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根来戦記の世界 https://negorosenki.hatenablog.com/

 戦国期の根来衆、そして京都についてのブログ。かなり角度の入った分野の日本史ブログですが、楽しんでいただければ幸甚です。

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2022/07/22

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  • 本願寺の興亡 信長死闘編~その⑪ 武田信玄による西上作戦

    顕如と信玄は親戚筋に当たる。互いの妻が姉妹なのである。京の公家・三条公頼には三姉妹がおり、長女は細川晴元へ、次女の三条の方は武田信玄へ、三女の如春尼が顕如に、それぞれ嫁いでいるのだ。 顕如が如春尼と婚約したのは、彼女が生まれた1544年のことで、たまたま信玄が信濃侵攻を本格化させようとしていたタイミングであった。本願寺にしてみれば領国・加賀の宿敵である上杉(長尾)家と対決する方向に、義兄率いる武田家が進んでいったことになる。 事実、武田家が信濃を北上するにつれ、上杉家と対決する姿勢を強めていく。本願寺との関係が強まったのは1565年頃で、武田・上杉間の戦いが本格化してからであった。 さて武田家…

  • 本願寺の興亡 信長死闘編~その⑨ 松永・三好勢の4月攻勢の失敗と、狭まる小谷城包囲網

    こうして激動の1571年(元亀2年)が終わり、72年(元亀3年)になった。前回・前々回の記事でも触れたが、この時点における信長と対抗勢力の勢力図を整理してみよう。 浅井・朝倉連合軍の戦力低下は顕著であるが、この時点では信長も浅井方の本拠・小谷城を力押しできるほど戦力が整っているわけではなかった。それを邪魔する要因は2つ、まずは近江の一向一揆である。 一向一揆は近江中に根を張っており、彼らがバックアップしているからこそ、浅井や六角といった各勢力は延命できているのである。それどころか隙あらばしばしば出撃して、こちらを悩ませてくる始末。これを根絶やしにしたいところであるが、相手は目に見えづらい存在で…

  • 本願寺の興亡 信長死闘編~その⑧ 大阪~加賀間の連絡線を遮断する信長、対決姿勢を強める顕如

    時計の針を少し戻して「比叡山焼き討ち」の少し前、5月頃の近畿の情勢を見てみよう。この頃、大阪では大きな動きはない。しかし大阪以外の摂津・河内・大和方面においては、パワーバランスが大きく変動していた。実はこの年の春頃、大和の松永久秀と河内の三好義継が、信長陣営から離反していたのである。 前記事で紹介した「箕浦の戦い」があった6日後の71年5月11日、松永久秀は同じ信長与党であった畠山秋高の重臣・安見右近を、奈良の「西新屋小屋」に呼び出し自刃させた上、主のいなくなった河内・交野城を攻めたのである(城は落城せず)。 久秀のこの離反に呼応したのだろう、三好義継も三好三人衆と和睦し、(これにより、4年ぶ…

  • 本願寺の興亡 信長死闘編~その⑦ 奮闘する各地の一向一揆と、比叡山焼き討ち

    1570年11月から12月にかけて、信長と反信長で結集した各勢力との間で、一時的な休戦協定が結ばれた。だが前記事で触れたように、願証寺を中心とした伊勢一向一揆がこの時に信長と休戦したかどうかは定かではない。互いに兵を引いて、単に戦闘が行われていない状態だったのかもしれない。 ちなみに北近江で対峙が続く信長・浅井間においては、戦いがすぐに再開されている。翌71年2月には、佐和山城に籠っていた浅井家重臣・磯野員昌が長引く包囲に耐え切れず、信長に降伏開城してしまう。 浅井勢はこのままではジリ貧だ。5月6日、形勢を逆転させんと浅井勢が小谷城から出撃、5000の兵で鎌刃城を攻めるのである。これは思い切っ…

  • 本願寺の興亡 信長死闘編~その⑥ 大阪御坊が和睦したにもかかわらず、伊勢一向一揆はなぜ戦い続けたのか?

    前記事で述べた通りだとすると、本願寺首脳部としては9月23日に信長が大阪より軍を返した瞬間、「大阪本願寺から脅威を取り除く」という目標を達成したことになる。 実際に和睦したのは11月上旬ではあるが、9月下旬から10月にかけては、戦さの帰趨を見極めていたのであろう。阿波三好勢の摂津上陸もあったし、うまくいけば信長に更なるダメージを与えられるかもしれず、そうなってくれれば一番いいのだ。 しかしそうはならず「志賀の陣」は長期化してしまう。南近江の一揆も概ね鎮まってしまった。六角親子は頼りにならないし、三好勢の動きも今ひとつだ。ならばこれ以上粘っても仕方がないので信長との和睦に応じた、ということになる…

  • 本願寺の興亡 信長死闘編~その⑤ 「志賀の陣」において、真っ先に講和に応じていた顕如

    「志賀の陣」において、反信長戦線を構成していた主力は「三好三人衆」「大阪御坊(本願寺)」「六角氏」「浅井氏」「朝倉氏」の5つの勢力である。 この中で最も弱いのは六角氏で、11月中旬には南近江から駆逐され、にっちもさっもいかなくなって講和に応じてしまう羽目になったのは、前記事で言及した通り。 しかし実のところ本願寺はそれより早く、遅くとも11月12日より前には、信長と和睦していたようなのである。 奈良・興福寺大乗院門跡にして別当でもある、尋憲という高僧がいる。彼は関白であった二条尹房の子でもあったから、中央政界と強いコネクションを持っていた。尋憲は1562年から77年まで15年間に渡って「尋憲記…

  • 本願寺の興亡 信長死闘編~その④ 信長打倒最大のチャンス 「志賀の陣」(下)

    堅田は琵琶湖畔にある、中世から戦国にかけて強大な勢力を誇った港町である。古い記録には「堅田御厨」として、漁民たちが下賀神社に仕えていた記載があることから、古くから湖の民であったことが分かる。のち比叡山の保護下に入り、堅田は琵琶湖水運のハブとなった。 地形を見れば分かる通り、堅田は琵琶湖の最も狭いところに位置している。水上関を置くには絶好の場所であり、何人も堅田の関を通らずして、京や大和に荷を運ぶことはできなかった。また強力な水軍を持ち、琵琶湖の制水権を握っていた堅田は、湖賊都市として非常に繁栄していた。 古代から中世にかけての、琵琶湖の主な水運ルート。基本的には北岸から南岸という流れが主流で、…

  • 本願寺の興亡 信長死闘編~その③ 信長打倒、最大のチャンス 「志賀の陣」(中)

    信長は手持ちの兵力のかなりの部分を投入し、比叡山を囲んでいる。前記事で紹介したように、兵力は織田勢4万に対し浅井・朝倉・一揆連合軍は2万ほどだったと思われる。比叡山上は、相当に込み合っていただろう。 とはいえ、ひとつの城に1万の兵が籠ることだってあっただろうから、我慢できないほどではないのだ。問題はいつまで我慢できるか?であり、そのカギを握るのが反信長勢力の動向なのである。 志賀の陣における比叡山包囲網。「信長公記」によると、信長は持ち駒の殆どをこの包囲戦に投入している。主力は東側の坂本方面にあったが、西側の将軍山・八瀬・大原にまで兵を配し、京へ下るルートも遮断している。相当大掛かりな包囲戦で…

  • 本願寺の興亡 信長死闘編~その② 信長打倒、最大のチャンス 「志賀の陣」(上)

    本願寺に呼応して南下を始めた浅井・朝倉連合軍。この軍勢には六角勢(少数だが)の他、顕如の指示により江北・湖西の一揆勢、更には領国・加賀から動員した、虎の子の加賀一揆勢が加わっており、総数3万にも膨れ上がっていた。織田軍でこの軍勢を阻めるのは、宇佐山城にいる森可成率いる3000以下の兵だけであった。 若年の頃から信長を支えてきた森可成は、勇猛果敢な将でもあった。浅井・朝倉・一揆連合軍の大軍を前にしても、全く怯まない。そんな彼の元に信長の弟・織田信治や、近江の国衆・青地茂綱らも駆けつけてきた。 ただでさえ勇猛な可成は、これで更に気合いが入ってしまったようで、10:1の兵力比にも関わらず城を出て、な…

  • 本願寺の興亡 信長死闘編~その① 各地で蜂起する一向一揆勢、南下する浅井・朝倉連合軍

    1570年9月12日、三好三人衆が籠る野田・福島砦を激しく攻め立てていた織田軍団の兵たち。しかし陥落まであと一息といったところで日が暮れてしまった。攻め手は一旦は退いたが、兵の士気は盛んなままだ。 ――闇の中、織田方の陣で一人の足軽が陣笠を枕にゆっくり体を休めている。先ほどからまといつく蚊が五月蠅いが、野ざらしだから仕方がない。いずれにしても朝までの辛抱だ。この様子だと砦は明日には落ちるだろう。 (どさくさに紛れて、兜首でも拾いたいものよ)、まどろみながらそんなことを考えていたところ、突如として大音響が響きわたった。 すわ夜討ちかと飛び起きて、咄嗟に刀を掴む。いや違う、夜襲ではない。だがしかし…

  • 当ブログ開設4周年 倭寇「タイ・フーサ」の記事PV数が、急激に伸びた理由

    ここ18回ほど「本願寺の興亡 信長死闘編」と題して、中世最後の本願寺門主・顕如について書いてきましたが、あまりに長くなってしまいました。18回目にして、ようやく信長との死闘・石山戦争の開戦にまでたどり着いた、という体たらくです。 そこで急遽シリーズタイトルを変更して、ここ18回の記事を「本願寺の興亡 プリンス・顕如編」に変えさせていただきました。次回からの顕如と信長の対決を、改めて信長死闘編」としてお届けしたいと思います。混乱した方もいらっしるかと思いますが、よろしくお願いいたします。 ――閑話休題―― この7月でブログを開設してから4年経ちました。なんと5年目に突入です。ブログの1日平均PV…

  • 本願寺の興亡 プリンス・顕如編~その⑱ 包囲される大阪御坊、ついに信長との対決を決意する顕如

    阿波から渡海した1万3000の三好三人衆の軍勢であるが、これには讃岐の十河勢、そして紀州の雑賀衆も加わっていた。 十河存保(まさやす)は三好一族の一員であるから加わっても不思議はないが、またしても雑賀衆が傭兵として加わっていたのが興味深い。この雑賀衆を率いていたのは、名高い雑賀孫一であった。 さて新将軍・義昭にとって三好三人衆は実兄・義輝を殺した仇であり、前年の「本圀寺の変」では危うく殺されかかっている不倶戴天の敵である。これを討つべく、義昭は信長に追討令を出す。信長は8月23日に上洛し、2日後の25日には南に向けて出陣。まずは本願系の寺内町・枚方(ひらかた)を屈服させ、この地に軍を駐留させて…

  • 本願寺の興亡・信長死闘編~その⑰ 落窪合戦、続いて姉川合戦で、ひとまず逆境を跳ねのける信長

    1570年6月4日に発生した、六角氏にとっての再興をかけた戦いである「落窪合戦」。これについての史料は極めて少なく、一次史料は「信長公記」のみである。これによると六角氏の主力は甲賀・伊賀武士たちであり、これに雑賀・伊勢の一向一揆勢が参戦していた、とある。ただブログ主的には、先に六角氏と協力して信長と戦った江北十ヶ寺の手勢の幾らかも、これに合流したはずでは、と思っている。 陽明文庫所蔵「信長公記(しんちょうこうき)」。江戸時代初期に成立した戦記物であるが、作者は信長旧臣の太田牛一であり、史料としての信頼度は極めて高い。1568年から1582年まで、15年間の記録を15巻にまとめた形となっており、…

  • 本願寺の興亡・信長死闘編~その⑯ 朝倉攻め~金ケ崎の退き口、目まぐるしく変わる展開に悩む顕如

    過去記事で触れた通り、越前と隣接している加賀を領国化した本願寺は、朝倉氏とは長年の間、宿敵ともいえる関係性であったのだが、69年4月の外交革命によって和睦を果たしている。 その前年の68年9月に、信長による足利義昭を旗印に掲げた上洛戦が行われている。信長は義昭の第15代・室町将軍就任を名目に、朝倉義景に対し上洛を促したが、義景はこれを黙殺。両者の関係性は悪化していた。 本願寺にしてみても信長は脅威でしかなかった。前記事で紹介したように、畿内各地にある幾つかの本願寺系寺内町を上洛直後に武力で脅迫、これを屈服させている。更には69年2月には、大阪御坊のライバル的存在であった都市国家・堺をも完全屈服…

  • 本願寺の興亡・信長死闘編~その⑮ 畿内で躍進する信長、対応に苦慮する本願寺

    室町幕府成立からこの方、地方における最大の権力者は守護大名であったが、1490年頃より本願寺は彼らに対し一歩も引けを取らない存在となる。実際、本願寺は加賀守護・富樫家を滅ぼすほどの戦力を持ち、経済面においては多くの守護をも上回っていた。各地の守護たちは、領国内におけるローカル勢力が一向一揆と結びつくのを心底恐れていたし、それを防ぐ意味でも本願寺門主とは誼を通じたがったのである。 このように我が世の春を謳歌していた本願寺であったが、1540年頃より、全国各地で戦国大名が強大化してくる。新たに台頭してきた彼ら戦国大名の中央集権度は、これまでの守護大名とは比較にならないほど高いものであり、戦力や経済…

  • 本願寺の興亡・信長死闘編~その⑭ 三河に援軍を出せなかった本願寺

    本願寺の強さのひとつに、信仰を軸にしたネットワークがある。特に初期のころは漁労民である「ワタリ」、塩木流し・筏流しなどに従事していた「タイシ」と呼ばれる、川のネットワークを駆使する人々が、河川を通じて各地に信仰を拡散していったことが分かっている。こうして国境を超えて広まっていった結果、各地に寺内町が形成され、領国を跨がる軍事力や経済力を持つことを可能にした。 これら寺内町であるが、地域において強力な勢力を保っていた。直下の寺領においては領主的存在であったし、門徒には流通・商工業者が多かったこともあり、その国におけるひとつの商業圏を確立することも珍しくなかった。 三河一向一揆の主役である「三河三…

  • 本願寺の興亡・信長死闘編~その⑬ 三河一向一揆が失敗した構造的理由とは?

    ここまでの話をまとめてみよう。 14~15世紀は「一揆の時代」である。「土一揆」「国一揆」「惣国一揆」が近畿を中心とした各地で相次いだ。積もり積もった社会構造の矛盾が限界に達し、一揆という形で噴出したのである。 こうした各種一揆が頻発した末に起きたのが、1467年の「応仁の乱」だ。中世から近世の端境期にあたる、戦国時代の幕開けである。各種の一揆はその前段にあたる「プレ応仁の乱」であった、と言えるかもしれない。 この時期に現れたのが、蓮如という稀代のカリスマであった。 蓮如が継いだ頃の本願寺はまだ弱小教団で、またリーダーである蓮如自身が平民的態度で門徒と接する人であったから、教団自体が「同志的結…

  • 本願寺の興亡・信長死闘編~その⑫ 加賀を統治した一向一揆「郡・組」とは

    まず加賀における「郡・組」であるが、両者の関係性には様々な説がある。ブログ主的には惣村を幾つかまとめて組織したものが「組」であり、「組」を更にまとめたものが「郡」であると理解している。 加賀における「郡」は「河北郡・石川郡・能美郡・江沼郡」の4つで構成されていた。組の全貌は分かっていないが、上記の地図では代表的な組名と、その大まかな所在を記載した。河北郡だけ組名が南から番号順になっているのが面白い。どういう次第で決まったのだろうか? これらの組織がいつ成立したかは、よく分かっていない。ただ富樫家と戦う前あたりから「河北一揆郡」や「江沼一揆郡」という言葉が史料中に現れているので、この頃には既に原…

  • 本願寺の興亡・信長死闘編~その⑪ 一向一揆の構造

    恐れを知らないタイトルである。名だたる学者たちが長年に渡って研究してきたジャンルであり、ブログ主のごとき素人が安易に語るべき内容ではないのであるが、当記事では各種論文を読んで、素人なりに解釈したことを述べてみたいと思う。 前記事から続くこれらの記事は、本来であるならば加賀一向一揆を取り上げた「本願寺の興亡・百姓の持たる国編」シリーズ中において説明すべき内容が多く含まれている。執筆当時に端折ってしまっている在為で、こんな形で紹介することになってしまった。ブログ主の能力不足をさらけ出すようで恥ずかしいのであるが、しばしお付き合い願いたい。 加賀一向一揆が如何にして富樫氏を滅ぼし、国を手に入れたか?…

  • 本願寺の興亡・信長死闘編~その⑩ そもそも一揆とは、何ぞや

    今回の記事は「三河一向一揆」そして「加賀一向一揆」から大分後退して、「そもそも一揆とは何か」という話をしようと思う。内容としてはそうとう巻き戻ってしまうのだが、ブログ主の知識と能力では、残念ながらこうでもしなければ、分かりやすい説明ができないのである。少しだけ我慢して、お付き合い願いいただければ幸いである。 さて、そもそも一揆とは何か。一揆には大きく分けて国一揆・惣国一揆・土一揆、そして一向一揆などがある。どれも共通しているのは「守護などの上位支配層に対抗して、下部構造が連合して対抗する」行為であるといえる。 しかしながら本来は、「一揆」という言葉は「力を合わせる」という意味合いなのであって、…

  • 本願寺の興亡・信長死闘編~その⑨ 三河一向一揆(下)遂に三河に来なかった氏真

    氏真が「三河急用」、要するに家康征伐を名目に臨時税を課したのが、63年4月のことである。この増税は「臨時税の免除特権」を持っていた人々すらも対象としたもので、わずかな例外を除いて広く適用されており、今川氏の領国内を大きく混乱させている。しかしそれだけ本気だったということで、東三河の酒井氏ら反家康派の国衆らは、6月に蜂起したわけである。当然のことながら、両者は連絡も取りあっていただろう。 実際、氏真自身もやる気満々だったようだ。三国同盟を結んでいた武田信玄に、三河攻めの援助を正式に要請している。信玄もこれを受けて、大島城の秋山虎繁に書状を送り、「岡崎退治」のために行動を起こすことを指示している。…

  • 本願寺の興亡・信長死闘編~その⑧ 三河一向一揆(中)一向一揆との死闘を制した家康

    1561年4月にスタートした家康の独立と三河統一戦役であるが、実はこの時期は「永禄の大飢饉」とも重なっている。 59年に発生したこの飢饉の規模と期間はどれくらいのものであったか、実のところよく分かっていないのだが、戦役も3年目に入ったところで更に反家康派国衆の蜂起が重なったことにより、松平家は深刻な兵糧不足に陥っていたようだ。三ヶ寺らに兵糧の借用を申し込んだのだが、それが断られたので、こうした実力行使に出たというのが真相のようだ。 この時代、有力な寺院はどこも「寺内における不入権」を持っている。寺内はその寺の領地に等しく、地域を支配する大名や守護といえども、勝手に入ることはできない――ましてや…

  • 本願寺の興亡・信長死闘編~その⑦ 三河一向一揆(上) 三河における本願寺勢力と、家康の状況

    三河の国における宗教勢力は、概ね東と西で分かれている。東三河は曹洞宗、西三河は浄土真宗の力がそれぞれ強かったのであるが、西三河の真宗系寺院の殆どは、13世紀半ばまでは専修寺高田派であったのである。 これが本願寺へと塗り替わっていく契機になったのは、蓮如による上宮寺・佐々木如光の教化だ。地元の大物であった彼の転宗をきっかけに、西三河の高田派寺院は雪崩をうって本願寺派に変わっていったのである。 若年の頃のカリスマ・蓮如と、西三河の傑物・佐々木如光についてのエピソードは、こちらを参照。 さて浄土真宗には「道場」という施設があった。これは各地域の在家信者のリーダーが仕切る、仏事を務める宗教施設のことで…

  • 本願寺の興亡・信長死闘編~その⑥ 本願寺の外交革命 宿敵・朝倉氏との同盟

    1564年に始まった朝倉氏の侵攻も3年目に入ったが、加賀の南半分は奪われたままである。このままにしておくわけにはいかない。66年2月、顕如は戦線を立て直すべく、大阪御坊から最側近にして筆頭坊官である、下間頼総(らいそう)を加賀に派遣したのである。 翌3月、頼総は金沢御坊において、桔梗の紋をあしらった家旗・先惣旗を掲げ、加賀北二郡から集結した軍勢の具足寄り合い(練兵式)を行った。この時に集まった軍勢の煌びやかさは相当なものであったようで、頼総が感嘆した記録が残っている。 この頼総の下で加賀一向一揆は再編成され、改めて朝倉勢に対し戦いを挑んだのである。攻勢は成功し、ようやく敵を越前まで追い返すこと…

  • 本願寺の興亡・信長死闘編~その⑤ 朝倉氏との死闘再び 顕如 vs 朝倉義景(下)

    1555年7月に朝倉勢の加賀侵入から始まった戦役は、翌56年4月にひとまず休戦という形で収まり、加越国境は静かになった――ここしばらくの間は。 1559年12月、正親町天皇の綸旨により本願寺は「門跡寺院」になる。門跡とは皇族・公家が住職を務める寺院のことを指し、寺格としては最上位のものである。顕如は得度する直前に摂関家である九条家の猶子になっているので、十分にその資格はあるのだ。 なお比叡山の名門・青蓮院は名高い門跡寺院のひとつであり、本願寺はその青蓮院の末寺なのである。つまり末寺であった本願寺が、青蓮院と同格の門跡寺院として認められたということになる。 門跡となったことで、本願寺に連なる者た…

  • 本願寺の興亡・信長死闘編~その④ 朝倉氏との死闘再び 顕如 vs 朝倉義景(上)

    顕如は得度した翌日、父・証如の死によって、第11世本願寺門主に就任している。しかしこの時わずか12歳の若年であったから、彼の後見は祖母である慶寿院が務めることになった。少なくとも彼が一人前になるまでは、本願寺の舵取りは策士・蓮淳の実の娘である、この慶寿院が行ったものと見られている。 3年後の57年4月、公家である三条家から嫁(如春尼)を迎えている。三条家の家格は上から2番目の清華家であるから、代替わりするたびに貰ってくる嫁の家格は上がっているのだ。 如春尼は、顕如の嫁になるべく生まれてきた女性であった。生まれてすぐに細川晴元の養女となったうえで、顕如と婚約している。更に嫁入りする直前、わざわざ…

  • 本願寺の興亡・信長死闘編~その③ 巨大化する大阪御坊と寺内町ネットワーク

    1554年に得度し本願寺門主になった顕如。彼の門主就任時の大阪御坊(石山本願寺)であるが、父・証如のきめ細かい治世のおかげもあって、巨大な経済都市に成長していた。1562年に発生した火災では、何と2000軒の家屋が焼けた、とある。その規模の大きさが偲ばれる。 古代から中世を通じて、日本の経済の中心地は京である。しかし16世紀後半は、カネの流れが大阪や堺を中心とする臨海部へと動きつつあったタイミングであり、本願寺はうまくこの流れに乗った形となったのである。(同じように、そうした流れに乗って成功した大名が三好家である) 前記事で紹介したように、大阪御坊は数多くの特権を獲得することに成功、特に商業面…

  • 本願寺の興亡・信長死闘編~その② 本願寺の力の源泉・大阪御坊とは

    前記事で本願寺の収入3つの柱のうち1つ、加賀一揆からの収入(というか仕送り)を紹介した。この記事では2つめの柱を紹介したい。 仏寺におけるいわゆる本寺というものは、それぞれの宗派の門主が在住する寺のことを指す。顕如の時代の本願寺の本寺は、大阪御坊こと石山本願寺である。この巨大な経済都市・大阪御坊そのものこそが、本願寺の財政を支える収入の柱の1つなのである。 まずは大阪御坊の歴史を紐解いてみよう。本願寺の本寺は、長らく続いた貧乏な時代には京・大谷にあったのだが、蓮如の時代に越前・吉崎御坊に、次いで京にほど近い山科の地に移った。これが山科本願寺である。 門主の座を第五子・実如に譲った後、(名目上は…

  • 本願寺の興亡・信長死闘編~その① 本願寺のプリンス・顕如

    旅行記+αが、思ったより長くなってしまいました。まさか13記事まで伸びるとは・・・それにしても旅行に行くと、世界が深まっていいですね。本で読むのと実際に行ってみるのとでは、情報の質が違います。頭の中だけではなく、肌感覚で理解できるというか・・・1週間程度の国内旅行でしたが、学べることがたくさんありました。 3カ月ぶりに本編に戻ります。最近仕事が忙しく、更新頻度も下がってしまいましたが、お付き合いいただければ幸甚です。 さて、これまでカリスマ蓮如の誕生、その布教による爆発的拡大、加賀「百姓ノ持チタル国」誕生、教団の中央集権と戦国大名化、畿内における一向一揆の暴れっぷり、などなどなど、本願寺教団の…

  • 旅行記~その22 北陸旅行記・井波瑞泉寺に立ち寄る

    2025年夏の旅行記(もう年末ですが)、今回の記事で最後になります。 五箇山に前後して、井波・瑞泉寺も訪れました。瑞泉寺は越中における本願寺の要といえる寺でその歴史は古く、1390年に本願寺第5世・綽如(しゃくにょ)によって開基された寺になります。 瑞泉寺大門。本堂は残念ながら明治に入ってすぐの1879年に火災に遭ってしまい、全焼してしまいました。今、建っている建物の殆どは大正時代に再建されたものですが、江戸中期の1785年に建てられたこの大門は、幸運にも火災を免れました。 過去記事でも紹介しましたが、綽如は学問的に傑出した人物であったようです。足利義満に見いだされ、明から送られてきた難解な国…

  • 旅行記~その21 北陸旅行記・五箇山 美男流人・タツノスケ

    合掌造り家屋で営まれていた大家族生活は、これまでの記事で見てきたように、五箇山の生計を支える産業に適した形態だったといえます。特に養蚕に関しては、多くの人出を必要としました。 こうした家には、嫁いでいかなかった家付きの女たち、要するに小姑たちがうじゃうじゃいた、とあります。これは何故かというと、俗に「五箇山千軒」と言われるほど、加賀藩は五箇山の世帯数を一定数に制限していたからです。 他家に嫁いでいく先がないので、必然的に家付きの独身が多くなったわけです。しかしながら、そうした小姑たちが未婚のまま、子どもを作ってしまうこともありました。その場合、世帯主の子どもとして育てられた、とあります。 江戸…

  • 旅行記~その⑳ 北陸旅行記・五箇山 加賀藩の最高軍事機密・「土硝法」とは

    五箇山における塩硝製造ですが、これには誰もが関われたわけでなく、ある条件を満たすものだけが参加できました。具体的には、それなりに大きな家屋を持つ世帯のみです。理由はシンプルで、「古土法」から進化した、この「土硝法(培養法とも)」では、養蚕が行えるほど大きな家屋の床下で行われていたからです。いろいろと試行錯誤した結果、以下のような方法に落ち着きました。 まず比較的アクセス容易な床下に、縦3mほどの穴を掘ります。この穴の底にまず「稗がら」を厚さ15cmほど敷きます。これが底になります。 次に「蚕の糞」と「乾いた土」をよく混ぜたものを約30cm、その上に干し草を約15cmの順番で、層状に何回も重ねて…

  • 旅行記~その⑲ 北陸旅行記・五箇山 彼らの生活を支えた三大産業「製紙・養蚕・塩硝製造」

    五箇山の歴史は比較的新しく、南北朝あたりまでしか遡れません。もちろんそれ以前から人は住んでいたのですが(縄文時代の遺跡が至る所にあります)、公的な政治体制のもとに、はっきりと組み入れられたと確認できるのが、その辺りということになります。 どうもこの時期、南朝サイドの人々が落ち延びてきて、細々と暮らしていた現地の人たちと融合し、在地化したようです。五箇山を代表する神社である白山宮に、南朝所縁の宗良親王や新田一族の霊が祭られていることからも、それが分かります。 その後、本願寺による教化が始まります。この地における本願寺の浸透はかなりのもので、カリスマである本願寺8世・蓮如も訪れたようです。1481…

  • 旅行記~その⑱ 北陸旅行記・五箇山 その厳しい共同生活

    江戸期の五箇山の生活は、相当厳しいものでした。 そもそも五箇山は、深い峡谷沿いに点在する集落の集合体です。まとまった平地がほとんどなく、稲作ができません。猫の額ほどの耕作可能な土地で作られていたのは、主に粟・稗などの雑穀類でした。 この辺りには古くは縄文時代の遺跡があることから分かるように、ただ食っていくだけでしたら生きていけるのですが、年貢を納めるとなると話は別です。米を納められない五箇山は、代わりに産業商品物を育て、それを銭に変えて銭納しなければならないのでした。 具体的には養蚕・紙漉き、そして塩硝製造になります。これら3つに関しては次の記事で詳細をお伝えしますが、この記事ではまずは五箇山…

  • 旅行記~その⑰ 北陸旅行記 流刑地だった秘境・五箇山

    春日山城の旅行記だけで8記事になってしまいした・・・城そのものの紹介というよりも、「苧麻」と「御館の乱」についての内容でしたが。 しかし、まだ旅行記は続くのです。もう少しだけお付き合いいただければ。 本当はこの後、糸魚川のヒスイ海岸に行ってヒスイ拾いをしたり、川船でしかたどり着けない秘湯・大牧温泉に入ったりしたのですが、史跡とは関係ないので割愛します。富山城・増山城にもいきましたが、こちらも割愛。 その後、向かった先は富山県・五箇山です。合掌造りのある村落で世界遺産にも認定されていますが、兄弟分である白川郷のほうが有名すぎて、案外知らない人も多いと思います。ここが実に面白かったので、五箇山とそ…

  • 旅行記~その⑯ 北陸旅行記 「御館の乱」終焉も、深い傷を負った上杉家

    北条勢による坂戸城攻略は失敗し、成すことなく関東に軍を返してしまいます。景虎にしてみれば、これで来年の雪解けまでは援軍の期待はできなくなったのです。状況はようやくにして、景勝に有利になりました。 10月24日、勢いに乗った景勝勢は春日山城から出撃します。御館からは北条(きたじょう)景広と本庄秀綱が出撃、これを迎え討ちますが、100人余りが討ち取られ、旗指物まで遺棄して退却という有様。以降、景虎は御館に逼塞することになります。 景勝にしてみれば、このまま御館を攻めたいところでしたが、手持ちの兵が絶対的に足りません。そこで御館の補給線を断つべく、琵琶島城方面の攻勢を強めます。琵琶島城は鵜川を通じて…

  • 旅行記~その⑮ 北陸旅行記 春日山城での死闘と、形勢逆転を狙う景勝

    御館(おたて)において6000の兵を集めた景虎。一方の景勝は城を占拠したはいいものの多勢に無勢、打って出ることができません。 5月17日、景虎勢は遂に春日山城に向けて進撃を始めます。大将である桃井伊豆守率いる軍勢は全く抵抗を受けることなく、春日山城の千貫門まで達しました。しかしここで景勝勢の待ち伏せに会い、手ひどい反撃を受けるのでした。 戦いがあった「千貫門」は現在の大手道にはなく、搦め手にあたる道にあります。実は戦国期には、この搦め手が大手道として使用されていたようなのです。春日山が廃城になったのは1607年ですが、今ある大手道はそれまでのどこか、1580~1607年の間に新たに造成されたと…

  • 旅行記~その⑭ 北陸旅行記 景勝 vs 景虎 それぞれについた上杉家中らの思惑

    1578年5月、ついに両者の間で戦端が開かれます。上杉家は景勝派と景虎派に真っ二つに割れ、国中で争い始めたのでした。 上杉家中の武将たちや越後の国衆らは、何を拠り所にしてそれぞれの陣営に味方したのでしょうか。双方の陣容を見てみましょう。 まず景勝の利点は何といっても、その血筋になります。由緒正しい上田長尾家を率いる身であり、家格という点ではその資格は十分にあります。しかし利点といえばそれくらいで、数多くの問題を抱えていました。 まず第一に、前記事で紹介したように中央集権志向であったこと。一国を率いる指導者としては、全くもって正しい思考なのですが、既得権益を侵されるのを恐れた多くの家臣たちがこれ…

  • 旅行記~その⑫ 北陸旅行記 上杉氏の居城・春日山城 「御館の乱」が勃発した理由とは?

    1578年3月9日に倒れた謙信は、意識が戻らないまま4日後の13日に死亡してしまいました。謙信は前年の9月23日に「手取川の戦い」で織田家の北陸方面軍・柴田勝家を撃破しており、雪解けを待って新たに軍を起こし、上洛ないしは関東平定の遠征を行おうとしていた矢先でした。 当然のことながら遠征は中止、すぐに葬儀が行われました。出棺の際は、その左右を景勝・景虎らが固めており、この時点では上下の区別なく葬送の儀が行われていたことが分かります。 この後の流れですが、まずは通説の紹介から。 葬儀の後の24日前後、景勝がクーデターのような形で本城を占拠、金蔵を確保します。翌々5月に入り、各所で小競り合いが発生。…

  • 旅行記~その⑫ 北陸旅行記 上杉氏の居城・春日山城 謙信が考えていた、後継ぎ構想とは?

    北条家が無断で武田家と和睦したことを聞いた謙信は激怒、氏政に手切れの一礼を送りつけました。 その怒りたるや凄まじく、同盟破棄の5年後の1576年のことになりますが、将軍・足利義昭が(彼の生きがいである)第三次信長包囲網を更に強化するために、改めて上杉・武田・北条の「三和統一」進めたことがあります。 その時、謙信は「上意であれば武田との和睦には応じよう。しかし北条とは当家が滅亡しようが、将軍に勘当されようが、絶対にありえない」と言って断っています(包囲網自体は成立)。このように謙信は筋の通らない、つまりは「己の価値観に反する振舞い」を最も嫌う人でした。 その怒りの矛先は、氏政の実弟である景虎にも…

  • 旅行記~その⑪ 北陸旅行記 上杉氏の居城・春日山城 機能せず短命に終わった「越相同盟」

    1569年6月に結ばれた、上杉・北条両家による「越相同盟」。これに伴い、翌70年に北条三郎は越後入りします。以後、三郎は上杉景虎として春日山城・三の丸に屋敷を構え、謙信の後継者として遇されることになります。 ブログ主撮影、春日山城・三の丸。奥にある標識が屋敷跡です。しかし各種文献では「景虎は屋敷を二の丸に構えた」とあります。これは何故かというと、現在とは呼び方が違ったためだと思われます。 春日山城の段々畑のようになっている曲輪ですが、現在では下から順に、三の丸・二の丸・本丸と呼ばれています。しかし当時は二の丸・本丸は「本城」と呼ばれ、他と区別されていたようです。現在三の丸とされている部分は、当…

  • 旅行記~その⑩ 北陸旅行記 上杉氏の居城・春日山城 上杉家のお家騒動「御館(おたて)の乱」に至るまで

    リアルが忙しく、なかなか更新できなくなってしまいました。旅行記が続きます。話を春日山城に戻します。登城ルートを辿っていくと、本城部分に到達します。まずは三の丸です。三の丸→二の丸→本丸と段々畑のような配置になっているんですね。 地図上の案内には、三の丸に「上杉三郎景虎屋敷」とありますが、当然建物は残っていません。今回取り上げる「御館の乱」の主人公になります。 歩いてみて思ったのですが、この春日山城、防御施設としては優秀かもしれませんが、何だか粗野というか、洗練された造りにはなっていないような印象です。上杉氏の城はそんなに多く見ていないのですが、築城技術はそこまで高くなかったのではないでしょうか…

  • 旅行記~その⑨ 北陸旅行記 上杉氏の居城・春日山城と苧麻(下)

    前記事で少し触れましたが、謙信は1559年に上洛した際、皇室・公家・幕府要人に特産品である「越布」を惜しげもなく配りまくっています。商品価値を高めるためのプロモーションを兼ねていたという説もあり、越布のいい宣伝になったものと思われます。 それだけ商品の価値が高かったということでもありますが、そもそもこの「越布」、なにゆえ高級品として遇されたのでしょうか? 苧麻布は性質上、染色に向いていない素材でした。絹布と比べるともちろん、のちに登場する綿布と比べても肌触りがゴワゴワしています。つまり繊維が固いということなので、染料が浸透しづらいのです。またこの時代の染料は草木染めがメインだったため濃い色が出…

  • 旅行記~その⑧ 北陸旅行記 上杉氏の居城・春日山城と苧麻(上)

    この猛暑の中、先日(2025年8月中旬)北陸に旅行に行ってきました。東京から新幹線で上越市に入り、現地でレンタカーを借りての旅行です。幾つか趣深い史跡を回れたので、紹介したいと思います。 まずは第一回、春日山城になります。上杉家の居城であり、為景・晴景・謙信・景勝と、戦国期後半から越後の中心地で在り続けました。 一言でいうと、中世の山城です。流石にメジャーな存在なので道は整備されており、八合目あたりまでは車で一気に登れます。つまりは遺構が破壊されているということでもありますが、かつての大手道にはほぼ手を付けていないようなので、最小限の被害で済んでいるようです。地元の人が大切に保存しつつ、観光地…

  • 当ブログ開設3周年 解説と分析

    ブログを開設してから3年2か月が経ちました。本来ならば7月にUPしたかったのですが、シリーズ途中だったもので、ひと段落したところで記事をUPした次第です。 なんとまあ、4年目です。とりあえず始めてみたブログですが、現時点で記事数が247記事です。日常を綴るタイプのブログではなく(それらしき記事も僅かにありますが)、専門書や論文を読み込んで、内容を自分なりに消化してから紹介する、というブログなので、それなりに労力がかかります。楽しいから続けていけるのですが。 得た知識を自分なりに整理する意味合いも強いので、閲覧数にはそんなにこだわっていないつもりですが、それでも読者数が増えるのは、はっきり言って…

  • 本願寺の興亡・百姓の持ちたる国編~その⑲ 金沢御堂の設置と、妥協しつつも加賀の統制強化を進める証如

    なかなか門主の言うことを聞かない、加賀門徒たち。石山本願寺が別心衆(つまり本願寺の敵)と認定した大物門徒・洲崎らの討伐を命じても「笛吹けど踊らず」で、加賀門徒らはなかなか動かないのであった。 これは何故かというと、別心衆認定といってもそこに教義的なものは一切絡んでいないからなのである。加賀の内部抗争は全て国人らの所領争いが原因であって、相手を陥れる方法論として「別心衆認定」を利用しているに過ぎないことを、加賀門徒らはよく分かっていたのだ。 ライバルを如何に別心衆として認定するか?その跡職をどうやって奪うか?これが現地勢力の最大の関心事であったわけだが、しかし本願寺側に付いたとしても安心はできな…

  • 本願寺の興亡・百姓の持ちたる国編~その⑱ 力をつける加賀一揆の大物ら、その処遇に苦労する石山本願寺

    1535年11月、畿内全域を巻き込んだ3年にわたる戦役――「天文の錯乱」がようやく終わった。本願寺としては負けに等しい内容の和睦条件であったが、証如自身も戦さに心底ウンザリしていたのだろう、彼の治世後半において本願寺が戦さに主体的に関わることは、二度となかったのである。 ただしこの和睦が結ばれた約1年半後、1537年8月に加賀において反乱が発生している。これはかつて追放された三箇寺の浪人たちが蜂起したもので、超勝寺・本覚寺を打倒し、彼らに奪われた失地回復を目指したものであった。 この騒動を「若松方騒動」と呼ぶが、反乱は加賀の郡組織を主体とする一揆勢にあっという間に鎮圧されてしまったのである。 …

  • 本願寺の興亡・百姓の持ちたる国編~その⑰ 主戦派の暴走、そして粛清された下間兄弟

    1534年3月、下間頼盛によって拉致されてしまった門主・証如。拉致された先、河内国・榎並において証如は頼盛に「細川晴元と結んだ和睦を破棄し、再び戦うよう」と説得されるのである。 そして証如は(状況的に仕方ないことであるが)、説き伏せられてしまったのである。4月に美濃・尾張・三河の門徒宗に動員令を発令、5月29日には前年に結んだ和睦の破棄を表明、本願寺は再び細川晴元と交戦状態に入るのだ。 それにしても、頼盛のかなり強引な荒業であった。彼はなぜこんな行動に走ったのであろうか。 前記事で少し言及したが、前年33年6月に細川晴元・本願寺間で和睦が成ったが、本願寺と同盟関係にあった細川晴国はこれに乗らず…

  • 本願寺の興亡・百姓の持ちたる国編~その⑯ 法華一揆 vs 一向一揆 炎上する山科本願寺

    1532年7月29日、京に突如出現した法華一揆。これに危機感を覚えていたのが、京から山ひとつだけ隔てただけの位置にある山科本願寺である。一向一揆の主力は堺攻めのため出撃していたので、本部である山科とは分断されてしまった形となる。 本願寺も座して見ていたわけではない。8月19日に法華一揆勢と一向一揆勢が山崎方面にて戦っているが、これは2000ほどの規模の摂津門徒らを、山科本願寺に入城させようとする試みであったと思われる。だが数を増した法華一揆勢がこれを迎撃、100~300ほどが討ち取られ敗退している。 8月23日、3回目の打ち廻りで3~4万に膨れ上がった法華一揆は、ついに東山を越え山科盆地に侵入…

  • 本願寺の興亡・百姓の持ちたる国編~その⑮ 暴走する一向一揆 コントロールに苦慮する本願寺

    奈良、つまり大和国は興福寺の力が非常に強い国である。その影響力の強さ故、幕府が守護を置くことができなかったほどで、大和の武士たちも衆徒として興福寺に組み込まれていた。 戦国期に入ると流石に往年の力は落ちてきて、衆徒らの中から「大和四家」と言われる筒井氏・越智氏・十市氏・箸尾氏の勢力が台頭してくるが、それでも興福寺は未だに大きな影響力を持っていた。 7月16日、そんな大和の地にて一向一揆が蜂起する。一揆の明確な発生原因はよく分かっていないのだが、かねてからこの地の本願寺門徒らは興福寺の統治体制に不満を持っていた、ということだろう。奈良の商人・雁金屋(かりがねや)らを指導者とする一向一揆が蜂起、ま…

  • 本願寺の興亡・百姓の持ちたる国編~その⑭ 一揆勢の陣頭にたち、自ら指揮をとる門主・証如

    激戦の末、加賀の三箇寺を下した超勝寺&本覚寺。彼らのバックにいるのは山科本願寺であるが、この時の門主・証如はまだ若年の16歳である。加賀三箇寺を滅ぼすまでの絵図は、彼の祖父・筆頭後見人である蓮淳が全て描いたものであった――その動機は多分に私怨によるところ、大であったのだが。 まだ少年であった証如は、終始山科にいて加賀における戦さの帰趨を見守っていた。この戦役は何しろ、逆転そしてまた逆転、という戦況が目まぐるしく変わるものであったから、さぞかしヤキモキしながら報告を聞いていたものと思われる。最終的には全てうまく行き、加賀三箇寺は滅亡し勝利したわけであるが、まだ少年であった証如はこの時のカタルシス…

  • 本願寺の興亡・百姓の持ちたる国編~その⑬ 加賀三箇寺の滅亡 ルサンチマンを晴らした蓮淳

    1531年8月22日、孝景率いる朝倉勢8300は越前から加賀・江沼郡に侵攻、現地で光教寺勢と合流し、北上を続ける。超勝寺・本覚寺勢はこれに抗し得ず、手取川のラインまで撤退せざるを得ない。大河を天然の掘に見立て、北岸で食い止めようとしたのだ。 しかし10月27日には朝倉勢の先遣隊が手取川を渡河、北岸にいた超勝寺・本覚寺勢と一戦交え、700~800人を討ち取るという戦果をあげ、ここでも大勝するのだ。 朝倉勢は更に番田・士室・藤塚など、北岸一帯の諸村に火をつけるなどして暴れまわる。だが天候が急変したこともあり、渡河していた部隊を一旦、南岸に引き上げさせることにする。大河である手取川が増水してしまうと…

  • 本願寺の興亡・百姓の持ちたる国編~その⑫ 加賀三箇寺 vs 超勝寺・本覚寺の死闘「享禄の錯乱」

    そもそも越前にあった超勝寺・本覚寺だが、その歴史は古く、隣国・加賀においても多くの門末を抱えており、特に白山山麓にある山之内庄に門徒が多かった。 この山之内門徒衆は、加賀一向一揆の中でも精強を以て知られた集団で、その頭目は二曲(ふとげ)城を拠点とする、土豪の山之内右京進である。 蓮悟ら「加賀三箇寺」の挙兵を知った超勝寺・本覚寺勢は、山之内庄に立てこもることにする。幸いここは山に囲まれた谷間なので、守るに有利な地勢なのだ。 対する三箇寺勢は、これまた有力国人であった洲崎氏・河合氏らの加勢を得て山之内庄を攻撃する。 まず両軍は「長嶺で戦った」とあるが、この長嶺は山之内庄を囲む尾根筋のことだと思われ…

  • 本願寺の興亡・百姓の持ちたる国編~その⑪ 「今まで冷遇されていた僕が門主の筆頭後見役になったので、これまで馬鹿にしていたやつらをざまぁ!します」の巻

    まだ幼い証如の補佐として成立した、「題名の五子」制度。この5人の中で、実績・影響力共に突出していたのは、北陸における最高司令官・蓮悟であった――実如が亡くなるまでは。 1519年に実如によって定められた、「一門一家制度」のルールをもう一度確認してみよう。まず絶対的頂点に立つのは門主である。その兄弟を「御連枝」、その嫡流つまり跡取りが「一門」、嫡流でない次男以下が「一家」である。要するに、当主の血筋に近ければ近いほど偉く、下位は上位に絶対的に従わなければいけない、というルールなのである。 新たに門主になった証如には、兄弟はいない。まだ10歳だから、当然子どももいない。実父である円如は既に死んでい…

  • 本願寺の興亡・百姓の持ちたる国編~その⑩ 「このうらみ、はらさでおくべきか」ルサンチマンの塊・蓮淳という男

    まだ幼い証如の補佐として成立した、「題名の五子」制度。5人中3人は「百姓の持ちたる国」加賀から選ばれた、いわゆる「加賀三箇寺(さんかじ)」の住持であり、実如の弟たちでもある。この加賀三箇寺であるが、そもそも如何にして成立してどのように発展していったのか、その経緯を振り返ってみたい。 蓮如が加賀との国境にほど近い、越前国・吉崎の地に御坊を創建したのが、1471年のことである。そこから本願寺の快進撃が始まるわけだが、他宗派の大寺院をそこに所属している門徒ごと取り込む、といった形で大きくなっていたので、彼ら地方大寺院らの力は保持されたままであった。門徒の急激な増大に、教団体制がついていかなかったので…

  • 本願寺の興亡・百姓の持ちたる国編~その⑨ 攻勢から守勢にまわる本願寺、そして実如の死

    1506年・永正三年の一向一揆は、概ね失敗に終わった。特に越前における敗退は痛手で、朝倉氏によって一向宗は爾後禁制とされたし、聖地・吉崎御坊も焼き払われてしまった。 朝倉氏は門徒たちの財産を全没収のうえ国外追放、加賀との国境は陸のみならず海路まで封鎖する、という徹底した措置を行ったのである。 越前における本願寺の有力寺院といえば、藤島超勝寺と和田本覚寺だ。超勝寺は1392年に本願寺5世である綽如の次男・頓円によって創建された寺である。本覚寺は元高田派寺院であったが、本願寺第3世覚如の教化によって本願寺に転派した寺である。双方ともに蓮如以前から頑張って、北陸で活動していた地方寺院だ。 この2大寺…

  • 本願寺の興亡・百姓の持ちたる国編~その⑧ 越前朝倉氏との死闘「九頭竜川の戦い」

    北陸の本願寺の要・吉崎御坊は越前の国、加賀との国境にある。蓮如がこの地に降り立って以来(そして去った後も)、吉崎御坊は北陸の本願寺門徒たちの聖地であり続けた。門徒たちにしてみれば、この聖地がある越前を加賀のような「百姓の持ちたる国」にしようと考えるのは、当然の動きであった。つまり越前は、かなり初期の段階から一向一揆の攻撃目標となっていたのである。 越前における大きな一向一揆は、これまで2回発生している。1回目は「明応の政変」直後、1494年10月に越前から追われた甲斐氏残党と連動して行われたものだ。2回目は1504年8月に、朝倉氏を出奔した朝倉元景と結んで行われたものである。いずれも加賀からの…

  • 本願寺の興亡・百姓の持ちたる国編~その⑦ 「永正三年の大乱」能登・越中を席巻する一向一揆

    1506年、実如の呼びかけにより一斉に蜂起した一向一揆。近畿近国一円がこの争いに巻き込まれることになるが、主戦場は何といっても北陸である。 北陸における一揆を指導したのは、本泉寺の蓮悟(蓮如第7男・実如の実弟)だ。大本営にあたる山科本願寺にいる実如が、越中の門徒たちに対して蓮悟の命に従うよう書簡を発していることから分かるように、彼こそが加賀一向一揆の、ひいては北陸における一向一揆の最高司令官なのである。 その蓮悟が各地の一揆指導者に送った、3月16日付の檄文が残っている。内容を紹介してみよう――「能登の畠山義元と越後の長尾能景(よしかげ)は、長年一向宗を滅ぼさんと企てており、このたび遂に動き出…

  • 本願寺の興亡・百姓の持ちたる国編~その⑥ 実如に対するクーデター未遂事件「大阪一乱」

    1505年1月に実如より2度に渡って発せられた、一向一揆蜂起指令。しかし摂津・河内の門徒たちは、これをはっきりと断ったのであった。これについてもう少し深堀りしてみよう。 実のところ、摂津・河内の門徒たちは大阪にある石山御坊の強い影響下にあった。この頃の石山御坊は、蓮如の最後の妻・蓮能尼(れんのうに)が住んでおり、またその息子である蓮如9男・実賢が住持を務めていた。そして蓮能尼はよりにもよって、能登畠山氏の出身だったのである。 元将軍・義稙が北陸に逃げてきたこともあって、能登畠山氏(当時は重臣たちに擁立された、畠山慶致・よしむねが当主)は一貫して反政元派であった。一方、河内は総州畠山氏の領国であ…

  • 本願寺の興亡・百姓の持ちたる国編~その⑤ 教えのために戦うのか、教団のために戦うのか?

    1493年4月、将軍・義稙(よしたね)と畠山政長が不在の隙に仕掛けた「明応の政変」により、新たに第11代将軍・義澄(よしずみ)を擁立した細川政元。政元の政治力はかなりのもので、彼の呼びかけに応じ、総州畠山家攻めのため河内に軍を勧めていた諸大名たちは、両者を見限って次々と帰洛してしまったのである。 2万の兵はあっという間に8000程度に減ってしまう。政長らは正覚寺を城塞化してここに籠城することにする。政元は4万の軍を動員し、これを包囲した。 政長の希望は、領国・紀州からの援軍にあった。紀州で動員した畠山軍に、同盟関係にあった根来寺の兵を加え、約1万の兵がこれを救わんと北上を試みたのである。しかし…

  • 本願寺の興亡・百姓の持ちたる国編~その④ 中央政権と結びつく本願寺

    富樫政親を滅ぼした一向一揆勢。これに激怒したのが時の将軍・足利義尚(よしひさ)である。そりゃそうである。荘園横領しまくっていた六角氏を成敗するために行われた「鈎(まがり)の陣」は、「応仁の乱」のち弱まってしまった将軍権力の威信回復を目的としたものだ。 そんな中、無理を押して駆けつけてくれたのが富樫政親であったのに、その不在の隙をついて加賀で蜂起し、あろうことか急いで戻った政親を討って滅ぼしてしまったわけで、義尚にしてみれば己の手足をもがれたのも同然なのである。 怒れる将軍は蓮如に対し、加賀一向一揆に関わった本願寺門徒の「総破門」を命じたのである。蓮如は急ぎ加賀で指導的地位にいた息子たち4人を呼…

  • 本願寺の興亡・百姓の持ちたる国編~その③ 加賀一向一揆の成功と、それを陰ながら援護していた蓮如

    さて高尾城に籠る富樫政親に対する攻撃は、6月5日に始まったようだ。初日は小競り合いで終わっている。まずは様子見というところであろうか。 なおこの前後に、越中から畠山政長軍が、能登からは畠山義統(よしずみ)軍、越前からは朝倉貞景軍が富樫氏の救援に赴いたが、それぞれ国境であえなく撃退されてしまっている。これについては後述する。 7日早朝、一揆軍の攻撃が始まる。「官地論」によると、高尾城を攻めたのは5万ほどであったらしい。対する富樫方は、籠城当初は1万ほど集まっていたのだが、「形勢利非ず」ということで、大分減っていたようだ。反撃してきたのが2000ほど、とある。いずれにしても城方は大敗して、本郷修理…

  • 本願寺の興亡・百姓の持ちたる国編~その② 遂に蜂起した一向一揆「長享の一揆」

    越中にて、石黒氏と医王山惣海寺を滅ぼしてしまった本願寺勢。隣国加賀の富樫利親にしてみれば、藪をつついて蛇を出してしまったようなものである。領内においても本願寺勢力は未だ健在、予断を許さない状況にあった。 さて時計の針をぐっと戻して、加賀における富樫氏の成り立ちを見てみたい。もともと富樫氏は、平安時代後期から朝廷の在庁官人として加賀に勢力を張っていた在地領主であり、南北朝の動乱の際に北朝方として功をあげ、室町幕府から守護に任命された一族である。 しかし加賀国内には臨済宗・五山の寺領や、幕府奉行衆の領地が多数存在しており、富樫氏の加賀に対する掌握力は弱かった。 また大作家の司馬遼太郎氏が、別の観点…

  • 本願寺の興亡・加賀一向一揆編~その① プロローグ・石黒氏と惣海寺を滅ぼした、越中砺波一向一揆

    1474年、蓮如は吉崎御坊を去り、二度と北陸には足を向けなかった。前シリーズでは蓮如の動向をメインに紹介していたため、その後の北陸がどうなったかを紹介していなかった。 そこでこのシリーズでは、北陸の門徒たちがその後どうなったか、そして最終的に如何にして加賀の一向一揆が成功して、「百姓ノ持タル国」が成立したか?を追ってみることにしたい。一部内容が過去の記事と重複すると思うが、ご容赦を。 シリーズ第一弾であるこの記事では、プロローグとして加賀ではなくその隣国、越中にて1481年に発生した「越中砺波一向一揆」を取り上げてみよう。 さて1474年に本願寺門徒の力を借りた富樫政親は、弟の幸千代を駆逐する…

  • 本願寺を強大化させたカリスマ・蓮如~その⑰ 石山本願寺の建立と、蓮如の死

    1481年に仏光寺派の帰依を受けた本願寺だが、宗派ごと丸々本願寺に合流したのは、このケースだけではない。 翌82年には真宗三門徒派の本寺のひとつであった、越前国・横越証誠寺が本願寺に下っている。また93年には真宗木部派の本寺、近江国・木部錦織寺も蓮如に帰依している。それぞれ門下を率いた教団ごとの帰依であったから、本願寺の規模は更に大きくなったのである。 そんな中、本願寺に孤軍奮闘、対抗している真宗宗派があった。蓮如のかつての親友・真慧率いる、高田派である。過去の記事でも紹介したが、本願寺と高田派は文字通り、血で血を洗う戦いを北陸において繰り広げている。 また例えば三門徒派の場合、傘下の末寺や道…

  • 本願寺を強大化させたカリスマ・蓮如~その⑯ 大名化する本願寺教団

    1480年に完成した山科本願寺の御影堂は、巨大かつ意匠を凝らしたものであった。使用された柱50本は大和から、天井は大津で拵えたものを運び込み、四方の縁などには深草産の杉が使用された、とある。大工・番匠たちもまた、諸国の門徒たちが大量に動員されて造作にあたったのである。 現地の説明版に記載されている、「山科本願寺復元イメージ図(梶川敏夫画)」。この復元図は1515年以降のものであり、設立当初のものではない。蓮如存命時には、寺内町を守る堀と塀はあったとしても、ここまでの規模ではなかったであろう。この画像レベルの城郭化を進めたのは、実如から証如に至るタイミングで1500年頃から15年頃にかけてのよう…

  • 本願寺を強大化させたカリスマ・蓮如~その⑮ 山科本願寺の建立と、仏光寺派の合流

    吉崎を去った蓮如は、二度と北陸に戻ることはなかった。とはいえ、北陸の門徒らのことを見捨てたわけではないし、門徒たちも分離独立するような動きは見せなかった。 吉崎を去ったにも関わらず、蓮如は巧妙なやり方で加賀における影響力を増大させることに成功している。その詳細は別シリーズで紹介することにして、この記事ではひとまず北陸から離れた蓮如の動向を追ってみることにしよう。 蓮如が向かった先は、若狭国小浜である。ここで彼はかつての右腕、蓮崇を正式に破門している。破門処置を受けた蓮崇は加賀を追い出され越前に逃亡、以降は消息不明となる。彼が再び姿を現すのは、これより24年後のことになる。 蓮如は小浜を出た後、…

  • 本願寺を強大化させたカリスマ・蓮如~その⑭ 北陸の本願寺門徒らが暴走した理由とは

    過去の記事で紹介したように、1466年に史上初の一向一揆、本願寺門徒vs叡山僧兵の戦いが金森にて行われている。この「金森一揆」の際には、一揆勢は戦いに勝利したにも関わらず、非戦派の蓮如の言いつけに従う形で、おとなしく金森を叡山に明け渡している。 しかし北陸においては再三の注意にも関わらず、門徒たちは蓮如の指示に従わなかった。この違いはどこにあるのだろうか? 吉崎御坊時代に蓮如が各地に下した御文章を読むと、北陸の門徒たちに苦言を呈している内容が目につく。その内容は多岐に渡るのだが、どうも彼ら新規参入組の持っていた信仰は、蓮如の教えとはかなりのズレがあったようだ。蓮如が教義の面でも大きなフラストレ…

  • 本願寺を強大化させたカリスマ・蓮如~その⑬ 蓮崇の暗躍と、吉崎御坊を去り二度と戻らなかった蓮如

    加賀国内において、その勢力を伸長させてきた本願寺勢力。前記事で紹介したように、本願寺門徒らで構成された「郡」という組織が、地域の統治を勝手に行うようになっていた。本来、守護こそが国を統べる存在なのであるが、国内にもうひとつ別の統治機構が発生したようなもので、富樫氏としては看過できる問題ではなかったのだ。 特に目に余ったのが本願寺門徒(メインは在郷武士ら)による、年貢の未進であった。 加賀には全国に3000以上の末社を持つ、加賀国一之宮・白山比咩神社こと白河宮がある。この神社に伝わる「白山宮荘厳講中記録」という記録には、1474年に幸千代が加賀から追い出されたのち、白山宮の持つ荘園の年貢未進が急…

  • 本願寺を強大化させたカリスマ・蓮如~その⑫ 北陸初の一向一揆「文明の一揆」

    1473年に弟の幸千代に敗れ、加賀から越前に落ちのびてきた富樫政親。蓮如は彼に対して金銭的に補助し、積極的にバックアップしていたようだ。これはなぜかというと、その背景には北陸における信徒の奪い合いがあったからなのである。 吉崎に本願寺がやってきて、凄い勢いで教線を伸ばしていったわけだが、当然のことながらそれは「他宗派の信者を奪う」ことによって成し遂げられたことであった。本願寺に多くの信者を取られたのが、北陸に大きな勢力を持っていた三門徒派、そして真慧率いる専修寺の高田派であったのだ。 高田派のリーダー・真慧にしてみれば、本願寺の横暴に対しこれ以上指をくわえて見ているわけにはいかなかった。かつて…

  • 本願寺を強大化させたカリスマ・蓮如~その⑪ 本願寺の名プロデューサー・蓮崇(れんそう)という男

    吉崎御坊における本願寺の急激な膨張の理由は、なんであったのだろうか?蓮如が編み出した数々の革新的布教方法は過去の記事で紹介した通りだが、実のところ、それらのテクニックの殆どは、この吉崎の地にて完成しているのだ。 名号本尊を書きに書きまくったのも、この吉崎御坊時代である。毎月18日には200枚、25日には300枚、28日は100枚の名号本尊を書くのが蓮如のルーティーンになっていたようだ。この日以外にも書いていただろうから、月に1000枚以上は生産していたのは間違いないだろう。 しかし本願寺拡大に最も寄与したと思われるのは、やはり自身の教えを分かりやすく書いて信徒に送った「御文章(御文)」の存在な…

  • 本願寺を強大化させたカリスマ・蓮如~その⑩ 北陸布教の拠点・「吉崎御坊」の設立

    1467年、叡山による2年に渡る「法敵認定」がようやく解けた蓮如。しかし苦難は続くのだ。「寛正の法難」の際、蓮如は寺宝である親鸞影像と共に湖南をあちらこちらと彷徨っていたが、堅田に長くいたことがあった。堅田の町には、本願寺老衆である法住が率いる本福寺があり、桶の尉ら熱心な門徒を擁していたから、蓮如にしてみれば安心できる町であったのだ。 しかしこの堅田が、とある事件をきっかけに叡山と全面戦争になるのである。この大イベントを「堅田大責」と呼ぶ。これに関して記事を少し書き進めてみたのだが、事件の背景を説明するにはまず堅田の町の成り立ちから説明しなければならず、また町の社会構造、その独特の気風、事件の…

  • 本願寺を強大化させたカリスマ・蓮如~その⑨ 史上初の一向一揆「金森一揆」

    大谷本願寺に攻め入ってきた、叡山率いる暴徒たちから、命からがら逃れることができた蓮如。 取り急ぎ目と鼻の先にあった、青蓮院傘下の定法寺に避難することにする。荒法師で名を鳴らす叡山の衆徒たちも、流石に身内であり門跡寺院である青蓮院にいる限り、手が出せないのである。 本願寺の危機ということで、蓮如に忠実な大物門徒たちが続々集まってきた。堅田の法住、金森の道西、赤野井の慶乗、そして遠く三河からは、佐々木如光まで。青蓮院を通して叡山の衆徒たちは、改めて「過分の礼銭」の要求をしてくる。しかし蓮如はこれに対して、頑として首を縦に振らないのだ。別に目算があったわけではない――単に頑固なだけなのである。「とに…

  • 本願寺を強大化させたカリスマ・蓮如~その⑧ 蓮如の窮地を救った、「桶作りのオッサン」の正体とは

    1465年1月10日、叡山の指揮する暴徒たちに襲撃された本願寺。蓮如たちは迂闊にも全く油断しており、暴徒たちの門内への侵入をあっけなく許してしまったのであった。 ――なぜこんなに状況が細かく分かっているのかというと、この「寛正の法難」については、堅田の本福寺に伝わる「本福寺跡書」などの文書類に、詳細が記されているからなのである。 中世史学者の清水克行氏が「室町は今日もハードボイルド 」という傑作歴史エッセイ集を著している。氏はこれらの分書類を元に事件の詳細を本の中で紹介しており、今回の記事はこの内容に拠るところ大なのである。清水氏の著作を一部引用する形で、どうなったか見てみよう。 境内に侵入し…

  • 本願寺を強大化させたカリスマ・蓮如~その⑦ 蓮如の生涯のライバル・真慧と「寛正の法難」

    蓮如がまだ部屋住みであったころ、真慧(しんね)という僧と出会っている。真慧は蓮如の19歳年下だから親子ほど年が離れているが、互いに信仰について語り合い、意気投合し、親友になったと伝えられている。 この真慧、実は高田専修寺9世・定顕の跡取りであった。蓮如が本願寺第8世になったのが1457年であるが、それとほぼ同時期の1458年に高田派の法脈を継いでいる。 蓮如と親友になるくらいの男だから、真慧もまた只者ではなかった。学識・カリスマ性・行動力など、どれを取っても一流の僧だったのである。関東を本拠とする高田派であったが、そこに甘んずることなく全国を飛び回り、教線を広げている。1460年頃から真慧は特…

  • 本願寺を強大化させたカリスマ・蓮如~その⑥ ひとりでに増殖し拡散していく、蓮如の教え「御文章」とは

    室町期における仏教各派の、布教方法はどのようなものであったのだろうか。室町期ともなると、宗教的な空白地というものは存在しなかったから、信徒を増やすには既存の宗派の信徒に働きかけ、転宗させることで塗り替えていく方法がとられることになる。例外もあるが、概ね下記のような四段階のステップを踏むものである。 ①本寺で布教のための僧侶を養成する ②十分にその資格ができたら、ターゲットとなる地方に送り込む ③布教活動を行い、現地で一定程度の信徒を獲得する ④増えた在家信徒をテコにして、現地における他宗寺院を転宗させる。ないしは新たな寺院を建立し、ここを結節点とし更に教線を広げていく そうなると、ネックはやは…

  • 本願寺を強大化させたカリスマ・蓮如~その⑤ 蓮如が編み出した、本願寺の新しい布教スタイル

    蓮如は一般向けに工夫をこらし、実に効率的な布教方法を編み出している。この記事では、彼の編み出した独特の布教方法について紹介してみよう。特徴としては、主に3点が挙げられる。 まずひとつ目は、前記事で紹介した「名号本尊」である。蓮如はこれを大量に書いて、信徒たちに惜しみなく送った。これを本尊として手を合わせ「南無弥陀仏と唱えよ」と指導したのである。 元々この名号本尊は、浄土真宗の開祖・親鸞が始めたことである。本願成就文の「聞其名号」の考え方に基づいた教えであり、蓮如はそれに倣ったわけであるが、これを採用したことが結果的に教線拡大の役に立ったのだ。 祈りをフォーカスするため、何がしかの対象を必要とす…

  • 本願寺を強大化させたカリスマ・蓮如~その④ 蓮如による本願寺大改革「親鸞に立ち帰る」

    ようやく本願寺第8世の座に就任した蓮如。長く苦しい日々に蓄えていた知見、そして抱いていた理想が本格的に発揮される時が、ついに来たのである。彼の中では弓の弦はすでに限界まで引き絞られていたわけで、あとは矢を放つだけであった。 蓮如がまず行ったことは、これまで本願寺で教えられていた教義の再編成である。 本願寺の土地は、青蓮院の管轄下にあったことは過去の記事で述べた。本願寺が関東の門弟たちの影響下から逃れる際には、この青蓮院の力を借りずしては成らなかったことであり、その結果、本願寺が青蓮院の末寺となってしまったのも仕方のないことであった。またそうした関係であったからこそ、本願寺門主は代々、青蓮院の院…

  • 本願寺を強大化させたカリスマ・蓮如~その③ 本願寺第8世・蓮如の誕生

    大谷廟堂の寺院化に成功した覚如。その法脈は、覚如→善如→綽如(しゃくにょ)→巧如(ぎょうにょ)→存如(ぞんにょ)と続いていく。 その中でも綽如はかなりの傑物で、学問に秀でた人であった。明から届いた難解な国書を見事に解読、返書の草稿を書いた功で、後小松天皇より「周圓上人」の号を賜わっている。これを縁に朝廷より後援を得た彼は、越中において瑞泉寺を建立、ここを拠点とし北陸に教線を伸ばすことに成功している。 しかしながら本願寺の発展は、牛歩のごときのろさであった。浄土真宗が栄えていたのはなんといっても、親鸞が長い間滞在し、布教に成功した関東であった。覚如はその著書「改邪鈔」において「念仏をわざと『坂東…

  • 本願寺を強大化させたカリスマ・蓮如~その② 大谷廟堂の寺院化・本願寺の成立

    はじめはその美貌が呼びよせた災難故に、長じてからは叔父による廟堂簒奪に、そして東国の門弟からの留守職認定に苦しんだ覚如は、他者から干渉を受けることに、心底うんざりしていたのではないだろうか。そんな彼が大谷廟堂の独立――つまり寺院化を目指したのは、当然の流れであった。 というよりも、もっと若年の頃から寺院化を志していた節がある。覚如は26歳の時に、曾祖父・親鸞の伝記絵巻物の制作をプロデュースしており、以降も同様の絵巻物の作成に勤しんでいる。 こうした動きは墓所を守る子孫がなすべきこととして不自然なものではないが、同時に「親鸞の法脈をも継ぐ意志と資格がある」という周囲にむけてのアピールであり、来る…

  • 本願寺を強大化させたカリスマ・蓮如~その① その美貌ゆえに翻弄され苦しんだ、絶世の美男子・覚如

    あの織田信長を、最も苦しめた敵対勢力は誰か――これは昔から盛り上がる論争で、候補として様々な名が挙げられる。戦国大名だと、まずは浅井長政・武田信玄あたり、変わったところだと足利義昭といったところであろうか。 が、その中でも最右翼に挙げられるのが、大名ですらない宗教勢力であった浄土真宗・本願寺(一向宗)なのである。信長と顕如の間で繰り広げられた石山合戦は、間に中断を挟みながらも10年間も続いた戦役であり、まさしく互いの生存を賭けた死闘であったのだ。 なにゆえ本願寺は、ここまで大きな勢力を持つに至ったのだろうか。本願寺がその勢力を爆発的に伸ばしたのは室町後期、本願寺8世に就任した蓮如という稀代のカ…

  • 室町期の仏教について~その⑭ 備前国に出現した「王仏冥合」 備前法華一揆とは

    京に法華宗をもたらしたのは日像で、彼の門流を四条門流という。四条門流を継いだのが公家出身の大覚で、彼はその人脈を最大限に活用し、精力的な布教を続けた。この四条門流の始めとした法華宗各派は「応仁の乱」以降、その勢力を大きく後退させた他宗派(特に禅宗)のニッチを埋めるかのように、洛中において次々と巨大寺院を建立していく。 その最盛期は1530年代である。一向一揆が畿内を暴れまわった混乱に乗じ、京は完全に法華宗徒らの手に落ちたのだ。町衆=法華宗徒らによる軍隊が組織され、「洛中洛外のご政道」つまりは警察・治安維持活動、そして刑事裁判権までを彼らが行っていたことが記録に残っている。 「天文法華の乱」につ…

  • 室町期の仏教について~その⑬ 法華宗の超攻撃的布教「諫暁(かんぎょう)」と「祈伏」を貫き通した、なべかむり日親

    法華宗の開祖・日蓮の主張は「自らの説く正法は、国教として幕府と朝廷が採用すべきものであり、その暁には他宗ことごとくを滅ぼさねばならない。具体的には他宗派の寺は全て破却し、僧は全員処刑して首を由比ガ浜に並べるべきである。そうすることによって初めて『立正安国』が成されるのだ!」という、ひどく過激なものであった。 日蓮はそんなことを常々公言していたから、他宗から激しく攻撃された。遂には「悪口の咎」で逮捕され、処刑される寸前までいくのである。そのあたりの経緯はこの記事を参照。 日蓮亡き後も、法華宗の各派閥は師の教えを守り、それぞれの立場で政治活動を盛んに行うことになる。具体的には、時の権力者――大名や…

  • 室町期の仏教について~その⑫ 法華宗の有力檀越「柳酒屋」 その恐るべき資力

    法華宗の開祖・日蓮は、浄土宗を開いた法然のことを大変に憎んでいた。法然の教えは国を惑わす邪宗であって「念仏を唱えると無間地獄に落ちる」とまで言い切っている。しかしながら、この2人には共通点があるのだ。 それは「両人とも師から直接、法灯を授かっていない」ということである。法然が「観無量寿経疏」を独自に解釈して浄土門を開いたように、日蓮もまた「法華経」を中心とする天台教学を独自解釈して法華宗を開いている。オリジナリティという点においては、鎌倉仏教の先陣を切った法然と、ほぼ同レベルにあるといえる。法然と同じように師のいなかった日蓮は、自らの伝燈を天台宗を日本に持ち込んだ最澄にまで遡らせている。 つま…

  • 室町期の仏教について~その⑪ 「時衆過去帳」から分かる、時衆の世俗化と衰退

    時衆の戒が厳しかったことは先の記事で述べた。時衆の最高責任者「知識」は「阿弥陀仏の代官」という位置づけであったから、信者は絶対服従するのがルールで、これを「帰命戒」と称した。彼に対する服従の代償として、帰依した者は極楽往生が確約されるのであるが、服従が絶対的でなかったことが判明した場合には、知識から容赦なく罰則を受けることになる。 知識は犯した罪の多寡に応じて、改心させるための仕置きである「罰礼」などを下したようだが、あまりに罪が重いようだと教団から追放処分となった。追放処分を許してもらうため、知識の前で必死になって五体投地の礼を繰り返した者がいたことが記録に残っている。 時衆教団には、代々受…

  • 室町期の仏教について~その⑩ 戦場に赴く時衆の陣僧たち

    時衆は全国に教線を伸ばし、2世・真教のころには時衆道場の数は100ヶ所にも及んでいる。これらの道場のスポンサーは、その殆どが武士たちであった。意外に思われるかもしれないが、時衆と武士の相性は実はとてもよかったのである。 真教の頃に確立した時衆教団の宗風を簡単に表すと、「念仏を唱えるという、誰でもできる念仏という易行でありながら、同時に欲望を捨て厳しい戒律を守ることが要求される」というものであった。信者に厳しい戒を要求しその可否を判定するのが、時衆の最高責任者である「知識」である。時衆にとって知識は絶対的な存在なのであった。 これは武士社会における主従関係と似ている。成人した武士は「見参」という…

  • 室町期の仏教について~その⑨ 室町期の時衆 念仏札を配る権利「賦算権」とは

    日本には、奈良期頃から遊行僧というものがいた。いわゆる「聖(ひじり)」と呼ばれる人たちである。仏僧の格好はしてはいたが、きちんとした学識があったかどうかは怪しいものである。民間呪術の使い手でもあった彼らは、地方を回りながら祈祷・まじないを行う存在であった。 平安期になり浄土思想の流行によって、彼ら聖の多くは「念仏聖」へとジョブチェンジする。寺院に定住せず、「南無阿弥陀仏」を唱えながら遍歴修行する半僧半俗の存在である。代表的な聖として、平安中期「市聖(いちのひじり)」と呼ばれた空也がいるが、彼は傑出した存在であって、その殆どはもっと怪しげな存在であっただろう。 さて鎌倉期に登場した時衆であるが、…

  • 室町期の仏教について~その⑧ 法然の後継者たち 分裂しまくる浄土宗

    「専修念仏」や「他力」という概念を持ち込み、これまでの仏教に大変革をもたらした、偉大なる思想家・法然。彼の死後、長老であった信空が後継となったもののその後、浄土宗は数多くの派閥に分派してしまっている。 どんな宗派でも、開祖が亡くなった後は分派してしまうのは世の習いであり、臨済宗の例などでも見てきた通りなのだが、それにしても浄土宗はその傾向が強い。こうなってしまった理由は何故だろうか? ブログ主が考えるに、初期の浄土宗は構造的な問題を抱えていたように思われる。それは「法脈というものを重視していなかった」という問題である。 いきなりだが、日本の仏教を料理に例えてみよう。まず仏教というものはインドで…

  • 室町期の仏教について~その⑦ 曹洞宗が行った巨大イベント「千人湖会」

    五山に比べると曹洞宗においては、比較的参禅の気風は守られていたようだ。しかし室町中期以降となると、林下と同じように師弟の間で口訣伝授される「密参録」が流行してしまい、本来あった禅風は失われてしまう。このように閉鎖的な環境に陥ってしまうと、自ずと分派活動が促進されることになる。 また地方をメインに活動していた曹洞宗が円滑に布教するためには、その地の支配者である戦国大名の庇護を受けることが必須となる。その結果、戦国大名の領国ごとに教線を広げていくことになったから、これまたロ-カル色が強くなる要因となった。各門派は互いに連絡がなく、別個に本末関係を結んで発展していったわけである。 しかしある時期から…

  • 室町期の仏教について~その⑥ 「禅の民衆化」に成功した曹洞宗

    さて現代において最も寺院数の多い仏教宗派は何かというと、実は曹洞宗なのである。文化庁が発行している宗教年鑑によると、曹洞宗だけで1万4000を超えるのだ。次点が浄土真宗で本願寺派が約1万、3位が大谷派の約8000である。これまでの記事で紹介した、室町期に盛んであった臨済宗はというと、妙心寺派が最大でその数は約3000である。 鎌倉期から南北朝期にかけて、曹洞宗はまだ小さい教団でしかなかった。ひとつの独立した宗派というよりも、同じ禅宗ということで臨済宗に数多ある林下諸派――大覚寺派や妙心寺派と、同じようなものとして一括りに捉えられていたのである。この記事では、如何にして曹洞宗が室町期以降にその教…

  • 室町期の仏教について~その⑤ 禅寺の興亡 その制度と文化(下)

    次に禅寺における生活スタイルを見てみよう。禅僧たちは、基本的には僧房において集団生活を行っていた。彼らを率いるのは、既に悟りの境地にいる(はずの)師匠である。師と共に生活し、その一挙手一投足に注目し、そこから何らかの意味を見出すべく日々坐禅し、公案に挑むのである。大寺院であれば数百人規模の禅僧たちが、一堂に会して生活していたわけである。 とはいえ時代が下るにつれ、五山における禅風に変化が起きてくる。まずは禅の密教化である。初期臨済宗の特徴は兼修禅であったから、必ずしも密教を否定する立場にはなかった。禅僧の中には伝法灌頂を受けるものなどもいたのである。しかしその場合でも、密教はあくまでも禅と並列…

  • 室町期の仏教について~その④ 禅寺の興亡 その制度と文化(上)

    五山の禅僧には、宗教活動を行う「西班衆」と、寺院の経理や荘園の管理を担う職能集団の「東班衆」がいたことが分かっている。これはどんな宗派の寺院も一緒なのだが、巨大な寺院群を運営していく以上、このように役割を分担せざるを得ないのである。 例えば旧仏教の一員である根来寺のケースを見てみよう。これまでの記事でさんざん紹介済みだが、根来寺には上級僧侶である「学侶方」と、下級僧侶である「行人方」がいた。そして両者の間には、はっきりとした身分の差があったのである。下級僧である行人は、あくまでも学侶僧の修業を補助する存在であり、学侶僧が参加する法会などには参加する資格はなかった。(最も時代が下っていくと、行人…

  • 室町期の仏教について~その③ 室町幕府の財政を支えた禅寺

    このように臨済宗は、室町幕府の下で大きく発展することになる。室町幕府は鎌倉以来の禅寺の「五山制度」をそのまま受け継いだが、この室町期に五山は官寺としての組織化が徹底して進むことになる。 一例として、室町幕府には「禅律方」という役職があった。これは幕府が禅宗と新義律宗を統率するための役職なのである(この頃、新義律宗もまた大きな勢力を持っていたことが分かる)。 禅律方には頭人(とうにん)と奉行を置き、それに五山を統率させたのである。五山の下には、最終的には数千の末寺・塔頭が所属することになるのだが、この膨大な数の禅寺は室町幕府の管理の下、巨大なピラミッド型の官僚体制が構築されたのであった。 このよ…

  • 室町期の仏教について~その② マルチな才能を発揮した禅宗のプロデューサー・夢窓疎石

    弘安の役から18年後――鎌倉期も終盤にさしかかった1299年に、建長寺で入門試験が行われている。記録によると、この時の試験において上級でパスしたのは2人だけ、うち1人が夢窓疎石という僧であった。彼はこの時25歳、既に京と鎌倉の禅寺においてかなりの研鑽を積んだ、前途有望な僧であった。 彼は元々、奈良の東大寺で受戒した真言僧である。しかし天台の高僧であった師の死に臨んで、その教えに疑義を抱くようになり、禅宗へ宗旨替えしたのである。極めて優秀な頭脳の持ち主であった夢窓は、建長寺にて最終的には修行僧の最上位である「首座(しゅそ)」の座にまで昇り詰めるのだ。しかしそこで壁に突き当たってしまう。どうしても…

  • 室町期の仏教について~その① 武士たちにとって親しみやすかった、臨済宗

    これまでのシリーズで、仏教が如何にして日本社会に受容されていったか、そして2人の天才・空海と最澄の登場による平安仏教の興隆、更に鎌倉仏教の登場についてなどを紹介してきた。このシリーズではその後、南北朝から室町期において仏教各宗派はどのように発展していったか?を紹介してみたいと思う。 結論から言ってしまうと、室町期の仏教は鎌倉仏教が巻き起こしたような、思想上のセンセーションは起こさなかった。教義的にはそこまで大きな進展はないのだ。その代わり、各教団において組織の質的変化と規模の拡大が行われた。各宗派はより組織化され、洗練された教団へと成長していくのである。 なお内容の一部は前シリーズのものと重複…

  • 当ブログ開設2周年 解説と分析~その② 急に増えたXからのアクセス 「黒人奴隷・弥助」騒動

    さて少し前の24年7月16日に、1日あたり230くらいの突出したアクセスがありました。これまでの最高値だったので、なんだろうと調べてみたら、Xからのリンクが急増していました。どなたかにXで記事のリンクを貼っていただいたようです。どの記事のリンクであったか調べてみたら、下記の記事でした。 Xからのリンクは普段はほぼゼロなのに、この日だけ急に増えています。リンク先は「晩期倭寇」シリーズにある、2つの記事でした。リンク先は下記です。 はてな?なぜだろうと思っていたら、思い至りました。日大准教授のトーマス・ロックリー氏の研究や著作が炎上した件ですね。これはどういう炎上案件かというと、実は世界を巻き込ん…

  • 当ブログ開設2周年 解説と分析~その① 1年前と比べた分析

    ブログを開設してから2年4か月が経ちました。タイトルは2周年となっており、この記事は7月にUPする予定でいたのですが、継続中の仏教シリーズの腰を折るのもなんなので、ひと段落したところで記事をUPした次第です。 さて細々と続けている当ブログですが、おかげさまでようやく、トータルで3万近いPV数に達しました。吹けば飛ぶようなPV数ですが、1日あたりのPV数は増えています。1年前の記事を見てみると、1日当たりPVは平均20がいいところでしたが、今では平均して60~70ほど、100を越える日も珍しくありません。分析してみると、明らかに検索サイトからの数が増えているのが分かります。下記は当ブログのアクセ…

  • 日蓮と忍性、そして蒙古襲来~その⑩ 撃退された元寇 予言が当たらず困惑する日蓮

    なお服部氏は、1回目の侵攻「文永の役」に関しても、独自の説を唱えている。まず元軍の数に関してであるが、池内説3万以上に対して、服部氏は1万6500人ほど(高麗史による)としている。そして池内説では「博多に上陸した10月20日に戦いが行われ、その日のうちに撤退した」ことになっている。この撤退も「大風によって艦隊がダメージを負ったのが原因」としているのだが、服部氏はこの「1日で撤退した」というのも間違いであると主述べている。 そもそもこの「1日撤退説」と「大風説」の由来は、「八幡愚童訓」に書かれている「白装束の神の使いが現れて、艦隊に弓を放つと海が炎上した。日本の神の怒りを恐れた蒙古軍は一夜で姿を…

  • 鎌倉後期の法華宗・真言律宗(新義律宗)、そして元寇~その⑨ 「弘安の役」に関する、服部氏の新説

    この記事では、前回紹介した服部英夫氏による著作「蒙古襲来と神風~中世の対外戦争の真実」の内容に基づいて、弘安の役の戦いの推移について紹介していく。 まず服部氏は、東路軍の進撃タイミングと進撃路に対して、以下のような説を唱えている――「通説では東路軍が合浦を出たのが5月3日、対馬占領は5月26日以前、志賀島占領は6月6日となっている。しかし実際には、対馬占領は5月8日、15日に壱岐を占領、続いて博多の志賀島占領は5月26日なのである。また通説によると、武士団の反撃があった結果、東路軍は志賀島を放棄したとされているが、実際には元軍は持ちこたえ、志賀島の橋頭堡は維持したままであった」というものだ。 …

  • 中世に出現した、新しい仏教のカタチ~その㉖ 引き籠る日蓮 「弘安の役」で大勝する日本

    甲斐国身延山に引きこもり、著作に励む日蓮。この間、彼は大量の手紙を弟子や信者たちに送っており、断片的なものも含めると現存するものは600点にも及ぶとも言われている(ただし偽物も多いようだ)。一次史料が大量に残っているということは、その人物像が具体的に分かるということである。中世自社勢力の研究者である伊藤正敏氏は「中世ではその人となりまで分かる人は少ないが、日蓮はそのひとりである」と述べている。 見延山での彼は「ただひとりの弟子を相手に、ひたすら法華経の研究に打ち込みたい」という願いを持っていたようだ。だが彼の下には次第に人が集まってくるようになる。最終的には、この地で100人ほどの教団が結成さ…

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