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〈山口/関門海峡 壇ノ浦PA〉源平合戦で有名な古戦場は潮流が速い‼️
日中、下関市長府のお客さん訪問、小倉からレンタカーで、壇ノ浦PAから関門海峡みると潮の流れが速い! 長府の町も城下町の風情が残る屋敷、寺、神社など仕事でなきゃ少し町歩きしたい町でした^^* 関門橋下関門司の間の関門海峡を跨ぐ高速道路の吊り
源範頼と義経が壇ノ浦の戦いの戦勝祈願をし、平知盛の墓がある甲宗八幡宮(福岡県北九州市)
壇ノ浦決戦を前に源範頼・義経が戦勝祈願のために訪れた神社を参拝してきました。 (壇ノ浦を前に源氏の勝利を祈願) 源平合戦の最終章・壇ノ浦の戦い。1185年3月に行われたこの合戦を前に、鎌倉方の大将であった源範頼と副将の源義経の兄弟が参詣し、重藤弓と鏑矢を奉献して戦いの必勝を祈願した神社があります。 関門海峡・壇ノ浦の九州側、福岡県北九州市門司区にある甲宗八幡宮です。この神社は平安時代の860年に創建されています。 【壇ノ浦の戦いに関しては下をクリックしてどうぞ】 壇ノ浦の合戦の壁画があります。 そして戦いに勝利した後には、その御礼として範頼・義経が社殿を新たに造営した、との記録が社伝に残ってい…
JR下関駅から徒歩4分の大歳神社104段の階段を上ると本殿が見えてきます。 昔はここから海を一望できたそうです。当社は、源義経が必勝祈願をした地に建てられたという神社で有名です。義経は有明山に富士の小松を植え、富士浅間の大歳神を祀り、弓矢を神前に捧げた。その後、祈念を注いだ桑の弓矢を平知盛の率いる平家軍に射込んだために、驚いた平家軍は壇ノ浦に進んだが、源範頼軍と義経軍との挟み撃ちに合い、滅亡したという。...
壇ノ浦の戦いは、寿永4年3月24日(1185年4月25日)に壇ノ浦(山口県下関市)で行われた治承・寿永の乱の最後の戦いです。源氏軍の大将・源義経は、800艘の船団を編成、対する平家軍は、平知盛を総大将に、500艘の船団を編成。関門海峡の西側の彦島に陣を張りました。海上戦が得意な平家軍は、戦の序盤は、平家優勢で進んでいました。この時、関門海峡の潮の流れは、平家側から源氏側に流れていて、源氏軍を満珠島・干珠島付近まで...
壇ノ浦の合戦から間もなく、安徳帝が沈んだ関門海峡のほとりに阿弥陀寺というお寺が建てられましたたが、明治になって赤間神宮となり、安徳天皇を祭神としています 。 海に沈んだ安徳帝を祀る本殿は、竜宮を表しています。「源平盛衰記」によると、後白河天皇から海に沈んだ三種の神器のひとつである宝剣を探すように命じられた義経は海人に潜らせて探させたが見つからず、次のように報告しました。海底には龍宮城があり、その奥に...
鎌倉殿の13人 第18話「壇ノ浦で舞った男」その1 ~平家滅亡~
「その1」のつづきです。 屋島の戦いに敗走した平家軍は、安徳天皇とともに最後の拠点である長門彦島に逃れました。一方、屋島の戦いに勝利した源義経軍は、熊野...
10年前のGWに、何してたのかとUSB見たら、雨の中を壇ノ浦の合戦跡地にいた(笑) 寿永4年(1185)3月24日、 平知盛を大将とした平家と、源義経ひきいる源氏が合戦をした壇ノ浦の戦い。 義経が教経の攻撃をかわし、