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■武家政権の発祥 北条氏の拠点『江間』周辺を散策(静岡県伊豆の国市)
目次 1 北条氏の拠点『江間』周辺を散策 2 「北条氏・頼朝の遺構巡り」はシェアサイクルがオススメ 3 「守山八幡宮」源頼朝が平氏討伐の挙兵をした場所 4 源頼家の『病相の面』がある『光照寺』 5 頼朝が流された蛭ヶ島には『夫婦の像』 1 北条氏の拠点
龍池山 上珠院 玄国寺(→東京都新宿区高田馬場1丁目)は、安土桃山時代末期の1601(慶長6)年に創建されたものの、その後衰退し、延宝年間(→1673年~1681年)に僧の盛源によって中興された真言宗豊山派寺院です。当初は明王山 聖無動院 宝仙寺(→東京都中野区中央2丁目)の末寺だったようですが、中興後は神齢山 悉地院 護国寺(→東京都文京区大塚5丁目)の末寺に属したと記されます。また、江戸時代には隣接する新宿諏訪神社の別当寺として...
妙法華経山 安国論寺(→神奈川県鎌倉市大町4丁目)は、鎌倉時代中期の1253(建長5)年に安房国の千光山 清澄寺(→千葉県鴨川市清澄)から鎌倉入りした日蓮が、松葉ヶ谷草庵(まつばがやつそうあん→神奈川県鎌倉市大町名越)を結んだ場所に創建した日蓮宗寺院です。鎌倉市教育委員会の発掘調査により、この場所は比企能員(ひきよしかず)殺害の舞台にもなった北条時政の名越(なごえ)邸跡地ではないかと指摘されています。創建年は日蓮が鎌倉...
14.【畠山重忠】 評価:75点/作者:貫達人/ジャンル:歴史/出版:1962年 『畠山重忠』は、吉川弘文館より刊行されている、日本史上の人物の学術伝記書…
10.【日本史リブレット人 029~北条時政と北条政子~「鎌倉」の時代を担った父と娘】 評価:70点/作者:関幸彦/ジャンル:歴史/出版:2009年 『日…
4.【北条氏と鎌倉幕府】 評価:80点/作者:細川重男/ジャンル:歴史/出版:2011年 『北条氏と鎌倉幕府』は、源氏将軍の三代の断絶後、何故、北条氏は、鎌…
JR鎌倉駅から若宮大路を通って、鶴岡八幡宮に向かって歩いて行くと、とサンリオカフェがあります。ここは、歴史を遡ると、瀬戸康史さん演じるトキューサこと北条時房と北条顕時(あきとき)が住んでいた北条時房・顕時邸でした。店内ではその遺構が一部展示されています。この遺跡は、鶴岡八幡宮の南、若宮大路の西側に面し、鎌倉時代には北条氏の館があったとされる区画に位置しています。発掘調査では、鎌倉時代(13世紀)から室町...
11月13日の紀行で、大江稲荷と明王院が紹介されたので、再度アップします。鎌倉市十二所の大江稲荷は、鎌倉幕府で政所別当を務めた大江広元を祀る社です。急な階段を上り、赤い鳥居をくぐると、参道の奥に小さな社があります。大江広元は、かつて十二所(明石橋付近)に屋敷を構え、この稲荷社は大江家の館を見守る場所に鎮座していた屋敷神であったといいます。大江広元館跡鎌倉幕府政所別当。式部少輔維光の子。中原広季の養子。...
【鎌倉殿の13人】42話 ”夢のゆくえ”ネタバレあらすじと感想。実朝の夢と西のお方。
【鎌倉殿の13人】42話 ”夢のゆくえ”ネタバレあらすじと感想。実朝の夢の宋船は?義時と西のお方後鳥羽上皇の対立が激化。政子は尼御台として覚醒します。八田知家の筋肉美にうっとりして大江広元の目が心配。時政パパの穏やかな姿でほっこりしたものの不穏な予感がします。
鎌倉市小町にある宝戒寺は、北条義時以来の歴代の北条得宗家の屋敷地跡と伝わっています。門前には、それを示す碑が立っています。義時は、幕府創設以来の重鎮で侍所別当の地位にあった和田義盛を挑発して反乱に追い込み、建保元年(1213年)2月、和田合戦において和田一族を滅ぼしました。義時は義盛に代わって侍所別当となり、政所別当と兼務するようにり、「執権」を名乗ることにしました。北条執権邸旧蹟碑往時此ノ地ニ北條氏...
鶴岡八幡宮境内の鎌倉文華館 鶴岡ミュージアム内にオープンした鎌倉殿の13人 大河ドラマ館。6月に鎌倉に行った時に見学してきました。メインキャストの衣装や、ドラマで使用された小道具や撮影同等品が展示されています。北条義時ドラマの中盤以降は、ブラック義時まっしぐら(^0^;)義時の衣装北条時政トラブルメーカーではあったが、今となっては懐かしい。源頼朝「全部大泉のせい」を流行らせた張本人頼朝の衣装頼朝から政子へ無...
伊豆の国市に鎮座する八坂神社は、四日町の鎮守社です。創建には、北条義時が男山から八幡神を遷座したとの説が伝わっています。地元では「八坂のお天王さん」と呼ばれ、毎年7月に天王祭が行われます。寄棟造銅板葺の拝殿と覆屋があり、覆屋の中に江戸時代後期のものとみられる流造の本殿があります。須佐之男命と奇稲田姫の命の二柱とともに牛頭天王が祀られています。牛頭天王については、正長元年(1428)に起きた「酉の満水」と...
鎌倉殿・源実朝暗殺!!それは歴史をどう動かしたのでしょうか?鎌倉殿の13人 完結編 (NHK大河ドラマガイド) [ 三谷 幸喜 ]楽天で購入鎌倉幕府三代将軍・源実朝・・・その治世は、初めから血にまみれたものでした。1203年、二代鎌倉殿・源頼家、危篤に陥る・・・後継者に
伊豆の国市南江間の北條寺は、鎌倉幕府二代執権である北条義時が創建した寺です。義時の嫡子・安千代が大蛇に襲われ命を失った時、七堂伽藍を建立し、仏殿の阿弥陀如来像を運慶に命じ作らせました。また、観世音菩薩像は中国宋風の仏像であり、鎌倉極楽寺にあったものを北条政子が北條寺に奉納したと伝えられています。「池田の大蛇伝説」は、あくまでも伝説なので、紀行では紹介されないかもしれませんが、大河ドラマ「鎌倉殿の13...
皆さぁ〜ん、大河ドラマ「鎌倉殿の13人」見てますかぁ〜なんだか、悲しいけどよかった…って感じかなってことで第38話の感想ぉ〜!こんな悲しい義時の表情は初めてじ…
伊豆の国市にある曹洞宗の信光寺は、武田五郎信光の開基です。武田氏は、清和源氏の源義家(八幡太郎)の弟・源義光(新羅三郎)を祖とし、義光の三代後の信義の時、武田氏を名乗りました。鎌倉幕府創建後、武田五郎信光が北条政子からこの地を賜り、12年間、居を置いたといいます。信光は、修禅寺に流されていた源頼家を見舞い、その帰路、頼家が暗殺されたことを聞いて出家し、頼家の菩提を弔ったと伝えられています。境内には、...
伝堀越御所跡は、伊豆の国市寺家にある「堀越公方」と呼ばれた足利政知の御所があったと伝えられる場所です。室町時代の後半、関東地方は、京都にある室町幕府に従う勢力と対抗する勢力とが激しく争っていたため、足利義政が、直接関東地方を支配しようと、長禄元(1457)年、鎌倉公方として兄の足利政知を派遣しました。しかし、政知は戦乱のため鎌倉まで行くことができず、韮山の堀越の地に館を構えました。そのため、政知は「堀越...
伊豆の国市の守山八幡宮は、源頼朝旗挙の地と言われ、鳥居の横に「源頼朝挙兵之碑」があります。1180(治承4)年4月27日、平家追討の令旨を受け取った源頼朝は、同年8月15日に守山八幡宮で平家討伐の祈願をし、山木判官平兼隆(やまきはんがんたいらのかねたか)の館を襲撃したといいます。史蹟 源頼朝挙兵之碑源頼朝 治承四年(1180)8月15日守山八 幡宮に平家追討を祈願して 挙兵 夜陰 源氏重忠の軍 兵数十騎 山木判官平兼隆 ...
源実朝の結婚相手を迎えにいくため上洛していた北条政範(北条時政と牧の方(ドラマではりく)の息子)が急逝するという悲劇に見舞われたものの、御台所の鎌倉下向...
畠山重忠に謀反の疑いありとの讒訴を平賀朝雅より受けた北条時政は、畠山重忠・重保父子の誅殺を決意するも、息子の北条義時、時房からその軽挙を諫められ、いった...
鎌倉殿の13人 第37話「オンベレブンビンバ」・第38話「時を継ぐ者」 ~牧氏事件~
私事ですが、本業の仕事があまりにも忙しすぎて、先週の大河ドラマの稿をすっ飛ばしてしまいました。まあ、元より趣味でやっているブログですから、毎週必ず起稿し...
伊豆の国市の守山西公園入口に「北条一族のふるさとと寺院」という案内板があります。北条氏邸跡がある守山は、北条氏の本拠地で鎌倉時代に伊豆北條と呼ばれていました。守山の東側には、願成就院が建てられ、北西側の谷の内部には館が建てられました。元弘2(1333)年、鎌倉幕府の滅亡後、北条一族の妻や娘たちは鎌倉から韮山に戻ると、邸宅跡に、一族の円成尼が中心となって、北条氏の冥福を祈るために円成寺を建てました。平成4年...
皆さぁ〜ん、大河ドラマ「鎌倉殿の13人」見てますかぁ〜サブタイトルが『オンベレブンビンバ』ってめちゃ謎ぉ〜ってことで第37話の感想ぉ〜!畠山討伐で御家人たちの…
願成就院は、『吾妻鏡』によると、文治5年(1189年)に北条政子の父親で、鎌倉幕府初代執権であった北条時政が、娘婿の源頼朝の奥州討伐の戦勝祈願のため建立したといいますが、寺に残る運慶作の諸仏は、文治2年(1186年)から造り始められていることから、北条氏の氏寺として創建されたものと考えられています。大御堂その後、北条義時や北条泰時によって堂塔が整備され、巨大な池とその中の小島を橋でつなぎ、多くの堂宇や塔がそ...
韮山駅のすぐ西側に北条氏ゆかりの寺「成福寺」(じょうふくじ)があります。北条時宗の第三子の正宗が一族の菩提を弔うために創建し、正宗の長子・宗仁がこれを修造し成福寺となりました。ここは、伊豆国在庁官人であった平時家の持仏堂が前身だったそうです。平時家は北条時政の父、政子の祖父にあたります。浄土真宗大谷派の成福寺は、北条正宗入道によって1289年(正応2年)に建立されました。北条正宗は、鎌倉幕府八代執権北...
唐門(からもん)(国重要文化財)1628年、東京・芝・増上寺で徳川二代将軍秀忠夫人・お江の霊屋の門として建てられました。1647年、仏殿・西来門と共に建長寺に寄附され、方丈(龍王殿)の正門として使用されています。方丈(龍王殿)この建物も、総門と同じく京都の般舟三昧院(はんじゅざんまいいん)より1940年に移築されました。1732年に建てられ、元は皇室のお位牌を安置するためのものでした。庭園夢窓疎石の作といわれ、昭...
法堂は、文化11年(1814)に建長寺派の寺院により再建されたものです。関東最大の法堂で、2005年に重要文化財に指定されました。堂内中央奥に高さ2メートルを超える法座を設け、その奥に本尊千手観音坐像を安置観音様の御前立は、2005年愛知万博に陳列されたパキスタンのラホール中央博物館所蔵の釈迦苦行像のレプリカが万博終了後にパキスタンより寄贈され、安置されたもの。天井の雲龍図は、建長寺の創建750年を記念して、小泉淳...
鎌倉の建長寺は、1253年、禅によって国の興隆をはかるため、北条時頼の願いにより、蘭渓道隆(らんけいどうりゅう)が開いた日本で最初の禅の大道場で、建築は、総門・三門・仏殿・法堂・方丈が一直線に連なる中国の禅宗様式にもとづいています。現在の総門は、1783年に京都の般舟三昧院(はんじゅざんまいいん)で建てられたものを1940年に移築したものです。安永4年(1775年)の上棟で、楼上には、釈迦如来・十六羅漢・五百羅漢...
■観光ボランティアさんの案内で『承久の乱と北条義時の足跡』を辿る(神奈川県鎌倉市)
目次 1 ボランティアさんの引率で鎌倉探訪 2 承久の乱と北条義時の足跡を辿る 3 まずは鶴岡八幡宮へ 4 周辺には鎌倉幕府に関わる遺構や地名が残る 5 北条義時ゆかりの『覚苑寺』 1 ボランティアさんの引率で鎌倉探訪 (写真:鶴岡八幡宮)せっかく鎌倉へ
法堂跡法堂は、北条高時の時代、北条貞時の13回忌に当たる1323年(元亨3年)に建立されましたが、応安の大火で焼失してしまいました。方丈方丈の前には柏槇ビャクシンが植えられ、裏には、心字池のある美しい庭園が広がっています。百観音霊場の由来は、養老二年(718年)徳道上人が開設した西国三十三観音霊場と、鎌倉時代、観音信仰に篤かった源頼朝が開いた板東三十三観音霊場と、その後にできた秩父三十四観音霊場の総称と...
北鎌倉の円覚寺は、北条義時以来、北条得宗家領となった山内荘に、弘安5年(1282年)に鎌倉幕府8代執権・北条時宗が、元寇の戦没者追悼のため中国僧の無学祖元を招いて創建した禅宗寺院です。。北条得宗の祈祷寺となるなど、鎌倉時代を通じて北条氏に保護されました。JR北鎌倉駅の駅を降りると、円覚寺の総門が見えてきます。山門(三門)天明5年(1785年)、大用国師誠拙周樗が再建したものといわれています。「円覚興聖禅寺」の額...
次は、江の島の最奥部にある海食洞窟「岩屋」に向かいました。多くの高僧や武将がここを訪れて祈願のため籠ったことを「江の島参籠」といってました。古くは弘法大師や日蓮上人も修行したといわれ、江の島弁財天信仰発祥の地として崇められてきました。養和2年(1182)には源頼朝が奥州藤原秀衡征伐を祈願したとも伝えられています。夏は岩屋に海水が入るので、昔は旧四月~十月の間は、岩屋本宮の神様を山の上の御旅所(奥津宮)...
北条時政、源頼朝ゆかりの江島神社(5)伝頼朝寄進の鳥居~奥津宮~龍宮
奥津宮に向かう途中、養和2年(1182)に源頼朝が寄進したといわれ石鳥居があります。 伝頼朝寄進の鳥居 鎌倉幕府を開いた頼朝は政治の方策としての信仰を、大きく取り上げ、各地に社寺伽藍を創建したが、その一つとして江島神社にも数度にわたって参詣しそのつど信仰上の対象を寄進しています。 吾妻鏡によれば「頼朝は養和2年(1182年)奥州平泉の藤原秀衡を調伏するため、京都高尾神護寺の文覚上人に命じて弁才天を岩屋に勧請...
次は中津宮を目指します。辺津宮から歩いて約5分。市寸島比賣命(いちきしまひめのみこと)が祀られています。度々の改修により、元禄二年当時の朱色が鮮明な社殿が再現されました。中津宮へ続く参道の両側には、江戸歌舞伎「市村座」と「中村座」が奉献した一対の石燈籠があり、昭和六十年(1985年)には、燈籠奉献二百年を記念して音羽屋七代目がしだれ梅を植樹しました。歌舞伎役者の手形も残されています。江の島歌舞伎中津宮か...
奉安殿は、辺津宮の南隣にある八角円堂で、妙音弁財天像と八臂弁財天像を安置しています。八臂弁財天像は、鎌倉時代最盛期の作と見られる県指定の文化財です。妙音弁財天像は琵琶を抱えた全裸の坐像で、女性の象徴をすべて兼ね備えているといわれています。源頼朝は奥州の藤原秀衡調伏祈願のために文覚上人に命じてこの弁財天を勧請しました。江戸時代には、この江島弁財天への信仰が集まり、江の島詣の人々で大変な賑わいを見せま...
辺津宮(へつみや)は、田寸津比賣命(たぎつひめのみこと)をお祀りしています。土御門天皇 建永元年(1206年)源実朝が創建。現在の建物は延宝3年(1675)に再建されたものです。昭和51年(1976)に改修により、権現造りの現在の社殿が新築されました。神社の祈祷は、主にこの宮で行われています。本殿前には「天女と五頭龍伝説」に由来した龍を祀った江の島弁才天の龍の銭洗、屋根には江島神社の社紋「向かい波三つ鱗」が見られます...
藤沢から小田急江ノ島線で7分、片瀬江ノ島駅で下車。数年ぶりに江の島を観光しました。『吾妻鏡』には、干潮時、片瀬の浜から江の島まで歩いて渡ったという記載があり、江戸時代には、幕府の高官、歌舞伎役者、職人、火消し、楼主や魚河岸の人々など幅広い階層の参詣者が、干潮時に現れた陸路を歩き、江の島を訪れていたそうです。『養和2年(1182)4月5日に源頼朝が、北条時政、足立遠元ら御家人を引き連れて江の島に来島、この...
9月18日放送の「武士の鑑」において、中川大志さん演じる畠山重忠殿が退場されましたので、改めて横浜市旭区の畠山重忠ゆかりの二俣川・鶴ヶ峰古戦場の史跡をまとめてみました。源頼朝の死後、幕府内部の権力闘争が続き、正治2年(1200年)の梶原景時の変、建仁3年(1203年)の比企能員の変によって有力者が滅ぼされ、幕府の実権は、14歳の3源実朝を擁する北条時政が掌握していました。畠山重忠は、治承4年(1180年)、石橋山の戦い...
こんにちは。夢中図書館へようこそ!館長のふゆきです。 全国の城や史跡をぶらり旅する「夢中図書館 いざ城ぶら!」。いま「鎌倉殿の13人」に夢中…。いざ鎌倉殿ゆかりの地へ!今日の夢中は、時政の野望…!初代
【予習17】第ニ部 第三章 執権・北条時政 前編(鎌倉殿の13人:2022大河)
鎌倉殿の13人:執権・北条時政 前編 嵐吹き荒れる鎌倉で、梶原・比企の両氏を滅ぼした時政は執権として権を振るい始める。鎌倉のダースベイダーと、小四郎との対決…
【予習19】第ニ部 第三章 執権・北条時政 後編(鎌倉殿の13人:2022大河)
鎌倉殿の13人:執権・北条時政 後編 続々とキャストが発表され、次第にワクワクが募ってきますね。妄想たくましく、ストーリーを思い浮かべながら、来年の三谷劇場…
【予習29】グランパ時政の暴走(鎌倉殿の13人、10月ごろ放送)
9月中に話がどこまで進むかは知らないが、坂東の関羽雲長こと畠山重忠(中川大志)を敵にまわしてしまったグランパ時政(坂東彌十郎)の株は大いに急降下し、ヒール街…
1205年(元久2年)畠山重忠の内室・菊の前は、合戦の連絡を受け、二俣川の戦場に急ぎ駆けつけましたが、この地で重忠の戦死を聞いて悲しみ、自害してしまいました。その場所に駕籠ごと埋葬されたことから駕籠塚といわれています。菊の前は、足立遠元の娘とも伝えられています。以前は、浄水場の中に周りを囲まれた大きな塚があったそうですが、昭和30年に場外に移され、その後、昭和49年に現在の姿に整備されました。武州鶴ヶ峰駕籠...
鶴ケ峰本町2丁目の薬王寺には、畠山重忠をはじめ、一族郎党134騎を埋めたと伝えられている「六ッ塚」があります。六ツ塚おおよそ乱世には学問道義は衰えるが畠山重忠公はおおよそ乱世に学問道義は衰えるが畠山重忠公は智仁勇の三徳を兼ね備えた武将で今なお親み慕われている。その時鎌倉北条時政から急ぎ鎌倉に出頭せよの命に接した公は菅谷の館(現・埼玉県比企郡)を6月19日発し、鶴ヶ峰にさしかかるや雲霞の如き数万騎は、ここ...
次は、矢畑と呼ばれる場所に向かいました。北条勢の放った矢が一面につきささり、矢の畑のようになったということから「矢畑」と呼ばれています。この辺りで、重忠が敵陣に取り囲まれたという説と、矢が腰巻のようにぐるりと取り巻いたという説があるそうです。 現在は、住宅地の間に「矢畑・越し巻き」の細い柱が建っているのみで、古戦場の面影は全くありません。せめて、石碑でもあったら良いのですが・・・次は、「すずり石水...
元久2年(1205)畠山重忠は、この地で戦死しました。「畠山重忠公碑」の碑は、畠山重忠没後750年を迎えた昭和30年に、地元・鶴ヶ峰と埼玉県川本村(現・深谷市)の有志により建立されたものです。畠山重忠没後750年を記念し、昭和30年(1955)6月、鶴ケ峰と埼玉県深谷市畠山(旧川本町)の有志により建立されました。碑は、水道道が厚木街道を横断する交差点の、見晴らしのよい場所に建っています。また、「さかさ矢竹」という重忠ゆ...
鎧の渡し緑道から旭区役所に向かって歩いて行くと、区役所の裏手の住宅地の間に、首塚があります。 首塚 畠山重忠公は鎌倉時代の武将で、源頼朝の忠臣として幕府の創設にも力を尽くし、智・仁・勇を兼ね備えた武将として名声をはせていました。しかし幕府の実権を巡る争いに巻き込まれ、旭区の二俣川付近で戦死しました。 ここは、畠山重忠公の首が祭られたところといわれています。現在は西向きに建っていますが、以前は南を...
源頼朝の死後、幕府内部の権力闘争が続き、正治2年(1200年)の梶原景時の変、建仁3年(1203年)の比企能員の変によって有力者が滅ぼされ、幕府の実権は、14歳の3源実朝を擁する北条時政が掌握していました。畠山重忠は、治承4年(1180年)、石橋山の戦いでは初め頼朝に敵対しましたが、やがて頼朝に帰服し、木曽義仲や平氏の追討、奥州征伐などに戦功を立てました。建久1年(1190)、建久6年(1195)、頼朝再度の上洛に先陣を勤め、忠...
鎌倉殿の13人 第34話「理想の結婚」 ~時政の専横と実朝の縁談~
源実朝が三代鎌倉殿となり、祖父の北条時政が侍所別当と執権に就任すると、ここから時政の専横がはじまります。あくまで幼い将軍の代理という名目ではあるものの、...
源頼朝の死後、梶原景時の変や阿野全成事件の背後で対立を深めていった北条と比企でしたが、建仁3年(1203年)9月2日、ついに決着が着くときがやってきます...