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「江〜姫たちの戦国〜」が放映された2011年「お江の眠る寺」として、増上寺の徳川墓所の公開に出かけて来ました。徳川墓所は、法要など年7回の無料公開などに限り、一般には非公開としていましたが、大河ドラマ「江〜姫たちの戦国〜」の放映にあたり人々の関心に考慮したものだそうです。通年で一般公開するのは初めてのことなのだそう。この年の大河の主役・お江のお墓があるということで、この日も朝から大勢の人が詰めかけてい...
「その1」のつづきです。 徳川家康がこの世を去ったのは、大坂夏の陣から1年足らずの元和2年(1616年)4月17日。同年1月、鷹狩に出た先で倒れ、その後...
皆さぁ〜ん、大河ドラマ「どうする家康」見てますかぁ〜大砲撃ち込まれてボコボコの大阪城、さてどうなったか?ってことで第47話の感想ぉ〜!大筒の砲撃で和議に持ち込…
鎌倉市扇ヶ谷にある薬王寺は、かつては、梅嶺山夜光寺と称し、真言宗の寺院でしたが、1293年(永仁元年)日蓮の弟子日像により、日蓮宗に改宗しました。日達聖人は、有力な外護者の援助を得て、七堂伽藍完備の立派な寺院とし、山号寺号を大乗山薬王寺と改称。寛永年間、駿河大納言徳川忠長の追善供養の為、奥方松孝院殿(織田信長の孫/信良の娘)は莫大な金子と広大な土地を寄進し、三千坪の境内に諸堂を造営し、大乗山薬王寺と改称。1720年(享保5年)の火災で、五重塔(徳川忠長供養塔)など諸堂を焼失。山門をくぐると本堂が見えて来ます。 もとは真言宗梅嶺山夜光寺と称していました。日像上人(日蓮の孫弟子)が住職と論難の末、日蓮宗に改宗させ、薬王寺に改称したと伝えられています。 徳川三代将軍家光の弟、駿河大納言忠長公の供養塔や、松山城主...鎌倉の薬王寺(1)徳川忠長の供養塔
皆さぁ〜ん、大河ドラマ「どうする家康」見てますかぁ〜感想が1週遅れちゃったなってことで第46話の感想ぉ!ついに豊臣との戦を決意した家康。豊臣の名を残すことを考…
大坂冬・夏の陣ゆかりの地 どんどろ大師~堀越神社~四天王寺庚申堂~徳川家康本陣跡
心眼寺の近くにある天王寺区の善福寺は、創建当初に「鏡如庵大師堂」と称し、大坂夏の陣の戦死者を弔うために建てられたと伝わるお寺です。通称はどんどろ大師。「どんどろ大師」の語源については、土井利位(どいとしつら)(生没年:1789年~1848年)(下総国・古河(茨城県)藩主)が大坂城代に在任中の期間(1834年~1837年)の屋敷が鏡如庵大師堂の近くにあり、土井利位が鏡如庵大師堂に祀られている弘法大師に深く帰依し、参...
【どうする家康】#46 家康不在で豊臣が勝利したら、秀頼はプーチンのようになったのか
砲撃にさらされ過呼吸の千姫。秀忠も泣く NHK大河ドラマ「どうする家康」は大詰めの第46回「大坂の陣」を12/3に放送した。あらすじを公式サイトから引用する。 豊臣家復活を願う方広寺の鐘に、家康(松本潤)を呪う言葉が刻まれたという。家康は茶々(北川景子)が徳川に従い、人質として江戸に来ることを要求。激怒した大野治長(玉山鉄二)は、両家の仲介役・片桐且元(川島潤哉)の暗殺を計画。家康はついに14年ぶりの大戦に踏み切る。全国大名に呼びかけ、30万の大軍で大坂城を包囲、三浦按針(村雨辰剛)に用意させたイギリス製大筒を配備。そんな徳川の前に真田丸が立ちはだかる。(これまでのあらすじ 大河ドラマ「ど…
【どうする家康】#45 涙のプリンス秀忠こそが、戦を求めない「王道」を成す者
サブタイトルは「二人のプリンス」でも NHK大河ドラマ「どうする家康」第45回「二人のプリンス」が11/26に放送された。いやあ、11月もこれで終わり、残るは12月の3回分だけ。視聴者側のこちらの気持ちも急いてくる気がする。まずはあらすじを公式サイトから引用する。 関ケ原で敗れ、牢人となった武士が豊臣の下に集結していた。憂慮した家康(松本潤)は、秀頼(作間龍斗)を二条城に呼び、豊臣が徳川に従うことを認めさせようとする。しかし、初めて世間に姿を見せた秀頼の麗しさに人々は熱狂。脅威を感じた家康は、秀忠(森崎ウィン)の世に憂いを残さぬためにも、自らの手で豊臣との問題を解決しようとする。そんな中、豊臣…
皆さぁ〜ん、大河ドラマ「どうする家康」見てますかぁ〜徳川幕府の成り立ちとかはバッサリ端折ってるよねってことで第45話の感想ぉ〜!今回、豊臣秀頼をめちゃ持ち上げ…
慶長16年(1611年)3月28日、古希を目前にした徳川家康は、京の二条城にて19歳の豊臣秀頼と対面しました。関ヶ原の戦い以後、わずか65万石となり、実...
【清和源氏】編『新田一族』章「徳川氏」節 94.徳川家康・八十弐
歴史小説家の司馬遼太郎は、大阪の陣に興味が深いらしく、『城塞』及び、『戦雲の夢』を執筆している。 『戦雲の夢』は、司馬遼太郎の四作目の長編作品で、長宗我部盛…
#495 第45回「二人のプリンス」感想~大河ドラマ『どうする家康』
成長した豊臣秀頼と徳川家康に譲られた二代目将軍の徳川秀忠の二人のプリンスの間で徳川の天下のために静かに動く家康もついに決断をすることとなる大河ドラマ『どうする…
皆さぁ〜ん、大河ドラマ「どうする家康」見てますかぁ〜関ヶ原後、どうなったかなぁ…って第44話の感想ぉ〜!「関ヶ原の戦い」後、豊臣秀頼に挨拶をした家康。茶々さん…
どうする家康 第44話「徳川幕府誕生」 ~征夷大将軍就任と世襲~
関ヶ原の戦いに大勝利を収めた徳川家康は、慶長8年(1603年)2月12日に朝廷より征夷大将軍の職に任ぜられ、事実上、江戸を中心とした武家政権を開始しまし...
【清和源氏】編『新田一族』章「徳川氏」節 85.徳川家康・七十参
1598年(慶長三年)、松平忠輝は、伊達政宗の娘、五郎姫と縁組を行った。 徳川家康は、豊臣秀吉の死の当時、秀吉の遺言に背いて、諸大名と縁組を行っていた。 石…
【清和源氏】編『新田一族』章「徳川氏」節 84.徳川家康・七十弐
1609年(慶長十四年)、徳川家康は、オランダの使節団と会見した。 当時のオランダは、王国ではなく、オランダ総督を元首としていたが、使節は、国王を自称したと…
【清和源氏】編『新田一族』章「徳川氏」節 83.徳川家康・七十壱
三年後の1605年(慶長十年)4月、徳川家康は、将軍職を辞すると共に、朝廷に対し、家康の三男で、嫡男の徳川秀忠への将軍宣下を行わせた。 実は、徳川家康の征夷…
関が原で東西両軍が激突する4日前の慶長5年(1600年)9月11日、徳川家康は清州に到着し、翌12日もそこに逗留しました。ところが、中山道を進軍している...
どうする家康 第43話「関ヶ原の戦い」 その2 ~エピローグ~
「その1」のつづきです。 慶長5年(1600年)9月15日、美濃国は関が原において、東西両軍15万人余の軍勢が衝突した関が原の戦いは、わずか半日、徳川家...
【清和源氏】編『新田一族』章「徳川氏」節 81.徳川家康・六十九
常陸国の佐竹義宣は、石田三成と親交があったため、西軍への加担を決め、上杉景勝と密約を結び、上杉領内に入った、徳川家康の軍を挟撃する、方針を採っていた。 その…
どうする家康 第36話「於愛日記」 ~西郷局の死と鳥居元忠の側室~
徳川家康の側室のひとりである於愛の方は、天文21年(1552年)に遠江国西郷村に生まれたと伝わります。家康より9歳下となりますね(永禄4年(1561年)...
徳川家康の側室・阿茶局は、於愛の方の死後に、徳川秀忠と松平忠吉を養育し、大坂冬の陣の和議にも貢献した女性として名を残しています。その阿茶局を預け、家康も度々訪ねたという旧鈴木家屋敷跡は、浜松市東区中郡町にあります。中郡町周辺は、古くからの稲作地帯で、万斛(まんごく)と呼ばれ、今でも字名(あざな)にその名称が残っています。家康が遠江に侵攻してきた際、米の石高である(万石)と同音であることから縁起の良...
先週末、初めて静岡県の菊川を訪ねました。菊川駅前で、レンタサイクルを借り、応声教院へ。駅かから約4.8キロ、20分ほどで到着。参道の彼岸花が見頃を迎えていました。応声教院(おうしょうきょういん)は、斉衡2年(855)勅願により円仁が創建したとされています。承安5年(1175)法然が浄土宗に改め、法然の師である皇円の菩提をこの寺で弔ったと伝えられています。今回、ここを訪ねたのは、こちらの山門を見るのが目的です。この山門...
※今日の「どうする家康」の紀行で、浜松の五社神社が紹介されましたので、再掲します。浜松の心造寺は、徳川家康が、1580(天正8)年7月に徳川秀忠の産土神(うぶすながみ)として五社神社を浜松城内から常寒山(とこさむやま)へと移し、その北側の隣接地に開いたお寺です。開山は讃誉智眼(さんよちげん)上人、開基は秀忠の母である西郷局(於愛の方)。西郷局が奉納した鉄灯篭は、戦災で片方が失われ、現在は1つだけ残されてい...
JR静岡駅北口から国道1号線沿いに徒歩10分、葵区常磐町二丁目に宝台院という浄土宗のお寺があります。山号は金米山。寺号は龍泉寺。宝台院は、1509年(永正6年)祐崇によって開かれた寺で、徳川家康の側室で、二代将軍・徳川秀忠の生母於愛の方(西郷局)の菩提寺です。西郷の局は、天正14年(1586)家康とともに駿府城に入りましたが、天正17年(1589)38歳で亡くなり、龍泉寺(宝台院)に葬られました。寛永5年(1628)、秀忠は母...
今回は浅草寺に行ってみよう。 一、インバウンド 浅草寺は、外国人が多いことで有名ですね。 新型コロナウイルス問題が生じる前の2019年には、海外観光客が宿泊し…
金山神社は、天正年間(1573年〜1593年)、徳川家康が浜松に城を構えるにあたり、釘鎹(くぎかすがい)・蝶番(ちょうつがい)・飾り金具を金銀銅鉄で鋳造するため、場内三の丸に鍛冶衆を常駐させ、同時に美濃国の南宮大社よりご分霊を勧請して祀ったことに始まるとされています。元和元年には、浜松城拡張工事のため、徳川秀忠の産土神たる五社神社を城外に、現在地の常寒山に遷座させ、それに伴い、当社も清水谷入り口へ鍛冶衆と...
浜松の心造寺は、徳川家康が、1580(天正8)年7月に徳川秀忠の産土神(うぶすながみ)として五社神社を浜松城内から常寒山(とこさむやま)へと移し、その北側の隣接地に開いたお寺です。開山は讃誉智眼(さんよちげん)上人、開基は秀忠の母である西郷局(於愛の方)。西郷局が奉納した鉄灯篭は、戦災で片方が失われ、現在は1つだけ残されています。西郷局(さいごうのつぼね)父は戸塚忠春。通称は於愛の方。徳川家康の側室であ...
静岡県掛川市上西郷は、於愛の方(西郷局)の生誕地とされています。西郷局といえば、徳川家康の側室で、二代将軍・徳川秀忠を生んだ女性です。上西郷の構江公民館は、西郷十八士の一人・戸塚五郎太夫忠春の居館跡で、案内板と標柱が立っています。戸塚忠春の娘が、お愛、後の西郷局です。(西郷局の出生については諸説あり)西郷ノ局の生誕地 二代将軍、徳川秀忠公の生母、西郷ノ局は、幼名をお愛といい、父・戸塚五郎太夫忠春、...
<RC造り復興「大坂(大阪)城」> 徳川時代の天守台に建つ秀吉時代の豪華絢爛な外観復興天守
2023年7月7日から『北から南へ「天守」シリーズ』をスタートさせ、初回の「プロローグ」では「天守」についてのエピソード等をお話をしました。 『<北から南へ「…
大阪城は、天正11年(1583)、石山本願寺跡に豊臣秀吉によって築かれ、豊臣氏の本拠となりました。豊臣氏滅亡後は、徳川幕府によって再建され、現在は、「大坂城跡」として国の特別史跡に指定されています。豊臣時代の大天守は、外観5層で、鯱瓦や飾り瓦、軒丸瓦、軒平瓦などに黄金をふんだんに用い、奥御殿の内部もまた金銀の装飾に溢れ、大坂城を訪れた大友宗麟は、あまりの豪華さに驚き、「三国無双の城である」と称えたといいま...
星宿山 蓮華蔵院 王禅寺(→神奈川県川崎市麻生区王禅寺)は、平安時代の921(延喜21)年に高野山の無空上人によって創建されたと伝わる、鎌倉北条氏庶流の金沢(かねさわ)北条氏と縁が深い真言宗豊山派寺院で、最盛期には禅宗・律宗・真言宗の兼学道場を兼ねて「(関)東の高野山」と呼ばれ、末寺が多くありました。現在は宅地開発された小山の中でひっそりとたたずむ王禅寺ですが、広域に「王禅寺」の名がつく地名が残るなど、影響力の大...
徳川秀忠は、徳川家康の三男として、遠江国(静岡県)浜松に生まれました。幼名は長丸。のち竹千代。母は側室の於愛(西郷局)。於愛は、浜松城に奉公に出て、家康の目に止まり、二代将軍の秀忠を生みました。同母弟は、四男松平忠吉。長兄・松平信康は秀忠の生まれた年に自害、次兄の秀康は、秀吉の養子に出され、のちに結城秀康となったため、また母親が三河の名家であるということもあり、秀忠が、実質的な世子となりました。天正1...
玉縄山 珠光院 貞宗寺(ていそうじ→神奈川県鎌倉市植木)は、徳川家康の側室貞宗院(→西郷局、2代将軍徳川秀忠生母)が晩年を過ごした屋敷跡に建てられた浄土宗寺院です。1609(慶長14)年に死去した貞宗院の遺言により、亀鏡山 護国院 大長寺(→神奈川県鎌倉市岩瀬)の住職暁誉源栄を開山に迎えて創建されました。暁誉源栄は、1590(天正18)年の小田原合戦の際、玉縄城主北条氏勝を説得して開城につなげた僧侶として知られています。創建の...
徳川秀忠は、徳川家康の三男として、遠江国(静岡県)浜松に生まれました。幼名は長丸。のち竹千代。母は側室の西郷局。彼女は、浜松城に奉公に出て、家康の目に止まり、二代将軍の秀忠を生みました。同母弟は、四男松平忠吉。長兄・松平信康は秀忠の生まれた年に自害、次兄の秀康は、秀吉の養子に出され、のちに結城秀康となったため、また母親が三河の名家であるということもあり、秀忠が、実質的な世子となりました。天正18年(1590年)には上洛し、秀吉の養女で、織田信雄の娘・小姫(春昌院)と祝言を挙げましたが、秀吉と信雄が仲違いして、信雄が除封されたことにより離縁となります。そして、文禄4年(1595年)9月、秀吉養女のお江と再婚することになります。その秀忠が産湯をつかったと伝えられる井戸跡の徳川秀忠誕生の井戸が浜松市常盤町にあり...徳川秀忠誕生の井(浜松市)
藤沢御殿の堀跡(→神奈川県藤沢市藤沢2丁目)は、現在の藤沢市民病院と藤沢公民館の間にあった藤沢御殿(→徳川将軍家の宿泊所)とその堀跡です。小田原北条氏が滅亡し、徳川家康が関東入封を果たした1590(天正18)8月1日以降、家康は領国支配の拠点、休憩・宿泊所として御殿や御茶屋を設置しました。御殿は、江戸に至る街道沿いの府中・小杉・神奈川・鎌倉・藤沢・中原・大磯・箱根・元箱根に作られました。藤沢御殿は神奈川御殿と同時...
ツアー3日目は高野山を参拝しました。 真冬の寒さで、標高1000mの高野山では霰が吹雪いてきました。また、伊丹空港に到着したときにも霰が降ってきました。
どうも、たかちゃんさんの日記です。嵐の松本潤が主演のNHKの大河ドラマ「どうする家康」が1月8日に放送を開始して1か月がたちましたね。さて、こうなってくると気になるのは天海という名で徳川家康に仕えて江戸時代まで生きていたという説がある明智光秀を演じる俳優がだ
浜松城から歩くこと10分。五社神社・諏訪神社があります。昭和35年(1960)、隣接して鎮座していた五社神社と諏訪神社を合祀し、五社神社・諏訪神社となりました。両社ともに徳川2代将軍徳川秀忠の産土神(うぶすながみ)として徳川家の崇敬を受け、子守り、子育ての神としての信仰されています。五社神社五社神社は、太玉命、武雷命、斎主命、天児屋根命、姫大神の五柱の神を主祭神とし、ここから「五社神社」という社名になったそうです。元々は太玉命を祀る神社であったものに、春日大社の祭神四柱を勧請して現在の五柱となったものとされています。相殿に応神天皇、徳川家康を祀り、菅原道真、大鷦鷯尊、稲倉魂命、大日女命、素戔嗚命を合祀しています。浜松城の前身である曳馬城主・久野越中守が城内に創建したのに始まるといわれています。後に家康が浜...五社神社・諏訪神社
葵広場の外周に沿って、浜松城に関する案内板や復元されたものが設置されています。瓦集積現在の浜松城で使用されている瓦葵の御紋が見えます。元城町東照宮浜松城、大河ドラマ館の帰りには、ぜひ元城町東照宮をご参拝ください。浜松城の概要大河ドラマ館の後ろにそびえる浜松城浜松城の構造二の丸御殿と御殿の庭園浜松城二の丸御殿の間取りを木材により平面状に復元。XR技術で、発掘現場や御殿が建てられていた当時の様子を再現。...
浜松の心造寺は、徳川家康が、1580(天正8)年7月に徳川秀忠の産土神(うぶすながみ)として五社神社を浜松城内から常寒山(とこさむやま)へと移し、その北側の隣接地に開いたお寺です。開山は讃誉智眼(さんよちげん)上人、開基は秀忠の母である西郷局。西郷局が奉納した鉄灯篭は、戦災で片方が失われ、現在は1つだけ残されています。西郷局(さいごうのつぼね)父は戸塚忠春。通称はお愛の方。徳川家康の側室であり、江戸幕府第2代将軍・徳川秀忠、松平忠吉の生母として知られている。院号は宝台院。1758(宝暦8)年に完成した七間四面の本堂は1771(明和8)年に全焼、1775(安永4)年に同じ七間四面の本堂が再建されました。しかし、1945(昭和20)年6月の太平洋戦争中に空襲を受け焼失してしまい、現在の建物は1951(昭和26...心造寺(浜松市)
菅生神社(すがおじんじゃ→神奈川県川崎市宮前区菅生2丁目)は、鎌倉時代前期の1233(貞永2)年に、下菅生郷(しもすがおごう)蔵敷(ぞうしき)の鎮守として白幡八幡大神(→神奈川県川崎市宮前区平4丁目)の祭神を勧請して創建された神社です。1233(貞永2)年は鎌倉幕府3代執権北条泰時(やすとき)が、最初の武家法である御成敗式目を制定した翌年にあたり、創建当時は若宮八幡大神と称されました。時代が下り江戸時代になると神職の小泉信濃...
白幡八幡大神(しらはたはちまんだいじん→神奈川県川崎市宮前区平4丁目)は、源頼朝にまつわる創建の縁起を持ちますが、その始まりについては2つの異なる説が見られます。1つは、鎌倉時代初期の1189(文治5)年7月に源頼朝が奥州平泉の藤原泰衡(ふじわらのやすひら)を討伐した際に建てたという『新編武蔵風土記稿』の説で、もう1つは、平安時代中期の1061(康平4)年にこの地に創建された社(やしろ)が鎌倉時代初期の1192(建久3)年に源頼...
龍宿山 金剛院 西明寺(→神奈川県川崎市中原区小杉御殿町1丁目)は創建の詳細は不詳で様々な俗説が伝わりますが、川崎市教育委員会の調査によると室町時代中期の嘉吉(→1441年~1444年)・文安(→1444年~1449年)年間に川崎市宮前区有馬から現在地に移築されたという真言宗智山派寺院です。寺伝では西福寺は鎌倉幕府5代執権北条時頼の創建といいますが、真偽の程は定かではありません。ただし、有馬郷は鎌倉時代には鎌倉北条氏の荘園が...
<引間城・浜松城(前編)> 大河ドラマ「どうする家康」に向けた準備が着々と!
11/21(月)〜22(火)の二日間、東海地方にある「若かりし頃の家康」所縁のお城巡りをしてきました。 前回ブログでは、「鳥羽山城」を訪城して「遠州鉄道」に乗…
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渋沢山 龍泉院 心行寺(→神奈川県横浜市都筑区荏田東4丁目)は、江戸時代前期に僧の相誉によって創建された浄土宗寺院です。江戸時代の都筑郡荏田村は2代将軍徳川秀忠の御台所・崇源院(→浅井長政3女)の化粧料(→女性が嫁ぐ際に取り交わされた土地)で、彼女の死後は菩提寺の三縁山 広度院 増上寺(→東京都港区芝公園4丁目)の寺領となり、心行寺はその末寺となった由縁で、本堂には徳川将軍家の位牌が安置されているといいます。増上寺の...
金剛山 成就院 満願寺(→神奈川県横浜市青葉区あざみ野4丁目)は、江戸時代初期に創建されたと伝わる不動明王坐像を本尊とする真言宗豊山派寺院です。徳川将軍家の菩提寺の1つである三縁山 広度院 増上寺(→東京都港区芝公園4丁目)の裏鬼門に当たることから江戸幕府からも重要視され、江戸時代まではこの地域一帯の真言宗豊山派の拠点的性格をもつ星宿山 蓮華蔵院 王禅寺(→神奈川県川崎市麻生区王禅寺)の末寺とされました。満願寺があ...