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2023年12月11日堺で打ち合わせの後、茶臼山に行き最後は安居神社に向かいました。大阪冬の陣、夏の陣で激戦地となった大阪の天王寺。至る所に戦いの爪痕が残っています。冬の陣で徳川家康が本陣を置き、夏の陣では真田幸村が陣を置いた茶臼山→真田幸村縁の安居神社。これはセットで周るのがマストです。この天王寺一帯が大坂冬の陣と夏の陣において、大激戦の地だったことは前回書きました。豊臣が滅亡することになった大坂夏の陣。そして戦国時代最後の戦。徳川家康率いる東軍と豊臣秀頼率いる西軍。人数には諸説ありますが、西軍は圧倒的に兵力で劣っていました。また、豊臣秀吉が造った難攻不落の大阪城は、冬の陣後に徳川家康によって堀を埋められたことで、防御機能を完全に失っていました。その中で大活躍をしたのが、冬の陣同様で真田幸村です。真田幸...安居神社@大阪府
2023年12月11日昨日の京都城巡りから大阪市内に入ったので、本日は茶臼山陣城にやってきました。夕方の到着だった為、急ぎ足で周りました!大河ドラマ「どうする家康」で大阪冬の陣と夏の陣の回となり佳境を迎えています。縁あってこのタイミングで大阪に来れたので、やはり茶臼山には足を運ぶべきと思い向かいました。茶臼山といえば、大坂冬の陣の際は徳川家康の本陣があった場所。さらに大阪冬の陣の際は、この戦いで日本一の兵(ヒノモトイチノツワモノ)と称されるようになった真田幸村が陣を置いた場所になります。JR南海線の新今宮駅から歩いて15分程で茶臼山公園に到着しました。あべのハルカス前からのショット。線路の奥に見える木々のあたり一帯が茶臼山公園です。最近、NHKの歴史探偵で大坂の陣のVR再現映像を見ました。この茶臼山の前に...茶臼山陣城
#517 大坂の冬の陣from『三河物語』~『どうする家康』を楽しむため
12月3日放送の大河ドラマ『どうする家康』「大坂の陣」の冬の陣の戦闘についてこれを大久保彦左衛門忠教(忠世の弟)の『現代語訳 三河物語 (ちくま学芸文庫)』で…
大坂冬・夏の陣ゆかりの地 どんどろ大師~堀越神社~四天王寺庚申堂~徳川家康本陣跡
心眼寺の近くにある天王寺区の善福寺は、創建当初に「鏡如庵大師堂」と称し、大坂夏の陣の戦死者を弔うために建てられたと伝わるお寺です。通称はどんどろ大師。「どんどろ大師」の語源については、土井利位(どいとしつら)(生没年:1789年~1848年)(下総国・古河(茨城県)藩主)が大坂城代に在任中の期間(1834年~1837年)の屋敷が鏡如庵大師堂の近くにあり、土井利位が鏡如庵大師堂に祀られている弘法大師に深く帰依し、参...
松平忠直は、徳川家康の次男・結城秀康の嫡男で、慶長12年(1607年)、父親の遺領を継いで越前北庄(福井)68万石の当主となりました。慶長16年(1611年)には徳川秀忠の娘・勝姫(天崇院)を正室に迎えます。慶長19年(1614年)の大坂冬の陣では、二万以上の兵を率いて、真田丸の攻撃を行いましたが、進撃命令が出ないのに、無理な突撃を敢行して、真田信繁の罠に嵌り、真田勢の攻撃により大敗。軍令違反の攻撃のうえに大敗という...
大阪市城東区今福に鎮座する三郷橋稲荷神社この辺りは、大坂冬の陣で、後藤又兵衛(基次)、木村重成、が、佐竹義宣、上杉景勝と戦った激戦地でした。神社の前に、「大坂冬の陣古戦場 今福・蒲生の戦い跡」の碑があります。側面には、木村重成・後藤基次奮戦の跡地と書かれています。慶長19年(1614年)、大坂城攻撃のため、現在の天王寺、茶白山に本陣を置いた徳川家康の命により、今福・蒲生は秋田城主佐竹義宣、鴫野には...
大阪天王寺のJR玉造駅から約5分、真田山丘陵に鎮座している三光神社反正天皇時代の創建と伝えられ、天照大神、月読尊、素戔嗚尊を祀り、日本全国で唯一の中風除の神として広く知られています。 「真田丸」が放送された年に行ったので、真田信繁を演じた堺雅人さんのポスターが飾られていました。境内には「真田の抜け穴」といわれる石室状の横穴が残されています。当社は、大坂城の出城(真田丸)のあったところで、慶長19年(1614)...
慶長19年(1614年)、方広寺鐘銘事件をきっかけに、徳川氏と豊臣氏の関係が悪化。豊臣家は、浪人を集める策を採り、九度山の真田信繁の元にも使者を派遣して黄金200枚、銀30貫を贈り、信繁に九度山を出るように説得します。信繁は上田にいる父・昌幸の旧臣たちに参戦を呼びかけ、九度山を脱出して、子の大助幸昌と共に大坂城に入場しました。大坂で信繁の率いた軍は、鎧を赤で統一していたといいます。信繁は、大坂城の最弱部であ...
大坂の天王寺公園内にある茶臼山古戦場跡を訪ねてみました。公園の入り口には、旧黒田藩屋敷長屋門があります。(碑文)現在中之島三井ビルの場所がおおむね福岡黒田藩の蔵屋敷で、これはその長屋門である。数少ない蔵屋敷遺構の一つで、昭和8年三井ビル建設に際し大阪市に寄贈された。旧黒田藩屋敷長屋門 蔵屋敷は諸大名が自国産物の保管、管理、販売のために設けた藩邸で、明治維新直後には135を数え、交通運輸(水運)に便利な堂...
1614年(慶長19)年、方広寺鐘銘事件により、豊臣方と徳川方と対立が激化すると、両家の調整役の片桐且元は、戦争を避けるために徳川家康との和平交渉に奔走しましたが、家康と交渉している間に、大野治長や淀から家康との内通を疑われるようになり、大坂城を追放されてしまいました。これが徳川方の冬の陣の宣戦理由となり、家康は総勢20万の大軍で、秀頼のいる大阪城を包囲させました。片桐且元一方、豊臣方は、旧豊臣系の大名に味...
サライ.jp秀吉と茶々の息子・豊臣秀頼の生涯|「大坂の陣」で家康と戦い敗れた豊臣家の若き後継者
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