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1.犬山城の沿革犬山城は織田信長の叔父である織田信康が天文6年(1537)に木下城を移して築城したと伝えられています。こののち江戸時代初期にかけて城主はめまぐるしく入れ替わりました。天正12年(1584)に小牧・長久手の戦いの際には、緒戦で
※今日の「どうする家康」の紀行で、浜松の五社神社が紹介されましたので、再掲します。浜松の心造寺は、徳川家康が、1580(天正8)年7月に徳川秀忠の産土神(うぶすながみ)として五社神社を浜松城内から常寒山(とこさむやま)へと移し、その北側の隣接地に開いたお寺です。開山は讃誉智眼(さんよちげん)上人、開基は秀忠の母である西郷局(於愛の方)。西郷局が奉納した鉄灯篭は、戦災で片方が失われ、現在は1つだけ残されてい...
JR静岡駅北口から国道1号線沿いに徒歩10分、葵区常磐町二丁目に宝台院という浄土宗のお寺があります。山号は金米山。寺号は龍泉寺。宝台院は、1509年(永正6年)祐崇によって開かれた寺で、徳川家康の側室で、二代将軍・徳川秀忠の生母於愛の方(西郷局)の菩提寺です。西郷の局は、天正14年(1586)家康とともに駿府城に入りましたが、天正17年(1589)38歳で亡くなり、龍泉寺(宝台院)に葬られました。寛永5年(1628)、秀忠は母...
家康三大危機の一つ「三方ヶ原の戦い」!家康、信玄に人生最大の大敗北を喫す
こんにちは。夢中図書館へようこそ!館長のふゆきです。 全国の城や史跡をぶらり旅する「夢中図書館 いざ城ぶら!」。現在、家康を辿る城旅を展開中…。今日の夢中は、家康三大危機の一つ「三方ヶ原の戦い」!家康
皆さぁ〜ん、大河ドラマ「どうする家康」見てますかぁ〜1週、番組がお休みだったねってことで第35話の感想ぉ〜!家康がついに秀吉と対面。対面の前日に会いにきた秀吉…
【清和源氏】編『新田一族』章「徳川氏」節 60.徳川家康・四十八
豊臣秀吉の直轄領は、太閤蔵入地と呼ばれたが、畿内及び、九州に二百二十万石である。 即ち、徳川家康は、天下人であり、主君の豊臣秀吉を超える、大大名になったと言…
稲姫は徳川家康の家臣である本多忠勝の娘で、家康の養女となり、真田信幸(のち信之)に嫁ぎました。小松姫、小松殿とも称されています。犬伏で、夫の真田信幸と袂を分かった真田昌幸・信繁父子が、上田城に戻る際、沼田城に立ち寄り、舅の昌幸が、孫の顔が見たいので城の中に入れて欲しいと頼みますが、「舅といえども、今は敵。夫の留守中に入れることはできない。」と、稲姫は開門を拒否。この稲姫の行動に、「さすがは武士の妻...
【どうする家康】#35 母も弟も恐れる「欲望の怪物」秀吉、家康は太刀打ちできるのか
欲望底無しの秀吉 NHK大河ドラマ「どうする家康」第35回「欲望の怪物」が9/17に放送された。前回までに家康は、秀吉を認めて自らの天下取りを諦めた。他の人が戦の無い世を実現してくれるのならそれでいい、それを支えようと方向転換した。 しかし、秀吉の欲望は底無し。天下統一後も海外へ食指を伸ばそうとし、戦を止める考えはない。このドラマでは「海外進出が信長の夢だったから夢を継ぐ」ではなく、「まだあんなにあるじゃん」的な、食べ物は食い尽くさなければ満足しない、自分の欲にどこまでも正直な人物として秀吉を描くようだ。 ムロツヨシの秀吉は表向きひょうきんでもあり裏には底知れぬ怖さもあり、それを声音でコントロ…
本堂の西側に、上田城主・仙石氏の霊廟があります。霊廟とは、墓とその霊魂を祀るお堂の一体をいうもので、江戸時代初期から中期にかけ、大名たちは家柄や禄高に応じた規模の霊廟をよく菩提寺などに建てていたそうです。仙石氏は三代にわたり、84年間上田に在城しました。真田信幸に代わり上田城主になった小諸城主の仙石忠政は、常福寺を修築し、小諸の菩提寺・宝仙寺をここに移し、その翌年、父・秀久の墓を改装し、秀久の戒名「...
【清和源氏】編『新田一族』章「徳川氏」節 59.徳川家康・四十七
蟄居中の北条氏直は、富田一白と津田盛月を通し、徳川家康に対して、赦免の執り成し依頼を行っている。 翌年の1591年(天正十九年)2月、早々に徳川家康を通して…
長野県上田市の芳泉寺は、歴代の上田藩主の菩提寺で、真田信幸(之)の正室・稲姫(小松姫)の墓がある寺院です。後に真田氏に代わって、入封した仙石氏が改称するまでは、常福寺という名の寺でした。山門芳泉寺山門には六文銭と三つ葉葵の紋が入っており、徳川・真田の関係を表しています。 真田家の六文銭の紋徳川家の三つ葉葵の紋仙石氏の永楽通宝銭の紋浄土宗月影杏葉の宗紋境内から見た山門不見の岩(別名:天狗の岩)参道に沿...
【清和源氏】編『新田一族』章「徳川氏」節 58.徳川家康・四十六
しかし、北条氏政が、講和条件を拒否したために、豊臣秀吉が、黒田官兵衛孝高に命じ、交渉に当たらせた。 6月16日、北条氏政の重臣であった、松田憲秀の長子の笠原…
かつての上田城二ノ丸の堀跡は、昭和になってから上田電鉄が走っていましたが、現在はけやき並木遊歩道として整備されています。現在も電車跡の名残が見られます。上田城は、上田盆地の北部に位置し、千曲川の分流である尼ヶ淵に面していたので、築城当初は「尼ヶ淵城」とも呼ばれていました。この辺りはもろく崩れやすいのがわかりますね。南・西櫓の下段には、享保の洪水後に設置された大規模な石垣があります。南櫓ここから、西...
~治部少(石田三成)に過ぎたるものが二つあり 島の左近と佐和山の城~ これを戦国時代の日本の武将である石田三成(1560-1600年)に対する評価だと 受け止めると、こんな印象にもります。 ~参謀役の島左近(生年不詳-1600年)と領地の佐和山城は、石田三成という人物には ...
真田神社は、上田城跡公園内にある神社で、創建は明治13年(1880年)。真田・仙石・松平の歴代の上田藩主を祀っており、主神は真田昌幸と長男の真田信之父子、仙石氏・松平氏を祭神として奉られています。徳川の軍勢を二度も撃退し、大阪の陣で大活躍した真田氏の神霊は「知恵の神様」として崇敬され、真田氏の知略や勝運にあやかろうという人達が多く訪れる人気パワースポットにもなっています。境内には、真田軍のシンボル・赤備...
上田城の3つの櫓の見学を終え、お城の周りをぐるっと散策。花木園では、ツツジ、ハナミズキをはじめ、春の花が満開でした。上田招魂社当招魂社は、戊辰戦役従軍の戦死者をはじめ、日清・日露戦争から大東亜戦争に至る間国家のために亡くなった人々の英霊を祀っています。お濠に沿って歩いていると、隅欠(すみおとし)という看板が見えてきます。隅欠は、上田城の特徴のひとつで、鬼門の方角である北東の隅の土塁を切り込んで、鬼...
天正14年(1586年)10月14日、浜松を発って上洛の途についた徳川家康は、同月20日に岡崎で大政所の到着を見届け、同月27日に大坂城にて豊臣秀吉と対...
天正11年(1583)真田昌幸によって築城された上田城は、第一次・第二次上田合戦で徳川軍を二度にわたり撃退した難攻不落の城として知られています。東虎口櫓門から城内に入ります。櫓門の手前から見た空堀。櫓門をくぐる前、右側の石垣の中に真田石があります。高さ2.5m、幅3mの城内最大の石です。真田信之が上田城から松代に移る際、父の形見として持ち去ろうとしたが動かなかったという伝説が残されています。この楼門は、北櫓と...
家康を辿る城旅「二俣城」!軍略自在の武田信玄、天然の要害を落とす秘策とは?
こんにちは。夢中図書館へようこそ!館長のふゆきです。 全国の城や史跡をぶらり旅する「夢中図書館 いざ城ぶら!」。現在、家康を辿る城旅を展開中…。今日の夢中は、家康を辿る城旅「二俣城」!軍略自在の武田信
大河ドラマ【徳川家康】再放送は?どこで見れる?主演は滝田栄さん。
1983年に放送された大河ドラマ21作目「徳川家康」は、主演の滝田栄さんが新しい家康像を演じたことで話題になった作品です。主人公の徳川家康を滝田栄さんが演じられました。この記事でわかること1.「徳川家康」再放送は?見逃し配信はどこで見られる
大林寺の墓所には、松平氏入城以前の岡崎城主・西郷頼嗣、信貞の墓などもあります。西郷頼嗣の墓初代岡崎城主次第に松平氏に圧迫されその姻戚(頼嗣は松平信光の子松平光重(大草(岡崎)松平家初代)を婿とする)となり屈服した。(Wikipediaより)西郷信貞の墓4代・岡崎城主大草松平家初代当主・松平光重の子とするのが一般的であるが(『寛政重修諸家譜』など)、実父は西郷弾正左衛門頼嗣であるとも言われ、それゆえ西郷信貞として呼ばれることがある。兄・親貞の後を継いで同家の3代当主となり、岡崎城(明大寺旧城)を居所として、岡崎市南部および大草城(愛知県幸田町北部)を支配したと考えられる[4]。大永4年(1524年)に松平清康による山中城(岡崎市舞木町城山)への攻撃を受け、岡崎城とその所領を明け渡した。山中城攻略は大久保忠茂...岡崎の大林寺(2)岡崎城主と赤穂浪士の墓
【清和源氏】編『新田一族』章「徳川氏」節 57.徳川家康・四十五
浅野長政は、5月20日時点で、豊臣秀吉の命に従って、急ぎ軍を返すと、武蔵国方面に侵攻しており、寿能城及び、岩付城を攻めた。 5月21日時点にて、浅野長政は、…
【どうする家康】#34 自分のお気持ち大事な家康、数正・忠次・正信・於愛の連係プレーでようやく上洛へ
瀬名ロスがぶり返す押し花の秘密 NHK大河ドラマ「どうする家康」第34回「豊臣の花嫁」が2週間前の9/3に放送されていた。体調不良時を除き、一応、毎週感想をダラダラと書いてきているのに、今回は何の理由もなく通過するところだった。危ない危ない。 34回も決して見どころが無かったわけではなく楽しんで見たのだが、このところのジャニーズ問題の方に気を取られていたら・・・今作は、ガッツリとジャニーズ大河だ。9/15発表の新キャストにもジャニーズタレントがいる。とはいえ、主役を挿げ替える訳にも行かないから、今年はこのままだろう。 さて、早速あらすじを公式サイトから引用させていただく。 打倒・秀吉(ムロツヨ…
まだ寺の小僧だった石田三成と、豊臣秀吉が出会った場所とされている観音寺まで足を延ばしてみました。三成の出生地・石田よりバスで米原方面に向かい、観音寺下車。観音寺は、もとは伊吹山中にあり、僧三修が開いた伊吹四大寺として隆盛を極めていましたが、13世紀に山を降り、現在地に移ったとされています。堂宇は正徳5年(1715)に再建の本堂(国の重要文化財)、薬師堂、鐘楼、山門などからなります。当寺は、鷹狩で立ち寄っ...
石田会館に向かう道を左に曲がると、八幡神社があります。石田神社とも呼ばれ、本殿の裏に石田三成一族と家臣の供養塔があります。 本殿 三成の辞世の歌「筑摩江や 芦間に灯すかがり火と ともに消えゆくわが身なりけり」三成の自筆による歌「残紅葉 散り残る紅葉はことにいとおしき 秋の名残はこればかりとぞ」 墓石出土跡昭和16年まで、石田家に関係があると思われる墓石(関ヶ原の後、この地の人が、徳川方の追及を逃れる...
【清和源氏】編『新田一族』章「徳川氏」節 55.徳川家康・四十四
松井田城主で、北条氏累代の重臣、大道寺政繁は、北方軍を碓氷峠で、迎え撃ったが、与良が、真田勢の先方の真田信幸隊に打ち取られた。 主力は、真田軍と激戦になった…
バス停石田から石田会館とは反対の方向、北へ進み、民家の間に挟まれた道を行くと、石田三成産湯の井戸があります。石田三成の死後、400年の記念事業で、平成12年に復元されました。 三成は、1560年、近江国坂田郡石田村で生まれました。父・正継は、「村の武士」といわれる土着の豪族で、京極家や、浅井家に仕えた後、帰農したとされています。三成は、三男として誕生、幼名は佐吉。長兄は早世し、次兄・正澄は、三成と前後して、...
【清和源氏】編『新田一族』章「徳川氏」節 55.徳川家康・四十参
北条軍は、伊豆の南端の下田城を防衛線として、水軍を集結させていたため、西伊豆の諸城砦には、少数の陸戦部隊しか、配置していなかった。 同年の3月1日、豊臣秀吉…
この案内が広報おおつの8月1日号に載り、 受付開始週には早速予約の電話を入れた私。 詳細は⇒https://hieizansakamoto.jp/2023re…
石田三成生誕の地(1)秀吉と三成出逢いの像~石田三成の屋敷跡
次回9月17日の「どうする家康」予告を見ると、いよいよ石田三成が登場するようです。そこで、過去の記事より、「石田三成生誕の地」を紹介します。長浜駅を降りると、駅前に「秀吉と三成出逢いの像」があります。長浜城主の羽柴秀吉公は、鷹狩の途中に観音寺(米原市朝日町)へ立ち寄りました。汗をかいた様子の秀吉公を見た寺小姓の佐吉少年は、大きな茶碗にぬるいお茶をなみなみと持ってきました。秀吉公がもう一杯頼むと、少年...
静岡大河ドラマ館の中を進んで行きます。次は、メインキャストの衣装展示です。今川氏真役:溝端淳平さんの衣装徳川家康(松平元康)と瀬名の婚礼衣装今川義元の衣装続いて、メインキャストの紹介です。徳川家康と瀬名織田信長本多正信、松平信康、今川氏真静岡浅間神社の模型古くから駿河国総社として歴代幕府の崇敬を受けて信仰され、竹千代(家康)が元服式を行ったことから、江戸時代には特に徳川氏の崇敬を受けました。神部(か...
三井寺の境内はとても広大かつ多数の歴史的建築物が建っております。そのなかで特に目を引くのが三重塔です。重要文化財ですが、秀吉が奈良吉野から伏見城に移築していたものを家康が更に三井寺に移築したものだそうです。手前が一切経蔵でこちらは毛利輝元が山口から移築したものだそうです。中は書庫になっていました。広大な境内、残暑の中大変でしたが、途中に冷房の利いた現代建築の文化財修蔵庫で仏像等の展示があり助かりました。宜しければポチお願いします。にほんブログ村過去の投稿記事です。色鉛筆初詣-リタイアじーじの徒然絵日記日本では、正月の初詣は大事な習慣です。パリでは、初礼拝は大事かな?そんな話聞いたこと無いので、その様な習慣はないのかな⁉️初詣行かれましたか?初詣行かれた方ポチお...gooblog色鉛筆世界遺産天龍寺庭園-...三井寺三重塔と一切経蔵
臨済寺の特別拝観の日に、静岡大河ドラマ館も見学してきました。これで、岡崎、浜松、静岡の三つの大河ドラマ館を制覇したことになります\(^o^)/静岡大河ドラマ館は、徳川家康が元服式を行った静岡浅間神社の境内に建てられています。では、記念すべき第1回に登場した小物を振り返ってみましょう!実際撮影で使用したものもあれば、同等品の展示もあり。「次郎三郎元信と瀬名を結ぶウサギと騎馬の人形」「瀬名が口づけした弓懸」...
徳川家康(8)心火の巻!信長落つ"本能寺の変"そして家康決死の逃避行"伊賀越え"
こんにちは。夢中図書館へようこそ! 館長のふゆきです。 今日の夢中は、徳川家康(8)心火の巻!信長落つ"本能寺の変"そして家康決死の逃避行"伊賀越え"です。 「夢中図書館 読書館」は、小説や雑誌などの
今回は浅草寺に行ってみよう。 一、インバウンド 浅草寺は、外国人が多いことで有名ですね。 新型コロナウイルス問題が生じる前の2019年には、海外観光客が宿泊し…
皆さぁ〜ん、大河ドラマ「どうする家康」見てますかぁ〜数正さん、出奔してちゃって大変だぁ…ってことで第34話の感想ぉ!家康の元を出奔し、秀吉に仕えることになった…
彫刻は金箔上に彩色!上野東照宮の絢爛豪華な金色殿や灯籠に圧倒【東京・台東区】
上野公園には徳川家康を祀る上野東照宮があります。金箔塗りの豪華な社殿の他、江戸初期の貴重な建築物が残り見応えがあります。その歴史をたどりつつ見どころを紹介します。
回廊を通って、客殿に向かいます。客殿寛永14年(1637)、十三世日渕の代に建立され、安永2年(1773)二十五世日義の代に再建されました。桁行十間・梁間八間の寄棟造りで、前面に桟瓦葺きの向拝がつき、側面に濡縁が巡らされています。比較的古式な客殿ですが、江戸時代の特徴をよく示しています。平成23年度から24年度に行われた保存修理工事に伴い、本茅葺きから茅葺き型鋼板葺きに変更されました。(駒札より) 句碑 星野立...
"戦国最強"信玄来襲!危うし家康…本多忠勝決死の殿戦「一言坂古戦場」
こんにちは。夢中図書館へようこそ!館長のふゆきです。 全国の城や史跡をぶらり旅する「夢中図書館 いざ城ぶら!」。現在、家康を辿る城旅を展開中…。今日の夢中は、"戦国最強"信玄来襲!危うし家康…本多忠勝
【清和源氏】編『新田一族』章「徳川氏」節 54.徳川家康・四十弐
11月24日、豊臣秀吉は、北条氏との手切れ書を北条氏及び、諸大名に配布した。 同日の豊臣秀吉から、徳川家康への書状では、来春の出陣決定と陣触れを出したことを…
徳川家康の側室であった西郡局(にしのこおりのつぼね)は、三河国宝飯郡の武家・鵜殿氏の出身で、西郡の方ともいいました。永禄5年(1562年)に上ノ郷鵜殿氏は徳川家康に攻め滅ぼされましたが、他の鵜殿氏支流は徳川氏に服しました。西郡局は、柏原鵜殿長忠の娘という身分で徳川家康の側室となり、永禄8年(1565年)家康の次女督姫(北条氏直室、のち池田輝政室)を産みました。湖西市鷲津にある本興寺は、永徳3年(1383)日乗上...
【清和源氏】編『新田一族』章「徳川氏」節 53.徳川家康・四十壱
豊臣秀吉は、北条氏政、徳川家康から事情聴取を行い、沼田領内の三分の二を北条氏政、三分の一を真田氏とする、譲歩に近い裁定を行った。 豊臣秀吉は、北条氏の当主の…
9月4日の「鶴瓶の家族に乾杯」で、於愛の方を演じている広瀬アリスさんが掛川を訪問し、事任八幡宮が登場しましたので、過去の記事より「事任八幡宮」を再掲します。事任八幡宮(ことのままはちまんぐう)は、静岡県掛川市八坂、旧東海道沿いの、日坂宿(にっさかしゅく)および小夜の中山の西の入口、宮村にある神社です。 式内社で遠江国一宮。創建時期は定かではありませんが、大同2年(807年)、坂上田村麻呂が東征の折、桓武...
金山神社は、天正年間(1573年〜1593年)、徳川家康が浜松に城を構えるにあたり、釘鎹(くぎかすがい)・蝶番(ちょうつがい)・飾り金具を金銀銅鉄で鋳造するため、場内三の丸に鍛冶衆を常駐させ、同時に美濃国の南宮大社よりご分霊を勧請して祀ったことに始まるとされています。元和元年には、浜松城拡張工事のため、徳川秀忠の産土神たる五社神社を城外に、現在地の常寒山に遷座させ、それに伴い、当社も清水谷入り口へ鍛冶衆と...
【清和源氏】編『新田一族』章「徳川氏」節 52.徳川家康・四十
1586年(天正十四年)11月1日、徳川家康は、京へ上ると、11月5日、朝廷に正三位に叙される。 この時、多くの徳川家康の家臣が、叙任されている。 徳川家康…
岡崎の大林寺は、明応2年(1493)、松平光重が天盈良倪(てんえいりょうげい)を開山として明大寺に創建、当初は光林寺と称していました。享禄3年(1530)、徳川家康の祖父・松平清康の命で現在地の岡崎城の北に位置する魚町に移転されました。天文4年(1535)12月、清康は尾張の守山城で変死し、遺骸は随念寺で荼毘にふされました。清康の夫人・春姫(西郷信貞の娘)は尼となり、天文17年(1548)2月、大林寺にて死去。天文18年(1549)、清康の子で、家康の父・松平広忠も若くして亡くなります。松平氏は織田氏・今川氏への影響を恐れ、ひそかに遺骸を大林寺に移し、能見村に葬り、清康、広忠、春姫の霊廟が本寺に置かれることとなりました。境内の一角に「松平廟」があり、松平清康、広忠、清康夫人・春姫の墓が並んでいます。それら...岡崎の大林寺(1)松平廟
浜松の心造寺は、徳川家康が、1580(天正8)年7月に徳川秀忠の産土神(うぶすながみ)として五社神社を浜松城内から常寒山(とこさむやま)へと移し、その北側の隣接地に開いたお寺です。開山は讃誉智眼(さんよちげん)上人、開基は秀忠の母である西郷局(於愛の方)。西郷局が奉納した鉄灯篭は、戦災で片方が失われ、現在は1つだけ残されています。西郷局(さいごうのつぼね)父は戸塚忠春。通称は於愛の方。徳川家康の側室であ...
【天下人のスマホシリーズ『家康と三成のスマホ』】シリーズ初のW主人公!結末は視聴者投票で決定!
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静岡県掛川市上西郷は、於愛の方(西郷局)の生誕地とされています。西郷局といえば、徳川家康の側室で、二代将軍・徳川秀忠を生んだ女性です。上西郷の構江公民館は、西郷十八士の一人・戸塚五郎太夫忠春の居館跡で、案内板と標柱が立っています。戸塚忠春の娘が、お愛、後の西郷局です。(西郷局の出生については諸説あり)西郷ノ局の生誕地 二代将軍、徳川秀忠公の生母、西郷ノ局は、幼名をお愛といい、父・戸塚五郎太夫忠春、...
どうする家康 第34回「豊臣の花嫁」 ~天正大地震と朝日(旭)姫の輿入れ~
石川数正の調略に成功した豊臣秀吉は、対徳川家康対策をふたたび強硬姿勢に転換、東に兵を向けます。一方の徳川方も、数正出奔を機に軍制を武田流に改める改革を行...