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久々の、和歌山県紀ノ川市からの〜岩出〜根来〜🛻💨😉 in 南大阪 泉州 岸和田市 網戸工事 & アルミサッシ屋 ONEスタイル (ワンスタイル )
外構工事の打ち合わせで、久々に 行って来ました〜🤗犬鳴山を超えて〜
何故に白河に、印地の党ができたのだろうか?実はよく分かっていない。以下は個人的な見解になるのだが、白河には平安期、法勝寺を代表とする六勝寺が建てられていた。200年余りで廃れてしまい、今は跡形も残っていないが、白河期に建てられたこれらの寺は、国王の氏寺としての位置づけで格式も高かった。こうした白河の地に、神人を母体とする印地打ちたちが生まれたのは必然であったのかもしれない。 では、彼らは何をして食べていたのか?これもよく分かっていない。当然、白河には田畑があり、農民たちが住んでいた。だがこれら「きちんとした」自営の農民たちが、印地の党を形成していたとは思えない。本百姓や脇百姓ではない、下人層だ…
上杉本「洛中洛外図」において、御所はどのように描かれているのか?どうやらここでは正月の風景を描いているらしく、前庭において元日節会の行事である舞楽が行われている様子を見ることができる。そしてこの庭には、真っ白な砂が敷き詰められているのが分かる。江戸時代の文献には「この白砂は白川の源流、白川山の石を細かく砕いて砂としたものを使った」とある。 上杉本「洛中洛外図」より。禁裏の御庭には、目にも鮮やかな白い砂が敷き詰められているのが分かる。 瀬田勝哉氏はその著書「洛中洛外の群像」の中で、甲子園の砂のように、御下がりの禁裏の白砂が尊いものとして、京土産に使用された例を紹介している(その白砂は結局、偽物だ…
倭寇と根来の行人。一見関係なさそうだが、意外にも少しあるのだ。このシリーズでは倭寇と根来行人とのかかわり、そして当時の国際的なネットワークについて見てみようと思う。 まず倭寇には「前期倭寇」と「後期倭寇」がある。なぜ2期に分かれているのかというと、前期と後期では様相が異なっていたからである。連続して変質していった、というよりも、両者は全くの別ものなのである。 まずは前期倭寇から。年代的には14世紀~15世紀にかけて。記録によると1350年4月、100余艘の倭船が順天府にある漕船を襲った、とある。これまでも松浦党などによる散発的な襲撃はあったようだが、ここまで大規模かつ本格的な襲撃は初めてだった…
前期倭寇のピークは、1376年から1389年にかけての13年間である。朝鮮半島における記録を見てみると、それまでは年にひとケタ、多くて年に10回ほどであったのが、1376年に12回を数えた後、翌77年からは29回、22回、15回、17回と、ふたケタ台が当たり前の状況が続き、この13年間を平均すると年に15.3回という襲撃回数になる。記録に載らない小規模なものもあっただろうから、受けた被害は相当なものだったろう。 なおこの時期、中国は元王朝の崩壊→明の建国、といった混乱期にあたる。特に倭寇に関する元代の史料の多くは、内乱で失われてしまったようで、中国側の記録には不備が多い。ただ朝鮮半島ほどの被害…
倭寇に参加した根来行人たち~その③ 李氏朝鮮が払った代償と、三浦の乱
1443年に嘉吉条約が結ばれたことによって、前期倭寇は終息した。だが、この条約は李氏朝鮮にとっては高くつくものであった。例えば、対馬が貿易のために訪朝した際には、その滞在費、そして交易品の運搬費用は、全て朝鮮側の負担になった。交易品を運ぶ任を負わされた、街道沿いの住民たちの負担は大きく怨嗟の的となった、と記録にある。こんな不利な取り決めに朝鮮側が甘んずるを得なかったのは、倭寇による略奪被害がそれだけ厳しかった、ということであろう。 そもそも農本主義が国是であった李氏朝鮮は、同時代の日本ほど商品経済が発達しておらず、交易も市場に任せない官貿易であったから、抜け目のない商人たちのいい食い物となった…
16世紀の中国沿岸。福建省・広東省・浙江省などでは、海運を使用した密貿易が盛んに行われていた。福建省に至っては、人口の9割が何らかの形で密貿易に関わっていた、とある。明代の中国には「郷紳」という、中央から派遣されてくる現役官僚と連携して、富を蓄える官僚OBの大地主たちがいた。彼らは資本家でもあったから、密貿易にも進んで携わって利を追い求めたのである。 朝貢以外は貿易を認めず、というのが明の祖法であったから、しばしば海禁令が出されたのだが、効き目はほとんどなかったようだ。商品流通経済が進んでいた中国にとって、そもそも海禁という制度自体に無理があるのだ。中期以降の海禁令に至っては、中国人同士の海運…
倭寇に参加した根来行人たち~その⑫ 史上最大の倭寇船団を率いた男・徐海と、日本人倭寇たち(中)
暴風でいきなりケチがついたとはいえ、依然もの凄い数である。何しろ最終的に浙江省を中心に暴れまわった倭寇の数は、2万と伝えられているのだ。いちどきに出航したわけではなく、幾つもの船団に別れ、三々五々日本を発ったので嵐に遭わずに済んだ船団もいたのだろう。また日本から来襲した数よりも、現地で蜂起した数の方が多かったはずだ。 既に大陸入りをしており、各地で越冬していた倭寇たちもいた。沙上では、正月早々から倭寇居留地を攻めてきた官軍と戦いこれに大勝、1000人余りの官兵を殺している。これらは日本から襲来してくる略奪船団と呼応する形で、3月には分散して各地で略奪行為を始めるのだ。 日本からの船団は、五月雨…
倭寇に参加した根来行人たち~その⑤ 双嶼壊滅と後期倭寇の始まり
双嶼の繁栄は長く続かなかった。先の記事で「略奪などはそんなには行っていなかった」と書いたが、それも1546年までのことだった。この年から翌47年にかけて、密貿易商の親分格であった・許棟兄弟が突如70余隻の船団を率いて、浙江省の沿岸地帯を襲い始めたのである。 町を襲い、その地の富豪を誘拐し身代金をせしめる、などの暴挙に出た理由は、多額の借金にあったようである。許棟兄弟は4人兄弟であったが、うち許一と許三が海難事故にあってしまった。それによる損害を挽回するため、双嶼におけるポルトガル人の親玉のひとり、ランサロッサ・ペレイラから出資を募って、日本に向けて密貿易船を送り込む。だが、思ったように利が上が…
倭寇に参加した根来行人たち~その⑥ 日本に本拠を置いた王直と、杉乃坊算長
双嶼が壊滅した時、王直はどうしていたのか?実は彼は、既に双嶼に見切りをつけていたらしく、1547年頃から日本の五島列島に拠点を移していた、という説がある。それによると王直は、本拠を双嶼に置いていなかったことを幸い、蘆七や沈九、陳思盻(ちんしけい)らといった双嶼の残党集団を壊滅させ、うまく立ち回って現地の官憲の信頼を得ることに成功したらしい。 ライバルを潰してその船団を吸収し、ますます大規模化した王直の船団は、双嶼近くの瀝港(れきこう)に本拠を置き、現地の官憲・郷紳らと結託し、盛んに密貿易を行った、とある。人民の中には、進んで酒米や子女を与える者もいたし、官兵の中にも紅袍や玉帯を贈る者までいたと…
さて、後期倭寇である。明が密貿易の本拠地である双嶼を撲滅させた。その結果、食えなくなった密貿易グループによる略奪が激化する、という逆効果をうむ。そして日本に居を移した王直や、若いころ大隅に住んでいた除海を筆頭に、鄧文俊、林碧川、沈南山などといった、略奪行の敏腕プロデューサーらに誘われる形で、多くの日本人が後期倭寇に参加することになる。 これに参加した日本人だが、「籌海図編(ちゅうかいずへん)」によると、メインは薩摩・肥後・長門の人が多く、これに次いでその他の九州各地と、紀伊・摂津の人である、とある。ちなみに「南海通記」という書物において、伊予の村上海賊衆が倭寇に参加していた旨が述べられているが…
倭寇に参加した根来行人たち~その⑧ 倭寇たちの略奪ツアーの行程
こうした倭寇の略奪船団はどの程度の規模で、どのようなルートを辿り、どう行動したのだろうか。典型的なパターンを見てみよう。 まず倭寇の親分たちが、南日本を中心とした各地で兵を募る。それぞれ懇意にしている地域(縄張り?)があったらしく、前述した陳東の顔が利いたのは薩摩だったし、除海は大隅や種子島だった。いずれにせよ、船団の集合場所は五島列島で、ここが略奪コースの起点となる。入り組んだ地形で湾が多く、船の停泊には絶好の地であった。王直も自身は平戸にいたが、配下の船団の根拠地は五島に置いていた。 各地より三々五々集まってきた船が揃い、予め決めておいた日時になると、出発である。風向きの関係上、季節は3月…
倭寇はその主体が日本人だったり、中国人だったり、はたまたポルトガル人だったりしたわけだが、果たして彼らはどの程度、強かったのであろうか。「そりゃ、集団の性格と規模によるでしょ」という突っ込みは正しいのだが、それを言ってしまうと話が終わってしまうので、試しにいくつか事例を拾って見てみよう。 1557年3月、海塩に布陣していた倭寇が、洪水発生時に小高い丘に陣取って、急造の堤を造成している。官軍を攻撃する際にはこの土手を切って水を流し、官兵の多くを溺死させたと記録にある。この集団は、こうした土木工事を行うほどの組織力・技術力を持っていたということになる。 戦術面ではどうであろうか。1558年5月7日…
さて、ここまで倭寇の大物プロデューサーの代表格として王直を紹介してきたが、実は彼は無実だったのではないか、という説がある。略奪をしたのは、あくまでも彼の元部下たちであって、彼自身は関わっていなかった、というものだ。 瀝港(れきこう)が陥落したのが1553年3月である。逃げ出した王直は、そのまますぐに日本に向かっている。ところが彼の手下の暴れん坊の一人、蕭顯(しょうけん)という親分率いる倭寇の一団は、日本に行かずにそのまま江南各地を襲い始めたらしい。4月から始まったこの略奪が、本格的な「嘉靖の大倭寇」の口火をきることになったわけだが、これは果たして王直の指示によるものなのだろうか? 王直の下には…
倭寇に参加した根来行人たち~その⑪ 史上最大の倭寇船団を率いた男・徐海と、日本人倭寇たち(上)
これまでの記事にも何度か名前だけ登場したが、王直と並び立つほどの大物として除海という倭寇の親分がいる。若い頃、叔父の借金のカタに人質として豊前に住んでいた元僧侶で、日本では明山和尚と名乗っていた人物である。彼は実に評判が悪い男である。子分格であった陳東との諍いの話が残っている――以下に紹介しよう。 陳東の元に、攫ってきた一人の女性がいた。一緒に暮らしているうちに情が移った陳東は、彼女を故郷に帰してやろうとしたのだが、それを聞いた除海が「帰すくらいなら、俺に寄こせよ」と笑いながら言ったので、激高した陳東が剣の柄に手をかけた、というものだ。 他にも瀝港に来てすぐの頃、新参者にも関わらず密貿易をしつ…