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#415 TVアニメ『まんが日本史「源氏の旗あげ-源頼朝と東国武士』の感想
子どもの頃(1983~1984年)に放送されていた『まんが日本史』の源平の合戦と源頼朝と義経の兄弟の関係についてヒストリーチャンネルで放送されていたのを見た感…
#430 ”じゃないほう”源氏⁉ 源範頼~『平家物語』の雑感~
テレビアニメや本などで『平家物語』を四回通して味わった中での雑感範頼って、”じゃないほう”の元祖では⁉(NHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』の”蒲冠者”こと源範…
令和5年9月14日(木) 【旧 七月三〇日 赤口】・白露・鶺鴒鳴く(せきれいなく)蒲殿《かばどの》がはてにしあとを弔へば秋風強し修善寺の村 ~正岡子規(1867-1902)Photo:源範頼(左)と源頼家 ~Wikipedia 昨年の大河ドラマでは迫田孝也が演じていた源範頼。遠江国蒲御
源範頼と義経が壇ノ浦の戦いの戦勝祈願をし、平知盛の墓がある甲宗八幡宮(福岡県北九州市)
壇ノ浦決戦を前に源範頼・義経が戦勝祈願のために訪れた神社を参拝してきました。 (壇ノ浦を前に源氏の勝利を祈願) 源平合戦の最終章・壇ノ浦の戦い。1185年3月に行われたこの合戦を前に、鎌倉方の大将であった源範頼と副将の源義経の兄弟が参詣し、重藤弓と鏑矢を奉献して戦いの必勝を祈願した神社があります。 関門海峡・壇ノ浦の九州側、福岡県北九州市門司区にある甲宗八幡宮です。この神社は平安時代の860年に創建されています。 【壇ノ浦の戦いに関しては下をクリックしてどうぞ】 壇ノ浦の合戦の壁画があります。 そして戦いに勝利した後には、その御礼として範頼・義経が社殿を新たに造営した、との記録が社伝に残ってい…
一ノ谷の戦いは、摂津国福原および須磨で行われた戦いです。寿永3年2月、源範頼、源義経軍は、二手に分かれ、平家軍に攻撃を仕掛けました。福原に拠点をおいていた平家軍に対し、範頼軍は、生田口を襲い、一方義経軍は、平家の背後に回り、一の谷城裏手の断崖絶壁から、一気に駆け下る「逆落とし」を決行したといいます。鵯越の逆落とし『源平合戦図屏風』「一ノ谷」迂回進撃を続ける搦手軍の義経は鵯越(ひよどりごえ)で軍を二分...
須磨寺は源平合戦ゆかりの寺です。源平の庭一ノ谷の戦いでの平敦盛と熊谷直実の一騎打ちの場面を再現した庭で、馬上から扇をかざして呼び止める直実と、それに振り向く敦盛の姿がリアルに表現されています。これらの像だけは、震災の時にも壊れなかったそうです。 熊谷直実像直実は、武蔵国熊谷郷の豪族の出身。保元・平治の乱では源氏方でしたが、義朝の死後は一時、平家に仕え、頼朝挙兵後は、再び源氏方につきました。一の谷...
一ノ谷の戦いは、摂津国福原および須磨で行われた戦いです。寿永3年2月、源範頼、源義経軍は、二手に分かれ、平家軍に攻撃を仕掛けました。福原に拠点をおいていた平家軍に対し、範頼軍は、生田口を襲い、一方義経軍は、平家の背後に回り、一の谷城裏手の断崖絶壁から、一気に駆け下る「逆落とし」を決行したといいます。鵯越の逆落とし『源平合戦図屏風』「一ノ谷」一ノ谷の戦いといえば、畠山重忠の「鵯越えで馬を背負う」場面が...
修善寺温泉街の中心にある修禅寺地名は「修善寺」、ですが、寺名は「修禅寺」、表記が異なります。807年(大同2年)に空海が創建したと伝えられています。当時は周辺の地名が桂谷であったことから、桂谷山寺と言われていましたが、鎌倉時代初期には修禅寺の名称が定着し、寺領も修禅寺と呼ばれるようになりました。手水舎から出ているのは温泉です。現在の本堂は1883年(明治16年)に再建したもの。岡本綺堂の「修禅寺物語」の舞台...
この大泉寺には全成の首が一夜のうちに息子の時元のいた阿野の大泉寺まで飛んで来て、松の木の枝に掛かったという阿野全成の首掛け松の伝説が伝えられています。また、家臣が首を持ち帰ったが、警備が厳しく館の中に入れなかったため、入り口近くの松にかけたとも伝わっています。大泉寺の入口にあった松がその松だといわれていましたが、現在は枯れてしまい、その跡に石碑が建てられています。またその切り株は、お寺で保存されて...
阿野全成の幼名は今若。7歳の時の平治元年(1159年)、平治の乱で父義朝が敗死したため幼くして京都の醍醐寺にて出家させられ、隆超(または隆起)と名乗り、ほどなく全成と改名。兄の源頼朝が挙兵すると、京を抜け出し、頼朝のもとへ駆けつけ、その時、頼朝は涙を流して喜んだといいます。その後、北条政子の妹・阿波局(後に実朝の乳母になる)と結婚し、頼朝のもとで着実な地位を築いていきました。頼朝の死後、嫡男の源頼家が...
浜松市雄踏町に一般公開されている中村家住宅という重要文化財があります。中村家の初代・中村正範(まさのり)は源範頼の末裔の武士で大和国広瀬郡中村郷に住んだ。1481年に14代正實(まさざね)が今川氏に招かれ、遠国江磐田郡に領地を賜り、1483年に宇布見に屋敷を構えた。1574年には徳川家康の側室・お万の方が家康の第二子である於義丸(後の結城秀康)を当屋敷で出産し、その時の胞衣塚が庭にある。以降、中村家は今切軍船兵...
浜松市南区飯田町の稲荷山龍泉寺のあるこの辺りは平安時代、源範頼の別荘地でした。この境内は源頼朝公の弟、範頼公の別荘地であった。当時京都の稲荷神社から稲荷明神を迎えお祠りしていた。その後、享徳3年(1254)この別荘地を寺とし、稲荷山龍泉寺と称した。以後、範頼公を寺の開基として境内の南東に供養塔(五輪塔)を建立し奉祠している。この塔から50m南には、範頼公の愛馬を葬った駒塚がある。また、境内北西には範頼公近...
修善寺温泉街の中心にある修禅寺地名は「修善寺」、ですが、寺名は「修禅寺」、表記が異なります。807年(大同2年)に空海が創建したと伝えられています。当時は周辺の地名が桂谷であったことから、桂谷山寺と言われていましたが、鎌倉時代初期には修禅寺の名称が定着し、寺領も修禅寺と呼ばれるようになりました。手水舎から出ているのは温泉です。現在の本堂は1883年(明治16年)に再建したもの。岡本綺堂の「修禅寺物語」の舞台...
源範頼は、義経とは対照的に、常に頼朝に従順な態度を示していましたが、建久4(1193)年、曾我兄弟の仇討ち事件への対処方が疑われ、伊豆修禅寺八塔司(はったす)の一つ信功院にに幽閉されました。その後、梶原景時の不意打ちに会い、防戦の末自刃したといわれています。修禅寺から西の小山地区の山腹に、源範頼の墓と伝わる祠があり、明治12年に骨壺が掘り出されたのこと。現在の範頼墓は、昭和7年に、日本画家・安田靫彦のデザイ...
修善寺の日枝神社は、隣にある修禅寺の鬼門に当たり、もとは修禅寺の山王社(鎮守)で弘法大師の建立といわれています。明治初年(1868)の神仏分離令により分離されました。境内には、源範頼が幽閉されていた信功院があった場所でもあります。源範頼は、義経とは対照的に、常に頼朝に従順な態度を示し、異心なきを誓っていましたが、建久4(1193)年、曾我兄弟の仇討ち事件への対処方が疑われ、伊豆国修禅寺に幽閉されました。その後...
善児に育てられる娘、トウちゃん登場 本日、あと少しで「鎌倉殿の13人」の第25回が始まるというのだから、先週の24回「変わらぬ人」のことを今さら書かなくてもいいかなーとは思ったものの・・・気になることは短く書いておこう。 みなさまの癒しだった蒲殿(源範頼)が「マクワウリ」に気を取られている間にサクッと殺されたシーン。ああ、三谷さん、そうか・・・ここで殺しちゃうのかと残念だった。 埼玉県の吉見で蒲殿の子どもたちが生存したとの記録があるので、そっちに逃げる説を選択する手もあるかなと思ったけれども(吉見の皆さんも期待していただろう)、義経と同じように「こうあってほしい」伝説には逃げずに、無残にも殺さ…
鎌倉殿の13人 第24話「変わらぬ人」 ~源範頼粛清と大姫入内計画~
建久4年(1193年)5月28日に起きた曾我事件の2か月後、源頼朝と実弟・源範頼が失脚しました。時期的に見て、曾我事件と関連していたと見ていいでしょう。...
あああ,誰かさんのおっちょこちょいのおかげで,また(ドラマの)歴史が動いた・・・(苦笑) 広元サン,オーベルシュタイン全開。これもまた,あり。 策略家やってるつもりの能員サン,どこかに人のよさがあって,憎みきれないわね。だから,後々北条にやられちゃうわけだ。 巴御前を大姫に絡ませてくるとはね〜。手練れじゃの。感心したぞ。 で,義村クンはどこに本心があるのか・・・相変わらずよーわからん人。鎌倉殿が鬼気迫って...
城ぶら「源範頼館跡」!埼玉吉見に残る御所跡、兄頼朝に従順を貫いた武将の悲運
こんにちは。夢中図書館へようこそ!館長のふゆきです。 街あるき好きにして、歴史好き。そんな人たちにとって最高の旅。それが城めぐりのぶらり旅、略して「城ぶら」です。 今日の夢中は、源頼朝の弟・範頼の居館
山の神は金剛(泰時)を祝福した 今期のNHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」は、6/12に23回「狩りと獲物」が放送され、有名な「曾我兄弟の仇討」が重要なモチーフになって話が展開した。(以下感想、がっつりネタバレです。ご注意を) 頼朝が自分の後を継いで二代目鎌倉殿にさせたい嫡男・万寿。そのお披露目の場として催された富士の巻狩り。しかし、万寿は狩りの方はてんでダメで、軽々と猟の成果を挙げたのは義時の長男「成長著しい金剛」の方だったわけだが、この「成長著しい」というテロップには笑った。 それもそのはず、前回の子役からいきなり、大人の役者・坂口健太郎(30歳)になったから、違和感はありあり。当時、金剛は…
八重さん、わかっていたとはいえ😢 先週のNHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では、とうとう主人公・北条義時の愛妻・八重が落命した。そろそろ正妻である比企家の姫の前が出てこないといけないから、八重はどうするんだろうとは思っていたが・・・やっぱりの水死パターンとなった。 \見逃し配信/#NHKプラス では「#鎌倉殿の13人」を見逃し配信中!ただいま 第21回「仏の眼差し」をご覧いただけます。見逃した方、もう一度見たい方も ぜひお楽しみください!!関連番組も見逃し配信中です。▼配信ページはこちらhttps://t.co/WdZm4jbfE6 pic.twitter.com/tubYEYq3tW — 2…
鎌倉殿の13人/北条時宗、木曽義高、源義経等、生存説のある伝説の7人
2022年のNHK大河ドラマは三谷幸喜さん脚本の『鎌倉殿の13人』。私は戦国時代・幕末派でそれより前の中世とか全然興味がなかったんですが……三谷幸喜さん脚本のせいか面白くてすっかりハマってしまいました。そんな私は毎週『鎌倉殿の13人』を見た感想をnoteに書いています。 note.com 登場人物たちの出自なんかも調べたりしながら感想を書いているんですが、調べてみると死んじゃった登場人物でも意外と死なずに生きていた伝説があったりします。そこで『鎌倉殿の13人』にまつわる「あの時死んじゃったことになってるけど、実はその後も生きていた伝説」のある人たち7人をまとめてみました。ちなみに有名すぎるあの…
次の次の次の朝ドラはこれ? 宝剣探す蒲殿が主人公のパロディードラマ、ロゴがSNSで話題 本人
連載 鎌倉殿と平塚の七人 Zoom up 第4回 虎女 もう一つの物語 - タウンニュース タウンニュース 平塚市博物館が公式YouTub…
【鎌倉殿の13人】第10話あらすじ【根拠なき自信】頼朝の弟たちが次々と現る
今回は、第10話根拠なき自信のあらすじを追って、義経という人物像に迫ってみたいと思います。鎌倉殿の13人を楽しんでいただくお役に立てればと願います。