メインカテゴリーを選択しなおす
結論から言うと、**家康が特別に強かったというより、「最後に勝つ条件をそろえ続けた人」だったから**です。短期の派手さではなく、**長期で崩れない戦略**を取り続けたのが決定的でした。 --- ## ① とにかく「生き残った」 戦国で一番重要なのはこれです。 * 織田信長 → 途中で倒れる * 豊臣秀吉 → 早死に+後継が弱い * 家康 → 長く生き、機会を待てた しかも家康は * 人質生活 * 今川の支配 * 信…
関ケ原の戦いは、わずか一日のうちに決着した。勝者は――徳川家康。敗者たちは散り散りに滅び、あるいは降り、あるいは歴史の闇へと消えていった。そして、勝者には新たな秩序を築く責務が課される。戦後処理――論功行賞。その舞台となった伏見城には、連日、諸大名が参集
東京から一番時間の掛かる都市旅:移動RTA・東海道新幹線区間まで(2日目その1)
次に4年ぶりの遠出という事で、東京からの移動が一番時間のかかる都市の1つである土佐清水へ。その前日その1はこちら その2はこちら その3はこちら その4はこちら 4/30→ 行きはひたすら地上の公共交通機関を利用と言う事で、 まずは6時過ぎに自宅近くの最寄り駅へ。
慶長十年――多元世界暦一六〇五年/宇宙暦八二四年。天下はすでに定まっていた。徳川家康は将軍職を三男・秀忠に譲り、自らは大御所として駿府に退いていた。だがそれは隠居を意味しない。江戸に幕府を構えた徳川政権の実権は、なおもこの老獪な男の掌中にあった。駿府城。
三方ヶ原犀ヶ崖古戦場の犀ケ崖資料館館内には徳川家康が戦場で肌身離さず持っていたというお守り「勝軍地蔵」が展示されています。家康公兜前立勝軍地蔵家康が17歳の初陣の時より、戦場に臨む際には必ず仏体一躯を甲冑に奉安して陣中守護神としたと伝えられています。浜松城主時代の若き家康に仕えたとされる見付(磐田市)の安間家の家宝でしたが、三方原合戦の死者の霊を祭ってきた宗円堂が、明治時代の再建された際、本尊として...
羽柴秀吉は、柴田勝家に勝利して、事実上、織田信長の後継者となった。 1584年には、信長の次男、織田信雄は、秀吉に不満を抱き、徳川家康と同盟した。 羽柴秀吉…
浜松城の北側1kmに犀ヶ崖という断崖があります。ここは、三方ヶ原古戦場犀ヶ崖として昭和14(1939)年に静岡県の史跡に指定されています。元亀3年の三方原の合戦で、徳川家康は武田軍に大敗し、浜松城に逃げ込みました。戦いは夜まで続き、攻撃を続ける武田軍は犀ヶ崖まで進攻してきましたが、この辺りの地理に疎く、夜であったため、足を踏み外して崖から転落してし、武田軍は多くの死者を出したという話が残っています。またこれに...
三方原の戦いは、元亀3年12月22日(1573年1月25日)に、遠江国敷知郡の三方ヶ原で起こった武田信玄と徳川家康・織田信長の間で行われた戦いです。1572(元亀3)年、武田信玄が上洛を目指し、武田軍が遠江に侵攻。一言坂、二俣城で勝利。12月22日、武田方は、二俣城を出発し、西へと進路を取りました。織田軍からの援軍を得た徳川家康も、武田軍を迎え撃とうと浜松城を発ち、自ら出陣。戦場となったのが、三方ヶ原です。以下、Wikio...
<ブラタモリ 犬山城> タモリさん国宝5城コンプリート、戦国三英傑が愛するお城!
本日の「ブラタモリ」は、国宝天守5城の一つ「犬山城」(愛知県犬山市)でした。 「犬山城」の城主ではなかったものの、領域を押さえていたということから、「戦国三英…
続いて、姉川の合戦の戦死者を葬った七十士の墓へ。姉川合戦での戦死者を葬った場所に建てられたと伝える石塔群です。もとは、この西北の「西三昧(にしざんまい)」と呼ばれる場所にあった地蔵堂付近の墓石を、昭和55年に完成した三田町の圃場整備に際して当地にまとめたものです。「西三昧」は三田村氏館跡に移転した伝正寺の旧地とされ、その移転の時期は、正徳5年(1715)頃と考えられています。石塔は五輪塔と宝篋印塔からな...
兵士の血で真っ赤に染まった血川も姉川沿いに流れていましたが、平成以降の造成改修工事で無くなりました。最も激戦地であったという姉川にかかる旧「野村橋」が老朽化し、車両の通行が禁止されています。(歩行者や自転車、バイクは通行可)年月が過ぎるにつれ、合戦場の様子も徐々に様変わりしていますが、合戦場付近の「血原」や「血川」という地名は往時の激戦振りを窺わせています。この場所は、元亀元年(1570)6月28日に起き...
諏訪湖を流れ出て、伊那谷を作り、南アルプスの最南部を穿った天竜川が平野に出るところに二俣城があります。 古くから信濃と遠江との結節点となった戦略上の要地で、武田氏と徳川氏の抗争の舞台となりました。 最も有名なのは、三方ヶ原の戦いの前哨戦となった1572年の戦いでしょうか。 中根正照以下1200ほどの守備兵は、武田軍の猛攻を1か月強ほどよく耐えましたが、唯 一の水手だった井戸櫓を破壊されたことをきっかけに開城となりました。 城下の清瀧寺にある井戸櫓と同じような構造の櫓があったのではないでしょうか。 1575年長篠の戦いでの大敗北をきっかけに武田氏が撤退。城主は徳川氏に移ります。 その後も何度か武…
さらに自転車を走らせると、「姉川の合戦場」の碑が見えてきました。姉川の野村橋付近一帯は、壮絶な戦い浅井・織田軍の激戦が繰り広げられた所です。 姉川古戦場 元亀元年(1570)6月28日、浅井長政・朝倉景健の連合軍と、織田信長・徳川家康の連合軍が、長浜市を流れる姉川の両岸に布陣し合戦を展開しました。 旧陸軍参謀本部編纂(へんさん)の「日本戦史」によれば、浅井軍八千人・朝倉軍一万人で、対する織田軍二万三千...
#4950 とし月を心にかけし吉野山花の盛りを今日見つるかな
令和8年4月17日(金) 【旧 3月1日 先負】 清明・虹始見とし月を心にかけし吉野山花の盛りを今日見つるかな ~豊臣秀吉(1537-1598)長い年月を心に願って駆け抜けて吉野山にたどり着き、今日やっと花の盛りを見ることができたものだ。 古来桜の名所として有名な吉野山。「
上坂神社の前に案内板があります。 徳川家康と岡山(勝山、東上坂町) この背後の山は、元来「岡山」といいましたが、姉川合戦の時に徳川家康が陣を敷き、戦いに勝ったことに因んで「勝山」と呼ばれるようになったとされます。徳川家康軍は激戦の末に朝倉軍を敗走させ、それにより劣勢の織田軍も盛り返し、勝利を得たと伝えられています。 江戸時代以来「流岡神社」が鎮座していましたが、明治41年に上坂神社(東上坂町)に合...
滋賀県在住の友人の案内で、姉川の合戦の史跡を自転車でまわってきました。長浜駅前でレンタサイクルを借り、県道37号線を7.6kmをひたすら走り、東上坂町にある茶臼山古墳(龍ヶ鼻砦)を目指しました。姉川合戦前の横山城攻めの際、織田信長・徳川家康が陣としてこの古墳を利用し、龍ヶ鼻砦とも呼ばれます。合戦が始まると陣を取り払い、それぞれ別のところへ陣を構えました。この古墳のある丘には柵があって中には入れませんが、姉...
こんにちは、人形の秀月 十七代目です。 磐田市のS様より、秀月オリジナルの徳川家康公の鎧飾りをお選びいただきました。 (類似したお飾りにご注意ください) こちらの鎧(具足)は大黒頭巾形兜鉢を使用しており、この大黒頭巾形兜鉢を使用した鎧は、徳
▲この門の前で家康公役の俳優さんが 口上を述べて花見行列開始となる。 今年はいろいろと都合がつかず、 (どのみち、お天気で行くのを 取りやめてしまったとは思うけど) …ともかくも行かれんかった。 🌸🥲🌸 今年は4月3日〜5日に 静岡県静岡市葵区の 駿府城公園内と静岡市内各所で、 晴天なら本当にワイのワイのと 賑やかに行われたであろうなの 静岡桜まつり。 🌸🌸🌸🌸🌸 前に駿府城へと行った時に 金陀美具足 (プラモデル・ モニュメント) の写真を 撮りそこねたので、 行けたら撮ろうと思って いたんだけどな〜。😑 今年の花見行列の 「大御所 家康公役」は 袴田吉彦さんと勝俣州和さん が日替わりでのキ…
磐田市のF様は秀月オリジナル 徳川家康公ケース飾りと室内鯉のぼり
こんにちは、人形の秀月 十七代目です。 磐田市のF様より、秀月オリジナルの徳川家康公ケース飾りと室内鯉のぼりをお選びいただきました。 こちらのケースは秀月オリジナルの寸法(特注)でアクリルを使用りており、木の木目を生かしたブラウンとし落ち着
【歴史の闇に葬られた真実】信長・秀吉・家康が認めた天才、三代の天下人を手玉に取った諸道の国師「細川幽斎」。
細川藤孝,細川幽斎,歴史,歴史の真実,足利将軍家,織田信長,豊臣秀吉,徳川家康,大河ドラマ,
こんにちは、人形の秀月 十七代目です。 菊川市のN様より、袋井市にお住まいの可愛いお孫さん(O様)へと、秀月オリジナルの徳川家康公の兜飾りをお選びいただきました。 こちらの兜も私が制作する秀月オリジナルの徳川家康公の兜ですが、兜鉢に鋳物(ア
NHK大河ドラマ関連の、黒田基樹著「羽柴秀長と藤堂高虎」と徳永真一郎著「藤堂高虎」を読みました。
2026年のNHK大河ドラマ「豊臣兄弟」(リンク)は、安定した視聴率で、人気を得ているようです。弟の秀長(1540~91)の登場に新鮮な感じを受けます。 藤堂高虎(1556~1630)は、豊臣秀長の家老を務め、秀吉の直臣大名、関ヶ原合戦後は徳川家康から国持大名に取り立てられた武将です。高虎関連の本を2冊読みました。 黒田基樹著「羽柴秀長と藤堂高虎」(NHK出版新書) 表紙 (概 要) (おおまかな目次) 第1章 秀長と高虎の出会い(天正4年~9年)第2章 秀長・高虎の活躍と羽柴政権の成立(天正10年~13年8月)第3章 軍事・外交で天下一統を支える(天正13年閏8月~15年)第4章 政権維持に…
「水戸黄門」か「暴れん坊将軍」の中にでも探せばありそうな話だわな…😅
物語りwith AI 【村の神と生贄の娘たち】 其の参 Nano-bananaさん、 絵以外はいらんのに、 台本 (?) のセリフ書きの所まで 出しちゃってくれました!😅 好色な殿様への怒りを ぶちまけるお父上。 困惑するお母上と 悲しむばかりの娘。 …みんなみんな、 真面目過ぎる人たち。 😑😑😑 娘さんがズバ抜けて賢かったり、 美貌や妖艶さに自信満々だったり、 母親とツルんで欲深だったり、 ――そういうのがあれば、 また全然違う展開になるのにね。 😐😐😐 壁に〈わざわざある〉☝️ この文が 笑いを誘う要素に なってしまっている? (少なくとも私にはそうだ) 😑 😑 😑 …そして、それから… …
こんにちは、人形の秀月 十七代目です。 磐田市のS様よりケース入りの徳川家康公の兜飾りをお選びいただきました。 S様とは、30年ほど前に私がとある会社で働いていた時の先輩で、お雛様をもお選びいただいております。 今年の4月にもご来店されたの
立政寺は、智通上人(智通光居)が1354年(正平9年)に伊勢参拝の帰途に訪れ、桜の木の下で座って念仏していたところに村人たちが集まって、その徳を慕って参詣したのが始まりと伝えられています。智通光居の墓鏡島薬師堂権現社延命地蔵尊寺内には、絵に描かれた阿弥陀如来像など、古い絵画類も多数所蔵されているとのこと。 絹本著色当麻曼荼羅図また、関ヶ原の戦いで、大垣の美濃赤坂へ向かう途中、徳川家康も立政寺に立ち寄って...
生成AI使ったら、絵が描ける人としてオシマイ」とまで思っとったが…
物語りwith AI 【村の神と生贄の娘たち】 其の壱 昔むかし、 あるところに村があったでよ。 そこではな、 家の戸口に白羽の矢が立つと 娘を村の神へと人身御供に 差し出さなくてはならない 決まりがあったんだな。😨 「うぉおおお、 何で俺 (おら) んとこの娘が 選ばれてしまったんだ!」 …と、悲壮な場面なのに、 お父さんの表現方法には なぜかユーモアさえも感じさせて しまう特異な風格があって、 素直に同情して悲しめない?! 妻と娘はいい着物着て、 髪型もちゃんとしてるのに、 何故お父さんだけが全体的に ラフ過ぎる格好なのか? しかも、 矢も入れた絵にしてと Nano-Bananaに頼んだら…
■🏍️岡山・兵庫のんびり下道ツーリング(第3日目①)京都に巨大大仏?!豊臣の盛衰と浅井三姉妹の物語 ― 豊国神社・大仏餅・養源院を巡る(京都府京都市)
豊臣の盛衰と浅井三姉妹の物語 ― 豊国神社・養源院・大仏餅を巡る前夜、大阪の先輩宅で視聴した大河ドラマ「豊臣兄弟!」これが面白かった!(ちょうど墨俣一夜城🏯の前日譚秀吉の一夜城築城に力を貸した蜂須賀小六兄弟和解のシーンに感動しました😿)その余韻のままツ
おはようございます! 寒さに耐えきれず中禅寺湖を諦め、日光東照宮へ。『ベトナムテト休暇 日本旅行 日光 華厳の滝』おはようございます。3月9日、今日は次女ちゃ…
成田山開山堂は、役割行者による開創の歴史と歴代の徳川将軍家の庇護を受けた重要な寺院で、794年に平安京から勅願寺として認可され、特に、江戸時代初期に徳川家康が成田山再構築を行ったことで、開山堂も立派な建物として再建されましが、何度か火災によって被災し、そのたびに復元、現在の姿となっています。 現在の建物は、江戸時代初期の復元以降のものですが、霊場として多くの人たちの信仰や観光客がに訪れています。光明堂...
今回は長久手市の 富士浅間神社 の紹介です。 場所は長久手市富士浦にて、現在では閑静な住宅街の中に位置しております。 またここから南東へ1km弱には、かの長久手古戦場跡があったりと周辺にはそれらに
■⛩️『久能山東照宮』“東照宮の原点”だった。絶景と歴史を巡る参拝記(静岡県静岡市)
この日は伊豆方面で大雪、名古屋でも雪がちらつく冬の一日。静岡県と神奈川県を結ぶ高速道路も国道も雪のため通行止めとなった日でした。そんな中、妻の人のリクエストにお応えして、静岡の久能山東照宮へお参りに行ってきました。 学生時代を過ごした静岡市はとても暖かく
JR岡崎駅下車徒歩10分のところにある浄珠院天台宗の慈覚大使円仁が承和年間(834年~848年)に創建した清光院大海寺を起源とする。応永年間(1394年~1427年)に松平泰親の長子である教然良頓により浄土宗に改宗され再興された[1]。山号は清光山。本尊は阿弥陀如来。松平氏の外護を受け、永禄6年(1563年)の一向一揆の際は本寺で和議が成立した。田中吉政の寺社領取り上げで寺領を失ったが、慶長8年(1603年)8月26日付家康朱印状...
岡崎市舞木町宮下にある山中八幡宮は、徳川家康の父・松平広忠が再興したといわれ、家康初陣の際に必勝祈願した神社です。田園地帯の先に鳥居が見えてきます。当地の山中光重という人が、朱鳥14年(699年)9月9日、宇佐八幡大神の夢のお告げで神霊を迎え、社を建てたのがはじめといわれています。大クス樹齢650年といわれる根回り14メートルの当社の御神木。松平広忠が寄進した乱舞面(室町時代作)が市の文化財に指定されています。...
岡崎市美合町にある本宗寺は、浄土真宗本願寺派の寺院です。名鉄「美合駅」下車徒歩7分ほどのところにあります。蓮如上人が西三河教化の中心とするため、応仁2年(1468)に創建しました。創立当時は土呂(現在の福岡町)にあったそうです。三河一向一揆の際、徳川家康は本願寺門派の寺院道場をことごとく破壊し、本宗寺も永禄7年(1564年)2月28日に焼失。家康は「国内宗門御停止」を命じたため、一時やむなく他の地に移りました...
西岡崎にある妙源寺は、三河の浄土真宗で最も古いといわれる、高田派の寺院です。文暦2年(1235年)、親鸞が当地に立ち寄ったことが始まりとされ、在地領主安藤薩摩守信平は、上人の教えに感化されて仏門に入り念信と改名、正嘉2年(1258年)に寺を建て、これを明眼寺と名付けました。三河一向一揆の際、徳川家康は本寺に身を寄せ難を逃れたことにより家康から「源」の一字を与えられ、妙源寺と改称しました。本尊は源義経の持仏で...
2020年 (296-3) 仁徳天皇陵/南宗寺/三好長慶・千利休・徳川家康(?)の墓26Feb4
*** うららか暖か💛シェアサイクル♪ *** 百舌鳥・古市古墳群とは|世界遺産 百舌鳥・古市古墳群(もず・ふるいちこふんぐん)世界遺産 百舌鳥・古市古…
岡崎の妙国寺は、徳川家康、秀忠、家光の三代に仕え、「三河物語」を綴ったことで有名な大久保彦左衛門など、幕末まで続いた大久保一族ゆかりのお寺です。大久保家の祖・宇都宮歴代の墓塔や大久保家の遠祖供養塔があります。大久保彦左衛門江戸時代初期の旗本。忠員の8男に生れ,初め忠雄,のち忠教 (ただたか) ,字は平助。天正4 (1576) 年 16歳の初陣に戦功をあげ旗本に列せられ,以来徳川家康に仕えて功績があった。大名になる...
岡崎市針崎町にある勝鬘寺(しょうまんじ)は、三河における最初の真宗道場として鎌倉時代の正嘉2年(1258)、信願房了海により創建されました。(本寺の起源は2説あり、もう一つは1256年(康元元年)、顕智(親鸞の弟子真仏に師事した僧)に帰依した権守法名円善の嫡子袈裟太郎法名信願が碧海荘赤渋(現・岡崎市赤渋町)に建立した道場を始まりとするものがあります。)三河三ヶ寺のひとつに数えられ、1563年に起こった三河一向一...
三河一帯にわたる永禄6年(1563)の三河一向一揆は、徳川家康の家来・菅沼定顕が上宮寺から糧米を強制的に徴収しようとしたことがきっかけで起こりました。西岡崎の上宮寺は当時、本願寺教団に於ける三河三ヵ寺の一つで、三河一向一揆の拠点となり、家康に対抗、その際、境内地には、倉地平左衛門はじめ100余騎がたてこもったといわれています。 本堂(ほんどう)三河一の伽藍を誇った木造の本堂は1988(昭和63)年に焼失し、1996...
どうせカルバリン砲で撃ち抜かれ、最後は焼け落ちるんだとか思ってしまう私がいる🥹
▲ 静岡市だって、それなりに栄えてるぞ! 毎週見ている「豊臣兄弟!」 多分、 今年の大河ドラマ題材に選ばれたのは、 昭和の年功序列と、 それに続いた平成・令和の 成果主義からの「お疲れ溜まり」、 日本全体に漂う、 抜け出せそうも無い閉塞感。 そんなもん、 ここで ブッ壊せ! ーーって事か!? 「豊臣兄弟」では無く、 わざわざ最後に『!』を付けて、 勢い & 未知数パワーがある事を 表していると私は見た。 それから、 昭和の人間関係 「ベタベタ・ドロドロ」への不満から、 平成・令和の 「サラサラ・サバサバ」への チェンジが度を越えて、 家族や兄弟姉妹、親戚も リスクと考える時代になっていた。 と…
安城市野寺町にある真宗大谷派の寺院・本證寺岡崎の上宮寺、勝鬘寺と並んで三河触頭三ヶ寺として知られ、戦国時代には三河一向一揆の拠点となりました。1563年(永禄6)の9月から翌年3月にかけて、徳川家康の本拠、三河国岡崎周辺に勃発(ぼっぱつ)した一向一揆。15世紀後半、矢作(やはぎ)川周辺には浄土真宗本願寺派が、土呂本宗寺(とろほんしゆうじ)や三河三(さん)ヶ寺(じ)とよばれる佐々木上宮寺(じょうぐうじ)・針崎勝鬘寺(はり...
蒲郡市上本町にある長存寺は、法華宗陣門流の寺院で、安楽寺、長泉寺、天桂院とともに西郡の四大寺のひとつに数えられています。鵜殿氏は熱心な法華信者で、長存寺は、下ノ郷鵜殿家の菩提寺でした。1445年(文安5年)新潟県三条市の本成寺3世である日存により創建されたとされています。もとは天台宗寺院で実相坊といいましたが、後に法華宗に改宗。1518年(永正15年)に下ノ郷鵜殿氏の鵜殿長存が帰依し、死後長存寺と改称されまし...
蒲郡市清田町門前にある安楽寺は、徳川家康の生母・於大の方の後添えの夫で、上ノ郷城攻めの功績によって西ノ郡(現蒲郡)領主となった久松俊勝の菩提寺です。応永15年(1408年)昭邦上人が堂宇を建立し、本宿の法蔵寺から龍芸上人を招いて創建されました。天正15年(1587年)に久松俊勝が死去した後、住職から伝通院号を受けた於大の方が、2年間当寺に居住しました。寛永7年(1630年)、俊勝の次男で徳川家康の弟にもあたる松平康...
上之郷城、西部公民館を見学した次は、上之郷城の西側にある鵜殿長照の墓碑に向かいました。民家の間の細い道を抜けていくと、墓所があり、その一画に「上之郷城主鵜殿藤太郎長照墓碑」と書かれたお墓があります。鵜殿藤太郎長照墓碑鵜殿長照は、三河国の上ノ郷城主・鵜殿長持の子として生まれ、弘治2年(1556年)今川氏に従っていた父が死去したため、城主を継ぎました。通称は藤太郎。今川義元の妹が生母ということで義元の甥に...
蒲郡駅駅構内の観光案内所でレンタサイクルを借り、上ノ郷城跡を目指しました。上ノ郷城跡を見学する際、城跡近くにある赤日子(あかひこ)神社の西側駐車場を利用できます。この神社は、鵜殿氏の祈願所だったそうです。一の鳥居二の鳥居創立された年代は不明。祭神は、綿積豊玉彦命(わたつみとよたまひこのみこと)彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)豊玉姫尊(とよたまひめのみこと)。三河地方は養蚕の伝統が古くからあり、...
弘治元年(1555年)織田信長が那古野城から入城。小牧山城に移るまでの約8年間、清洲城を居城としました。 永禄3年(1560年)の桶狭間の戦いでは、信長はこの城から出陣し、今川義元を破りました。 桶狭間の戦いから2年後の1562年(永禄5)、信長と松平元康との間で会見が持たれ、同盟が締結されたのもこの城で、清洲同盟と呼ばれています。元康は、従属していた今川義元が桶狭間の戦いで信長に討たれたことにより、今川氏からの離反...
このブログをアプリでフォローする
XXXさん
ブログをみる無料アプリ
ブログみるはブログ村の姉妹アプリです