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大坂夏の陣終結…豊臣家滅亡す。大坂城山里丸"豊臣秀頼・淀殿ら自刃の地"へ
こんにちは。夢中図書館へようこそ!館長のふゆきです。 全国の城や史跡をぶらり旅する「夢中図書館 いざ城ぶら!」。現在、家康を辿る城旅を展開中…。今日の夢中は、大坂夏の陣終結…豊臣家滅亡す。大坂城山里丸
真田幸村、家康本陣に突撃を敢行!"日本一の兵(つわもの)"真田幸村終焉の地
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大坂夏の陣「天王寺口の戦い」!毛利勝永、徳川諸隊を次々と撃破!家康本陣に迫る
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徳川家康(25)孤城落月の巻!真田幸村ら敗れ去る者の生きざまと勝者の孤独
こんにちは。夢中図書館へようこそ!館長のふゆきです。 今日の夢中は、徳川家康(25)孤城落月の巻!真田幸村ら敗れ去る者の生きざまと勝者の孤独…です。「夢中図書館 読書館」は、小説や雑誌などの感想や読み
大坂夏の陣「八尾・若江の戦い」!長宗我部盛親、木村重成、最後の戦い跡へ
こんにちは。夢中図書館へようこそ!館長のふゆきです。 全国の城や史跡をぶらり旅する「夢中図書館 いざ城ぶら!」。現在、家康を辿る城旅を展開中…。今日の夢中は、大坂夏の陣「八尾・若江の戦い」!長宗我部盛
大坂夏の陣「道明寺の戦い」!後藤又兵衛基次、決死の奮戦"小松山古戦場跡"
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大坂夏の陣「郡山城の戦い」!豊臣を引けない戦いに追い込む大和郡山城襲撃
こんにちは。夢中図書館へようこそ!館長のふゆきです。 全国の城や史跡をぶらり旅する「夢中図書館 いざ城ぶら!」。現在、家康を辿る城旅を展開中…。今日の夢中は、大坂夏の陣「郡山城の戦い」!豊臣を引けない
<篠山城> 城郭建造物”御殿(居館)”を巡る-木造復元された立派な”大書院”
全国の城郭建造物「御殿(居館)シリーズ」をお届けしています。 「御殿」については、「はじめに」の中で、軽く触れましたのでどうぞご覧ください。 全国「御殿」を巡…
#527 秀頼の死は因果応報⁉ from『三河物語』~『どうする家康』を楽しむため
12月10日放送の大河ドラマ『どうする家康』「XXXX」の大坂の夏の陣を大久保彦左衛門忠教(忠世の弟)の『現代語訳 三河物語 (ちくま学芸文庫)』で見ていきた…
#524 第48回「神の君へ」感想~大河ドラマ『どうする家康』
乱世(穢土)をついに戦無き世(浄土)にした大河ドラマ『どうする家康』の最終回の第48回「神の君へ」(12月17日放映) 戦無き世(浄土)を実現した家康の家族と…
#525 大坂夏の陣from『三河物語』~『どうする家康』を楽しむため
12月17日放送の大河ドラマ『どうする家康』「神の君へ」の大坂の夏の陣を大久保彦左衛門忠教(忠世の弟)の『現代語訳 三河物語 (ちくま学芸文庫)』で見ていきた…
大坂夏の陣の戦いの火蓋が切られたのは、慶長20年(1615年)4月26日。豊臣方の大和郡山城攻めからでした。その後、4月29日には紀州路方面での樫井の戦...
#523 和議から夏の陣へfrom『三河物語』~『どうする家康』を楽しむため
12月10日放送の大河ドラマ『どうする家康』「乱世の亡霊」の大坂冬の陣の和議から夏の陣にむけてを大久保彦左衛門忠教(忠世の弟)の『現代語訳 三河物語 (ちくま…
嵯峨野の清凉寺は、嵯峨釈迦堂の名で知られる浄土宗の寺院です。嵯峨天皇の皇子・源融(みなもとのとおる)の別荘・栖霞観(せいかかん)の跡に開かれた棲霞寺にお堂を建立し、釈迦如来を安置したと伝えられています。栖霞観跡本堂(釈迦堂)は、慶長7年(1602年)に豊臣秀頼によって寄進・造営されましたが、嵯峨の大火が類焼し、本堂以下の伽藍は被災。元禄13年(1700年)より、本尊の江戸に始まる各地への出開帳が始まり、また...
<歴史新説>伊達政宗 大坂夏の陣での謀略 ~真田信繁と気脈を通じ家康を討ち天下を取る計略を持っていた~
CG : Masamune Horse riding picture 戦国末期の英雄「伊達政宗」は当時の世界の覇権国スペインのフェリペ三世に外交使節団を派遣している。このローマ法王にも拝した『慶長遣欧使節』はスペインと連携した幕府転覆計画であったともされている。 「伊達政宗」は大阪の陣
大阪の谷町9丁目駅から徒歩5分ほどのところにある生国魂神社(いくたまじんじゃ)生魂(イクタマ)とは、生まれたばかりの魂という意味があるそうです。社伝によれば、神武東征の際、神武天皇が、生島神・足島(たるしま)神を、現在の大阪城付近に祀ったのに始まると伝えています。戦国時代には、石山本願寺に隣接していたため石山合戦で焼失。天正11年(1583年)豊臣秀吉が、大坂城を築城する際に現在地に社地を寄進して社殿を...
1615年(慶長20年)徳川家康は浪人解雇と豊臣家の移封を要求しましたが、豊臣秀頼は父の城を捨てるわけにはいかないと拒否し、大坂夏の陣が始まりました。淀殿は、女性でありながら、甲冑に身を包み、豊臣方の総大将として徳川との戦に臨みましたが、堀を埋められた豊臣に勝ち目はなく、ついに大阪城は落城。淀殿は、秀頼の「豊臣の人間として果てたい」という言葉で、自分もともに自刃することを決めました。家臣に救出された千姫...
徳川方の砲撃に恐れおののいた淀殿は、一転して和議の申し出に応じます。そして、徳川、豊臣両者による和議の話し合いが行われたのは、慶長19年(1614年)1...
大坂冬・夏の陣ゆかりの地 どんどろ大師~堀越神社~四天王寺庚申堂~徳川家康本陣跡
心眼寺の近くにある天王寺区の善福寺は、創建当初に「鏡如庵大師堂」と称し、大坂夏の陣の戦死者を弔うために建てられたと伝わるお寺です。通称はどんどろ大師。「どんどろ大師」の語源については、土井利位(どいとしつら)(生没年:1789年~1848年)(下総国・古河(茨城県)藩主)が大坂城代に在任中の期間(1834年~1837年)の屋敷が鏡如庵大師堂の近くにあり、土井利位が鏡如庵大師堂に祀られている弘法大師に深く帰依し、参...
松平忠直は、徳川家康の次男・結城秀康の嫡男で、慶長12年(1607年)、父親の遺領を継いで越前北庄(福井)68万石の当主となりました。慶長16年(1611年)には徳川秀忠の娘・勝姫(天崇院)を正室に迎えます。慶長19年(1614年)の大坂冬の陣では、二万以上の兵を率いて、真田丸の攻撃を行いましたが、進撃命令が出ないのに、無理な突撃を敢行して、真田信繁の罠に嵌り、真田勢の攻撃により大敗。軍令違反の攻撃のうえに大敗という...
大阪の平野区にある志紀長吉神社は、古事記・日本書紀に載せられている延喜式内社で、真田信繁(幸村)ゆかりの神社です。大坂夏の陣の時、信繁は道明寺の戦いから退却の途中で当社に立ち寄り、軍刀や軍旗を奉納して戦勝を祈願しました。志紀長吉神社の境内ではなく、南側の鳥居のある交差点より少し南に入ったところに、真田幸村休憩所跡があります。門を開けると石碑があります。信繁が、大坂夏の陣の時、南河内誉田において東軍伊...
大坂夏の陣、いよいよ最終決戦・天王寺・岡山の戦いです。慶長20年(1615年)5月7日未明、豊臣方は大坂城を出発し、現在の大阪市阿倍野区から平野区にかけて迎撃体制を布き、幕府方は、夜明け頃天王寺口と岡山口から大坂城へ向け進軍を開始。豊臣軍は、天王寺口には真田信繁、毛利勝永など14,500、岡山口には大野治房ら4,600、別働隊として明石全登300、全軍の後詰として大野治長・七手組の部隊計15,000が布陣。幕府方の配置は、大...
東大阪市の蓮城寺は、豊臣方武将・木村重成の菩提寺で、若江の戦いの際、重成はこの辺りに布陣しました。 母の宮内卿局(一説には右京大夫局とも)は豊臣秀頼の乳母となり、重成は幼少から秀頼の小姓として仕えたといわれています。 慶長19年 (1614) 大坂冬の陣には玉造口を守備し奮戦。 元和1 年(1615) の大坂夏の陣で、長宗我部盛親らと出撃し、八尾・若江で井伊直孝、藤堂高虎と戦って戦死しました。 境内には重成の位牌堂があ...
道明寺合戦は、真田信繁(幸村)軍と伊達政宗軍が激突。片倉小十郎、後藤又兵衛、薄田隼人が激突しました。2014年11月、道明寺駅前に建立された道明寺合戦記念碑当時の道明寺は、現在の道明寺天満宮の階段下南側にあり、この辺りに西軍が陣を布き、真田信繁は、後藤又兵衛、毛利勝永と打倒徳川の誓いの盃を交わしたと伝えられ、道明寺の戦いの舞台になったといいます。道明寺天満宮道明寺天満宮は、土師氏の氏神として創建され、の...
大坂の天王寺公園内にある茶臼山古戦場跡を訪ねてみました。公園の入り口には、旧黒田藩屋敷長屋門があります。(碑文)現在中之島三井ビルの場所がおおむね福岡黒田藩の蔵屋敷で、これはその長屋門である。数少ない蔵屋敷遺構の一つで、昭和8年三井ビル建設に際し大阪市に寄贈された。旧黒田藩屋敷長屋門 蔵屋敷は諸大名が自国産物の保管、管理、販売のために設けた藩邸で、明治維新直後には135を数え、交通運輸(水運)に便利な堂...
B058【徳川家康公との歓談】【徳川家康公との歓談】大坂夏の陣で戦死?家康公>そなたは何者じや?巫女>あなたのことを慕っております。メッセージをください家康公>ワシに何の用じゃあ?そなたは私の子孫か巫女>それに近いものです家康公>ほうほうよーまいったござれ巫女>何か新しい時代に対して殿の御言葉をいただけませんでしょうか?家康公>ふん、何から話そうの寝耳に水で訳のわからんことかも知れぬが世は平和じゃあのう良いことだただ戦を収めたのはワシじゃ戦を好んでせんワシはそれだけはやめたからのうもうしたくないのだワシのような思いはせんでいいみんなもう安気(あんき)に暮らせもう寝れんなどと言う事は無いみんな笑って暮らせば良いワシの夢じゃったみなのう百姓は百姓をやる町民は町民をやりみんなのうそれぞれやれば食っ...【徳川家康公との歓談】大坂夏の陣で戦死していた!?
【観戦日記】伊藤大海︀登板試合!大阪夏の陣!史実反してオリックスは無敗、優勝へまっしぐら
【観戦日記】伊藤大海︀登板試合!大阪夏の陣!史実反してオリックスは無敗、優勝へまっしぐら
1615年5月8日、 大坂夏の陣で豊臣秀吉の息子の秀頼と、 その母淀殿が自害し豊臣家が滅亡します。 (豊臣秀吉死去、天下取りに動く家康) 1598年、豊臣秀吉は62歳で死去します。 この時、跡取りの豊臣秀頼は5歳の誕生日を迎える直前でした。 秀吉の死後、徳川家康は天下取りにむけ、本格的に動きます。 1600年の関ヶ原の戦いで、石田三成勢を破り、1603年には、家康は征夷大将軍に 就任し江戸幕府を開きます。 ちょうど同じ年に秀頼は家康の孫の千姫と結婚します。 この千姫は、秀頼の母親・淀殿の妹・江と2代将軍家忠の間にできた子供で、 これは従妹同士の結婚でした。 1605年には家康は将軍の座を息子の…