が文明12年(1480)に亡くなった叔母の菩提のために建立したと伝えられる弘徳院(こうとくい...
東京・神奈川・埼玉の史蹟や神社仏閣の訪問記を豊富な写真で紹介しています。
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↑桜田門外で暗殺された井伊直弼の墓がある、東京都世田谷区に所在する彦根藩井伊家の菩提寺、大谿山豪徳寺(だいけいざん・ごうとくじ)を探訪しました。※以下「豪徳寺」と寺号のみに省略させて頂きました。縁起は、現地解説板より以下に転記させて頂きました。大谿山 豪徳寺(曹洞宗) 豪徳寺は、世田谷城主 吉良政忠(きら・まさただ)が文明12年(1480)に亡くなった叔母の菩提のために建立したと伝えられる弘徳院(こうとくい...
地域タグ:世田谷区
↑室町幕府将軍足利家の支族、吉良(きら)氏の居城、東京都世田谷(せたがや)区に所在する世田谷城跡(東京都指定旧跡)を探訪しました。吉良氏で最も有名なのは、何と言っても吉良義央(忠臣蔵の吉良上野介)でしょうか。概要は、現地解説板の一部を以下に転記させて頂きました。世田谷城跡 ■吉良氏と世田谷城世田谷城は、清和源氏・足利氏の一族である吉良氏の居城として知られています。 貞治5年(1366)吉良治家(はるいえ...
地域タグ:世田谷区
↑東京都青梅(おうめ)市に所在する、中世の豪族 三田氏の居城跡、勝沼城跡(師岡城とも)を探訪しました。概要は、現地解説板を以下に転記させて頂きました。東京都指定史跡勝沼城跡 所在地:青梅市東青梅六丁目五八番外指 定:大正14年5月標識 昭和27年4月1日史蹟 昭和30年3月28日旧跡 平成5年3月22日史跡 勝沼城は、霞川上流部を南に臨む丘陵に位置し、主郭標高215メートルを測る平山城です。三...
地域タグ:青梅市
埼玉県狭山(さやま)市入間川(いるまがわ)の河岸段丘(かがん・だんきゅう)上に所在する、城山砦跡を探訪しました。※概要は↑現地解説板を以下に転記させて頂きましたので、御参照くださいませ。狭山市指定文化財城山砦跡 所 在 地:埼玉県狭山市柏原2346番地ほか指定年月日:昭和48年(1973)3月1日 城山砦跡は江戸時代後期の地誌『新編武蔵風土記稿』によると、天文年間に山内上杉憲政(やまのうち・うえすぎ・のりま...
地域タグ:狭山市
↑東京都国分寺市に鎮座する、元町八幡神社(本村八幡神社とも)を探訪しました。現地由緒書きを以下に転記させて頂きましたが、創建年代などは掲載されていませんでした。当所鎮守本村八幡神社 御祭神:応神天皇 年中行事歳旦祭:1月1日春季大祭:5月第3日曜日秋季大祭:9月18日七五三:11月中旬大祓式:12月29日↑補足として、武蔵国分寺囃子連様のサイトより、以下に一部を引用させて頂きました。東京都国分寺市西元町に鎮...
地域タグ:国分寺市
↑東京都府中市に所在する、足利尊氏公が開基の龍門山 髙安護国禅寺を探訪しました。※以下「高安寺」と、寺号のみに省略させて頂きました。概要は、府中観光協会様のサイトより、以下に引用させて頂きました。室町幕府の将軍足利尊氏(1305〜1358)が、元々この地にあった市川山見性寺を再興し、龍門山高安護国禅寺と号したのがはじまりとされ、尊氏が改名する前の高氏から名づけられたとされています。 それ以前の寺は、平将門を...
地域タグ:府中市
↑日本三大怨霊(菅原道真・平将門・崇徳上皇)の一つとして知られる平将門公が、御祭神としてお祀りされている江戸総鎮守、東京都千代田区外神田に鎮座する神田明神(正式社号は神田神社)を探訪しました。↑自分は神田明神を探訪する前に、東京都千代田区大手町に所在する将門塚(探訪記は、このリンクから御覧いただけます)を探訪しました。その理由は・・・↑山口敏太郎「怨霊と呪いの日本史」に、以下の記述があったからです。■...
地域タグ:千代田区
日本三大怨霊(菅原道真・崇徳上皇・平将門)の一つ、平将門公の怨霊伝説が残る、東京都千代田区に所在する東京都指定旧跡、将門塚(しょうもんづか/まさかどづか)を探訪しました。↑板石塔婆(いた・せきとうば)右側の「蓮阿弥陀佛」は、将門公の法号。左側に徳治二年(1307)とありますが、この板石塔婆は昭和45年(1970)に設置された物だとか。ちなみに「徳治」は嘉元の後、延慶の前。1306年から1308年までの期間。この時代...
地域タグ:千代田区
↑東京都青梅市に所在する、旧稲葉家住宅(東京都指定有形民俗文化財)を探訪しました。概要は、青梅市郷土博物館の解説を以下に引用させて頂きました。旧稲葉家住宅は江戸時代に青梅宿の町年寄を勤めた稲葉家の旧宅です。稲葉家は青梅でも有数の豪商で、材木商や青梅縞の仲買問屋を営んでいました。 「店蔵」と呼ばれる土蔵造りの母屋は、建築様式から江戸時代後期(18世紀後半~19世紀初め頃)に建てられたと考えられています。...
地域タグ:青梅市
東京都青梅(おうめ)市に所在する真言宗豊山派の寺院、青梅山 無量寿院 金剛寺を探訪しました。※以下、寺号のみの「金剛寺」と省略させて頂きました。↑写真は平将門(たいら・の・まさかど)が植えたと伝わる、将門誓いの青梅(あおうめ)です。自分が金剛寺を知ったのは・・・↑山口敏太郎「怨霊と呪いの日本史」の「平将門」の章の、以下の記載です。『新編武蔵風土記稿」には、平将門が植えた梅の木が残されているという記述が...
地域タグ:青梅市
↑徳川幕府の命で、私財を投じてまで武州西多摩郡羽村(はむら)から江戸の四谷まで続く玉川上水を開削した玉川兄弟、兄・庄右衛門(不明〜1695) 弟・清右衛門(不明〜1696)の銅像が建つ、東京都羽村市の羽村取水堰(はむら・しゅすいぜき)周辺を探訪しました。概要は、国土交通省 関東地方整備局のpdfより、以下に整理・引用させて頂きました。■多摩川の水を羽村(現在の羽村市羽東)から取水し、武蔵野台地を横切り四谷大木戸...
地域タグ:羽村市
↑東京都羽村(はむら)市に所在する臨済宗建長寺派の寺院、東谷山禅林寺(とうこくざん・ぜんりんじ:以下、禅林寺と省略させて頂きました)を探訪しました。由来は、現地解説板を以下に転記させていただきました。東谷山禅林寺 文禄2(1593)年に創建されました。開基は当初島田氏の祖、島田九郎右衛門(しまだ・くろうえもん)、開山は鎌倉円覚寺の三伯禅師(さんはく・ぜんじ)の弟子、春覚禅師(しゅんがく・ぜんじ)です。...
地域タグ:羽村市
↑東京都羽村(はむら)市の羽村街道沿いに鎮座する、稲荷神社を探訪しました。由緒は、現地解説板より、以下に転記させて頂きました。稲荷神社 創建年月は不詳ですが、江戸時代後期の地誌『新編武蔵風土記稿』に「稲荷社」と記述されています。 東ヶ谷戸(ひがしがいと)の鎮守で、祭神は宇迦之御魂之神(うかのみたまのかみ)、建速素戔嗚尊(たけはやすさのおのみこと)、玉祖命(たまのおやのみこと)です。 もと禅林寺の西...
地域タグ:羽村市
↑東京都羽村(はむら)市に所在する、鎌倉時代の創建と推定される東京都指定史跡「五ノ神まいまいず井戸」と五ノ神社(ごの・かみしゃ)を探訪しました。「まいまいず」とは蝸牛(かたつむり)のことで、この螺旋状の井戸は以前、旅番組で見て印象に残り、行ってみたいと思っていたのです。 ↑五ノ神まいまいず井戸の所在地は「東京都羽村市五ノ神1丁目2−1」で、JR青梅(おうめ)線の羽村駅東口から徒歩1分かかりませんでした...
地域タグ:羽村市
↑東京都国立市に所在する臨済宗建長寺派の寺院、谷保山南養寺を探訪しました。※以下「南養寺」と、寺号のみに省略させて頂きました。寺院の概要は、国立市観光オフィシャルサイト様より、以下に引用させて頂きました。谷保山南養寺は、臨済宗建長寺派の禅寺。同じ建長寺派である、立川普済寺(ふさいじ)の末寺です。 南北朝時代の1347年(正平2年)、立川・国立一帯の有力武士であった立川入道宗成(むねしげ)が大檀那と...
地域タグ:国立市
↑東京都国立市(くにたちし)谷保(やほ)に所在する、三田氏館跡(みたし・やかたあと)を探訪しました。こちらは、城山(じょうやま)とも呼ばれるようです。史跡について「多摩のジョギング道 ~多摩のむかし道と伝説の旅~」様の解説が最もわかり易かったので、以下に引用させて頂きました。城山は、鎌倉時代初期の三田氏の城館跡で、津戸城(津戸屋敷)とも呼ばれ、土塁に囲まれた二つの郭(くるわ)と、自然の地形を利用した...
地域タグ:国立市
↑湯島天神、亀戸天神と並んで関東三天神と称され、この地に配流された菅原道武公(菅公第三子)を祀る、東京都国立(くにたち)市の谷保(やほ)に鎮座する、谷保天満宮(やぼ・てんまんぐう)を探訪しました。 由緒は谷保天満宮公式サイトより、以下に引用・整理させて頂きました。御祭神菅原道真公・菅原道武公 由緒昌泰四年右大臣菅原道真公筑紫太宰府に左降の折、第三子道武公は武蔵国多摩郡分倍庄栗原郷(現国立市谷保)に...
地域タグ:国立市
↑昭和59年五日市町郷土館発行の「郷土あれこれ」第7号には、中世城郭研究家 中田正光先生が執筆した滝山城と支城の狼煙ネットワークに関する記事が掲載されています。記事の一部を以下に整理・引用させて頂きました。後北条氏の関東支配■戦国時代(16世紀)関東の支配者となった後北条氏(小田原北条氏とも)は、関東各地に支城を置いた。 ■それらは滝山城の北条氏照の軍団、鉢形城の北条氏邦の軍団、玉縄城の北条綱成、江戸城の...
東京都八王子市に所在する中世城郭、国指定史跡の滝山城(続日本100名城)に登城しました。滝山城は、小田原北条氏(後北条氏)の本拠地 小田原城の支城です。↑写真は「本丸」と「中の丸」を隔てる「大堀切」に架かる「引き橋」で、堀底道は鎌倉古道です。ここは、滝山城を象徴する場所の一つ。永禄12年(1569)10月2日、北条氏照が守る滝山城を武田信玄・勝頼が包囲。北条氏照は落城寸前まで攻め込まれるも、武田軍が囲みを解いて...
地域タグ:八王子市
↑東京都港区西麻布に鎮座する、櫻田(さくらだ)神社を探訪しました。由緒は、Wikipedia情報の一部を、以下に引用させて頂きました櫻田神社(さくらだじんじゃ)は、東京都港区の神社。霞山(かすみやま)桜田明神、霞山稲荷とも呼ばれた。 1180年(治承4年)に霞山桜田明神として、今の霞が関の桜田門あたりに創建された。 源頼朝は奥州征伐のために当社に神領を寄進したが、その際、他の田と区別するため桜の木を畔に植えたと...
地域タグ:港区
沖田総司の墓がある沖田家の菩提寺、東京都港区に所在する浄土宗の寺院、一向山三光院専称寺(いっこうざん・さんこういん・せんしょうじ)を探訪したのですが、↑本堂前の門は閉じられており、中へ入ることは出来ませんでした。専称寺に公式サイトは無く、由緒は「猫の足あと」様のサイトより以下に引用させて頂きました。浄土宗寺院の専称寺は、一向山三光院と号します。 専称寺は、伊賀守筒井順慶の姪で上総介織田信長の室とな...
地域タグ:港区
『沖田総司は千駄ヶ谷の植木屋「植甚」の柴田平五郎宅の離れで亡くなった』ということは、総司ファンなら誰でも知るところですが、自分は恥ずかしながら現地へ行ったことがありません(汗)ということで↑東京都新宿区に所在する「伝 沖田総司逝去の地」を探訪しました。現地解説板を、以下に転記させて頂きました。伝 沖田総司逝去の地 この場所には、高遠藩主内藤家屋敷(現新宿御苑)に沿って流れる旧玉川上水の余水吐(よすい...
地域タグ:新宿区
徳川将軍家菩提所次席で、徳川家康公の生母 於大の方(おだいのかた)の墓所があることで有名な、東京都文京区に所在する天台宗の寺院、無量山傳通院寿経寺(むりょうざん・でんづういん・じゅけいじ)を探訪しました。沿革は、傳通院公式サイトより一部を以下に引用・整理させて頂きました。■応永22年(1415)浄土宗第七祖了誉が開山。当時は小石川極楽水(現在の小石川4丁目15番)の小さな草庵で、無量山寿経寺という名...
地域タグ:文京区
↑東京都文京区に所在する浄土宗の寺院、無量山傳通院寿経寺(むりょうざん・でんづういん・じゅきょうじ)を探訪しました。院号の「傳通院」は徳川家康公の生母、於大の方(おだいのかた)の法名「傳通院殿蓉誉光岳智香大禅定尼」に因むように、傳通院は徳川将軍家菩提所として知られていますね。※以下「傳通院」と、院号のみに省略させて頂きましたが「伝通院」の表記の方が一般的なのかもしれません。↑於大の方の墓所のほか、千...
地域タグ:文京区
天然理心流三代目 近藤周助の養子に入って四代目を襲名した近藤勇先生の道場、東京都新宿区市谷柳町(いちがや・やなぎちょう)に所在する史跡、試衛館跡(しえいかんあと)を探訪しました。↑写真の標柱は、以下に転記させて頂きました。試衛館跡 幕末に新選組局長として知られる近藤勇の道場「試衛館」は、市ヶ谷甲良屋敷内(現市谷柳町25番地)の、このあたりにありました。 この道場で、後に新選組の主力となる土方歳三、沖...
地域タグ:新宿区
↑佐藤彦五郎の墓がある、東京都日野市に所在する浄土宗の寺院、三鷲山鶴樹院大昌寺を探訪しました。※以下「大昌寺」と寺号のみに省略させて頂きました。日野宿名主の佐藤彦五郎は、土方歳三の義兄(妻は土方歳三の姉、ノブ)で、天然理心流佐藤道場の主。そして新選組の良き支援者だったことは、新選組ファンなら誰でも知るところですね。↑新・歴史群像シリーズ「土方歳三」の「日野宿名主」についての記載を以下に整理・引用させ...
地域タグ:日野市
土方歳三生誕地・万願寺と日野の渡し(東京都日野市周辺)探訪記
東京都日野市の土方歳三先生の生家跡推定地と、多摩川の万願寺船渡場跡(万願寺の渡し)と↑写真の日野渡船場跡(日野の渡し)の3箇所を探訪しました。まずは、土方歳三先生の生誕地(推定地)からスタート。↑土方歳三資料館のパンフレットには「歳三の生家(生誕地)は元々、石田寺(せきでんじ:土方家菩提寺)の北側にある稲荷森(とうかんもり)の東後方にありました」と記載がありますが、稲荷森からの距離が記載されておらず...
地域タグ:日野市
↑土方歳三先生の御実家(土方歳三資料館)からほど近い、東京都日野市石田に鎮座する、石明(せきみょう)神社を探訪しました。探訪した理由は・・・↑KKベストセラーズの「新選組を旅する」に以下の記載があり、行ってみようと思ったわけです。土方家があった石田村は、江戸時代に多摩川の洪水被害で同村の鎮守を流失してしまう。それ以降、土方家は石明神社の氏子となった。※洪水で流失してしまった石田村の鎮守は「御伊勢の森」...
地域タグ:日野市
近藤勇 四代目襲名披露の野試合が行われた日吉神社(東京都府中市)探訪記
↑東京都府中市に鎮座する大國魂神社(武蔵総社 六所宮、六所明神とも)の境外社、日吉神社(府中日吉神社、六所日吉神社とも)を探訪しました。探訪した理由は・・・↑KKベストセラーズの「新選組を旅する」に、以下の解説があったからです。これを読まなかったら、日吉神社を知り得なかったかもしれません。近藤勇が天然理心流四代目を継いだ際、大國魂神社の飛び地境内である日吉神社で襲名披露の野試合が行われ、のちの新撰組隊...
地域タグ:府中市
↑徳川家康公、源頼義・義家公父子とも所縁が深い、東京都府中市の旧甲州街道沿いに鎮座する、大國魂神社(おおくにたまじんじゃ:六所明神・六所宮とも)を探訪しました。由緒は、現地解説板より以下に転記させて頂きました。武蔵総社 大國魂神社 当神社は、大國魂神を武蔵の国魂と仰いで、鎮祭し祠った神社である。第12代景行天皇41年(111年)5月5日大神の託宣によって創立せられ、武蔵国造が代々奉仕して祭務を司った。 其の...
地域タグ:府中市
慶応4年(1868)3月、大久保剛と変名を名乗った近藤勇率いる甲陽鎮撫隊が、甲府へ向かう途中で休息したことで知られ、山門横には↑写真の座像が建つ、東京都調布市に所在する天台宗の寺院、長谷山聖天院西光寺を探訪しました。※以下「西光寺」と、寺号のみに省略させて頂きました。↑西光寺の所在地は「東京都調布市上石原(かみいしはら)1丁目28−3」で、お寺は旧甲州街道に面して建っています。京王線の西調布駅北口から、徒...
地域タグ:調布市
↑近藤勇は、天保5年(1834)10月9日、武蔵国多摩郡上石原村の豪農、宮川久次郎の三男として生まれていますが、その宮川家の氏神、上石原若宮八幡神社(かみいしはら・わかみや・はちまんじんじゃ)を探訪しました。上石原若宮八幡神社(東京都調布市)は上石原村の鎮守で、近藤勇の氏神でもあり、近藤先生は何度もお参りしたと考えられているようです。この神社を知ったのは・・・↑東京都調布市に所在する近藤勇 生家跡(探訪記...
地域タグ:調布市
↑東京都指定文化財『近藤勇の墓』と胸像が建つ近藤家の菩提寺で、東京都三鷹市に所在する曹洞宗系の寺院、大澤山龍源寺を探訪しました。※以下「龍源寺」と、寺号のみに省略させて頂きました。龍源寺の由緒は、Wikipedia情報の一部を以下に引用させて頂きました。龍源寺(りゅうげんじ)は、東京都三鷹市にある曹洞宗系の単立寺院。 歴史1644年(正保元年)家山東伝によって開山された。所在地が大沢であり、旧大沢村にあることか...
地域タグ:三鷹市
↑東京都調布(ちょうふ)市指定史跡「近藤勇 生家跡」と、その近くの「天然理心流道場 撥雲館(はつうんかん)」を探訪しました。初回の訪問は確か高校生の頃。当時は携帯もネットも無い時代で、自分はカメラも持っておらず(笑)今回、撮影するため再訪したわけです。↑近藤勇 生家跡の所在地は「東京都調布市野水1丁目6−25」で、最寄駅は西武多摩川線の「多磨」駅です。駅から生家跡まで、700mくらいでしょうか。↑ということ...
地域タグ:調布市
↑源頼朝公が勧請したとも伝わる、東京都北区滝野川5丁目26−15に鎮座する、瀧野川八幡神社を探訪しました。由緒は、瀧野川八幡神社公式サイトより一部を以下に引用させて頂きました。創建年代は2つの説があるようです。創建は、鎌倉時代前期の建仁2年(1202年)といわれていますが、「江戸誌」によりますと、文治5年(1189年)に源頼朝が勧請したとの記述があります。 本殿は総欅造り、明治18年(1885)に改築されており、拝...
地域タグ:北区
↑東京都北区に所在する、近藤勇ほか新選組隊士達の菩提寺で真言宗豊山派の寺院、南照山観音院壽徳寺(なんしょうざん・かんのんいん・じゅとくじ)を探訪しました。※以下「寿徳寺」と省略させて頂きました。↑寿徳寺の所在地は「東京都北区滝野川4丁目22−2」です。最寄駅は、JR埼京線「板橋駅」東口から徒歩約10分、または都営三田線「新板橋駅」または「西巣鴨駅」より徒歩約8分とのことです。↑寿徳寺の由緒は、東京都北区観光...
地域タグ:北区
近藤勇が幽閉された板橋宿本陣と脇本陣跡(東京都板橋区)探訪記
慶應4年(1868)4月3日、大久保大和と変名を名乗っていた元新選組局長 近藤勇は、下総国(千葉県)流山で官軍に包囲され切腹しようとするも土方歳三に止められ、粕壁の官軍屯所へ出頭。しかし直ぐに身元がバレてしまい、近藤勇は官軍の板橋本営で縄を打たれて囚人の扱いになり、4月8日から取り調べが行われ、4月25日、官軍によって板橋刑場(現存せず)で斬首。近藤勇は取り調べの期間中、中山道 板橋宿に幽閉されていたよう...
地域タグ:板橋区
↑慶應4年(1868)4月25日、板橋刑場で官軍により斬首された新選組局長 近藤勇が葬られた場所、JR埼京線の板橋駅近くに所在する史跡「近藤勇と新選組隊士供養塔」を探訪しました。自分は武州多摩(東京都西部)在住ですが、多摩は近藤局長と土方副長、源さんこと井上源三郎を始めとする、天然理心流剣士の地元として知られていますね。自分は小学6年の時、授業で新選組を教わり「僕も大人になったら新選組に入る!」と思ったもの...
地域タグ:北区
↑東京都立川市柴崎町1丁目5−15に鎮座する、獅子舞と相撲の名社として知られる諏訪神社(立川諏訪神社とも)を訪問しました。由緒は、公式サイトより以下に転記させて頂きました。千二百年の伝統、由緒ある関東の名社 大国主神(おおくにぬしのかみ)の第二御子神 建御名方神(たけみなかたのかみ)は、諏訪湖の畔に住むきわめて武勇に富んだ神と崇められ、信州諏訪大社に祀られましたが、勧請により嵯峨天皇弘仁二年(811)立...
地域タグ:立川市
東京都立川市に所在する、平安末期から鎌倉時代にかけて武蔵国で活躍した武士団、武蔵七党西党(むさし・しちとう・にしとう)日奉(ひまつり)氏の支族、立川(たちかわ)氏の、立川宮内少輔宗恒(たちかわ・くないしょうゆう・むねつね)の居館跡を探訪しました。居館跡には臨済宗建長寺派の寺院、普濟寺が建っていました。↑写真は、その楼門です。史跡の概要は、土塁の傍に立つ解説板より以下に全文転記させて頂きました。東京...
地域タグ:立川市
↑源義朝に仕えた渋谷金王丸(しぶや・こんのうまる)と所縁が深い、東京都渋谷区の旧鎌倉街道沿いに鎮座する、金王八幡宮(こんのう・はちまんぐう/渋谷八幡宮とも)を探訪しました。現社殿は徳川2代将軍秀忠公の世、慶長17年(1612)に守役 青山伯耆守忠俊と春日局(竹千代:家光の乳母)によって造営されたものとのこと。かつてこの地には、渋谷の地名の由来となった渋谷氏の居館、渋谷城があったようですね。↑以前、頼朝の命...
地域タグ:渋谷区
服部半蔵正成(まさなり)公の開基によって、21歳で自刃した松平信康公(徳川家康公嫡男)の供養の為に開創された、東京都新宿区に所在する浄土宗の寺院、専称山安養院西念寺(せんしょうざん・あんにょういん・さいねんじ)を探訪しました。※以下「西念寺」と省略させて頂きました。↑写真は、本堂裏墓地の一画に建つ「岡崎三郎信康供養塔」です。現地解説板より、以下に解説を転記させて頂きました。新宿区指定史跡岡崎三郎信康供...
地域タグ:新宿区
東京都町田市に所在する東京都指定旧跡、井出の沢古戦場(いでのさわ・こせんじょう)を探訪しました。↑写真は、現地に建つ「史蹟 井出の澤」の碑です。井出の沢古戦場は、鎌倉奪還を目指す鎌倉幕府14代執権、相模入道北条高時の遺児、北条時行を奉じた軍勢と、足利直義(足利尊氏の弟)率いる軍勢が激突した場所と伝わるようです。↑吉川英治「私本太平記(全8巻)」第6巻には以下の記述があり、井手の沢古戦場は以前から訪問した...
地域タグ:町田市
↑東京都町田市に鎮座する、菅原神社(本町田菅原神社)を探訪しました。由緒は、菅原神社公式サイトより以下に引用させて頂きました。室町期の永享年間、近在の大沢左近正次は、先祖の大沢七郎正純が鎌倉期元応年間に京都北野天神へ詣でた折に得た天神像(大沢家の守り本尊だったと言われます)を、当地井手の沢の山上に奉安いたしました。 中先代の乱で戦死者累々としたであろう当地に奉安されたということは、想像の域ながら、...
↑鎌倉幕府第3代執権の北条泰時が開基となって建立された、神奈川県鎌倉市大船5丁目8−29に所在する臨済宗建長寺派の寺院「粟船山常楽寺」を訪問しました。※以下「常楽寺」と省略させて頂きました。以下に、現地説明板の解説を転記させて頂きました。常楽寺 ■宗 派:臨済宗建長寺派■山号寺号:粟船山常楽寺■建 立:嘉禎3年(1237)■開 山:退耕行勇(たいこうぎょうゆう)■開 基:北条泰時 1237年、鎌倉幕府三代目...
地域タグ:鎌倉市
↑木曽義仲公の嫡男、清水冠者(しみずかじゃ)源義高公の墓がある、神奈川県鎌倉市大船5丁目15−19に所在する「木曽塚」を訪問しました。木曽塚について、Wikipedia情報の一部を以下に引用させて頂きました。木曽塚 木曽義高(木曽義仲嫡男)の墓と伝えられる塚で、常楽寺裏山の中腹あたりにある。 もともと木曽塚は、常楽寺の西南100メートルほどの場所に建っていたが、延宝8年(1680)2月に現在の位置へ移された。 木曽塚...
地域タグ:鎌倉市
↑源頼朝の指示で僅か12歳で殺害された木曽義仲公の嫡男、清水冠者(しみずかじゃ)源義高公に纏わる伝承地、埼玉県狭山市に所在する影隠地蔵(かげかくし じぞう)を訪問しました。概要は、現地解説板から以下に転記させて頂きました。市指定文化財 史跡影隠地蔵 所 在 地:狭山市柏原204-1指定年月日:昭和52年9月1日 この地蔵尊が影隠地蔵と呼ばれるのは、清水冠者義高が追手に追われる身となったとき、難を避ける目的...
地域タグ:狭山市
朝日(旭)将軍と呼ばれた木曽(源)義仲の嫡子、清水冠者(しみずかじゃ)源義高は、義仲と対立する鎌倉の頼朝の元に「頼朝の長女・大姫(おおひめ)の婿」という名目で、質子(ちし:人質)として送られた。しかし、木曽義仲が頼朝が派遣した源範頼・義経軍に粟津の戦いで戦死すると、僅か12歳だった義高も、頼朝の指示で殺害された。可哀想な、義高ちゃん・・・歴史好きなら誰もが知る話ですが、清水冠者源義高の悲話に纏わる史...
地域タグ:狭山市
↑神奈川県秦野市東田原1116に所在する臨済宗建長寺派の寺院、大聖山 金剛寺を訪問しました。※以下、寺号のみの「金剛寺」と省略させて頂きました。寺院情報は、秦野の旬な観光情報様のページより、以下に引用させて頂きました。金剛寺は、もともと小寺でしたが、鎌倉時代に武常晴(たけ・つねはる)が3代将軍源実朝の御首(みしるし)を当寺に持参して埋葬したことに始まるといわれています。 退耕行勇(たいこうぎょう...
地域タグ:秦野市
↑源実朝公御首塚(みしるしづか)を訪問しました。史蹟の所在地は、神奈川県秦野市東田原1012です。史蹟概要は、秦野市公式ホームページより、以下に引用させて頂きました。概要鎌倉幕府3代将軍源実朝は、建保7(1219)年1月27日に鶴岡八幡宮への参拝が終わり、階段を下りている最中に潜んでいた甥の公暁に暗殺されます。 公暁は実朝の御首を持ち三浦義村を頼って逃走しました。しかし、義村には北条氏より公暁追討が命じられ...
地域タグ:秦野市
↑神奈川県横浜市都筑(つづき)区に所在する、茅ヶ崎城址(茅ヶ崎城址公園)を探訪しました。城の概要は、現地解説板より以下に転記しました。茅ヶ崎城址 茅ヶ崎城址は「空堀」「廓」「土塁」などが良好な状態で残る、貴重な中世城郭遺跡です。早渕川を北に望む自然の丘を利用して築城されています。 茅ヶ崎城は、14世紀末〜15世紀前半に築城されたと推定され、15世紀後半に最も大きな構えとなります。 16世紀中頃には、二重土...
地域タグ:横浜市
↑長尾景春の乱で太田道灌が攻め落とした豊島(としま)氏の居城、東京都練馬区の石神井(しゃくじい)公園に所在する、石神井城跡を探訪しました。↑概要は、現地解説板を以下に転記させて頂きましたので、御参照ください。東京都指定史跡石神井城跡 所在地:練馬区石神井台1-1900-2指 定:平成23年6月9日 石神井城は、秩父平氏の一族で、石神井川域を中心とする現在の東京都区部北側の地域に平安時代末期から室町時代中期頃まで...
地域タグ:練馬区
東京都指定旧跡「今川氏累代墓」のある、東京都杉並区今川2丁目16−1に所在する曹洞宗の寺院、宝珠山観泉寺を訪問しました。※以降「観泉寺」と寺号のみに省略させて頂きました。↑写真右側が今川氏真公、左側が氏真公の妻、早川殿(小田原北条氏三代、北条氏康の娘)の墓塔(宝篋印塔)です。↑ネットで拾った画像です(汗)先日、某公共放送の「歴史秘話ヒストリア」の再放送「戦国一華麗な敗者復活戦 〜今川プリンスと妻の二人...
地域タグ:杉並区
↑文明9年(1477)の長尾景春の乱で、扇谷上杉家 家宰の太田道灌公が、石神井(しゃくじい)城攻めの際に戦勝祈願した、東京都杉並区の荻窪八幡神社を訪問しました。↑訪問の第一の目的は、御神木の「太田道灌公が植えたと伝わる槇(道灌槇:どうかんまき)」を見ることでした。由緒は、現地由緒書きを以下に転記させて頂きました。荻窪八幡神社 この神社は旧上荻窪村の鎮守で、今から約千百年前の寛平年間(889〜898)に、応神天皇...
地域タグ:杉並区
↑東京都調布(ちょうふ)市の深大寺(じんだいじ)に残る中世城郭、標柱には「都旧跡」とありますが、現在は国指定史跡の深大寺城跡を訪問しました。史跡の概要は、文化遺産オンライン様の解説より、一部を以下に引用させて頂きました。深大寺城跡は、関東平野南部に広がる武蔵野台地の南縁辺部の、標高約50mを測る舌状台地の一角に所在する、3つの郭からなる戦国時代の城跡である。 台地の東側には開析谷によって形成された...
地域タグ:調布市
↑神奈川県横浜市港北区小机(こづくえ)町789に位置する平山城、小机城に登城しました。小机城は、長尾景春の乱の際、文明10年(1478)4月10日に、扇谷(おうぎがやつ)上杉氏家宰(かさい)の太田道灌公が攻め落としたことでも有名ですね。 城山の標高は42m、比高は22mと低いですが、情緒ある竹林と空堀、変化に富んだ地形で楽しい登城になりました。 城は「小机城址市民の森」として整備されており、危険な箇所は無く、初め...
地域タグ:港北区
↑扇谷(おうぎがやつ)上杉家の家宰として活躍した太田道灌公の斬殺事件に纏わる史蹟、神奈川県伊勢原市上粕屋1349−6に位置する「七人塚(しちにんづか)」を訪問しました。神奈川県伊勢原市は太田道灌公の地元で、霊地(墓所)が二箇所あります。一つは「首塚のある大慈寺」で、もう一つは「胴塚のある洞昌院(とうしょういん)」ですが・・・↑七人塚は、胴塚のある洞昌院の直ぐ近くです。最寄駅は、小田急 小田原線の「伊勢...
地域タグ:伊勢原市
↑扇谷上杉家で家宰を務めた、太田道灌公の胴塚を訪問しました。胴塚(墓所)は、神奈川県伊勢原市上粕屋1160に位置する曹洞宗の寺院、蟠龍山 洞昌院(ばんりゅうざん とうしょういん)裏の一画にありました。↑太田道灌胴塚(洞昌院)は、小田急小田原線「伊勢原」駅の西北に位置していました。バスを御利用の場合、駅北口4番バス停で「大山ケーブル行」に乗車し「道灌塚前」バス停で下車して徒歩5分。お車の場合、新東...
地域タグ:伊勢原市
↑太田道灌公が開基となった神奈川県伊勢原市上粕屋1160の曹洞宗の寺院、蟠龍山 洞昌院を訪問しました。※以下、洞昌院(とうしょういん)と、院号のみに省略させて頂きました。縁起は、洞昌院公式サイトより以下に引用させて頂きました。洞昌院は、太田左衛門大夫持資入道道灌(法名洞昌院心圓道灌、文明18年卒)を開基として、陽室照寅が開山となり、創建したといわれています。 天正19年寺領3石の御朱印状を受領、近隣に多く...
地域タグ:伊勢原市
神奈川県伊勢原市の丸山城址公園を訪問しました。↑写真は、国道246号線沿いの入口看板です。城の情報は、現地解説板より以下に転記しました。丸山城址とその周辺 丸山城址は、伊勢原市下糟屋(しもかすや)地区の台地上に築かれた中世の城郭です。 昭和60年度に実施された発掘調査により、大規模な堀や土塁の存在が確認され、現在まで土地区画整理事業などに伴い、複数回の発掘調査が実施されました。 江戸時代末の地誌には、平...
地域タグ:伊勢原市
↑紀元前六百六十年の創建(凄い!)とも伝わる、神奈川県伊勢原市下糟屋2202番地に鎮座する「高部屋神社」を訪問しました。↑最寄駅は、小田急 小田原線「伊勢原」駅です。駅から神社まで、徒歩20分くらいでしょうか。髙部屋神社を訪問した理由は・・・↑太田道灌公の菩提寺、大慈寺(探訪記は、このリンクから御覧いただけます)を訪問した際、大慈寺の管理責任者の方から「由緒ある神社なので、訪問してみては?」と勧められた...
地域タグ:伊勢原市
↑太田道灌公の地元、神奈川県伊勢原市下糟屋(しもかすや)320番地の史蹟、太田道灌公墓所(首塚)を訪問しました。写真右下に写っている小さな橋は、その名も「道灌橋」でした。伊勢原市には太田道灌公の霊地(墓所)が二箇所あり、一つは「首塚のある大慈寺」で、もう一つは「胴塚のある洞昌院(とうしょういん)」です。↑自分は太田道灌公菩提寺の大慈寺(探訪記は、このリンクから御覧いただけます)を見学し、次に大慈寺か...
地域タグ:伊勢原市
↑太田道灌公の菩提寺、神奈川県伊勢原市下糟屋(しもかすや)364に位置する臨済宗建長寺派の寺院、法雨山 大慈寺を訪問しました。※以下「大慈寺(だいじじ)」と、寺号のみに省略させて頂きました。太田道灌公の地元、神奈川県伊勢原市には太田道灌公の霊地(墓所)が二箇所あり、一つは「首塚のある大慈寺」で、もう一つは「胴塚のある洞昌院(とうしょういん)」です。このページでは、大慈寺の探訪記を紹介します。この二箇...
地域タグ:伊勢原市
↑年に一度必ず登城している東京都八王子市の八王子城。約1年ぶりの登城日は、ひんやり冷たい北風が吹く気温9℃の日でした。初登城は、確か小学校5年の遠足だったと思いますが、今回で何回目か?は、数えてないので分かりません・・・↑八王子城は東京の西の外れ、八王子市の西部。有名な高尾山の北側と言えば分かりやすいでしょうか。公共交通機関を御利用の場合、JR中央線「高尾駅」北口から「八王子城跡行き」バス(西東京バス)に...
地域タグ:八王子市
神奈川県藤沢市村岡東3丁目28に位置する史跡、村岡城址(村岡城址公園)を訪問しました。↑写真は、現地に建つ「村岡城址」石碑です。訪問したのは、藤沢市観光公式ホームページに以下の記述があったからです。村岡城は坂東八平市の祖、平良文が村岡に居住した10世紀後半に築いたとされ、城と言っても空堀をめぐらせた山城のようなものだったと伝えられています。 元弘の変の時に、新田義貞がこの城に布陣して鎌倉へ突入して行...
地域タグ:藤沢市
↑2022年大河ドラマ「鎌倉殿の13人」で紹介された、神奈川県藤沢市に鎮座する、舩玉(ふなたま)神社を探訪しました。由緒は、現地解説板より以下に転記させて頂きました。舩玉神社 祭神は弟橘姫命(おとたちばなひめのみこと)です。神社前の道は鎌倉街道で、腰越又は深沢を通って鎌倉へ入ったようです。 昔は江ノ島から、この付近まで船が出入りしていたといわれ、鎌倉三代将軍・源実朝が船を造らせたとき材木を切り出したとこ...
地域タグ:藤沢市
↑踊り念仏で知られる一遍上人(いっぺんしょうにん)を宗祖とする、時宗(じしゅう)の総本山、神奈川県藤沢市西富1丁目8−1の遊行寺(藤澤山 無量光院 清浄光寺)を訪問しました。遊行寺の縁起は、遊行寺公式サイトより、以下に引用させて頂きました。当山は通称「遊行寺」の名で知られており、正式には藤澤山 無量光院 清浄光寺と号します。 開山は俣野(現在の藤沢市、横浜市周辺)の地頭であった俣野氏の出身である遊行4代...
地域タグ:藤沢市
↑神奈川県藤沢市本町4丁目5−21の浄土宗の寺院、八王山 摂取院 常光寺を訪問しました。※以下、寺号のみの常光寺(じょうこうじ)と省略させて頂きました。↑自分が常光寺を知ったのは、義経公を祀った白旗神社(探訪記は、このリンクから御覧いただけます)境内の義経さんと弁慶さんの銅像の・・・↑以下に転記した台座の解説に、常光寺に関する記載があったからです。義経公・弁慶公の御首は、文治五年(1189)6月13日に腰越の浜...
地域タグ:藤沢市
↑神奈川県藤沢市藤沢本町4丁目5−21に位置する史蹟、弁慶塚(八王子権現社跡)を訪問しました。弁慶塚を訪問した経緯ですが・・・↑神奈川県藤沢市に鎮座する義経公をお祀りした白旗神社(探訪記は、このリンクから御覧いただけます)境内に建つ由緒書きには、以下の記載がありました。白旗神社 御祭神:寒川比古命・源義経公配 神:天照大神・大国主命 大山祗命・国狭槌命 由緒古くは相模一の宮の寒川比古命の御分霊...
地域タグ:藤沢市
平泉の藤原泰衡から鎌倉へ届けられた義経公と武蔵坊弁慶公の首は、腰越で梶原平三景時と和田小太郎義盛による検分後に浜に投げ捨てられ、潮の流れに乗って藤沢へ流れ着いた・・・その首を拾った里人が↑写真の井戸で洗い清めたという伝承が残る、神奈川県藤沢市の史跡「伝 義経首洗井戸」を2023年1月3日に訪問しました。↑最寄駅は、小田急江ノ島線の「藤沢本町(ふじさわほんまち)駅」となります。駅から史蹟まで徒歩3分かからない...
地域タグ:藤沢市
↑源義経公を祀った、神奈川県藤沢市藤沢2丁目4−7に鎮座する白旗神社を訪問しました。由緒は、白旗神社公式サイトより、以下に引用させて頂きました。御由緒 白旗神社がいつごろできたのかは定かではありませんが、鎌倉時代より以前から、相模国(神奈川県あたり)にある寒川神社の神様・寒川比古命をお祀りして、同じ名前の寒川神社と呼ばれていました。 文治5年(1189)閏4月30日、源義経公は兄源頼朝から怒りをかい、追い詰...
地域タグ:藤沢市
源頼朝公の落馬事件に関しては諸説あり、その一つ、神奈川県藤沢市の辻堂(つじどう)駅近くの京鎌倉往還沿いの史跡「源頼朝公 落馬地」を訪問しました。↑写真の看板の解説文は、以下に転記しました。源頼朝公 落馬地藤沢市辻堂二丁目17-1 建久九年(1198)戌牛十二月二十七日 将軍源頼朝公、稲毛重成の亡妻元子、追善供養のため造らるる、相模川橋の法要供養に臨席の頼朝公が鎌倉の館へ帰途、八的ヶ原(辻堂)に差しかかりし時...
地域タグ:藤沢市
↑神奈川県茅ヶ崎市浜之郷356の曹洞宗の寺院、懐嶋山 龍前院を訪問しました。※以下「龍前院」と省略させて頂きました。由緒は龍前院公式サイトより、以下に一部を引用させて頂きました。寺伝によれば、開山は約800年前、大庭三郎景親三世の祖良正が開基となり、僧道印が行基菩薩の作による薬師如来・十二神将像を祀ったのが始まりとされている。 古くは法相宗の寺であり、古義真言宗、鶴嶺八幡宮の僧坊から、曹洞宗寺院へとなっ...
地域タグ:茅ヶ崎市
↑神奈川県鎌倉市の太田道灌公の墓所を訪問しました。Googleマップの所在地表示は「鎌倉市扇ガ谷1丁目18」となっています。↑太田道灌公の墓はJR鎌倉駅の北東、源義朝公の館があったと伝わる「寿福寺」の墓地の端から山を登ったところに在りました。太田道灌公之墓の下に「源実朝墓」が表示されています。実朝公の墓は寿福寺の墓地ですが、太田道灌公の墓は寿福寺墓地ではありません。自分は小学6年の時に「江戸城は、徳川家康公...
地域タグ:鎌倉市
↑徳川家康公が寵愛した側室、お梶の方(太田道灌の子孫で、出家後は英勝院)が、太田道灌公の屋敷跡に建立した、東光山 英勝寺を訪問しました。※以下、英勝寺(えいしょうじ)と省略させて頂きました。Wikipediaによりますと、2000年放送の大河ドラマ『葵 徳川三代』では、お梶の方を森口瑤子さんが演じたそうです。ちなみに家康公は津川雅彦、秀忠公は西田敏行、家光公は尾上辰之助だったようです。また、お梶の方の逸話「うまい...
地域タグ:鎌倉市
↑情緒ある美しい参道で知られる寿福寺(神奈川県鎌倉市扇ガ谷1-17-7)を訪問しました。寿福寺の地には、かつて源義朝(頼朝公の父)の館があったとされ、また墓地には北条政子と源実朝の墓があることでも知られているようです。しかし、寿福寺で公開されているのは外門から山門までの参道のみで、境内には入れませんでした。山門前から境内を見ることはできましたけどね。↑寿福寺へは、鎌倉駅西口から今小路に入って、北鎌倉方面へ...
地域タグ:鎌倉市
神奈川県鎌倉市由比ガ浜3丁目4−7の史跡、和田合戦(和田義盛の乱)で亡くなった和田義盛一族の墓がある和田塚を訪問しました。訪問した理由は・・・↑こちらは自分の地元の武州多摩、東京都八王子市元横山町に鎮座する八王子総鎮守、八幡八雲(はちまんやくも)神社です。八幡八雲神社が建つ地には、かつて武蔵七党(むさし しちとう)横山党の横山氏の居館があったとされ、境内には・・・↑横山党の始祖、横山義孝を祀った横山神...
地域タグ:鎌倉市
梶原景時一宮館址と梶原氏一族郎党(七士)の墓(神奈川県高座郡寒川町)探訪記
神奈川県高座郡寒川町の、梶原景時一宮館址と梶原氏一族郎党(七士)の墓を訪問しました。↑写真の梶原景時一宮館址には、一之宮天満宮(寒川町一之宮8丁目6−6)が鎮座していました。※まず、史跡情報を神奈川県公式ホームページより以下に引用させて頂いて、把握しました。鎌倉幕府創設に貢献した景時は、寒川町一之宮に館を構えた(『吾妻鏡』『新編相模国風土記稿』)とされ、館の西側には城之下(じょうのした)という地名も...
地域タグ:寒川町
↑以前から訪問したかった、神奈川県茅ヶ崎市下町屋1丁目3に位置する「国指定史跡 旧相模川橋脚(きゅう さがみがわ きょうきゃく」を訪問しました。源頼朝公は「建久9年(1198)12月5日、相模川に架かる橋の落成供養に出席した帰りに落馬し、しばらくして亡くなった」と『吾妻鏡』に記載があるそうですが、この国指定史跡 旧相模川橋脚が、その橋だと考えられているようです。↑なぜかGoogleマップには「国指定史跡 旧相模川橋脚...
地域タグ:茅ヶ崎市
このページは、神奈川県茅ヶ崎市浜之郷462に鎮座する、鶴嶺八幡宮(つるみねはちまんぐう)探訪記の後編です。↑参道から境内までを紹介した前編は、このリンクから御覧いただけます。↑拝殿へ上がる階段の手前右側には・・・↑巨大な銀杏が生えていました。これほどの幹周り、なかなか無いのではないでしょうか・・・↑根元には「神奈川県指定天然記念物 鶴嶺八幡宮大銀杏」と刻まれた石柱が建っていました。↑説明板が建っていまし...
地域タグ:茅ヶ崎市
↑神奈川県茅ヶ崎市浜之郷462に鎮座する、源氏に所縁が深い鶴嶺八幡宮(つるみねはちまんぐう)を探訪しました。由緒は、境内に建つ由緒書きより以下に転記しました。鶴嶺八幡宮 御祭神:應神天皇・仁徳天皇・佐塚大神 菅原道眞(鶴嶺天満宮合祀) 鎮座地:神奈川県茅ヶ崎市浜之郷四六二番地 例大祭:九月十五日 御由緒相模国茅ヶ崎の総社として往古より八幡信仰の本地として名高い。康平年間(1058〜1065)源頼義が...
地域タグ:茅ヶ崎市
↑源頼朝公の落馬と源氏一族の怨霊伝説に纏わる史跡「弁慶塚」を訪問しました。史跡の所在地はGoogleマップによりますと、神奈川県茅ヶ崎市浜之郷845です。↑こちらは以前訪問した満福寺(探訪記は、このリンクから御覧いただけます)の「弁慶の手玉石」ですが「弁慶塚」と聞いた時、同様に弁慶に纏わる伝承が残る塚だと思ったのですが、そうではありませんでした。↑自分は、JR茅ヶ崎(ちがさき)駅から国道1号線(東海道)へ出て...
地域タグ:茅ヶ崎市
↑神奈川県茅ヶ崎市南湖2丁目9−34に位置する浄土宗の寺院、御霊山西運寺(ごりょうざん さいうんじ)を訪問しました。訪問した理由は・・・↑義経公を祀った神奈川県茅ヶ崎市南湖2丁目9−10に鎮座する、鳥井戸御霊神社(探訪記は、このリンクから御覧いただけます)を訪問した際、その由緒に「明治初年の神仏分離に際し、御霊山西運寺より独立し現在に至っている」とあったからです。↑写真右側が鳥井戸御霊神社で、左側に見え...
地域タグ:茅ヶ崎市
建久9年(1198)12月27日、頼朝公は稲毛三郎重成(妻は北条時政の娘)が相模川に架けた橋の落成供養式典に出席。橋の渡り初めをし、その帰路、頼朝公の前に源義経の亡霊が現れ、頼朝公は驚きの余り落馬して、それが原因で翌年、建久10年1月13日に死去した。里人たちはその怨霊を鎮めるため、源義経の霊を毘沙門堂に合祀した・・・このような伝承があると知り、いてもたってもいられず(笑)↑写真の神奈川県茅ヶ崎(ちがさき)市に...
地域タグ:茅ヶ崎市
誰ぞ、誰でも良い。即刻、京都へ駆け上って九郎の冠者を討ち取ってまいれ。九郎に死を与えよ!と呼びかける頼朝(吉川英治「新・平家物語」第15巻「土佐坊昌俊」の章より)・・・しかし、九郎に同情する御家人達も多く、静まり返る御所。その中で一人手を挙げたのが土佐坊昌俊(とさのぼう しょうしゅん)で、京都の義経邸を襲撃するも、それを予想していた義経に敗れて捕らえられ、首を刎ねられています。その土佐坊昌俊の館があ...
地域タグ:鎌倉市
↑南北朝時代に北朝方に付いた、千葉胤貞(ちば たねさだ)の別邸「千葉屋敷」跡に建つ日蓮宗の寺院、神奈川県鎌倉市の妙隆寺(みょうりゅうじ)を訪問しました。千葉胤貞は、今回の訪問で知った人物です。Wikipedia情報の一部を引用させて頂き、お勉強しました。千葉 胤貞は、鎌倉幕府末期から南北朝時代の武将。千葉氏の第9代当主 千葉宗胤の長男。 正応元年(1288)父が異国警固番役として赴任していた肥前国小城郡で生まれたと...
地域タグ:鎌倉市
讃岐局蛇苦止霊之墓と佐竹やぐら(神奈川県鎌倉市大町:妙本寺)探訪記
先日訪問した比企能員(よしかず)邸跡に建つ、神奈川県鎌倉市の妙本寺を再訪しました。↑再訪した理由は、撮影し忘れてしまった(涙)比企能員の娘で源頼家公の嫡子「一幡(いちまん)」の生母、讃岐局(さぬきのつぼね)の「讃岐局蛇苦止霊之墓(さぬきのつぼね じゃくしれいのはか)」を撮影するためです。自分は方丈門の横に建つ案内看板で、比企一族関連の史蹟は撮影したのですが「讃岐局蛇苦止霊之墓」は看板には掲載されてお...
地域タグ:鎌倉市
↑神奈川県鎌倉市小町2丁目22−13−7に位置する史跡「日蓮上人辻説法跡」を訪問しました。↑比企能員の屋敷跡に建つ妙本寺(探訪記は、このリンクから御覧いただけます)を訪問した際、日蓮上人の銅像を見たのですが、妙本寺からそう離れていない場所に「日蓮上人辻説法之阯」が有ると知り、訪問した次第です。日蓮上人について、Wikipedia情報の一部を以下に引用させて頂いて、お勉強しました。日蓮(にちれん、承久4年[1222]...
地域タグ:鎌倉市
↑北条氏に殺害された比企能員(よしかず)の娘で源頼家公の嫡子「一幡(いちまん)」の生母、讃岐局(さぬきのつぼね)に纏わる伝承地、妙本寺(神奈川県鎌倉市)の蛇苦止堂(じゃくしどう)を訪問しました。頼家公の嫡子、一幡の生母は「若狭局(わかさのつぼね)」と認識していましたが「平家物語・義経伝説の史跡を巡る」様の「比企尼・若狭局伝承地」のページには、以下の記載がありました。『新編相模風土記稿』には「比企能...
地域タグ:鎌倉市
このページは比企能員邸跡に建つ神奈川県鎌倉市の「妙本寺」探訪記の後編で、比企氏関連史跡を紹介します。↑写真は「比企能員公一族之墓」と刻まれた供養塔です。はじめに比企能員(よしかず)について、Wikipedia情報の一部を以下に引用させて頂き、復習しました。『愚管抄』によると阿波国の出身。源頼朝の乳母を務めた比企尼は、頼朝が流人となった後も20年間支援を続けた忠節の報いとして、甥である能員を猶子として推挙し、比...
地域タグ:鎌倉市
鎌倉駅から東南へ約500m、静かな比企谷(ひきがやつ)に建つ、日蓮聖人を開山に仰ぐ日蓮宗最古の寺院、日蓮宗 霊跡本山 比企谷妙本寺(みょうほんじ)を訪問しました。※以下「妙本寺」と省略させて頂きました。妙本寺の地には比企能員(ひきよしかず)の屋敷があったことで知られていますが、開基は比企能員の末子の比企大学三郎能本(よしもと)とのこと。↑写真は立派な屋根が印象的な「祖師堂」です。本堂ではありませんでした。...
地域タグ:鎌倉市
↑神奈川県鎌倉市小町1丁目12−12の日蓮宗の寺院、本覚寺(ほんがくじ)を訪問しました。以下に、現地説明板より解説を転記させて頂きました。本覚寺 ■宗 派:日蓮宗■山号寺号:妙巌山(みょうごんさん)本覚寺■建 立:永享8年(1436)■開 山:日出 本覚寺のあるこの場所は幕府の裏鬼門にあたり、源頼朝が鎮守として夷堂(えびすどう)を建てた所といわれています。 この夷堂を、日蓮が佐渡配流を許されて鎌倉に戻...
地域タグ:鎌倉市
大江広元・毛利季光・島津忠久墓所(北条義時法華堂跡探訪記)後編
このページは「北条義時法華堂跡探訪記」の後編で、大江広元・毛利季光・島津忠久の墓所の紹介になります。↑写真は、北条義時の法華堂跡がある削平地奥、墓所手前の鳥居ですが、祠やお宮が鎮座しているわけではありませんでした。↑冒頭写真の鳥居は、北条義時の法華堂(墳墓堂)遺構の奥に建っています。※北条義時の法華堂跡探訪記の前編は、このリンクから御覧いただけます。↑鳥居右側に建つ説明板。以下に転記しました。3つの近...
地域タグ:鎌倉市
↑神奈川県鎌倉市西御門2丁目5に位置する、国指定史跡 法華堂跡(源頼朝墓・北条義時墓)の一部「北条義時法華堂(墳墓堂)跡」を訪問しました。以下に、現地説明板の解説を転記しました。国指定史跡法華堂跡(源頼朝墓・北条義時墓) この平場は、鎌倉幕府第2代執権の北条義時の法華堂(墳墓堂)が建っていた跡です。 北条義時は、父の時政や姉の政子らとともに源頼朝による幕府の開創を助けました。 承久3年(1221)の...
地域タグ:鎌倉市
神奈川県鎌倉市西御門2丁目5に位置する、国指定史跡 法華堂跡(源頼朝墓・北条義時墓)の一部、源頼朝公の霊廟を訪問しました。↑写真は、頼朝公の墓塔です。↑頼朝公の霊廟近くに建つ、史跡法華堂跡(源頼朝墓・北条義時墓)の標柱です。指定は平成18年、割と最近なんですね。史跡の名称から、頼朝公と北条義時の墓がここにあるようにも思えますが、頼朝公の霊廟(法華堂)と北条義時の法華堂の遺構は100mほど離れていました。ま...
地域タグ:鎌倉市
↑神奈川県鎌倉市西御門2-1-24に鎮座する、源頼朝公を祀った白旗神社(しらはたじんじゃ)を訪問しました。 ↑白旗神社は鎌倉市内に2社在り(他にもあるのかも?)、このページで紹介するのは地図赤丸の地点、西御門に鎮座する白旗神社です。地図ピンクの丸の白旗神社は、鶴岡八幡宮の境内に鎮座する、鶴岡八幡宮の境内社になります。↑こちらが鶴岡八幡宮境内社の白旗神社(探訪記は、このリンクから御覧いただけます)で、御祭...
地域タグ:鎌倉市
鎌倉幕府創立当時の御所・幕府跡(頼朝公の邸宅跡)の「大藏幕府舊蹟(旧蹟)」を訪問しました。と言っても↑写真の石碑が建っているだけでしたが(汗)Googleマップの所在地表示は「神奈川県鎌倉市雪ノ下3丁目6−26」となっております。↑小説の話ですが、吉川英治「新・平家物語(全16巻)」第7巻「広常参陣」の章には、頼朝公が根拠地を鎌倉に決める様子が描写されています。以下に整理してみました。千葉城での軍議の最後に「...
地域タグ:鎌倉市
↑鎌倉幕府滅亡を象徴する有名な史跡「北条高時腹切やぐら」を訪問しました。Googleマップの史跡所在地表示は、神奈川県鎌倉市小町3丁目11−38です。※「やぐら」とは、城郭用語の「櫓」でも「矢倉」でもなく「横穴墳墓」とのこと。漢字にすると「窟」もしくは「岩倉」になると思われます。元弘3年(1333)陰暦5月22日、新田義貞公率いる討幕軍(新田・足利連合軍)によって、鎌倉は炎上・・・北条一族は、小町大路の執権邸(現:宝戒...
地域タグ:鎌倉市
↑神奈川県鎌倉市小町3丁目10 - 1の 国指定史跡 東勝寺跡を訪問しました。東勝寺(とうしょうじ)は北条得宗家の氏寺(菩提寺)で、元弘3年(1333)陰暦5月22日に新田義貞公率いる討幕軍に攻められ、相模入道(14代執権北条高時)ら一族郎党870名(数には諸説あり)が集団自決した「鎌倉幕府終焉の地」として有名ですね。しかし、御覧の通り史跡は金網で囲われており、中へ入ることは出来ませんでした。↑冒頭の写真は、金網の...
地域タグ:鎌倉市
↑元弘3年(1333)陰暦5月の新田義貞公率いる倒幕軍の痕跡を辿って、金龍山 釈満院 円頓宝戒寺(以下「宝戒寺:ほうかいじ」と省略させて頂きました)を訪問しました。宝戒寺は、元弘3年(1333)の鎌倉幕府滅亡後、後醍醐天皇の命を受けた足利尊氏公が、建武二年(1335)に建立したとのこと。宝戒寺の地には、北条義時が小町邸を造って以来「北条執権邸」があったそうです。宝戒寺へのルートを紹介します。↑鶴岡八幡宮の三之鳥居前...
地域タグ:鎌倉市
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↑桜田門外で暗殺された井伊直弼の墓がある、東京都世田谷区に所在する彦根藩井伊家の菩提寺、大谿山豪徳寺(だいけいざん・ごうとくじ)を探訪しました。※以下「豪徳寺」と寺号のみに省略させて頂きました。縁起は、現地解説板より以下に転記させて頂きました。大谿山 豪徳寺(曹洞宗) 豪徳寺は、世田谷城主 吉良政忠(きら・まさただ)が文明12年(1480)に亡くなった叔母の菩提のために建立したと伝えられる弘徳院(こうとくい...
↑室町幕府将軍足利家の支族、吉良(きら)氏の居城、東京都世田谷(せたがや)区に所在する世田谷城跡(東京都指定旧跡)を探訪しました。吉良氏で最も有名なのは、何と言っても吉良義央(忠臣蔵の吉良上野介)でしょうか。概要は、現地解説板の一部を以下に転記させて頂きました。世田谷城跡 ■吉良氏と世田谷城世田谷城は、清和源氏・足利氏の一族である吉良氏の居城として知られています。 貞治5年(1366)吉良治家(はるいえ...
↑東京都青梅(おうめ)市に所在する、中世の豪族 三田氏の居城跡、勝沼城跡(師岡城とも)を探訪しました。概要は、現地解説板を以下に転記させて頂きました。東京都指定史跡勝沼城跡 所在地:青梅市東青梅六丁目五八番外指 定:大正14年5月標識 昭和27年4月1日史蹟 昭和30年3月28日旧跡 平成5年3月22日史跡 勝沼城は、霞川上流部を南に臨む丘陵に位置し、主郭標高215メートルを測る平山城です。三...
埼玉県狭山(さやま)市入間川(いるまがわ)の河岸段丘(かがん・だんきゅう)上に所在する、城山砦跡を探訪しました。※概要は↑現地解説板を以下に転記させて頂きましたので、御参照くださいませ。狭山市指定文化財城山砦跡 所 在 地:埼玉県狭山市柏原2346番地ほか指定年月日:昭和48年(1973)3月1日 城山砦跡は江戸時代後期の地誌『新編武蔵風土記稿』によると、天文年間に山内上杉憲政(やまのうち・うえすぎ・のりま...
↑東京都国分寺市に鎮座する、元町八幡神社(本村八幡神社とも)を探訪しました。現地由緒書きを以下に転記させて頂きましたが、創建年代などは掲載されていませんでした。当所鎮守本村八幡神社 御祭神:応神天皇 年中行事歳旦祭:1月1日春季大祭:5月第3日曜日秋季大祭:9月18日七五三:11月中旬大祓式:12月29日↑補足として、武蔵国分寺囃子連様のサイトより、以下に一部を引用させて頂きました。東京都国分寺市西元町に鎮...
↑東京都府中市に所在する、足利尊氏公が開基の龍門山 髙安護国禅寺を探訪しました。※以下「高安寺」と、寺号のみに省略させて頂きました。概要は、府中観光協会様のサイトより、以下に引用させて頂きました。室町幕府の将軍足利尊氏(1305〜1358)が、元々この地にあった市川山見性寺を再興し、龍門山高安護国禅寺と号したのがはじまりとされ、尊氏が改名する前の高氏から名づけられたとされています。 それ以前の寺は、平将門を...
↑日本三大怨霊(菅原道真・平将門・崇徳上皇)の一つとして知られる平将門公が、御祭神としてお祀りされている江戸総鎮守、東京都千代田区外神田に鎮座する神田明神(正式社号は神田神社)を探訪しました。↑自分は神田明神を探訪する前に、東京都千代田区大手町に所在する将門塚(探訪記は、このリンクから御覧いただけます)を探訪しました。その理由は・・・↑山口敏太郎「怨霊と呪いの日本史」に、以下の記述があったからです。■...
日本三大怨霊(菅原道真・崇徳上皇・平将門)の一つ、平将門公の怨霊伝説が残る、東京都千代田区に所在する東京都指定旧跡、将門塚(しょうもんづか/まさかどづか)を探訪しました。↑板石塔婆(いた・せきとうば)右側の「蓮阿弥陀佛」は、将門公の法号。左側に徳治二年(1307)とありますが、この板石塔婆は昭和45年(1970)に設置された物だとか。ちなみに「徳治」は嘉元の後、延慶の前。1306年から1308年までの期間。この時代...
↑東京都青梅市に所在する、旧稲葉家住宅(東京都指定有形民俗文化財)を探訪しました。概要は、青梅市郷土博物館の解説を以下に引用させて頂きました。旧稲葉家住宅は江戸時代に青梅宿の町年寄を勤めた稲葉家の旧宅です。稲葉家は青梅でも有数の豪商で、材木商や青梅縞の仲買問屋を営んでいました。 「店蔵」と呼ばれる土蔵造りの母屋は、建築様式から江戸時代後期(18世紀後半~19世紀初め頃)に建てられたと考えられています。...
東京都青梅(おうめ)市に所在する真言宗豊山派の寺院、青梅山 無量寿院 金剛寺を探訪しました。※以下、寺号のみの「金剛寺」と省略させて頂きました。↑写真は平将門(たいら・の・まさかど)が植えたと伝わる、将門誓いの青梅(あおうめ)です。自分が金剛寺を知ったのは・・・↑山口敏太郎「怨霊と呪いの日本史」の「平将門」の章の、以下の記載です。『新編武蔵風土記稿」には、平将門が植えた梅の木が残されているという記述が...
↑徳川幕府の命で、私財を投じてまで武州西多摩郡羽村(はむら)から江戸の四谷まで続く玉川上水を開削した玉川兄弟、兄・庄右衛門(不明〜1695) 弟・清右衛門(不明〜1696)の銅像が建つ、東京都羽村市の羽村取水堰(はむら・しゅすいぜき)周辺を探訪しました。概要は、国土交通省 関東地方整備局のpdfより、以下に整理・引用させて頂きました。■多摩川の水を羽村(現在の羽村市羽東)から取水し、武蔵野台地を横切り四谷大木戸...
↑東京都羽村(はむら)市に所在する臨済宗建長寺派の寺院、東谷山禅林寺(とうこくざん・ぜんりんじ:以下、禅林寺と省略させて頂きました)を探訪しました。由来は、現地解説板を以下に転記させていただきました。東谷山禅林寺 文禄2(1593)年に創建されました。開基は当初島田氏の祖、島田九郎右衛門(しまだ・くろうえもん)、開山は鎌倉円覚寺の三伯禅師(さんはく・ぜんじ)の弟子、春覚禅師(しゅんがく・ぜんじ)です。...
↑東京都羽村(はむら)市の羽村街道沿いに鎮座する、稲荷神社を探訪しました。由緒は、現地解説板より、以下に転記させて頂きました。稲荷神社 創建年月は不詳ですが、江戸時代後期の地誌『新編武蔵風土記稿』に「稲荷社」と記述されています。 東ヶ谷戸(ひがしがいと)の鎮守で、祭神は宇迦之御魂之神(うかのみたまのかみ)、建速素戔嗚尊(たけはやすさのおのみこと)、玉祖命(たまのおやのみこと)です。 もと禅林寺の西...
↑東京都羽村(はむら)市に所在する、鎌倉時代の創建と推定される東京都指定史跡「五ノ神まいまいず井戸」と五ノ神社(ごの・かみしゃ)を探訪しました。「まいまいず」とは蝸牛(かたつむり)のことで、この螺旋状の井戸は以前、旅番組で見て印象に残り、行ってみたいと思っていたのです。 ↑五ノ神まいまいず井戸の所在地は「東京都羽村市五ノ神1丁目2−1」で、JR青梅(おうめ)線の羽村駅東口から徒歩1分かかりませんでした...
↑東京都国立市に所在する臨済宗建長寺派の寺院、谷保山南養寺を探訪しました。※以下「南養寺」と、寺号のみに省略させて頂きました。寺院の概要は、国立市観光オフィシャルサイト様より、以下に引用させて頂きました。谷保山南養寺は、臨済宗建長寺派の禅寺。同じ建長寺派である、立川普済寺(ふさいじ)の末寺です。 南北朝時代の1347年(正平2年)、立川・国立一帯の有力武士であった立川入道宗成(むねしげ)が大檀那と...
↑東京都国立市(くにたちし)谷保(やほ)に所在する、三田氏館跡(みたし・やかたあと)を探訪しました。こちらは、城山(じょうやま)とも呼ばれるようです。史跡について「多摩のジョギング道 ~多摩のむかし道と伝説の旅~」様の解説が最もわかり易かったので、以下に引用させて頂きました。城山は、鎌倉時代初期の三田氏の城館跡で、津戸城(津戸屋敷)とも呼ばれ、土塁に囲まれた二つの郭(くるわ)と、自然の地形を利用した...
↑湯島天神、亀戸天神と並んで関東三天神と称され、この地に配流された菅原道武公(菅公第三子)を祀る、東京都国立(くにたち)市の谷保(やほ)に鎮座する、谷保天満宮(やぼ・てんまんぐう)を探訪しました。 由緒は谷保天満宮公式サイトより、以下に引用・整理させて頂きました。御祭神菅原道真公・菅原道武公 由緒昌泰四年右大臣菅原道真公筑紫太宰府に左降の折、第三子道武公は武蔵国多摩郡分倍庄栗原郷(現国立市谷保)に...
↑昭和59年五日市町郷土館発行の「郷土あれこれ」第7号には、中世城郭研究家 中田正光先生が執筆した滝山城と支城の狼煙ネットワークに関する記事が掲載されています。記事の一部を以下に整理・引用させて頂きました。後北条氏の関東支配■戦国時代(16世紀)関東の支配者となった後北条氏(小田原北条氏とも)は、関東各地に支城を置いた。 ■それらは滝山城の北条氏照の軍団、鉢形城の北条氏邦の軍団、玉縄城の北条綱成、江戸城の...
東京都八王子市に所在する中世城郭、国指定史跡の滝山城(続日本100名城)に登城しました。滝山城は、小田原北条氏(後北条氏)の本拠地 小田原城の支城です。↑写真は「本丸」と「中の丸」を隔てる「大堀切」に架かる「引き橋」で、堀底道は鎌倉古道です。ここは、滝山城を象徴する場所の一つ。永禄12年(1569)10月2日、北条氏照が守る滝山城を武田信玄・勝頼が包囲。北条氏照は落城寸前まで攻め込まれるも、武田軍が囲みを解いて...
↑東京都港区西麻布に鎮座する、櫻田(さくらだ)神社を探訪しました。由緒は、Wikipedia情報の一部を、以下に引用させて頂きました櫻田神社(さくらだじんじゃ)は、東京都港区の神社。霞山(かすみやま)桜田明神、霞山稲荷とも呼ばれた。 1180年(治承4年)に霞山桜田明神として、今の霞が関の桜田門あたりに創建された。 源頼朝は奥州征伐のために当社に神領を寄進したが、その際、他の田と区別するため桜の木を畔に植えたと...
↑東京都調布(ちょうふ)市の深大寺(じんだいじ)に残る中世城郭、標柱には「都旧跡」とありますが、現在は国指定史跡の深大寺城跡を訪問しました。史跡の概要は、文化遺産オンライン様の解説より、一部を以下に引用させて頂きました。深大寺城跡は、関東平野南部に広がる武蔵野台地の南縁辺部の、標高約50mを測る舌状台地の一角に所在する、3つの郭からなる戦国時代の城跡である。 台地の東側には開析谷によって形成された...
↑神奈川県横浜市港北区小机(こづくえ)町789に位置する平山城、小机城に登城しました。小机城は、長尾景春の乱の際、文明10年(1478)4月10日に、扇谷(おうぎがやつ)上杉氏家宰(かさい)の太田道灌公が攻め落としたことでも有名ですね。 城山の標高は42m、比高は22mと低いですが、情緒ある竹林と空堀、変化に富んだ地形で楽しい登城になりました。 城は「小机城址市民の森」として整備されており、危険な箇所は無く、初め...
↑扇谷(おうぎがやつ)上杉家の家宰として活躍した太田道灌公の斬殺事件に纏わる史蹟、神奈川県伊勢原市上粕屋1349−6に位置する「七人塚(しちにんづか)」を訪問しました。神奈川県伊勢原市は太田道灌公の地元で、霊地(墓所)が二箇所あります。一つは「首塚のある大慈寺」で、もう一つは「胴塚のある洞昌院(とうしょういん)」ですが・・・↑七人塚は、胴塚のある洞昌院の直ぐ近くです。最寄駅は、小田急 小田原線の「伊勢...
↑扇谷上杉家で家宰を務めた、太田道灌公の胴塚を訪問しました。胴塚(墓所)は、神奈川県伊勢原市上粕屋1160に位置する曹洞宗の寺院、蟠龍山 洞昌院(ばんりゅうざん とうしょういん)裏の一画にありました。↑太田道灌胴塚(洞昌院)は、小田急小田原線「伊勢原」駅の西北に位置していました。バスを御利用の場合、駅北口4番バス停で「大山ケーブル行」に乗車し「道灌塚前」バス停で下車して徒歩5分。お車の場合、新東...
↑太田道灌公が開基となった神奈川県伊勢原市上粕屋1160の曹洞宗の寺院、蟠龍山 洞昌院を訪問しました。※以下、洞昌院(とうしょういん)と、院号のみに省略させて頂きました。縁起は、洞昌院公式サイトより以下に引用させて頂きました。洞昌院は、太田左衛門大夫持資入道道灌(法名洞昌院心圓道灌、文明18年卒)を開基として、陽室照寅が開山となり、創建したといわれています。 天正19年寺領3石の御朱印状を受領、近隣に多く...
神奈川県伊勢原市の丸山城址公園を訪問しました。↑写真は、国道246号線沿いの入口看板です。城の情報は、現地解説板より以下に転記しました。丸山城址とその周辺 丸山城址は、伊勢原市下糟屋(しもかすや)地区の台地上に築かれた中世の城郭です。 昭和60年度に実施された発掘調査により、大規模な堀や土塁の存在が確認され、現在まで土地区画整理事業などに伴い、複数回の発掘調査が実施されました。 江戸時代末の地誌には、平...
↑紀元前六百六十年の創建(凄い!)とも伝わる、神奈川県伊勢原市下糟屋2202番地に鎮座する「高部屋神社」を訪問しました。↑最寄駅は、小田急 小田原線「伊勢原」駅です。駅から神社まで、徒歩20分くらいでしょうか。髙部屋神社を訪問した理由は・・・↑太田道灌公の菩提寺、大慈寺(探訪記は、このリンクから御覧いただけます)を訪問した際、大慈寺の管理責任者の方から「由緒ある神社なので、訪問してみては?」と勧められた...
↑太田道灌公の地元、神奈川県伊勢原市下糟屋(しもかすや)320番地の史蹟、太田道灌公墓所(首塚)を訪問しました。写真右下に写っている小さな橋は、その名も「道灌橋」でした。伊勢原市には太田道灌公の霊地(墓所)が二箇所あり、一つは「首塚のある大慈寺」で、もう一つは「胴塚のある洞昌院(とうしょういん)」です。↑自分は太田道灌公菩提寺の大慈寺(探訪記は、このリンクから御覧いただけます)を見学し、次に大慈寺か...
↑太田道灌公の菩提寺、神奈川県伊勢原市下糟屋(しもかすや)364に位置する臨済宗建長寺派の寺院、法雨山 大慈寺を訪問しました。※以下「大慈寺(だいじじ)」と、寺号のみに省略させて頂きました。太田道灌公の地元、神奈川県伊勢原市には太田道灌公の霊地(墓所)が二箇所あり、一つは「首塚のある大慈寺」で、もう一つは「胴塚のある洞昌院(とうしょういん)」です。このページでは、大慈寺の探訪記を紹介します。この二箇...
↑年に一度必ず登城している東京都八王子市の八王子城。約1年ぶりの登城日は、ひんやり冷たい北風が吹く気温9℃の日でした。初登城は、確か小学校5年の遠足だったと思いますが、今回で何回目か?は、数えてないので分かりません・・・↑八王子城は東京の西の外れ、八王子市の西部。有名な高尾山の北側と言えば分かりやすいでしょうか。公共交通機関を御利用の場合、JR中央線「高尾駅」北口から「八王子城跡行き」バス(西東京バス)に...
神奈川県藤沢市村岡東3丁目28に位置する史跡、村岡城址(村岡城址公園)を訪問しました。↑写真は、現地に建つ「村岡城址」石碑です。訪問したのは、藤沢市観光公式ホームページに以下の記述があったからです。村岡城は坂東八平市の祖、平良文が村岡に居住した10世紀後半に築いたとされ、城と言っても空堀をめぐらせた山城のようなものだったと伝えられています。 元弘の変の時に、新田義貞がこの城に布陣して鎌倉へ突入して行...
↑2022年大河ドラマ「鎌倉殿の13人」で紹介された、神奈川県藤沢市に鎮座する、舩玉(ふなたま)神社を探訪しました。由緒は、現地解説板より以下に転記させて頂きました。舩玉神社 祭神は弟橘姫命(おとたちばなひめのみこと)です。神社前の道は鎌倉街道で、腰越又は深沢を通って鎌倉へ入ったようです。 昔は江ノ島から、この付近まで船が出入りしていたといわれ、鎌倉三代将軍・源実朝が船を造らせたとき材木を切り出したとこ...
↑踊り念仏で知られる一遍上人(いっぺんしょうにん)を宗祖とする、時宗(じしゅう)の総本山、神奈川県藤沢市西富1丁目8−1の遊行寺(藤澤山 無量光院 清浄光寺)を訪問しました。遊行寺の縁起は、遊行寺公式サイトより、以下に引用させて頂きました。当山は通称「遊行寺」の名で知られており、正式には藤澤山 無量光院 清浄光寺と号します。 開山は俣野(現在の藤沢市、横浜市周辺)の地頭であった俣野氏の出身である遊行4代...
↑神奈川県藤沢市本町4丁目5−21の浄土宗の寺院、八王山 摂取院 常光寺を訪問しました。※以下、寺号のみの常光寺(じょうこうじ)と省略させて頂きました。↑自分が常光寺を知ったのは、義経公を祀った白旗神社(探訪記は、このリンクから御覧いただけます)境内の義経さんと弁慶さんの銅像の・・・↑以下に転記した台座の解説に、常光寺に関する記載があったからです。義経公・弁慶公の御首は、文治五年(1189)6月13日に腰越の浜...
↑神奈川県藤沢市藤沢本町4丁目5−21に位置する史蹟、弁慶塚(八王子権現社跡)を訪問しました。弁慶塚を訪問した経緯ですが・・・↑神奈川県藤沢市に鎮座する義経公をお祀りした白旗神社(探訪記は、このリンクから御覧いただけます)境内に建つ由緒書きには、以下の記載がありました。白旗神社 御祭神:寒川比古命・源義経公配 神:天照大神・大国主命 大山祗命・国狭槌命 由緒古くは相模一の宮の寒川比古命の御分霊...
平泉の藤原泰衡から鎌倉へ届けられた義経公と武蔵坊弁慶公の首は、腰越で梶原平三景時と和田小太郎義盛による検分後に浜に投げ捨てられ、潮の流れに乗って藤沢へ流れ着いた・・・その首を拾った里人が↑写真の井戸で洗い清めたという伝承が残る、神奈川県藤沢市の史跡「伝 義経首洗井戸」を2023年1月3日に訪問しました。↑最寄駅は、小田急江ノ島線の「藤沢本町(ふじさわほんまち)駅」となります。駅から史蹟まで徒歩3分かからない...
↑源義経公を祀った、神奈川県藤沢市藤沢2丁目4−7に鎮座する白旗神社を訪問しました。由緒は、白旗神社公式サイトより、以下に引用させて頂きました。御由緒 白旗神社がいつごろできたのかは定かではありませんが、鎌倉時代より以前から、相模国(神奈川県あたり)にある寒川神社の神様・寒川比古命をお祀りして、同じ名前の寒川神社と呼ばれていました。 文治5年(1189)閏4月30日、源義経公は兄源頼朝から怒りをかい、追い詰...
源頼朝公の落馬事件に関しては諸説あり、その一つ、神奈川県藤沢市の辻堂(つじどう)駅近くの京鎌倉往還沿いの史跡「源頼朝公 落馬地」を訪問しました。↑写真の看板の解説文は、以下に転記しました。源頼朝公 落馬地藤沢市辻堂二丁目17-1 建久九年(1198)戌牛十二月二十七日 将軍源頼朝公、稲毛重成の亡妻元子、追善供養のため造らるる、相模川橋の法要供養に臨席の頼朝公が鎌倉の館へ帰途、八的ヶ原(辻堂)に差しかかりし時...
↑神奈川県茅ヶ崎市浜之郷356の曹洞宗の寺院、懐嶋山 龍前院を訪問しました。※以下「龍前院」と省略させて頂きました。由緒は龍前院公式サイトより、以下に一部を引用させて頂きました。寺伝によれば、開山は約800年前、大庭三郎景親三世の祖良正が開基となり、僧道印が行基菩薩の作による薬師如来・十二神将像を祀ったのが始まりとされている。 古くは法相宗の寺であり、古義真言宗、鶴嶺八幡宮の僧坊から、曹洞宗寺院へとなっ...
↑神奈川県鎌倉市の太田道灌公の墓所を訪問しました。Googleマップの所在地表示は「鎌倉市扇ガ谷1丁目18」となっています。↑太田道灌公の墓はJR鎌倉駅の北東、源義朝公の館があったと伝わる「寿福寺」の墓地の端から山を登ったところに在りました。太田道灌公之墓の下に「源実朝墓」が表示されています。実朝公の墓は寿福寺の墓地ですが、太田道灌公の墓は寿福寺墓地ではありません。自分は小学6年の時に「江戸城は、徳川家康公...