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家康を辿る城旅「岩崎城」!池田軍の奇襲"三河中入り"、戦いの帰趨を握った岩崎城の動きとは?
こんにちは。夢中図書館へようこそ!館長のふゆきです。 全国の城や史跡をぶらり旅する「夢中図書館 いざ城ぶら!」。現在、家康を辿る城旅を展開中…。今日の夢中は、家康を辿る城旅「岩崎城」!池田軍の奇襲"三
家康を辿る城旅「楽田城」!秀吉、楽田城に入る…小牧山を包囲する砦群
こんにちは。夢中図書館へようこそ!館長のふゆきです。 全国の城や史跡をぶらり旅する「夢中図書館 いざ城ぶら!」。現在、家康を辿る城旅を展開中…。今日の夢中は、家康を辿る城旅「楽田城」!秀吉、楽田城に入
名古屋の北に位置するのが小牧市です。 小牧市の中央にこんもりとした小牧山があり、その頂上に小牧山城が鎮座しています。 小牧山城まで登ってみることにしました。 小牧山は戦国時代の小牧・長久手の戦いの舞台です。 小牧・長久手の戦いは、天正12年(1584年)3月から11月にかけて、羽柴秀吉陣営と織田信雄・徳川家康陣営の間で行われた戦い。尾張北部の小牧山城・犬山城・楽田城を中心に、尾張南部・美濃西部・美濃東部・伊勢北・紀伊・和泉・摂津の各地で合戦が行なわれた。 また、この合戦に連動した戦いが北陸・四国・関東でも起きており、全国規模の戦役であった。名称に関しては、江戸時代の合戦記では「小牧」や「長久手…
家康を辿る城旅「小牧山城」!決戦迫る…家康が本陣を敷いた信長ゆかりの堅城
こんにちは。夢中図書館へようこそ!館長のふゆきです。 全国の城や史跡をぶらり旅する「夢中図書館 いざ城ぶら!」。現在、家康を辿る城旅を展開中…。今日の夢中は、家康を辿る城旅「小牧山城」!決戦迫る…家康
#357 第31回「史上最大の決戦」感想~大河ドラマ『どうする家康』
家康対秀吉、最初で最後の直接対決の2023.08.13の大河ドラマ『どうする家康』の第31回「史上最大の決戦」について見違えるような覇気をまとった戦国の英雄、…
#367 第32回「小牧長久手の激闘」感想~大河ドラマ『どうする家康』
ついに直接対決の2023.08.20の大河ドラマ『どうする家康』の第32回「小牧長久手の激闘」について徳川四天王勢ぞろい!距離が離れる石川数正勝負のカギは、織…
#386 小牧・長久手の戦い from『三河物語』~『どうする家康』を楽しむため
家康と秀吉が激突した「小牧・長久手の戦い」について、大河ドラマ『どうする家康』では8月13・20日と繰り広げられていました。それを大久保彦左衛門忠教(忠世の弟…
徳川家康(10)無相門の巻!家康と秀吉がついに激突「小牧・長久手の戦い」
こんにちは。夢中図書館へようこそ! 館長のふゆきです。 今日の夢中は、徳川家康(10)無相門の巻!家康と秀吉がついに激突「小牧・長久手の戦い」…です。 「夢中図書館 読書館」は、小説や雑誌などの感想や
#410 難航する秀吉と家康の和議~『松平家忠日記を読む』から見る
8月20・27日の大河ドラマ『どうする家康』では描かれていた家康と秀吉の最初で最後の直接対決の”小牧・長久手の戦い”後の和議の流れを『家康家臣の戦と日常 松平…
1.犬山城の沿革犬山城は織田信長の叔父である織田信康が天文6年(1537)に木下城を移して築城したと伝えられています。こののち江戸時代初期にかけて城主はめまぐるしく入れ替わりました。天正12年(1584)に小牧・長久手の戦いの際には、緒戦で
~治部少(石田三成)に過ぎたるものが二つあり 島の左近と佐和山の城~ これを戦国時代の日本の武将である石田三成(1560-1600年)に対する評価だと 受け止めると、こんな印象にもります。 ~参謀役の島左近(生年不詳-1600年)と領地の佐和山城は、石田三成という人物には ...
小牧長久手の戦いをメインに、解説してくれる ホットスポットです。映像を使って、信長目線、秀吉目線、家康目線で解説しています。令和5年にリニューアルしたばかりで、わかりやすく展示し紹介しています。
【清和源氏】編『新田一族』章「徳川氏」節 49.徳川家康・三十七
羽柴秀吉は、滝川雄利を使者として、浜松城に送り、徳川家康と講和しようと試みた。徳 川家康は、返礼として、次男の於義丸、即ち、結城秀康を秀吉の養子にするために…
皆さぁ〜ん、大河ドラマ「どうする家康」見てますかぁ〜昨日アップする予定だったのに、疲れて見てる途中で寝てしまって一週遅れたねって第32話の感想ぉ〜!羽柴秀吉軍…
【どうする家康】#32 四天王が勇躍、小牧長久手で会心の一撃の徳川軍。でもね?
天下人織田家の看板、変わりつつあるのに NHK大河ドラマ「どうする家康」の第32回「小牧長久手の激闘」が8/20に放送された。公式サイトからあらすじを引用する。 家康(松本潤)は秀吉(ムロツヨシ)10万の大軍に対し、あえて前進し、小牧山城に兵を集めた。互いにどう動くか探り合いが続く中、康政(杉野遙亮)は秀吉の悪口を書き連ねた立札をばらまいて秀吉を揺さぶる一方で、城の周辺に謎の堀を作り始める。徳川軍が守りに入ったと考えた池田恒興(徳重聡)は、秀吉に、家康を引っ張り出すため岡崎城を攻撃するという策を献上。進軍を開始するが、まさにそれこそが家康の狙いだった。(これまでのあらすじ 大河ドラマ「どう…
【清和源氏】編『新田一族』章「徳川氏」節 48.徳川家康・三十六
四国では、6月11日、長宗我部元親が、十河存保の十河城を落し、讃岐国を平定した。 第二次十河城の戦いである。 徳川家康は、長宗我部元親に「淡路・摂津・播磨を…
浜松秋葉神社は、徳川家康が永禄十三(1570)年正月浜松城入場の際、秋葉寺第二十五代別当、叶坊光幡を浜松城下へ引具し、叶坊の願いを聞きいれ、天竜区春野町の秋葉権現堂を勧請したことがはじまりです。御前崎市から湖西市に至る地域一帯の秋葉信仰の中心としての役割を担い、家康が勧請した神社として、以後歴代の浜松城主の崇敬も厚く、多くの灯篭が寄進されています。三州西尾城主松平和泉守源乗寛年号 文化七年(1811)の灯籠こ...
蟹江城合戦の舞台となった蟹江城址は、JR関西本線蟹江駅下車徒歩15分ほどのところにあります。蟹江城は、永享年間(1429~1440)に北条時任により築城されました。戦国時代には、本丸、二の丸、三の丸の三郭(さんかく)があり、大野、下市場、前田の三つの支城がありましたが、天正12年(1584)の蟹江合戦において、織田・徳川連合軍により落城、翌年の大地震で壊滅し、今は石碑と井戸を残すのみです。蟹江城合戦(蟹江合戦)とは、...
久岳山安昌寺は、小牧・長久手の戦いの後、雲山和尚が戦死者を手厚く供養したことから、後に尾張藩主をはじめ多くの藩士が当寺を訪れ、合戦にまつわる各種の書付を残しました。また丹羽氏次の田畑寄進状などの文書やうわばみという大蛇の説話絵馬など美術工芸品も伝わります。8月10日、観音堂の九万九千日の祭りには多くの人で賑います。天正12年(1584)小牧・長久手合戦がこの地で終戦となったので、首塚・耳塚が残っています。...
現在、血の池公園となっているところは、小牧・長久手の戦いの時、徳川家康方の家臣・渡辺守綱らが血のついた槍や刀を洗った池がありました。この池には「毎年、合戦のあった4月9日に池の水が赤くなる。」という伝説が残り、「血の池」と呼ばれていました。この池を埋め立て、整備されたのが、「血の池公園」で、住民の憩いの場になっています。現在は池はありませんが、公園の中の低くなっているのが、池の名残りです。公園の奥に...
天正12(1584)年に徳川家康と羽柴秀吉が激烈な戦いを繰り広げた小牧・長久手の戦いの長久手の主戦場跡地は、現在、「古戦場公園」として整備され、国の史跡に指定されています。園内には小牧・長久手の戦いで戦死した池田恒興、元助親子の塚や郷土資料室があります。古戦場公園郷土資料室で、レンタサイクルを借りて、長久手古戦場の史跡巡りをしてきました。勝入塚勝入塚は、池田恒興(勝入)が戦死した場所と伝えられています。尖っ...
愛知県春日井市にある太清寺(たいせいじ)。かつては醍醐山龍源寺と呼ばれ、徳川家康の逸話が伝えられていることで知られます。天正12年(1584)の小牧・長久手の戦いで、徳川家康が小牧山から長久手に向かう折、当地の阿弥陀堂で休憩しました。家康が「ここは何という所か」と尋ねたため、庄屋の長谷川甚助が「勝川村にございます」と申し上げたところ、「勝川とな、これは吉祥、縁起のいい名だ」と喜びました。また、そこで牡丹餅を...
8月20日、大河ドラマ「どうする家康」で、「小牧・長久手の戦い」の場面が放映されました。 正確には、14日、20日、27日、合わせて3週に渡って関連の物語の、放映です。 小牧・長久手のローカルな戦いと思っていたら、実は北陸、伊勢、近畿なども巻き込んでいるのですね、そこまではドラマには出てきませんが、(ドラマの中の地図にはあったような気がします。) 秀吉側についた池田恒興、森長可という名だたる武将が戦死したこと、秀吉の中入作戦の裏をかいた家康側の四天王の活躍、などがメインでした。 一見家康の勝ちのようですが、秀吉のこの後の動きが、流石!な感じもあります。(これは来週のようです。) ドラマで、小牧…
岩崎城の築城年代ははっきりしていませんが、織田信長の父である織田信秀により築城され、属将・荒川頼宗が守備していたとされます。この地「岩崎」は、尾張、三河間を往来する街道の要衝地でした。享禄2年(1529)徳川家康の祖父・松平清康が攻め落としましたが、天文4年(1535)に清康が陣中で家臣に暗殺される事件(森山崩れ)が起こると、代わって、本郷城(日進市)の丹羽氏清が同城に移り住み、以後、丹羽氏が4代にわたって岩崎城主...
小幡城(おばたじょう)は、名古屋市守山区西城付近にあった城です。小牧・長久手の戦いでは、徳川家康が、小幡城を修築し、池田恒興・森長可率いる豊臣方の別働隊を破った後、小幡城に入城しました。現在は宅地となっていて、明瞭な遺構は残っていませんが、駐車場に「小幡城跡」の案内板が設置されています。 小幡城跡大永2年(1522)岡田重篤が築城したといわれ、東西約200メートル、南北約70メートルであった。重篤は織田敏信、...
どうする家康 第32話「小牧長久手の激闘」 ~小牧・長久手の戦い(後編)~
天正12年(1584年)3月17日に起きた羽黒の戦いで徳川家康・織田信雄連合軍が大勝利を収めたあと、徳川軍は小牧山城に、羽柴秀吉軍が楽田にそれぞれ陣を布...
山頂の小牧市歴史館を目指してさらに登っていきます。史跡小牧山主郭地区~織田信長が築いた小牧山城~ 永禄期大手道の石積 大手道から頂上の主郭(曲輪001)に至る主郭地区の史跡整備に向けて、遺構の遺存状況を確認するため、平成16~19年度にわたり4次の試掘調査を実施しました。 大手道の調査では、山側(この説明板の後ろ)の土塁が、小牧・長久手の合戦(天正期)の折に城の防御を固めるため、徳川家康によっ...
【どうする家康】#31 ヒゲ家康の覚悟、秀吉との大戦へ家臣を動かす
老けメイクでロボ感が増した家康公 NHK大河ドラマ「どうする家康」第31回「史上最大の決戦」が8/13に放送され、主人公の神君家康公がいきなり髭付きになり、ビジュアルが変化した。 数え43歳になり、それなりの老け顔にしたらしい。お市の方に死なれたのがあまりにもショックで、外見に影響したという設定か。しかし、42歳から43歳のたった1年で、見た目にギャップがありすぎやしないか。 視聴者向けに、家康公がヒゲを蓄えるようになった理由ぐらい於愛あたりがセリフで語ってくれないかな・・・。ついでに、家康だけでなく家臣たちの衣装もいつの間にかレベルアップしている。本多忠勝の大数珠も登場した。 大河を見ている…
皆さぁ〜ん、大河ドラマ「どうする家康」見てますかぁ〜唯一の直接対決への序曲だねってことで第31話の感想ぉ〜柴田勝家を討ち、さらに大きくなる秀吉。そうなると家康…
愛知県小牧市にある標高86mの小牧山には、かつて織田信長が美濃攻めの拠点として築城した小牧山城がありました。築城から4年後、永禄10(1567)年に信長が岐阜に居城を移したことで小牧山城は廃城となり、家臣団や城下に住む多くの商工業者が城下町を去りましたが、一部の住人はこの地に残り、小規模な町場が存続しました。小牧山城が廃城されて17年後の天正12年(1584年)、織田信雄・徳川家康連合軍と羽柴秀吉軍との間で小牧・長...
小牧市大字の岩崎山砦跡は、天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いで、羽柴秀吉方が築いた砦跡で、稲葉一鉄・貞通親子らが4千の兵を率いて布陣したといいます。砦は、岩崎山の頂上や熊野神社境内にあったと言われています。熊野神社裏の巨石群は、縄文時代の祭事跡ともいわれ、名前の付いた岩がごろごろとあります。中でも有名なのが、県指定天然記念物の花崗岩の巨岩「五枚岩」です。にほんブログ村 歴史ブログランキングに参加...
どうする家康 第31回「史上最大の決戦」 ~小牧・長久手の戦い(前編)~
越前北ノ庄城にて柴田勝家を滅ぼした羽柴秀吉は、織田信長の後継者として日増しに勢力を強めはじめます。勝家とともに秀吉と対抗していた信長の三男・織田(神戸)...
羽黒城は、愛知県犬山市羽黒字城屋敷にあった平城で、源頼朝に仕えた鎌倉幕府の重臣・梶原景時の孫・梶原景親によって築かれました。梶原氏代々の居城として羽黒の地を統治していましたが、織田信長に仕えた梶原景久(景義)が「本能寺の変」で明智光秀と戦い討死し、梶原氏の滅亡にともない廃城となりました。本能寺の変の後、城跡は廃れていましたが、天正12年(1584)、小牧・長久手の戦いの前哨戦である「羽黒合戦」で森長可・池...
天正12年(1584年)3月13日、徳川家康が清洲城に到着したその日、織田氏譜代の家臣で織田軍に与すると見られていた池田恒興が突如、羽柴軍に寝返り、犬山城を占拠しました。犬山城は、木曽川沿いの小高い山の上に建てられた「後堅固の城」で、別名「白帝城」とも呼ばれています。白帝城については、荻生徂徠が、長江流域の丘上にある白帝城を詠った李白の詩「早發白帝城」にちなんで命名したと伝えられています。尾張と美濃の国境...
1.愛知県小牧市小牧市は濃尾平野のほぼ中央、愛知県の北西部で名古屋市の北側に位置する人口約15万人ほどの市です。(小牧市HPより抜粋)2.小牧山小牧市の中心市街地西側に位置する標高85.9m、面積約21haの小山、史跡小牧山へ行ってきました
前回まではこちら⬇️目次天下を競望せず…わしは吉川元春(きっかわもとはる)の三男、広家(ひろいえ)です。天正12年(1584年)1月、大阪城…現在の大阪城「ま…
基本情報 城名:小牧山城別名:火車輪城(かしゃりんじょう)城地種類:平山城主な城主:織田・徳川住所:愛知県小牧市交通:名
城043.犬山城 ~国宝五城の一つ 小牧・長久手の戦いでの秀吉の本城~
基本情報 城名:犬山城別名:白帝城(はくていじょう)城地種類:平山城築城主:織田信康住所:愛知県犬山市交通:名古屋鉄道犬
日本初の磁気浮上式リニアモーターカーの営業路線であるリニモ(東部丘陵線)です。無人で運転されています。 ここはリニモの長久手古戦場駅です。長久手市にあります。 駅の北側にはイオン長久手ショッピングモールがあります。 そしてイオンの西側には駅名にもなった長久手古戦場があります。 古戦場公園 古戦場公園となっています。 ここを中心として長久手市には小牧・長久手の戦いに関連する史跡が点在しています。 小牧・長久手の戦いは羽柴(豊臣)秀吉と徳川家康が直接争った唯一の戦いですね。 小牧・長久手の戦い - Wikipedia 徳川陣営には本能寺の変で織田信長の死後、急速に勢いを増した羽柴秀吉を危惧する織田…
そういえば、朝食バイキングを食べるためにエレベーターで1階に下りて、ドアが開いて出た瞬間に「ワッ!」と驚かされたんだよな。犯人は館内服姿の見知らぬご年輩だったよ。 突然のことに固まっていたら「…あっ、いやっ、」と、何やら言い訳を始めた…ような気がしたけど、「トリコ」の初代メルク並に声が小さくて殆ど聞き取れなかった。 「早朝からこの仕打ち。日頃の行いが悪いせいか?ワイが悪いんか?」と、腑に落ちぬまま朝ご飯を食べて部屋に戻り、チェックアウトをするのでエレベーターを待っていたら、また見知らぬ男の人から「いやぁ、ゴニョゴニョ…だったもので、ゴニョゴニョ…」と、話しかけられた…ような気がする(やはり聞き…
尾張 岩崎城 小牧・長久手の戦いの舞台となった岩崎城で東海古城研究会の見学会が行われました
岩崎城は愛知県日進市岩崎町にあります。小牧・長久手の戦いで羽柴軍が岡崎城へ進軍するのを阻止し、時を稼いで岩崎城の城兵が玉砕・全滅した伝承で知られています。岩崎城で足止めされた羽柴軍は家康軍に背後を突かれて大敗したとされます。当日は東海古城研究会の年次総会が見学会に先立って岩崎城歴史記念会で開催されました。見学会は岩崎城歴史記念館の館長さんの詳しい解説、説明がありました。岩崎城中心部の城郭遺構だけでなく総構の想定域も示されている見学会の当日資料は東海古城研究会の担当役員さんと岩崎城歴史記念館の学芸員さんの資料で構成されたもので、周辺の総構まで示された大変詳しい資料でした。岩崎城主郭を取り巻く堀b土橋から見応えあり!堀bは岩崎城の見どころでした。館長さんが、最近ボランティアさんによって整備されたと説明されました。西...尾張岩崎城小牧・長久手の戦いの舞台となった岩崎城で東海古城研究会の見学会が行われました
にほんブログ村 1584年4月9日、今から438年前。 長久手合戦により、多くの命が奪われました。 写真は、その供養のための首塚です。 首塚は、愛知県長久手市にあります。 首塚は、安昌寺の雲山和
今回は【尾張国】にある 小牧山城 を紹介します。 少し前までこの城はかの織田信長が美濃攻略のための前線基地(※付城)と言うのが通説でありました。 しかしながら発掘など研究が進むと現在は本丸
小牧・長久手の戦の古戦場、長久手市岩作(やざこ) 岩作をやざこって読むんだよ~。へ~。 (私)なんで? (友)なんでかわかんないけど (私)(友)なんでかわかんないけど語感がオモシロイよねぇ。ね~。 元町珈琲の玄関
尾張・小牧山城 発掘調査 現地公開 信長の石垣の城郭の威容がますます明らかに
小牧山城は愛知県小牧市にあります。永禄六年(1563)に織田信長が築いた城としてあまりにも有名ですが、後の小牧長久手の戦いでは徳川家康が改修し陣したとも伝わります。2004年の一次試掘以来発掘調査が継続され、信長の築いた小牧山城に石垣が発見され、今年は第14次の発掘調査が行われ、またまた新たな発見がありました。今回は、新型コロナの感染対策ということで、集合しての現地説明会は行われず11月3日~5日に発掘現場が公開され、説明会資料が見学者に現場で配布されました。※現地公開資料は小牧市HPすでにアップされていますのでダウンロードできます。史跡小牧山主郭地区発掘調査現地説明会資料で検索して御覧ください。小牧山城発掘調査今回の発掘調査区これまでの発掘調査で主郭部分の四周には石垣が何段も築かれているのが検出され、大手道に...尾張・小牧山城発掘調査現地公開信長の石垣の城郭の威容がますます明らかに