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安永2年(1773年)山東京伝の父・伝左衛門は、奉公先の質屋を離れ、京橋のたもと付近、京橋銀座一丁目にある町屋敷の家主に。13歳の京伝は、通称を幼名の「甚太郎」から「伝蔵」に。京伝というのは京橋の「京」と伝蔵の「伝」に由来。ちなみに、江戸時代、京橋は「橋名」で、町名ではありませんでした。安永4年(1775年)北尾重政に浮世絵を学び、画号を北尾政演(きたお まさのぶ)と称しました。警察博物館のそばには、京橋の親...
銀座5丁目のホテルグランバッハ東京銀座の一角に、「狩野画塾跡」の案内板があります。ここは、田沼意次が晩年過ごした田沼家下屋敷があった場所です。江戸時代、幕府の奥絵師・狩野四家のうち最も栄えたのは木挽町狩野家でした。六代狩野典信は、田沼家の屋敷の一角(今の銀座五丁目付近)を拝領して画塾を開き、八代雅信の門からは明治画壇の巨匠狩野芳崖や橋本雅邦らを輩出しました。江戸幕府の奥絵師であった狩野四家は、いずれ...
田沼意次の上屋敷は、現在の「神田橋辺りにありました。文京区の屋敷で生まれた意次は神田小川町、呉服橋付近に住んだ後、将軍家治時代の御側用人に昇格し、神田橋御門内に屋敷を拝領しました。家治の死とともに失脚する天明6年(1786)まで、この屋敷には、意次に便宜を図ってもらおうと、贈り物を持った商人達が連日のように押し寄せたとか。意次失脚後、「白河の清きに魚も棲みかねてもとの濁りの田沼恋しき」と狂歌で歌われ、田...
東京メトロ半蔵門駅から大妻通りを歩いて行くと、大妻女子大学前の歩道に佐野善左衛門宅跡の案内板があります。現在の大妻学院の辺りには旗本佐野家の屋敷がありました。佐野家は代々番士として、江戸城の警備を勤めていました。1784年(天明4年)4月24日、当主であった佐野善左衛門政言(さのぜんざえもんまさこと)は、江戸城内で若年寄の田沼意知(おきとも、老中田沼意次(おきつぐ)の子)を斬りつけ、その後切腹を命じられ自...
呉服問屋ミュージアムの奥には、「蚊帳仲間連盟帳」をはじめ、商売道具、日用品、行商の際に使用された矢立や棹秤、鬼瓦などが展示されています。蚊帳仲間連盟帳これは問屋ソロバンといい、取引相手から計算を覗かれないように裏板がついていて、大正時代~平成10年ぐらいまで使用されていたとか。手前が矢立と棹秤旧京都店の内蔵の鬼瓦4月24日には、 NHK「あさイチ」にて当店が紹介されたそうですよ。蔦屋重三郎「耕書堂」再現展...
地下鉄人形町駅から人形町通りを神田方面に進むと、織物中央通りに呉服問屋「イチマス田源」があります。イチマス田源は、文政元年(1818年)に近江愛知川(滋賀県愛知郡)で創業。初代は近江商人の一人で、主に地産の麻織物や蚊帳の行商を行っていました。西陣や友禅など京呉服問屋として発展し、嘉永年間(1848〜1854年)に江戸に進出。幕末に入り、行商の旅が安全に行えるように『蚊帳仲間連名組』を作り、明治4年(1871年)に...
台東区千束に今年一月にオープンした江戸新吉原耕書堂を訪ねて来ました。江戸新吉原耕書堂は、蔦屋重三郎が新吉原の大門前に開業した「耕書堂」を模した施設で、吉原に関する観光案内や、お土産品の販売などを行っています。べらぼうめTシャツてやんでえ べらぼうめ と書かれたTシャツポストカード万円袋・ポチ袋花魁扇子・一筆箋・小銭入れ・カードケース・メガネ入れ・手ぬぐいなどおこしや豆板などの浅草名物この他、蔦重に関す...
徳川治貞(とくがわはるさだ)は、紀伊和歌山藩主・徳川宗直(むねなお)の次男として誕生。松平頼邑(よりさと)の養子となり、宝暦3年、伊予西条藩主松平(紀伊)家5代、安永4年、和歌山藩主徳川家9代となりました。8代将軍・徳川吉宗の享保の改革にならって藩政改革を行ない、和歌山藩の財政再建に尽力。自ら綿服を着用、粗食を心掛け、冬には火鉢の数を制限するまでして、死去するまでに10万両の蓄えを築いたといいますこのことから「...
日本橋堀留町に鎮座する三光稲荷神社は、江戸三座の一つである中村座に出演していた歌舞伎役者・関三十郎が伏見より勧請したと言われ、娘さん、子供、芸妓の参拝で賑わったそうです。当社は落語「百川」にも登場します。百川(ももかわ)は古典落語の演目。6代目三遊亭圓生の十八番として知られる。田舎(いなか)から出てきた百兵衛は、葭町(よしちょう)の千束(ちづか)屋という桂庵(けいあん)(口入れ屋)からの紹介で日本橋浮世小...
江戸時代、日本橋室町の浮世小路に料亭「百川楼」がありました。(現在の福徳神社の社務所周辺)百川楼は明和ごろから明治元年にかけて営業をした料亭です。初めは卓袱(しっぽく)料理の店で、後に会席料理に転向。卓袱料理は、江戸時代に伝わった中国料理で、はじめ長崎に伝えられ、京都や大阪にも広がりましたが、江戸では流行が長続きしなかったそうです。安政元年(1854)、ペリー来日の際には、百川楼の料理人が横浜まで出向き、...
今夜の「べらぼう」で、ついに蔦重が日本橋に進出することに🙌今まで敵対してきた鶴屋もようやく蔦重の才覚を認め、通油町が吉原ものを歓迎するというお話でした。中央区日本橋大伝馬町に、蔦屋重三郎「耕書堂」跡の案内版があります。日本橋の通油町(とおりあぶらちょう)は、古くから重三郎と付き合いのあった版元の鱗形屋孫兵衛だけでなく、鶴屋喜右衛門、西村屋与八など錦絵創始の老舗版元が多数店を構える江戸の出版界の中心...
外神田三丁目の芳林公園の前に滝沢馬琴住居跡の案内板があります。滝沢馬琴は、『南総里見八犬伝(なんそうさとみはっけんでん)』、『椿説弓張月(ちんせつゆみはりづき)』などを著わした江戸時代の戯作者(げさくしゃ)です。旗本松平信成の家臣の子として生まれた馬琴は、元飯田町中坂下(現在の九段北一丁目)の下駄屋会田家の養子となりますが、家業を人に任せ、戯作者としての道を歩み始めます。1824年(文政7年)には、外...
小説『蔦屋』(谷津矢車 著)大河ドラマ『べらぼう』の世界が広がる!耳で聴ける蔦重の物語!
大河ドラマ『べらぼう』の主人公・蔦屋重三郎をもっと深く知りたい方に。谷津矢車さんの小説『蔦屋』をAudibleで“耳読”する楽しみと、ドラマとのシンクロも紹介!
大河史上初の描写? 大河ドラマ 「べらぼう」第15回の感想!
「べらぼう」も、早15回を迎えました。昨年の、「光る君へ」と同じく、今まで扱われたことのない時代の大河ドラマということで、毎回新鮮な気持ちで見ています。 主役の一人と思っていた瀬川(小芝風花)が、先週で最後かと思ったら、15回の冒頭でも、蔦重の夢のシーンで出てきて、びっくりし...
みるはな写真くらぶ例会桜の最後見届けてきましたCopyright(C) 2025 miruhana. ご覧いただきありがとうございますブログランキングに参...
* 重三はわっちにとって光でありんした __ ・「べらぼう~蔦重栄華乃夢噺」13話 瀬以(小芝風花)の心の中にいる蔦重(横浜流星)に嫉妬の炎を燃やす鳥山検校(市原隼人)。「骨の髄まで女郎だな」と罵ると、瀬以は「仰せの通りにござりんす」 と胸のうちを打ち明けるシーンがありま...
佐竹商店街から佐竹秋葉神社へ。佐竹秋葉神社は、秋田佐竹藩上屋敷跡地に、明治22年に秋葉神社の分霊を勧請して創建されたと伝わっています。秋葉神社 略縁起 当神社は現在、火之迦具土大神(ほのかぐつちのおおかみ)を御祭 とすする秋葉山本宮秋葉神社 (静岡県浜松市)を御本社とする火防・火伏せお社であります。 御神徳は火の幸を恵み、悪火を鎮め、諸厄諸病を祓い除く火防開運の神として火災消除・家内安全・厄除開運・商売繁盛...
東京都台東区に位置する佐竹商店街は、春日通りから清洲橋通りに至る全長330mの全蓋式アーケードの商店街で日本で、二番目に古い商店街といわれています。元々は秋田藩の江戸屋敷があった場所でしたが、1682年の火災で屋敷が消失。その後、町民によって復興され、見せ物小屋、寄席、飲食の屋台等が立ち並ぶ商店街へと発展しました。佐竹家上屋敷・佐竹っ原跡 江戸時代、この付近一帯は、出羽国久保田(秋田)藩の上屋敷があった地...
浅草神社は、浅草寺の境内にある神社で、三社権現、三社様とも呼ばれ、5月17日の三社祭で有名です。土師真中知(はじのまなかち)、檜前浜成(ひのくまはまなり)・武成(たけなり)を主祭神とし、東照宮(徳川家康)・大国主命を合祀しています。社伝によれば、推古天皇36年(628年)、檜前浜成・武成の兄弟が宮戸川(現在の隅田川)で漁をしていたところ、網に人形の像がかかり、物知りだった土師真中知に相談した所、これは観音...
以下、ライトアップされた夜の浅草寺です。仲見世通りのお店は、閉店後もシャッターの絵を楽しめます。仁王像も迫力を増しますね。にほんブログ村 歴史ブログランキングに参加しています。応援よろしくお願いします!にほんブログ村歴女日記ブログランキングに参加しています。ご協力お願いしますm(__)m歴女日記ランキング...
本堂昭和33年(1958)10月、全国ご信徒のお力添えにより再建された現本堂は、鉄筋コンクリート、本瓦葺であり、昭和20年(1945)3月10日に惜しくも戦災で焼失した旧本堂(国宝、3代将軍徳川家光建立)と同形態である。 一見して感じる特徴は屋根の勾配が非常に急で、従って棟が他寺院と比較してすこぶる高く、相当遠方からでも望見できる。 お堂は南に面し、350坪の堂内は畳敷の内陣、コンクリート敷の外陣...
東京浅草の浅草寺の総門である雷門、最初の門は平公雅(たいらのきんまさ)によって42年(天慶5)に建てられました。雷門(風雷神門)表参道入口の門。切妻造の八脚門で向かって右の間に風神像、左の間に雷神像を安置することから正式には「風雷神門」というが「雷門」の通称で通っている。慶応元年(1865年)に焼失後は仮設の門が時折建てられていたが、1960年(昭和35年)に常設の門が鉄筋コンクリート造で再建された。実業家・...
江戸幕府の将軍あるいは大御所・大納言(将軍嫡子)が、東照大権現(徳川家康)を祀る日光東照宮へ参拝する日光社参は、江戸時代を通じて合計19回実施されました。特に徳川家光は、その数10回と歴代将軍の中で最多でした。将軍の日光社参には大名や旗本をはじめ、莫大な数の人馬が供奉し、安永5年(1776年)の10代徳川家治の社参では、行列の先頭が日光にあるとき、最後尾はまだ江戸にあったとも言われているほどの規模で、莫大な...
浅草の伝法院通りには、浅草らしいお店や看板がいっぱい!白波五人男や鼠男など、町のあちこちに潜んでいます。屋根の上にもこの通り!また、「べらぼう」のPRの幟も発見!マスコットキャラクターのつたいやん蔦屋と台東区と「伝える」を合わせた名前で、蔦屋重三郎をイメージさせる空飛ぶ黄表紙に乗り、桜のピンクと隅田川の水色と黄表紙の黄色で構成しているとのこと。にほんブログ村 歴史ブログランキングに参加しています。応...
墨田区の五柱稲荷神社の近くに「長谷川平蔵の旧邸」の案内板があります。付け火が元の明和9年(1772)の目黒行人坂の大火は、明暦の大火に次ぐものでしたが、その下手人を捕らえたのが、長谷川平蔵宣以の実父・長谷川平蔵宣雄です。この手柄で、同年秋に京都町奉行に出世しましたが、翌年の安永2年(1773)に客死していまい、家督を継いだ平蔵宣以は天明7年(1787)、42歳の時に火付盗賊改方の長官に就任。京都へ家族で移るまで住...
長谷川平蔵・遠山金四郎住居跡のモニュメンが、都営新宿線菊川駅からほど近い丸山歯科医院の前に建っています。この場所が、邸の東端にあたるそうです。長谷川平蔵は明和元年(1764)父の屋敷替えによって築地からこの地に移り住みました。当時の敷地面積は1,238坪(4,085)におよんだと言われています。平蔵は、寛政7年(1795)にこの地で亡くなり、後に屋敷替えとなって代わりに入ってきたのが、遠山金四郎でした。また、菊川駅の...
【2025/03/09(日)】べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~…10回10.6%(6.1%)、平均10.88%(6.29%)日曜劇場「御上先生」……8回10.6%(6.9%)、平均10.61%(6.56%)ホットスポット…9回?%(?%)、平均?%(?%)【2025/03/08(土)】アンサンブル…8回4.2%(2.4%)、平均5.19%(2.89%)テレビ朝日ドラマプレミアム山崎豊子生誕100年記念「花のれん」…?%(?%)【2025/03/07(金)】法廷のドラゴン…最終回?%(?%)、平均?%(?%)「クジャクのダンス、誰が見た?」…7回6.8%(3.8%)、平均6.56%(3.80%)金曜ロードショー「ゲド戦記」…?%(?%)【2025/03/06(木)】プライベートバンカー…最終回6.9%(3.9%)...ドラマ視聴率(2025/03/03-2025/03/09)
現在、人形町の魚久本店~日本橋小学校のあるこのあたりは、江戸時代末期、姫路の殿様、酒井氏の屋敷がありました。そして、明治の初期、西郷隆盛が明治政府の参議となった頃、人形町から小網町、蛎殻町辺りに、西郷がおよそ二年間、書生15人、下男7人と住んでいました。魚久本店と日本橋小学校の前に説明板があります。魚久本店日本橋小学校西郷隆盛屋敷跡 明治初め、この地域には明治維新の元勲西郷隆盛(1827~1877)の屋敷が...
人形町通り沿いにある玄冶店跡の碑玄冶店(げんやだな)の地名は、江戸時代、ここの医者岡本玄冶が住んだことに由来し、日本橋界隈の古くからの地名もしくは通りの名です。歌舞伎『与話情浮名横櫛』の源氏店のモデルとなりました。江戸時代の新和泉町、現在の東京都中央区日本橋人形町3丁目のあたりである。天保のころ、歌川国芳が玄冶店に住んでいた。岡本玄冶徳川家の御典医であった岡本玄冶の拝領屋敷跡一帯を指した。玄冶は3代...
人形町にある末廣神社は、吉原遊郭の跡地にあり宇賀之美多摩命や武甕槌命を祀る神社です。かつては元吉原で鎮守として信仰されていました。1657年の明暦の大火で吉原が移転した後も、難波町、高砂町、住吉町、新和泉町の4町の産土神として信仰されました。現在の社殿は、昭和22年に再建(総檜造り)されたものです。 末廣神社は、江戸時代の初期に吉原(当初葭原と称した)がこの地にあった当時(元和三年から明暦三年まで)その...
人形町通りの案内板を見ながら歩きました。人形町の由来現在の人形町交差点北側一帯には江戸唯一の歓楽街が在りました。 中村座と市村座の江戸二座では歌舞伎が上映され、また、見世物小屋をはじめ人形芝居の小屋が5,6軒あり、そのため、かなりの人形師がこの町に住んでいたので江戸時代より俗に人形町と呼ばれ親しまれてきました。江戸からの商業地 この地は往時武家地でしたが、近くを流れる日本橋川に通じる掘り割りが多く在り...
法堂跡法堂は、北条高時の時代、北条貞時の13回忌に当たる1323年(元亨3年)に建立されましたが、応安の大火で焼失してしまいました。方丈方丈の前には柏槇ビャクシンが植えられ、裏には、心字池のある美しい庭園が広がっています。百観音霊場の由来は、養老二年(718年)徳道上人が開設した西国三十三観音霊場と、鎌倉時代、観音信仰に篤かった源頼朝が開いた板東三十三観音霊場と、その後にできた秩父三十四観音霊場の総称と...
続いて江戸城ゾーンです。松平武元 まつだいら-たけちか享保(きょうほう)元年12月28日生まれ。常陸(ひたち)(茨城県)府中藩主松平頼明(よりあきら)の次男。松平武雅(たけまさ)の養子となり,享保13年上野(こうずけ)(群馬県)館林(たてばやし)藩主松平(越智(おち))家3代。家督をつぐと同時に陸奥(むつ)棚倉(福島県)に移封(いほう)。奏者番,寺社奉行をへて,延享3年西丸老中にすすみ,館林にもどる。4年老中となり,明和元年老中首座。6年6...
続いて仲ノ町ゾーンを紹介します。かつては、吉原大門を潜った通りが「仲之町通り」という吉原遊郭の妓楼が立ち並ぶメインストリートでした。吉原の町を背景に、花魁の衣装が展示されています。花魁 おいらん江戸・吉原における上級遊女の別称。語源としては、遊女に従属する新造(しんぞう)や禿(かむろ)が姉女郎を「おいらがの(私の)」とよんだのがなまったとする説などがあるが、明らかではない。いずれにしても口語体から発生...
べらぼう江戸たいとう大河ドラマ館(4)蔦屋の再現セット~蔦重ゆかりの人達
また、五十間道ゾーンでは、蔦屋の再現セットで記念写真を撮影出来るようになっています。貸本もありますよ~~この日は、混み合っていたので、記念写真は撮らず、次へ移動しました(^0^;)こちらは蔦重を取り巻く人達の紹介です。蔦重は、遊女達を花に見立てることを思いつき、『一目千本』の制作に取りかかります。突然店から姿を消してしまったか唐丸ですが、いつか立派な絵師となって、蔦重のもとへ戻ってくるのでしょうね。平蔵...
べらぼう江戸たいとう大河ドラマ館(3)五十間道ゾーン その壱
べらぼう江戸たいとう大河ドラマ館「五十間ゾーン」では、蔦重ゆかりの小道具やパネルが展示されています。平賀源内の衣装※展示されている小道具には、撮影使用品と同等品があります。にほんブログ村 歴史ブログランキングに参加しています。応援よろしくお願いします!にほんブログ村歴女日記ブログランキングに参加しています。ご協力お願いしますm(__)m歴女日記ランキング...
べらぼう江戸たいとう大河ドラマ館(2)エントランス~べらぼう入門編
9Fでエレベーターを降りると、そこには江戸の街が広がっています。ドラマ館のエントランスには、『べらぼう』の大判メインビジュアルと横浜流星のメッセージ映像がお出迎え!『べらぼう』入門編では、蔦屋重三郎の衣装が展示されています。蔦屋重三郎の衣装出演者の紹介パネル語り/九郎助稲荷 綾瀬はるか蔦屋重三郎/横浜流星花の井/瀬川 小芝風花田沼意次/渡辺謙にほんブログ村 歴史ブログランキングに参加しています。応援よ...
今月2月1日に蔦屋重三郎ゆかりの地・台東区にオープンした「べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~」のべらぼう江戸たいとう大河ドラマ館に出かけて来ました。場所は、東京メトロ銀座線浅草駅7番出口から徒歩5分の台東区民会館9階ホールにあります。エレベーターホールから、江戸情緒&べらぼうの世界観に浸れます。エレベーターもこの通り!会場の9Fへと上がって行きます。にほんブログ村 歴史ブログランキングに参加しています。応援よろし...
『べらぼう』のロケでは、能舞台と白書院にて撮影が行われ、第2回(1月12日)の放送で、一橋治済の嫡男の誕生を祝う宴が開かれた場面に登場しました。能舞台能舞台(重要文化財)1880年(明治13年)に建てられたもので、1937年(昭和12年)に現在地に移築した。鏡板に描かれている松は幸野楳嶺によるもの。(Wikipediaより)白書院白書院(重要文化財)1911年(明治44年)に親鸞聖人六百五十回御遠忌に際して再建。来賓の接待などに使...
拝観受付の出入り口のところに、「べらぼう」のポスターが貼ってありましたよ!大書院は、名勝庭園をじっくり鑑賞できる建物となっています。また、宝物館に実物が収められている国宝「楓図」「桜図」「松に立葵図」のレプリカが飾られています。(撮影可)長谷川等伯・久蔵父子の作大書院にある複製障壁画 「桜楓図」のうちの「桜図」が等伯の子で26歳で没した久蔵の遺作とされています。にほんブログ村 歴史ブログランキングに参...
講堂の襖絵使者の間の襖絵「布袋唐子嬉戯の図」月樵(げっしょう)道人の大正元年(1912)の作布袋さんと戯れるこども達が描かれています。思わずほっこりしてしまう作品です😊にほんブログ村 歴史ブログランキングに参加しています。応援よろしくお願いします!にほんブログ村歴女日記ブログランキングに参加しています。ご協力お願いしますm(__)m歴女日記ランキング...
智積院の講堂と名勝庭園を見学してきました。講堂玄宥僧正が現在の京都東山の地に智積院を再興した際、徳川家康より寄贈された祥雲寺の客殿(方丈)が基になっています。この祥雲寺ゆかりの建物自体は、天和2年(1682)7月に焼失。その後幕府から与えられた東福門院の旧殿・対屋を基に、貞亨元年(1684)に再建されましたが、その建物も昭和22年に焼失。現在の講堂は、平成7年(1995)10月に完成したもので、灌頂道場や各種研修の道場と...
京都市東山七条にある智積院(ちしゃくいん)が、「べらぼう」のロケ地となっています。田沼意次の邸の庭園として、智積院の名勝庭園が使用され、1月5日の初回放送にて放映されました。蔦重が和泉屋の荷物持ちとして、強引に田沼邸に入り込んだあの場面です。智積院(ちしゃくいん)は、京都市東山区にある真言宗智山派の総本山の寺院。山号は五百佛山(いおぶさん)。寺号は根来寺(ねごろじ)。本尊は金剛界大日如来。開山は玄...
地下鉄・南北線の溜池山王駅から歩いて5分ほどのところにある赤坂の日枝神社山王鳥居と呼ばれる鳥居は、鳥居の上部が合掌した手のような三角の形になっています。さすが都会のど真ん中にある神社だけに、参道の脇にエスカレーターが完備されています。上から、見下ろすと・・・見渡すと、周りはビル群。社殿にたどり着くまでに、一段も階段を使わずに行けるのですよ。日枝神社は、太田道灌によって川越の星野山無量寿寺から勧請さ...
春慶院(しゅんけいいん)は、台東区にある浄土宗の寺院で、江戸時代前期、伊勢屋太兵衛が娘を供養するために創建したと伝わります。境内には、二代目高尾太夫の墓があります。高尾太夫とは吉原遊廓の太夫の名跡ともいえる源氏名で、過去に11人いるとされています。二代目高尾太夫は、仙台藩藩主の伊達綱宗とのロマンスで知られ、綱宗に身請けされたとも、また綱宗に斬殺されたとも。墓石に記された没年は「万治2年(1659年)」で...
台東区東浅草1丁目の山谷堀公園に「猪牙舟」が展示してあります。猪牙舟は、船首が細長く尖った屋根のない形で、江戸時代から市中の水路で使われていた舟。遊郭が新吉原に移転した後、猪牙舟を用いて山谷堀をよく通ったため、山谷舟とも呼ばれていた。当時の江戸の人にとって舟に乗り山谷堀を通って吉原へ遊びに行くことは、大変贅沢であった。舟の長さは約30尺、幅は4尺6寸と細長く、語源は、舟の形が猪の牙に似ているからという...
江戸城の平川門は、大奥女中達の出入りする通用門でもあり、門限に遅れた春日局が、警備をしていた先手弓頭・小栗又一に閉め出された逸話が残っています。また、城中の死者や罪人をこの門から出したので、「不浄門」とも呼ばれました。 北の丸公園は、江戸城の北の丸があったところで、徳川家康が入府した際に、関東代官であった内藤清成らの屋敷となったため、代官町と呼ばれた場所です。3代・徳川家光の頃は、家光の3男長松(...
江戸城の平川門から一ツ橋まで散策した時のこと。平川門にかかる平川橋の近くに、太田道灌の追慕の碑があります。太田道灌の没後450年にあたる1936年(昭和11年)に建立されました。この石碑には江戸城の石が使われているそうです。江戸城築城 550年に当たって 左にある「追慕の碑」は、太田道灌公没後450年を記念して建立されましたが、今年は、道灌公が長禄元年(1457年)にこの千代田の地に「江戸城」を築城してから、丁度550...
『面白すぎて誰かに話したくなる 蔦屋重三郎』は、彼の生涯や写楽のプロデュース、当時の政治や経済を踏まえて時代の寵児・蔦屋重三郎を語る一冊。大河ドラマ『べらぼう』の副読本としてもおすすめです。蔦屋重三郎の生涯蔦屋重三郎(蔦重)は、吉原育ち。吉...