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御座松塚跡(→東京都稲城市平尾3丁目)には、1873(明治6)年に枯死するまで「御座の松」と呼ばれた大松が植えられていたといいます。ここは分倍河原に通じる鎌倉街道で、1333(元弘3)年5月15~16日の分倍河原・関戸合戦で新田義貞率いる討幕軍に敗れた幕府軍は、鎌倉への敗走の途上、ここ平尾でも討幕軍の追撃を受けました。隣接する麻生郷は鎌倉北条氏の一門(→金沢北条氏)の所領であったため、平尾郷民も幕府よりの者が多かったらしく...
白山神社(→神奈川県川崎市麻生区白山4丁目)は、創建年代等の詳細は不明ですが、江戸時代中期の1706(宝永3)年に王禅寺村絵図(→国絵図の一つ)に描かれているため、18世紀初頭には既に社殿が完成されていたことが分かります。江戸時代には別当寺を持たず、王禅寺村の鎮守として村が祭祀を司ったようです。現在の本殿と拝殿は幕末期の1850(嘉永3)年から1年間かけて造られたと記録にあり、向拝柱(ごはいばしら→賽銭箱の前方上のほう)な...
籠口ノ池(ろうぐちのいけ→神奈川県川崎市麻生区下麻生2丁目)は、「白龍伝説」と「白蛇伝説」を伝える溜池です。(1)討幕軍を呪った白蛇伝説鎌倉時代末期の1333(元弘3)5月15日~16日に、新田義貞・足利義詮(よしあきら→足利尊氏の嫡子)らの討幕軍は、分倍河原の戦い・関戸の戦い(→ともに東京都府中市)で北条泰家(→得宗北条高時の同母弟)が率いる幕府軍を破り、さらに本隊が鎌倉街道上ノ道を進み、平尾(→東京都稲城市)、金程(→神奈川...
星宿山 蓮華蔵院 王禅寺(→神奈川県川崎市麻生区王禅寺)は、平安時代の921(延喜21)年に高野山の無空上人によって創建されたと伝わる、鎌倉北条氏庶流の金沢(かねさわ)北条氏と縁が深い真言宗豊山派寺院で、最盛期には禅宗・律宗・真言宗の兼学道場を兼ねて「(関)東の高野山」と呼ばれ、末寺が多くありました。現在は宅地開発された小山の中でひっそりとたたずむ王禅寺ですが、広域に「王禅寺」の名がつく地名が残るなど、影響力の大...
芳林山 向嶽禅院 戒翁寺(→神奈川県川崎市麻生区早野)は、戦国時代の天正年間(→1573年~1591年)に夏蒐山 修廣寺(→神奈川県川崎市麻生区片平2丁目)の3代住職玄頓和尚(げんとんおしょう)によって開山されたと伝わる曹洞宗寺院です。1590(天正18)年に小田原北条氏が滅亡すると北条家臣の庇護を失い衰退しましたが、江戸時代初期の寛永年間(→1624年~1645年)に北条遺臣から幕府旗本に取り立てられた富永重吉(とみながしげよし)が早...
江島神社(→神奈川県藤沢市江の島2丁目)の夏の風物詩の1つである江の島燈籠2023を見てきました。鳥居から瑞心門は赤、青、黄、と様々にライトアップされ、赤は「天女と五頭龍の出会い」、青は「縁日」といったように色ごとに映し出される映像が変化し、光の絵巻物のようでした。イベントを手掛けたのは「空気をデザインする」をテーマに空間に関わる様々なイベントを手がけるVELVETA DESIGN(ベルベッタ・デザイン)という都内の会社...
新橋駅SL広場(→東京都港区新橋2丁目)には、1872(明治5)年9月12日(新暦10月14日)に新橋駅(帝都)~横浜駅(開港地)に初めて鉄道が開通したことにちなみ、1972(昭和47)年に鉄道発足100周年を記念して当時の国鉄から港区に無償譲渡されたSL(→C11‐292)が展示されています。場所は現在のJR新橋駅の西口広場(SL広場)の公道上になります。正式開通に先立ち1872(明治5)年5月に品川横浜(→現在の桜木町駅)間で開通し、所要時間は35分と記録さ...
新宿諏訪神社(→東京都新宿区高田馬場1丁目)は、『東京都神社名鑑』には立派な由緒が「創作」されていますが、創建年代等の詳細は不明ながら、江戸時代初期には社殿ができあがっていたようです。江戸時代には諏訪村・戸塚村・大久保百人町・西大久保村などの総鎮守となり、隣接する真言宗豊山派寺院の龍池山 上珠院 玄国寺が別当寺として祭祀を司りどりました。1882(明治15)年に明治天皇の行幸があったようで、境内には戦時中の1943...
龍池山 上珠院 玄国寺(→東京都新宿区高田馬場1丁目)は、安土桃山時代末期の1601(慶長6)年に創建されたものの、その後衰退し、延宝年間(→1673年~1681年)に僧の盛源によって中興された真言宗豊山派寺院です。当初は明王山 聖無動院 宝仙寺(→東京都中野区中央2丁目)の末寺だったようですが、中興後は神齢山 悉地院 護国寺(→東京都文京区大塚5丁目)の末寺に属したと記されます。また、江戸時代には隣接する新宿諏訪神社の別当寺として...
寒松山 大林寺(だいりんじ→長野県長野市松代町)は、江戸時代初期の1622(元和8)年に上田藩主真田信之(9万5000石)が松代藩(13万石)に加増の形で移封された際に、信之・信繁兄弟の生母山手殿(寒松院)の菩提寺として創建した曹洞宗寺院です。1613(慶長18)年6月に上田で死去した山手殿は上田の大輪寺(だいりんじ→長野県上田市中央北1丁目)に埋葬されましたが、松代移封にともない信之は改めて大林寺を菩提寺として墓所を作り直しました...
光照山 龍香院 宗忠寺(→神奈川県横浜市都筑区池辺町)は、徳川家康の江戸入封後の1594(文禄3)年に松平忠吉(→徳川家康四男)の家臣小笠原宗忠が開基、僧の雲興(→寂年不詳)が開基した浄土宗寺院です。寺号は開基の宗忠から、院号は宗忠の法号龍香院欣情法心から採られたことが分かります。天正年間(→1573年~1592年)までは宗忠の父親である小笠原伊代守吉次の法号から「長隆寺」と号していたと記されますが、創建年が1594(文禄3)年なの...
医徳山 長王寺(→神奈川県横浜市都筑区池辺町)は、横浜市立都田中学校の近くにある高野山真言宗寺院です。創建年代等の詳細は不明ですが、創建当初は鶴見川の傍にあり、医王山と号して行基作と伝わる薬師如来立像を安置する古い寺院だったようですが、おそらく鶴見川の氾濫により江戸時代初期の1617(元和3)年に僧の浄秀が現在地に移転して中興開基したと記されます。なお、医王寺と称していた頃の棟札が寺宝として残されているよう...
高貴山 福聚院 正覚寺(→神奈川県横浜市都筑区池辺町)は、創建年代等の詳細は不明の高野山真言宗寺院ですが、寺伝によると鎌倉時代には創建されていたといい、本尊は運慶作の不動明王坐像と伝わります。境内に4つある古碑のつち1つは室町時代の永享(→1429年~1441年)の年号が入っているため、古い寺院であることは確かなようです。室町時代には戦乱などで荒廃したようですが小田原北条氏の統治下に僧の継院が中興開基したと記されま...
池辺杉山神社(→神奈川県横浜市都筑区池辺町)は、創建年代等の詳細は不明ですが、中世の頃より池辺村の鎮守であったと伝わります。神仏習合の頃は八所権現を本地仏とする木像の不動立像と神体として祀っていたと記されます。権現(ごんげん)とは神仏習合の頃に「仏や菩薩が日本の神々という仮(=権・ごん)に姿を変えて現れる」という考え方で、これを本地垂迹説(ほんちすいじゃくせつ)、または仏本神迹説(ぶっぽんしんじゃくせつ)と...
観音寺阿弥陀堂(→神奈川県横浜市都筑区池辺町)は、昨日ご紹介した円国山 観音寺(→神奈川県横浜市都筑区池辺町)の阿弥陀如来を祀る阿弥陀堂及び墓地となっています。観音寺の山門から歩いて10分ほどのところにあります。『新編武蔵風土記稿』には阿弥陀堂の記載がありませんので、本堂の新しさから昭和時代に建てられたものと推察されます。境内には六地蔵があるようですが、樹木に覆われて1体しか目視できませんでした。【観音寺阿...
円国山 観音寺(→神奈川県横浜市都筑区池辺町)は、創建年代、開山・開基等の詳細は不明の高野山真言宗寺院です。武相不動尊霊場11番、旧小机領三十三所子歳(ねどし)観音霊場18番に選定され、地元では奉安水子地蔵尊供養所としても知られます。山門から境内まで桜の木がいっぱいに植えられているので春はさぞ桜の名所となることでしょう。江戸時代には本山・末寺の制により瑞雲山 本覚院 三會寺(→神奈川県横浜市港北区鳥山町)の末寺...
白山神社(→神奈川県横浜市緑区白山2丁目)は、神奈川県神社誌によると江戸時代の1693(元禄6)年9月18日に猿山村(→現在の緑区白山地区)の鎮守として創建されたと記されます。白山社ですが、祭神は浅間神社の祭神として知られる木花咲耶姫命(このはなさくやひめのみこと)を祀っています。神仏習合の頃は近くの高猿山 宝塔院(→神奈川県横浜市緑区白山2丁目)が別当寺として祭祀を司りました。〖祭神〗・木花咲耶姫命(このはなさくやひめ...
高猿山 宝塔院(→神奈川県横浜市緑区白山2丁目)は、正徳年間(→1711年~1716年)に僧の祐円が堂宇を再建したため、祐円を中興開山とする高野山真言宗寺院です。創建年代等の詳細は不明ですが、もとは胴山という場所に創建され、江戸時代までに現在地に移転されたと記されます。江戸時代には旧小机領三十三所観音霊場にも選定されており、観音堂の本尊は、江戸時代から12年に1度子年の春だけ開帳する「子年観音」と呼ばれ親しまれてい...
笹子稲荷(→神奈川県川崎市麻生区万福寺3丁目)は、小田急線新百合ヶ丘駅近くにある、「奉納 高石山 法雲寺」と書かれた小祠です。もとは「万福寺笹合稲荷」の地にあったと伝わりますが、町の開発にともない移されたのだといいます。笹子稲荷は、地元の伝承によると平安時代末期の権力者である後白河法皇の娘・笹子姫を祀った稲荷だといい「狐の上に乗る笹子姫の神像」が祀られていると伝わります。1177(安元3)年6月、京都東山の鹿ヶ...
岡上神社(→神奈川県川崎市麻生区岡上)は、明治時代後期の1909(明治42)年3月16日に、国の一村一社政策により、剣明神社・日枝神社・宝殿稲荷社・関戸神社の4社を岡上村の中央にあった諏訪神社に合祀し、地名をとって「岡上神社」としたと伝わります。現在の岡上は周囲を東京都町田市と神奈川県横浜市青葉区に囲まれていますが、川崎市麻生区の飛び地となっています。合祀元となった剣神明社と諏訪神社は、どちらも創建年代等の詳細...
月読神社(→神奈川県川崎市麻生区上麻生)は、戦国時代の1534(天文3)年に麻生郷の領主小島佐渡守が伊勢神宮別宮の月読宮を勧請じ、居所の亀井城(→月読神社の敷地内)の東に社(やしろ)を建てたのが始まりです。江戸時代には上麻生村と下麻生村の鎮守社として崇敬を集めていたといいます。明治時代後期の1906(明治39)年に一村一社の勅令が発布され、全国的に「一村一社運動」が展開されます。月読神社も近隣の白山神社(山口谷)・熊野神...
山田富士(→神奈川県横浜市都筑区北山田1丁目)は、江戸時代に富士講によって作られた富士塚の1つで、火口や登山道(→緩やかな御殿場口、急勾配な吉田口)が作られるなど、都筑区内の富士塚の中では最も造形が美しく凝った富士塚と思われます。江戸時代には山の中腹に妙見山 不動院 長泉寺(→神奈川県横浜市都筑区北山田7丁目)が祭祀を司った太子堂があり、長さ30cmほどの聖徳太子立像が祀られていたと記されます。現在は太子堂はなく、...
佐江戸杉山神社(→神奈川県横浜市都筑区佐江戸町)は、勧請年代は不詳ですが、江戸時代前期の1613(慶長18)年再興の棟札に、代官小泉久弥・小代官石川次郎右衛門の名が記され、仏法山 般若院 東漸寺(→神奈川県横浜市佐江戸町)が別当寺であると記されており、戦国時代に小机衆で佐江戸城主の猿渡氏が鎮護のために勧請したと伝わります。境内には御嶽三柱大神の碑があり、武蔵御嶽神社(→東京都青梅市御岳山)のおいぬ(オオカミ)を信仰す...
帰命山 安国院 無量寺(→神奈川県横浜市都筑区佐江戸町)は、創建年代等の詳細は不明ですが、鎌倉時代中期には無量寿福寺という尼寺が存在していたと記される高野山真言宗寺院です。鎌倉時代の佐江戸郷は北条広時(時房の孫)の妻が領主を務めており、『関東往還記』には彼女は1262(弘長2)年に佐江戸郷を殺生禁断の地とする禁制を発したと記されます。また、1299(永仁7)年には無量寿福寺の尼僧性観(福の尼)は、金沢北条氏の菩提寺であ...
仏法山 般若院 東漸寺(→神奈川県横浜市都筑区佐江戸町)は、室町時代前期の1440(永享12)年に僧の智運によって開山されたと伝わる高野山真言宗寺院です。寺伝によると、奈良時代の744(天平16)年に行基(→東大寺の廬舎那大仏造立に貢献した高僧)がこの地に留錫(りゅしゃく→行脚中の僧侶がある寺に泊まること)し草庵を結び、文殊菩薩を作り安置したといいます。これが寺の始まりとされ、1440(永享12)年に智運が不動明王を本尊として開山...
臥龍山 雲松院(→神奈川県横浜市港北区小机町)は、戦国時代の1525(大永5)年頃に小机城主(→のち城代)を務めた笠原信為が、亡父信隆と伊勢宗瑞(→いわゆる北条早雲)の菩提を弔うために開基、僧の季雲永岳が開山したと伝わる曹洞宗寺院です。寺号を深大寺とする説もありますが、雲松院のホームページで否定していますのでそれに従います。境内は城塞様式となっており、小机城の詰城、もしくは出城としての役割を担っていたことが分かり...
医王山 金剛寺(→神奈川県横浜市港北区小机町)は、江戸時代中期の1748(寛延元)年に長谷川道全という人物が開基し、約40年後の1786(天明6)年に大継良智(→本山の雲松院19代住職)が曹洞宗寺院として開山したと伝わります。創建の時期は天明の飢饉により多くの死者が出ていた頃と重なります。この地にはもともと北条氏綱(→小田原北条氏2代目)統治下の1540(天文9)年に明翁永寿という僧が創建した草庵があったようです。真偽の程は定かで...
小机城(→神奈川県横浜市港北区小机町)は室町時代中期におきた永享の乱(1438年~1439年→鎌倉公方足利持氏と6代将軍足利義教の抗争)の頃に武蔵国守護を兼ねた関東管領上杉氏によって築かれた平山城と伝わりますが、実際の築城年代は定かではありません。小机城が実際に戦争で使われた記録は、1478(文明10)年に山内上杉顕定(やまのうちうえすぎあきさだ)対して叛乱を起こした長尾景春に味方した豊嶋氏が小机城に籠もったため、扇谷上...
医王山 法徳院 正福寺(しょうふくじ→神奈川県川崎市宮前区土橋6丁目)は、創建年代等の詳細は不明ですが、宮前区が刊行した『宮前区歴史ガイドまち歩き』によると、江戸時代中期に僧の了廓(りょうかく)が開山した天台宗寺院といい、当時は第六天社(→現在の和田八幡宮)とともに土橋太田という小字にあったようですが、江戸時代後期の天保年間(→1830年~1844年)に火災で伽藍を焼失し、現在地に移転・再建されたといいます。江戸時代に...
小野神社(→東京都府中市住吉町3丁目)は、平安時代前期の927(延長5)年に作成された『延喜式神名帳』(えんぎしきじんじょうちょう→朝廷より官社に指定された全国の神社一覧)に記載された武蔵国多磨郡八座のうちの1つと比定される小野神社です。なお、多摩市内にも式内社に比定される有力な小野神社(→東京都多摩市一ノ宮1丁目)があり、二社は多摩川を挟んで1.6㎞ほどの距離にあるため伝承も混同しているようです。〖祭神〗・瀬織津比...
土橋神社(つちはしじんじゃ→神奈川県川崎市宮前区土橋1丁目)は、創建年代等の詳細は不明ですが、神奈川県神社庁によると江戸時代前期の寛文(→1661年~1673年)以前の創建といい、往時は「神明社」あるいは「神明宮」と称していたようです。明治時代後期の1907(明治40)年に国の一村一社政策を受け、土橋村内の神明社他10社を合併して土橋神社と改称したと記されます。現在の社殿は1973(昭和48)年4月に、奥殿は1995(平成7)年にそれぞ...
小台稲荷神社・八幡神社(神奈川県川崎市宮前区)を訪問しました
小台稲荷神社・八幡神社(→神奈川県川崎市宮前区宮前平2丁目)は、創建年代の詳細は不明ですが、江戸時代中期には徳川将軍家の旗本川勝主税(かわかつちから)の所領に創建され、村民が祭祀を司ったと記される八幡社です。明治時代末期の1910(明治43)年に国の一村一社政策および神社統合令を受け馬絹神社(→神奈川県川崎市宮前区馬絹5丁目)に合祀されましたが、そこから小台八幡神社として分祀され今に至るといいます。〖八幡神社の祭神...
平栄山 泉福寺(→神奈川県川崎市宮前区馬絹2丁目)は義天法印によって創建された天台宗寺院で、創建は江戸時代前期と推察されます。江戸時代には浮岳山 昌楽院 深大寺(→東京都調布市深大寺元町5丁目)の末寺として幕藩体制の一翼を担うとともに、女体権現社(→現在の馬絹神社)の別当寺として祭祀を司りました。泉福寺には川崎市重要歴史記念物に指定される「板面着色・絵馬・泉福寺薬師会図」と「板面着色・絵馬・泉福寺境内相撲図」が...
聚海山 正観院 西蔵寺(→神奈川県川崎市宮前区野川)は、奈良時代に聖武天皇の勅命により行基(→東大寺の廬舎那大仏造立に貢献した高僧)が創建したと伝わる威徳山 月光院 影向寺(ようごうじ→神奈川県川崎市宮前区野川)の塔頭十二坊の1つと伝わる天台宗寺院です。創建時の本尊の正観世音菩薩は「余り木観音」と呼ばれ、慈覚大師(→円仁)が、行基が彫った薬師如来と阿弥陀如来の余った木で製作したと記されます。ただ、行基(668年~749年...
和田八幡宮(→神奈川県川崎市宮前区野川)は鎌倉幕府の有力御家人で相模三浦氏の支流・和田氏の氏神が祀られたのが起源となる神社です。創建年代の詳細は不明ですが、地元の伝承として「池の主」と呼ばれていた白蛇(→龍神のこと)が、住みかの池を埋められて逃げてきた場所が和田八幡宮であったといい、境内には白蛇池が残されています。この地は鎌倉時代前期は和田氏の所領であったので、伝承は1213(建暦3)年5月の和田合戦で和田一族...
有馬伏見稲荷(→神奈川県川崎市宮前区東有馬5丁目)は、県営有馬団地の南西、たぬき公園内に保存されている有馬古墳(→宮前区№16遺跡)の墳丘上に祀られている伏見稲荷です。創建年代の詳細は不明ですが、『新編武蔵風土記稿』の内容から江戸時代後期には創建され、塚の由来が伝わらないほど古くからあったことが窺えます。馬絹古墳は、1989(平成元)年度の川崎市教育委員会による発掘調査により、南北径26.5ⅿ、東西径25.5ⅿ、高さ4.2ⅿの...
有馬山 長善寺(→神奈川県川崎市宮前区東有馬5丁目)は創建年代の詳細は不明ですが、安土桃山時代の1591(天正19)年7月13日に死去した転蓮社真誉安立という住職の時に浄土宗か浄土真宗大谷派(東本願寺)に改宗したと記されます。江戸時代には徳川将軍家旗本の遠山政之助の所領にあり、真宗本廟(いわゆる東本願寺→京都府京都市下京区烏丸通七条上ル常葉町)の末寺として幕藩体制の一翼を担いました。現在は本山をもたない単立寺院のよう...
有馬御嶽神社(ありまみたけじんじゃ→神奈川県川崎市宮前区東有馬3丁目)は、東西約900ⅿに延びる半月状の権六谷戸の南端に建つ神社です。昭和時代中期までは有馬川沿いにあったといいます。御嶽講は農業・商業など民間信仰に根ざしたもので、奥多摩の御嶽山に参拝し、盗難除けの武蔵国御嶽神社(→東京都青梅市御岳山)の大口真神の札(→オオカミの護符)を持ち帰りました。【有馬御嶽神社の社殿】【有馬御嶽神社の境内】...
有馬八幡大神(→神奈川県川崎市宮前区東有馬3丁目)は有馬療養温泉旅館の敷地内にある小祠で、神仏習合の頃は不動明王像を神体として祀っていたと伝わります。これらは有馬西明寺のもと境内にあり、有馬西明寺は平安時代前期の858(天安2)年に慈覚大師(→円仁)によって関東屈指の古刹である威徳山 月光院 影向寺(ようごうじ→神奈川県川崎市宮前区野川)の末寺となり、室町時代中期の文安年間(→1444年~1449年)に金剛院と合併して現在の...
下有馬不動尊(→神奈川県川崎市宮前区有馬3丁目)は、創建年代の詳細は不明ですが。不動堂下にある滝と滝つぼは水垢離(みずこり→冷水を浴びて心身を清浄する行事)として使われたという伝承をもち、鎌倉時代には後背の森あたりに移転前の龍宿山 金剛院 西明寺(→神奈川県川崎市中原区武蔵御殿1丁目)があったと伝わります。下有馬不動尊は、江戸時代後期の1830(文政13)年に編纂された『新編武蔵風土記稿』橘樹郡有馬村の条に「不動堂」...
有馬新井谷戸天満宮(→神奈川県川崎市宮前区有馬4丁目)は創建年代等の詳細は不明ですが、江戸時代に有馬村新井谷戸(→現在の有馬3丁目)に住む30数戸の氏子が近くの天満宮(→不明)から分祀したと伝わる天満宮です。現在地には明治時代後期の1900(明治33)年に移転されたと記されます。境内には「川崎天神」「川崎天満宮」と書かれた2つの社標が建っており、往時を偲ばせます。〖主祭神〗・菅原道真(すがわらのみちざね)新井谷戸天満宮...
有馬神明神社(→神奈川県川崎市宮前区有馬5丁目)は、創建年代等の詳細は不明ですが、江戸時代後期の1845(弘化2)年12月の再建とあり、同年12月の「有馬村明細帳」によれば、当時村内には神明社2社と杉山社の計3社があったといい、これらが明治時代後期の1910(明治43)年に国の一村一社政策を受けて合祀し、有馬神明神社になったと記されます。もとの神明社2社は、江戸時代には旗本の遠山政之助(とおやままさのすけ)と曾根主税(そねち...
寿栄山 福王寺(→神奈川県川崎市宮前区有馬5丁目)は、境内に残る南北朝時代から室町時代にかけての石碑の存在から、中世にあった葬地に、1602(慶長7)年に死去した僧の雪□が鎌倉円覚寺の塔頭福王寺(→廃寺)の名跡を移す形で創建した臨済宗円覚寺派寺院です。有馬地区は、鎌倉時代には北条得宗家(→北条氏の家督)の所領があり、地域には北条氏ゆかりの寺院(跡地含む)が散見します。福王寺は、江戸時代後期の1830(文政13)年に編纂された...
松寿弁財天(→神奈川県川崎市多摩区宿河原6丁目)は、真言宗豊山派寺院の雁三山 正幡院 常照寺(→神奈川県川崎市多摩区宿河原3丁目)が管理する弁天堂です。松寿弁財天は、神仏習合の頃には常楽寺の境内にあり、本堂には幕末期の1858(安政5)年に社水という絵師によって描かれた、「松寿弁才天図」が残されています。ご住職によると、この絵は江戸時代におきた多摩川の洪水をモチーフにしているといい、「洪水によって流された村人が1本...
冨鳳山 養周院(→神奈川県川崎市高津区久地3丁目)は、創建年代等の詳細は不明ですが、1604(慶長9)年に死去した僧の吉山が開山したと記される曹洞宗寺院です。2011(平成23)年11月28日には川崎市立久地小学校(→神奈川県川崎市高津区久地4丁目)の6年生児童110人による座禅体験が行われ、僧侶の過ごし方や修行の内容を体験する歴史授業が行われました。上形泰俊住職が地域の児童に様々な文化を体験してもらおうと、例年この時期に座禅修...
宇奈根氷川神社(→神奈川県川崎市高津区宇奈根)は、宇奈根の地が明治時代末期の1912(明治45)年の区画変更により東京府北多摩郡砧村(きぬたむら→東京都世田谷区)から神奈川県橘樹郡高津村に編入されたことから、1927(昭和2)年10月に砧村の宇奈根氷川神社(→東京都世田谷区宇奈根2丁目)を勧請して創建された神社と伝わります。かつては宇奈根地区の全域が北多摩郡に属しましたが、1945(明治12)年の区画変更で郡境が多摩川上に変更され...
青龍山 龍厳寺(りゅうごんじ→神奈川県川崎市多摩区堰3丁目)は、創建年代等の詳細は不明ですが、中興開山は深大寺67住職の宣海と伝わる天台宗寺院です。その頃の山号は自立山だったと記されます。江戸時代には浮岳山 昌楽院 深大寺(→東京都調布市深大寺元町5丁目)の末寺として幕藩体制の一翼を担う一方、別当寺として保谷稲荷神社の祭祀を司りました。寺宝に天台宗の開祖最澄(伝教大師)が彫刻したと伝わる大黒天像があり、観音堂に...
保谷稲荷神社(→神奈川県川崎市多摩区堰3丁目)は、創建年代等の詳細は不明ですが、神仏習合の頃の神体は右手に宝珠・左手に剣を持ち、白狐にまたがった女神像で、安産守護の神として堰村はもとより周辺の村民からも崇敬を受けたと記されます。太平洋戦争末期の1945(昭和20)年4月15日の空襲で被害を受け、戦後の1946(昭和21)年に溝口稲荷社(現在の堰稲荷神社、神奈川県川崎市多摩区堰2丁目)を再建した際に祭神の倉稲魂命(うかのみた...
のちめ不動尊(→神奈川県横浜市都筑区東山田町)は、『二〆(のちめ)不動尊縁起』によると、幕末期の1864(文久4)年に二〆(のちめ→現在の東京都八王子市)から不動像を背負って移住した名主の栗原家が建立した不動堂で、創建当初は鎌田堂近くの「城山」山頂にあったようですが、天災のために現在地に移されたようです。かつては栗原家から不動堂まで参道が敷かれていたそうですが、今は舗装された道路に囲まれているため、港北ニュータ...
三宝寺廃寺(→神奈川県横浜市都筑区東山田町)は、江戸時代には神田山 幡随院 新知恩院(→東京都千代田区神田駿河台、現在は東京都小金井市前原町に移転)の末寺として幕藩体制の一翼を担った東林山 三宝寺(浄土宗)の跡地です。明治時代初期の廃仏毀釈によって廃寺となったといい、跡地には東山田町公民館が建っています。 三宝寺は創建年代等は不詳ですが、1159(平治元)年の平治の乱に敗れ、逃亡先の尾張国で源義朝(→源頼朝...