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■『清瀧寺・信康廟』徳川家康の長男信康の霊廟と『二俣城址』(静岡県浜松市)
目次 1 『本田宗一郎ものづくり伝承館』の目の前にある寺院 2 立派なご神木が2本天に延びる『諏訪神社』 3 徳川家康の長男信康の霊廟のある『清瀧寺』 4 徳川家の御廟を物語る『家康公御手植の蜜柑の分木』 5 『知恵者』本田宗一郎の逸話が残る『境内の鐘』
■『三河武士のやかた家康館』徳川家康の生涯と『関ケ原の戦い』を臨場感たっぷりに体感(愛知県岡崎市)
目次 1 徳川家康の出生から天下統一までの生涯を知る 2 『龍ヶ城』こと『岡崎城』を守る龍の神様 3 『三河武士のやかた家康館』は共通券がお得 4 大河ドラマ『どうする家康』の衣装も展示 5 「関ケ原の戦い」や刀・槍・兜の重さを体感 1 徳川家康の出生
■『岡崎城』神君(かみのきみ)徳川家康公 出生の城(愛知県岡崎市)
目次 1 別名『龍ヶ城』神君(かみのきみ)出生の城 2 城郭遺構『南切通し』にある駐車場はバイク無料 3 岡崎市のシンボル『岡崎城天守閣』 4 「過去の城郭・城下町」と「現在の岡崎」を知る展示 5 岡崎の城下町の賑わいを精巧なジオラマとARで再現 1 別
地下鉄・南北線の溜池山王駅から歩いて5分ほどのところにある赤坂の日枝神社山王鳥居と呼ばれる鳥居は、鳥居の上部が合掌した手のような三角の形になっています。さすが都会のど真ん中にある神社だけに、参道の脇にエスカレーターが完備されています。上から、見下ろすと・・・見渡すと、周りはビル群。社殿にたどり着くまでに、一段も階段を使わずに行けるのですよ。日枝神社は、太田道灌によって川越の星野山無量寿寺から勧請さ...
浜松秋葉神社は、徳川家康が永禄十三(1570)年正月浜松城入場の際、秋葉寺第二十五代別当、叶坊光幡を浜松城下へ引具し、叶坊の願いを聞きいれ、天竜区春野町の秋葉権現堂を勧請したことがはじまりです。御前崎市から湖西市に至る地域一帯の秋葉信仰の中心としての役割を担い、家康が勧請した神社として、以後歴代の浜松城主の崇敬も厚く、多くの灯篭が寄進されています。三州西尾城主松平和泉守源乗寛年号 文化七年(1811)の灯籠こ...
心造寺に隣接しているのが、五社神社・諏訪神社です。家康は、子供たちのお宮参りや、自身の厄除けの祈祷を五社神社で行ったといわれています。また諏訪神社は、3代将軍・徳川家光によって、現在地に遷され、昭和35年(1960)、隣接して鎮座していた五社神社と諏訪神社を合祀し、五社神社・諏訪神社となりました。両社ともに、秀忠のとして徳川家の崇敬を受け、子守り、子育ての神としての信仰されています。五社神社五社神社は、...
浜松の心造寺は、徳川家康が、1580(天正8)年7月に徳川秀忠の産土神(うぶすながみ)として五社神社を浜松城内から常寒山(とこさむやま)へと移し、その北側の隣接地に開いたお寺です。開山は讃誉智眼(さんよちげん)上人、開基は秀忠の母である西郷局(於愛の方)。西郷局が奉納した鉄灯篭は、戦災で片方が失われ、現在は1つだけ残されています。西郷局(さいごうのつぼね)父は戸塚忠春。通称は於愛の方。徳川家康の側室であ...
金山神社は、天正年間(1573年〜1593年)、徳川家康が浜松に城を構えるにあたり、釘鎹(くぎかすがい)・蝶番(ちょうつがい)・飾り金具を金銀銅鉄で鋳造するため、場内三の丸に鍛冶衆を常駐させ、同時に美濃国の南宮大社よりご分霊を勧請して祀ったことに始まるとされています。元和元年には、浜松城拡張工事のため、徳川秀忠の産土神たる五社神社を城外に、現在地の常寒山に遷座させ、それに伴い、当社も清水谷入り口へ鍛冶衆と...
鴨江寺の中門から観音堂へと進んでいきます。中門鐘撞堂12月31日の大晦日には除夜の鐘を撞く人々で賑わいます。拝殿聖徳太子が祀られる観音堂鴨江寺の観音堂は豊臣秀吉の時代に火災で焼失しましたが、そのときのお堂の規模は七間四方であったと記録に残っています。江戸時代に入り、元和二年、徳川家康によって観音堂が再建されました。その堂内に安置されていた宮殿が弁天堂の宮殿として現在も残っています。その後、空襲で焼失し...
昨日は国宝犬山城と岐阜城に行き、二日目は名古屋城に移動。途中に小牧山城、墨俣城、清洲城など様々な城跡があるのですが、二日目は名古屋城一択と決めておりました。名古屋城はそれだけ時間をかけてゆっくり周る価値があります。岐阜羽島の駅近くに宿泊し、車で約50分程度で到着です。今まで何度も行くチャンスはあったものの、利便性が良いから逆にいつでも行けると後回しにしていました。しかし、近い内に天守は解体されて木造復元される予定。現在、耐震の問題で既に天守内部には入ることができません。城郭建築の最高到達地点と言われる名古屋城の現在の姿を、この目で焼き付けておきたいと思います。場内には有料の駐車場があり、今回は三の丸の駐車場に停めました。名古屋城の三の丸は跡形もなく駐車場となっています。名古屋城正門から入城します。元は藩主...名古屋城@愛知県
大門の増上寺に行った後は浜松町の浜離宮恩賜庭園に移動。桜も見たいと思っていましたが、何よりも江戸時代の歴史に深く関わりがあるので、一度は行くべきスポットです。増上寺からはゆっくり歩いて25分ほどで、交通アクセスで直接行く場合は汐留駅が最寄駅。まさに都会のど真ん中。浜松町駅方面から大通りを道なりに歩くと、堀のような水路が現れます。美しく、遠くまで続く石積み。どう見ても近世城郭の水堀にしか見えません。そう!浜離宮恩賜庭園は江戸幕府によって造られた、大名庭園。6代将軍、徳川家宣によって将軍家の別邸、浜御殿として大改修。11代将軍、徳川家斉の時に現在の庭園が完成しています。綺麗な切込接の石垣。城郭でいう外堀にあたります。ちなみに庭園の規模は25万㎡、東京ドーム5個分という巨大な敷地面積を誇ります。石垣をよく観察す...浜離宮恩賜庭園
4月に入り、例年よりも遅く桜が咲き始めた今年。3月3日に姫路城に行って以来、忙しくて城や寺など巡ることが出来ない日々が1ヶ月以上続きました。花見も兼ねて、今回は浜離宮恩賜公園に行くことにしました。その前に、増上寺へ向かいます。増上寺は港区にある超有名なお寺。ドラマの撮影などでも度々使われています。安倍元首相の葬儀も増上寺で行われました。場所はJR浜松町駅か、都営大江戸線大門駅。駅前の大通りを歩くと増上寺の門が現れます。こちらが駅前続く道の先にある表門。鉄骨で復元されたもですが、実はここにあった増上寺の門は徳川家康から贈られた江戸城の門だったと言われています。元は現在の日比谷にあった増上寺ですが、慶長3年に江戸城拡張の際に現在の地に移動。その際に江戸城の門も移築したようです。復元とはいえ、立派な門です。一応...増上寺@東京都
日比谷公園に残る「江戸城日比谷見附跡」で石垣石を満喫【東京・千代田区】
江戸城は城と町が一体化した巨大な城郭でした。城下の要所には番所が設置されましたが、日比谷公園にはその一つである日比谷見附の遺構が残っています。
ぷらっと静岡市に来てみましたが、とくに大きな目的はなく、なんとなく静岡市を見てみたい、という感じです。ひとまず静岡駅近くの駿府城公園に行って見ることにしました。観光地っぽいしね。静岡駅からは徒歩20分くらい。途中で静岡鉄道の新静岡駅を通りす
芝東照宮の御朱印|四大東照宮の1社|芝公園に鎮座(東京都港区)
所在地東京都港区芝公園4丁目8−10祭 神徳川家康由 緒1601年、徳川家康が還暦を迎えた記念に自らの像を刻ませた寿像を駿府城に祀ったという。その後、1616年に徳川家康が寿像を祭祀する社殿を増上寺に建立するようにと遺言したそうです。 そん
所在地東京都港区芝公園4丁目7−35宗 派浄土宗寺 格大本山札 所江戸三十三ヶ所 第21番由 緒1393年、浄土宗第8祖・酉誉聖聡上人が浄土宗正統根本念仏道場として創建したのが始まり。1598年、江戸城を拡張する際、徳川家康が現在地に移転。
■『徳川美術館』尾張徳川家の遺愛品を集める美術館(愛知県名古屋市)
目次 1 尾張徳川家の遺愛品を納める美術館 2 『尾張徳川家の雛まつり』を開催中 3 徳川家に伝わる『お雛様』と『雛道具』 4 国宝『源氏物語絵巻』の蔵書も 5 美術館の建物自体もまた芸術的文化財 1 尾張徳川家の遺愛品を納める美術館 (写真:徳川家の家
■歴代将軍の等身大位牌を安置する徳川家松平氏の菩提寺『大樹寺』(愛知県岡崎市)
目次 1 徳川家・松平氏の菩提寺『大樹寺』 2 山門から『岡崎城』を望むことができる『ビスタライン』 3 国指定の重要文化財『多宝塔』や『鐘楼』 4 『葵の御紋』が掲げられた本堂 5 『厭離穢土・欣求浄土』の文字とご本尊 1 徳川家・松平氏の菩提寺『大
■松平氏八代の発祥の地『松平郷』の『松平東照宮』へ(愛知県豊田市)
目次 1 徳川家康のご先祖様発祥の地『松平郷』 2 松平家発祥のきっかけとなった『見初めの井戸』 3 鯉が泳ぐ松平東照宮の歴史ある水濠と石垣 4 初詣の人出で賑わう東照宮境内 5 コンパクトな中に歴史を感じさせる本堂 1 徳川家康のご先祖様発祥の地『松
庭のバラ ゴールデンセレブレーションが咲きました♪*゜ オールドブラッシュはいくつか咲いています(^^) ウエッジウッドローズ 開くかな? 岡崎城へ行ってきました( ´ ▽ ` )ノ お城
前回、見学できなかった滝山寺の宝物館にやっと入れました!そもそもこの滝山寺に行ったのは、宝物殿に安置されている寺宝の聖観音・梵天・帝釈天三尊像像を見たかったから。これらの像は、鎌倉時代の運慶・湛慶父子の作として、昭和56年に国の重要文化財に指定されました。像を作らせたのは、源頼朝の従兄弟にあたる当山住職・寛伝。頼朝の追善供養のために境内に惣持禅院を建立し、その本尊と脇侍として祀られていたといいます。...
滝山寺本堂の北側に「日吉山王社本殿」があります。七間社流造、桟瓦葺(元檜皮葺)1608年に徳川家康が建てたと伝えられています。内陣の造りが七間社以上の流造にみられる連結方式ではなく、身舎を横長一室の内陣として奥に簡素な祭壇を設けている点が特徴。2006年(平成18年)12月21日、岡崎市指定文化財に指定されました。老朽化により、2019年(平成31年)4月から修復工事が行われ、2021年(令和3年)3月、薄い板を重ねた「こ...
滝山寺境内の滝山東照宮は、三代将軍・徳川家光の命により勧進されたものであり、日光、久能山とともに、東照宮三宮とされています。正保元年(1644年)、徳川家光は徳川家康が生まれた岡崎城の近くにも東照宮を観請したいと考え、酒井忠勝、松平正綱らに命じてその場所の選定を行わせたところ、家康もよく訪れていた滝山寺に観請するのが良いということになり、正保3年(1646年)9月17日に創建されました。創建以来、滝山寺が別当...
あけましておめでとうございます。旧年中は大変お世話になりました。2024年も皆様にとって明るく希望に溢れる1年となりますようにお祈り申し上げます。本年もどうぞよろしくお願いいたします。岡崎の滝山寺は1300年前に開かれた古刹で、天武天皇の勅願により薬師如来を祀り、吉祥寺と名乗ったのが始まりとされています。山号を「吉祥陀羅尼山」、院号を「薬樹王院」といい、熱田大宮司家、源頼朝の鎌倉幕府、歴代の足利氏、徳川家...
桑名の旅編が続いていますが、今年最後の記事は、徳川家康ゆかりの浜松の記事をお届けします。浜松市天竜区山東にある光明山光明寺は、奈良時代の養老元年(717年)に行基により開創された遠州地方の名刹です。元々光明山にありましたが、昭和6年(1931)の火災で焼失し、現在地に移されました。光明山は、標高540mで秋葉山とともに古代から山岳霊場として知られ、秋葉の火の神に対して、水の神として信仰を集めていました。大黒堂には...
桑名城跡を出て、桑名駅方面へ歩いて約10分の場所にある浄土寺は、本多忠勝の本廟がある寺で、桑名藩主本多家の菩提寺となっています。 当寺は、永承4(1049)年海中から出現した地蔵尊を安置したのが始まりと言われています。 慶長の町割りで現在地に移り、桑名藩主本多家の菩提寺となり、藩主本多忠勝が没した時に、当寺に葬られ、本多忠勝本廟となりました。「慶長の町割り」とは、忠勝が、慶長6年(1601)桑名に封ぜられてか...
西焼津から800mほどのところにある小土神社(こひじじんじゃ)は、徳川家康が鷹狩りの際に立ち寄り、満水の大井川を渡るために祈願したそうです。小土神社から900mほどのところにある旭傳院には、田中城にあった門が、移築されて旭傳院の山門になっています。こじんまりとしていますが、歴史を感じる門です。にほんブログ村 歴史ブログランキングに参加しています。応援よろしくお願いします!にほんブログ村歴女日記ブログランキン...
本丸櫓を出て、田中城下屋敷の敷地内をまわります。長楽寺村郷蔵郷蔵(ごうぐら)とは、年貢米や飢饉に備えた非常(救済貸付)米を保存するための蔵で、江戸時代には村ごとに置かれていました。村役人が管理しており、夜間は畳敷きの小部屋に2人1組で泊まり込み、夜番をしました。 長楽寺村の郷蔵は、明治10年頃に中西家に払い下げられました。この時、郷蔵の半分を切り取り移築したものといわれ、本来は現状の倍の大きさであった...
徳川家康が鯛の天ぷらを食べたと伝わる藤枝の田中城の歴史は、今から500年ほど前この地の士族一色氏がその居館を拡大したのに始まるといわれています。田中城の東南隅にあった藩主の別荘庭園である田中城下屋敷には、田中城ゆかりの建物(田中城本丸櫓、茶室、仲間部屋・厩、長楽寺村郷蔵)が移築・復元されています。草むらの中に発見!なかなkシュールな「まつだいらたけちよくん」(^0^;)本丸櫓晩年の徳川家康は、鷹狩りと称して、...
上野東照宮の正式名称は「東照宮」ですが、他の東照宮との区別のために鎮座地名をつけて上野東照宮と呼ばれ、徳川家康・徳川吉宗・徳川慶喜を祀っています。社伝によれば、元和2年(1616年)、危篤の徳川家康から自分の魂が末永く鎮まる所を作ってほしいと藤堂高虎と天海に遺言し、寛永4年(1627年)、上野の高虎の敷地内に創建した神社「東照社」が上野東照宮の始まりです。現在の社殿は慶安4年(1651年)徳川家光が改築したもの...
今から10年以上前のことになりますが、紅葉の季節で賑わう日光へ旅行して来ました。日光といえば日光東照宮徳川家康を神と祀る日光山内の最も有名な寺社です。五重塔三神庫には、狩野探幽が実物を見ることなく描いたという「想像の像」が見られます。そして神厩舎には、誰もが知っている三猿があります。「悪事は見ざる、聞かざる、言わざる」は、8枚の彫刻の中の2枚目に当たり、人の人生の移り変わりを描いています。通称「うっ...
久能山東照宮に行くには、「静岡鉄道日本平ロープウェイを利用する方法と「久能山下からの徒歩ルート」があります。車:東名静岡・清水インターより日本平山頂(約40分)⇒ 山頂より日本平ロープウェイ(5分)バス:JR静岡駅より、しずてつジャストライン日本平線(約50分)終点「日本平」で下車すると、ロープウェイ乗場入口です。私はロープウェイを利用しました。この前の台風で山肌が削られたり、崩れたりしたところがあるそう...
田中城は、静岡県藤枝市田中にあった輪郭式の平城で、江戸時代には田中藩の藩庁が置かれた城です。駿府城で隠居生活を送っていた徳川家康は、鷹狩りのため、度々田中城を訪れたといわれています。家康は元和2年(1616)4月巳の刻(現在の午前10時ごろ)、家康は駿府城において75歳で死去しましたが、鯛の天ぷらが原因という説があります。同年1月21日、駿河国田中で鷹狩を行った際、家康は御用商人茶屋四郎次郎清次に上方での流行を...
本丸堀 本丸堀は、駿府城の三重堀の一番内側の堀で本丸を取り囲んでいます。幅約23〜30mで深さは江戸時代には約5mありました。石垣は荒割りした石を積み上げ、隙間に小さな石を詰めていく「打ち込みはぎ」と呼ばれる積み方です。角の部分は「算木積み」という積み方で横長の石を互い違いに積んで崩れにくくしています。 発掘調査により再び姿をあらわした本丸堀は、江戸時代の雰囲気が感じられる貴重な遺構です。 銀座の柳 二...
徳川家康は、天正14年(1586年)12月4日、17年間過ごした浜松城から本拠を駿河国の駿府城へ移しました。これは、出奔した石川数正が、浜松城の軍事機密を知り尽くしていたため、それに備えたとする説があるそうです。駿府城は、14世紀に室町幕府の駿河守護に任じられた今川氏によって、この地には今川家の居館(今川館)が築かれ、今川家の居城となっていました。今川氏は隣接する甲斐国の武田氏、相模国の後北条氏と同盟を結び領...
名古屋:日本庭園を眺めながらの大人な和フレンチ【ガーデンレストラン徳川園】
11月から年明けまでイベント多めなくろあり家。結婚記念日の次はくろありのお誕生日(*´ω`)ノ☆ということで、大曽根にある日本庭園「徳川園」のガーデンレストラン徳川園さんでバースデイランチをいただいてきました。眺めの良いお席で落ち着いた大人
2023年9月9日静岡の城巡り1日目は駿府城。天下人、徳川家康は幼少時代に今川義元の人質として19歳までの12年間この駿府城で生活していました。豊臣時代に駿河を両国とした際、徳川家康は駿府城を居城として築城しますが、その後江戸に移封。しかし、徳川の時代となり家督を譲り大御所なった際、再び駿府城に戻ってきます。天下普請によって巨大な城郭があったそうです。現在は櫓と門が復元されています。そして、天守台が現在も発掘調査中です。かなり立派な城郭です。江戸城の天守台は45m×41mでかなり巨大ですが、現在進行形で発掘調査している駿府城の天守台は68m×61mと日本最大の天守台だったことが近年判明しました。徳川家康にとって、駿府城がいかに特別な存在だったかが分かります。東御門はどっしりと重厚感があります。門に使われて...駿府城
大坂の天王寺公園内にある茶臼山古戦場跡を訪ねてみました。公園の入り口には、旧黒田藩屋敷長屋門があります。(碑文)現在中之島三井ビルの場所がおおむね福岡黒田藩の蔵屋敷で、これはその長屋門である。数少ない蔵屋敷遺構の一つで、昭和8年三井ビル建設に際し大阪市に寄贈された。旧黒田藩屋敷長屋門 蔵屋敷は諸大名が自国産物の保管、管理、販売のために設けた藩邸で、明治維新直後には135を数え、交通運輸(水運)に便利な堂...
以心崇伝(いしん すうでん)は、字は以心、法名が崇伝で、南禅寺金地院に住したため、金地院崇伝(こんちいん すうでん)とも呼ばれています。京都南禅寺金地院の慶長10年(1605)の住持となり、徳川家康に仕え、外交事務、方広寺鐘銘事件や寺社行政、寺院法度、禁中並公家諸法度などの起草、キリスト教の禁圧、紫衣事件に関与し、幕府の基礎づくりに貢献しました。黒衣(こくえ)の宰相とも称されましたが、称されましたが、家康の死...
京都の東山にある方広寺は、天台宗山門派の寺で、豊臣秀吉により建立されました。しかし、「方広寺」という寺号は、江戸時代初期の文献には見られず、自然発生的なものとされています。方広寺大仏を発願した秀吉は、正式な寺号を定めておらず、当時は単に大仏(殿)、新大仏(殿)・京大仏(殿)・東山大仏(殿)・京東大仏(殿)・洛東大仏(殿)などと呼ばれていたそうです。天正14年(1586年)大仏殿の造営が開始され、文禄4年(...
元離宮二条城は、慶長8年(1603)徳川家康が京都の守護および上洛じょうらく時の居城として築城した城で、慶長16年(1611)3月28日、家康と豊臣秀頼の会見が行われました。当初、秀頼はこれを秀忠の征夷大将軍任官の際の要請と同じく拒絶する方向でいましたが、家康は織田有楽や高台院を仲介として上洛を要請し、ついには秀頼を上洛させることに成功しました。Wikipediaによると、「前日の27日未明に、福島正則などを留守居役として秀...
10月に休日に会議に出たこともあり、本日24日をお休みにして4連休。ということで、昨日今日で長めに東海道を旅してきました。 前回の続きということで始発で桜海老の由比宿から。 少し進むと登りになって薩埵峠
岡崎の大泉寺は、徳川家康が生まれた翌年、母・於大の方によって創建された寺院です。於大の方が懐妊した際、俊恵蔵主という名僧が岡崎城内の持佛堂薬師如来前で毎日安産の祈願を行いました。家康が無事誕生したことから、俊恵蔵主を開基、安産を祈願した持佛堂の薬師如来を本尊とし、城の東北にあたる場所に大泉寺が建立され、以来安産祈願の信仰を集めるようになりました。開山時の表記は「大仙寺」でしたが、慶長6年(1602)に...
伝通院(傳通院)は、東京都文京区小石川三丁目にある徳川将軍家の菩提寺です。慶長7年(1602)に徳川家康の生母・於大の方が逝去し、伝通院を菩提寺としました。伝通院の墓地の北側に徳川家の墓域があり、於大の方、千姫などの墓が建っています。於大の方の墓家康の生母で、法名は伝通院。於大の方は享禄元年(1528)三河刈屋城主・水野忠政の娘として生まれ、天文10年(1541)岡崎城主・松平広忠と結婚し、竹千代、後の徳川家康...
関ケ原の戦いに勝利した徳川家康は征夷大将軍となり、上総東金を鷹狩りの宿泊地して八鶴湖に御殿を建てます。家康が植えたみかんの木や大阪の陣決断に至る地元住職との対談など、ドラマには出て来ないエピソードがあります。
東京浅草の浅草寺の総門である雷門、最初の門は平公雅(たいらのきんまさ)によって42年(天慶5)に建てられました。五重塔は、天慶5年(942)平公雅が本堂と共に建立したのを初めとして、その後数度倒壊、炎上に遭いましたたが、その都度再建されました。境内からスカイツリーが見えます。平公雅 たいらの-きみまさ平安時代中期の武人。平良兼(よしかね)の子。平将門(まさかど)の従兄弟。一族と抗争していた将門と対立,天慶(...
富士見櫓から蓮池濠の石垣沿いに遊歩道を北に進むと、植込みの中に松の大廊下跡の標石があります。松の大廊下跡忠臣蔵でおなじみの元禄14年(1701年)3月14日赤穂藩主・浅野内匠頭長矩が殿中で吉良上野介義央への刃傷事件を起こした場所です。廊下に沿った襖戸に「松」と「千鳥」を主題にした絵が描かれていたことから「松の大廊下」と呼ばれ、江戸城で2番目に長い廊下でした。石室抜け穴とか、金蔵とか諸説がありますが...
江戸城跡の天守台が残っていたとは!見取り図を頼りに本丸を見学
皇居の敷地内に江戸城跡があり、天守台も残っています。大奥や松の廊下があった場所へ無料で入る事もできます。皇居東御苑の見所やアクセスなど、実際に歩いた感想も含めて紹介しています。このような場所が実在していた事に感動しました。