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#252 『信長公記』を読むその29 巻14の2 :天正九(1581)年 対武田・伊賀平定
『信長公記』巻14 天正9(1581)年のその2は、徳川家康の対武田勝頼と伊賀平定について 北へ西へ広がる分国 対武田&伊賀平定北畠(織田)信雄肖像武田勝頼出…
1月6日、9:45に到着した田丸駅は、駅舎の新築工事中でした。 田丸は熊野街道と伊勢本街道の分岐点。交通の要衝になります。 そこを押さえる田丸城は、駅から歩いて5分ほど。立派な外堀にぶつかりました。 外堀にそって大手口へ。 土橋の両側の石垣が残りますが、枡形は失われています。 場内に入って右側、村山龍平記念館の背後に、旧三の丸御殿奥書院が保存されています。 維新後農家に払い下げられていたもので、田丸城の郭内にあった建造物の遺構としてとても貴重なものです。 傍らにはC58も保存されています。 田丸城は南北朝時代に築かれたと伝わる平山城。 街道の分岐点であり、伊勢神宮至近の要衝として激しい争奪戦が…
【清和源氏】編『新田一族』章「徳川氏」節 110.徳川家康・九十八
羽柴秀吉は、中国大返しによって、明智光秀に勝利し、主君の織田信長の仇を討った。 織田信長には、嫡男の信忠の他に、次男の信雄及び、三男の信孝を始め、信秀、長次…
「その3」のつづきです。田丸城本丸まで制覇しましたが、その北側にある北ノ丸に向かいます。 北ノ丸には、現在、稲荷神社が鎮座しています。 北ノ丸です。 田丸...
#357 第31回「史上最大の決戦」感想~大河ドラマ『どうする家康』
家康対秀吉、最初で最後の直接対決の2023.08.13の大河ドラマ『どうする家康』の第31回「史上最大の決戦」について見違えるような覇気をまとった戦国の英雄、…
#367 第32回「小牧長久手の激闘」感想~大河ドラマ『どうする家康』
ついに直接対決の2023.08.20の大河ドラマ『どうする家康』の第32回「小牧長久手の激闘」について徳川四天王勢ぞろい!距離が離れる石川数正勝負のカギは、織…
「その2」のつづきです。田丸城本丸に向かいます。 本丸虎口です。右折すると・・・。 おーっ!!! いしがっきー!!!! 虎口に設置された説明板。どうやらこ...
天正地震は、天正13年11月29日に日本の中部地方で発生した巨大地震です。震源や地震の規模には諸説ありますが、揺れの範囲などから見てM8.0級の巨大地震だった可能性もあり、近江の長浜城や美濃の大垣城は全壊、尾張の清洲城も半壊するなどの被害に遭いました。これにより、豊臣秀吉方は、大きな被害を受け、計画していた徳川討伐の計画を取りやめることになり、徳川方と講和への方向に傾いていきます。秀吉は、妹の旭姫を家康...
小牧・長久手の戦いで思わぬ敗北を喫した羽柴秀吉でしたが、ここからが秀吉の本領発揮。織田信雄をあの手この手で懐柔し、天正12年(1584年)11月11日、...
【清和源氏】編『新田一族』章「徳川氏」節 48.徳川家康・三十六
四国では、6月11日、長宗我部元親が、十河存保の十河城を落し、讃岐国を平定した。 第二次十河城の戦いである。 徳川家康は、長宗我部元親に「淡路・摂津・播磨を…
【どうする家康】#31 ヒゲ家康の覚悟、秀吉との大戦へ家臣を動かす
老けメイクでロボ感が増した家康公 NHK大河ドラマ「どうする家康」第31回「史上最大の決戦」が8/13に放送され、主人公の神君家康公がいきなり髭付きになり、ビジュアルが変化した。 数え43歳になり、それなりの老け顔にしたらしい。お市の方に死なれたのがあまりにもショックで、外見に影響したという設定か。しかし、42歳から43歳のたった1年で、見た目にギャップがありすぎやしないか。 視聴者向けに、家康公がヒゲを蓄えるようになった理由ぐらい於愛あたりがセリフで語ってくれないかな・・・。ついでに、家康だけでなく家臣たちの衣装もいつの間にかレベルアップしている。本多忠勝の大数珠も登場した。 大河を見ている…
皆さぁ〜ん、大河ドラマ「どうする家康」見てますかぁ〜唯一の直接対決への序曲だねってことで第31話の感想ぉ〜柴田勝家を討ち、さらに大きくなる秀吉。そうなると家康…
【清和源氏】編『新田一族』章「徳川氏」節 43.徳川家康・三十壱
前述の通り、織田信長が、本能寺の変によって、明智光秀に討たれると、羽柴秀吉が、山崎の戦いで、明智光秀に勝利し、主君の仇を討った。 織田信長の嫡男で、織田家の…
どうする家康 第31回「史上最大の決戦」 ~小牧・長久手の戦い(前編)~
越前北ノ庄城にて柴田勝家を滅ぼした羽柴秀吉は、織田信長の後継者として日増しに勢力を強めはじめます。勝家とともに秀吉と対抗していた信長の三男・織田(神戸)...
天正11年(1583年)、再度挙兵した織田信孝は、兄・織田信雄によって同年4月に居城の岐阜城を包囲され、柴田勝家が北ノ庄城で自害すると、岐阜城を開城して秀吉に降伏し、尾張国知多郡野間(愛知県美浜町)の大御堂寺に送られ、自害させられました。大御堂寺の一院の安養院(あんよういん)「知多四国第五十三番」「開運七ヶ寺第六番」信孝が自害した「信孝自刃の間」があります。辞世の歌「むかしより 主をうつみの 野間なれば ...
大手橋を通って清洲城へ。清洲古城跡の五条川対岸に、平成元年(1989年)に天守閣が建てられ、ふれあい郷土館として郷土文化・文化・歴史・産業展示室を設け、芸能文化館・黒木書院、日本庭園・土蔵・大手門等が作られました。室町時代、尾張の守護職であった斯波義重が下津城(稲沢市)の別郭として建てたのが清洲城の始まりといわれています。戦乱により、下津城が焼失後、文明10年(1478年)守護所が清洲に移転することにより、清洲...
元々は清洲城下の現在地(旧北市場村)に總見寺がありました。現在の清洲の總見院は、慶長15年(1610)の清洲越しにより名古屋に移った總見寺址に再興した寺です。当寺には、織田信長の焼兜が寺宝として伝わっています。總見院の由緒によると、「織田信雄が父・信長を弔うために伊勢国桑名郡の安国寺を引き取り、忠嶽和尚を開山に迎え天正十一年(1583)に現在の地に「景陽山総見寺」を建立。しかし、慶長十五年(1610)「清須越し」によっ...
二の丸へと進んでいきます。二の丸址二の丸跡には、豊臣秀吉が建立した織田信長本廟があります。ここからは、立ち入り禁止。ズームで撮ります。織田信雄四代供養塔次は本丸に進みます。本丸跡本丸は、礎石などから、京都御所の清涼殿と似た構造であったことが判明しており、天皇の行幸を想定した建物と考えられています。 本丸跡 天主台を眼前に仰ぐこの場所は千畳敷と呼ばれ、安土城本丸御殿の跡と伝えられてきました。東西...
ひょんなことから戦国合戦にまつわるエピソードを一つ思い出しました。 ただ全体として、非常に面白おかしいお話になっているので、どこまでが史実 なのかについては筆者には判断が付きません。 「本能寺の変」(1582年)によって織田信長(1534-1582年)が倒れたその後の出来事...
今日は三重県にある 田丸城【伊勢国】の紹介です。 場所は現在の三重県の玉城町にあって、今でも天守台など本丸の石垣が良好に残っております。 この城は南北朝時代の北畠氏が起源で、時代が戦国期に移
清洲の総見院は、織田信雄が清洲城主の頃、父・信長の菩提寺として建立した寺でしたが、清洲越により大須(名古屋市中区)に移りました。現在の寺は、1644年、徳川義直の開基で、総見寺第3代住職・みん山和尚の隠居所として始まったと伝わっています。境内には、信長・義直・みん山の墓碑3基があり、寺には織田信雄が本能寺の変の後、本能寺の焼跡から探し出したといわれる信長着用の兜が保管されているそうです。にほんブログ村...
世界遺産・富岡製糸場から小幡城跡の楽山園、織田氏七代の墓そして関東管領上杉氏の平井城跡ラン
飛び石連休だったから休んで旅ランしちゃいました。 今日行ったのは上州は富岡。 そう、世界遺産の富岡製糸場があるとこです。 駅から1キロもないとこにありました。 今日はラン目的なので入らず入り口か
今日も三度【伊勢国】で 松ヶ島城 であります。 いよいよ伊勢国に3つあったと伝わる最後の五重天守は、この松ヶ島城であります。 もろんこの城主もかの織田信長に関係しておりまして、その次男である信