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山田富士(→神奈川県横浜市都筑区北山田1丁目)は、江戸時代に富士講によって作られた富士塚の1つで、火口や登山道(→緩やかな御殿場口、急勾配な吉田口)が作られるなど、都筑区内の富士塚の中では最も造形が美しく凝った富士塚と思われます。江戸時代には山の中腹に妙見山 不動院 長泉寺(→神奈川県横浜市都筑区北山田7丁目)が祭祀を司った太子堂があり、長さ30cmほどの聖徳太子立像が祀られていたと記されます。現在は太子堂はなく、...
川和富士(かわわふじ→神奈川県横浜市都筑区富士見が丘)は、富士講の発願により幕末期の1860(万延元)年から27年の歳月をかけ、延べ3120名の人夫によって作られた富士塚で、明治時代中期の1887(明治20)年4月に完成しました。1860(万延元)年は富士山御縁年(→庚申年)に当たり、冨士講が幕末期にピークに達した年として知られます。当時は現在の神奈川県立川和高等学校の近くにあった標高80ⅿ(地上高27ⅿ)、底部直径40ⅿという大きな富士塚...